おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

女がゲイ文学読むのもやおい

「やおいはポルノではない」とう言明と同様(むろん、すべてのやおいがポルノというわけではないが)、「やおいとは火のないところに煙を立たせるものだ」という文句にも違和感があるが、それは、そうであれば「ホモエロティックなもの」は「腐女子」の妄想、でっちあげ、〈自律〉したファンタジーで、責任はゲイ男性を好き勝手にrepresentした彼女たちにあると非難することにつながるが、事実は違う――これも前々回書いたように、チャンドラーの小説レヴェルで、すでに火は燃えさかっているのだから。

 昨年放映されて私自身のいわゆる二次創作(とは私は呼ばないのだが)の素材にもなった『鋼鉄三国志』について、あれはやり過ぎ、あそこまでやられるとかえってネタにできないという声があると聞いて違和感はさらに強まった。彼女たちは何を言っているのか。確かに「ねらっている」のは明らかとはいえ、あの程度(やおい度)のものなら、過去の映画やドラマや小説にいくらでもあろう。だが、そうしたメインストリームの作品と違い、いったん「腐向け」に分類されれば公然と非難してもよくなる。だから、『鋼鉄』本篇がニコニコ動画にアップされると、「腐女子」こそがホモエロティックな表象の担い手と決めつけた(「腐女子自重!」)、ホモフォビックなコメントが絶えなかった(むろん、楽しいコメントもいっぱいあったが)。

 要するにそこではホモフォビアは腐女子フォビアの形を取っていたのだ。腐女子フォビックな書き込みをする者は、自分のホモフォビアを、ゲイ男性ではなく「腐女子」にぶつけ、「ホモエロティックなもの」と女性の性欲を二つながらに本気にしなくてよいものとしして嘲りながら抹消することができたのだ。友人の言葉を借りれば、マジョリティ(ヘテロセクシュアル)の中のマイノリティ(女子)が一番叩きやすい。むろん、この場合、腐女子は全員ガチへテロで自分の願望を男同士に仮託している云々といった思い込みが前提としてある。

 だが、『三国志演義』でさえすでに「ホモエロティックなもの」を不可欠の構成要素としていたのであり、その書き手は(腐)女子ではありえない。



 前々回に引用した千田有紀さんによる森川論文(『ユリイカ』のBLスタディーズ特集所収)批判を、全篇通して読んだ上で、批判対象である「数字で見る腐女子」も読み直した。(男の)一般人対(男の)オタクという対立の図式をそのまま女にあてはめて、その女ヴァージョンとしての一般女性対女オタク(腐女子)という対立を無理やり作っているだけの論文であり、千田さんのように「森川さんの論考、こういうことを考えさせてくれるという点で、本当に挑発的で刺激的でした」とさえ言えないが、行きがけに二箇所ばかり、森川さんがいかにこじつけに長けているかその手口を示しつつ、そこから考察できたことをメモしておく。

「女性のためのエロス表現」「女性のための男性同士のラブストーリー」という言葉に対して、森川さんは、それは女性一般のためではないだろう、腐女子のためだろう、そう呼ぶのはアニメ絵のエロゲーを「男性のためのエロス表現」だというようなものだ、一般の媒体でそんなことを書けば「オタクのための」の間違いじゃないのかというツッコミが入るだろう、やおい/BLを「女性のための」と枠付けすることには「特殊な存在としての「腐女子」を後退させようとする力学が働いているように見える」と言うのだが(p.130)、これはわざと日本語がわからないふりをして強弁しているのだろうか。
「エロス表現」とはそれほどまでに「男性のための」ものであるとされてきたので、それとは別のものであることを言いたいがための「女性のための」なんだよと、わざわざ説明する必要があるだろうか?

