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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

“政治的”腐女子?

 続き物の(下)は、「季刊コーラ」のための原稿を仕上げてからになる見込み。(下)で終わらない場合は、ある日カッコの中が数字に置き換わっているかもしれません。

 それまでは、「コーラ」用の草稿をぽつぽつ、メモとして置いてゆくつもりです。

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『レイモンド・チャンドラー読本』に収められ日本の男流評論家の無邪気な賛美の傍で異質な光を放っている「ホモセクシュアルの翳」(マイクル・メイスン)は、チャンドラーの小説がミッキー・スピレインのような「殺人を欲望で彩り、暴力に色情症の風味を添え」たポルノまがいではなく、男の友情の強調と異性愛に対する嫌悪(探偵が女と寝る時でさえ)からなっていることを指摘している。実際、チャンドラーの長篇で美女が出てくればそれは殺人者と相場が決まっており、しかしその描写は妙に官能性を欠く反面、男の魅力には敏感で……。

 こんな回りくどいことをせずに、不愉快な女が出てくる場面はすべて削って、フィリップ・マーロウが惹かれている(たとえば)大鹿マロイと邪魔者なしに愛し合うようにすればそれだけでもう「やおい」になるわけだが、実は上記のような点は『アメリカ小説における愛と死』でレスリー・フィードラーが、アメリカ文学の特徴として(成熟した異性愛を描けないとして批判的に)指摘していたものであり、メイスンの論文はフィードラーが上述の「ポルノまがい」の探偵小説家としてチャンドラーの名をも挙げたことへの異議からはじまっている。現に、チャンドラーの小説は、フィードラーの本の一章で典型的な一例とされてもおかしくないほどだ。

 性的なものを潜ませた「同性愛[ホモエロティック]の物語」としてフィードラーが挙げるのは、実際には性交渉を持たない男たちの関係で、たとえば長々と分析されているのはおなじみ『白鯨』のイシュメイルとクィークェグの場合だ。彼らの結びつきには「結婚」という比喩が使われているが(これはつい先立っての『鋼鉄三国志』を思い出させずにはいない)、十九世紀のアメリカでは、男同士の関係は「邪悪な女」に対する防波堤と思われていたというのだから、ミソジニーもいいところで、一方、同性間の性関係は想像すらできないほどにホモフォビア(この言葉は使われていない)が強かったということになろう(男同士の関係なら純粋、つまり肉体を欠いているので安心という言説は、ほとんど女同士について言われているのかという錯覚を起こさせる)。

 ホモソーシャルという用語もなかった時代に書かれた本なので、フィードラーは、実際の性関係を含む「ホモセクシュアル」に対しては「ホモエロティック」という語を対比させている。「……私は、ある作中人物やその作家たちが男色に耽っていると主張しているのではないことをはっきりさせたかったのである。それ故、できる限り、「ホモエロティック」以上に耳障りな「ホモセクシャル」を避けたのである」

 だが、この言明の直後に「(翻訳では区別しなかったことをお断りする――訳者)」と、抑圧したものが行も替えずに回帰しているのには笑わされる。つまり、すべてを「同性愛」としてしまったということだろうが、なかには「ホモエロティック」のルビも見られる。

 ホモセクシュアル/ホモエロティックの対比は、少々手垢がついてきたホモソーシャル/ホモセクシュアルの対と較べても、かえって新鮮に見えるような気がしてきた。というのは、やおいはホモソーシャルをホモセクシュアルに読み替えるなどとこともなげに言われてしまう昨今だが、それ以前に、身体を交えずとも「ホモエロティック」がないことには(それが感じられないことには)、そもそもそのような読み替え自体ありえないからだ。「やおい」に性的描写はなくてもいい、かえってほのめかしにとどめた方が好きだ、あるいは、やおいはポルノではないと主張する人々がいるのも、そうした「ホモエロティック」に魅了されるあまりだろうと私は理解している。

 ところで、ホモソーシャル/ホモセクシュアルの違いを知るまで、自分は男性同性愛者を、女を差別するものだと思っていたという上野千鶴子は、当然のことながら「ホモエロティック」には惹かれないのだろうが、そもそもホモソーシャル/ホモセクシュアルの関係をどうとらえていたっけ? と思っていたら、おあつらえむきの答えがウェブ上にあった。

http://www.kinokuniya.co.jp/02f/d05/scripta/nippon/nippon-2.htm

 上野さん、フロイトが生物学的決定論でないことをいつ理解したのか? 名前が出てくる斎藤環に教わったのか? 

