おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

カテゴリ:日々( 162 )

私は時として、あの戰が鬼側の勝利に歸してゐたらと夢想することがある。桃太郎は勿論犬猿雉爺婆に到るまで奴隸とされ晝夜を分かたぬ酒宴とオルギアが續くだらう。しかしこの榮耀の後にはすみやかに虚脱と自己嫌惡の日日が周つて來るかも知れぬ。そしてその方がよりロマネスクだ。#ももたろう文体模写

併し昔の人間が我々が生きてゐるやうに生きてゐるといふことに就てはそれが人間でなければならないといふ前提があつてその手掛りが得られない時にはそれは犬猿雉その他何だらうと学術上の研究の対象にはなつてもその時代にも流れてゐた筈の桃が我々のものにならない。(昔話一)#ももたろう文体模写

「ワトスン君、僕は行かなきやなるまいと思うよ」ある朝一緒に食卓についている時ホームズがいつた。「行くつてどこへ?」「鬼ヶ島さ―桃太郎事件だ」べつに驚ろきもしなかつた。むしろ私は今都中で噂の種になつているこの事件にホームズが関係しないのを不思議にさえ思つていた。#ももたろう文体模写

きび団子はそれを眺めただけで味わってみなかったあいだは何も私に思いださせなかった、というのもおそらくそののちしばしば菓子屋の棚でそれを見かけたがたべることはなかったので、それの映像が鬼ヶ島のあの日々と離れて他のもっと新しい日々に結びついてしまったからであろう。#ももたろう文体模写

見わたすと、その桃の色彩はガチャガチャした色の階調をひつそりと球体の身体の中へ吸収してしまつて、カーンと冴えかへつてゐた。おばあさんは埃つぽい丸善の中の空気が、その桃の周囲だけ変に緊張してゐるやうな気がした。おばあさんはしばらくそれを眺めてゐた。#ももたろう文体模写

桃太郎にあってはきび団子は遭遇を告げる一つの符牒であるかのように、人と鳥獣とを結びつける。そして多くの場合、桃太郎的「存在」は、その遭遇によって後には引き返しえない時空へと自分を宙吊りにすることになる。#ももたろう文体模写

お腰につけた黍団子という表現が桃の丸みを反復するこの引用にあっても、黍団子の説話的機能はあまりに明確であろう。語り手に一つの場面から別の情景へと移行するのを許すものは、ほかならぬ黍団子への言及なのだ。黍団子授受の描写というよりむしろ黍団子の一語を口にすること。#ももたろう文体模写

桃太郎はいつも縄の帯をしめて、わらつて森の中や畑のあひだをゆつくり歩いてゐるのでした。ある年、山がまだ雪でまつ白く野原には新しい草も芽をださないとき、桃太郎はいきなり走つてきて云ひました。「ばあさ、おらさきび団子七百箇作つてけろ」「きび団子七百箇、どうするべ」#ももたろう文体模写

桃太郎のうちの人たちは、ほんたうによろこんで泣きました。まつたくまつたく、この鬼から奪つた宝物の、緑玉石のりつぱなみどり、さはやかな珊瑚、すずやかな水晶、月光色のオパアルが、これから何千人の人たちに、ほんたうのさいはひがなんだかを教えるか数えられませんでした。#ももたろう文体模写

桃太郎は自分をつまらないもの、偶発的なもの、死すべきものとして感じることをすでにやめていた。一体どこから彼にやってくることができたのか、この力強いよろこびは? それはこぶ茶ときびだんごの味につながっている、しかしそんな味を無限に超えている、したがって(後略)#ももたろう文体模写

鬼ヶ島の凄惨な光景はよく書けてゐてそれがこの作の最大の美点と思ひますがそれは探小本来の興味ではありません。また筋の上ではホームズが突然鬼ヶ島に現れる所など最も面白い箇所ですが、之も理知興味ではありません。小生の好きな不可能興味が殆ど無いのです(井上良夫宛書簡)#ももたろう文体模写

好意的な運命が貴方を許容したこの一つの時間では、貴方が鬼ヶ島にこられました。もう一つの時間では、桃を切るとお婆様は貴方が死んでいるのをみつけられた。しかしもう一つでは、私はこの言葉をそっくりそのまま話してはいますが、誤謬であり幻にすぎないのです。(篠田一士訳)#ももたろう文体模写

鬼は俯伏せに横たわっていた。金棒を握ったままの腕が苦しげにねじれている。ぼくはそれから目を離せなかった。死とはこうまで迅速なものか。桃太郎の姿はどこにもなく、見あげる空は砂の色に照りかがやき、苦悶するコウモリのように旋回し、鋭い叫び声をあげた。(宇野利康訳) #ももたろう文体模写

わたしは川で洗濯をする老婆を見た。流れる桃を見た。この世のありとある鏡を見たがどこにもわたしは映っていなかった。ボルヘスの古びた邦訳本を見た。山をなす黍団子、犬、猿、雉を見た。鬼ヶ島の隆起する砂浜とその砂の一粒一粒を見た。突撃する鬼たちを見た。(牛島信明訳) #ももたろう文体模写

要するに一種の屏風繪であり、綺麗に切りとられたフィルムの一こま、繪葉書の一葉である。犬も猿も雉も舟の上でぴたりと靜止したまま動かない。むしろ動くべき言葉の一つ一つがわざと殺してあるとしか思へない。静物畫化された風景畫であり、桃太郎は決して作者自身ではない。#ももたろう文体模写

兜は山高で角を隠し、頬にぴったりついた頬当てがある形のものでした。黒の陣羽織には雪のような花をつけた一本の木が白で縫い取ってありました。今では鬼ヶ島の何人もこれを着用せず、ただ、かつて白の木が生えていた噴水の庭の前に立つ城塞の護衛の鬼にのみ許されていたのです。#ももたろう文体模写

ヘーゲルはある有名な文章の中でいっている。《それは最もひややかで最も平凡な死であり、桃を二つに切る、または、一箇のきび団子を食べること以上の意味もないのである。》なぜか? 死は自由の完成、すなわち、最も豊かな意味のある瞬間ではないか?(ブランショ 篠沢秀夫訳)#ももたろう文体模写

