おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

カテゴリ:ジェンダー/セクシュアリティ( 54 )

 以下は標題についてtwitter(http://twitter.com/#!/kaoruSZ)に書き継いだ断章をまとめたものである。件の金メダリスト、私は全く知らなかったが、歌川たいじ氏にしても同様で、ゲイだとカムアウトしているマンガ家で選挙に出たりもしているらしいが、知名度がどれくらいあるものか判らない。しかし、ゲイ男性の中では当然のことながら有名なのであろう、内柴事件への彼の発言に対し、twitterにおいて非難が相次いでいるのを見た。それについて思うところを書いたが、twitterで拾うのはいかにも読みにくいのでここに置くことにする。なお、文中に出てくるデヴィ夫人によるセカンドレイプとは、女である被害者は強い男性から性交されることを望んでいたはずで、事後に相手の態度が変わって訴えたのだろうと断定的かつ恫喝的にブログに書いたことを指す。

誤字脱字、段落のみ一部修正、ゴチック等の編集を加えた。なお、原文はtwilogで読むことができる。http://twilog.org/kaoruSZ

2011年12月09日(金)
(…)TL等を見てどうにも気分がよくないので「内柴く〜〜ん、相手がゲイだったらみんな大歓迎なのに〜〜」発言について書くことにする。急いでつけ加えるが私は歌川たいじ氏のこの発言で嫌な気分になったのではない。「せんせ〜〜い、歌川くん悪いんですよ〜.」という騒ぎにである。

参照先http://togetter.com/li/224709 まず、歌川氏がゲイなら被強姦OKと言ったのではないことを確認したい。ゲイなら同意の下に性関係を持てたろうと言っている。これは状況を異化するものではあっても被害者軽視ではない。勿論「デヴィもイケメンの味方なんだw」発言はNGだが。

 歌川発言は第一義的には加害者への揶揄だ。ゲイも強姦される事が隠蔽されるというがそれはまた別の話。ここで女と同じように男もと言うことは、男にとっては軽口の種にし笑い飛ばせることが女にはシャレにならないという非対称性を隠蔽する。誰も、ゲイならみんな内柴オケなのかなんて思わないよ。

 男同士が快楽を目的に性関係に自由に合意することと、女が男に同意することとは違う。輪姦でも同意ありと言い張るリアリティの無さは、金か愛情か婚姻か理由づけは何であれ女はそもそも男に「やられる」べきものと信じられているからだ。男の身体を持った者がこのように規定されることはありえない。

2011年12月11日(日)
 歌川発言続き。私は氏自身は軽薄と思うが悪感情は持たない。女の被害の大きさが分らないのは単に男だから。被害者を軽視ではなく女に無関心なのだろう。ちなみに「関心」満々でセカンドレイプする男最悪。私が不快なのは発言を機に湧き上った怒りと反省の道徳的言説(女のためには全くならない)だ。

 ゲイが性的暴力やセクハラ歓迎なんてありえないとゲイ男性がツイートしていた。歌川氏そんなこと言ってないだろう! コーチに姦られるファンタジーなんてゲイポルノには幾らでもある。レイプされる性的空想について語る同性に男が誤解するからやめろと干渉する女とおんなじ事をなんで男がやるのか。

 今のは修辞的疑問ではない。元発言を離れて(曲げて)何が忌避され、嫌悪されてるのか。やっぱり「犯されたがっている女」というイメージだろう。ゲイが「女」扱い、娼婦扱いされるのが嫌なのだ。やおいが男女関係の写しという非難が、要するに女扱いされたくないミソジニーから来ているのと同根。

2011年12月22日(木)
 歌川発言もう収束したのだろうし、発言自体には興味がないと前にも書いた。むしろあれへの反響の不愉快さの正体について9ー11日までにツイートし、別口の議論で中断したが、少々補足して終りたい。

 twilogもあるが簡単にまとめれば、私の嫌な気分は発言を機に噴き上った怒りと反省の道徳的言説にあり、元発言を離れて(曲げて)、嫌悪、忌避されているのは「犯されたがっている女」というゲイイメージであり、それは女扱いされたくない「ミソジニー」から来ていると論じた。

 女が道徳に頼るのは(感心しないが)理解できない訳ではない。「これから犯します」的言説や、同意の有無が女に不利に解釈されるのでも分るように、女はスキがあれば犯してもよい存在とされている。礼儀や品性や女の貞淑さでしかそれが押しとどめられないと分っているから多くの女は道徳に走る。“正しい女”でないとひとたび裁定されればどんなことになるか。デヴィはそれを利用してセカンドレイプした訳だが何をしているかは本人重々承知していよう(彼女自身その中で生きてきた訳で)。今回私が一番気分が悪かったのは“歌川氏に道徳的非難を向けた人たちが自覚なしにやっていた事”だ。

 歌川氏の「ゲイだったら大歓迎」発言は、ゲイに対する偏見を増す―見境いなしに相手構わずセックスし長期の関係を築けないと見なされる―と非難されていた。しかし、「唯一の相手との永続的な関係」とは“正しい異性愛”のコードそのものではないか。それも、実際には女に偏って適用される種類の。女にとっては強制であり抑圧であるようなものを、道徳的であれと規範から強制されている訳でもないゲイ男性がなぜ称揚するのか。ゲイの関係性やパートナーシップの考察は、ゲイの性被害者の問題同様、この事件とは別の議論だろう。

 女から誘うとは突きつめれば売春婦のものとされる行為である。ゲイから誘われホモセクシュアルパニックに襲われたと称する加害者が無罪になる時、そのゲイとは「女」であり、その根源にあるのはゲイへと向けかえられたミソジニーだ。

 正しくない、男を陥れ、破滅させるような女(誘っておきながらレイプだったと騒ぎ立てるような)は何をされても仕方がない。そのような女こそデヴィが被害者を仕立てようとしたイメージだ(彼女は男には文句を言わず、夫人という称号を手放さず、けっして騒ぎ立てずに他の女を叩く事に向かう)。

 ゲイが自分たちはそんな「女」ではないと言い立てたところで本物の女を抑圧するだけだ。歌川氏という、ゲイの“ふしだらさ”を衆目にさらしてしまった、恰好の標的を得て、男の不道徳をなじる女のように生真面目に、貞淑に振舞いはじめる人たちは、どんな先生にほめられたいのか。そうする人にはそれなりの動機があろうがそれが被害女性のためでもあるように語られるとしたら欺瞞でしかない。女の場合は、自分は貞淑であり“ふしだらな女”ではない、従って保護や支援に値するというアピールをし続けるしかないが、ゲイは男なのでその気になれば「女」そのものを他者化できる。

“正しい”ゲイイメージを保とうとするゲイ男性は、戯れに女を演じることはあっても、いつでもそこから降りる特権を持っている。しかし、スティグマは生物学的女性に残され、女はそこから逃れられないのだ。

2011年12月26日(月)
RT @noname_gay: @me_me658 「ゲイならレイプ歓迎」に対して、マジで「僕はゲイだけどレイプは嫌です!」と批判するのは実はあんまりピンとこないんですよね。この元発言から本当に「ゲイはレイプOKなんだ!」って思う人はさすがにいない気がしたので。このあたり受け取り方は人によって異なるかもです。

“マジで「僕はゲイだけどレイプは嫌です!」”←学級会の発言かと思ったわ。

2011年12月27日(火)
 12月2日に、“男は「痴漢総攻撃されるゲイAVを目にしても」脅かされないが女はそうでないことについては構造的な理由(実現可能性の高低ではない)を指摘できるはず”と書いてそのままになっていた。続きをやることにする。

 @NaokiTakahashi さんが 「すげーもんがあるなあとか、人によっては嫌悪感とかは」あるかもしれないが恐怖は感じないだろうと書かれていた通りで、男はそういう表現を怪物に襲われているのを見るように傍観者として見ることができる。面白がるも異常視するも自由。

 しかし女にそのような“遊び”(機械に“遊び”があるというような)の余地はない。それは、単に現実の攻撃が高い確率でありうるという理由からではない。男は性的対象として描かれたとしても、それが男の本質だなどということにはならない。しかし女は制度的にそのような存在として規定されている。ヘテロ男性が男に犯されるポルノがヘテロ男性にとって脅威にならないのは、自分に向けられた欲望を「否定するのが当然のものとして」否定できるからだ。

 男は、同性からの欲望を、自分の欲望は別にあり、それは女との性交だという、文句のつけられようのない理由で否定することができる。自分を狙わないでくれよと言ったとしても、それは脅えによるのではない。男には、「男のファンタジーを内面化して男に相手にされる」必要は全くないのだ。

 女にはそういう態度はありえない。本当に拒絶したら女としての居場所がない。道徳を楯にして拒むか、それとも応じるか。“正しい女”になるか“娼婦”になるか。拒否することも受け入れることも織り込み済みの反応であり、レイプとはそうした状況を極限化したものに過ぎない。

