昨日の新聞記事と中世の韻文とが恍惚のなかで溶けあう暗い沼
――松浦寿輝
年末年始に読むつもりで、昨年暮(!)配達してもらいながら、結局、年初めに一部に目を通したきりになっていた『ロートレアモン全集』(石井洋二郎訳、筑摩書房、2001年)を、先日やっと(不完全ながら)通読した。
すでに文庫版も出ていたけれど、「註解」なしの版は問題外だった。以前、図書館で見て、たまたま開いたページの次のような註解の記述に目を瞠り、これは自分のものにしてゆっくり読もうと思ったのであるから――。
カプレッツは謎めいた一連の「……のように美しい」という比喩のうち、「永久鼠捕り器」についての記述は「何か広告の囲み記事を写しとったもの」であろうと推測しており、この作品の中でもおそらく最も有名な「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い」という表現についても、「これら多様なオブジェの奇妙な結合は、何か雑誌の広告ページにそれらが一緒に載っていたことから出てきたもののように思われる」と述べていた。その後四十年間にわたって、この予感は裏付けを得られぬまま単なる予感にとどまっていたが、ルフレールの熱心な調査によって、実際にモンテビデオで発行されていた企業・個人名鑑の広告欄に、ミシンと雨傘、それに解剖台そのものではないが、外科手術の道具の宣伝が(ページは異なるが)同時に掲載されていたことが発見された。(『ロートレアモン全集』497ページ)
本書巻頭に載せられた写真のなかに、この「企業・個人名鑑」の表紙および三ページ分の広告の現物――ミシンと雨傘、手術道具の、ページの上での出会い――が見られる。これはすごい!「この事態をつとに予言していたカプレッツの炯眼もさることながら、彼の予言を本当に立証してしまったルフレールの執念も、驚嘆に値しよう」と訳者の言うとおりである。
ところで、これについて訳者は、「もちろん、この発見がただちに作品の価値を減じるものでないことはいうまでもない。むしろ、普通の人間であれば見逃してしまうにちがいない日常的な細部に意外な結合を見出し、これを「美」へと昇華させた詩人の卓越した感性に、あらためてオリジナリティーなるものの本質を感受すべきであろう」とも書くのだが……うーん、そんなこと言わなければならないほど、「この発見」が「作品の価値を減じる」と考える人って多いんででしょうか? 贔屓の引き倒しに類する文章に見えるし、これに続く部分で行なわれているような、クリステヴァなんぞで権威づけ・景気づけする必要ももとよりないと思うのだが。
解剖台とミシンと雨傘なんて、「意外な結合」なんかじゃなくてたんなる寄せ集め、出まかせ、出鱈目(「企業・個人名鑑」を片手でめくりながらの)、息もつかせぬIl est beau comme に接続されるそれ以外のフレーズも、どう見たって美の形容にならないし、「美へと昇華」されもしない(むしろ、その内容が美とはまったく無関係、むしろ無意味であるところがすごいのだ)。 「意外な結合」とは、この、行きあたりばったりに手にした借り物フレーズを美(この場合は美少年)の比喩として文に組み込み、機能させ、美の形容として有無を言わせず現実化させてしまったことにこそあったのだから――。
彼は十六歳と四か月! 猛禽の爪の伸縮性のように美しい、後ろ頭の柔らかな部分の傷口の不確かな筋肉の動きのように美しい、あるいは、鼠が捕まる度に仕掛け直され、一台で齧歯目の獣を際限なく捕獲でき、藁の下に隠されていても機能する、永久鼠取り器のように美しい! とりわけ、手術台の上でのミシンと雨傘の不意の出会いのように美しい!
『マルドロールの歌』の詩句の出典については、実は私も、ひそかにこれはと思っているものがある。「第四の歌」でマルドロールが髪をつかんで振り回した美少年ファルメールの体が飛んで行って、血まみれの髪だけが手に残る、あれはポーの「モルグ街の殺人事件」の、老婆の殺され方から来ていると思うのだ。(なお、上のはよせあつめの拙訳。)
無惨な遺体で発見された母娘、レスパネエ夫人とレスパネエ嬢のうち、母親の方について、ポーのデュパンは次のように言う。
「(…)炉の上には人間の灰色の髪の毛のふさふさした束――非常にふさふさした束――があった。これは根元から引き抜いたものだった。頭からこんなふうに二、三十本の紙の毛だって一緒にむしり取るには大した力のいることは君も知っているだろう。君も僕と同様その髪の毛を見たんだ。あの根には(ぞっとするが!)頭の皮の肉がちぎれてくっついていたね。まったく一時に何十万本の髪の毛をひっこ抜くときに出すような恐ろしい力の証拠だ」(佐々木直次郎訳)
そして、 「第四の歌」で、マルドロールにつきまとう、ファルメールの記憶は次のように語られる。
(…)ある日のこと、ぼくが一人の女の胸をつきさそうと短剣をふりあげたその瞬間、彼がぼくの手を押さえたので、ぼくは鉄の腕で彼の髪の毛をにぎり、ものすごいスピードで空中をふりまわしたので、彼の髪の毛だけが手に残り、彼の体は、遠心力によって投げとばされ、樫の木の幹にぶつかっていたということを……。(…)彼は十四歳だった。ぼくが精神錯乱の発作にとらわれ、久しい以前から大事にしている血まみれのものを、貴重な遺骨ででもあるかのように、ひしと心臓に押しあてて、野原をこえて走っていると、子供たちが、ぼくの跡を追いかけながら、……子供たちや婆さんたちが、石を投げ投げ追いかけながら、痛ましい呻きごえをふりしぼっていうのである。「あそこにフェルメルの髪がある」と。だから、あっちへやれ、あっちへやれ、亀の甲のようにつるつるな、髪の毛のないあの頭……血まみれのもの。だが話しているのはぼくじしんなのだ。
上記、栗田勇訳ではじめて読んだ時から、このつるつる頭は、「モルグ街の殺人」の恐しい白髪頭が、夢において昼の出来事が変形されるように変形された結果だと私は信じてきた。「モルグ街の殺人」は小学校の図書館で読み、それから何年か経ってはいたが、若年のいまだとぼしい記憶の中で、二つのイメージは互いに容易に参照された。
今回の新訳の註解に、これについての指摘を見つけられるのではないかと思ったが、見あたらなかった。誰かがすでに指摘していて、訳者が信ずるに足らずとして採らなかった可能性もないわけではないが、その証拠もないので、アマチュア・アームチェア・ディテクティヴとしてはとりあえずこれを自説として保留することにし、あらためて傍証はないかと考えてみた。本文のページを繰るうち、「第四の歌」の前のほうに、「二匹の雌オランウータン」の文字があるのが目にとまった。「オランウータン」とはいうまでもなく、かの有名な短篇で周知の役割を果たすもの――それがそこにいる。しかも「髪の毛」も欠けてはいない――「人類の中で最も醜悪な見本をまのあたりにしているのだと」語り手に思わせる「二匹の雌オランウータン」が、彼女たちの息子であり夫である男を後ろ手に縛り、「絞首台に髪の毛で」吊るして鞭打っているのだから。「年上の白髪まじりの女」と義理の娘がふるう理不尽な暴力とは、『モルグ街の殺人』のあわれな被害者たちが「雌オランウータン」に変身しての、逆転された奇妙な攻撃ではないか。
もう一つ気づいたことがある。ずっと忘れていたが、レスパネエ夫人は頭皮を剥がされて死んだわけではなく、剃刀による傷で死んだのだが、それがまた凄い――「その咽喉が完全に切られていたので、体を起そうとすると頭部が落ちてしまった」。
以前、久方ぶりに「モルグ街の殺人」を読んだ時、私はこの、剃刀による殺害の細部をすっかり失念していたことに気がついた。娘のほうが暖炉の煙突に逆さに押し込まれていたことは覚えていたのに。最近になって、「つるつるの頭」の記述を確認するため見直していて、私はまたも、この恐しい傷の描写に、はじめてであるかのように(そうでないことはすぐわかったが)出くわした。こんなふうに忘れてしまうところをみると(こうして書いたからには二度と忘れられなくなろうが)、髪の毛の剥奪にもまして首が落ちるほうが怖いと(意識的にせよ無意識的にせよ)思っているのだろうか。『マルドロールの歌』の作者の場合ははどうだったろう? そこまで考えて、マルドロールはギロチン/剃刀の下に三度首を差し伸べるが、三度とも刃は頚骨で受け止められ、結局、頭は落ちないのを思い出した――「ぼくが自分の頭を重いかみそりの下に差しのべると、死刑執行人は彼の義務を遂行する準備をした。三たび、刃が新しい力をこめて細溝をすべりおち、三たび、ぼくの頑丈な骸骨は、特に頸根っこのところはそうだから、土台からゆり動き、まるで、夢のなかで、崩れる家におしつぶされたかと思う時のようだった」(栗田訳)。
首が落ちる/落ちないことへのロートレアモンのオブセッションの源泉の少なくとも一つもまた、モルグ街の惨劇についての記憶ではないだろうか。
――松浦寿輝
年末年始に読むつもりで、昨年暮(!)配達してもらいながら、結局、年初めに一部に目を通したきりになっていた『ロートレアモン全集』(石井洋二郎訳、筑摩書房、2001年)を、先日やっと(不完全ながら)通読した。
すでに文庫版も出ていたけれど、「註解」なしの版は問題外だった。以前、図書館で見て、たまたま開いたページの次のような註解の記述に目を瞠り、これは自分のものにしてゆっくり読もうと思ったのであるから――。