もともと桃太郎に幻を視る以外の何の使命があらう。薔薇色の頬、銅[あかがね]色の胸、桃の實の緋色をうつす腿と腕[かひな]の雄雄しい童男[をぐな]は、罪と血と罰の色を染めた鉢巻の下の無垢な眸で獣らを魅了する。東海の夜明と君がくちびるとわが思ふことおほかた赤し(寛)#ももたろう文体模写

2012年12月9日~14日


【作者のみなさん】塚本邦雄 吉田健一 アーサー・コナン・ドイル マルセル・プルースト 梶井基次郎 蓮實重彦 宮澤賢治 江戸川乱歩 ホルへ・ルイス・ボルヘス J・G・バラード J・R・R・トールキン モーリス・ブランショ 
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by kaoruSZ | 2012-12-21 08:42 | 日々 | Comments(0)

Twitterはじめました。

http://twitter.com/#!/kaoruSZ
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by kaoruSZ | 2011-12-01 12:25 | 日々 | Comments(0)

がぜる

 入沢康夫(11.3で80歳)がtwitterやってる!

「"ががががが"入沢康夫」の検索ワードでうちに来た奇特な人がいて、ふと検索してみて知る。
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by kaoruSZ | 2011-10-06 03:54 | 日々 | Comments(0)

Different from the Others

 一つ前の記事で、グーグルビデオの"Different from the Others"がもう見られないと書きましたが、まだ残っていましたので一応お知らせします。ごらんになりたい方は今のうちに。
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by kaoruSZ | 2011-05-19 15:24 | 日々 | Comments(0)
こういう連中の話をし出すときりもありませんが、もうひとり、御紹介しておきましょうか。“眠り男”という呼び名で……」
「眠り男? まるで『カリガリ博士』ですね。やはり夢遊病者なんですか」
                                             中井英夫『幻想博物館』


 図書館で中井英夫の本を開いたら「セザーレの夢」という短篇があり『カリガリ博士』のことが出ていたと平野智子から電話あり、創元推理文庫で「とらんぷ譚」という題だったという。「とらんぷ譚」というのは四冊でトランプのカードと同じ数になって完成する短篇集の総題、私は平凡社から出た函入りのを四冊全部持っているのだが、それなら『幻想博物館』に違いない、中井が『カリガリ博士』について書いていたことも、「セザーレ」と表記していたことも覚えていたが、エッセーの中でだったと思いちがいしていて探してもみなかった。『幻想博物館』は手の届くところに絶えず置いておきたい本ではもはやなくなっていて、だから地震でも頭の上に落ちてくることはなかったのだが、クローゼットを開けてみると、天井に近い棚の上に積み上げた本がなだれ落ちたまま、片づけが途中になっていた山の中にたやすく見つかった。ページを繰ると、入院患者について語る院長(精神病院の)と「私」の会話は上に引いたとおりで、さらに次のように続く。
                               
思わずそう聞き返したのは、とっさにあの古いドイツ映画の、黒タイツに身を固めたコンラット・ファイトの姿体を思い出したからであった。眠り男セザーレが届けられてきたときのカリガリ博士のあの喜びようはいったい何を現わしていたのだろう(強調は引用者による)

 残念ながら、この答えは書かれていないし、話も脇にそれてしまうのだが、私たちは同じ場面を次のように書いた。

これに先立つ、眠ったままの夢遊病患者として院長室に運ばれてきたチェザーレをはじめて見るシーンでの、彼の喜びようにしても、殺人のための道具を手に入れて喜んでいるのではなく(むしろ、注文した等身大フィギュアが到着したと思って頂きたい)、院長はさっそく人払いをして、さも嬉しげにチェザーレを“愛撫”している。http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/kikou-13.html


問題は「セザーレの夢」ではなくて、「フランシスの夢」なのだが、それでも、「あの喜びようはいったい何を」と、ちゃんと中井にも見えていたのだった。


お知らせ
 上記「コーラ」の記事の最後に読書会の計画を載せましたが、残念ながらグーグルビデオがすでに見られなくなっているため、とりあえず延期といたします。
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by kaoruSZ | 2011-05-03 23:09 | 日々 | Comments(0)
 1987年5月号の「ユリイカ」乱歩特集号に、『目羅博士』への『砂男』からの影響を示唆する記述を見つけたが――。

このいわゆる「狂博士」は眼科医であり、彼の診察室に置かれた無数の義眼や蝋人形は、ホフマンの『砂鬼』の眼玉をくりぬく砂鬼たる晴雨計売りのコッペリウスと、彼の部屋の無数の眼鏡や、スパランツァーニ教授の自動人形を連想させる。            今泉文子「変幻する眼―乱歩とバロッキズム」

 誤りが二つ以上紛れ込んでいるのはとりあえずよしとしよう。今泉は、乱歩が「エーヴェルスの『蜘蛛』にアイディアを得て『目羅博士』を書き上げている」ことを指摘し、のちにエーヴェルスがナチの御用文学者になったことを述べて、次のように言う。

乱歩のような文学によって戸惑わされた読者の視線、煽り立てられた感情は最終的には何処へ行きつくのか。あるいはついに行きつくところなくさまよい続けるのか。ドイツ語圏ではエーヴェルスのような文学に無反省にふけっていた大衆の視線と、煽り立てられたその感情は、ある強力な指導者へと向けられていった。


 関係ないだろうが  

 さらに、このあとを以下のごとく続けるのだから……。

いや、こう言ったからといって、大衆文学、怪奇幻想文学を読むのがいけないと言うのではもちろんない。[…]乱歩に典型的に見られる「視角の変容」、「視線のズレ」は、権威主義的な硬直した秩序を密かに崩壊させる力をももちうるはずである。大衆文学こそ、直接に読者の感性に働きかけ、読者の反応を最も多く期待するものだから、いかに読むかということが、実はもっと問われていいものなのではないか。

悪いけど、あまりにも典型的で笑う。
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by kaoruSZ | 2011-04-27 21:29 | 日々 | Comments(0)

