考えるヒント―差異の知覚について
2006年 02月 15日*ボルヘスの小説に出てくる「記憶の人 フネス」は、三時十四分に横から見た犬と、三時十五分に前から見た犬とが同じ名前で呼ばれるのが理解できず、二十万以上の数字にそれぞれ固有名をつけて記憶していた。
*バルトが引用しているニーチェ。一本の木は絶えざる生成の中にあるのに、それを「木」と呼んでしまうことについて。「われわれは繊細さの欠如のために科学的になるのだ」
*ブランショ。私が〈花〉と言うとき、そこには花も、花のイメージも、花の思い出もなく、花の不在がある。語は、その意味するものをわれわれに与えるが、まず存在を抹殺してから与える。言葉が語るとき、それは語るものの死を告げる。しかしそれゆえに、死は言葉の意味の唯一の可能性であり、われわれに存在が与えられる唯一の可能性である……。
*脳は無限の形を知覚しているわけではなく、たとえば、人間の唇を見分ける細胞群と、ピーマンのへこんだ部分(要するに唇に似た形)を見分けるそれは同じだという。(では、知覚の段階ですでに比喩(=言語)であり、抽象なのか?)
*六つか七つのとき、いとこたちのお下がりの本をたくさんもらったうちの一冊、五年生のための算数の本(数式でなく、読み物やパズル)の中で、機関車のあとに数種類の貨車をつなぐやり方は何とおりあるかという問題に出会った。(おどろいたことに、無限ではないのだった。一台の貨車のあとに来る貨車の種類は、数的に限られているのだった。)それまで世界は無限に変化する「絶えざる生成」であったのに。
*やはりそのときにもらった理科の本。乾電池に豆電球をつないだ絵がいくつも描かれていて、どの電球がともるかを答えよという。そもそもプラスとマイナスの極に銅線がつながれれば電気が流れるという基本的なことを知らないまま、私は豆電球の向きとか、銅線の描く曲線とかを見くらべていた。当然のことながら、答えはわからなかった。そして、いとこたちのように大きくなれば、その微妙な違いがわかるようになるのだと思っていた。
*ところで中岡君は小学校に入る前に両親が離婚したのだろうか? それとも、父親と生別または死別していて、母親が再婚したのだろうか? 二十年以上たって、彼のお母さんにばったり会ったという(そして私の縁談を押しつけられてきた)母に尋ねると、あれはお祖母さんが娘の子に岸田姓を継がせたくて、そう名乗らせていたのだという。もともと戸籍上は中岡姓だったのだ(なんだ、それだけのことか。なぜかがっかり)。学校の行事にお祖母さんばかり来ていたのは、両親とも働いていたかららしい。ついに望みは叶わないままお祖母さんは亡くなり、そして中岡君は結婚して家内工業にたずさわっているらしかった。