カプレッツは謎めいた一連の「……のように美しい」という比喩のうち、「永久鼠捕り器」についての記述は「何か広告の囲み記事を写しとったもの」であろうと推測しており、この作品の中でもおそらく最も有名な「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い」という表現についても、「これら多様なオブジェの奇妙な結合は、何か雑誌の広告ページにそれらが一緒に載っていたことから出てきたもののように思われる」と述べていた。その後四十年間にわたって、この予感は裏付けを得られぬまま単なる予感にとどまっていたが、ルフレールの熱心な調査によって、実際にモンテビデオで発行されていた企業・個人名鑑の広告欄に、ミシンと雨傘、それに解剖台そのものではないが、外科手術の道具の宣伝が(ページは異なるが)同時に掲載されていたことが発見された。(『ロートレアモン全集』497ページ)
本書巻頭に載せられた写真のなかに、この「企業・個人名鑑」の表紙および三ページ分の広告の現物――ミシンと雨傘、手術道具の、ページの上での出会い――が見られる。これはすごい!「この事態をつとに予言していたカプレッツの炯眼もさることながら、彼の予言を本当に立証してしまったルフレールの執念も、驚嘆に値しよう」と訳者の言うとおりである。
ところで、これについて訳者は、「もちろん、この発見がただちに作品の価値を減じるものでないことはいうまでもない。むしろ、普通の人間であれば見逃してしまうにちがいない日常的な細部に意外な結合を見出し、これを「美」へと昇華させた詩人の卓越した感性に、あらためてオリジナリティーなるものの本質を感受すべきであろう」とも書くのだが……うーん、そんなこと言わなければならないほど、「この発見」が「作品の価値を減じる」と考える人って多いんででしょうか? 贔屓の引き倒しに類する文章に見えるし、これに続く部分で行なわれているような、クリステヴァなんぞで権威づけ・景気づけする必要ももとよりないと思うのだが。
解剖台とミシンと雨傘なんて、「意外な結合」なんかじゃなくてたんなる寄せ集め、出まかせ、出鱈目(「企業・個人名鑑」を片手でめくりながらの)、息もつかせぬIl est beau comme に接続されるそれ以外のフレーズも、どう見たって美の形容にならないし、「美へと昇華」されもしない(むしろ、その内容が美とはまったく無関係、むしろ無意味であるところがすごいのだ)。 「意外な結合」とは、この、行きあたりばったりに手にした借り物フレーズを美(この場合は美少年)の比喩として文に組み込み、機能させ、美の形容として有無を言わせず現実化させてしまったことにこそあったのだから――。
彼は十六歳と四か月! 猛禽の爪の伸縮性のように美しい、後ろ頭の柔らかな部分の傷口の不確かな筋肉の動きのように美しい、あるいは、鼠が捕まる度に仕掛け直され、一台で齧歯目の獣を際限なく捕獲でき、藁の下に隠されていても機能する、永久鼠取り器のように美しい! とりわけ、手術台の上でのミシンと雨傘の不意の出会いのように美しい!
『マルドロールの歌』の詩句の出典については、実は私も、ひそかにこれはと思っているものがある。「第四の歌」でマルドロールが髪をつかんで振り回した美少年ファルメールの体が飛んで行って、血まみれの髪だけが手に残る、あれはポーの「モルグ街の殺人事件」の、老婆の殺され方から来ていると思うのだ。(なお、上のはよせあつめの拙訳。)
無惨な遺体で発見された母娘、レスパネエ夫人とレスパネエ嬢のうち、母親の方について、ポーのデュパンは次のように言う。
「(…)炉の上には人間の灰色の髪の毛のふさふさした束――非常にふさふさした束――があった。これは根元から引き抜いたものだった。頭からこんなふうに二、三十本の紙の毛だって一緒にむしり取るには大した力のいることは君も知っているだろう。君も僕と同様その髪の毛を見たんだ。あの根には(ぞっとするが!)頭の皮の肉がちぎれてくっついていたね。まったく一時に何十万本の髪の毛をひっこ抜くときに出すような恐ろしい力の証拠だ」(佐々木直次郎訳)
そして、 「第四の歌」で、マルドロールにつきまとう、ファルメールの記憶は次のように語られる。
(…)ある日のこと、ぼくが一人の女の胸をつきさそうと短剣をふりあげたその瞬間、彼がぼくの手を押さえたので、ぼくは鉄の腕で彼の髪の毛をにぎり、ものすごいスピードで空中をふりまわしたので、彼の髪の毛だけが手に残り、彼の体は、遠心力によって投げとばされ、樫の木の幹にぶつかっていたということを……。(…)彼は十四歳だった。ぼくが精神錯乱の発作にとらわれ、久しい以前から大事にしている血まみれのものを、貴重な遺骨ででもあるかのように、ひしと心臓に押しあてて、野原をこえて走っていると、子供たちが、ぼくの跡を追いかけながら、……子供たちや婆さんたちが、石を投げ投げ追いかけながら、痛ましい呻きごえをふりしぼっていうのである。「あそこにフェルメルの髪がある」と。だから、あっちへやれ、あっちへやれ、亀の甲のようにつるつるな、髪の毛のないあの頭……血まみれのもの。だが話しているのはぼくじしんなのだ。
上記、栗田勇訳ではじめて読んだ時から、このつるつる頭は、「モルグ街の殺人」の恐しい白髪頭が、夢において昼の出来事が変形されるように変形された結果だと私は信じてきた。「モルグ街の殺人」は小学校の図書館で読み、それから何年か経ってはいたが、若年のいまだとぼしい記憶の中で、二つのイメージは互いに容易に参照された。
今回の新訳の註解に、これについての指摘を見つけられるのではないかと思ったが、見あたらなかった。誰かがすでに指摘していて、訳者が信ずるに足らずとして採らなかった可能性もないわけではないが、その証拠もないので、アマチュア・アームチェア・ディテクティヴとしてはとりあえずこれを自説として保留することにし、あらためて傍証はないかと考えてみた。本文のページを繰るうち、「第四の歌」の前のほうに、「二匹の雌オランウータン」の文字があるのが目にとまった。「オランウータン」とはいうまでもなく、かの有名な短篇で周知の役割を果たすもの――それがそこにいる。しかも「髪の毛」も欠けてはいない――「人類の中で最も醜悪な見本をまのあたりにしているのだと」語り手に思わせる「二匹の雌オランウータン」が、彼女たちの息子であり夫である男を後ろ手に縛り、「絞首台に髪の毛で」吊るして鞭打っているのだから。「年上の白髪まじりの女」と義理の娘がふるう理不尽な暴力とは、『モルグ街の殺人』のあわれな被害者たちが「雌オランウータン」に変身しての、逆転された奇妙な攻撃ではないか。
もう一つ気づいたことがある。ずっと忘れていたが、レスパネエ夫人は頭皮を剥がされて死んだわけではなく、剃刀による傷で死んだのだが、それがまた凄い――「その咽喉が完全に切られていたので、体を起そうとすると頭部が落ちてしまった」。
以前、久方ぶりに「モルグ街の殺人」を読んだ時、私はこの、剃刀による殺害の細部をすっかり失念していたことに気がついた。娘のほうが暖炉の煙突に逆さに押し込まれていたことは覚えていたのに。最近になって、「つるつるの頭」の記述を確認するため見直していて、私はまたも、この恐しい傷の描写に、はじめてであるかのように(そうでないことはすぐわかったが)出くわした。こんなふうに忘れてしまうところをみると(こうして書いたからには二度と忘れられなくなろうが)、髪の毛の剥奪にもまして首が落ちるほうが怖いと(意識的にせよ無意識的にせよ)思っているのだろうか。『マルドロールの歌』の作者の場合ははどうだったろう? そこまで考えて、マルドロールはギロチン/剃刀の下に三度首を差し伸べるが、三度とも刃は頚骨で受け止められ、結局、頭は落ちないのを思い出した――「ぼくが自分の頭を重いかみそりの下に差しのべると、死刑執行人は彼の義務を遂行する準備をした。三たび、刃が新しい力をこめて細溝をすべりおち、三たび、ぼくの頑丈な骸骨は、特に頸根っこのところはそうだから、土台からゆり動き、まるで、夢のなかで、崩れる家におしつぶされたかと思う時のようだった」(栗田訳)。
首が落ちる/落ちないことへのロートレアモンのオブセッションの源泉の少なくとも一つもまた、モルグ街の惨劇についての記憶ではないだろうか。
ずっと前のことだが、当時同居していた友人が勉強のために英字新聞を取っていたので見せてもらっていたが、といっても、必ず見るのは「コボちゃん」の英語版くらいだったが、それが非常に巧みにニュアンスをすくい上げているのに感心していた。この翻訳者は英語ネイティヴか(普通はそうだろう)、日本語ネイティヴかと友人と話した。アドヴァイザーを置くか、二人で組んでやっているかもしれないね、と言いもした。
ところがある日、日本語が母語でない人が訳しているのだとはっきりわかった。ネイティヴの日本語スピーカーだったら、子供でもわかるところで間違えていたからだ。具体的にどういうセリフだったかは忘れたが……日本語に明示されない(欠けているわけではない)動作主を完全に取り違えていたのだ。