 言うまでもなく、正しさの範囲は時代によって変わる。「結婚を前提に」「許し」ていた人たちから見れば、今の女は“娼婦”としか思えまい。しかし、もちろん“娼婦”が性を謳歌している女というわけではないので、「男の性的ファンタジーを内面化して男に相手にされる」ことが素人女にまで要求されてきたとも言える。“正しい女”であれば守ってもらえた過去に較べて、別の部分でより苛烈になっているとさえ言える。

 この話、歌川発言をめぐる一件と、実は通じるものである。あれに対する(主に)ゲイ男性の道徳的リアクションに覚えた私の違和感、不快感については、9-11日及び22日にポストした。さらに、@noname_gayさんの発言は頷けたので上にリツイートしてあるが、彼はまた次のようにも言う。

RT @noname_gay:@me_me658 はい、「「ゲイは歓迎」って言ってるだけ」的な要旨でしたよね。自分も内柴イケるので可能ならヤリたいとは思っています(笑)ちなみに「ゲイならレイプ歓迎」については、ゲイの場合レイプさえもファンタジーにすることがあるので、自分はそれほど問題視はしてませんでした。

 前半は、歌川氏が「レイプ歓迎」と言っているのではないことの確認。後半について―「レイプさえもファンタジーにする」のは別にゲイに限ったことではないが、女の場合との違いは、通常女は歌川氏のように能天気には公言できないということだ。現実の強姦の被害者が公然と誹謗されるのだから。

 ここで理不尽な目にあっているのは女であってゲイ男性ではない。ゲイ男性がヘテロ男性の目から女と見なされることがあったとしても、どこまでもゲイ男性は男である。つまり、本人の固有な性的欲望があるのが当然(男だから)と思われている。つまり、ヘテロの男が自分には固有の欲望(固有のファンタジー)があると主張して他の男からの欲望を拒否できるのと全く同じように、ゲイ男性は(男だから)ヘテロの男と違うファンタジーを持つことを当然と思われている。

 むろん、欲望とはそのようなタコツボ的に決定されたり、別々に固定されたり、それだけが宙に浮いているようなものではなく、流動的、横断的な、“遊び”のあるものであり、それは女にとっても同様だ。だからこそ、彼女の欲望は男にとっての女という枠には収まらないのだ。しかし、女には男のファンタジーを補完することしか許されず、女として生きるために女は男の考えを知ろうとし、必死に男に合わせようとする。逆に男が女を分らないのは当然のことながら彼女が予定調和的に男を補完する存在でなどあるわけがないからで、単にその余剰の部分を男が謎と呼ぶのだ。

 こうした事情が呑み込めているとも思われない、ためにする学級会的議論の不愉快さについてはすでに述べた。繰り返しになるが、男のくせに女を抑圧する女の真似をしてどうする、ということだ。
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by kaoruSZ | 2011-12-29 20:26 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)
 以下の文章は、最初、去る8月15日に発行された「Web評論誌コーラ」14号に載せるつもりで書かれた。しかし、編集人に掲載を断わられ、理由の説明が納得の行くものではなかったので、掲載予定だった連載原稿を引き上げ、今後の寄稿も中止した。なぜ「コーラ」で意見表明することに拘ったかは、本文に書いた通りである。

 時間が取れればこの本をもっときちんと批判したいところだが、思うにまかせないので、元原稿に手を入れたものをとりあえず公表する。後に少々追記を加えた。

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私は絶対安全ポルノを支持しない

                         鈴木 薫


 
 この場を借りて、守如子の著書『女はポルノを読む――女性の性欲とフェミニズム』についての筆者の考えを表明しておきたい。というのは、「コーラ」2号で私が守さんの「ユリイカ」に載った論文「ハードなBL その可能性」を好意的に紹介した文章、「やおい的身体の方へ」
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/eiga-2.htmlの一部がこの本に引用されている上、あとがきに並ぶ協力者への謝辞の中には私の名前もあるからだ。しかし私はこの本をクズだと思っている。

「コーラ」2号の拙稿で、私は守さんの“可能性”を最大限引き出そうと努めたつもりである。しかし本書の中で守さんは、そこから私の文意を曲解して引用している。また、個人的な会話の中で私が話したことを、自分の意見であるかのように書いている(これについては本人も“うっかり”出典を記さなかったと認めたが、この件についての話し合いはできていない)。これらの詳しい内容については今後明らかにして行きたい。
 
 しかし、実のところ、そうした個人的な事情は瑣末事に過ぎないと思えるほど、本書の内容には問題が多い。守さんはこの研究に十数年を費やしており、御本人が素晴しい本ができたと思っているのなら私がそれに口を挟む理由はない。ただ、私がこの本の内容に賛同していると思われるのは迷惑なので、まずその点だけははっきりさせておきたい。

 今回は一つだけ具体例をあげておくにとどめるが、本書の最後で、守さんは奇妙な議論をしている。暴力的なアダルトビデオを見て、自分が性暴力を受けたような恐怖感から逃れられなくなってしまったという、あるフェミニストのエピソードを受けて、ビデオ制作時に強制や暴力がなかったという証明(「アダルトビデオにメイキング映像をつけることを義務づけ、出演者に対する契約違反がないかどうかを示すといった方法」)を商品に付けるというアイディアを提出しているのだ。
「登場する人々がいやな思いをしていないことを何らかの形で提示することは、登場する人々の労働条件をよくするためにも、視聴者の安全化を図るためにも意義があるだろう」(本書213頁注)。

 ファンタジーの話だっだはずが、こういう話題へ横滑りすること自体おかしいが、どうしてこのような発想になるのか、奇怪ではあるがわからないこともない。守さんはかのフェミニストがポルノを批判していたそもそもの原因である、男性のヘテロセクシュアリティの覇権性の問題を直視できず、“安全化”という偽の問題にすりかえたのだ。

 男性のヘテロセクシュアルなファンタジーは、いわゆる「多様な」ファンタジーの一つではない。それは現実を規定する覇権そのものであり、それ以外のファンタジーと同列と見なせるような相対的なものではないからだ。 それは「現実であるとされているファンタジー」であって、相対化されうるとすら思われていない。たとえ現実離れした内容であっても、そのファンタジーを抱く、欲望する主体としての男の地位は揺らがない。女とは、つねにその欲望に応えるものとして召還され、その欲望を満たすべく存在するものとして位置づけられる。原理的に言ってヘテロセクシュアルな男性主体は、自らの受動性を否認し(受動性は女として外在化され)、性的なものとして存在するのは女である(それが女の本質である)とする一方、彼自身は同性に対して受動的になること(=女になること)を最大のタブーとすることで成立する(ホモフォビアの起源)。このように男性のヘテロセクシュアリティは、単なるポルノにとどまらない、基本的で広範な「現実」を構成している。ポルノをこわがるフェミニストは、現実とフィクションをいたずらに混同していたのではなく、この幻想(つまり「現実」)の圧倒的な力を恐れていたのだ。

 犯される(お望みなら、暴力的に)というファンタジーは、それ自体なんら問題のあるものでも、特別なものでも、驚くようなものでもない。レオ・ベルサーニが「少なくともそれが構築される段階では、セクシュアリティはマゾヒズムの同義語である」と言っているように、根源的なものでさえある。しかしそれは、なぜ「女が犯される」という形としてしか提示されないのか(念のため言っておくと、これに対立するものは、男が女にではなく、男が男に犯されることである)。なぜ、女でないとだめなのか(なぜ、女が“男同士”を好むのかと訊く前に、こう尋ねるべきなのである)。ヘテロセクシュアルに主体化された男にとって、男(自分)が犯されること(それが快楽的であること)はファンタジーとしてすら認められず、だから、外在化された〈女〉にファンタジーを投影するのである。言うまでもなく、そうした男のファンタジーに対応するものが女の側に本質的にあるわけではない。

 しかし、女の性的空想やマスターベーションといったトピックに向けられる男の関心は、女のファンタジーが自らのそれを補完するものであってほしい(あるべきだ)という期待(と確信)に基づいている。女が自分の思うようなものでないと知ることは、しばしば男の側に、女に対する強い蔑視や怒りや憎しみを引き起こす。「女は何を望んでいるか」(これはフロイトの問いだ)の真実の答えなど、本当は誰も聞きたくないのだ――女の性的なファンタジーが“あなたと性交すること”以外であるなどとは。女には実のところ、男との関係性の中で娼婦としてふるまうこと以外、想定されていないのだし、そういう夢想をしている女ということになれば、容易にポルノグラフィーの(ポルノとは娼婦の意味だからこれは同語反復だが)対象にされる。

