おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

「今日からあんたの旦那はあたしや」

 先週から新文芸坐の加藤泰特集に通ううち、加藤泰について書かれたものを読みたくてたまらなくなり、夜中に本棚を漁るが見つからない。代りに「シネティック」創刊号(1993)というものが出てきて、未読だった松浦寿輝の「横臥と権力 溝口健二「祇園囃子」論」を読んだ。

 加藤のフィルムでもワイド・スクリーンの手前に横たわる人物(たいていは死にかけている)は目立つし、修善寺の大患の漱石に似て一言も喋らず指一本動かさぬままその傍に人々を引き寄せもするのだが、松浦の論考は横臥一般とは直接の関係があるわけではなく、あくまで『祇園囃子』というフィルムの中では人物の目に見える上下関係が顛倒しており、横たわって下位にある人物が権力を持つというのが趣旨だ。その分析は例によって見事なのだが、それとは別に思ったことがあるので記しておく。

『祇園囃子』では旦那を持たない芸者の小暮実千代が少女若尾文子を引き受けて舞妓としてデビューさせるが、言い寄った客・河津清三郎の舌に若尾が噛みついてしまい、二人は祇園のお座敷を乾されることになる。この事態から脱出するため、小暮は嫌っている客と寝る羽目になるのだが、その翌朝、住まいに帰ってきた小暮は若尾にこう言う。
「今日からあんたの旦那はあたしや」
 この科白は昨年はじめて『祇園囃子』を見たとき、目のさめるようなものと私には思えたのだが、これを松浦は次のように言う。

小暮が若尾を抱き起こしながら言う「今日からあんたの旦那はあたしや」というセリフには、決定的な救済の不可能を暗示する微かに陰惨な調子が滲んでいるように思う。

 さらに松浦はこう続ける。

むろん小暮は若尾に対して専横な権力を振るうつもりはなく、若尾が自由な意志で生きてゆくことを助けるべく庇護者になってやると申し出ているだけなのだが、それにしても、そのことを言うために「旦那になる」という譬喩が口をついて出るところに、祇園で舞妓を続けるかぎりは多かれ少なかれ権力の空間にしがらみになって生きていかざるをえないこの女の、存在論的悲哀が滲み出しているとも見える。

 たしかに、そう「見える」のだろう。これはたとえば、ブッチとフェムなどという役割分担をするレズビアンは異性愛をなぞっているにすぎないと主張することと似ているかもしれない。「女の旦那に女がなる」ことへのシニカルなこのまなざしは、それを向ける者が、その言葉であらわされるものを現実的なものとも希望とも受け取っていないことがたんに露呈しているとも思える。

ここでは権力の観念がなお希薄に温存されながら、しかし単に第三者による権力の直接行使から解放されているというだけのことなのではないのか。そこには、主人と奴隷、君臨する者と仕える者との差異と対立関係が、依然として生き延びていると言うべきではないのか。ラストで夕暮れの京の町を並んで歩いてゆく二人の、毅然とした晴れやかな表情に漲っている自由と独立独歩の印象は、あくまで仮初のものにすぎないのではないのか。

 たしかにそれはつかのまの、刻々に色を失う夕べの空にも似たかりそめのものにすぎなかろう。「『祇園囃子』とはこれを要するに、或る男との性交を誰も彼もが小暮実千代に迫り、彼女がついに屈服するまでの物語である」(松浦)とさえまとめられうる作品にあって、若尾文子の貞操を結果としては守った小暮が「今日からあんたの旦那はあたしや」と宣言したところで、若尾が「祇園で舞妓を続けるかぎりは」遠からず本物の旦那を持たなければならないことは必定であり、小暮自身、“屈服”して戻ってきたばかりなのだから、これがかりそめの、つかのまの勝利でしかないことはあまりにも明らかなのだ。

 それでも、いや、それだからこそ、その「毅然とした晴れやかな表情」は私たちの胸を打つとも言える。それはけっして負け惜しみなどではない。「夕暮れの京の町を歩いてゆく二人」はけっして〈外部〉に出られたわけではないと松浦は言う。小暮の口から出る「旦那」の一語にしても、まさに権力関係に汚染された〈内部〉の言葉そのものだろう。

 だが、それ以外のいかなる言葉が小暮に可能だったというのか?

「今日からあんたの旦那はあたしや」――小暮の科白は、同じフレーズが男の口から、たとえば「今日からおまえの旦那はオレや」と言われたときとは決定的に違う。それは単純に、女は男と同じ立場にはけっして立てないからだ。だからこそ、小暮の「今日からあんたの旦那はあたしや」には意外性があったのだし、そこにはまた、いかに微かなものであろうと、「旦那」という語の意味そのものがズラされてゆく可能性があったのだ。

 女が女に権力をふるうのに「旦那」である必要はない。料亭の女将浪速千栄子は、小暮を金で縛り、祇園のお座敷から彼女と若尾を閉め出して「或る男」との性交を彼女に強いる一人に他ならない。何とも憎憎しい演技のこの祇園の権力者を小暮は「おかあはん」と呼んでいるのだが、この、擬似母娘的権力関係をも、「旦那」の一語の意外性は超えてゆくだろう。「決定的な救済」にも、また〈外部〉にも至らずとも、それは「今日から」可能なのだ。

 女同士の権力関係は、舞妓にしてくれと頼みに来た若尾と小暮とのあいだにも明らかに見てとれる。「少女の性的魅力を半ば男の眼で品定めする小暮実千代のまなざし」と、若尾を立たせて座った姿勢でそれを見上げる小暮の「下から上へ」のまなざし、「そこに権力関係が成立する」と松浦は言う。

 だが、たとえばレズビアンとは、「半ば男の眼で」女を見る女のことであろうか、と問うことができよう。初めてのお座敷から戻って畳に横たわるポジションを取ったきかん気の若尾と立ったまま(この作品にあっては下位のしるしということになる)の小暮という配置ののち、本来の小暮上位と若尾下位のシーンという逆転した反復が行われることについて、「横たわる姿勢の律義な反復」はあたかも「物語を統御する非人称的な意志そのもの」のように行なわれていると松浦はそっけなく言うのだが、 「目上と目下の権威の関係はむしろ姉と妹のような親密で情緒的な血縁意識へと転じており」と松浦自身も認める二人の関係におけるこの反復は、女同士の関係が相互的、互恵的なものであり、木暮を手に入れようとする男のように、やってきた小暮に対して横臥したまま、自らの足袋を脱がさせるというような一方的な権力者のふるまいではありえないことを示しているのではないか。
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by kaoruSZ | 2008-10-30 22:27 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)