目羅博士とカリガリ博士

「Web評論誌コーラ」13号出ました。

平野智子との共著二作目「砂男、眠り男――カリガリ博士の真実」掲載。
 編集人が『カリガリ博士』(ロベルト・ヴィーネ監督、1919年製作、20年公開)のスチール写真(と呼びたい)を入れてくれた。
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 書き上げたあと起こった例の大地震で本棚から落ちてきた(作りつけなので倒れはしないが、平積みにしていた本が宙を飛んだ)文庫本を拾い上げ、江戸川乱歩の『目羅博士』(雑誌連載時のタイトルは『目羅博士の不思議な犯罪』)を久しぶりに読んで、この短篇が明らかに『カリガリ博士』と『砂男』を下敷きにしていることに気がついた(『カリガリ博士』自体、『砂男』が発想源の一つであると思われることは上の拙論で述べた)。

 もちろん乱歩は『砂男』を読んでいる。1929年に改造社から出た「世界大衆文学全集」の一冊「ポー、ホフマン集」の翻訳者ですらあるのだから(この本は、昔、神保町で見かけて買った。『探偵小説四十年』によると名義貸しらしいが)。ホフマンの作は『砂男』と『スキュデリ嬢』を収めていて、前者はオリンピアが自動人形とわかってガラスの目玉を投げつけられたナタナエルが発狂し、“癲狂病院”へ送られた後に省略がある。快癒したと信じられた主人公が塔から身を投げる部分が存在せず、クララが他の男と結婚して幸せになった結末を接続して終っているのだ(『カリガリ博士』のおもてのプロットのように、「それ以来、彼は個室[独房]で鎖に繋がれたままです」というわけか)。あらためて目を通してみたところ、コッペリウスが幼いナタナエルを人形のように扱う描写(種村季弘訳では「コッペリウスはぼくの肉体をがっきと鷲づかみにし、手足をねじ切ってそれをまたあちこちと嵌め替えるのだった」ちなみに、拙論で重要な細部として言及している)も欠けていた。探せば他にもあるだろう(この改造社のシリーズは、ハガードの『洞窟の女王』と『ソロモン王の宝窟』を一冊にしたのがうちにあったのを子供の頃発見して自分のものにしていたが、『洞窟の女王』に(『ソロモン王』の方は調べていない)かなりの省略があるのに最近になって気づいた。当時は普通の事だったのだろう)。

「ポー、ホフマン集」には『ウィリアム・ウィルスン』も入っていて、これも明らかに『目羅博士』先行作品の一つである。落ちてきた文庫本(角川文庫の「暗黒星」)の解説には、「連続自殺の着想はエーヴェルスの「蜘蛛」から借りたといわれるが」とあるのみで、エーヴェルスは未読だが、文庫クセジュの『幻想文学』(これ自体はつまらない本)を見ると、「リヒャルトは勇気のあるところを見せようとして、以前の住人たちがつぎつぎと自殺したという部屋を借り、向かいの窓に女の姿を認める。この女が次第にテレパシーの作用を彼に及ぼすようになる。彼が女の致命的な蠱惑に屈するのに、さして時間はかからなかった」と紹介されている。

 乱歩の短篇では、しかし、連続自殺のあった部屋に面した向かいあう窓に現われるのは蜘蛛女ではなく、「月の光の中でさえ、黄色く見える、しぼんだような、むしろ畸形な、いやないやな顏」である。「よく見ると、そいつは痩せ細った、小柄の、五十くらいの爺さんなのです」。「その笑い顔のいやらしかったこと、まるで相好が変って、顏じゅうが皺くちゃになって、口だけが、裂けるほど、左右に、キューッと伸びたのです」

「五十くらい」で「爺さん」なのは、三十代で中年、四十で初老の時代であるからだ(『心理試験』も読み返したが、被害者は「もう六十に近い老婆」なのであった)。チェシャ猫か、『カリガリ博士』の“眠り男”役コンラート・ファイトがのちに演じたこともある「笑う男」のように笑うこの「爺さん」は、「三菱何号館とかいう、古風な煉瓦造りの、小型の、長屋風の貸事務所」の「一軒の石段をピョイピョイと飛ぶように登って行く」のを、物語内物語の語り手に目撃される「モーニングを来た、小柄の、少々猫背の老紳士」で、「目羅眼科、目羅聊斎」という看板のある事務所に消え、そこに住む目羅博士その人であることが判明する。「むしろ畸形な、いやないやな顏」という嫌悪感を催させる外見と、猿を思わせる動作の描写は、『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』のハイドを思わせ、また、カリガリ博士その人のイメージでもあろう(『ジキル博士とハイド氏』と『カリガリ博士』の関連についても上記拙論では触れた)。

 内容的には目羅博士を眼科医とする必然性はないから、これは要するに『砂男』の眼鏡売りコッポラのレミニッサンスであろう。「きれいなおめめ」を売りに来たと言ってナタナエルをギョッとさせるコッポラは大量の眼鏡を並べてみせ、「キラキラピカピカ妖しい光をはなちはじめた何十何百という眼がひきつるようにぎらぎらと輝き、それがナタナエルのほうをいっせいに見詰め」る。それをしまうと、今度は眼鏡売りは「大小さまざまの望遠鏡」を取り出す。ナタナエルは「一梃の小体な、みごとな仕上げの望遠鏡」を手に取り、窓の外にそれを向けて、室内にいるオリンピアの美しさを目のあたりにするのだが、乱歩はこの遠眼鏡を浅草十二階下に向けて傑作『押絵と旅する男』をものする一方、眼科医という設定によって、何の不自然さもなしに、「あすこの診察室の奥の部屋にはね、ガラス箱の中に、ありとあらゆる形の義眼がズラリと並べてあって、その何百というガラスの眼玉が、じっとこちらを睨んでいるのだよ。義眼もあれだけ並ぶと、実に気味のわるいものだね」という語りを引き出してくる。しかし、それに続く、「それから、眼科にあんなものがどうして必要なのか、骸骨だとか、等身大の蝋人形などが、二つも三つも、ニョキニョキと立っているのだよ」という言葉は、その場面が『カリガリ博士』の院長室からじかに由来することを証し立てていよう。あそこに立っていた骨格標本(目羅博士の部屋ではキノコのように増殖したらしい)を、乱歩も確かに見たのである。「等身大の蝋人形」とは、このあと、殺人のトリックの小道具として使われるものであるのはもちろんだが、『カリガリ博士』における夢遊病者チェザーレの替え玉人形そのものでもあろう。