「女性のため」とことわるのは、そうでなければ自動的に男性のためのものと解釈されてしまうからだ。男のための「エロス表現」はあふれかえっているから、この場合は特に「オタクのための」と細分する必要が生じる。

(なお、森川さんが論考の冒頭でパロってみせた、アクセスよけのためウェブサイトの入口に記す「女性向け」はこれとは微妙に話が別だが、今は触れないでおく。)

 これに続く章で、森川さんは「女性一般による腐女子差別に対しては異議申し立ても啓蒙もなされない一方で、やおいの中のゲイ差別的な表現については「無自覚」な腐女子たちに矛先が向けられ、啓蒙しようとなされる」のはなぜか、という問いを立てる。
 そして、「それは、ひどく単純なことである」といって挙げる理由は以下のとおり。「英米には、女性差別があり、ゲイ差別があり、それらに対してフェミニズムやカルチュラル・スタディーズが異議申し立てをしてきた蓄積がある。しかし、英米の学会には、腐女子差別に関する議論などはまた存在しない」。だから、「「一般」対「オタク」の構図は封殺され、代わりに、「男性」対「女性」や、「ヘテロ」対「ゲイ」の構図が強調的に前面化される」。

 まあ、ひどく単純なのは確かだ。「「一般」対「オタク」、あるいは「女性」対「腐女子」の構図で文章を書くための単語帳や参考書はアマゾンでは扱っていない」って、そんなことで“BL学者”を揶揄しているつもりだろうか。「一般」対「オタク」というのは男の特殊事情で、女の場合にそのまま重ねることはできない。そこまでして腐女子を「女のオタク」にしたいのか。「レズビアン&ゲイ なんとか」と銘打ってゲイ男性の話ばかりし、レズビアンについてはよくわからないからと言いわけしつつアリバイとして女を入れる連中もウザいが、これと比べればわからないと言うだけましに思えてきた。

 しかし、“学者”の揶揄は、私もしたい気がする。それには、次の部分が使えそうだ。

 そうしたやおい論や腐女子論を特徴付けるのは、もっぱら〈女性〉が「男性同士のラブストーリー」を対象にしていることにクローズアップした論述が展開される一方で、その媒体が、漫画・アニメ・ゲーム・ライトノベルなどの、いわゆるオタク系に偏っていることに関して、おおむね不問にされていることである。

〈女性〉が「男性同士のラブストーリー」を対象にしていることにクローズアップした論述が展開されるのは、その齟齬(見かけ上の)にこそ問題の核心があると見なされるのだから当然のことだ。だが、媒体の片寄りに関しては、別の理由があると私は思う。

 それはひどく単純なことだ。やおい研究者たちがまだそこまで手を広げられないから、あるいは、手を広げられない人がやおい研究者をやっているから。商業出版のジャンルとしてのBLにとどめておけば、少なくとも研究としての恰好はつこう。媒体の片寄りは単なるその結果であり、オタクうんぬんは関係なし。

「岩波講座 文学」の『身体と性』の巻で、何をもって〈ゲイ文学〉と呼ぶかについて論じながら、ゲイとは無縁の物語さえもゲイ文学へと変換し、あれよあれよという間に理論上すべての文学はゲイ文学でもあるという地点にまで至る大橋洋一の身振りを見よ。「理論が作品をマッピング」!
 やおいも基本はそれと同じだ。
 
 女が明示的ゲイ文学を読むのもやおいだよ! (だから、「やおいとは火のないところに煙を立たせるもの」という言説は違和感なのだ。)
 塚本邦雄をやおいとして読むとか、ユルスナルをやおいとして読むとか、私が言っているのもそういうことだ。

 もちろんそれは差別だ。前にも書いたが、女が関わる場合だけ、それを〈やおい〉と呼ぶのは差別。 
 だからあえて呼ぶ。

 最後に一言――森川論文で驚いたのは、末尾に守如子さんへの謝辞があったこと。守さんの書くものを知っている人なら私同様驚くだろうし、知らない人やあまり知らない人は、論文の著者に賛成なのかと思いかねない。守さんにしたら大迷惑だ。それとも意地悪でやってるのか。
 守さんに聞いたことをどう曲解したのか知らないが、この内容で、「執筆にあたり、格別なご教示を頂いた」なんて書いたのでは守さんに失礼だろう。
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by kaoruSZ | 2008-03-29 22:45 | やおい論を求めて | Comments(0)