おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

表象の流用(the appropriation of representation)について

「もちろん異性愛男性こそが女性イメージを圧倒的に性的な存在としてパタン化し領有してきたことは論を待たない。そのため「女の側だって少しくらい好き勝手してもいいのでは」という声もある。ただしもちろん、そういった考えは溜飲を下げる以上の効果はもたらさず、生産的な批判ではない、と考えられている」
           石田仁「ほっといてくださいという表明」
            『ユリイカ』2008年12月臨時増刊号 総特集BLスタディーズ

 
 石田さんはこのように述べるが、男性による女性イメージの「領有」は、なにも“異性愛男性”に限った話ではない。かなり以前のことになるが、タレントのピーコが、深夜番組で「爆笑問題」相手に、「[ピーコは]女らしい」「ピーコさんてほんとに女なんだね」といった反応を引き出すような自己規定を繰り返し、好きな男の顔を見ているだけでいい、何もしなくてもいい、と自らがrepresentする女性主体の脱性化(これは異性愛男性による性的対象としての女の“パタン化”と矛盾しない)をはかりつつ、ホモフォビックなヘテロセクシズムの強化(問題なのはピーコが現実に女ではないことであるかのように言われ、ピーコの男への愛は女が男に対する愛と同じものとされる。すなわち、“真の”男から男へ向ける欲望は存在しないことになる)を行なっているのを目撃したことがある。ゲイ男性が女性性をも兼ねそなえた存在としてふるまうことで、かえって生物学的女性の本質化が進められるのはよくあることだ。はなはだしい場合は生物学的女性に向かって女の道を説きはじめるし、それをもてはやす女もいる。

 かくも完璧な女性性の横取りと押しつけが横行する中で、「女の側だって少しくらい好き勝手」とか、「溜飲を下げる」というのは、あまりリアリティのある言葉とは思えない。そんなことではどうにもならないほど男の側からの領有は凄まじいのだが。そして、ピーコがこれだけやっても何も言われないのは、言うまでもなく男だからだ。だから少しぐらい、と私は言いたいのではない。この非対称を前にして言葉を失うのではなく、下記のように饒舌になることが信じられないと思うのだ。

「いったん「他者」として切り分けた存在を、「私」との関係で非対称に配当し、お決まりのパタンでくり返しイメージした後に葬送する。この表象の横奪の問題は、現代(ポスト植民地時代)の諸研究で、すでに重要な論点として認識されている。たとえばハワイ、スペイン、沖縄が、経済的宗主国によってリゾート地として創出-消費(開発)」されてきた経緯があり、しかもこの「開発」は現地のイメージを一方的に創出-蕩尽する営みと密接不可分だった。とすれば、「女ではない他者」のイメージをパタン化し領有するやおい/BLも、微睡みの中にいることは許されない」(石田、前出)

 女にとって男は「他者」だろうか。とんでもない。男にとって「他者」とされてきた女は、それ以外に自らのイメージを持たず、そこから抜け出すときには「男」となるしかない。なぜなら、女ではないものこそ「男」とされてきた(それゆえ男はなんとしても自らが「女」の位置におとしめられることを拒む)からだ。「男」との関係で非対称に配当され、お決まりのパタンでくり返しイメージされた「女」とは空虚な存在であり、一方、「男」の側にはすべてがある(ように見える)。権利がないのに占有した領域で、女がなりたいのは「女ではない他者」ではなく、「女ではない主体」だ。(エロティシズムの観点から言うなら、そうした主体こそが、主体が崩壊するときの、すなわち「受け」としての十全な享楽を持ちうるように思われる(幻想される)。男によって“パタン化”され領有されてきた女には、まず、この意味での主体がない。したがって彼女にとっての「他者」もありえない。

 上記の引用で、石田さんは、やおい/BLを、女が「他者」を植民地化しているありさまとして描いている。「リゾート地として」「現地のイメージを一方的に創出-蕩尽する営み」であると。しかしこれは、あまりにも男女の権力関係を無視した、男→女を女→男へ単純に反転させただけの安易なやり方ではないか。私は以前、ある発表(残念ながらやおい研究ではなかった)で使うためにappropriationという概念(石田さんが表象の横奪と言うときの「横奪」)について、文化人類学が専門のMさんに教えを乞うたことがある。それによればappropriationとは、たとえば宗主国から《「押しつけられた文化イメージを現地で逆手にとって観光資本にするとか、「グロテスクな大文字の他者としての我々」イメージをとっかかりにした》文学作品を書くとかいう意味でも使われるということだった。すでにある資源を加工して、好きなナラティヴに再構成する――やおいもこの文脈で語れると思うという彼の言葉に力を得て、以来私は好んで「流用」という訳語を使ってきた。

 文化資本を持たない女は、男の表象を流用して(それは男から見れば簒奪であり、権利のない占有/領有だ。“女の分際で”“身の程知らずに”そんなことをしているのだから)やおいを書く。だが、それは男を植民地化しているのではない(そんな力があるわけがない)。男についての表象資源はけっして当事者だけのものではなく、《あらゆる立場からのあらゆる目的での流用に「開かれている」》(Mさん)はずなのだ。それが具体的な場でどう働き、どのような意味を産み出すかは注意深く見ていかなくてはならないだろうが。

 ポストコロニアル的(って、私は全然詳しくないが)やおい理論の見取図としてはこのようなものを勝手に考えていたので、正直、石田さんのような適用のしかたにはびっくりしてしまった。
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by kaoruSZ | 2008-04-08 02:26 | やおい論を求めて | Comments(0)