「目羅博士の不思議な事件」を語る青年に、「私」は上野動物園の「サルの檻」の前で出会い、上野の森の「暗い木の下道」で「僕知っているんです。あなた江戸川さんでしょう。探偵小説の」と言われて「ギョッと」する。そして、「あなたは、小説の筋を探していらっしゃるのではありませんか。僕一つ、あなたにふさわしい筋を持っているのですが、僕自身の経験した事実談ですが、お話ししましょうか。聞いてくださいますか」という申し出に、ご飯でも食べながらと応じるが、相手は、自分の話は明るい電燈の部屋には不似合いだと言い、「ここで、ここの捨て石に腰かけて、妖術使いの月光をあびながら、巨大な鏡に映った不忍池を眺めながら、お話ししましょう」と答える。そして語り終えると、「立ち上がって、私の引き留める声も聞こえぬ風に、サッサと向こうへ歩いて行って」しまう。

私は、もやの中へ消えて行く、彼のうしろ姿を見送りながら、さんさんと降りそそぐ月光をあびて、ボンヤリと捨て石に腰かけたまま動かなかった。
 青年と出会ったことも、彼の物語も、はては青年その人さえも、彼のいわゆる「月光の妖術」が生み出した、あやしき幻ではなかったのかと、あやしみながら。


 動物園の猿の「猿真似」に発する「目羅博士の殺人」のいわゆる「トリック」は、説明してしまえば児戯に類するものであり、それを読ませるものにしているのは、「月光の妖術」ならぬ乱歩の文章の力である。それだけが「あやしき幻」を支えているのであり、「青年と出会ったことも」幻であるというなら、「私」は分身に会ったことになり、自分の中にあった物語を語ってもらったことになろう。
 昨日、『屋根裏の散歩者』(1925年)をこれも久しぶりに読み返したが、あの明智と郷田三郎は、もう、互いが互いの分身のようなものだ。退屈しきっていた郷田三郎は、明智のせいで「今までいっこうに気づかないでいた「犯罪」という事柄に、新らしい興味を覚えるようになった」のだし、明智は数々の犯罪物語を「けばけばしい極彩色の絵巻物のように、底知れぬ魅力をもって、三郎の眼前にまざまざと浮かんでくる」ように語りきかせるのだから、これはもう乱歩の小説に夢中で読みふけるようなものではないか。実際、「彼はさまざまの犯罪に関する書物を買い込んで、毎日毎日それに読み耽る」ようになり、そこには「いろいろの探偵小説なども混じっていました」。そして、できるものなら、自分もその主人公になりたいと思うが、しかし、「法律上の罪人」になるのは嫌なので、“犯罪の「まね事」”をはじめる。

「コーラ」11号掲載の「男と云ふ「秘密」――パムク、華宵、谷崎、三島」で、私は 谷崎の『秘密』の主人公について、“しかし「私」はやがて遅れて東京にやって来て本当に「探偵小説中の人物」になる、江戸川乱歩描くところのカウンターパートのように、能動的に何かをしようというのではない。剣呑な品物もそれで世界に働きかけるのではない。「私」自身の言うとおり、「犯罪を行はずに、犯罪に附随して居る美しいロマンチツクの匂ひだけを、十分に嗅いで見たかつたのである」”と書いたが、むろん、このとき念頭においていたのは『屋根裏の散歩者』の主人公である。しかし、あらためてこの小説を読んでみると、彼は浅草へ出かけて、尾行だの、暗号文を書いた紙切れだので「遊戯」を行なっては「独り楽し」み、おまけに女装して映画館に入ったりするのだから、『秘密』の語り手と何ら変わるところがないのだ(むろん乱歩の意識的な「まね事」であり、すでに影響関係が云々されているのだろう)。周知の通り、郷田三郎はその後「犯罪のまね事」の舞台としての「屋根裏」を発見して「屋根裏の散歩者」に、そしてついには「殺人者」になる。頃やよしと訪れた明智は、被害者の部屋を三郎自身に案内させ、彼と問答を交わした末、ある夜、彼の部屋の押し入れの中に、天上からさかさまにぶらさがった首として出現して、三郎を驚愕させる。

「失敬、失敬」
そういいながら、以前よく三郎自身がしたように、押入れの天上から降りてきたのは、意外にも、あの明智小五郎でした。
「驚かせてすまなかった」押入れを出た洋服姿の明智が、ニコニコしながらいうのです。「ちょっと君の真似をしてみたのだよ
[著者による強調。原文は傍点]。

『目羅博士』(1931年)の「猿真似」の主題は、ここにも通じていたのだった。しかも、このことは、明智が犯罪者の分身であることをますます明らかにしていると言えよう。思えば明智は、郷田三郎に犯罪(物語)の魅力を手ほどきし、さんざん煽っておいて、ついに実行にまで至らしめ、それを分析してみせたようなものだ。初期の明智は彼自身が限りなく犯罪者に近い。

 平野智子との共著三作目は、乱歩の『孤島の鬼』を論じたものになる予定。私の乱歩再読のせいではなく、平野さんがこの長篇小説をはじめて読んだためである。
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by kaoruSZ | 2011-04-16 20:24 | 日々 | Comments(0)
「ウェブ評論誌コーラ」12号に「“中つ国の歴史”を読みながら――重ね書きされた『シルマリリオン』」と題して書いた。http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/suzuki-1.html 今回は準備のないままトールキンについて気楽に書いたつもりが、思ったより長くなる。
 例によってトールキン関係の記事の場所をまとめておく。

人でなしの恋――『シルマリリオン』論序説
囮としてのヘテロセクシュアル・プロット――トールキン作品の基盤をなすもの
トールキン close reading――マイグリンはイドリルを恋していたのか?



