おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

カテゴリ:にほんごのおけいこ( 5 )

 サトウハチローの作詞であることはもちろん、「うれしいひなまつり」が正式な題であるとさえ知らなかったが、どうも元凶はあの歌であるらしい。
 もちろん、やたらと聞かされ過ぎていなければ、華やかでしかもどこか哀愁をおびた旋律は今よりもっと魅力的であったろうし、歌詞もメロディにふさわしい。「お内裏様とおひな様/二人並んですまし顏」は、見過ごせる瑕瑾にすぎないと思っていた。雛壇の一番上にいる二人はともに「だいりさま」であるのを、作詞者が間違って覚えていて、そのことはみんな知りつつ歌っているのだと思っていた。

 ところが——お内裏様=男雛、おひな様=女雛という思い込みが、けっこう拡がっているらしい。前々から目にしていたが、今年はじめて気づいたのは読売新聞三月三日の「ぷらざ」欄——八人姉妹の七番目として生まれ、幼いとき自分の雛人形がなかったが、今年、姉の一人からビーズで手作りした「おひな様とお内裏様」が送られてきたという、五十五歳の人の文章である。それ自体はいい話だし、なんといっても書き手は素人だ。ここにも、と思いはしたがそれだけだった。
 その後、たまっていた新聞の切り抜きをしていて、二月の終りの朝刊の、最近の雛人形の傾向という記事を見た。お内裏様とおひな様をのせた台が収納ケースとなっていて、ひな祭りがすんだらしまえると冒頭に書いてある。女性記者の署名記事。これも歌だけを信じて育ったクチか(だったら校閲部でチェックしなければ)。

 私のおひな様は縦長の雛壇がガラスケースに収められており、ケースの下部が観音開きになっていて、その中に木目込の人形と道具がしまわれていた。一年ぶりにそれを取り出し、一つ一つ薄紙をはがして段に並べる。幼稚園にも同じタイプのものが飾られていたから、雛人形とはそういうものだと思っていた。だから、小学校の同級生の家に招かれて、大きな(つまり普通の)雛壇をはじめて見たときには驚いた。私の内裏様(女の子の方)はおかっぱの髪に瓔珞の下がった冠を乗せた子供だが、このおひな様は大人で髪を結っていた(大人のおひな様、子供のおひな様、という言い方は、母がしていたもの。余談だが、NHKのかつての「人形劇 三国志」は大人の三国志、マンガ「STOP! 劉備くん」はそのキャラを木目込人形の子供にした三国志だと私は思っている。あくまでも外見の話)。牛だの駕籠だの鏡だの、見なれないものも並んでいる。トイレを借りるため座敷を抜けようとして、床の間に、内裏様だけの古びた雛があるのを目にとめた。同級生のお母さんから「小母さんのおひな様もいいでしょ?」と声をかけられ、頷いた。

 家に帰って母に話すと、それは大人のおひな様で、お母さんのおひな様もそうだったと言われた。母は四人姉妹で、三人目の女の子が生まれたとき、おひな様をもう一組買い足したという。のちに見た台湾時代の写真には、大小二組の雛壇(おひなさま以外の人形も飾られている)を背景に、よく似た笑顔の三姉妹に加え、四人目に生まれた男の子が面伏せな感じで写っている。「うれしいおひなさま」(昭和十一年)の歌が作られたのと同じ頃、この子が生まれた計算になる。長姉である母が抱いているのが私が夏休みに遊んでもらうことになる叔母で、末っ子の叔父の姿はまだない。

 三番目の女の子はその後病気で死んだ。父親の腕から採った血液をじかに輸血したけれど、助からなかった。長男は二十歳[はたち]で結核で死んだ。六月に死んだその子の忌日に供えるのに庭の白百合はいつも間に合わないのだと晩年の祖母から聞いた。段飾りを玄関に、お母さんのおひな様を座敷に飾っていた一家は、のちにお父さんが事業に失敗して夜逃げした。母たちの雛人形は引き揚げるとき川に流してきたという。赤い巨大な雛壇が人形をのせて川をゆく。私が思い浮かべた光景は、後年、ATG映画特集で寺山修司の『田園に死す』をやったとき、三百人劇場のスクリーンに現出した。