子供でもわかる……といっても、必ずしもそうではないのを思い出した。「警察に言うと後悔するぞ」――これもマンガ(四コマでなくストーリー)だった(強盗の捨て台詞だ)のだが、私は「こうかい」という言葉がわからず、母に尋ねた。小学校に上がるか上がらないかの頃だろう。母の答えはこうだった。「あとになって、あんなことしなければよかったと思うことよ」まことに的確な説明である。
ところが私はこれを、〈強盗が〉後悔するのだと取ってしまった。被害者が警察に言う→強盗つかまる→「あんなことしなければよかった」とその時になって強盗思う。
実に筋が通っている。
同じ頃だと思うが、やはりストーリー・マンガで、「おとなしくしないと命がないぞ」と刀を突きつけて言う場面を見ていて(物騒なマンガばかり読んでいたものだ)、「命がない」ってどういうことかわかるか、と母に訊かれた。私がかぶりを振ると、「死ぬことよ」と母が答えたのでびっくりした(それまで何を読んでいたんだ……)。次いで、母が言ったのは「命をもらうというのは殺しちゃうこと」であった。
これにはびっくりした。あまりびっくりしたので、この二つの比喩を知った日のことをこの通りいまだに記憶している。
中学時代に、同級生が「後悔先に立たず」というのはおかしい、だってあとになってするのが後悔で、先に立ったら「後悔」じゃないでしょう? と言い立てるので、うんざりしながら説明してやったことがある。だが……考えてみると、今でもこの種の議論をふっかけてきたり、他人[ひと]の文章をそういう読み方で読む奴……いるな。いい大人にいちいち説明してやりはしないが。
ところがある日、日本語が母語でない人が訳しているのだとはっきりわかった。ネイティヴの日本語スピーカーだったら、子供でもわかるところで間違えていたからだ。具体的にどういうセリフだったかは忘れたが……日本語に明示されない(欠けているわけではない)動作主を完全に取り違えていたのだ。
子供でもわかる……といっても、必ずしもそうではないのを思い出した。「警察に言うと後悔するぞ」――これもマンガ(四コマでなくストーリー)だった(強盗の捨て台詞だ)のだが、私は「こうかい」という言葉がわからず、母に尋ねた。小学校に上がるか上がらないかの頃だろう。母の答えはこうだった。「あとになって、あんなことしなければよかったと思うことよ」まことに的確な説明である。
ところが私はこれを、〈強盗が〉後悔するのだと取ってしまった。被害者が警察に言う→強盗つかまる→「あんなことしなければよかった」とその時になって強盗思う。
実に筋が通っている。
同じ頃だと思うが、やはりストーリー・マンガで、「おとなしくしないと命がないぞ」と刀を突きつけて言う場面を見ていて(物騒なマンガばかり読んでいたものだ)、「命がない」ってどういうことかわかるか、と母に訊かれた。私がかぶりを振ると、「死ぬことよ」と母が答えたのでびっくりした(それまで何を読んでいたんだ……)。次いで、母が言ったのは「命をもらうというのは殺しちゃうこと」であった。
これにはびっくりした。あまりびっくりしたので、この二つの比喩を知った日のことをこの通りいまだに記憶している。
中学時代に、同級生が「後悔先に立たず」というのはおかしい、だってあとになってするのが後悔で、先に立ったら「後悔」じゃないでしょう? と言い立てるので、うんざりしながら説明してやったことがある。だが……考えてみると、今でもこの種の議論をふっかけてきたり、他人[ひと]の文章をそういう読み方で読む奴……いるな。いい大人にいちいち説明してやりはしないが。
Web評論誌『コーラ』7号出ました。 http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html
下記の通り拙稿も載っていますが、校正が間に合わず、私はルビとか傍点とかゴチックとか大好きなんですが、そのあたりが何箇所か訂正が必要です(傍点は効果が出ないそうなんでゴチックに統一)。これは編集人の責任ではなくひとえに私の入稿が遅れたせいです。ちょっと今すぐだと意味の通らないところがありそうなので、もう少し経ってから読んで下さいまし。
■■■Web評論誌『コーラ』7号のご案内■■■
●シリーズ〈倫理の現在形〉第7回●
吸血鬼はフランツ・ファノンの夢を見るか?
──「怪物」のユートピアと「人間」のナルシシズム
永野 潤
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/rinri-7.html
●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
「第8章 哥と共感覚・上」
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-8.html
「第9章 哥と共感覚・中」
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-9.html
「第10章 哥と共感覚・下上」
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-10.html
中原紀生
●連載:新・映画館の日々」第7回●
〈あたしは腐女子(クイア)だと思われてもいいのよ〉
――男性のホモエロティックな表象と女性主体
鈴木 薫
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-7.html
●コラム「コーヒーブレイク」その1●
往年の西部劇ファンだった各位へ
──映画「シェーン」の背景
品川康介
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/column-1.html
下記の通り拙稿も載っていますが、校正が間に合わず、私はルビとか傍点とかゴチックとか大好きなんですが、そのあたりが何箇所か訂正が必要です(傍点は効果が出ないそうなんでゴチックに統一)。これは編集人の責任ではなくひとえに私の入稿が遅れたせいです。ちょっと今すぐだと意味の通らないところがありそうなので、もう少し経ってから読んで下さいまし。
■■■Web評論誌『コーラ』7号のご案内■■■
●シリーズ〈倫理の現在形〉第7回●
吸血鬼はフランツ・ファノンの夢を見るか?
──「怪物」のユートピアと「人間」のナルシシズム
永野 潤
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/rinri-7.html
●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
「第8章 哥と共感覚・上」
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-8.html
「第9章 哥と共感覚・中」
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-9.html
「第10章 哥と共感覚・下上」
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-10.html
中原紀生
●連載:新・映画館の日々」第7回●
〈あたしは腐女子(クイア)だと思われてもいいのよ〉
――男性のホモエロティックな表象と女性主体
鈴木 薫
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-7.html
●コラム「コーヒーブレイク」その1●
往年の西部劇ファンだった各位へ
──映画「シェーン」の背景
品川康介
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/column-1.html
信号が青に変わるのを待って横断歩道を渡るとき、青信号が目に入る瞬間と足を出す瞬間とには、どんなに速く動こうとしてもズレがある。だが、前もって歩き出す態勢に入っていると、青信号と同時に車道に踏み出せる。
これは誰でも日常経験することだろう(いや、そんなことはふつうしないのかな。一番に歩き出せたからって別に優越感にひたれるわけではない)。なんにせよ、足を動かせという命令は青信号が見えた瞬間に脳から送られても、足が本当に動くのは一瞬遅れる(あれ、なんだか、総身に命令が回りかねる恐竜にでもなったような。でも、運動神経にはいくら頑張ってもその程度の遅れは出るということだ)。
ところが、『進化しすぎた脳』(講談社ブルーバックス)の池谷裕二によると、被験者にボタンを与え、「好きなときに」押すように頼んで脳波をモニターする実験をすると、運動をプログラムする「運動前野」がまず動きはじめ、一秒してからようやく「動かそう」という意識があらわれるそうだ。つまり、
「動かそう」と脳が準備を始めてから、「動かそう」というクオリアが生まれるんだ。あ、厳密にいえば、「動かそう」ではなくて、「『動かそう』と自分では思っている」クオリアだ。だって、体を自分の意志でコントロールしているつもりになっているだけで、実際には違うんだから。つまり、自由意志というのはじつのところ潜在意識の奴隷にすぎないんだ。
とすると、私が青信号を認めた瞬間と足を動かす瞬間のあいだには、足を動かそうと思う瞬間がはさまっているばかりでなく、その瞬間と青信号を認める瞬間とのあいだに脳が動き出す過程が入っているわけだ。
