おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

噂の監督

「カルチャー・レヴュー」に成瀬論書くときまで、感想は禁欲して貯めておいた方がいいのか、それともちょこちょこ書いた方がいいのか。
 まあ、書かないでいると、忘れたり、作品同士細部が入り混じったりしそうなので書いておく。「カルチャー・レヴュー」にはまた別のことを書きたくなるかもしれないし、書いているうちにひとりでに発展するかもしれないし。肛門性格的に止めておくことはやめ、書きたいときに書こう……。

 17日、『女人哀愁』(初見、1937)よかった。職を捨て入江たか子は見合によって家庭に入る。つまりこれも〈女たちの条件〉ものに入るわけだが、好んで忍従の生活に入った彼女を、婚家の夫の妹、つまり小姑たちは馬鹿にしきっている。まだ女学生の義妹がクラスメートたちを連れてくるが、女の子たちは全員が、自分は絶対恋愛結婚と口々に言う(この時代、現実はともかく意識はそうだったのか)。入江がせっせとガラスを拭くのは、それが好きだからだと見なされる。夫さえ、「家の道具の一つ」と思えばいいと妹たちに言うのを彼女は聞いてしまう。しかし、そう考えていることは夫が主観的には彼女を「愛している」ことと矛盾しないし、姑はよく働いてくれると目を細めるし、舅も厳しい家父長というのではなく、至極優しい(女中が寝たあとも彼女に、客と自分へのお茶をいれるよう頼むだけのことだ)。

 女中や家政婦扱いされるのは我慢できる、でも、人形として可愛いがられるのは我慢できないと、入江は名台詞を吐く。しかし、こうしたたぐいの台詞は、この程度なら紋切型としては効果的だけれど、度を越せば(しかも簡単に越す)うるさい。ラストでの自立を決意するところなど、私の耳はほとんど受けつけず、聞き流してしまった。この「人形の家」から彼女が出てゆくのには、上の義妹の恋に対する彼女の共感がかかわってくる。気軽に駆け落ちし、贅沢な生活ができないと知ると家に戻ってきた義妹の相手の男は、勤め先の金を横領してしまう。世間体ばかり気にする他の家族の中で、入江は義妹を助け彼女は彼のもとへ戻る。

 この横領事件は、前年の『朝の並木道』で夢の中の事件として描かれたものの、反復であり、実現だ(俳優も同じ大川平八郎)。それが、新聞記事として読者に示されるのも同様である。義妹まで情婦として一緒に写真が出てしまうが、これは『浮雲』(1955)で、加藤大介が自分を捨てた若い妻・岡田茉莉子を殺し、妻の愛人として森雅之のことまで書き立てられた(これも画面に新聞が出る)のを思い出させる(このため森は職を失い、最終的に屋久島まで流れてゆく)。ちなみに、このときの新聞記事は、森雅之の子を堕胎した高峰秀子が、病室で隣のベッドに寝ている女が広げている新聞に見出すという、彼女にも私たちにもショッキングな形で示される。

 18日、『朝の並木道』再見。夢の中での「公金拐帯」、女給との逃避行、無理心中(夢の中では実現しない)は、実は、千葉が女給になってすぐ、三面記事として話題になったものをなぞったにすぎなかったのだと気づく。最初に見たときは、たんに女給という仕事にはありうるかもしれない危険として提出されたのだと見過ごしていた(あとで、あれが伏線だと思い出しもしなかった)。二人が出奔したあと、カフェに刑事が来るという客観描写をやるから、観客が(私が)夢と気づかなかったのも無理はない。夢の中には夢中夢までが嵌め込まれている(故郷へ大川を伴い、両親に会わせる)。心中を迫られて必死に思いとどまらせようとするとき、千葉はもっとも美しい、恋する女としての表情を撮られている。再見して、千葉が女給という仕事になじむことによって変わることを恐れているのが印象的だった。

 転勤のモチーフを介して(いや、そればかりではなく)、『朝の並木道』は『女が階段を上る時』(1960年、7日再見)に重なる。大川平八郎は仙台へ。『階段』の森雅之は大阪へ。『朝の並木道』は千葉の片思いだが、連絡先だけを置いて去った男に対する思いを彼女は絶って、しかも女給の職から足を洗う希望を捨てずに、今日も「丸の内OL」を目指す。『女が階段を上る時』では、転勤は、高峰秀子がついに森雅之と寝た翌朝、恋する女の無防備さをさらけ出しているところに告げられるのだから、残酷さは比較にならない。しかし、千葉は自棄からではないが前夜酒を飲み過ぎて、その結果見た夢だった。その余韻で、早朝尋ねてきた大川が自分をあるいは仙台へ連れていってくれるという希望を抱いても不思議はなかったのだ。高峰は泥酔し、そのため森に送られて性交に及んだ。高峰の場合、夢ではなく現実なのだ。ついでに言えば高峰の自立とは堅気になることではない、なおも女給ならぬホステスを続けることだ。

 女給の境遇に身を置いたため、千葉は自分が以前と変わって見えはしないかと(特に大川の目に)恐れている。高峰は金のために男に身をまかせない、それゆえ汚れない女であった。結婚できるつもりになっていった加藤大介の場合は例外だが、彼女が彼の正体を知ったとき、彼の妻は、虚言癖のある夫が多くの女を騙したことを物語り、「あなたのようなきれいな方に、まさかそういうことはおありにならなかったんでしょう」と言う(実はあったのである)。寝室から去るとき森が置いて行った株券を、大阪へ出発する駅へ高峰は返しに行くが、彼の妻は走り出した列車の中で夫に、そういう仕事をしているようには見えない人ね、と言う。

 ところで、『女人哀愁』の夫役・北沢彪は、NHK初の朝の連続TVドラマ『娘と私』で「私」(父)をやった人である。1961年の終りから翌年の春にかけてうちでは家を新築したが、そのための仮住いに置かれていたTV画面に、父から「ひょう」と読むのだと教わったこの名を毎朝見ることができた。原作者の名、獅子文六もこのとき覚えた。「娘」役の顏は全く記憶にないが、父親役の彪の顏は覚えており、成瀬の他の作品でのっぺりした若い顏を見ているうちに、まぎれもなく同じ顏であるのを認めた(時間がかかりはしたが)。ドラマの内容はほとんど覚えていないが、明るいメロディーと暗いメロディーが交互に置かれたテーマ曲(スキャット)は今でも口ずさめる。
[PR]
by kaoruSZ | 2005-09-21 21:27 | ナルセな日々 | Comments(0)