おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

シロクジラ 可憐な収縮

 どういうスタンスで行くかずっと決めかねていたのだけれど、日記「のように」書くことで、ともかくも始動することにした。

2004.9.29(水)台東区立中央図書館へ。行くのは二度目。世界文学全集は揃ってないようだ(本当はどうなのかと思ってウェブで調べかけたら、図書館別の検索になっていなくてやりにくい。『ボストンの人々』の月報はなさそう。〈集英社ギャラリー世界の文学〉の「アメリカ文学」をためしに開くと、収録作品名がカタカナで並んでいる。それはいいのだが、「シロクジラ オウゴンムシ ヒモジ」ってアナタ……。帰り、新仲見世まで歩く。図書館に着く前、横断歩道で信号を待っていたときに、前にいた、それぞれ自転車に乗ったおばあさんと小母さんの会話——「浅草寺へはどう行くんでしょう」「ここをまっつぐ行って右へ入ると……」を聞いていたので迷わないし、そこまで行けば超方向音痴でもさすがに勘が働く。「まっつぐ」と言う人を見たのは久しぶり。六区の映画館、昔の建築はすべて消え失せた。先頃生き延びた花やしき、見上げると遊具の廻転が建物のあいだに瞥見される(父の生家の元使用人が花やしきの木戸番をしていたので、父たちは家中で行ってタダで入れてもらえたという。戦前の話)。親に連れられてよく来た「つるや」へ。最後に来たときは一人で、それからどれくらい経ったろう。テーブル席なので昔上がった座敷は見えないが、つくりは変わっていないとおぼしい(一軒おいてマクドナルドの大店舗——何軒かぶち抜きの間口——になっていてちょっと驚く。きっともうずっと前からあるのだろう)。うな重、無印と「上」があって(昔はどうだったのか? 親がかりだったからわからない)、無印の1800円を頼む。昔は肝吸いをなめこ汁に替えて注文したもので、品書きにはなめこ汁になったセットもできていたけれど、やめておく。そうでなくても1800円だし。うなぎ、味はよいが、御飯にまでタレがかかり過ぎ。昔はここが一番と思っていたが、あらためて戸田の「うな仁」もなかなかのものだと知る。父は一時期、毎週のように戸田に来て、私を連れ出してうな仁へ行っていた(毎週では飽きると贅沢を言って、こっちは天ぷら定食にしたりした)。つるやはおこうこだけだが、うな仁はもう一品ついてくるし(それともあれは「松」だったからか?)。ごはんにタレがしみ過ぎでは、おここで食べる余地もない。おかずが足りなくてごはんが余っちゃうのは困りものだが、過ぎたるもねえ。つるやは美味しくてあたりまえのような気がしていたので今回普通の味と思ったが、それは不味いうなぎを食べつけないからかもしれない。

 降り出した雨の中をバスで帰り、借りてきた本を読む。『女が読む近代文学—フェミニズム批評の試み』(1992)から、田嶋陽子「駒子の視点から読む『雪国』」。田嶋さんの教え子Hちゃんが「田嶋先生は文学批評の人」と言っていた意味がわかるような(今は昔かもしれないけれど)。「差別以前の区別という、女性にとってこの上ない残酷な状況を、実に正直に、見事に描き切っている」という結び(川端は他者との対等な恋愛などという幻想からほど遠かったために、かえって描き切れたということ)、昨今の、区別は差別でないと公言する恥知らずどもに聞かせてやるべきだな。女の感触をなまなましく覚えているという例の「人差し指」を「ペニスのシンボルである」と言い切ってしまうところなどは粗い感じだが(ペニスへ移行させるよりも指のままにしておいておいた方が有効な場合もある。そう言って人差し指を突きつけるのは、ペニスを突きつけるのより相手を玩具視している度合が強いだろう。それにわざわざ「左手の」人差指に限っているし。さらに言えば、男根を持たなくても指は使えるので、これをペニスに自動変換するのはファルス中心主義では)。しかし、次の引用文を見てあらためて思ったが、これも有名な、蛭のような唇と膣のダブルイメージは、シンボルなどという言葉を持ち出すまでもなく、小説中に露骨に書かれていたんだな——「あの美しく血の滑らかな脣は、小さくつぼめた時も、そこに映る光をぬめぬめ動かしてゐるやうで、そのくせ唄につれて大きく開いても、また可憐に直ぐ縮まるといふ風に、彼女の体の魅力そつくりであった」。ここ、なんといってもポイントは、「可憐に」という形容でしょう。「三國志遺文——孔明華物語」にアプロプリエイト[流用]してやろうかしらん。その「華物語」で一部擬古文を使う勉強用に、全訳の対訳がありがたい「日本古典文学全集/落窪物語 堤中納言物語」も重いのを借りてきた。「落窪物語」ははじめて読む。例によって几帳のかげのお姫さまは手引きされて男が入ってくればやられるしかないが(けれど男がよい人で+朝になって女を見るとかわいらしい顏なので)、結局は幸せになる。やられること自体よりも肌着が粗末なのに死にたい思いをするという“リアリズム”。それにしてもこのお姫さまたち、男が帰ればまた横になっているし、足がないみたいだ。

『女が読む』より、漆田和代「「渾沌未分」(岡本かの子)を読む」。『渾沌未分』は未読だが、自慰の描写ではないかという指摘面白し。漆田さんは居酒屋じょあん代表とあり、ウェブで調べると今もそうだった[現「花のえん」]。イメージ&ジェンダー研究会で藤木直実さんが森しげについての発表をしたときのコメンテーターでもあるとわかる。つるやのうなぎ腹持ちがよく、これは不規則な生活のせいだが頭痛がして、夕飯抜きで寝てしまい、また起きる(こういう生活がいけないのだが)。関礼子「闘う「父の娘」—一葉テキストの生成」、小林富久子「『女坂』—反逆の構造」も読む。桃水に師事する以前の一葉の習作はじめて知る。「 人中へ顏を出さないなんかつていふのは昔の事ですわましてわたしらなんざ何かまふことが有ますもんかいくらでも御金のとれることをして早くよくなる工夫をするのですもの夫に最下等の七銭より外とれないだろふといふこともなかろうかとわたしや思ひ枡わ[中略]ネー兄さんどうぞ出して頂戴な」ううむ。一葉の日記に文語でいきいきと書かれた桃水との会話(おしるこを手づからすすめられたり)、実際にはどう喋っていたのだろうと友人に言ってそのとおりだったんじゃないのという答えが返ってきたことがあるが、むろんそんなことはありえない(千束あたりだから、「まっつぐ」と言っていたかも)。デリダの「ジャンルの掟」という言葉、バーバラ・ジョンソンの『差異の世界』で引かれていたのか(関論文)。今度調べてみなければ。30日朝、頭痛おさまらないまま出勤。
[PR]
by kaoruSZ | 2004-09-30 18:36 | 日々 | Comments(0)