 守さんはもともと、男の異性愛ファンタジーの中の〈女〉が、彼女自身がその一人である現実の女と同一視されることに異議申し立てをしたかった、そして、女も男と同様、性的な表現物を積極的に楽しめる、固有の性欲を持った存在であり、哀れな被害者などではない、性を享楽する主体であると主張したかった人のはずである。しかし守さんは自分の性的ファンタジーを認めてもらうには、男性のヘテロセクシュアリティの権力性を批判してはならないと思ってしまった(ついでに言えば守さんは、受動性がタブーだからこそ、男にとって受動的になることが禁じられた夢であることもわかっていない。それだから、ポルノに表現された男のセクシュアリティをたんに攻撃的なものと見誤るのであり、その点でビデオをこわがるフェミニストと本当は変わらない)。一方彼女は、フェミニズムにはあくまで恭順な態度を取る。その理由はいうまでもなく(本書を読めばわかるように)、フェミニズムとは彼女にとって、自己の正当性を保証してくれる不可欠なドグマであるからだ。

 守さんは制度的な「男性のヘテロセクシュアリティ」の前では思考停止し、“私たちのファンタジーはドグマに沿った「正しい」ものだから許してください”としか言えない――男に対しても、ポルノに反対するフェミニストに対しても(安全ポルノの証明とは、言ってみれば「正しく」なければ女は楽しめないと主張しているわけで、これほどまでにリアリティのない主張がよくできるものである)。これは個人の(性的嗜好を含めた)人格よりドグマが優越することを自明とする、女性の性的人権を認めているとは、到底言いがたい態度である。これでは、女が「男並みに」ポルノを楽しみたいなら、フェミニストが異性愛男性に求めてきた「道徳的要求」(むろん、そんな要求が受け入れられたためしはない)と同じものを「男並みに」受け入れよという、新たな貞淑さの押しつけにしかならないではないか。

「無垢でもなんでもない私」からはじめなければならないと守さんは言う。こういう言い方が出てきた、(いわば)歴史的背景は理解できる。母親として子供に対する悪影響を心配し、「正しい性」に固執する女たちに対比される、自由で快楽的な主体こそが想定されていたはずである。しかし、書き上げられたこの本の中で、この主張は、罪は罪として反省した上で悔い改めた主体として認めてもらおうという、あちこちに気配りした、上目づかいのケチくさい立場でしかなくなっている。むろん守さんは、あくまで主婦的、母親的、PTA的「正しさ」と対立しているのであり、「快楽としての性」に目を向けているのだと主張する。しかし、そうしたスローガン的な主張は、それに替わるフェミニスト的「正しさ」(と守さんが考えるもの)を担保しようとする、この本の他の部分の記述と矛盾する。男のための“娼婦”であることを拒否した結果は“修道女”になるしかなかったわけで、私はそんなところに分類されるのはごめんこうむる。

 守さんの議論の根本的な問題は、(必然的に)男性のものであるヘテロセクシュアリティが唯一の現実/スタンダードとしてまずあり、それを補完し、それに隷属するものとしてしか女性が定義されないがゆえに“夢見る主体”であることを否定されているのだという事実を、指摘できないところにある。それを踏まえた上で、どんな夢を見るのも本当は自由なのだと言わなければ、男女の差別的な非対称(そしてそれに必然的に関連する同性愛のタブー視)と女に対する道徳的抑圧の強化に加担するだけである。

 守さんを友人と思い、信頼し、この件にかかわったことを残念に思っている。そうでなかったらこの本について、私が何か言うことなど、けっしてなかったであろうから。思いつきを寄せ集めただけで普遍性を欠いたこの種の本の批判のために時間を割いたところで、こちらが得るものはないから、そのほうがよかったのである(とはいえ、批評する以上は、せいぜい読者と私自身にとって興味の持てる事柄を引き出すよう、努めるつもりだ)。しかし、すでに私は、本誌誌上で彼女の書くものを支持するという間違いを犯してしまった。その時私が書いたことも、それ以前やその後に会話の中で伝えたことも、結局守さんの理解するところではなく、彼女の著作の中で不本意な形で使われることになった。
 以上の理由から、私は守さんを応援するようなものを書いたことを後悔しており、『女はポルノを読む』の内容に異議を唱えるものである。


【追記1】
 ヘテロセクシュアルな男性主体の成立とホモフォビアの起源について、誤解があるようなので追記しておく(上のようなことを書くと、自分が攻撃されているのかと思って、“僕はそういう悪い男ではない”と反感をあらわにする人が出てくるものだ)。上の文章で「原理的に言って、ヘテロセクシュアルな男性主体は云々」と書いたが、「原理的に」とは、ほぼ例外がないということだ(構造が規定する主体化から逃れうる者がいるだろうか)。表現型としては“多様”でも例外はない。たとえあなたがマッチョではなく、愛する女性に対してベッドで受動的にふるまったとて、「父に対する受動的態度の拒否」(フロイト)の外部に出られるわけではない。これは良い悪いの問題ではない。筆者はたんに、“〈女〉とは男の夢であり、男が自分のものとして認められないものの化身である”という現象を、中立的に記述しているだけだ。

〈女〉は男にとって美しい夢として結晶する一方で、以前、次のように書いたとおり、ゴミ箱でもある――「女とは、男にとって〈他〉とされたものの集積場である。だからこそ、ストレートだろうとゲイだろうと、男はそこに好きなものを投影できる。欲しいものは何でもある宝箱。何でも出てくる魔法の箱。男が(男であるために)自らに禁じた/認めたくないものすべてを放り込んだ実はゴミ箱」。http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/eiga-8.html 男がさっぱりした顔をして、エロはエロとして置いておき、何やら抽象的な話をしていられるのはそのせいだ。女が男にとってそうであるのと同じように、女にとって男が当然の性的対象であるなどということはありえない。

 そう言えば、「実はゴミ箱」云々という拙文について守さんから、「女がゴミ箱にされる状況を変えていかなければいけないと思う」という意味のことを言われて一驚したものであった。男女の根源的な非対称を社会改良で何とかする? そんなことを平気で言える人が書いたのだから、やっぱり『女はポルノを読む』は絶望的にダメな本なのだ。パーソナルな自我のありようを意図的に変えるなどというのは誰にとっても無理な話で、できるのはただ、そうした制度の中にいることの自覚である。かつ、それこそが真先にしなければならないことだと思うが。

【追記2】
「無垢でもなんでもない私」について。守さんはこの言葉を、明らかに女に責任を取らせるために使っている。「ヤオイもBLもゲイ差別的であると批判されることがある」(236頁)とあるが、これは、ポルノが女性差別的だと批判されることと並列するために「も」という助詞が使われているのだ。だが、【追記1】でも述べたように、男にとっての〈女〉に相当する〈対象〉は女には存在せず、女の「ファンタジー」は覇権的な力を持たないのだから、こうした並列は無意味であるばかりでなく、女を叩きたい男に根拠を与えることにしかならない。また、これに続く、「問題が放置されているなら、批判はまずなされるべきだし、表現を作り出している側にはそれに応答する責任はあると思う。対話を経てよりいい表現が生み出されていく必要があると思うからである」という記述は、「表現」および表現者をここまで見くびっているのかと嘆息せざるを得ないことを別にしても、ジャンルBL作家がゲイ差別者として非難されたことなどなく、読者である若い女性がもっぱら腐女子フォビアのターゲットになっている現状を思えば、あまりに無自覚で軽率な問題の捏造であり、現実の同性に目を向けない利敵行為だ。差別され、蔑ろにされ、いくらでも攻撃を加えていいと思われているのは、男のゲイのではなく、女のセクシュアリティであるのだから。
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by kaoruSZ | 2011-09-30 17:11 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)

ちょっと違うんでェw

 拙ブログについて、繰り返し好意的に言及して下さってる方を見つけたんだけど――。

 私が、「腐女子の幻想はゲイ男性の貧相な性愛感から彼らを救う」と書いていると、そして、それは“名言”だと……。
 まさか、そんなこと私言ってないからw

 これは、石田論文を批判した2008年の「ウェブ評論誌コーラ」掲載の記事のことでしょう。

http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-4.html

 コンラッドにしてもトールキンにしても、私はこういう男性たち(彼らが「ゲイ男性」かどうかはともかく。というか、そう呼ぶ必要さえ全くないと思うけれど)の、あるいは「ゲイ・エロティック・ライティング」のアメリカ作家たちの豊かな「幻想」に感嘆こそすれ、「ゲイ男性の貧相な性愛感[ママ]」なんて微塵も思ってないから。

 あ、腐女子は現実のゲイに配慮すべきかなんて、贋の問題を立てる連中の「貧しさ」なら思うけどね。

 ついでに言うと、腐女子がどうこうなんて文章を私は書かない。少なくとも、腐女子とやらを実体化して主語に据えたりはしない。

 で、リンク先に元の文章はあるけれど、そこでは名前を確認していなかった研究者というのは、リンダ・ウィリアムズというアメリカのフィルム・スタディーズの人。ポルノ映画について本を書くためにポルノ映画をたくさん見たけれど、結婚している女である私向けでは全くない男同士のフィルムに萌えた[意訳]と、出来上がった本のあとがきで言っているわけ。

 彼女を腐女子と呼ぶとしたら――そうだねえ、パムクの『わたしの名は紅』に出てくる、十七世紀の細密画家を“ゲイ”と呼ぶようなものじゃない?

