おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

1977年の“萌える”女

 大岡昇平に『萌野』という小説がある(とえらそうに言うが、実は未読。蓮實重彦の『反=日本語論』(1977年)で扱われているのを昔読んだきりだ)。大岡が72年にアメリカ滞在中の息子夫婦に会いに行ったときのことを書いたこの小説で、彼の未来の孫娘に息子夫婦が用意していた名前「萌野」。これを「もや」と読むことは、今日ほとんど抵抗を惹き起こすまい。なにしろ、金井美恵子が日本中の親が森鷗外になったみたいにと言い、柄谷行人が、大学の出席簿がホステスの名簿みたいだと言ってからでもいったいどれだけ経っていることか(萌野ちゃんは幾つになっているか……と数えるまでもなく)。「萌(もえる)」を「も」 と読ませるなど、今となっては可愛いものというか、限りなく上品というか……。『反=日本語論』を(たぶん)出版されて間もなく読んだとき、しかし、「萌野[もや]なんて低能の名前の子は俺の孫じゃない!」と口走ってしまう(あとで後悔するのだが)大岡の感覚は、確かに当時の私のそれともぴったり重なるものであった。

 大岡昇平が大岡萌野という名を受け入れるに至る話。それを「美しい」と蓮實は形容していたと思う。畸形性こそが言語の本質であること、現在「正しい」と感じられる訓み自体が実は漢字に恣意的な訓みをあてはめた結果として偶然このようにあること、「美しく正しい日本語」とは虚妄であること。そうであるとき、「萌野」の「美しさ」を拒む理由は何もない。

『反=日本語論』についてのインタヴューで、蓮實はインタヴュアーから「ゾケサの紋切型」はないのだろうかと尋ねられている。ゾケサとは「蛍の光」の一節、「あけてゾケサは別れゆく」を「明けてぞ今朝は」と聞き取れなかった子供時代の蓮實の頭脳が産み出した架空の生物だ。これに対して蓮實ははっきりした答えを返していなかったように記憶するが、私はそれを読みながら、(ゾケサの紋切型はある!)と思っていた。投書欄のあるところにならどこにでも出現する可能性があるのだが、たとえば当時、たまに寄ることのあったスーパーに置かれていたペーパーにはそれ専用の欄があって、「ゾケサ」のたぐいの言葉を子供が発したとき、すかさず親が書き取って投稿した記事が毎号おびただしく載っていた。ケースの中の「生ハム」の表示を見て、「ママ、このハム生きてるよ」と驚きの声を上げる子供は確かに可愛かろうし、そういう場面で私自身微笑(時には爆笑)することもある。だが、ゾケサの紋切型の羅列は醜悪だ。それは、競って投稿してくる母親たちがそれを「わが子のユニークな発想」と信じているから、そして、それが子供にしか可能でないことだと思っているからだ。

 だが、ハムが生きているのかと思う子供の驚きは実は何度も反復されてきたものだし(私自身の同様の体験についてはここで触れたことがある)、たとえ大人であっても「正しい日本語」から外れた、日本語の制度の内部にいない者はこうした錯誤の可能性に絶えずさらされている(『反=日本語論』にはそうした例が幾つも挙げられていたと記憶する。)子供なら可愛いと思われ、外国人であれば忌避されたり珍重されたりする。

 萌野=もやというフォルムの畸形性の印象は、今ではよほど薄らいだ。鷗外は今の日本人には想像のつかぬほど漢籍にも通じていたはずだが、その彼が「茉莉花(まつりか」の「まつ」を「ま」と強引に撓めて「まり」と読ませたのは、実は「萌」を「も」と訓ませるのからそう隔たっていなかったのかもしれないのだ。

 今では「萌野」は紋切型になってしまった。「日本中が森鷗外に」なった、つまり、「出鱈目」で「荒唐無稽」な名づけが大衆化された結果、その荒唐無稽さをもはや感知できない人々によってそれが自堕落に反復されるようになってしまったからだ。 「荒唐無稽」は制度に馴致されうるのだ。飼い馴らされたゾケサたちよ。

 ところで、同性愛も異性愛も同じように構築されたものだという言説がある。これはたとえば、「あなたが異性に性的に惹きつけられるのと同じように彼らは同性に惹きつけられるのですよ」というふうに使われることがある。そして、「あなたが異性への欲望を同性に向け直すのが不可能なように、彼らにはその逆が不可能なのです」と続けることによって、この言説の向けられる人々に何らかのrevelationをもたらすらしい。

 自分たちがガチへテロであるように「同性愛者たち」はガチホモだ、と「異性愛者たち」は思うわけだ。同性に向かう欲望とは、生殖という目的から外れ根拠を持たず方向を見失い意味を欠いた荒唐無稽なものだと思っていたが、そうではないのだと。(彼らばかりではない。そうやって彼らが説得されることを望む「同性愛者」たちもまた、律義で自堕落な反復によってそう考える。) だが、出鱈目(この表記ときタラそれ自体でタラめで面白いっタラない、なんでここでタラが出てくるんだwww)で荒唐無稽であるのは、性的指向などその一部でしかないセクシュアリティそのものではないか。

 小説『萌野』で、「もえの」という訓み(それなら大岡にも受け入れられる)をなぜ採用しないのかという理由について、語り手の息子の妻は語り手に、「もえる」(性的に)という連想が女性の名としては不穏当ではないかと冗談めかして言う(これは蓮實の記述を私が記憶に頼って書いている)。 ここから見てとれるのは、女が(他動詞的に)「萌える」という概念が当時全く存在しなかったことだ。「もえ」(たぶん和語としては萌えと燃えに区別はないのだろう)た女は男に対していつでもオーケーと言っている(性的対象として自らを提示している)と見なされて当然という文脈で(2008年に米海兵隊員に対する告訴を取り下げなければならなかった沖縄の女子中学生もまた、そういう女として男たちから断罪された)「もえ」の意味は尽くされていたわけだ。

「萌野」という畸形的な(実はそれはすべての言語の特徴なのだが)フォルムの誕生を祝う小説で、そしてそれをめぐって「美しく正しい日本語」の正統性を疑問に付するエッセイの中で、しかし女が「燃える」こととそれに対する男女の反応は女の「正しいセクシュアリティ」に属する事柄として記述され、1977年のフィールドに、女が「萌える」可能性は文字通りその萌芽さえ見せていなかった。
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by kaoruSZ | 2008-03-04 09:56 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)