 私はフェミニストであるので雛祭りに反対しないが、おひな様を早く片づけないと嫁に行き遅れるという会話はいい加減やめにしたらいいと思う。それの反証として私がいると主張するのにも飽きた。以前、私が一番若いくらいだった職場で、卵の殻に顏を書き、着物を着せつけた内裏様が飾られたことがあった。雛祭りの翌日、「○○さん[私の本名]がいるから早く片づけなくちゃ」という声を聞いた私の上司は、意味がわからずこう言った。「え? ○○さんが食べちゃうの?」無知は美徳である。それともあれは、私と「嫁に行く」こととが全く結びつかなかったのか。あるいは彼は、あれをゆで卵だと思っていたのか。サインペンで黒々と塗った卵の殻をばりばり食べてしまいかねないと思われていたのではまさかあるまい。
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by kaoruSZ | 2005-03-09 14:14 | にほんごのおけいこ | Comments(0)

本八日未明

 海底に夜ごとしづかに溶けゐつつあらむ 航空母艦も火夫も  塚本邦雄

 同人本の小説で、台詞に引用された「海ゆかば」の歌詞「水漬く屍」に「みずつくかばね」とルビが振られていたのを、これは「みづく」と読むのだとそっと教えたところ、なんとかいうマンガに「みずつく」とあった(だから正しい)と言われ、鼻白んだことがある。辞書で「みづく」を引いてみると、例文として「海ゆかば」そのものが出てくるのだが。

 ところが、思いついてネットで検索したところ、「みづく」が大半ではあるものの、わざわざ「みずつく」と仮名を振ってある例もある。むろんネットは悪貨の温床とはいえ、なんと、「日本を想」い、「英霊に哀悼の意を表する」サイトまでが「みずつく」としている(よそ事ながら、そんなことでいいのか。しかし……もしかして本当にこう言う?)

 あらためて別の辞書で「みずつく」を見ると、なんとこの語で見出しがもうけられており、「みづく」とは同義語とある。言葉としては「みづつく」もあるらしい。であれば、こちらの方が古形だろう。(ただし、文語の現代仮名づかい表記はみっともないので、「みずつく」はやめた方がいいと思う。)先日、小学唱歌について書かれた新書で、「海ゆかば」の楽譜の写真を見た。歌詞は間違いなく「みづく」であった。

 家持がステレオタイプの文彩で聖武天皇を称えた長歌のあとに添えられた反歌は、千年ののち荘重なメロディーを得て甦ることになった。むろん、家持は、そんな広大な規模で水づき草むすことになる未来の屍など知る由もなく、大伴氏のdutyを「言立て」する修辞に力をつくしたにすぎない(作品に覚えていてもらった作者などいたためしがないとは、天澤退二郎の言葉だったか)。さらに、曲がつけられた昭和十二年には、海にも太平洋の島々にも、日本兵の屍はまだ放置されていなかったはずである。それが、ラジオから連日流されていた(上記の本によれば)音楽が止んだときには、歌詞の通り海にも地にも水漬き草むす屍累々となっていたわけだ。「海ゆかば」は美しい。その後ろに二百万の死者がいるのだから美しくないわけがない。 

 もう一箇所、ウェブでは、「大君の辺[へ]にこそ死なめ」の「辺」に「べ」とかなを振ってある例が散見された。私の父は昭和と同い年、小学一年の学芸会で主役の満洲国代表をやったと自慢していたものだ。世界の国々の代表が満洲国建国をことほぐという趣向で、顏を黒く塗った子は手に槍と楯を持ち、「アフリカではこの槍で猛獣と戦ってをります」と挨拶したという。ちなみに父の台詞は、「昭和七年三月一日、新たに誕生した満洲国、王道の下、楽土の上、三千万民衆は歓喜に満ちてをります」。(この人数でよかったかなと思ってウェブで調べたら、満洲国国歌に「人民三千萬人民三千萬」とあった。)満洲国代表を七つで演じた子供は、二十になった昭和二十年に召集されてその満洲へ送られ、満鉄の罐焚きに従事したのちハルピンで機関士になる訓練中に敗戦を迎え、遺棄されたハルピンの陸軍倉庫で食糧を調達、仲間三人で一路釜山を目指し、終戦の詔勅の半月後には日本に帰りついたのだが、「へにこそ死なめ」についてはこう言っていた。