 その先を終りまで引用しておく。三年前の文章だから、私自身、立ちどまって他人の書いたもののように読むところがあるけれど、特に注釈のいる文章じゃないでしょう。

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 既婚の女のためのポルノグラフィが考えにくいのは、彼女の性的欲望が家庭内に封じ込まれ、もっぱら夫との関係のうちにあると考えられるからだろう。それは生殖という目的に添って組織されたセクシュアリティを持ち、思春期に月経がはじまって自分が女であることを自覚し、異性間性交し、妊娠し、出産し、子育てをして、更年期を迎える女だ。

 だが、むろん、そんな女などどこにもいない

 彼女は現実の異性愛に飽きたらず、ゲイのイメージを利用したのだろうか? これは必要悪であり、いつの日か「[異性]愛の再発明」(ランボー)が実現した暁には、男との性愛における彼女のみじめさは取り除かれ、彼女はもはやゲイポルノに性的昂奮を覚えなくてすむようになるのだろうか? いや、異性愛が再発明されることがあるとすれば、それは異性愛が唯一の「正しい欲望」ではないと認められる時だろう(それに、再発明される日まで異性愛のすべてが〈悪〉というわけでもあるまい――そこまで異性愛を「ガチ」と思い込まずともいい)。

 ゲイポルノで「萌え」られる彼女は、幸いなことに真理に――彼女の「正しい欲望」に――至りつくことがない。

 彼女は女であることのみじめさから救われるためにゲイのイメージを利用したのだろうか? いや、むしろ、彼女はやおい化することによって、男のファンタジーを救うのだ。彼女の欲望はゲイのファンタジーを「やおい的なもの」にする。同じものに性的昂奮を覚えても、その主体が女であれば「やおい」である――だから、(やおいが差別するのではなく)「やおい」は差別語なのだ。だが、そのとき、ゲイのファンタジーもまた(ひいてはゲイ・アイデンティティそのものも)、それが仮の命名に過ぎず、自分が単一の実体ではなく複合的に構成されたフィクションであることを、「自律」したものではありえぬことを明かすだろう。享楽する者の身元をそのとき誰が尋ねようとするだろう?

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by kaoruSZ | 2011-08-20 14:41 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)

「これはひどい」2題

その1 誰がそういう読み替えをしているのかといえば、それは鷲谷さんです

鷲谷花さんの2008年10月10日のエントリhttp://d.hatena.ne.jp/hana53/20081010/1223603383

 先の鷲谷さんへの批判(http://kaorusz.exblog.jp/14384401/ およびhttp://kaorusz.exblog.jp/14384463/)は上記エントリの存在を知らずに書いたのですが、その後これを読んで、単に呆れたなどという言葉では言い尽くせない、何とも言いようのない不快感を覚えました。自分のブログに貼り付けるのもおぞましいくらいですが、わかりやすくするためにあえて以下に載せた実に下品な文章をご覧下さい。(なお、便宜上、文中にアルファベットを付しました。また、強調は引用者によります。)

以下、「帰ってきたハナログ」より引用

「複製技術時代のホモエロティシズム」についてメモ


しゃべくりメモ。


・『LotR』三部作:全編通じて、あっちではイケメンがギラギラしながら美少年に迫り*1、こっちではイケメンふたりがひねもすいちゃいちゃいちゃいちゃ…(A)、と、古典的ハリウッド映画の「見る・欲望する男性=ヒーロー → 見られる・欲望される女性=エロティックなスペクタクル」という性別分業がほぼ無効化し、「ヒーローとして物語進行の主導権を握る」のも「エロティックなスペクタクルとして肉体をディスプレイされる」のもここでは男性(B)。ただし、『王の帰還』での戴冠式は結婚式*2を兼ね、三部作をしめくくるラストショットが夫婦(♀×♂)と子どもふたり(♀+♂)の核家族のホーム・スイート・ホームのドアであることからも明らかなように、一面では異性愛主義は徹底遵守される。つまり、「女性を除外した異性愛男性同士の濃密な絆」という、昔ながらのホモソーシャルが強化されて回帰してきた形態ともいえる(C) 。(後略)

*1:いちおう「お前がほしい~」じゃなくて「指輪がほしい~」というエクスキューズが付くわけですが


引用終り


(A)『ロード・オブ・ザ・リング』を見たか『指輪物語』を読んだかした人なら誰でも知っていることですが、あれは単純に「指輪がほしい」(権力欲)であって、「お前がほしい」(性欲)ではありません。そんな読み替えをする“腐女子”なんていません。誰がそういう読み替えをしているのかといえば、それは鷲谷さんです。男同士の話を好む女は、男が美少年(原作のフロドは五十過ぎてますが)の持っている指輪を奪おうとして飛びかかるのを見たら、レイプしようとしたと自動的に翻訳しておかずにするとでも思っているのでしょうか。それって、「府中青年の家」の利用者に、同性愛者の団体だというだけで「お風呂でしてたでしょう」とか言った東京都職員と変わりませんよ。あるいは、魔女と疑われた人間の性的ファンタジーを自分の妄想を投影してでっち上げた異端審問官と。

 トールキンのいわゆる「二次創作」つまりファン・フィクションの書き手は、もともとクィアーな原作を読み込んで、しばしば、ホモフォビックな批評家が気づくはずもないことにまで思い至って、遥かに気の利いた話を作っています。百歩譲ってボロミア×フロドの話を書いている人がいたとして(それ自体はありえないことではないでしょう)、それは自分と読者の楽しみのためです。では、鷲谷さんはなんでそんな空想をしているのか?「エロティックなスペクタクルとして男の肉体がディスプレイされるのを餌にして、昔ながらのホモソーシャル体制とミソジニーが女性を共犯に息を吹き返してきた」とかいう持論の「増幅強化」のため? 悪いけどそれって、ユダヤ人のせいで経済がおかしくなったとか朝鮮人が井戸に毒を入れたとかの流言のたぐいとしか思えないのですが。

 鷲谷さんがしているのは、明示的に同性愛として描かれてはいない男同士の関係に同性愛的なものを読み取って楽しむ女性に対する、ヘイト・スピーチです。
もしおまえが明示的同性愛表現以外のところに同性愛的なものを見出し、ホモエロティックな魅力を感じるなら、それはホモソーシャル体制に加担しているんだ」と女を脅す(しかも、“でも私はスクリーンで素敵な女性と出会いたいと思う女ですから関係ありませんわ”と彼女らと自分をはっきり分ける)、極めて悪質かつ抑圧的な主張です。

 彼女たちのせいでグローバルに男同士の表現が増え、ホモソーシャル体制とミソジニーが回帰してきたという、「複製技術時代のホモエロティシズム」で鷲谷さんが描いてみせた図式については、先のエントリで平野智子が徹底的に反駁し、デマであることを示しました。悪質なデマをまくのは簡単でも、ある事実が「無い」ことを証明するのは本当に大変だと平野さんは言っています。それでも彼女は鷲谷さんが取り上げた映画をDVDで全部見て、「男同士のエロティシズムを描く映画が、女性向けという意図を持ってグローバルに作られるようになった」という鷲谷さんの現状分析を、挙げられた具体的なフィルムに即して否定しました(前回のエントリの「追記」参照)。鷲谷さんの認識は「妄想」に等しかったわけです。

 男性ペアの不均衡(力関係や年齢やタイプの)や、大義に身を捧げる者たちの旅、戦い、助け合いについて、鷲谷さんは「複製技術時代のホモエロティシズム」でなかなか適切にまとめておられました。「友情から家族愛から屈折した兄弟愛から師弟愛から主従の愛からライヴァル関係まで、露骨にセクシュアルな肉体関係を除くありとあらゆるエモーショナルな絆で結びつけられているうえに、傷の手当て、肉体的・精神的苦痛へのいたわり、戦いの最中の助け合い、死にゆく友への親愛のしぐさなど、濃厚なスキンシップの描写が全編に詰め込まれ(後略)」--あの文章が映画研究者の共同サイトに載っていた当時、私はそういう点に注目して拙ブログで言及もしました。念のため言っておけば、こうしたパターンやモチーフは周知の通り男性が作り出したものであり、たとえばデイヴィッド・ハルプリンの論文「英雄とその親友」はまさしくそうしたペア(古代オリエントやギリシアから現代に至る)を取り扱っています。