 ついでに言うと、私が一つ前のエントリで引用した高橋睦郎は、三島、美輪とともに、上野さんが彼らしか知らなかったために男性同性愛者=女性差別主義者と「かんちがい」したという三人組のひとりである。 彼の名前だけ覚えてない人がいるので念のため。

 これはあとで利用するとして、もう一つ、偶然見つけたものを下に貼っておく。千田有紀さんのブログだが、「ホモエロティック」を感じられない体質の女がBLを読むというケースをよくあらわしているように思われた。「ホモエロティック」を知るのにBLというジャンルに出会う必要はない。「やおい的感受性」は早ければ物心ついた時にはもう「構築」されている。

 冒頭で「前の『腐女子~』」と言っているのはユリイカの一冊目の特集「腐女子マンガ大系」のこと。男‐男に感応しないのなら、ヘテロセクシュアリティに対する批評(「男女の間にあるさまざまな関係が逆に照射されてきて」)としてフェミニスト的に読むしかあるまい(それが悪いというのではない)。

 なお、ここ(これは続きもののほんの一部)で行なわれている批判自体には賛同する。というか、批判する価値もない対象と思うが。

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(以下引用)http://blog.goo.ne.jp/yukizoudesu/e/3fdfcc5998f42669f709fc43f8791718


前の『腐女子~』を読んでわたしが衝撃を受けたのは、BLの読まれかたの違いに気づかされたところです。本当に読みかたって、多様なんだなぁと。確かに、「BLはポルノ」という言い方をされることがありますが、自分は少女マンガの延長で読んでいたので、この「ポルノ」っていういいかたは、「メタファー」だと思っていたんですよ。いや本当に、上品ぶるわけではなく。ところが、本当に「ポルノ」として読むという読み方があるんだ、ということを突きつけられて、眼から鱗というか、何というか、衝撃、としかいいようがありませんでした。

そうか、ポルノだと考えれば、人前でBL読むとかいいにくいよなぁ…。なんだか妙に納得。わたしは社会学者なので、「実にジェンダー論的に面白い」というか、読んでいると、男女の間にあるさまざまな関係が逆に照射されてきて、面白いなぁと思って読んでいるという自己正当化ができるからかもしれません(いや単純に面白いんですよ、作品として)。でも本当にびっくりしたんです。

考えてみれば、24年組→白泉社系で、ひとまずピリオドを打ったわたしの読書経験としては、BLに触れたのは、今度は30を過ぎてからなんですよね。この年になったら、(あの程度では?)ポルノとしては機能しないんですが、中学生とか高校生には確かに刺激が強いのかも…。そしてその頃から読んでいる読者がそういう読みを身につけていても、なんら不思議ではないですね。

あと、やおいとBLは違うんだなぁとも思いました(相対的にですけれど)。金田さんはやおい同人誌が好きで、商業誌はそれに較べるとあまり好きではないとおっしゃっていたけど(知っている後輩に「おっしゃって」とかいうのもなんか照れ臭いですが、ここでは敬意を表して敬語に)、わたしはやおい同人誌を作っているひとは楽しそうだなぁと、同人活動を羨ましく思いますけれど、作品としては同人誌はあんまり好きじゃないんだろうなぁ。商業誌にやおい同人誌的なものが出てきた(尾崎南が『マーガレット』に連載開始とか)ときに、わたしはこの手のものから離れたのは、偶然じゃないと思うんですよね(あ、やおい=同人誌、BL=商業誌って本当に乱暴なくくりですけれど、ここでは暫定的に)。
(後略)
by kaoruSZ | 2008-03-25 07:18 | やおい論を求めて | Comments(0)