時間がかかるわけである。
こんな事実から、クオリアというのは脳の活動を決めているものではなくて、脳の活動の副産物にほかならないことがわかる。「動かそう」というクオリアがまず生まれて、それで体が動いてボタンを押すのではなくて、まずは無意識が活動し始めて、その無意識の神経活動が手の運動を促して「動かそう」という行為を生み出すとともに、その一方でクオリア、つまり「押そう」という意識や感覚を脳に生み出しているってわけだ。
モギ本ですっかりいかがわしくなってしまったクオリアだが、これならわかる。あるいは、次のような説明。
クオリアとは〈抽象的なもの〉だよね。「こわい」とか「悲しい」とかって、抽象そのものだ。(……)たぶん、クオリアもまた言葉によって生み出された幻影なんだと思う。/夢という〈視覚体験〉は脳のなかに存在するんだ。それと同じことで、クオリアも明らかに存在する。でも、喜びや悲しみっていうやつは言葉の幽霊なんだろうね。
昨日私は友人の家でクッキーを、崩れやすくてちょっと変わったクッキーなんだけど、と勧められた。そのせいで、何も考えずに口に入れるよりはやや注意深くそれを味わいながら、せっかくもてなしてくれているのだし、いや、おいしいクッキーだということを言おうとした(実際おいしかった)。それに、何かいい匂いもしたのでそれを言った。そのあとで、誰か他の人が「ストロベリー味」と言った。
その瞬間、口の中の匂いと味わいがたちまち「ストロベリー」として同定されたのだった。確かに存在するけれど漠然としたものだった感覚は、命名されてイチゴ味のクオリアになった。
いま僕は正面を向いて立っているでしょ。その姿だけを見て「これが池谷」というのを写真のように覚えちゃったとするでしょ。そうすると、次に僕が右を向いたら、その姿は別人になっちゃうよね。そこで、「右を向いた姿こそが池谷」と、もう一回完璧に覚え直してもらったら、こんどは右向きの姿だけが池谷になっちゃって、正面姿は違う人になっちゃうでしょ。
これは脳は曖昧性の確保のためゆっくり学習するということを説明しているところだが、まるでボルヘスの『記憶の人フネス』である(ここ参照。フネスの場合、それぞれの「池谷」に固有の名前を与え、すべてを別のものとして記憶する)。
視覚のメカニズムについて。
網膜から上がってくる情報が視床にとって20%だけ、視床から上がってくる情報は大脳皮質にとって15%だけ、だとしたら最終的に、大脳皮質の第一次視覚野が網膜から受け取っている情報は、掛け算をすればよいのだから、20%×15%で、なんと全体の3%しか、外部世界の情報が入ってこないことになる。残りの97%は脳の内部情報なんだよね。こうしたことを考えると、感覚系の情報処理に自発活動のゆらぎが強烈な影響を与えてもおかしくないよね。
「でも、実際にわれわれが見るものはそんなに揺らがないじゃないですか。白いものを見れば、白く見えるし、黒いものを見れば、みな黒く見える。自発活動の影響はさほどないように思えますが」という学生の発言に池谷は答える。
僕は、むしろ自発活動があるからこそ、白は白に見え得ると思うんだよ。[机を手前に引いて]僕らは、これが先ほどと同じ机だということが確認できるけど、網膜に映った情報だけで視覚が生み出されたとしたら、少し位置がずれただけでも、同じ机だとわからなくなってしまう。
3%しかボトムアップがないのに、トップダウンによって、つまり、「網膜からあがってきたわずかな情報を手がかりにして、「『机』だと思い込むための機構が作動する」。「僕は、このトップダウン処理を担当しているのは自発活動だという仮説を立てている」
トップダウンの自発活動によって脳は欠けている情報を、補い、埋め込む(すべてそれは外から来たものだと私たちには感じられる)。フェルメールの、絵具を粗く配置しただけの画面が私たちの視覚に生じさせていることもこれと通じるのだろうか。
これは誰でも日常経験することだろう(いや、そんなことはふつうしないのかな。一番に歩き出せたからって別に優越感にひたれるわけではない)。なんにせよ、足を動かせという命令は青信号が見えた瞬間に脳から送られても、足が本当に動くのは一瞬遅れる(あれ、なんだか、総身に命令が回りかねる恐竜にでもなったような。でも、運動神経にはいくら頑張ってもその程度の遅れは出るということだ)。
ところが、『進化しすぎた脳』(講談社ブルーバックス)の池谷裕二によると、被験者にボタンを与え、「好きなときに」押すように頼んで脳波をモニターする実験をすると、運動をプログラムする「運動前野」がまず動きはじめ、一秒してからようやく「動かそう」という意識があらわれるそうだ。つまり、
「動かそう」と脳が準備を始めてから、「動かそう」というクオリアが生まれるんだ。あ、厳密にいえば、「動かそう」ではなくて、「『動かそう』と自分では思っている」クオリアだ。だって、体を自分の意志でコントロールしているつもりになっているだけで、実際には違うんだから。つまり、自由意志というのはじつのところ潜在意識の奴隷にすぎないんだ。
とすると、私が青信号を認めた瞬間と足を動かす瞬間のあいだには、足を動かそうと思う瞬間がはさまっているばかりでなく、その瞬間と青信号を認める瞬間とのあいだに脳が動き出す過程が入っているわけだ。
時間がかかるわけである。
こんな事実から、クオリアというのは脳の活動を決めているものではなくて、脳の活動の副産物にほかならないことがわかる。「動かそう」というクオリアがまず生まれて、それで体が動いてボタンを押すのではなくて、まずは無意識が活動し始めて、その無意識の神経活動が手の運動を促して「動かそう」という行為を生み出すとともに、その一方でクオリア、つまり「押そう」という意識や感覚を脳に生み出しているってわけだ。
モギ本ですっかりいかがわしくなってしまったクオリアだが、これならわかる。あるいは、次のような説明。
クオリアとは〈抽象的なもの〉だよね。「こわい」とか「悲しい」とかって、抽象そのものだ。(……)たぶん、クオリアもまた言葉によって生み出された幻影なんだと思う。/夢という〈視覚体験〉は脳のなかに存在するんだ。それと同じことで、クオリアも明らかに存在する。でも、喜びや悲しみっていうやつは言葉の幽霊なんだろうね。
昨日私は友人の家でクッキーを、崩れやすくてちょっと変わったクッキーなんだけど、と勧められた。そのせいで、何も考えずに口に入れるよりはやや注意深くそれを味わいながら、せっかくもてなしてくれているのだし、いや、おいしいクッキーだということを言おうとした(実際おいしかった)。それに、何かいい匂いもしたのでそれを言った。そのあとで、誰か他の人が「ストロベリー味」と言った。
その瞬間、口の中の匂いと味わいがたちまち「ストロベリー」として同定されたのだった。確かに存在するけれど漠然としたものだった感覚は、命名されてイチゴ味のクオリアになった。
いま僕は正面を向いて立っているでしょ。その姿だけを見て「これが池谷」というのを写真のように覚えちゃったとするでしょ。そうすると、次に僕が右を向いたら、その姿は別人になっちゃうよね。そこで、「右を向いた姿こそが池谷」と、もう一回完璧に覚え直してもらったら、こんどは右向きの姿だけが池谷になっちゃって、正面姿は違う人になっちゃうでしょ。
これは脳は曖昧性の確保のためゆっくり学習するということを説明しているところだが、まるでボルヘスの『記憶の人フネス』である(ここ参照。フネスの場合、それぞれの「池谷」に固有の名前を与え、すべてを別のものとして記憶する)。
視覚のメカニズムについて。
網膜から上がってくる情報が視床にとって20%だけ、視床から上がってくる情報は大脳皮質にとって15%だけ、だとしたら最終的に、大脳皮質の第一次視覚野が網膜から受け取っている情報は、掛け算をすればよいのだから、20%×15%で、なんと全体の3%しか、外部世界の情報が入ってこないことになる。残りの97%は脳の内部情報なんだよね。こうしたことを考えると、感覚系の情報処理に自発活動のゆらぎが強烈な影響を与えてもおかしくないよね。
「でも、実際にわれわれが見るものはそんなに揺らがないじゃないですか。白いものを見れば、白く見えるし、黒いものを見れば、みな黒く見える。自発活動の影響はさほどないように思えますが」という学生の発言に池谷は答える。
僕は、むしろ自発活動があるからこそ、白は白に見え得ると思うんだよ。[机を手前に引いて]僕らは、これが先ほどと同じ机だということが確認できるけど、網膜に映った情報だけで視覚が生み出されたとしたら、少し位置がずれただけでも、同じ机だとわからなくなってしまう。
3%しかボトムアップがないのに、トップダウンによって、つまり、「網膜からあがってきたわずかな情報を手がかりにして、「『机』だと思い込むための機構が作動する」。「僕は、このトップダウン処理を担当しているのは自発活動だという仮説を立てている」
トップダウンの自発活動によって脳は欠けている情報を、補い、埋め込む(すべてそれは外から来たものだと私たちには感じられる)。フェルメールの、絵具を粗く配置しただけの画面が私たちの視覚に生じさせていることもこれと通じるのだろうか。
Tags:批評