 しかし--重ねて確認しておきますが--「『ヴァン・ヘルシング』の、ふたりの男性の身体の相補的かつ同質的なエロティシズムの表象と、女性の身体の存在感の抑制も、このやおい/slashを愛好する観客層を多分に意識した措置のように思われます」とか、「登場人物の関係性の一定のパターン、すなわち受動的で無垢な美青年と、攻撃的で成熟した年上の二枚目の、性的ではないがそれとなく官能的な組み合わせを指摘しておきたいと思います。このような人物関係のパターンの成立の背景として、やはり映画の消費文化としてのやおい/slash文化の拡大普及を指摘できるわけですが、その拡大普及の状況を決定し、顕在化させた最大のきっかけは、やはり『ロード・オブ・ザ・リング』The Lord of the Rings 三部作(2001-2003)だったといえるでしょう」といった鷲谷さんの分析は、極めて恣意的なものだったのです。

 では、鷲谷さんはあれ(「複製技術時代のホモエロティシズム」)を書くことでいったい何をしたかったのか。《「見る・欲望する男性=ヒーロー → 見られる・欲望される女性=エロティックなスペクタクル」という性別分業がほぼ無効化し》たとありますが(B)、その場合も、スクリーンの内側で(男を)見る/欲望する主体はなお男性です。女性観客はここでどういうポジションにいるのか、鷲谷さんは何も明らかにしていません。女性は関係性に萌えるとか言って、女の性欲をどこまでも他者との関係性に囲い込まれたものと信じ込みたい連中には都合のよいことではあります。だいたい、「男のエロティックな身体がディスプレイ」されるのが鷲谷さんは嬉しいのか嬉しくないのか--基本的にはそんなことを表明する必要はありませんが、“彼女たち”の「リビドー」についてばかり云々して、自分は「スクリーンでの素敵な女性たちとの出会いを求めて」はないでしょう。女にとって男のホモエロティシズムは、異性愛中心主義のオルタナティヴでありうるのですが。

 いくら「イケメンがひねもすいちゃいちゃ」していても、最後には結婚したり妻子の許へ帰ったりしたら、「異性愛主義が徹底遵守されている」と鷲谷さんは判定を下すようですが(C)、実際には観客はそんなものは無視して男同士の関係の描写を楽しめます。結婚や家族の絆で締めくくられる物語というのは確かに定番ですが、それが「ホモソーシャル体制」のプロパガンダだったり、観客が教育されたりするかは微妙です。作品によって違うとしかいいようがありませんし、観客はそれでもヘテロセクシズムに反して、男同士の方が素敵だと思ったり、結婚はつけたりと見なしたりするかもしれません。

《「ヒーローとして物語進行の主導権を握る」のも「エロティックなスペクタクルとして肉体をディスプレイされる」のもここでは男性》(B)とありますが、男同士の関係が中心的に描かれ、特に歴史物やアクション物なら男が肉体美を見せて活躍し、女は添え物という映画なら、今までにもいくらでもありました。そして、ホモフォビックな社会にあってさえ、「ホモと思われる心配」さえなければ--つまり、その名で呼ばれるのでなければ--実は多くの男性がそれを楽しんできました。「ホモソーシャルなホモエロティシズム」自体はこれまでもずっと映画の中に存在しましたし、映画に限らず、古くから男性が男性のために表現してきたものです(むろん、鷲谷さんも映画史研究者ならそんなことはとっくに御存じでしょう)。そうした魅力的な表象を前にしても、女は、男同士の絆など女にはわかるまい、と排除されるか、女が無視されるそんな関係は女には憎しみの対象だろうと勝手に決めつけられてきたわけですが、しかし、明示的に「ホモ」であろうとなかろうと(男と違ってそんなことに脅やかされはしないのですから)、女がそうした表現をエロティックと感じることは普通にありえます(女の性欲は男との直接的な関係によってしか目覚めないと思ってきた--思いたがっている--男たちには思いもよらなかっただけです)。

 ハルプリンは古典的文献について論じながら、男性間の友情が親族関係や夫婦関係に喩えられることは、友情をそうした関係に準ずるものとして回収するのではなく、親族関係や夫婦関係を逆に友情の影に--つまり友情に従属するものに--すぎなくするのだという意味のことを書いています。女性観客は女が排除されていることなど関係なしに(いってみれば、制度をかいくぐって、ゲリラ的に)、制度的異性愛の埒外にある、馴致されない「友情」に惹きつけられるのです。むろん、(ホモセクシュアルを否定する)ホモソーシャリティ体制の片棒担ぎなどとはとんだ言いがかりです。ホモフォビックな男性と違って、「露骨にセクシュアルな肉体関係」がタブーにならないからこそ、「やおい」もありえたのです。

 しかし、そうなったらそうなったで鷲谷さんは、今度は、女を無視する「ミソジニー」に女性観客が加担しているとおっしゃるのでしょう。しかし、それを「ミソジニー」と呼ぶことは、既製の、つまり男との異性愛関係で規定された「女」の表象を嫌いだと言う自由さえ――女である以上(要するに女の分際で)男同士の表象などにうつつをぬかすのは正しくないと説教して――女から奪おうとするものです。だからこそ、前回のエントリで平野さんは鷲谷さんに、「おまえこそミソジニストだ」と言ったのです。

 前回、私たちは「複製技術時代のホモエロティシズム」をあくまで批評と見なして反論したのであり、上記エントリの下品な文章を読むまではそこまで言う気はなかったのですが、この際はっきり言っておきましょう。私が注目したような記述も鷲谷さんにとってはヘイト・スピーチの材料でしかなく、男のホモエロティシズムを女が楽しむ事実が日本ローカルではある程度知られるようになったと同時に、何やら叩いてもいいことになってきた空気を利用して、鷲谷さんは自分をセクシュアル・マイノリティに配慮のある性的に正しい女、しかもただのヘテロではない女としてアピールできる、俗耳に入りやすい文章を書いたのです。しかし、実のところ、ホモフォビックな男性が「男同士の話なんて嫌だ、僕はやっぱりスクリーンで素敵な女性と出会いたい」と言うのと違って、同じ台詞を吐いたところで、彼女にはどこにも行き場がないわけでお気の毒なことです。

「あっちではイケメンがギラギラしながら美少年に迫り、こっちではイケメンふたりがひねもすいちゃいちゃいちゃいちゃ…」--あー気持ち悪い。男同士がいちゃいちゃしてるのが気持ち悪いのではありません、他人の性的欲望をそのように悪意をもってあげつらうのが気持ち悪いのです。鷲谷さんも、その映像(あくまでも彼女の解釈による)をゲイ男性が楽しんでいるというのであれば、まさかこういう書き方はできなかったでしょう。ゲイ男性には“腐女子”にはない「お墨付きのセクシュリティ」があるからです。女に異性間性交以外のセクシュアリティなんて認められたことは一度もないので、たんに「男だから」と言ってもいいのですが。ホモソーシャル体制とかなんとか言うまでもない、これは単なる昔ながらの男尊女卑の回帰でしょう。そして女が女にこういうことをするというのがまさしくミソジニーです。


その2 貞淑さが新たな表現を見つけている

鷲谷さんのエントリについての私たちの批判に対するtummygrrlさんの御意見http://twitter.com/tummygrrl/status/2648504904187905

以下、twitterより引用(括弧つきアルファベットは引用者による)

え?、あのエントリをそう読むのはかなり強引じゃない?だってあれは制作側にあるミソジニーとホモソーシャリティが新しい言い訳を見つけているのではという話であって(A)、読者/観客の側のクィアな読みの可能性や(B)ましてや読者/観客のセクシュアリティ批判ではないと思うんだけど(C) 。6:07 PM Nov 11th Echofonから 

tummygrrl


引用終り

tummygrrlさんへ

(A)「制作側にあるミソジニーとホモソーシャリティが新たな言い訳を見つけている」のではありません(女が望んでいるという言い訳など誰が必要とするでしょう。制作側の言い訳なら、「この映画では伝統的な男たちの絆を描いた」で足ります)。そうではなく、「男性同性愛的表現に対する新たな攻撃の言い訳が見つかった」のです。それを「女向け」と決めつけ、軽視し、馬鹿にできるエクスキューズが。
 私たちは、制作側のそうした意図を想定すること自体が間違っていると主張したのです。もう一度よくお読み下さい。

(B)鷲谷さんが「読者/観客の側のクィアな読みの可能性」を批判していると私たちが主張しているという事実はありません。私が過去の映画の「クィアーな読解」について触れたのは、鷲谷さんが最近の映画に見られるとした特徴は昔からあるものだという例としてです。鷲谷さんは自ら「ある読み方」を実践してみせ、しかるのちそれを「有罪化」していると私たちは言っているのです。その読解はクィアーという名で価値を与えられることなどない、あくまで批判的、否定的に取り扱うためのものです(それが「強引」どころか、はっきり「成り立たない」ものであることは平野さんが証明しました)。今も昔も女に求められるのが「貞淑さ」であることには変りなく、しかし時代によってそれは違う形を取るのであって、今や「貞淑さが新たな表現を見つけている」とも言えましょう。本当に鷲谷さんの言う通りだとしたら、彼女がまず批判すべきは同性愛の男性だったはずです。

