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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

いじめは社会的行為である――あるいはおさん茂兵衛(下)

 姦通した人妻と手代という誤解を受けて彼らが最初に〈死〉を選ぼうとしたとき、それはなおも規範に忠実な社会的行為であった。しかし、舟の上での出来事を境に、彼らは生きることを望み、そしてpassionの絶対的な受動性のうちにすべり落ちてゆくだろう。木々に覆われた斜面の下降と、そのあとの地面の上を転げ回る二人の姿がそれを物語る。

『大経師昔暦』は、もういつだったかも忘れるほど昔、渋谷ジァン・ジァンで「語り」を聞いたことがあったが、今回、浄瑠璃と映画がどう違っていたのか知りたくて(実際には川口松太郎による劇化が間に入っており、このときに恋愛ものに変換されたのだろうと想像するが)、近所の図書館になかったので取り寄せてもらって読んだ。映画ではおさんの実家は、後家である浪花千栄子の母と、妹に無心して悲劇の原因を作る道楽者の兄(どちらもはまり役)から成るのだが、原作では、借金を申し込んでくるのはおさんの両親だ。そして、恋物語では全くない代りに、父母の情がこまやかに語られる。可愛がって撫でて育てた身体を槍で突かれるのか(不義密通は磔になるので)という、生なましくも具体的な嘆きが印象的だ。

 映画でも、浪花千栄子は娘の身の無事を願いはするが、なにせ娘がとらわれてしまったような官能には無縁の、子を産んだことがあるだけの女だから、連れ戻されたおさんと追ってきた茂兵衛を前に、こうして一目会ったからには気がすんだろうなどということを平気で言う。そうしている間にも、母の前でありながら香川京子は傍の長谷川一夫を見つめつづけ、今にも撫でさすり、からみつかんばかりでいるのに。

〈社会化〉された人々には、財産や家名が何よりも優先する。おさんの夫・以春は金でスキャンダルをもみ消そうとし(町人でありながら名字帯刀を許された大経師の家は、罪科においても武家同様に罰せられ、妻の不義と夫がそれを訴え出なかったことが露見すれば、監督不行き届きで家は取り潰しになるとされ、実際そうなる)、彼から金を借りている公家たちは、この件で便宜をはかる代りに借金を帳消しにできる機会を得て上機嫌で以春のもてなしを受けるし、以春が失脚して大経師の株が宙に浮けばそれを利用できると考え、うまく立ち回ろうとする者たちもいる。こうした打算や、見栄や、外聞や、世間体を超えた、命を賭けるほどの価値をおさん茂兵衛が恋に見出しているというのは正しくあるまい。そうした比較が何の意味も持たない世界に二人は入り込んでいるので、何も知らなかったときは義理のために平気で年寄りの後妻になったおさんも、今では何事もなかったかのように夫のもとへ戻るなどということはできるわけもない。逃げようとする娘の名を呼ぶ浪花千栄子の声は、ついに捕り手と同じ側に立って彼女を狩り立てることになる。(これが要するに、親としての責任を果たすということなのだ。)

 茂兵衛の極貧の父だけがまともな人間に見える。前述のように、彼は社会的な圧迫に負けて、恋人たちが潜む小屋を追っ手に教え、二人は引き離されておさんは駕籠に押し込められ、茂兵衛は同じ小屋に監禁されるのだが、父親はその縄を切って茂兵衛を逃がす。その足で彼はおさんが預けられた実家へ行き、そしておさんの母が捕り手に居場所を告げる声に追い立てられて、ついに再び捕らわれるのだ。

 二人が背中合わせに馬に乗せられ、晒しものとなって刑場へ引かれてゆくとき、観客の目を惹きつけるのは、なおも握り合った二人の手であろう。二人が、とりわけおさんが、今までに見たこともないほど晴れやかな顔をしていることが見物人の台詞で語られる。それを聞いて観客が目を向けるとき、彼女はもう後ろ姿になっていて、背中合わせに縛られた茂兵衛の顔しかもはや私たちには見られない。そろって晴れやかな顔と言われているのに、その表情は(面白いことに)心なしか曇っているようだ。茂兵衛の在所の隠れ家で、こんなところでもいいから一緒に暮らしたい、と思わずおさんが言ったとき、茂兵衛の方は、早くここから出て出世がしたいと思ったという子供時代の思い出を口にしていた。ジェンダーによる社会化の違い――茂兵衛には男としての出世という道があったことへの未練が、最後に長谷川一夫の表情をかすかにかげらせていると見るべきだろうか?
  
by kaoruSZ | 2006-12-14 12:04 | 日々 | Comments(0)