大混雑らしくて開館時刻よりかなり前に行って待つしかなさそうな(それでもまともに見られるのはほんのわずかな間だろう)フェルメール展見送ろうと思っていたのだが、帰りそこねて両親(すでにいない)の家で服のまま仮眠、朝起きてそのまま上野へ。木曜日のこと。 八時に到着してしまう。開門は55分後だがすでに数人並んでいる。関係ないようなふりをして博物館動物園駅の先まで行き過ぎるが、近くにコーヒーの一杯さえ飲める場所がないのはわかりきっているし、どうせ外にいるのならと思い落葉を踏んで戻る。本を読んで待つうち、警備員、館員が愛想良く説明して四列縦隊に並ばせる。前から三列目。振り返ると列はすでに長く伸びている。ようやく入場。当日券買う間に大勢に追い越されたけれど、地階のデルフトの画家は抜かして一階へ、まずフェルメールだけ見る。二階へ行くともうそこには誰もいないが、フェルメールもない。そりゃそうだ。七点来てるだけだから。戻って地階を見、フェルメールをもう一度見て、二階まで行き、もう一度地階に戻るとすでに落ち着いて絵を見る状態ではない。まだ九時半なのだが。
「リュートを調弦する女」と呼ばれる、今まで気にとめたことのない絵を繰り返し見る。なぜそれに自分が惹かれるのか知ろうとして。左手の窓へ一瞬向けた顔、その顔と右肩を浸す光。「真珠の耳飾りの少女」のように美しいというわけではなく、仮面のような、額の生え際が後退したような、いっそ宇宙人のようなと言ってしまいたくなる顔。映画的、という言葉が浮かぶ。邦訳では「平板な死」となっていたバルトの用語があって、でも、あれは写真論だから「平たい死」と呼ぶのではないかと思っていたが、バルトが死んだあとまだ邦訳がないときにその本をぽつぽつ読んでいたある日、ジガ・ヴェルトフの有名な『カメラを持った男』をはじめて見た。馬車や人の行きかう街路の映像が突然静止し、フィルムがリールから引き出されて編集され、すべてが「平たい死」でしかないことが露呈される。そのあとで再びフィルムが、その儚い物質的基盤が映写機にかけられる。すると街も人々も即座に不滅の生命を取り戻し、何事もなかったかのように動きはじめ、写真が死であり映画が生であるのを見せつけた。だが、「リュートを調弦する女」の生命は、その忘れがたい印象はどこから来るのか。ただ一枚でありながら映画的なイマージュは。「それはかつてあった」という(バルトの言う)写真のノエマから限りなく遠く、かつて一度も存在したことのなかった彼女は今存在する。それがつねに「今」である光は複製技術を寄せつけないので絵葉書は買わなかった。
「リュートを調弦する女」と呼ばれる、今まで気にとめたことのない絵を繰り返し見る。なぜそれに自分が惹かれるのか知ろうとして。左手の窓へ一瞬向けた顔、その顔と右肩を浸す光。「真珠の耳飾りの少女」のように美しいというわけではなく、仮面のような、額の生え際が後退したような、いっそ宇宙人のようなと言ってしまいたくなる顔。映画的、という言葉が浮かぶ。邦訳では「平板な死」となっていたバルトの用語があって、でも、あれは写真論だから「平たい死」と呼ぶのではないかと思っていたが、バルトが死んだあとまだ邦訳がないときにその本をぽつぽつ読んでいたある日、ジガ・ヴェルトフの有名な『カメラを持った男』をはじめて見た。馬車や人の行きかう街路の映像が突然静止し、フィルムがリールから引き出されて編集され、すべてが「平たい死」でしかないことが露呈される。そのあとで再びフィルムが、その儚い物質的基盤が映写機にかけられる。すると街も人々も即座に不滅の生命を取り戻し、何事もなかったかのように動きはじめ、写真が死であり映画が生であるのを見せつけた。だが、「リュートを調弦する女」の生命は、その忘れがたい印象はどこから来るのか。ただ一枚でありながら映画的なイマージュは。「それはかつてあった」という(バルトの言う)写真のノエマから限りなく遠く、かつて一度も存在したことのなかった彼女は今存在する。それがつねに「今」である光は複製技術を寄せつけないので絵葉書は買わなかった。
Tags:美術

「Web評論誌コーラ」でお世話になっている黒猫氏のところでぷろでゅーすの黒猫カレンダー、2009年版が出ているのでお知らせします。
下記から通信販売で手に入りますよ。
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/ca01.html
「コーラ」等掲載の拙稿は左の、「寄稿先へのリンク」からどうぞ。
Web評論誌『コーラ』5号アップされました。拙稿「“それはヴァギナではない”」が載っています。http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-5.html
『コーラ』の連載、「新・映画館の日々」というタイトルなのにやおいのことばかり書いていますが、次回は本題に戻って、若尾文子を中心に女性表象について書くことになるかも。
下に引いた鷲谷花さんの論文、「テアトル・オブリーク」から消えたんですねえ……。うーむ。「複製技術時代の…」はログとってありますが。
『コーラ』の連載、「新・映画館の日々」というタイトルなのにやおいのことばかり書いていますが、次回は本題に戻って、若尾文子を中心に女性表象について書くことになるかも。
下に引いた鷲谷花さんの論文、「テアトル・オブリーク」から消えたんですねえ……。うーむ。「複製技術時代の…」はログとってありますが。
5/11(日)『狩人の夜』(シネマヴェーラ渋谷)
昔、三百人劇場で見た作品が並ぶケイブルホーグ特集。この映画は傑作と聞きつつ未見のままであった。11時から一回だけの上映。前夜飲んでいて(私はビール一杯だが)最終の一本前で帰ったあくる朝であり、必死に急いで五分遅れる。「お立見になりますがよろしいですか」そんな科白久しぶりに聞いた。期限切れの会員証更新してもらいながら、「ずいぶん混んでるんですね」と言うと「ええ、きょうは」という返事。階段に座れたら使うようにと小布団を渡される。ドアから滑り込んだその場所から動きようがないので(その場に坐り込むといやに座高の高い人の蔭になりそうで)、足元に布団を落して手提げだけ置き、レインコートと傘を抱えて立ち見。スクリーンには縞の囚人服の二人。ロバート・ミッチャムをすぐに認めるが、もう一人がピーター・グレイヴズだったとは!(帰宅後知る。)
これは最前列の席で、視界いっぱいに広がる絵本のような作り物の星空を見上げつつ、その下を舟で行く子供たちの恐怖を味わいながら見るべき映画だ。馬にまたがった殺人鬼に追われる男の子が「あいつ眠らないんだろうか」と呟くけれど、あの旅自体、何日続いたものか観客にもわからない。その先にリリアン・ギッシュが待っているとこっちはあらかじめ知っているからまだいいけど……。二十五日にもう一回やるのだけれど残念ながら行けない。
4/20(日)『妻は告白する』『大悪党』
4/21(月)『白い巨塔』
4/27(日)『「女の小箱」より 夫が見た』『猟人日記』
5/3(土)『眼の壁』『ゼロの焦点』
5/7(水)『影なき声』『黄色い風土』
以上は新文芸坐「日本推理サスペンス映画大全」にて。『妻は告白する』初見。傑作。別に書くかもしれない。帰宅後ウェブで調べると、公開当時の、女は作られるんじゃない、生まれつき女なのだ、若尾文子を見るとそれがわかるという作家の言葉が引用されていた。デビューボ流行ってたんだ! 一方、増村保造監督自身の、女性を描きたかったんじゃない、人間を描きたかった。男は社会的に愛にのみ生きられないから女を使うんだ(女の表象をということだ)という何とも意識的な言葉あり。溝口の『近松物語』で、陶酔しきった香川京子に対して長谷川一夫が迷いを残すのも同じ。
『大悪党』は二度目で、のんびり楽しむ。同じ列に映画に詳しいらしい男の二人連れ(あまり若くない)がいて、始まる前一人が裏話的なことを解説、上映終了時もう一人が拍手。退席しようとしながら、いかにも昂奮さめやらぬ様子で「うまくやりましたよねえ」とか何とか(映画の登場人物について)話しかけるのを、通路側の席の客、「映画だから」と笑顔でいなす。
『白い巨塔』主人公の死で終るのかとばかり思っていたら、最後まで財前元気いっぱい、この時は原作もまだ連載中で死んでいなかった由。『夫が見た』については以前書いたことがあるが、http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re47.html
思えば田宮二郎も、ここでは、『妻は告白する』の若尾文子同様、十年間積み重ねてきた努力(悪業だけど)さえも投げうって、ただ愛のために生きる存在(=女)になってしまっていたわけだ(斎藤綾子の書いている出産ポーズだけでなく)。だからストーリー的には不自然と感じられるのだし、彼のために身を捧げてきた岸田今日子が怒るのも当然だ。『妻は告白する』の若尾文子に対象としての女の恐しさばかり見ている者は「女」にはなれない。
『猟人日記』米国籍だとか二世だとか称して結婚詐欺を働いた男が逮捕されたというニュース、比較的近年に新聞記事で読んだ覚えがあるのだが、あれは人生が藝術を模倣したのか。仲谷昇なら、外国人風のアクセント(しかし平板で全然それっぽくない)で偽装しなくたって、素でいくらでも女の子引っかかるだろうに。それを大真面でやるから、どのレヴェルで反応してよいやらこっちが途惑う。一瞬目をそむけたくなったとしても、何度も出てくるのでよく見ればゴム製のカエルみたいに手動で空気を送っているとしか思えないアレにしても。
