『まごころ』に涙する(下)
2005年 10月 07日これを聞いた母の顏には、一瞬辛そうな色がよぎる。富子に説明したような、遠縁で挨拶をするくらいの間柄だけでは二人がなかったことは、入江たか子の寡黙さを裏切る雄弁な表情や、川で会ったとき二人がほとんど言葉を交わさなかったと富子に聞いて、「そういうときに言ってやればいいのに」と、また、もっとあとでは信子の父について「金だけでは幸せになれないことがわかったろう」と言い捨てる、祖母の言動から窺い知れる。どうやら信子の父は学費を出してくれた資産家の婿養子になることで入江たか子との約束を反故にした、ないしは入江の方から身を引いたといったたぐいのことがあったようなのだ。だが、富子にはそれはわからない。「いい人ね」という言葉にかすかに曇らせた母の眉根は、背中の富子には見られない。彼女の心には「いい人」としての高田の面影ばかりが刻まれた。それはまた、「飲んだくれのろくでなし」と祖母に決めつけられて彼女を泣かせた実の父親像をさらに遠ざけもするだろう。「さようなら」をさせるという行為とは裏腹に、彼女は信子の父を受け入れつつあるのだ。
『まごころ』におけるこの奇妙な(表面的にはほほえましい)別れのシーンの重要性を私たちが悟るのは、永遠の別れになるかもしれない出立を見送る最後のシーンにおいてである。高田の死の可能性が多少なりとも観客の心をかすめるだろう。行き先が戦地だからというばかりではない、すでに川から戻るとき、「もういやしない」高田に、先取りされた別れを母娘は告げていた。さらに、「もういない」父のイメージが写真立てのおぼろな肖像を押しのけてフレームにおさまったとき、それは「ろくでなし」の実父に代わって富子のうちに彼が確固たる位置を占めたことをあらわすのみならず、すでに彼を遺影として示してもいたのだった。時代に迎合した付け足しと見えたエピローグは、その隠された——いや顕示された——意味のだめ押しなのではあるまいか。
高田が戦死したなら、そのあとには何が起こるだろう。彼の死によって信子もまた、その母が軽蔑的に「父親のない子」と呼んだ富子と同じ身の上になり、生まれていなかったかもしれないことに揺れた子供たちのアイデンティティの危機は去って、シンメトリックな均衡が得られるだろう。そして、高田と入江のあいだの子供は、過去におけると同様、未来においても存在する可能性を断たれるのだ。残るのはただあの人形——子供がひとりで持ち運ぶには大きすぎるにもかかわらず、富子と信子によって運ばれて、二人のあいだを往復した人形だ。丸太のベンチの場面で、富子は信子に、父と母ははじめから同じ家にいるものとあなたは思っていたろうが、お母さんは誰かの娘で、お父さんは誰かの息子だったのよ、それが結婚して一つの家に住むようになるのよ、と教えられる。そんなことわたしだって知っている、と富子は言い返しはするが、それに続く科白は、お母さんはお祖母さんの娘だったし、今も娘で、だから一緒に住んでいるといういささかズレたものである。年齢的には、川の中で信子の身に起こったことを初潮と読み替えることさえできそうだが(なぜ富子の母が駆けつけて手当てをしたかもそれで説明される)、彼女たちの思考は男女間のセックスという単純な事実に至りつくには複雑すぎ、母もまた娘であることの発見の前では、基本的に取り替え可能な父母の結合などかすんでしまう。祖母、母、自分という連鎖。だが彼女たちは母のポジションをとることなく、娘のポジションに終始する。だから人形は彼女たちが母親役になって可愛がるには大きすぎる、「あなたでもわたしでもない」、しかしその二人の関わりから生まれ出た彼女たちの分身めいて、むしろ等身大に足りぬほどのサイズなのではあるまいか。
そもそも十二歳にもなった女の子が人形で遊ぶというのは、いささか幼すぎる感じがする。しかしそれが、父親なしの処女生殖で生まれた分身だとすれば——。あの人形、半分信子に似て、半分富子に似た、半分他者で、半分自分の、自分が生まれてこなかった可能性を体現する生命なき物体であると同時に、抱きしめるべき愛の対象でもある、彼女たちの二重の分身。ラスト・シーンでは、プラットフォームで万歳を叫ぶ人々に混じり、富子や信子や母たちとともに、人形も〈父〉の出発を見送っていたが、それは当然のことであろう。箱の中にあったときでさえ、すでにその両腕は垂直に上げられて、〈父〉を死へ追いやる万歳のポーズを取っていたのだ。
(をはり)
◆付記◆
二度目に『まごころ』を見たあと、あの人形が気になってしょうがないので「成瀬巳喜男 人形」で検索をかけたところ、ヒットした中に次の断片があって目を見張りました。
《...まごころ」でもっとも不気味なのは、男女が再会してしまった翌日、唐突に現れる赤ん坊の人形です。巨大な、人間の赤ん坊と ...》
サイト名はThe Bad News Erewhon 、タイトルは死せる可能性そのもの。成瀬について他にもいろいろお書きになっています。人形をあくまで男女間の生まれなかった赤ん坊と見る点で私の解釈とはいくぶん異なりますが(というより、これに触発されて、私は人形を彼女たちのつながりの実体化と捉えることになりました)、Erewhon 氏の明察に導かれることなしには拙文は可能性のままにとどまったことでしょう。記して感謝いたします。