おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

子供たちの時間

 十月初めにかけて、池袋新文芸坐でまたも日替り成瀬特集。28本のうち結局12本見る。(ただし『石中~』は嫌いなのでほとんど睡眠にあてる。)


9/24日(水) 石中先生行状記(1950) 夫婦(1953)

26日(金) 妻の心(1956) あらくれ(1957)

27日(土) 流れる(1956) 乱れる(1964)

28日(日) 晩菊(1954) 女が階段を上る時(1960)

10/1(水) 女の座(1962) 女の歴史(1963)

3日(金) 秋立ちぬ(1960) 乱れ雲(1967)


「カルチャー・レヴュー」に書いた分で間違いいくつか見つける。『あらくれ』の舞台は明治でなく大正。「成瀬巳喜男の日々の砕片[かけら](3)――終りへ向かって」で、 

この直後、室内で司が加山に向かって口を開くまで、階段の上と下の場面以降、私たちが耳にした科白といえば、事故現場を見たときの運転手の声と、「あなた、しっかりして」と叫ぶ女の声だけで、実にここまでのあいだ、主演の二人には一言も科白がありません

と書いたが、実際は旅館の玄関で部屋があいているかと問う加山の声があったのだった(二人は一言もことばを交わさぬ、ならよし)。運転手の科白、「事故だな」ではなく「やっちまったな」だった(たしか)。

 次回の「新・映画館の日々」(@『コーラ』)は、「カルチャー・レヴュー」で書き継いだ「成瀬巳喜男の日々の砕片[かけら」」を一応締めて最終回にしようか。だったら副題は「子供の時間」か。

 久しぶりに『女の座』。これも同じ高峰秀子主演の『乱れる』同様、個人商店にかげりが見えはじめた時代の話だとあらためて気づく。道路計画を聞きつけて、土地を売って入る金の分け前を嫁に行った娘たちまでがねらっているのは、『乱れる』の高峰の義妹が店をスーパーにして自分の夫を経営に参加させようとするのと同じ構図。どちらの作品でも、長男の寡婦として家のために尽してきた高峰には、これ以上縛りつけていては気の毒と恩着せがましく再婚が奨められる。

 核家族以前のこれらの家の中で、「嫁」は後継ぎとの関係でのみ安定した「座」を得ていた。『乱れる』では、高峰が嫁いできたとき次男の加山雄三はわずか八歳、夫の戦死後、一人で店を守って戦中戦後を生きた彼女は結局のところ義弟の成長までの中継ぎとしか見なされていなかったのだし、『女の座』の高峰もまた、一人息子の死によって「家」との最も強い(そして唯一の)紐帯を失うことになる。後者の場合は、笠智衆の舅は実の子供たちの狂奔をよそに、後妻の杉村春子とともに高峰を連れ出し、土地と店を売ってこういう小さな家に三人で住むのもよかろうと道端の一戸建てを指し示す。お嫁に行くとしてもその時はわしらの娘として、と。

『女の歴史』では、男(夫、子)が女たちを結びつける(だから男の子しか生まれない)。賀原夏子が言うように、彼女の孫である高峰秀子の息子が不慮の事故で死ぬと、彼女たちは再び「赤の他人」に戻る(この家でお義姉さんだけが他人とは、『女の座』の高峰にも向けられた言葉だった)。この作品では、しかしこのとき、死んだ息子と同棲していた(彼が入籍もして「くれて」いたという)星由里子があらわれて産んだ男の子が再び三人の女を結びつける。

『秋立ちぬ』の子供たちはこうした法則を知らないから、好きな相手でさえあれば家族になれると思っている。父に死なれ、信州から母とともに上京して八百屋をいとなむ伯父のもとに身を寄せた少年は、母が住み込みで働く旅館の娘と仲良くなる。母親、乙羽信子が客の加藤大介と駆け落ちしてしまったとき、少女は彼を自分の家の子として迎え入れたいという当然の望みを持ち、少年に対しても母に頼んであげると請け合う。母に一蹴されても彼女はあきらめない。父が承知すれば母の反対は問題ではないと思い、父が彼女の望みを拒むはずはないと信じている。