銀巴里で歌う若き日の三輪明宏とか、昔の東京都美術館の正面(一瞬だけど)とか映る。たまたま、これを見る数日前、母の古い編物の本を開いて、グラビアページに、色違いの編み込みセーターを着て手をつなぐ仲谷と岸田今日子を見たところだった。帰宅して調べて出演者の中に中尾彬の名を見つける。どこに出ていたのか? どう考えてもあそこしかない。やっぱりあそこだろう。知らなかったら絶対わからない。
『眼の壁』寝不足のため途中で眠ってしまい、目をさましたときは終盤で、ホラーになっていた。手形詐欺をやったのが渡辺文雄だとは気がつかなかった(若過ぎて)。
『ゼロの焦点』失踪した新婚間もない夫を捜して金沢へ行く久我美子の乗る列車の窓にまず雪が見えてきて、次に海沿いを走る列車を縦に、外の低い位置からとらえるキャメラが素晴しい。「社命ですから」と彼女に行き届いた態度で接するにこやかな夫の同僚が穂積隆信とは若過ぎてわからなかった。有馬稲子の愛らしさに驚く。
『影なき声』南田洋子は昔のグラビアで見ているので若さには驚かないが、ここまで若い二谷英明を見たのははじめて。わけのわからない映画を作る、とは言われなかった頃の鈴木清順の作だが、無駄なショットが一つもない。手堅くストーリーも語ってはいるんだけど、それだけではなく、スクリーンに映っているものすべてに納得できるのだ。ワイドスクリーンをキャメラは好んで横移動し、肝心なところでは縦の構図でキメる。被害者のズボンの裾に石炭の粉が入っていたという話から、殺害現場が「田端の貯炭場」と判明し、田端で蒸気機関車が煙を噴き上げているという展開は予想がつかなかった。そうか、あのあたりで石炭を積み込んだりしていたのか。中野刑務所とおぼしき塀が一瞬映る。被疑者の一人が味噌・醤油店の主人で、味噌樽が床に並び、醤油の壜が壁を覆う店内が映り、今はこういう店はなくなったと思った人も多かろうが、この翌日私はそういう店でお味噌を買っていたのだった(おかみさんが最初出てきたのに、あとから主人が私を見つけて「<**さんのお嬢さん」と紹介したものだから、二人から(また)うちの親の思い出話をされる)。味噌、今度値上がりするそうだ。
『黄色い風土』チラシには東映としかなかったが、冒頭、ニュー東映という文字とともに、おなじみ三角マークではあるが波が打ち寄せるんじゃなくて火山が爆発するオープニングが出たので(あとで調べたが、長続きしなかったらしい)、ラドンが飛び出しても驚かない気分に。『影なき声』の横移動がよかったので、やはりワイドスクリーンのこれはどうかなと思いつつ見ていたが、横移動もするけれど、低い位置から仰角で撮るのと、顔のアップが目立つ。のほほんとした鶴田浩二。上司の丹波哲郎が無駄にカッコいい。
若い佐久間良子も楽しみだったのだが、お人形さんであった(そういう役)。ずーっと科白のないまま、いつもパーティに行くような恰好で要所要所に現われる謎の女。冒頭、東京駅から出る、「新婚列車と言われている」列車に鶴田浩二が乗り込むが、うっかり新幹線かと思ってしまった。着いた先は熱海(そうか、そういう時代だったんだ。私の両親も熱海へ行ったという。お金がなくて日帰りで)。佐久間良子がなんで鶴田に惚れ込んだのかわからない。途中寝てしまったのでそのあいだに何かあったのかもしれないがたぶんそういうことはあるまい。彼女の兄が〝ラスボス〟として自衛隊の演習場で鶴田と対決するあたりになるともう何の映画かわからない。いつものカッコでふらふらと兄を気づかう佐久間が走ってくるあたりでは笑いたくなる。砲撃の中、兄は手首を吹っ飛ばされ、妹は倒れ伏して鶴田に抱き上げられ、外傷はないようだけど死んだのかも知れず、そのまま二人の世界で終ってしまうのでやっぱり何の映画かわからない。ラドンが出てきても驚かなかったと思う。
昨十一日はシネマヴェーラで『恐怖省』と『真珠湾攻撃』も見た。これは次回に。
昔、三百人劇場で見た作品が並ぶケイブルホーグ特集。この映画は傑作と聞きつつ未見のままであった。11時から一回だけの上映。前夜飲んでいて(私はビール一杯だが)最終の一本前で帰ったあくる朝であり、必死に急いで五分遅れる。「お立見になりますがよろしいですか」そんな科白久しぶりに聞いた。期限切れの会員証更新してもらいながら、「ずいぶん混んでるんですね」と言うと「ええ、きょうは」という返事。階段に座れたら使うようにと小布団を渡される。ドアから滑り込んだその場所から動きようがないので(その場に坐り込むといやに座高の高い人の蔭になりそうで)、足元に布団を落して手提げだけ置き、レインコートと傘を抱えて立ち見。スクリーンには縞の囚人服の二人。ロバート・ミッチャムをすぐに認めるが、もう一人がピーター・グレイヴズだったとは!(帰宅後知る。)
これは最前列の席で、視界いっぱいに広がる絵本のような作り物の星空を見上げつつ、その下を舟で行く子供たちの恐怖を味わいながら見るべき映画だ。馬にまたがった殺人鬼に追われる男の子が「あいつ眠らないんだろうか」と呟くけれど、あの旅自体、何日続いたものか観客にもわからない。その先にリリアン・ギッシュが待っているとこっちはあらかじめ知っているからまだいいけど……。二十五日にもう一回やるのだけれど残念ながら行けない。
4/20(日)『妻は告白する』『大悪党』
4/21(月)『白い巨塔』
4/27(日)『「女の小箱」より 夫が見た』『猟人日記』
5/3(土)『眼の壁』『ゼロの焦点』
5/7(水)『影なき声』『黄色い風土』
以上は新文芸坐「日本推理サスペンス映画大全」にて。『妻は告白する』初見。傑作。別に書くかもしれない。帰宅後ウェブで調べると、公開当時の、女は作られるんじゃない、生まれつき女なのだ、若尾文子を見るとそれがわかるという作家の言葉が引用されていた。デビューボ流行ってたんだ! 一方、増村保造監督自身の、女性を描きたかったんじゃない、人間を描きたかった。男は社会的に愛にのみ生きられないから女を使うんだ(女の表象をということだ)という何とも意識的な言葉あり。溝口の『近松物語』で、陶酔しきった香川京子に対して長谷川一夫が迷いを残すのも同じ。
『大悪党』は二度目で、のんびり楽しむ。同じ列に映画に詳しいらしい男の二人連れ(あまり若くない)がいて、始まる前一人が裏話的なことを解説、上映終了時もう一人が拍手。退席しようとしながら、いかにも昂奮さめやらぬ様子で「うまくやりましたよねえ」とか何とか(映画の登場人物について)話しかけるのを、通路側の席の客、「映画だから」と笑顔でいなす。
『白い巨塔』主人公の死で終るのかとばかり思っていたら、最後まで財前元気いっぱい、この時は原作もまだ連載中で死んでいなかった由。『夫が見た』については以前書いたことがあるが、http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re47.html
思えば田宮二郎も、ここでは、『妻は告白する』の若尾文子同様、十年間積み重ねてきた努力(悪業だけど)さえも投げうって、ただ愛のために生きる存在(=女)になってしまっていたわけだ(斎藤綾子の書いている出産ポーズだけでなく)。だからストーリー的には不自然と感じられるのだし、彼のために身を捧げてきた岸田今日子が怒るのも当然だ。『妻は告白する』の若尾文子に対象としての女の恐しさばかり見ている者は「女」にはなれない。
『猟人日記』米国籍だとか二世だとか称して結婚詐欺を働いた男が逮捕されたというニュース、比較的近年に新聞記事で読んだ覚えがあるのだが、あれは人生が藝術を模倣したのか。仲谷昇なら、外国人風のアクセント(しかし平板で全然それっぽくない)で偽装しなくたって、素でいくらでも女の子引っかかるだろうに。それを大真面でやるから、どのレヴェルで反応してよいやらこっちが途惑う。一瞬目をそむけたくなったとしても、何度も出てくるのでよく見ればゴム製のカエルみたいに手動で空気を送っているとしか思えないアレにしても。
銀巴里で歌う若き日の三輪明宏とか、昔の東京都美術館の正面(一瞬だけど)とか映る。たまたま、これを見る数日前、母の古い編物の本を開いて、グラビアページに、色違いの編み込みセーターを着て手をつなぐ仲谷と岸田今日子を見たところだった。帰宅して調べて出演者の中に中尾彬の名を見つける。どこに出ていたのか? どう考えてもあそこしかない。やっぱりあそこだろう。知らなかったら絶対わからない。
『眼の壁』寝不足のため途中で眠ってしまい、目をさましたときは終盤で、ホラーになっていた。手形詐欺をやったのが渡辺文雄だとは気がつかなかった(若過ぎて)。
『ゼロの焦点』失踪した新婚間もない夫を捜して金沢へ行く久我美子の乗る列車の窓にまず雪が見えてきて、次に海沿いを走る列車を縦に、外の低い位置からとらえるキャメラが素晴しい。「社命ですから」と彼女に行き届いた態度で接するにこやかな夫の同僚が穂積隆信とは若過ぎてわからなかった。有馬稲子の愛らしさに驚く。
