おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

解のない白黒パズル——噂の監督3

 22日、『女の中にいる他人』再見。間然するところのない傑作。見直して、新珠三千代が夫を手にかけたことも、この第二の殺人をいつか夫のように衝迫に駆られて告白してしまうかもしれないことも、画面外のモノローグで語られていたことがわかる。要するに、毒物を飲み物に入れる直截な描写はなくとも、物語としてのつじつま合わせは完全になされていたわけだ。『女人哀愁』のフェミニズム的(?)、ノラ的言辞は耳を素通りしたと前に書いたが、別にイデオロギーが問題なのではなく、こうした説明自体そもそも余分(『女人哀愁』のこの場面自体は素晴しい)なのだ。にもかかわらず(そうした蛇足的説明にもかかわらず)、『女の中にいる他人』は、白黒スタンダードの画面の強度のみによって傑作たりえている。

 光と闇の対比は妻子のいるわが家(いうまでもなく明るい)へ戻った小林桂樹が話しつつ家族へ背を向けるとき、その顏が半ば闇に浸されるところからすでに明示されていた。華奢な身体にスリップの肩紐の透ける白っぽいブラウスをまとった新珠は、いうまでもなく光の側にいる。新珠に対する一度目の告白は停電という、まさに闇と光の対比そのものの中で行なわれ、二度目のそれは、彼方に出口が見えるトンネルの闇(暗黒の背景!)を背負う小林から、キャメラが切り返してスクリーンいっぱいに捉える、トンネル外の明るさを背景にした和服——むろん白っぽい——姿の新珠のアップ(これまでにない比率で彼女の顏はスクリーンを占める)に向かって行なわれる。さらに、黒い夜空は白い花火に戯れに彩られ、見上げる子供たちの顏は明るく照らし出される。

 あと、これは徹底して視点が内部にある映画だ。もちろん屋外シーンも多いのだが、一つ前の記事で指摘したような、ガラス戸の外へのキャメラの後退に代表される運動は見られない。しかしこの内部は閉じているのではなく、むしろ絶えず外部を呼び込む。前半では、執拗に降る雨が小林の自宅の、また葬儀場の窓ガラスを伝いつづけるし、後半では隣家でゴーゴーを踊る若者たちの姿が、小林の友人で妻を彼に寝取られ、殺された、三橋達也宅の窓越しに眺められる(閉ざされた二人きりの告白の場——小林は三橋にも殺人を告げようとしている——であるべきものが、このように異物というかノイズに/へと、開かれ、浸透されているのは興味深い)。また、小林の勤め先は隣が工事中で、窓を開けると絶えず騒音が入ってくる。前述の花火もまた、窓の外に開くところを撮られている。
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by kaoruSZ | 2005-09-25 23:35 | ナルセな日々 | Comments(0)