「天皇陛下がおならをすると、あまりの臭さに兵隊がみな死んじゃうんだぞ。毒ガスだ!」

 というわけで、当時「べ」でなく「へ」と歌っていたことは確実だ。(こういう場合でも“陛下”を忘れないところが大正生れ。)

 私が日米開戦の日を知っているのは、ニューギニアで草むす屍となった(なっている)母方の祖父の戦死公報が届いた日付でもあるからだ(その時期になると母が繰り返し言っていた)。妻と未成年の子女五人を残しての、四十八歳の死であった。こちらは昭和十八年だったか、六十年たって祖母も母も亡く、すぐには確かめられない。

  死者なれば君らは若くいつの日も軍装の汗したたる兵士  
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by kaoruSZ | 2004-12-07 21:48 | にほんごのおけいこ | Comments(0)
 お通夜を「おつうや」と言う人がいる。先日、ついに、NHK教育テレビのナレーションまでがそう伸ばすのを聞いてしまった。千住を「せんじゅう」と言われたように居心地の悪い気分。番組は冠婚葬祭のマナーを教えるという内容で、講師はさすがに伸ばさなかったが。そういう言葉を漢字から覚えるというのがそもそも不思議だ(千住はともかく)。子供の頃、「今夜はおつやだ」と大人が言うのを、耳にすることはなかったのだろうか。

 普段背広を着ない父が夜になって黒い服を着込むと「おつや」だった。幼い私の想像の記憶の中の「おつや」では、黒衣の人々がもの言わぬ死者を取り囲み、お椀に入った「おつゆ」を陰気にすすっている。幼児は未知の言葉を、音の類似に頼って理解する。というか、音の類似の影響をまぬかれることは不可能だ。だから、「カチューシャ」という語は「注射」が中に隠れているのでいやな気がしたし(それが綺麗な髪飾りを指すとわかっていても)、一年の担任だった「はりや先生」が盲腸になって休んだのは、名前の中に「針」を持つからだった。代理の先生がはっきりそのことに触れるのを、針谷先生の病気を告げられる話のあいだじゅう、私はずっと待っていた。その名からして、針谷先生はお腹を切られて針で縫われる運命だった。そして誰もが私と同じように考えていると思っていた。

「すまし汁」とも「おすまし」とも、ついぞ聞いたことがなかった。「おつけ」に対して、醤油で味つけした汁は「おつゆ」といった。おつゆは「吸う」もので「飲む」ものではない。そう私に教えたのは父である(たしかに、「お吸い物」という言葉もある。当時は知らなかったけれど)。
 それまでにすでに母から、「おつけ」であれ「おつゆ」であれ、コップの水を飲むように片手でお椀を取ったまま口をつけてはいけないこと、持ち上げたお椀を箸で実を押えるしぐさをしながらかたむけて、汁を口に入れるのであることは教わっていた。しかし父は、液体を唇から喉へと通すその単純な事実さえ、水とは区別するよう言うのだった。はじめそれは理不尽なことに思われた。「飲む」でどうしていけないのか。おつゆだって水だって、同じように「飲み込む」ではないか。

 水は冷たく、おつゆは熱い。だが、お茶だって熱いけれど、湯呑みからお茶を吸いはしない。今思うと、箸が介在することが分かれ目になるのだろう。スープなら、吸おうが飲もうが好きにしてくれていい。だが、「おつけ」や「おつゆ」は飲まずに「吸う」。
 幼い私はお椀とお箸でおつゆを「吸った」。「飲む」こととの違いを理解した。そうやって、物理的事実とは別の秩序に、言葉によって分節された文化に属するようになった。
 そんなわけで、とみに耳にするようになった「味噌汁を飲む」という言いかたを、私はずっと憎んできた。そう言うひとは、片手でお椀を、コップを持つようにつかむにちがいない。そしてその中には、押えるほどの実もはいっていないにちがいない。

