おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

漱石の赤くない椿

 大量の本を図書館に返す。それでもそこらへんに残っている本を拾い上げてページをめくるうち、はっとする表現に出会う。しかし、明らかに見覚えがあり、しかも以前引用したことさえあるような気がする。ブログ内検索をかけるも出てこず、グーグルして“Tous Les Livres”がヒットする。
 なんのことはない、夏に買った本が通読できないまま、同じ細部に再び反応してしまったのだった。

「文彩=比喩【figuresね】とはもはや言説に突然生じ、個々の部分に特定な効果を与えるようなものではなく、言説が突然生じることを可能にするもの」なのである。

というのがその文章。「」に入っているのは著者による引用だから。(【】内はわたくしによる。)

 さて、本題は、借りた漱石全集で再読した『それから』の冒頭についてである。

(……)枕元を見ると、八重の椿が一輪畳の上に落ちてゐる。代助は昨夕(ゆふべ)床の中で慥かに此花の落ちる音を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬(ごむまり)を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が更けて、四隣(あたり)が静かな所為(せゐ)かとも思つたが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋(あばら)のはづれに正しく中(あた)るの音を確めながら眠に就いた。
 ぼんやりして、少時(しばらく)、ん坊の頭程もある大きな花の色を見詰めてゐた彼は、急に思ひ出した様に、寐ながら胸の上に手を当てゝ、又心臓の鼓動を検し始めた。寐ながら胸の脈を聴いて見るのは彼の近来の癖になつてゐる。動悸は相変らず落ち付いて確に打つてゐた。彼は胸に手を当てた儘、此鼓動の下に、温かい(くれなゐ)の血潮の緩く流れる様を想像して見た。是が命であると考へた。自分は今流れる命を掌(てのひら)で抑へてゐるんだと考へた。それから、此掌(てのひら)に応(こた)へる、時計の針に似た響は、自分を死に誘ふ警鐘の様なものであると考へた。此警鐘を聞くことなしに生きてゐられたなら、——血を盛る袋が、時を盛る袋の用を兼ねなかつたなら、如何に自分は気楽だらう。如何に自分は絶対に生を味はひ得るだらう。けれども——代助は覚えず悚(ぞつ)とした。彼は血潮によつて打たるゝ掛念のない、静かな心臓を想像するに堪へぬ程に、生きたがる男である。

【青空文庫に感謝! ルビを適宜省いた。】

 あらためて読むと、「護謨毬(ごむまり)」がすでに心臓(「血を盛る袋」)の喩だとわかる。このごむまりは最終部の、有名な世界中が赤くなってゆくくだりの、赤い風船玉にまで一直線につながっているのだ。そして、音にかこつけて「八重の椿」が護謨毬にたとえられ、血の袋へと話が展開してゆくのだから、この椿の色は赤であろうと誰もが思う。

 ところが——
 椿の色は書かれていないのだ(このこと自体は私が発見したのではない)。

ん坊の頭程もある大きな花のを見詰めてゐた

 花の色がある。赤い花といふものはない。
 なんという狡知。
「赤ん坊」の赤に引かれて、八重の椿も赤く染まる。
 しかし、漱石は「大きな赤い椿」とは書かなかった。そのかわり、赤だの紅だの血だのという字を、その周囲にまき散らした。

 さらに——

 彼は心臓から手を放して、枕元の新聞を取り上げた。夜具の中から両手を出して、大きく左右に開くと、左側に男が女を斬(き)つてゐる絵があつた。【当然、が噴き出していたであろう。】彼はすぐ外(ほか)の頁へ眼を移した。其所には学校騒動が大きな活字で出てゐる。代助は、しばらく、それを読んでゐたが、やがて、惓怠(だる)さうな手から、はたりと新聞を夜具の上に落した。夫から烟草を一本吹かしながら、五寸許り布団を摺(ず)り出して、畳の上の椿を取つて、引つ繰り返して、鼻の先へ持つて来た。口と口髭と鼻の大部分が全く隠れた。烟りは椿の瓣(はなびら)と蕊(ずい)に絡まつて漂ふ程濃く出た。それを白い敷布の上に置くと、立ち上がつて風呂場へ行つた。

 白い煙を通され、白い敷布の上にずぶとく放置されたまま、主人公が風呂場へ行ってしまったあとまでも、読者の目にありありと浮ぶ椿。それを白いともついに書かない巧緻。

 文学には、私たちが人生の中で体験する様々な表象(クオリア)の多様性が、そっくりそのまま反映されている。a href=http://www.qualia-manifesto.com/fuhenkobetsu.html

 という素朴な文学観の持ち主は、「赤ん坊の頭程もある大きな花の色」にいったいどういうクオリアを感じたのだろう?
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by kaoruSZ | 2007-02-11 18:12 | 日々 | Comments(0)