おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

『漱石の白くない白百合』の余白に

『漱石の白くない白百合』という本を図書館で見つけて借りた(塚谷裕一、文藝春秋 1993)。刊行当時よく書評に取り上げられ、私も立ち読みした覚えがある。『それから』の男女が白い百合の香の中に閉じこもるクライマックスを現在の私たちが読むとき、鉄砲百合を思い浮かべるのが自然であろうし、著者によれば、映像化された『それから』にもすべて鉄砲百合が使われていたという。

 しかし、現代の私たちにこそ馴染み深い鉄砲百合は南西諸島の原産で、『それから』が書かれた当時、今のように普通に手に入るものではなかったという。さらに、その濃密な香りの描写から、著者はそれを「山百合」と断定する。山百合は「白百合」ではない――花弁の中央に黄色い筋が通った上、一面に斑が入[い]っているのだ。

 ということなら、私はこの花を知らない――代助と三千代を雨の室内に閉ざす重苦しい香も、実は全く経験のほかだったことになる。子供の頃、夏休みの学校行事で行ったどこかの山の斜面に「自然に」百合が咲いているのを見て驚いたことがあるが、あれもそのような華やかなものではなく、ただの「白百合」であった。あれは何だったのだろう? これも漱石の頃にはまだ「帰化」していなかったという、台湾原産の高砂百合だったのだろうか? 万葉集に出てくる百合は赤かったのだそうだ[「ひめゆり部隊の」花は? と今回思いついて検索してみたら、これも赤いのだ!]ただし、山百合も「夜目遠目」には「白百合」で通る。白い百合といって漱石が提示するものが山百合だと、当時の読者にはわかっていたのにそれが忘れられたのだと著者は言う。

 ここまでは表題の論文の内容ですでに知っていた。だが、本書を読み進んだところ、この話には続きがあった。聖処女の象徴たる白百合――マドンナリリーは、日本にはもともと存在しない。明治以降(観念として)入ってきたこの象徴としての「白百合」が、現実の「白くない」山百合に投影され、文学者たちは花弁の模様を無視して山百合を「白百合」と描写するようになった。そして――ここからが面白いのだが――黄色い筋と斑点が見えていないふりをし、「白」と言いくるめながら、彼らは、山百合のもう一つの特徴である、褐色の雄蘂だけはリアルに描写したのである。「精悍な褐色」の蘂を持つことは白百合であることと矛盾しない――生物学者である著者から見れば、それはとりもなおさず、彼らの眼前にあるものが山百合である証拠なのだが。

 これを読みながら、ゆくりなくも私は乱歩の『心理試験』を思い出した。犯行現場で見ていたものを、別の時に見たと思い込んで喋ってしまう。表層に隠された百合の正体、褐色の花粉という「無邪気な」言い間違い――それは、被分析者の語りにおけるアクセントの移動や隠蔽記憶を、探偵小説とフロイディズムの近縁性を思い起こさせる。現実効果のためだけであるかのように繰り広げられる一見無意味な描写(たとえば犯行現場の)が、分析家(探偵)には意味を持ってくる。精悍な褐色の蘂は、カフカの『掟の門前』で仰ぎ見られる番人の、毛皮の襟や立派な鼻やダッタン人風のひげのようではないか。
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by kaoruSZ | 2006-11-27 13:25 | 日々 | Comments(0)