◇11月11日の鷲谷批判「『女性嫌悪のイデオロギーが公然と息を吹きかえしていた』のか?」の補足を書く予定。

◇上記エントリに対して、言及先を記さず中傷したツイートがあるので、抗議を書く予定。

◇ある方(Aさんとしよう)が自分のブログでBさんに対する批判を書き、その中で私の文章を自説の援用に使った。Bさんがコメント欄に来て意見の応酬になった。Bさんが私の文章について鈴木の真意はこうだと言っているのが納得いかない内容なので介入する予定。

半年前になってしまった「萌えとホモフォビア」の続きももちろん書く。
ちなみに、筆者は「自称腐女子」ではない

 以上、滞っている今後の予定のおぼえがきとして。



 先日、『ラストサムライ』遅まきながら池袋新文芸坐で見て、あまり面白かったので以下にメモ。
 西部劇が不可能になった時代に、それ自体西部劇の影響を受けて作られた黒澤の世界にアメリカ男を投入してみたけれど不発に終ったという作品。
 しかし、男による男のための男の夢だというところは外していない(それどころかあまりにもはっきり出ている)ところが面白い。鷲谷花氏がその辺の歴史的事実(と現状)を、(たぶんわざと)無視してアレを書いたというのもはっきりしている。

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『ラストサムライ』

 特徴その一。女が男の夢であるように、これがキリスト教徒の白人の夢であるのはあまりにも明らかだ。
 第二に、かなりできの悪い夢であること。もっとできのいい夢が過去にあったはず。

 トム・クルーズは第七騎兵隊でインディアン虐殺に加わったトラウマを抱えた男。今はアル中でかつての栄光を見世物にして生きている。それも続けられなくなったところで、近代国家になろうとしている日本で兵士を訓練する仕事が舞い込む。そしてやって来るのは、横浜港の向こうにフジヤマが見えている日本。太平洋の火山島に違いない(むろん日本だとて太平洋の火山島には違いない)。

 興行師は騎兵隊とインディアンの戦いを表わす模型を使っていたが、ヨコハマもそれと同種の作りものである。俯瞰で模型を撮った町と奇態な風俗。トム・クルーズはそんないかがわしい書き割りの世界に入ってゆく。

 むろん火山島には土人が首長を戴いており、上陸した彼は早速謁見を許される。宮城もワンカットで寄れるほど近くにある。天皇はヨーロッパの知る父権性から逸脱した少年で、細い身体を洋服に包んで輿の中に坐す両性具有的な存在だ。サミュエル・フラーの『東京暗黒街・竹の家』で、アメリカから日本に進出したギャングのボスは平安神宮みたいな赤い欄干のついた高台の家(たぶん場所は東京)に住んで、背景に富士山が描かれていたけれど(ホンモノという設定)、そこから一歩も出ない認識で、マジで撮ったのならある意味すごい。

 時代遅れの鎧を来て天皇に刃向かう連中と言われるサムライ(それが戦国時代の鎧なんだから、どんだけ時代遅れか、シナリオを書いた人間はわかっているのかな)。しかし、それこそが忠義だと信じている渡辺謙。彼は天皇の重臣として迎えられる身でありながら抵抗を続ける。
 敷かれたばかりの鉄道をサムライが襲ったという。日本の歴史においてありえない出来事。しかしむろん、私たちはこの話を知っている。アラビアのロレンス――彼もアラブ人に近代戦法を教えようとした。ただし、クルーズの場合、政府軍の教育に来て、叛乱軍に入ってしまうのだ。明治天皇は腹黒い顧問を持ったファイサル王子(遥かに純粋だが)である。ロレンスの二番煎じをオトゥールが演じた『ロード・ジム』もあったけれど、あれは本当に太平洋の島で、首長の息子が伊丹十三だった。

『東京暗黒街・竹の家』で、ギャングのボスはナンバー2を愛する男だと確か四方田犬彦が書いていた。新しく現われたロバート・スタックとの間に生じた三角関係。潜入捜査官とは知らずに、ナンバー2を裏切者と思い込まされて殺す愛憎劇に被占領地の女が彩りに使われていた。

 吉野山中と称して大木の間に背の低いパーム・ツリーが配されたみるからに嘘っぽい空間に、光を透かす霧に包まれた黒いシルエットの幻めいて出現する騎馬のサムライはどこから来たのか。むろん、映画的記憶からである。渡辺謙はトム・クルーズのめざましい働きを認めて、生け捕りにした彼を山あいの村に運ぶ。いよいよ日本ではない、アラブの叛乱だ、いや、チベットの山峡だ。ついに見出されたシャングリラ。失われた隠れ里。二度と辿りつけない桃源郷(本当はニュージーランドだそう)。単純で神を知らないにもかかわらず敬虔に日々の務めに励む人々の、時の腐蝕を(そして近代化を)奇蹟的にまぬかれたユートピア。東京に戻ってからだが、写真を撮る同国人が現われるところもロレンスを意識しているのでは(実際のロレンスをフィルムに収めたロウエル・トマスは、戦後、冒頭の興行師のようなことをしていた)。勝元率いるサムライの帰還を村人はみな頭を下げて迎える。『七人の侍』の見過ぎである。

 百姓を守るサムライなどというものは存在しない。渡辺謙は要するに地元の名士で土地の「王」なのだ(字幕で真田にmy lordと呼ばれている)。般若心経を坊さまが唱える寺(山寺などではなくやたらと立派)の当主であり、彼自身が領主であるかのようだ。脚本家が当時の日本の社会形態のことなど何も知らないのは確実だが、それはどうでもよろしい。これは白人男の夢なのだから。

 傷ついた半裸のクルーズは、渡辺謙の妹、小雪の手当てを受ける(普通は男が好敵手の手当てをするのが定番だが、妹にさせている。女を通じて義兄弟になるのも定番)。この映画、クルーズがやたらと裸を見せる。ちっともエロティックでないけれど、これも西部劇の定番だろう。そう、これは西部劇なのだ。黒澤明の歪んだこだまをまじえた、マニエリスティックな。

 エレイン・ショウォールターは十九世紀末の「男性冒険小説」には、「ヴィクトリア時代のモラルから自由になることのできる、どこか神話的な場所に行ってしまいたいという男たちの憧れが実にさまざまなかたちで表現されている」と言っている。行き先がどこかはいうまでもない。 

 女を通訳にするというのが、一番ありふれた設定だろう。皇国のプロパガンダ映画では李香蘭として台湾人(華人ではなく、日本が高砂族と名づけた少数民族)の少女を演じ、同胞に日本語のみを喋るよう促していた優等生の彼女が、“まだ戦後だった”日本ではシャーリー・ヤマグチと名乗ってアメリカ人との橋渡しをしていた。バルテュスの奥さんが京都で通訳をした女子学生上がりなのは知っていたが、最近、ジョー・プライスの奥さんも彼が若冲を買いに来たときの通訳と知った。しかし、バルテュスの胴長で幼い顏のデッサンや、プライス夫人の若き日の写真を見れば明らかだが、小雪では彼らを魅了しなかったに違いない。ミスキャストの印象はそのあたりから来よう。その小雪(山家の後家)が英語を喋るのにはいくら何でも無理があると思えるからだろう、ここでは渡辺謙が巧すぎる英語を喋る(怪演)。栗林中将じゃあるまいし留学したはずはないんだが。しかしこれがクルーズの“夢の中”だとすれば不思議はあるまい()。