 晩年の父に、覚えていないだろうけれどと前置きしつつ、ふとその話をする気になった。おつゆは飲むものじゃなく、吸うものだと教わったよね。覚えているともいないとも父は答えなかった。そういう話をするのなら、もっと早くすべきであったろう。しばらくして返ってきた言葉は、「どっちでもいいんだよ」であった。

 私がむいては手渡す甘栗を、父はゆっくりとしがんでいた。飲み込むとき、喉仏が大きく上下した。ときどきは自分の口にもほうり込みつつ、愛想のない声が「もういい」と言うまでそれを続ける。湯呑みの中の冷めたお茶を父は最後に飲み下した。
 ペットボトルを買いおいても、父には蓋があけられなかった。冷蔵庫におかずがあると言って出かけても、そこまで行くこともせず眠りこけていた。薬のせいで白内障が進行し、時計の針も新聞の日付も見分けられなくなっていた。目覚めると翌日だと思い込み、ゆうべ帰ってこなかった(と信じる)私の職場に電話してきた。家にあるのは年代物の黒電話で、勤め先の番号は大きく書いてあったとはいえ、正確に八回ダイヤルしなければつながらない。「よく間違わずにかけられるね」私の言葉に、「必死[しっし]だよ」と父は答えた。あるいは何度も間違えた末、奇蹟のように通じていたのか。乳房にすがりつく赤ん坊は飲むも吸うも区別しない。父にとっても、いつの間にかそんなことはどうでもよくなっていたのだった。すぐに私にとっても、それはどうでもよくなった。飲もうが吸おうがともかくそうしているうちは、父はまだ生きているのだった。
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by kaoruSZ | 2004-10-06 20:41 | にほんごのおけいこ | Comments(0)
「ウッソー」とか「ホントー」とかが流行って問題になるずっと以前から、豊川の人たちは「ホントー、ホントー、ホントー」と、リズミカルかつエネルギッシュに発声していた(父に指摘されて気がついた事実。次に行ったとき、こっちの言ってることを聞いてるのか? と疑わしくなるくらい、ひとこと発するたびにすごい勢いで「ホーントー」(とーにアクセント)がはねかえってくるのを、叔母を相手に確認した。少なくとも叔母の場合、相手の話を黙って聞くという時間はなく、自分が話すか、「ホーントー」をあくまで叫びつづけるかのどちらかなのだ。(はじめて訪れたとき「豊川の人は疑いぶかいと思った」とは父の冗談(本気?)。

「ら抜き言葉」も三河弁では標準だ。「食べれる」「着れる」はあたりまえ。(子供の去年の服を出してみて、「もう大きくなったで、着れんくなったね」)。腹が立つことは、「おこれる」という。(例:「失礼なことを言われておこれておこれて」。可能というより、自然にそうなるという感じ。)「食べる」は「食べりん」とも活用(?)する。子供の頃、叔母の家を訪ねると、「上がりん」と言われ、「食べりん」とお菓子や御飯をすすめられた。
 
 祖母は十九で、台湾で警察官をしていた十[とお]年上の祖父と結婚、海を渡った。上司の奥さんたちを玄関で迎えた際、「上がりん」を最上級にした敬語を使ったところ、みんなにクスクス笑われた。客が帰ってから、「お上がりましょう」では自分が上がるみたいでおかしかったのだと祖父(祖父も三河の人)から説明された。台湾に来ているのは、距離的に近いせいで九州出身者が多かったという。「自分たちは「ごわす」とかヘンな言葉使ってるくせに」と祖母。

 牛久保というところ(飯田線の駅がある)の商店街で、洋品屋のウィンドーに「丈夫いシャツあります」と貼紙がしてあったという。父が仕事で豊川に滞在していて母と出会った、戦後まもない頃のことだ(粗悪品も多くデザインなどは二の次、丈夫が一番だったのだろう)。「口で言うんならまだいいけど、紙に書いちゃうんだぞ」父が二度目か三度目にこの話をしたとき、私は、白髭橋のたもとで見かけたチャーミングな貼紙の話をしてやった。

