おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

お知らせとメモ

 8月18日付の記事で、鷲谷花さんの「複製技術時代のホモエロティシズム」が読めなくなっていると書きましたが、鷲谷さんご本人から、下記に再録した旨、書き込みをいただきました。

http://d.hatena.ne.jp/hana53/20081010/1223647850
http://d.hatena.ne.jp/hana53/20081017/1224253971

 某所での「話題提供」でこの論文は実際に資料にしました。そのこともまとめておきたいのですが、とりあえずははその一部だけ。

 私が鷲谷さんの〈やおい文化〉という包括的な捉え方に注目したのは、『ユリイカ』の特集に(も)顕著な、「腐女子」という種族化や「BL」という商業ジャンルへの限定化に対抗しうるものだと思われたからです。

『ヴァン・ヘルシング』の、ふたりの男性の身体の相補的かつ同質的なエロティシズムの表象と、女性の身体の存在感の抑制も、このやおい/slashを愛好する観客層を多分に意識した措置のように思われます」「そんな少年たち、男たちは、友情から家族愛から屈折した兄弟愛から師弟愛から主従の愛からライヴァル関係まで、露骨にセクシュアルな肉体関係を除くありとあらゆるエモーショナルな絆で結びつけられているうえに、傷の手当て、肉体的・精神的苦痛へのいたわり、戦いの最中の助け合い、死にゆく友への親愛のしぐさなど、濃厚なスキンシップの描写が全編に詰め込まれて、観客の「やおい」リビドーをたえず補充するという仕掛けになっていました。

 鷲谷さんがこのように述べる、何らかの大義に身を捧げる男同士の「エモーショナルな絆」とは、これまでにも数限りなく表象されてきており、そもそもは男のためのもの――男性読者/男性観客の胸を熱くさせるものでした。その隠されたエロティシズムはわかる人にはわかる――〈女〉がこのわかる人に入れられていなかったのはいうまでもありません――というものだったのです。女はそれを資格のないままひそかに流用していたのですが、「やおい文化」はこの流用を顕在化させ、注目を集めさせることになりました。

「コーラ」の次回の拙稿について何度か予定を書きましたが(とりあえず自分を拘束しないと書けないもので)、結局、女性表象ではなくて、セジウィックを読み返しながらの「ホモソーシャリティ再考」といったものに落ち着きそうです。枕は、加藤泰の「車夫遊侠伝 喧嘩辰」です。上のトピックもそこに組み込まれることになるかもしれません。

 以下は、セジウィックについてのメモ。

 セジウィックは、ホモセクシャルと異なるものとして、ホモソーシャルという概念を立てるのだが、よく読んでいくと、ホモセクシャルとホモソーシャルの区別はむずかしい、ともある。こうまでいろいろいわれると、ついに何もいっていないのと同じになる(…)(小谷野敦『帰ってきたもてない男』)

などという事実は全くありません。'Between Men' の3ページですでにセジウィックは、「ホモソーシャルとホモセクシャルとの連続体がもつ潜在的な一体性」を言い、「ところがわれわれの社会において、この、連続体の男性に対する可視性は、根本的に粉砕されてしまう」と明確に述べています(訳文は1996年の「批評空間」に載ったリヴィア・モネによる中上健次論のエピグラム註記から拾ったもの)。

 いわば未分化の「エモーショナルな絆」、セジウィックのいう「ホモソーシャル連続体」から、ホモセクシュアリティが顕在化すると同時に排除される歴史的瞬間は、セジウィックによって次のように描かれています。原文と邦訳(『男同士の絆』)を順に示しますが、どうかこの邦訳を見てセジウィックを読むのをあきらめないで下さい。

... it is this hating homophobic recasting of the male homosocial spectrum--a recasting that recognizes and names as central the nameless love, only in order to cast it out--that has been most descriptive of the fateful twentieth-century societies, notoriously but by no means exclusively the Fascist.

……決定的に重大な二〇世紀の社会――ファシズムの色は濃いが、すべての社会がファシズム一色とは限らない世界――の最大の特徴は、男性のホモソーシャル連続体が、憎悪に満ちたホモフォビックな見方で鋳直されたという点にある。それは名づけ得ぬ愛の存在を初めて認識して、それを主体という中心的位置に据えて鋳型を作り、改めて今度はその鋳型で型をくり抜き、くり抜いた中身を捨て去るという作業であった。

 参考までに以下に拙訳を。いいかげんなものですが、くり抜いたりとか何とかしなくていいことだけはおわかりになるでしょう。

「……ファシズムで悪名高いとはいえそれのみとは限らない破滅的な二十世紀をよくあらわすのが、この、男性のホモソーシャル連続体を憎悪に満ちたホモフォビックなやり方で作り替えたことである。この作り替えは名前を持たぬ愛を中心にすえて認知し、名前をつけたのだが、それはただこの愛を投げ捨てるためであった。」
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by kaoruSZ | 2008-11-09 10:15 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)