『影なき声』南田洋子は昔のグラビアで見ているので若さには驚かないが、ここまで若い二谷英明を見たのははじめて。わけのわからない映画を作る、とは言われなかった頃の鈴木清順の作だが、無駄なショットが一つもない。手堅くストーリーも語ってはいるんだけど、それだけではなく、スクリーンに映っているものすべてに納得できるのだ。ワイドスクリーンをキャメラは好んで横移動し、肝心なところでは縦の構図でキメる。被害者のズボンの裾に石炭の粉が入っていたという話から、殺害現場が「田端の貯炭場」と判明し、田端で蒸気機関車が煙を噴き上げているという展開は予想がつかなかった。そうか、あのあたりで石炭を積み込んだりしていたのか。中野刑務所とおぼしき塀が一瞬映る。被疑者の一人が味噌・醤油店の主人で、味噌樽が床に並び、醤油の壜が壁を覆う店内が映り、今はこういう店はなくなったと思った人も多かろうが、この翌日私はそういう店でお味噌を買っていたのだった(おかみさんが最初出てきたのに、あとから主人が私を見つけて「<**さんのお嬢さん」と紹介したものだから、二人から(また)うちの親の思い出話をされる)。味噌、今度値上がりするそうだ。
『黄色い風土』チラシには東映としかなかったが、冒頭、ニュー東映という文字とともに、おなじみ三角マークではあるが波が打ち寄せるんじゃなくて火山が爆発するオープニングが出たので(あとで調べたが、長続きしなかったらしい)、ラドンが飛び出しても驚かない気分に。『影なき声』の横移動がよかったので、やはりワイドスクリーンのこれはどうかなと思いつつ見ていたが、横移動もするけれど、低い位置から仰角で撮るのと、顔のアップが目立つ。のほほんとした鶴田浩二。上司の丹波哲郎が無駄にカッコいい。
若い佐久間良子も楽しみだったのだが、お人形さんであった(そういう役)。ずーっと科白のないまま、いつもパーティに行くような恰好で要所要所に現われる謎の女。冒頭、東京駅から出る、「新婚列車と言われている」列車に鶴田浩二が乗り込むが、うっかり新幹線かと思ってしまった。着いた先は熱海(そうか、そういう時代だったんだ。私の両親も熱海へ行ったという。お金がなくて日帰りで)。佐久間良子がなんで鶴田に惚れ込んだのかわからない。途中寝てしまったのでそのあいだに何かあったのかもしれないがたぶんそういうことはあるまい。彼女の兄が〝ラスボス〟として自衛隊の演習場で鶴田と対決するあたりになるともう何の映画かわからない。いつものカッコでふらふらと兄を気づかう佐久間が走ってくるあたりでは笑いたくなる。砲撃の中、兄は手首を吹っ飛ばされ、妹は倒れ伏して鶴田に抱き上げられ、外傷はないようだけど死んだのかも知れず、そのまま二人の世界で終ってしまうのでやっぱり何の映画かわからない。ラドンが出てきても驚かなかったと思う。
昨十一日はシネマヴェーラで『恐怖省』と『真珠湾攻撃』も見た。これは次回に。
ずっと忙しく――というのには、インターネットに接続できなくてネットカフェへ通っていたというのも含む――過ごしていて、もう日が過ぎてしまったが、15日にWeb評論誌「コーラ」04号アップされた。拙稿「私たちは表象の横奪論をほってはおかない」http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-4.htmlが載っている。
すぐ前の二つの記事、〈表象の流用(the appropriation of representation)について〉と〈Who’s Afraid of Big Bad Male Nude?〉は、加筆の上そこに組み込んだ。
後者はネカフェから夜中に送り、次に寄った際、普段の一週間分[見直したらそんなものではなかった……一ヶ月分を超えてる]のアクセス数を一日で集めてしまったことに驚愕。なぜ……もっと面白いものをこれまでにも書いてると思うのだが(笑)……ともあれ、言及してくれた方、ブックマークに入れてくれた方に感謝です。
「コーラ」の今回の原稿は、自分の書いたものや過去のメールを参照しないことにはどうにもならなくて、最後はネカフェで徹夜。翌々日、NTTが来て、ルーターをパカッとあけるのからはじめて線をたどって調べた結果、結局、光ファイバーをカラスがつついて損傷したと判明。
静岡のYさんに、クマゼミに二度、光ファイバーに孔をあけられたとは聞いていたのだが、東海以西はクマゼミ、東はカラスが天敵らしい……。クマゼミは枝と光ファイバーの区別がつかなくて、被覆を裂くためのガイドの溝に産卵管を突っ込むと前に読んだことがあるけれど、カラスはたんに遊んでいるらしい。線を張り直すのにアームの上にゴンドラがついた車二台がかりだった(当方三階)。たっぷり二時間かかったので、そのあいだに問題箇所から遠い方のベランダに洗濯物を干す。
========================
ネット(と電話)復旧した日は、SMさんが夕飯に来ることになっていてそれから準備。ただし、メインはうなぎ屋で持ち帰りの蒲焼を頼むことにしていたので気楽に、夕方になって買物に出かけ刺身用のアジを見つけてタタキにしておき、魚グリルでナスを丸焼きにしてまずビール。それから豚肉と赤黄パプリカ&ピーマンの三色炒めを作るが、最近、片栗粉でとろみをつける際の秘訣を、「ためしてガッテン!」のサイトで覚えた。今まで母に教わったとおり片栗粉を水で十分に指で溶き、汁の煮立ったところにあけて手早く混ぜていたが(それであまりいい出来ではなかった)、粉は少量の水にひたす程度で(キシキシしていてもいい)、入れてから十分熱を加えて掻き回す。これでまったくダマにならないなめらかな仕上がりに。すごい! うなぎは、閉店したおそば屋さんから弟の奥さんがもらったのをもらった蓋つきどんぶりで立派なうな丼に。あとは豆腐となめこ(軸が長くてぬるぬるしていない)のおつけ。十一時過ぎに送って行こうと外に出たら、背後で一声カラスが鳴いた。なんだ、夜なのに。『エイリアン』とか『私の人形は良い人形』のラストみたいで不吉!
15日はIzさん来て、先月から予定していた月遅れの合同誕生会と旧暦雛祭する。木目込みの雛人形を十五人分連れてきて、籐の小卓の上にクロスを敷いて並べた(本来はケース入り)。メールで訊くとうなぎ、好きだというので、またうなぎに。それで安心し過ぎて準備が遅れ、一緒に買物に行く。アジがあったからまたタタキ! Izさんが桜の葉で香りづけしたピンクの梅酒とブルーチーズとナッツ類を買ってくれたのでまずそれで乾杯。桜柄や桜色の食器並べる。アジを三枚におろすところを見学され、片身を流しに落す(見なかったことに)。タタキと、厚手の油揚げの焼いたのでビール飲み、豚肉、ニンジン、ピーマン、大なめこで野菜炒め(とろみつき)。最後にうな丼とアサリのおつけ。いや、そのあとにケーキも。
すぐ前の二つの記事、〈表象の流用(the appropriation of representation)について〉と〈Who’s Afraid of Big Bad Male Nude?〉は、加筆の上そこに組み込んだ。
後者はネカフェから夜中に送り、次に寄った際、普段の一週間分[見直したらそんなものではなかった……一ヶ月分を超えてる]のアクセス数を一日で集めてしまったことに驚愕。なぜ……もっと面白いものをこれまでにも書いてると思うのだが(笑)……ともあれ、言及してくれた方、ブックマークに入れてくれた方に感謝です。
「コーラ」の今回の原稿は、自分の書いたものや過去のメールを参照しないことにはどうにもならなくて、最後はネカフェで徹夜。翌々日、NTTが来て、ルーターをパカッとあけるのからはじめて線をたどって調べた結果、結局、光ファイバーをカラスがつついて損傷したと判明。
静岡のYさんに、クマゼミに二度、光ファイバーに孔をあけられたとは聞いていたのだが、東海以西はクマゼミ、東はカラスが天敵らしい……。クマゼミは枝と光ファイバーの区別がつかなくて、被覆を裂くためのガイドの溝に産卵管を突っ込むと前に読んだことがあるけれど、カラスはたんに遊んでいるらしい。線を張り直すのにアームの上にゴンドラがついた車二台がかりだった(当方三階)。たっぷり二時間かかったので、そのあいだに問題箇所から遠い方のベランダに洗濯物を干す。
========================
ネット(と電話)復旧した日は、SMさんが夕飯に来ることになっていてそれから準備。ただし、メインはうなぎ屋で持ち帰りの蒲焼を頼むことにしていたので気楽に、夕方になって買物に出かけ刺身用のアジを見つけてタタキにしておき、魚グリルでナスを丸焼きにしてまずビール。それから豚肉と赤黄パプリカ&ピーマンの三色炒めを作るが、最近、片栗粉でとろみをつける際の秘訣を、「ためしてガッテン!」のサイトで覚えた。今まで母に教わったとおり片栗粉を水で十分に指で溶き、汁の煮立ったところにあけて手早く混ぜていたが(それであまりいい出来ではなかった)、粉は少量の水にひたす程度で(キシキシしていてもいい)、入れてから十分熱を加えて掻き回す。これでまったくダマにならないなめらかな仕上がりに。すごい! うなぎは、閉店したおそば屋さんから弟の奥さんがもらったのをもらった蓋つきどんぶりで立派なうな丼に。あとは豆腐となめこ(軸が長くてぬるぬるしていない)のおつけ。十一時過ぎに送って行こうと外に出たら、背後で一声カラスが鳴いた。なんだ、夜なのに。『エイリアン』とか『私の人形は良い人形』のラストみたいで不吉!