(C)他人のセクシュアリティを鷲谷さんは明らかに「批判」しています。同性愛に関して否定的、嘲弄的な言辞を吐くのは政治的に正しくないが、“腐女子”ならいくら叩いてもいいというある種の了解に迎合して、ヘイト・スピーチの対象にしたのですから。
tummygrrlさんは、「公認されたマイノリティ」相手でなければ、ヘイト・スピーチが行なわれていることにさえ気づかないのでしょうか。

今回のことは、反論したいなら(できるのなら)真先に鷲谷さんが反論すべき事柄です。なぜ、tummygrrlさんともあろう方が、軽率な発言をなさったのでしょう。tummygrrlさんがまさか馬鹿とは思えませんので、私のごちゃごちゃした文章はとばし、平野さんの論証は熟読もせず、脊髄反射的にさえずったのでしょうが、肩書きも影響力もある方です、妄動はお慎みになった方がよいのでは。
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by kaoruSZ | 2011-02-10 23:55 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)

愚鈍な女

特にGoogle+ からいらした方へ。

佐藤亜紀氏が私への中傷を重ねている件についてはhttps://twitter.com/#!/kaoruSZの5月24日以降のポストをぜひご覧下さい。遡るにはtwilogが便利でしょう。http://twilog.org/kaoruSZ

佐藤亜紀氏の読者のような良い趣味をお持ちの方なら、私の記事は当然お気に召すことでしょう。どうぞごゆっくりお過しください。

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  吉本 その作品の特徴が自分の心の特徴と関係があるというところはみないわけですか。
  萩尾 それはみますけど。(笑)

 

 八十一年に『ユリイカ』の「少女マンガ」特集で、萩尾望都と吉本隆明が対談をしている。最近になって読み返すまで、萩尾が、電話をかけてきた自分の読者だという高校生の少年に「あなた変態ですか」と言ったという箇所しか覚えていなかった。吉本が「萩尾さんがそう言ったのですか」と驚いたのだと思っていたが、そう応じたのは編集者で、吉本は驚いていなかった。彼は終始、落ち着き払って、行き届いた理解者ぶりを萩尾の仕事に示していた。
「これだけのことをやるのはなかなか難しいなというふうに、ぼくは思うんです。つまりことばの世界だけに終始しているそういうとこからいうと、とても素晴らしいです」(84ページ)

 手塚治虫の『新選組』を読んで、「そのときはじめて、ああ、マンガって自分の考えをかけるんだわって思ったみたいなんです」(87)と語る萩尾に、「マンガっていうよりも、自己表現でいいんだっていう、そういうところから出発したといってよろしいのですね」(87)と吉本は言う。[以下、強調は引用者]

 これは、マンガ=コミカルなもの(「喜劇的なもの」)という認識がそれ以前にはあったということらしく、そうではない、「自己表現の手段として使える(萩尾、88)という認識から出発したのかと、吉本が萩尾に確かめたのだ。対談のタイトルからして、「自己表現としての少女マンガ」となっている。

「ぼくなんかみると『雪の子』というのが、小説でいう内面描写というのがよくできてて、これがきっとなにかのきっかけになったんじゃないかなと、そういうふうに読めるんです」(89)

「それとともに、ぼくなんかが大へんあなたの作品で関心をもつところのひとつなんですけど、だんだん、そこらへんでエロス的な世界に入っていったんじゃないのかなという、そこがものすごく関心をもつところですよ。つまり萩尾さんの世界で、ぼくなんかがそういう点でいちばん自己表現として興味深いといったほうがいいと思うんですけど、少年と少年との同性愛みたいな世界が出てくるでしょう。それがとても面白いんですよ」(89)

「それはたぶん萩尾さんのなかに,本来的にいえば少女と少女の同性愛だという世界の、それのひとつの転写になってるんじゃないか」(89-90)

(嫌いなものを描くのを避けるので)「結局わたしにとってマンガというのは現実逃避だった、ということになっちゃうんですね」(91)と言う萩尾に――「ぼくらがみてると、マンガというか劇画のなかで、あんまり逃避しないで、相当思い切った内面性を発揮しているとみえます」(91)

「萩尾さんのいまの作品でも、『ポーの一族』でもそうですが、少年と少女の世界みたいなもの、あるいは『トーマの心臓』でもそうですけども、そういう世界の一種のエロチックな、あるいはエロス的な錯綜した関係みたいなものを描き出そうとするとき、どう考えても、これは全部女性だな、登場人物が全部男性になってるけど、全部女性だなっていうふうにみれると思うんです」(91)

「萩尾さんの作品のなかでいえば、ある時期の透明さというものは、エロス的な関係のなかに出てくる透明さじゃないような気がするんです。ですから、ああいう関係のなかで出てくるきかたっていうのは、本当は少年には本来的にはそんなにないと思います。だから、ぼくはむしろ、少女と少女の世界と、そういうふうに読んでるわけです」(91-92)

 なぜそう読めるかといえば、吉本にはそれと少年の世界との差異が「興味深くて、そこのところで、もしなにか心にかかるものがあるとすれば、淀むみたいなものがあるとすれば、それは萩尾さんの内的な世界の表現なんだろうなと、そういうふうに思いながらみるわけですね」(92)

 結局、吉本は、それに、「少年のほうは露骨にもってる、いい年になるまでもってる」(しかし少女にとっては失われたものである)母親への愛着だと名前を与える。少女の場合、それを「強烈に隠しちゃうんじゃないか」(「少年の場合、母親に対する愛着というのを露骨に、一度も隠さないと思うんです」)、「その隠しちゃうものが、そういうある時期の世界に出てきちゃうという、ぼくはそう思うんです」。「萩尾さんの内面的な世界と関係があるのは、そこなんじゃないかとおもったりします」(92)

 昔、十八歳でデビューした女の作家について、子宮感覚云々という言葉で取り沙汰されたことがあったが……吉本が上品な吉行淳之介に見えてきた。萩尾と中沢けいでは格が違うが。

 吉本の拠って立つところは全くと言っていいほど萩尾の関知するものではない。男が少女マンガ(萩尾の作品)を読むようになったことは、「わりあいに本懐なんじゃないでしょうか。欣快というか、ちがいましょうか」と同意を求める吉本に、「いや、男の人でもやっぱり読みたい人がいるんだろうなぐらいにしか思わない」(114)と萩尾は答える。「あなた変態ですか」のエピソードがそれに続くのだが、「それ変態だと思いますか」と良識ある吉本は問いかえす。「この作品のこういうところを読んでくれるなら、誰が読んだってちゃんと理解してくれるはずだとか通ずるはずだとかっていうことはあるんじゃないででょうか」(115)

 しかし萩尾は、あくまで、対象は女の子だと主張する。

「けっきょく同世代の女の子むけという感じがして、いちばん最初はかいてるから」/「少女マンガですもの、女の子ですよ」/「だからあくまで対象は女の子なわけです」(115)
 それはそうだろう、現に目の前の吉本には通じていない。描かれているのが少年であることを否定し(男性同性愛の表象であることを忌避し)、少女と少女に、さらに萩尾の内面にそれを還元しようとする。〈少女マンガ〉という事件を「ぼくら」の言葉に置き換えようとし、編集者も、「それが表現してたものというのは、決して萩尾さんが思ってたような読者対象ではなかったような気がする」(116)と(好意から)口添えする。萩尾の答えはこうだ。「あれをかいたのは二十二だから、二十二ぐらいまでは読めたりして」

 男の批評家にほめられるのを名誉だ、出世だと思っている女なら、嬉しさに頬がゆるむだろう。あなたのかくものは、女の子相手のものと自他ともに思っていたかもしれないけれど、本当は「ぼくら」が感心して読むほどすごいものだったんですよ。吉本さんだってほめているんですよ。吉本さん、すごい方なんですよ。そんなふうに持ち上げられたら、有頂天になるだろう(なってる奴が現にいる)。まあ、そういう下心あって描いたものは、所詮その程度のものであるが。

 それは何かの「転写」ではなかった。物語の、心情の、思想の、時代の、内面の転写ではなかった。ただ思いがけないものが思いがけなく集まって出来た、根拠を持たない、自己表現などというものからはあたう限り遠い何ものかであった。ドゥルーズにならって凡庸の反対を愚鈍と呼んだ人がいる(愚鈍と言われているのはフランス語のBetiseで、Beteとは獣のこと――「美女と野獣」の野獣だ)が、今回つくづく感嘆したのは、吉本に馴致されない萩尾のけものっぷりだった。

