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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

ブリコラージュするデミウルゴス

 『ファウスト』/『短編集』ヤン・シュワンクマイエル監督

 のっぺりした現在ばかりが幅をきかせる東京では、たとえば、シュワンクマイエルの紹介文(批評とは言うまい)に「シュールな」なるカタコトを見つけて思わず眉をひそめてしまうが、今回の『短編集』に含まれるBBC制作の彼自身へのインタヴューで、ゴーレムを思わせる粘土人形の作り手たるシュワンクマイエルが、ルドルフ二世の都(二十世紀には、そこはスターリニズム下のチェコスロヴァキアの首都であった)プラハにあって、自分は今なおシュルレアリストだと語るのを聞けば、彼の地の歴史の厚みにあらためて思いをいたさずにはいられない。「シュールな」とは、現実離れした、程度の意味なのだろうが、彼の作品は現実を超えた別世界というようなものでは全くない。『ファウスト』における、人間と人形の、屋外と屋内の、本筋と劇中(人形)劇の、虚構の空間と現実のプラハ市街との、自在な通底と浸透を見よ。(ちなみに巖谷国士によれば、シュルレアリスムとは「レアリスム」を超える「シュル」+「レアリスム」なのではなく、「超現実」が実在する、とする「シュルレエル」+「イスム」なのだという。)彼は、現実においてなんらかの意味を担わされている映像を他の映像と隣合わせに置くことでたんにその意味をずらすのだ。創造せずに組み合わせるデミウルゴス。人間を含む現実のオブジェは、二十四分の一秒の光の染みへと分解され、他の断片に接続されて作動する。アニメーションが生命を吹き込む技だとしても、撮られたものはその時点で死んでいる。いや、現実の生死には関わりなく、以後は永遠に(フィルムが摩滅するまで)、血肉を抜き取られた見せかけを繰り返すことになる(とはいえ、シュワンクマイエルの世界には、血も肉もふんだんにある——あなたは、小麦粉にまみれて愛し合う肉片を見たことがおありですか?)人形の頭部をすっぽりかぶせられる人間たちは文字通りがらんどうで(喋る言葉はゲーテとクリストファー・マーロウの口うつしだし、くたびれた中年男の姿をした悪魔との契約だって、人形に変身してから結んだものだ)、絶えずスラップスティックに解体する。彼の作品は現実の不確かさを象徴している? そうかもしれない。だが、〈超現実〉に不確かなものは何もない。それはカタカタと永久運動を続ける魅せられた機械であり、魔法の杖の一振りが現実のただなかに呼び込んで、単純な仕掛けに魅せられた子供たちの前で繰り広げる〈強度の現実〉だ。映画館の座席の上で、私たちの眼は驚きに見ひらかれ、もっと驚かせてもらいたがっている子供の眼になる。それともそれは、スクリーンという鏡の中からこちらをねめつけている粘土の頭部に埋め込まれたあの眼であって、見返す私たちもとうに粘土あたまなのではないか? さあ、あなたも、バケツ一杯の粘土に戻されてしまう前に、一刻も早く映画館に駆けつけるべきだ。

[公開時旧稿]
by kaoruSZ | 2004-09-22 17:49 |  (映画)