 傷ついて夢うつつのクルーズは、スライドする板戸越しに小雪たちの生活をかいま見る。彼女には息子が二人いる。主を失った赤い鎧が(捕えられる前、彼にとどめを刺そうとして逆に殺された男の着ていたもの)目立つ場所に据えられており、それは小雪の夫だった「ヒロタロウ」のものだ。天皇への忠心に生き、西洋化の波が押し寄せる時代に古い生活様式を守って生きる勝元は、“高貴な野蛮人”である。アメリカ先住民を悪玉とする西部劇はもはや成り立たず、彼らは被害者であり“高貴な野蛮人”として表象することさえ不可能な時代なので(オルグレンが実際に生きている時代にとってはアナクロニックだが)、クルーズは太平洋を渡るしかなかった。滅び去って今は亡い美しい日本であれば、どこからも文句は出まい。そこでは、殺した男の妻に、「Sorry …ごめんなさい…for your husband …ヒロタロウ」と片言を並べるだけで相手は許してくれる。夢の中だから当然だ。

 本当なら、勝元との同性愛的絆(ロレンスのオマー・シャリフに相当)と、妹を通じた兄弟の契り(ロレンスではこれはありえなかった)に力を入れるべきだったろう。クルーズの存在感の薄さは、彼がスターであることを考えれば異例だが、同一化を観客にうながす視点人物(ポルノの主演男優)と考えればこれでいいのかもしれない。渡辺謙は一番面白いけれど借り物の印象。武勇の腕だけの真田広之も借り物だ。全体に、ちぐはぐなのだ。

 主人公の絆は”ラスト・サムライ”謙とのものだが、どうも中途半端。温泉に入るクルーズ、また裸を見せる。髪を洗う小雪は「もう終りですから」と、片袖脱いだ後ろ姿だけ。西部劇に入浴シーン(男の)はつきもの。『竹の家』ではナンバー2がクラシックな木の浴槽で入浴中にボスに殺される。ロレンスの白いアラブ服とヘッドドレスに相当するクルーズのコスプレは、小雪の夫の赤い鎧を彼女の手で着せられるというかたちで(その前段階としてクルーズの帯を解く小雪の手のアップ)起こる。傷の手当てと同じようにされるがままで、偶然のように唇が触れ合うがそれだけなのは、そのまま最後の戦いに出陣してゆくからではない。これが童貞の夢だからだ。

 むろん、渡辺謙の死後、隠れ里へトム・クルーズが戻るという結末は必然であったろう。しかし、肝心なところで気が抜けているこの映画をどうにかするには、そのあとに夢から覚めるシーンを付して枠物語にするしかなかったのでは。『竹の家』の当時のニッポンはアメリカ人の関心の対象ではなかったが、今は違う(以下は捏造なので注意)。棚の上から落ちてきたおもちゃの日本刀が頭に当たって目覚めるクルーズ。ビデオやDVDのケース、あるいは壁に貼られたポスターのイメージとして渡辺謙や真田広之が彼を見下ろす(『カリガリ博士』の登場人物(のモデル)を主人公が精神病院の庭に見出す場面に相当しよう)。クルーズ自身は牛乳瓶の底のようなメガネのオタク青年。脚本家(志望?)の彼は、オリエントが白人の夢の中にしかないことを知りつくしていて、知識と資料をかきあつめて『ラストサムライ』のシナリオを書きはじめる(しかし、枠物語の部分は同性愛的部分とともにプロデューサーに削除されてしまう)。

ここと、最後の“オタク青年の目覚め”については平野智子の示唆による(そんなレンズを作るメガネ屋、いまどき無いと思うが)。
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by kaoruSZ | 2010-12-23 02:25 | 日々 | Comments(0)

鴨沢祐仁の発明

 評判になっているが絶対近づきたくない場所というのがあって、今なら墨田区と台東区のどっちになるかといわれていた段階で台東区の方が縁があるから来てくれるなと思っていてそれは叶ったものの、せんだって不忍池でボートに乗っていたらなんと森の上ににゅっと出ていてしかもせっかくビルの一つも見えない方角だからよけい腹立たしかった作りかけのアレで、朝倉彫塑館の改修が終ってももう屋上に登れば日暮里駅前のビルと一緒にアレを見るしかないのか、江戸東京博物館というところにはじめて行くことになってアレが見えるのは嫌だなと同行者に言われたが近すぎて見えなかったようだ、清澄庭園の景観にも問題なく、なるほどエッフェル塔を見たくなければエッフェル塔に上れということか。古くは東京都庁がえらく西へ移った際、大阪から出張で来た事務方のおじさん(他の担当者は女性で緑一点)に新都庁舎を見てきたんですよと人のよい笑顏で言われ、すごいですねえ、東京ものでもまだ見に行っていませんとでも言っておけばいいものを、あたし新しい建物は好きじゃないんです、と不機嫌な応対をするという大人げないことをした、実際、いまだに行ってないし幸い行く必要もない。

 それが先日、夕方寄ろうと友人に示されたのが某タワー52階の美術館のタダ券で、できた当時若冲の屏風が来ていてさえ行かなかったのにと嘆きながらも、土曜日の午後の新宿御苑でゴロゴロしたあと、これも嫌いな(深すぎて)大江戸線で六本木に到着、建物は思ったとおり夜目にもどうでもよかったが、しかし会場では思いがけず素晴しいものが見られた。現代美術のコレクションで鴨下信一のフィギュア、逆柱いみりの絵等に見入る、中でも惹かれたのは芳賀澄子の箱入り着せ替え人形で、五十年代のファッションをまとい、台紙に黒の細ゴムでハンドバッグや靴も固定されているが、バービーやリカちゃん人形の通俗性が微塵もない。手前に置かれた、一つ一つデザインされた手作りの函の蓋も美しい。

