おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

カテゴリ:夜々( 1 )

 数々のよきものと同じように、ランボーもまた高校時代に同級生だったHによってもたらされた。
 私を神保町へはじめて連れて行ったのはHだった。東京堂でHは、岩波文庫の『地獄の季節』——★一つのあの薄い一冊を購った。それは私が生まれてからそれまでに目にした本屋の中で一番大きい本屋だった。それ以前、私が知っている一番大きな本屋といえば、上野中通り(アメヤ横丁の隣)の明正堂だったのだ、かなしからずや(中原中也は夭折したわが子を不忍池に連れて行ったときのことを、「そは坊やの見し水のうちにて最も大なるものなりき、かなしからずや」と書いている。ちなみにこの詩を私に教えたのもHだった。「広小路にて玩具を買ひぬ、兎の玩具かなしからずや」——兎のおもちゃかなしからずやというのがいいじゃない、とHは言うのだった)。

 今は建て替えられてしまった、旧制中学だった頃からさして変わっていなかったのであろう古色蒼然たる建物の中にあった図書室で、ランボーはヴェルレーヌを拳銃で撃ったのね、とHが言った。感に堪えたようにと形容したら、思い出を脚色したことになるだろうか。その話を、私はすでに知っていた。何年も前からすでに知っていた(だから意外ではなかったが、なぜ、Hがそのことに感嘆しているのかわからずにいた)。祖母の家で子供のときに見つけた、『世界の詩人』と題された古ぼけた本——母の年の離れた弟妹の誰かのものだったその本には、シェリー、ゲーテ、バイロンほか、キャッチフレーズめいた惹句をおのおのあたえられた詩人たち(たとえばボードレールは「『悪の華』の官能詩人」だった)が勢揃いしていた——の中で、「年若い流浪の天使」と名づけられた、彼の作品と人生の物語に出会っていたからだ。ヴェルレーヌが発砲してランボーの手を傷つけたことは確かにそこに載っていたが、それが何を意味するのかはさっぱりわかっていなかった。綺羅、星のごとき詩人たちを鏤めたロマンティックな文学史には、彼らの関係がどういうものかは明かされていなかったので。

 大学で、「ランボーによるエチュード」という教科書を使ったフランス語教師がいて、ランボーとヴェルレーヌを「ホモの元祖」と言ったのが気にさわったという話は昨年暮れに出した手製本「孔明華物語」のあとがきで書いたが、この教科書は、女子大を退学し、藝大に入るための予備校に通っていたHをその学校に訪ねたとき、羨ましがらせてやろうと思って持っていった。L'Etude selon Rimbaudというタイトルの下にArthur Rimbaudとあるのを見たHは、「アーサー・ランボーっていうの?」と不審そうな声を出し、「なに言ってんの、アルチュールに決まってんじゃない!」と私は答えて、そうだったとHも笑った。それよりあとだったか、『地獄の季節』の一部を原書で読む授業に出たこともある。すべて昔の話だが——つい昨日、『ランボー 自画像の詩学』(中地義和、岩波書店、2005)という本を買って読んでいるので、こうした話を書く気になった。

 話題を絞ろう——高校時代、Hの影響でしばらく詩を書いていた私は、それから十数年の時を経て、季節はずれにもまた書き出した。投稿した詩の雑誌に載ったのは「青ざめた無数の水死人が流れていった」で終る一篇だったが、Hにそれを読んでもらうためには、彼女が入院中の精神病院まで訪ねなければならなかった。風邪気味なのでといって着ていたピンクのパジャマのせいか、記憶の中の彼女より幼げに見えるH(それが生前の彼女を見る最後になった)は、「詩なんて読めるかしら」と呟き(私の先導者であり、かつては「魔術師[マージュ]とも天使[アンジュ]とも」思った人が!)、それでも目を通して、水死人のイメージに嫌悪をしめし、「なんでこんなこと書くの?」と問うた。実はこれは、中地訳では「そこをときおり、蒼白の恍惚とした漂流物、思い深げな溺死者が一人流れ下ってゆく」とある、ランボーの「酔いしれた船」の一行に由来する(正確には、この文句をもとに私が見た夢という迂路を経て)。ランボーのこの詩句自体はまた、ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』に由来すると中地は書いていて、海を見たことのなかったランボーがヴェルヌを読んだ記憶をスルスとしていることはこれまでにも読んで知っていたが、この本では具体的に示されていてまことに興味深い。

 そんなわけで、ここでこれから書くことは、「なんで」とHが私に言ったその答えになるだろう。あの蒼白の水死人たちがどこからやってきたかを、あまりにも遅くなった応答として書いてみよう(なんのために? 少なくとも、Hに読ませるためでないことだけは確かだ)。
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by kaoruSZ | 2005-03-21 12:47 | 夜々 | Comments(0)