15日はIzさん来て、先月から予定していた月遅れの合同誕生会と旧暦雛祭する。木目込みの雛人形を十五人分連れてきて、籐の小卓の上にクロスを敷いて並べた(本来はケース入り)。メールで訊くとうなぎ、好きだというので、またうなぎに。それで安心し過ぎて準備が遅れ、一緒に買物に行く。アジがあったからまたタタキ! Izさんが桜の葉で香りづけしたピンクの梅酒とブルーチーズとナッツ類を買ってくれたのでまずそれで乾杯。桜柄や桜色の食器並べる。アジを三枚におろすところを見学され、片身を流しに落す(見なかったことに)。タタキと、厚手の油揚げの焼いたのでビール飲み、豚肉、ニンジン、ピーマン、大なめこで野菜炒め(とろみつき)。最後にうな丼とアサリのおつけ。いや、そのあとにケーキも。
最近池袋・大塚史にとみに詳しくなっているSMさんに案内され、黄昏の大塚駅周辺を散歩する。大塚名画座の建物が今もそのままとは知らなかった。階上も、鈴本キネマだった地下も、飲食店が入っている。迷路のような商店街にはあれからただの一度も足を踏み入れたことがなく、とっくに高いビルにでもなっているかと思っていたが、再開発されたわけではなかったのだ。明らかに覚えのある階段の形状。当時は邦画の面白さを知らず、鈴本キネマには廃業が決まってから一度だけ行ったような気がするが、それともついに入ることがなかったのか、記憶はもうさだかではない。小さなスクリーンの大塚名画座はいつも混んでいて、一本しかない通路まで座り見の人で埋まっていたため、最前列のシートの足元に蹲って見たこともある(そして、二本立てのうちの一本が終った途端、後ろを向いて館内を見渡しすばやく席を確保した)。
映画館のすぐ後ろに神社があるのを全く知らなかった。熱心に通っていたのはたぶん二十代のはじめで、街歩きにも興味がなかったのだと思う。
電停のプラットフォーム伝いにガードの北側に回ったときはもう暗くなっていたが、前方の変哲もないビルを指し、ここは元はデパートだったそうだとSMさんが言う。場末に過ぎなかった池袋より先にこっちにできたのだと。今は本屋とマクドナルドが入っている一階奥の階段とエレベーター・ホールにわずかに残る往時の華やかさを確認して入口に戻ると、ありし日の姿を伝える写真が二枚飾られていた。その店の名前、白木屋。服飾史にも名をとどめる白木屋……(昭和初年の火事で裾が乱れるのを恐れた女店員が大勢死に、それをきっかけに下着が普及というのは俗説で、実際には逃げ場を失って飛び降りたとも聞くが)、それなら古かろう。SMさんは居酒屋しか連想しなかったし、日本橋東急も今はないが。
設計者は石本喜久治。帰宅して検索でヒットした先を読むうち、石本建築事務所とは立原道造が若い晩年に勤めた先にほかならぬことに気がついた。
大塚名画座も検索すると、ここは四回分のスタンプで一回無料になったと書いている人がおり、クリックしかけて気がついた、なんだ自分のブログじゃないかorz; 大塚名画座へ都電で行こうとしたら、あいにく巣鴨のお地蔵様の縁日にぶつかってしまい進むほどに押し寄せる年寄りで満員状態、席は譲らなければならず電車は進まず上映時間に間に合わなかったことまでちゃんと書いてある(一度した話をまたするところだった)。山手線のプラットフォームの高さにいて電車の中から見えた大塚角萬の鶴が金ピカだったことなんか読むまで忘れていた。つい二年ばかり前に自分で書いておきながら。記憶の消滅、加速度的か。
拙記事で引いている 「南大塚萬重宝」 にも久しく訪れていなかったのだが、元白木屋大塚分室、現大塚ビルのことも、一階の本屋とマックのことも、名画座裏の天祖神社のことも、SMさんとお茶した駅前のベイカリーカフェのことも、そこがちょっと前までベッカーズだったことも、 さすが大塚トリビア紙、近年の記事にみんな載っていた。
ところで、「南大塚萬重宝」をめくっていて「佃煮にするほど」という形容を見つけた。この言い方、最近では「女は産む機械」と思っている奴が佃煮にするほどという文脈で自分でも使った覚えがあるが、もともとは大学の同級生が、普通なら「掃いて捨てるほど」と書きそうなところで小林秀雄が「佃煮にするほど」と書いていたとその悪意に満ちた表現を面白がって話してくれたもので、私はずっと小林のオリジナルかと思っていた(小林がどこで書いていたのかは未詳)。逆に言えば、実際にこの言い回しが使われている文章に出会ったことがなかったのだ。それが検索によりおびたしい用例に一度に出会う。
もとベッカーズ、現イースト・イーストには、わけあって実は前日にもひとりで入っていた。杏タルトを食べながら、ガラス張りの店内から高架上を走る電車が見渡せるのがいたく気に入ってしまった。線路の北側から見ても、建物に遮られることなく電車の通過を見られる風景が独特で、微妙にくぼんだ立地も面白い。散歩には、過去に栄え、今はさびれた町が好きだ。
一度も栄えたことがない土地が開発されるとどういう風景になるかというと……この夜、帰ってきて、駅から自宅ではなくヨーカドーへ抜けようと近道をたどるうち、右手に視界が開けて、広い前庭の向うに、湾曲した屏風のような巨大な建物がファサード一面に明りをともしているのに出会った。明りはついているがすべてブラインドを下ろしているようだ。これはいったい何なのか。敷地内の建物配置図らしきものがあるのを見つけ「ほほえみの郷」とやらほかが入っている、老人のための複合(?)福祉施設とわかった。あの一面の明りの向うには、そこを終の住処とする老人もいるわけか。あたりは草むらと団地と時折車の走り抜ける道があるばかり。私が勘に頼って歩くととんでもない所へ行ってしまうことも珍しくないのだが、今回は、無事、行く手にセブン&アイ・ホールディングスのマークが見えてきた。
それにしても、「ほほえみの郷」とか「ふれあいランド」とかのネーミングって……。(独り暮しの祖母のもとに定期的にかかってくる「ふれあい電話」は邪魔なだけでしかなかったことを思い出す。祖母はすぐに出られるようにと律義にベッドの上に起き上がって待ち構えているが、電話は決まった時間よりもたいてい遅れ、身体が冷えて固まってしまうのだと言っていた。日当たりがよすぎて午前中は眩しいのに、カーテンは開けていますかと規定の質問を繰り返す。最後まで頭脳明晰だった祖母は、これも型通りに「はい」と答えていた。そして、肌のふれあいがなくなったから、それでふれあい、ふれあいって言うんだろうね、と私に言った)。大塚で見かけたイタリアンの店、外観のダサい印象はどこから来るのか、いろいろあるが何といっても店名だとか、前を通りながら悪口言ってわるかった。レストラン「うまうま」、「ふれあいランド」よりよっぽどいいよ。
映画館のすぐ後ろに神社があるのを全く知らなかった。熱心に通っていたのはたぶん二十代のはじめで、街歩きにも興味がなかったのだと思う。
電停のプラットフォーム伝いにガードの北側に回ったときはもう暗くなっていたが、前方の変哲もないビルを指し、ここは元はデパートだったそうだとSMさんが言う。場末に過ぎなかった池袋より先にこっちにできたのだと。今は本屋とマクドナルドが入っている一階奥の階段とエレベーター・ホールにわずかに残る往時の華やかさを確認して入口に戻ると、ありし日の姿を伝える写真が二枚飾られていた。その店の名前、白木屋。服飾史にも名をとどめる白木屋……(昭和初年の火事で裾が乱れるのを恐れた女店員が大勢死に、それをきっかけに下着が普及というのは俗説で、実際には逃げ場を失って飛び降りたとも聞くが)、それなら古かろう。SMさんは居酒屋しか連想しなかったし、日本橋東急も今はないが。
設計者は石本喜久治。帰宅して検索でヒットした先を読むうち、石本建築事務所とは立原道造が若い晩年に勤めた先にほかならぬことに気がついた。
大塚名画座も検索すると、ここは四回分のスタンプで一回無料になったと書いている人がおり、クリックしかけて気がついた、なんだ自分のブログじゃないかorz; 大塚名画座へ都電で行こうとしたら、あいにく巣鴨のお地蔵様の縁日にぶつかってしまい進むほどに押し寄せる年寄りで満員状態、席は譲らなければならず電車は進まず上映時間に間に合わなかったことまでちゃんと書いてある(一度した話をまたするところだった)。山手線のプラットフォームの高さにいて電車の中から見えた大塚角萬の鶴が金ピカだったことなんか読むまで忘れていた。つい二年ばかり前に自分で書いておきながら。記憶の消滅、加速度的か。
拙記事で引いている 「南大塚萬重宝」 にも久しく訪れていなかったのだが、元白木屋大塚分室、現大塚ビルのことも、一階の本屋とマックのことも、名画座裏の天祖神社のことも、SMさんとお茶した駅前のベイカリーカフェのことも、そこがちょっと前までベッカーズだったことも、 さすが大塚トリビア紙、近年の記事にみんな載っていた。
ところで、「南大塚萬重宝」をめくっていて「佃煮にするほど」という形容を見つけた。この言い方、最近では「女は産む機械」と思っている奴が佃煮にするほどという文脈で自分でも使った覚えがあるが、もともとは大学の同級生が、普通なら「掃いて捨てるほど」と書きそうなところで小林秀雄が「佃煮にするほど」と書いていたとその悪意に満ちた表現を面白がって話してくれたもので、私はずっと小林のオリジナルかと思っていた(小林がどこで書いていたのかは未詳)。逆に言えば、実際にこの言い回しが使われている文章に出会ったことがなかったのだ。それが検索によりおびたしい用例に一度に出会う。
もとベッカーズ、現イースト・イーストには、わけあって実は前日にもひとりで入っていた。杏タルトを食べながら、ガラス張りの店内から高架上を走る電車が見渡せるのがいたく気に入ってしまった。線路の北側から見ても、建物に遮られることなく電車の通過を見られる風景が独特で、微妙にくぼんだ立地も面白い。散歩には、過去に栄え、今はさびれた町が好きだ。
一度も栄えたことがない土地が開発されるとどういう風景になるかというと……この夜、帰ってきて、駅から自宅ではなくヨーカドーへ抜けようと近道をたどるうち、右手に視界が開けて、広い前庭の向うに、湾曲した屏風のような巨大な建物がファサード一面に明りをともしているのに出会った。明りはついているがすべてブラインドを下ろしているようだ。これはいったい何なのか。敷地内の建物配置図らしきものがあるのを見つけ「ほほえみの郷」とやらほかが入っている、老人のための複合(?)福祉施設とわかった。あの一面の明りの向うには、そこを終の住処とする老人もいるわけか。あたりは草むらと団地と時折車の走り抜ける道があるばかり。私が勘に頼って歩くととんでもない所へ行ってしまうことも珍しくないのだが、今回は、無事、行く手にセブン&アイ・ホールディングスのマークが見えてきた。
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