 裕福なお嬢様に見えた少女だが、実は旅館は、大阪の「本宅」から会いにくる父が、妾である母にやらせているものだ。だから、父親に望みを叶える力があると見るのは正しいのだが、「赤の他人」の男の子を兄にと望むのがどれほど突拍子もないことか彼女は知らない。大阪の兄と姉の彼女に向ける目は冷たく、父親は彼女の願望を理解すらできない。馬鹿げたお願いで父をわずらわさないよう、彼女は母に叱責される。そのとき母は、金にならない旅館を手放して二人を郊外の共同住宅へ移すという一方的な計画を告げられているところだったのだ。

 デパートで夏休みの宿題の昆虫標本を買おうとした少女を止めて、少年は自分の宝物である生きたカブトムシを貸すことを申し出るが、その直後カブトムシが逃げてしまったと知る。代りの虫を見つけるのが夏の終りまでの少年の課題になる。それは流通する交換可能な商品ではない、絶対的な贈り物になるはずだった。八百屋の店で働く従兄と最初に行った先では見つからず、休みの日に郊外へ連れてゆくというその約束の日、バイクで現われた仲間に誘われて、従兄は彼を置いて走り去ってしまった。

 オートバイとともに希望の遠ざかりゆくまさに絶対絶命のこの時、奇蹟のように(というか、ほとんど冗談のように)彼の希望はかなえられる。信州の祖母から送られてきたりんごの箱を伯父があけると、そこにカブトムシが一匹紛れ込んでいたのだ。食い切れないだろうから少し店に出さないかと言う伯父にはりんごもまた商品なのだが、少年にはカブトムシしか目に入らない。彼はさっそく少女の家である旅館に向かう。しかし、旅館の外には引っ越し荷物を満載したトラックが横づけされており、家の中はは空っぽになっている。少女だけでなくその場所自体が、消え去ろうとしているのだ。カブトムシの先に実はあった目的の消失。少女の両親の会話から観客には何が起こったかがわかる。しかし、少年には物語も大人たちの都合も見通せる場所にはいないからこれは限りなく理不尽な出来事だ。

 彼はデパートの屋上に上る。そこは以前少女と遠い海を見たところだ。青く見えない、しかし近くへ行けば青いと少女が請け合う海を見るべく、彼らはタクシーで(旅館の娘である彼女は運転手につけがきく)勝鬨橋を渡って晴海へ向かった。「遠い場所」は着いてみれば黄色っぽい水の打ち寄せる埋め立て地で、夜を迎えた彼らは家に戻るしかない(そして少年は足を怪我し、二人は警察に送られて戻ってくる。この怪我のため、カブトムシを持って少女のもとへ急ぐ少年は足を引きずっている)。屋上の少年はもはやどこへも行けず、少女の行方を知るすべもない。

 カブトムシを渡すべく少女のもとへ向かう少年の姿は、『まごころ』(1939)の少女・富子が、やはり幕切れ近く、人形を抱えてもう一人の少女・信子のもとを尋ねようとしたとき、足を引きずっていたのと重なる。しかし、彼女たちの人形はカブトムシのようにその向うに真の対象である相手を有する囮ではない。『まごころ』の人形については二年前に考察しているが、http://kaorusz.exblog.jp/m2005-10-01/ そこでも述べたように、「あなたでもわたしでもない子供」、「半分わたしに似て半分あなたに似た子供」、つまりはあたかも彼女たち二人のあいだに生まれたかのような女の子であるからだ。彼女たちの考える家族とその起原は、大人たちの考えるそれとは大いに違う。二人の知識は、父と母ははじめから家にいるものではなく別々の家にいた者が家族となる(『秋立ちぬ』の少年少女は兄妹にもこれが可能だと思っていた)、お父さんは誰かの娘でお母さんは誰かの娘だったのが一つの家に住むようになる、とまではわかっているのだが、「お母さんはお祖母さんの娘だったし今も娘で、だから一緒に住んでいる」という富子の科白は、「女の座」が問題となることのない、家父長的家族ではない彼女自身の家族のことを指している。無論それは規範からは外れるので、富子の母に嫉妬した信子の母(彼女の夫と富子の母はかつて恋仲だった)が言うように彼女は父のいない子である。彼女たちが母親として可愛がるのではない、人形遊びをするにはいささか大き過ぎる彼女たちによって抱えられ、二人のあいだでやりとりされる彼女たちの分身である大き過ぎる人形は、男女のではなく彼女たち自身の絆の実体化に他ならないのだ。
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by kaoruSZ | 2008-10-10 18:38 | ナルセな日々 | Comments(0)