おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

「日本語でやってくれ」

何もね、日本なんだから英語使うことねえんだよ、わけのわからない英語をね。だからね、日本語にうまく訳せばいいじゃないですか。そうすればもっとわかりやすいよ。「ジェンダー」とか「フリー」とか言ったってね、英語のわからない人はさっぱり、おじいさん、おばあさんはわからんよ、そんなものは。日本語でやってくれ、日本語で

 とんだ老人差別で、石原はそれではわかるのかわからないのかと考えれば、問題は年齢でも英語でもないことは明らかだが、そういえば「世界日報」も上野千鶴子支援の抗議文について、一般国民は「ジェンダー」なんてわからないと言っていた。一般国民も見くびられたものだ。それにしても誰なんだ一般国民て。
 世界日報はそれなりに面白いのだが、朝日の記事はどうでもいいようなものだった(不偏中立なのかしらん)。Japan Timesの記事の方がわかりやすい。(しかも詳しい。)
「ジェンダー」を「社会的・文化的性差」と訳すことの不適切さについては、黒猫房主のブログにも書き込みしたことがあって、一つ下の記事に黒猫さんが書き込んでくれたのに応えてまた触れているが、次に引くJapan Timesの記事(1)には全く問題を感じない。朝日の記事から抜いた、同じことを説明している部分(2)と読み較べてみよう。

(1)
Since the mid-1990s in Japan, "gender-free," which has been interchangeable with "gender equality," carries the concept of being free from sexual differences in a social and cultural context.

But some quarters regard gender-free as a denial of the differences between males and females, and of traditional family values, and as a way to promote what they consider radical sex education.
(..........)
The metropolitan board of education announced in August 2004 that Tokyo would not use the term "gender-free" in its activities, claiming the concept is sometimes misused to ignore the fact that men and women are different.

(2)
「社会的・文化的につくられた性差の解消」を意味して使われることもある「ジェンダーフリー」という用語について、事業を委託した東京都教育庁は「男らしさや女らしさをすべて否定する意味で用いられることがある」として使用しないことにしている。


 黒猫さんとのあいだで問題にしていたのは、「社会的・文化的性差」という表現による「性差の実体化」だが、“sexual differences in a social and cultural context”であれば、“sexual differences”はあるコンテクストにおける現象として読むことができる。「解消」というと何やら決定的なことのようだが、 “being free from”なら今日からはじめられそうだ。二番目のパラグラフでは、〈彼ら〉の言う「男らしさや女らしさ」が何をコノートするかがきちんと示されている。「過激な性教育」が、あくまで彼らがそうconsiderするかぎりのものであることも。

 こうした受け取り方には、英語使用者でない私のバイアスが当然かかっていよう。だが、der Tod の方がle mortより、より「死」らしいと感じるとしたら、それはフランス語よりドイツ語に自分がより少なく通じているからだという、ブランショが言ったようなことはつねに起こるものだ(むろん、ブランショがドイツ語に通じていないといっても、私が英語に通じていないのと同日の談ではないわけだが)。馴れ親しんだ母語がどうにも不完全であり、言葉と自分に距離があり、これを断ち切って理想的な言語のほうへ脱出したいと夢見たことのない者は、結局のところ母語も満足にあやつれず、矛盾した答弁を繰り返すしかないのだ。

 the fact that men and women are differentをめぐって。今度きままな読書会で取り上げる「大航海」に載っている、扱う予定でない論文から紹介しておきたい。

歴史的・社会的・文化的に構築されるのは身体そのものではなく「身体」という概念もしくはイメージである。生物学的な性そのものではなく、(その時々の社会通念などによって)生物学的な性と考えられているものである。身体そのもの、セックスそのものは、ジェンダー一辺倒の論者がなんと言おうと、頑固に、物質的に、モノとしてそこに存在している。人間がそれをどう捉えるか、どう表象するかという点にはジェンダー・スタディーズも関与できるが、それ以前にモノを分析し解明できるのは生物学だけである。
 
 誰がそうでないと言った? 

 なお、上の文章には、次の一文が先立っている。

ジュディス・バトラー等の尻馬に乗って、身体も実は歴史的・社会的・文化的構築物なのであるとか、セックスも突き詰めるとジェンダーの一部である、なぜならそれもまた歴史的・社会的・文化的構築物だからであるとかいったドグマティズムに酔うのは、もういい加減にやめたほうがよい。**


*。石原東京都知事。27日の定例記者会見で、「ジェンダー」という語について誤解がないよう議論を深めていく気はあるかと問われて。

**堀茂樹「フェミニズムはヒューマニズムである」『大航海』2006.No.57
 なお、この論者は、「身体的・生物学的条件としての性差をリアルなものとして認めることと、フェミニズム的立場を支持することの間に何の齟齬も矛盾も」ないことの実例として、晩年のジュリアン・バンダが若年のボーヴォワールの主張を肯定しつつ、「ただ一点、生物学的な性差だけは打ち消すことのできないファクトであろうという意味の留保を示した」と主張するのだが、その証左として引用しているバンダによる「女体」の描写ときたら、典型的にヘテロセクシュアルな、手垢にまみれた紋切型なのだから恐れ入る。すでに解釈されたものを「身体そのもの、セックス」そのものと著者は呼ぶ。そこでセックスと呼ばれているのは、またしてもすでにジェンダーなのだから、「歴史的・社会的・文化的に構築されるのは身体そのものではなく『身体』という概念もしくはイメージである」という文句はそのまま著者に返そう。


○2月7日追記
ここで引用している知事の会見録及びマス・メディアの記事は、 ありがたいことに「東京都に抗議する」のサイトにまとめてリンクされましたので(抜粋も載せられています)、元記事へはそこから跳ぶのが便利です。

☆4月24日追記
Kleinbottleさんから2月9日にトラックバックしていただいたが、あちらの記事のURL変更のため(らしい)、現在跳べなくなっている。
代りにURLを示すので、これで読まれたし。

http://klein-bottle.orz.ne.jp/LifeIsSurvival/0602/091228.html#c7

TBの日時も違ってしまったけど、面倒だから説明は省略。
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by kaoruSZ | 2006-02-04 07:35 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)