おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

1935年の成瀬巳喜男もすばらしい

 フィルムセンターの成瀬特集、監督の百歳誕生日の20日からはじまる。きのう火曜日、『噂の娘』('35)と『雪崩』('37)の二本立て見る。日曜日に三本見ようかと思案していたが、土曜朝、従兄から電話で、兄三人姉三人あった父のきょうだいで唯一残る伯母(父の姉、従兄にとっては叔母)が脳梗塞で入院中という。いとこたち三兄弟(女、男、男の順で、電話してきたのは二番目の男の子[還暦の]、もともと「エ」は年上で「オト」は年下、性別による分類ではないから「兄弟」としておく)と新越谷駅前で翌日正午に待ち合せることになり、まずは行きそびれていた美容院を日曜の九時に予約。当日は髪を切って戻りあわただしく出かける。駅の路線図で北千住-新越谷間の駅の多さをはじめて知り、早く出てきてよかったと思うが、東武線ホームの駅員に聞くと十五分で着くと言われる。途中はとばして行くのだ。十一時半には着いてしまう。新越谷は拾ってもらうのに便利な地点というだけで、どこだかわからない(私には)、不案内な土地を車は進む。

 いとこたちは1945年前後の生まれだ。私のうちは表通りから横丁を入ったところ、伯母の家は通りへ出てすぐのところで、私が中学の頃、通りの拡張事業で伯母一家は引っ越した。車中でも昼食をとったファミリー・レストランでも、知らなかったhistoireが盛んに語られる。私たちの祖母は東武線沿線の出身なのだが、車が橋(どこの川だか知らない)を通るとき、43年生まれの従姉が、空襲のときここまで大八車を引いて逃げてきたと言う(彼女が引いたわけではもちろんない。うちの方は直撃されたわけではないので、親類に空襲による死者はいないが家は全焼した。祖母の実家近くで、祖母と三人兄弟の母親である伯母は、畑のあいだの道を歩いていてB29の機銃掃射を受け、走って薮だか林だかに飛び込んだことがあるという)。祖母の実家で休んだのち、さらに遠く(いとこたちの父方の親戚?)まで行きバラックに住んだという。そこまで歩いたの? まさか。東武線で行ったのだろうと三人で言い合う。誰も直接の記憶は持たず、下の従兄は生まれてさえいない。

 そこから帰ってくるあたりからははっきり覚えている、私の父がトラックで迎えにきたと従姉が言う。(父が運転免許を取ったのは後年だから、同乗してきたということだろう。)私には初耳のことばかりだ。祖父が第一回の卒業生で子も孫も通った小学校の話になって、三階建ての鉄筋校舎の屋上に空襲を知らせる拡声器が残っていたと、一番若い従兄が言う(私にとって「おくじょう」とは上野松坂屋の屋上遊園地のことだったから、そしてデパートに行く楽しみは「おもちゃ/本売場」「屋上」「食堂」の三点セットだったから、学校に屋上があると聞いて心が躍った。「学校には屋上があるんでしょ?」小学校に上がる前にこの従兄に聞いて、「デパートの屋上じゃないよ」と笑われたとき、私は大きく頷いて、そんなことは考えたこともないという顏をして一生懸命とりつくろったものだったが——屋上にそんなものがあったとは知らなかった。一時は全学年にいとこがいたという学校に、私は六年生になった彼以外誰もいなくなった年に入学しているのだが)。もともと校庭は掘り下げられていて、校舎の床下には大水のときのための船がしまわれていた、戦後、大量の土を入れて一階の床の高さにまで校庭を上げたと同じ従兄(聞いた話?)。床下に船が吊り下げられていたという話は父から聞いていたけれど、そんな方式とは知らなかった。ガラスのない窓をベニヤ板でふさいで授業をしていた、二部授業だったと従姉。鉄筋校舎は内部は焼失したが残ったという話は、創立七十周年誌で私も読んでいる。空襲でトイレが全部壊れており、教室が三階でもいちいち下まで行っていた、それがまた汚くてね、と上の二人。でも、その壊れたトイレが立派だったの、御影石でと従姉。その校舎だと思うけど、建てるときお祖父さんが寄付をして東京市長からもらった感謝状がうちにあるよと、ようやく私が口をはさむ。

 伯母は以前から痴呆がある上、これで半身麻痺になったが、やられたのが右なので言葉は出る。紹介してと看護師にうながされ、前から見舞いにきて親身に世話をしている従姉にはすぐに名前を呼び、私のことは「兄の子」と言う。男二人は誰だかわかってもらえなかった。帰るときもう一度私の名前をたずねると(一度名告っている)、「**ちゃん」と父の愛称を答えた。私の名は父の名の一部なので「**ちゃん」と呼べなくはないけれど、そう呼ばれたことはない。一方、父は、兄姉に幾つになってもそう呼ばれていた。(少なくとも「**ちゃん」の子であることは伯母にもわかったのだろう。)伯母は昭和二十年の三月九日、着物の詰まった箪笥三棹を疎開させるため駅に運び、その夜東京大空襲、しかし駅は焼けなかったので構内に置かれたままの着物は無事だったという(この話はたしか父から聞いた。父は一月に招集されて満州に行っていたから直接の経験ではない)。戦後の仮住まいで父が同居していたのはこの伯母だ。私の母への手紙で父が書いている再婚話は結局成立しなかったようで、それでも父たちの結婚までには娘とともに日暮里に越し、そのあとに何も知らない私が生まれたわけだ。

 寝不足のため、『噂の娘』のはじまりでつい眠ってしまう。ラスト・シーンから推測して、床屋での会話ではじまっていることは確かだが。見合いの終りのあたりから頭はっきりする——眠っている場合ではなかった。

 藤原釜足(『鶴八鶴次郎』のマネジャー(「番頭」)役もよかったし、戦後の成瀬作品でも活躍しているのを先日の新文芸座で見た名脇役。子供の頃、変わった名前なのでTVドラマのクレジットで覚えた)が、姉の見合い相手の男が妹の方とつき合っているのを知って「今の若い人のやることはスピードがあってさっぱりわからない」と言うのを、七十年後に聞けばほほえまずにはいられないが、それにしてもこの若い映画のやることはスピードがあってすばらしい。男が妹と隅田川で船に乗っているのを橋の上から姉が目撃するときの、船がくぐり抜ける橋の上からと下からの(妹たちは橋上の姉に気づかないが、キャメラは動く船上から、欄干越しに見下ろす姉をふりあおぐ)一瞬の切り返しのすごさは誰が見てもわかるだろうが、それ以外の、たんに役者が喋ったり座ったり寝ころんだり歩いたりキャメラが切り返したり近づいたり徐々に引いたり雨が降ったりというだけで……どうしてそれがいいのかは説明できず——役者もいいし声もいいとは言えるが——ただ、見てくれとしかいいようがないのだが、どこからどこまでこれはまぎれもなく映画なのだ。
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by kaoruSZ | 2005-08-24 16:19 | ナルセな日々 | Comments(0)