 しかし、何と言っても最大の収穫は鴨沢祐仁の作品であった。「クシー君」にも作者の名にももちろん覚えがあったが、まず驚いたのは作者がすでに亡くなっていたことで、しかも幸福な晩年(というにはあまりにも若すぎる)ではけっしてなかったことは(作品以外の)展示からも察せられウェブで調べて確かめられたが、書いておきたいのはそのことではない。キャラクターを実写化した富士急ハイランドのCMを十数年前にTVでやっていたことは場内のモニターで見て思い出したが、シリーズ化されていくつものヴァリエーションがあったことは知らなかった、それがエンドレスで流されていて、クシー君とウサギが遊園地で遊び回っていたが、しばらく見ているうちに傍に掲げられたイラストレーションとの奇妙な差異に気づくことになった。絵のクシー君は、お洒落な服を着たウサギやクラシックなロボットと歩いていて、ウサギの方が小柄、玩具箱から出てきたようなと言えないこともない連中なのだけれど、CMのウサギはクシー君(絵の髪型に似せているけれど、普通の男の子であるクシー君より花のある美少年)より背が高く、明らかに大人である。同じような背丈の子供をウサギに使っていれば遊び友達という感じになるだろうに、はっきり意図を持っての大人設定、これはいったいどういう関係(の少年とウサギ)なのか?

 その時、あのウサギ、おやじの援交じゃない、と傍の友人が言いはじめた。そういえばウサギの顏も明らかにおやじ……ヒゲをはやしたおやじである。ウサギにヒゲがあるのも顏が毛で覆われているのも当然ながら、無精髭としか見えない顏つきなのだ(あんなに可愛くなくデザインされたウサギも珍しかろう)。それが、ウサギの皮をかぶって少年と遊んでいる……。
 少年誘拐者だね、と私は言った(種村季弘に「どもりの少女誘拐者」なるルイス・キャロル論あり)。遊園地のCMに登場して割引券で遊ぶキャラに、家族連れでも、恋人たちでもなく、少年とおやじウサギのペアである。「好きな人と好きなだけ!」とスポットは繰り返す。「好きな人ってなんだよ」モニターの前で私たちは笑った。「やっぱりカップルなんだ」「わからないと思って言いたい放題だな」

 美少年はあくまで無邪気で、アトラクションに瞳を輝かせて駆け回る。ウサギが先に望遠鏡をのぞいて少年に替わると、魅力的な女性がプールの中から誘っている……次の瞬間、水面に魚の尾がはねて彼女が人魚であることがわかる。これが童話の世界を口実に、生身の女から少年を隔てる仕掛けでなくて何であろう。ウサギは少年に背伸びさせて色っぽい女を見せてやろう(大人の異性愛の世界を覗かせてやろう)というのではない、少年に見せるのは自分の競争者にならない抽象的な女で、コーラス・ガールたちの顏は大きな星形や土星(こうした小道具はむろんタルホ写し)に置き換えられている。

 他にもコピーはいろいろあった。「無邪気な君なんて大好きだ!」「無邪気な私を好きになれ!」怪しいったらないが、もちろんウサギの台詞である。童心を装って何を考えてるんだか、手のつけようがない。このウサギ、名をレプス君といって、主役を張った単行本もあったようだ。おやじウサギになってからの絵も展示されていた。クリスマスの玄関でプレゼントの包みを抱えたまま、コートを脱ごうとしている。
 エンコーウサギ、この子にかなり貢いでるよ、と友人。クリスマス・プレゼントに天体望遠鏡をあげるんじゃない? 
 包みが小さいから望遠鏡じゃないでしょ、鉱物標本じゃないの、と私。望遠鏡は去年もうあげてるのよ。

 制作側、最初からねらってるよね、と友人は言った。こういうのを作ろうと思って、だから鴨沢祐仁を選んだんでしょう。そういうことだね、きっと。富士急ハイランドの希望というより、広告会社で企画したんだよね。作るのはさぞ楽しかったろう。腐女子をあてこんで作ったなどと下司なことを言う奴は当時はいなかったのだ。それにしてもほんとに、わからないと思って……裏にあるのはタルホだし、かなり危ないんだが。

 男の子にしては愛らし過ぎる、あれは女の子ではと気づいたのは帰宅してからだった。検索するとやはり(足穂の言う)“長持ちする少年”で、しかしあっさり“女”になって消えたようだ。ウェブで調べるうち、おなじみクシー君になる前の古い絵柄のクシー君が出てきた。無表情で前髪を切りそろえた大きな目の少年(後年の彼より明らかに一般向けではない)の出てくるマンガは、内容的にもさらに足穂寄り、確かにこの絵柄は見たことがあると思い出したが、それが鴨沢祐仁の作とはその時まで認識していなかった。昔のクシー君は会場で見た遺作のタブローの正面を向いて立った少年にそっくりで、また、生前の作者にも似ていた。いろいろわかったので友人にメールしたが、向うからはさらに驚くべきことを知らせてきた。ウェブで読める対談で、クシー君とレプス君は同性愛的な関係だと作者が明言しているというのだ。公認の仲だったのである。
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by kaoruSZ | 2010-11-30 22:42 | 日々 | Comments(0)
 拙稿“男と云ふ「秘密」――パムク、華宵、谷崎、三島”が掲載されている、「Web評論誌コーラ」11号が出ました。
 その「プロフィール」欄にも書いたとおり、「アルダの歩き方」というサイトを平野智子さんと一緒にはじめました。アルダとは、J・R・R・トールキンの作品世界での地球の呼び名です。主に『シルマリリオン』(邦訳題『シルマリルの物語』)の読解を扱いますが、その結果は『指輪物語』のとらえ方にも自ずから影響を及ぼすことになるでしょう。

 トールキンについては、すでに過去の「コーラ」誌上に次の二篇を発表しています。

人でなしの恋――『シルマリリオン』論序説(鈴木薫) 
“父子愛”と囮としてのヘテロセクシュアル・プロット――トールキン作品の基盤をなすもの(平野智子、鈴木薫) 

 これまで『シルマリリオン』について言われたことの大部分は、何が書かれているか理解できないままの/ゆえの読み手のナルシシズムの投影であり、願望の押しつけでしかありませんでした。私たちはそうした解釈をもう一つ増やそうというのではむろんなく、それなしでは作品が成立ししえない基本的でコアな構造を明らかにするものです。傲慢のそしりを恐れずに言うなら、これ抜きにはこれからは誰にも『シルマリリオン』について何か言うことができなくなるような性質のものだと考えています。