 女の小説家がブログで、低級な萌え女と一緒にされたくない(大意)と書いているのを見た。評論家が「まともに小説を読解して解釈して論じるだけの蓄積もスキルもなしに差別意識剥き出しの豚野郎であることを露出して恥じないご時世」という書き出しに、ふむふむと頷きながら読んでいたら、突然、「萌え」への攻撃になった。ポリティカリー・コレクトリーに男性ゲイに気をつかい、「まだ二十歳前でご多分に漏れずホモ萌えだった頃(その後、世の中もっと幾らでも面白いことがあるのに気が付いて熱が冷めて来た」――(マア、“I was gay”?)――その「熱が冷めて来た」頃に読んだ、KV相手の対談でのKMのふるまいが決定的だったと言い、当事者を前にしての、男性用エロゲー(「凌辱ゲーム」と呼んでいる)擁護なみだと、男女の非対称を無視して主張していた。腐女子の自意識もアイデンティティーも持たないからこそ、あえて「あたしは腐女子だと言われてもいいのよ」なるタイトルを冠した原稿の後半をウェブ・マガジンに送ったばかりだった、そして小説家の長年のファンである私を、それは複雑な気持ちにさせた。電話してきた友人にこの話をした。作品を萌えだけに還元すると言って、萌え女を非難している、と説明した。

 ――萌えだけに還元するなんてありえない、と、友人はいつもながらの明快さで言った。それ以外の部分が あるから、萌えもあるんじゃない。萌えは、解釈をねじまげたり、そこしか読まなかったりなんてしない。それより、ホモフォビアのために萌えが最初から無視されて、批評の質が著しく損われることの方が、現実にはずっと多いというか、その方がフツーに問題じゃない?
 ――そうか、はっきり書いてあるのに、読まなかったことにされるものね。
 ――ホモフォビアは検閲するけど、〈萌え〉は、しない。
 ――うーん、それ、ブログに書かせて。
 ――彼女の小説だって、ホモフォビックな読み手には本当は理解できないよ。
 ――当然のことながら、そういうものって、ゲイの男だから理解できるってものでもないよね。
 ――もちろん。美意識の問題だもの。耽美的な男性同性愛表象の男の書き手って絶えてるじゃない。それで、過去のものなら擁護するわけでしょ、『男色の景色』のインタヴュアーみたいに、文化として存在したものだから認めなければならないって☆。現在の、それも女の子の書くものなら攻撃していいと思ってるのよ。所詮女は女だから、芸術的達成には至らないと、最初から見くびられてるのよ。
 ――でも、あれだけ突出してレヴェルの高いものを書く人が、“女の子”と一緒にされることなんか気にする必要はないと思うんだけど、と私は言った。
 ――だからこそ、なんじゃない? ついでに言えば、それ、男からそう見られたくないってことでしょ。
 ――あー、女であるために、あれだけの人でさえ、自分はバカな男並みに認められてないって感じてるってことか。
 ――でも、と友人は言った。佐藤亜紀、そこで、「自分は“女の子”のために書いている」と言ったら男前だったのにね。

☆web評論誌「コーラ」の拙論http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-7.htmlで言及した。
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by kaoruSZ | 2009-09-07 23:28 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(2)
「web評論誌コーラ」に今回載せた拙稿を読んだある男性から、「男性同性愛者による女性性の流用」のあたりについて、「ゲイであろうとも「男性権力者」であることへの自己批判がないものには容赦しないということですね」と言われてびっくりした。「たとえゲイであっても」などという、ゲイ差別的発想をしたことがないからだけではなく、「自己批判」という(時代がかった?)言葉自体が私の語彙ではなかったからである。そう言われてあらためて考えてみると、「自己批判」なる行為は、私にとってつねに侮蔑の対象であったように思われる。自己批判、自己嫌悪、自己憐愍――どれも好きなだけナルシシズムの沼に沈んでいてくれという感じなのだ。岸田秀の書くものはおおかたクズだが(というより、あれに本気で感心する奴が)、自己が自己を嫌悪することなんてあるのか、と言っていたのには頷けた。「自己弁護」はまた別な気がする。

 澁澤龍彦の全集を繰っていたら(しかし、全集で読むとなんだか索漠としている。本物の室内のようにすみずみまで居心地良くしつらえられた売場から、ボール箱に入れた商品をただ並べた倉庫に入ったようだ)、単行本『エロティシズム』文庫版(1984年)の、(文庫版あとがきにかえて)とカッコ書きされた「クラナッハの裸体について」の最後に、ちょっと面白いくだりを見つけた。

当時の私はフロイトのエディプス理論やサルトルの実存主義や、さてはバタイユの哲学などに影響されていたので、それが本書の文面にも少なからず反映しているようであるが、現在の私は必ずしもそれらを信奉してはいない。いま読み返してみると、女性に対してかなり辛辣な意見があって自分でも驚くほどだが、これも現在の私の意見とは認めがたい。無責任のようだが、君子は豹変する。なにぶん十七年前の著作なので、これらの点は大目に見ていただきたいと思う。

 文庫になった澁澤は手に取ったことがないので、ここは読んだ覚えがなかった。なるほど、これが自己批判をしない態度か。これでよいのではないかと私は思う。「現在の私の意見とは認めがたい」と率直に書いているのにむしろ驚かされる。女について紋切型を書くのは男の書き手の通弊である上(だからといって容赦したいわけではないが)、このあたりはもとは週刊誌に書きとばしたということもあろうが、特にそういうところが目立っていたかもしれない。俗流フロイディズム片手に女のセクシュアリティ(というカタカナ語はまだなかったが)の本質規定をするのは、「女性に対して」「辛辣」なわけではなく、女がわかっていない――突きつめれば女を人間と見ていない――証拠だというのは、実は小娘が読んでもわかった。それを批判する言葉がこっちになかっただけである。書かれたものは結局そういうところから古びる。

 ところで最近、俗流フロイディズムならぬ、俗流フェミニズム批評というものが存在するのだとつくづく思うことがあった。『ユリイカ』のトールキン特集(1992年7月号)所収の小谷真理「リングワールドふたたび――『指輪物語』あるいはフェミニスト・ファンタジイの起源」を読んだからである。この特集は以前から見たいと思っていて願いが叶ったのだが、もともと評論についてはあまり期待していなかった。これも出た当時は関心がなくて読まなかった同誌の『ロード・オブ・ザ・リング』特集臨時増刊号を先に読んで、トールキンをネタに世迷い言を吐きちらす人々に失望したからでもある(この増刊号では、『指輪物語』愛読者として語る黒沢清のインタヴューがただただ素晴しかった)。

 今回、何といっても収穫は、トールキンの未完の断章『失われた道』と、物語詩『領主と奥方の物語[レー]』を読めたことであった。前者は、目次タイトル脇の紹介によれば「『指輪物語』『シルマリリオン』二つの物語世界をつなぐミッシング・リンク、未完の物語一〇〇枚の全訳。限りある生を前に揺れる父子のファンタジー。作家の自伝的要素が濃厚に反映している現実世界と、神話世界が二重映しに……………」。映画パンフレットによくあるような、こういったあらすじ紹介はたいていはズレたものだし、読者も正確さを期待したりはしないだろう。だが、中身を読み終えてあらためて見たとき、この要約があっていることに気がついた(しかし、これを書いた人はおそらく、自分が書いた内容を理解していない……………)。

『領主と奥方の物語[レー]』の方には、テクストを翻訳した辺見葉子のエッセイが付いていて、先行作品とトールキンのテクストの異同が丁寧に説明されており、非常に興味深く、得るところが多かった。専門家というのは有難いものである。けれどもこの方も、物語詩の話題を離れ、「『シルマリリオン』および『指輪物語』との関わり」を考察する段になると、そこだけは、作品外の言葉に頼る凡百の評者と変わりがない。私の友人(彼女の導きで最近私がトールキンにあらためて関心を寄せるようになった)と私はそれを残念に思いながらも、行き届いた解説に助けられて読むことのできたこのテクストが、私たちの「『シルマリリオン』および『指輪物語』」の読みを強力に裏づけるものであったことを喜んだ。

 さて、「フェミニスト・ファンタジイの起源」であるが――このサブタイトルからして「やおい・ボーイズラブ前史」を思い出させるが、内容的にも、メインストリームの「男性文化」が行き詰まったり、変換点に至ったりした地点から、新たな女性文化がはじまる(はじまった)とする点でよく似ている。先に枠組みを用意して強引に対象にあてはめるという点も同様だが、『密やかな教育』については別枠を設けてあるから、今は「リングワールドふたたび」に限って言う。こういうことをするには、否定(ないし批判的/発展的継承)されるべき「男性文化」と、「来るべき」「フェミニスト・ファンタジイ」の差異を際立たせなければならないが、ほかならぬトールキンをその克服されるべき「男性文化」の側に置いた時点で、すでに小谷の負けは決まっていたのである。