   白しげ橋の向うに引っ越しました。○○[名前]

「じょうぶいシャツ」を笑えない。ヒとシが逆になる父も、これには同意してくれた。
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by kaoruSZ | 2004-09-22 15:13 | にほんごのおけいこ | Comments(3)

おつけでごはん

 小学生のとき、遠足に行って守るべきことを挙げたプリントに、「ゴミをふてない」とあった(子供がガリ版で作ったもの)。私自身、かなりあとまで布団を「ひく」のだと思っていた(だって、たたんであったのを広げるとき、ひっぱるでしょう? 座布団をあてるときだって)。

 耳から覚えるから間違わない、というわけでは必ずしもない。その頃、黒猫フィリックスのマンガを毎日テレビでやっていたが、同級生の男の子二人は、私がフィリックスと言うと、あれは「ピリック」ちゃんだと主張する。「ピリックちゃん、おりこう猫ちゃん」(そういう主題歌(原曲)だった)だというのだ。「じゃあ、百万円かけよう」と男の子たち。私は毎朝、新聞をすみからすみまで読んでおり、「フィリックス」という文字もTV欄で何度目にしたかわからない。これは絶対あたしのほうがあってるんだからね。何回念押ししても、いい、間違っている方がひゃくまんえんだと男の子たち。

 翌朝、百万円は私のものに(って、どこにあったんだ)。青くなっている二人を、「いいよ」と鷹揚に許してやった。

 幕間が「まくま」でないのは、かなり有名な話らしい。検索すると、指摘する文章がたくさん出てくる。
 ルネ・クレールの『幕間』をはじめて見た頃、私は「まくま」と読んでいた。父と話していて何の気なしに「まくまに」と言ったところ(ルネ・クレールの話ではもちろんなく、芝居の話でもなく、映画の休憩時間をそう呼んだのだ)、「まくあい」だと言われてびっくりした。(百歩譲って)そうとも言うのではないかという私に、「まくまなんて言わないよう!」と父。
 幼い父は祖母やよその小母さんたちと一緒に、浅草で芝居見物をしたという。祖母は目に一丁字ない人だった。文字に引きずられて読みを間違うことなど、ありえなかったわけだ。

 芝居の帰り、一行は鰻屋へ入り、鰻のほかに、一人の小母さんが「おしんこ一つ」と注文した。父はしんこ細工が出てくるのかと期待して、おここが運ばれてきたのにがっかりしたという。
 東京では「おつけ」、「おここ」(おこうこ)と言い、味噌汁、漬物とは、日常、食卓で聞かれる言葉では(少なくとも私の育った環境では)なかった。(ふだん食べているものに対して、ずいぶん即物的でよそよそしくないだろうか。「日本人は米を食べる」と言うことはできでも、「朝食には米を食べよう」と言う人はいまい。)かといって、たとえば「おみそ汁」だと、丁寧すぎる感じがする。そう言う人は「おソース」とかも言いそうだ(私の偏見で、実際には言わないかもしれないが。)

 母方の祖母の家があった豊川では、おつけを「おしる」と言った。「おしる」というと、夏の朝のおしるの実——ナスや、じゃがいもや、東京では売っていない莢の長い豆(さやを食べるのだが、成長した豆がひとつふたつ入っているとまた嬉しい。祖母が畑で作っていた)——のあっさりした味と、i音が強めの発音で「おしる」という祖母の声を思い出す。

 オウム真理教から逃げ出した信者二人が、一般の人に助けを求めてきたときのこと。アパートの大家をしているというおじさんが二人をかくまった際の様子をテレビで喋っていた。いかにもきっぷのよさそうな歯切れのいい東京弁を話す年配の人で、「あったかいごはんとおつけを出してやったら喜んで食べた」という。そこに重なった字幕——「あたたかいごはんと漬物を出したら……」。

 違うよ!

 ちなみに、「おしんこ」の方は「おしっこ」みたいな感じで、まともに口に出す気になれなかった。
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by kaoruSZ | 2004-09-22 15:10 | にほんごのおけいこ | Comments(0)