おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

日々の疲れ

 土日元気出ず、成瀬見るつもりで出かけ、駅の時計で間に合わないのに途中で気づいたりするありさま。結局見られたのは最後(9日夕)の一本のみ。その前に三越の、バッグと靴、半期に一度の大バーゲン(尖った靴なんぞ履かないので、歩きやすいのをそういう機会に探す)で革のスニーカー入手。履き心地いいけれど、37(23.5)では(同色で23がなかった)やっぱり大きかったかも。『おかあさん』('52)、新文芸坐で見ているが、こんなに悲しい話だったか。終って夕飯食べていると、近くのテーブルで年配の男女、田中絹代の旦那さんは誰だったの? と話しはじめる。三島雅夫、と男。そうだったのか。はじめて顏と名前が一致する。香川京子の兄の死の省略の効果、二度目でも強い。倒れた父(これが三島)もまたそうやって死んでゆくかというと(二度同じことはやるまいと予想はつくが)、夏祭りになっても隣座敷で息をしているのだ。そして今度は死ぬところを見せつける(しかしやり過ぎない)。リアル界の男女、あの頃はああやって簡単に子供をもらったりしたのよね、と知り合いだか親戚だかの具体例を出す。私も、この映画の作られた年、私の母の従妹(祖母の兄の娘)が、生まれてすぐ祖母の弟に引き取られたことを思い出していた。本人は実の両親と思って育ったのに、年下のこっちは最初から彼女を貰い子と知っており、赤ちゃんのときヤギの乳を飲んで育ったと本人と育ての母がいうのを聞いて、ああそれはおかあさんのお乳がなかったからだなと思っていたのだ。

 11日(火)、『銀座化粧』('51)。久しぶりに初見の成瀬作品(嬉しい。見そこなったものについては、まだ先の楽しみがあると思うことにしよう)。これも最初は田中絹代と三島雅夫で(三島はすぐに消えて最後にしか戻らないが)、座敷で田中が身支度しながらの会話、あらゆる向きからのショットを試しているかのような、それなのにまったくうるさくならない自然な(実は人工の極致である)カッティングの妙に魅せられる。こっちの方が一年先だが、『おかあさん』よりも成長したかに見える(役柄のせい)香川の美しさ。すごい美人というわけではないが、表情が魅力的だ——このフィルムも、また。12日(火)正午、仕事抜けて歯医者へ。先週奥歯が腫れ、浮き上がって噛めなくなり、リンパ腺も腫れてあとから予約入れたもの。歯茎だけの問題か、金属の下で神経が死んでいるのか、剥がしてみないとわからないと言われ、金属を除くと果たして生きていると判明。そうなるとやはり歯肉が問題。全体としてよくなっていないと不思議がられる。抗生物質と痛み止め(これはもう必要ないが)とうがい薬出される。規則正しい生活の励行と、映画は見られるから大丈夫と平気で睡眠時間削るのをやめなければと、これは自己診断。

 夕、『ひき逃げ』('66)。仄聞してはいたが、これはかなり醜いフィルム。『銀座化粧』の黒白スタンダードのあとで、シネマスコープ(カラーではない)にあまり好感持てないはじまり(スタンダードのつもりで前の方に席取ってしまった)。それでも最初は、横から見た走り抜ける車、その上に平行して高架を入れて撮った電車という、シネスコにふさわしい絵柄に期待もしたし、サーキットでの試走シーン、前日の田中と三島をオートバイに変え、和室をコースに変えたかのごとき巧みさで、建物の中で見守る背広姿の男たちにつなぐあたりまで、画面サイズを生かして気持ちよく見られた。高峰秀子の熱演でいやな予感。弟役の黒沢年男が急を告げに走ったところでもう観客には事態がわかっているのだから、「大変だ、○○ちゃんが事故にあった」「○○!」というやりとり不要。結局、高峰の旦那の脚本の悪さか。高峰、ときどき泉ピン子に見える。司葉子、風呂場でもタオル完全装備アイラインばっちりのお人形さん。『流れ雲』の方がずっと資質を引き出されていたのだ。賀原夏子が濡れ衣で司から解雇を言い渡されてひき逃げをバラし、司が叫びながら階段を駆け上がるあたりで場内失笑、あの調子で通したら人形でも面白かったかも。中山仁との絵にかいたような喫茶店での逢引の図も悪くないもの。高峰の妄想も、その見せ方(露出オーバーにした空想シーンに対する、自室に戻って暗さに沈む現実)も、ガス・ストーブ殺人のオブセッションも面白いのだが、小澤栄太郎に抱き寄せられるあたりは意味不明。人形陸橋から投げ落としたり、ジェット・コースターから放り出したりに場内から笑いが湧くが、これもむしろ好き。狂気を演じる「名演」が鼻につくだけ。成瀬らしい省略が見られなかったのにもかかわらず、最後の方で妙に省略、結末を急いだ。ラストのショット、最低。(しかし「交通戦争」という言葉も死語になった。子供の頃、社会面にそう題した連載があったもの。今思えば、その前に「戦争」という大量死あればこその比喩であった。)小澤はストーリーに都合がいいだけの人物で、しかも『女の中にいる他人』の三橋達也のようにキャラが立ってもいない。目撃者の浦辺粂子、『女の中』の草笛同様、彼女が本当に犯人を見ていることを観客は知っている。だからどちらの場合も、問題は証言の真実性ではない。浦辺の知覚の疑わしさをこの映画は科白で説明するだけだが、近づいてくる小林桂樹と他人のすりかえにより、『女の中』はこれを観客に実際に体験させた。子供がなついていくあたりの描写はよかったが、その子供を結局殺して(筋書きが)、しかも高峰の最後がああだから、成瀬らしからぬ後味の悪さ(それでも、最後までシネスコに合った構図は崩れず)。『女の中にいる他人』と『流れ雲』のあいだにあるとは思えない。言われるほど悪くないとは思うものの、これが遺作でなくてよかった。
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by kaoruSZ | 2005-10-13 09:59 | ナルセな日々 | Comments(0)