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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

1974年のTRANSSEXUAL(5)

(Jan Morris“Conundrum ”についてのノート。ようやく2章へ)

大聖堂の中で

 成長するにつれモリスは、自分が「偽りの生活」をしているとはっきり感じるようになる。本性は女でありながら、男の外観をかぶり、男に化けて生活している——。本性と外観が調和した本来の姿になるために、女の子の身体に移し変えられることを熱望する——こうした考えは、家庭や家族の影響ではなく、オックスフォードの生活によって形成されたのだと、私は思っている。(15)一九三六年、モリスは九歳で聖歌隊員のための学校に入り、オックスフォードの一員になる。中世に創立された少年十六人だけの寄宿学校で生活し、毎日クライスト・チャーチの大聖堂での礼拝に参加することになったのだ。私を作りあげたのは、オックスフォードである。(16)とモリスは言う。

クライスト・チャーチでの生活は、私の内部に、処女崇拝の感情を育てあげていった。この、奇跡と脆弱さに対するあこがれが、ゲーテの『ファウスト』の最終行に「われらを引きあげて行く」と述べられている「永遠の女性」——真の女らしさに対するあこがれと同一のものだということを、私は後になって気がついたのである。(17)

 先回りして言うと、2章の最後でモリスは、性を転換したいという衝動は、ふつうの人には、奇怪なものに思えるかもしれない。けれども、私は、それを、恥ずべきことだと思ったことはない。不自然なことだと思ったことさえない。私は、まったく、ゲーテと同意見なのである。(28)と述べている。女性性へのあこがれ、それが、女を対象とする男からのそれではなく、あこがれの対象になることへと変換されて語られるのだ。3章のはじめではこうも言う。「もしかしたら、男の子はだれでも女の子になりたいと思っていて、私のように悩むのがあたりまえなのではないだろうか? こんな考えがときどき私の心をとらえることがあった(……)歴史も宗教もマナーも、そろって、女性を崇高な讚えられるべき存在として扱っているのだから、そういうことも十分あり得るような気がしていた

 だが、真の女らしさとは何であろう。それについて考える前に、モリスが例によって官能的な文章で描き出す、オクスフォードの美しさを見てみよう。聖歌隊の少年たちが午後になると遊ぶ運動場が気に入りの場所だったとモリスは語り、マーヴェルの「庭」を引き合いに出す。そこはまさしくモリスにとってのエデンだった。

隅の方に大きなクリの木が三本あって、むせるような甘い香りに満ちた静かな夏の昼さがり、私はよく、その木の下の丈の高い草むらの中に寝ころがって、誰に見咎められることもなく、恍惚とした時を過ごした。カエルがあちこちで跳ねまわり、私を飽きさせなかった。目の前の草の上では、バッタが身を震わせていた。オックスフォードの鐘が、ものうげに時を告げた。(……)マーヴェルは、エデンの園もアダムが一人だけで散策している時が最もすばらしかったにちがいないと述べているが、私が今日までに、いくつかの都市をはじめ、土地、風景などに対して感じてきた陶酔は、まさに性的なものだたといっていいだろう。それは、肉体的な性的感覚よりも純粋で、しかも、激しさに於いてけっして劣ることはなかった。この、手軽に得られる、やや歪んだ陶酔に私が親しむようになったのは、あの遠い昔の、むせるような薫りに満ちた(……)オックスフォードの夏の午後以来なのである。(20)

 イヴのいないアダムならぬ草むらの中でイヴになりたいと夢見る幼いアダムは、はるかな未来にその願いを叶えることになるだろう。しかし彼女のアダムを得ることはけっしてない。そのことは、だがその追い求めるのが「肉体的な性的感覚」ではなく、むしろ処女崇拝、処女のまま母親になることであったと知れば、さほど不思議ではないかもしれない。

 大聖堂での礼拝のあいだ、モリスは我が身に起こっている神秘的な現象について思いに沈む。(24)本当にキリスト教を信じたことは一度もないと言いつつも、「性転換症がしばしば神秘的な装いを帯びる」という学者の指摘を紹介し、性を超越した人々を古代人が神聖視したことや、自分の親しい友人たちが、「私の苦悩の中に一種の啓示のようなものを見出している」ことを引き合いに出し、他のどこよりも、大聖堂で、自分の謎に没入するようになったと言う。(25)
 
 毎日、大聖堂にいるあいだだけは、自分の本来の姿に立ちかえることができた。子供なりに、一種の解脱の域に達していたといっていいだろう。ピンクと白と緋色の礼服につつまれ、音楽や言葉や装置に啓発されて、私は少年であることを離れ、神聖で無垢な境地をさまよっていた。あのクリの木の下での陶酔よりも直接的ではなかったが、もっと完全に解放されていたその恍惚境に、私は今でもあこがれている。おそらく、修道女たちも、このような境地を味わっているのであろう。(26-27)

 いつの日か、身体の殻を脱ぎすてて自分の本来の姿になること——(27)確かにこれはそのまま修道女たちのものだとしてもおかしくない願いではあろう。

 大聖堂の心がそれを是認し、私の願いを完全に理解してくれていることを、私は確信していた。どうして、そうでないわけがあろう。礼拝は、その最も崇高な側面で、私が女の本質だと考えているものを切望していたのだ。また、私たちの礼服自体私たちの男らしさを否定しているように思えたし、すべての福音書の中で不思議で優雅な存在として扱われている謎の存在・処女マリアこそ、キリストの物語に現われる人物の中で最も美しく、キリスト本人よりもはるかに完全で神秘的だと、私には思えたのだから……。(27) 

「そして神よ、どうか私を少女にしたまえ。アーメン」(27)祈りの言葉のあとの一瞬の沈黙のあとに、モリスは胸の中で唱える。けれども、神がどうやって私を少女にするのかなどということは、まるで考えていなかった。自分の願望の内容を、詳しく具体的に考えたこともなかった、だいたい、裸の女体などほとんど見たこともなかったので、男女の身体がどう違うかということさえよく知らずに、理屈ぬきで、ただ本能から祈っていただけだったのだ。(28)

 問題の本質が性器の違いでなければ、性器はそのままで「女」として生きればよい(それが可能なら)とも考えられるが、性器がそのままでは他の人々から「女」として扱われないので、そのことが問題なのか? やがてパブリック・スクールに進学したモリスは生殖について詳しく学び、また上級生たちの愛の対象とされるが、そうしたことが彼の確信にどう影響することになるか、それは次回に。〔2章は1回で終り!〕
by kaoruSZ | 2004-11-06 09:46 | 読書ノート(1) | Comments(0)