 たとえば、妹ニエノールをそれと知らず妻にしていたトゥーリンは、ニエノールが入水したことを知り、「これだけが足りなかったのだ。これで夜が来る。」と言って自らの命を絶ちますが、この台詞が何を意味するのか、わかった方はおありでしょうか。「夜」とは何でしょう。絶望とか死とか暗黒とかを指すのだろうと、漠然と思って読み過ごしてしまったのではないでしょうか。

『シルマリリオン』を読みながら注意を払うべきは、類似であり、照応であり、再現であり、反復です(もちろんこれは、通常、小説を読みながら、普通に気づかれるはずのものです)。そしてここでは、数十ページ前で、二本の木の光に照らされた楽園ヴァリノールにはじめて夜が来た時の、再演を、反復を、抑圧されたものの回帰を見るべきなのです。二本の木が枯らされ、三つのシルマリルが奪われ、王フィンウェが殺された時、楽園に夜が到来し、フィンウェの息子フェアノールはその「夜の中へ」()姿を消します。

 つまりトゥーリンは、自分がフェアノールの役をなぞっていることをあそこで言っていたのです。フェアノールがフィンウェを失ったように、彼はニエノールを失いました。それはまた、フェアノールとフィンウェに本当に起こったこと、彼らの真の関係を明らかにするものでもあります。

『シルマリリオン』の序文に収録されている編集者ウォルドマン宛の手紙で、トールキンはトゥーリンの挿話に関連して、オイディプスの名を挙げています。兄と妹がそれと知らず結婚するという意味だと読者は思うことでしょう(ウォルドマンもそう受け取ったはずです)。しかし、『シルマリリオン』の中心にあるのは兄妹ではなく親子の話であり、オイディプスの名はそのことをこそ指し示すのです。

 ウォルドマン宛の手紙には、『シルマリリオン』に関して「天使たちの堕落」という言葉も出てくるのですか、この“天使たち”とは誰のことでしょう。天地創造の時、トールキン世界の“唯一神”イルーヴァタールとともにあったアイヌア(彼らのうち地球に来た者たちがヴァラールです)のことでしょうか。実際、元はヴァラールの一人だったメルコールには、いくらか、神に反抗する堕天使の面影づけがされています。

「天使たちの堕落」とは、実はミルトンの『失楽園』で、アダムとイヴの楽園追放に先立って起こる事件です。『失楽園』で地獄に落とされた堕天使たちは、神が新しく造った地球に近く人間を住まわせるという噂に騒然となりますが、メルコールもまた、中つ国で人間が目覚めるという噂を使って、ヴァリノールのエルフの間に不和の種を蒔こうとしました。楽園の蛇とはサタンの化身に他なりませんが、メルコールもまた、ヴァリノールという原初の楽園に忍び込んだ蛇なのです。

 しかし、エルフの堕落の主役になるのはフィンウェとフェアノールの父子/カップルであり、ついでに言えば、ロマン主義的な暗い美青年、バイロン的叛逆者としてのカッコいい悪魔の特徴はフェアノールに取られてメルコールには残されておらず、彼は徹頭徹尾、道化に過ぎません。彼が楽園の二本の木を枯らし、三つのシルマリルを盗み去るという事件しか表面にはあらわれていないため、ここで犯された原罪が何かは長いあいだ知られないままでした。

 表面にはあらわれていない、と書きましたが、むろん、すべてはあらわれており、それが大多数の人には見えないだけです(たとえば、ヴァラールが原罪が犯された事実を知ったのがいつかは、テクストの中にはっきり指摘することができます)。世界は言葉でできています――トールキンの人工言語というのも、畢竟それを強調したものに過ぎません。トールキンの“異世界”とは、見るからに人工的な、書割、箱庭、ミニアチュールであり、外部から眺める一方、本に添えられた地図を身ながらその中を歩くべきものであって、先入観を持って外から近づき、解釈を押しつけるべきものではないのです(むろんそれは、普通の小説のように読めということ以上を意味するものではないのですが、こと“ファンタジー”となると、多くの評者はそれを忘れてしまうようです)。

 この箱庭世界は、一切を掌握して意のままにあやつる運命の支配者、“唯一神”イルーヴァタール、すなわち〈作者〉を戴く自己言及的芸術家小説でもあります。この世界に、実は宗教は存在しません。“唯一神”の意を受けて地上に降りるヴァラールは神々や天使では全くなく、イルーヴァタールにあらかじめその一部を見せられた映像(いわば予告篇)を実現すべく、アルダの基礎造りからはじまって、舞台装置をととのえてエルフや人間の目覚めを待ち、つつがない上演のためにあらゆる調整に腐心する撮影スタッフといった方が当たっていましょう。エルフもホビットも何があろうと神に祈ったりしませんし、超越的な天国も地獄も知られていません。驚くべきことに、死者を埋葬はしても、葬式という習慣さえ彼らにはありません。不死のエルフも肉体が損なわれれば死ぬことになりますが、その場合彼らは、同じ平面上にある「マンドスの館」に移るだけなのです。

 端的に言ってトールキンの世界は言葉と「萌え」からできています(だから、最近この場所で論じてきたテーマに絡めるなら、「萌え」の抑圧とホモフォビアがあっては絶対に読めないテクストの一つであるともいえます)。「コーラ」に載せた二篇は、平野さんがシャーロック・ホームズだとしたら私がワトスンとして書いたのですが、本家のワトスンよりはホームズと話しながらともに新しい発見をし、自分で考えを発展させもして、いくらかでも寄与をなしえたのではないかと思います。今回のブログではすでに公にしたものと重複する箇所もあるでしょうが、屋上屋を架するとは考えていません。これでもまだほんの基礎固めにすぎないのですから。なにしろトールキンが生涯をかけて作り上げた世界であり、読む方もそう簡単には行きません。アルダの地図を傍に気長におつきあい下されば幸いです。

 邦訳ではなぜかここが「闇の中へ」と訳されて、照応が不完全になっています。
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by kaoruSZ | 2010-08-15 23:19 | 日々 | Comments(8)