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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

「過激なフェミニストとして」

第3期東京都男女平等参画審議会委員に高橋史朗が入ったことに対する憂慮声明への賛同署名は、締切が18日に延期されました。詳しいことは一つ前の記事をごらん下さい。

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A.
 連休中にS&Tさんちではじめて会った大学院生のSさんが、帰りの電車のなかでめざましい意見を表明してくれたので忘れないうちに書きとめておく。

(1)ジェンダーフリーが《性別》を否定することであってなぜいけない? なぜ、そうではないと“彼ら”に合わせて弁明しなくてはならない?
(2)男女共同参画というけれど、「共同」でなくていいと思う。
(3)異性愛も女らしさのうち。

 三番目は私がこうまとめたのであり、実際は、男と恋愛するというのも女らしさのうちに含まれているのだから、ジェンダーとセクシュアリティは切り離せない、といった意味のことだったと思う(今度Sさんに確かめて、違っていたらなおす)。そういう意見が某メーリングリストに出たとたん、皆は沈黙したというのだ。(私は見落したらしい。)話題がセクシュアリティに及ぶとやっぱりそうなっちゃうのか……という話。

B.
 高橋史朗の文章のありかを一つ、前の記事でリファーした(署名サイトへ飛ぶと、もっと資料が載っている)。そこに幼形成熟とか鏡像段階という言葉が出てくるが、使い方がデタラメだ。ジェンダーフリーだのフェミニズムだのの言葉を彼らが持ち出すときと同様に。「過激なフェミニスト」というフレーズに何かの意味があるかのように、でっち上げるときと同様に。もしくは、たんなる権威づけとして、見当外れもいいところで彼らは使う。その滑稽さを理解できないまま、自分に都合のいいように、また、著しく浅薄な意味に変えて使う。というか、もともと理解していないわけだが。何も理解するためには、専門知識とか深い学識とかが必要とされるわけではない。幼形成熟(ネオテニー)という言葉は、私の記憶違いでなければ、福井県で禁書にされた松浦理英子の「優しい去勢のために」にも出てきたのではなかったか。(較べるのも笑止ながら)生物学についてアカデミックな知識があるわけではなかろう松浦がそこで間違うことはけっしてない。

 高橋はネオテニーを、カンガルーの赤ん坊の生まれ方のようなものとして認識しているらしい。つまり、たんなる未熟児として。女が女役割に徹して母親をやれば、つまり、早く子宮から出されてしまった子カンガルーが代用品としての母カンガルーの袋の中で育つように、女が生物学的に規定された環境そのものとして育てれば、子供は赤んぼカンガルーが大人カンガルーになるように、つつがなく男ないしは女に育つと思っているらしい。しかしネオテニーは人間に、「小さい動物たちは交尾し、人間の子供はセクシュアリティを持つ」(レオ・ベルサーニ)という運命を与えた。引き延ばされた子供時代を通り抜けて、「何から何まで贋物の」ジェンダーを身につけた人間の子供には(人間の大人にもである、つまり、性的成熟ののちにも、カンガルーの成体が成体であるように人間が大人になることはありえないのだから)、いかにそれを流用して自らのセクシュアリティを生きるかということしか残っていない。ついでに言うなら、文化とはこうした場所の〈外〉にはありえないものだ。
by kaoruSZ | 2006-05-10 15:56 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(2)
Commented at 2006-05-18 05:18
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by kaoruSZ at 2006-05-18 17:17
こちらこそありがとうございます。
本日アップのあの休憩所、私が小学二年の時に行ったところみたいです。あとでアルバムを見て確認します。