 なぜなら、トールキンは〈男〉ではないからだ。フェミニスト諸嬢の傍に置くと、彼女たちの鼻の下に黒々とした髭が幻視されるほどの乙女っぷりを発揮しているトールキンの世界における、「○○の子、○○」という繰り返される高らかな父系の名乗りは、父権制に与してそれを存続させる合言葉などではない。『シルマリリオン』において表面的には父権制のしるしのように見えるものが、いかに内側からそれをぐずぐずに崩しているか。『シルマリリオン』は『指輪物語』の背景であるという、しばしば前者をネグレクトしていい(“たんなる”背景として)という意味であるかのように言われる言葉は、文字どおりに受け取られるべきものだ。トールキンの「異世界」がどれだけ(文字どおりの)「異世界」であるかをまだ誰も知らない。『シルマリリオン』が読まれぬ/出版されぬまま『指輪物語』が売れてしまい、前者なしでは理解されるべくもない話が圧倒的な支持を受けてしまったトールキンは、それがいかに知られえぬものであるかという苦い事実をあらためて噛みしめていたはずである。

 問題は、サムとフロドの関係がどうとか、トールキンとC・S・ルイスの関係がどうとか、男だけの集いがどうとかいう話でないことはいうまでもない。トールキンは、「ホモソーシャリティとホモセクシュアリティの紙一重」というトピックからも逃れ去る稀有の人なのである。まして、「トールキンは女性の才能を認め、「結婚」によりその才能が埋没する恐れをつと口にしてきたが、いっぽうで自身の妻エディスとは、学問上・文学上のどのような会話も共有しなかったという」(99ページ)とは何が言いたいのであろうか。才能ある妻として学問上・文学上の会話を共有して何かいいことある(あった)のかと小一時間問い詰めたくもない。

 フェミニストというのはずいぶん頭の悪い連中なんだなという冷笑を誘うとしたら著者にも不本意であろうこの論文は、奇しくも、澁澤のあとがきの場合と同じ十七年前に書かれているので、あるいは著者にとって「現在の私の意見とは認めがたい」というようなものになってしまっているのかもしれない。それだったらそれでいいし、いずれにせよこれをもとに糾弾したいなどという気は少しもない。しかし、ともかくこうやって目の前に形として残っているので、少々分析してみたいとは思う。澁澤の場合と違ってすでに過去の問題になってしまっているわけでないのは、『密やかな教育』の一件からも明らかだし、何より、あまりにも典型的にできているので、構造を知るにはもってこいであるからだ。うまくいけば、あなたも私も明日から俗流フェミニズム批評ができる(かもしれない)。(つづく)

★この続きは書いていないが、トールキンの『領主と奥方の物語[レー]』についてはここで論じた。
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by kaoruSZ | 2009-08-18 00:08 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)
 フロイトの末娘は、現代の日本に生きていれば、やおいに才能を発揮しえたであろう人である。フロイトの分析したbeating fantasyの例として挙げられた患者の数の少なさ(どころかその実在の疑わしさ)、男の子が打たれるというのはアンナ・フロイトの(マスターべーション)ファンタジーであり、彼女自身、それについて論文を書いていることなどは知っていたが、アンナの論文が日本語になっているはずもなかった。

 Elisabeth Young-Bruehlによるアンナの伝記を読むと、パパ・フロイトも、娘も、彼女のプライヴァシーがばれないように、患者にことよせてそれぞれの論文を書いたことがわかる。また、アンナにはそれ以前に、詩や小説という形で自分のファンタジーを表現していた時期があった。

 若い騎士と彼を従わせる年長の男は、実にフロイト的なことに、娘と父の置き換えとされ、近親姦の回避のため男同士に偽装したとされた。アンナは、空想の中では年下の男に同一化しており、そこでは女は脇役としてしか登場してこなかった。アンナは一生独身で(レズビアン説がこの本では否定されている)、自分の性的ファンタジーを学問化することで父の領域に参入することができ(学会でのはじめての発表がこれであった。彼女は患者を診て論文を執筆したとしているが、実際に患者を診察する以前から論文は書きはじめられていた)、フロイトの子供たちの中で唯一、彼の跡継ぎになり、ある意味で息子としての生涯を全うした。

 フロイトの伝記はたいていロンドンでの彼の死で終るし、妻が完全に姿を消すのに反比例してアンナが重要な役割を果たすのは周知のとおりだが、実際にはアンナは1982年まで生きていたとこの本で知る。マルト・ロベールの『ファミリー・ロマンス』を読んでアンナが激怒したというくだりに出会ってちょっと驚く。(そんな最近――でももうないか――の本を読んでいたんだと)。フロイトの父は、ロベールが描いたような息子の反抗を誘う厳格なユダヤの家父長はでなく、その正反対の、freethinkerで優しく寛大で受動的な男性だったと、お祖父さんを直接知るアンナは抗議しているのだ。 そういえば、キリスト教徒に帽子を叩き落されておとなしく拾った話を父に聞いて、ハンニバルに同一化したんだったっけ、フロイトは。

『風と木の詩』文庫版七巻の高取英の解説に、竹宮恵子にインタヴューしたとき、少年ジェットがブラックデビルにつかまるところでドキドキしたと竹宮が言ったとある。少女に特有なのだろうと高取は言っているが、むしろ、なぜ、男の子がそういう空想をしない――しなくなり、ブラックデビルと戦うことしか考えなくなる、すなわち自己規制する(それと意識することなく、つまりそうした願望を持ったことさえ否定して)――のかと問うべきなのだ。

 大岡昇平は、幼年時に、父に愛されるために女の子になりたいと思ったと、また、お姫さまがさらわれる挿絵の、さらって行く男に父を感じたと書いている(むろん、フロイトを読んだ上で)。悪名高いペニス羨望の男性における等価物を、父に対する女性的態度であるというのはフロイトの卓見だが、別にブラックデビルが父親の置き換えだと固定して考えることはない。逆に、父親と考えたって全然問題なかろう。これは個人の心理学を越えた、アクセス可能な表象の話なのだが。『密やかな教育』で問題なのは(他にもあるが)、そのあたりの(エロティシズムについての)考察が全くないこと。関係ないけど、幼いアンナはBlack Devilと家族に呼ばれていたんだとか(naughtyだったので)。
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by kaoruSZ | 2009-04-07 06:18 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)

“ホモソーシャル”再考

拙稿「〈ホモソーシャルな欲望〉再考(1)」の載った「ウェブ評論誌コーラ」出ています。

http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html



 大橋洋一さんの文章からの引用について、先日「ヘテロという名前をいただくゲイ集団」ではなくて「ヘテロという名前をいただく隠れゲイ集団」だったと記憶に頼って訂正した(12月7日の記事参照)が、岩波の「講座 文学」に入っている「ゲイ文学」の項を開いたところ、

「父権制、別名ホモソーシャル連続体は、ヘテロという名前をいただくゲイ集団なのだ」

という文章が目に入ってきた。

 そう、実は、「隠れ」のつかないもとの形が正しかったのだ!

 岩波の雑誌のほうの「文学」で映画『羊たちの沈黙』について大橋さんが書いた文章に「ゲイと女性を差別しみずからをヘテロと誤認する悪質な隠れゲイ体制」というフレーズがあって、それと混じったようで。
 もとのフレーズを、こっちの論文にあったものと思い違いしていた。

 というわけで訂正して元に戻す。

 といっても、「隠れ」がついたことで納得したのは石原千秋さんであり、私としてはさほど変わりがあるとは思えないのだが。

 まあ、この件は「コーラ」の連載で参照することになるだろう。

 なお、石原さんからの最初のコメントが「ブログの持主だけに見える」クローズドで書き込まれていたことに、うかつにも数日間気づかぬままだった。それまではログインしてから眺めていたもので。来訪者の目にすでに触れていると思って返事を公開エントリとして挙げたわけで、他意はない。



 ところで、筆者あてに私信をお送りになりたいという場合は、「売り物」というカテゴリから入るとアドレスがあります(なお、売り物のほうは、もろもろの事情によりしばらく作業する余裕がないのでお待たせしております。注文歓迎)。
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by kaoruSZ | 2008-12-24 23:45 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(1)

お返事

“Desire”に著者からコメントいただきました。コメント欄に書き切れなかったのでこちらにお返事します。

石原千秋様、コメントありがとうございます。

>「非異性愛者の恋愛を差別することはPC的に許されないという知識を持っており、かつ、「レズビアンやホモセクシャル」の恋愛は「異様」だと思っている人」の、後半はおかしいと思います。私の言説が想定し得るのは、「「レズビアンやホモセクシャル」の恋愛は「異様」だと思うことがふつうの人だと思っている人」です。つまり、メタ・レベルに立っている人です。

 なるほど。ちょっと説明しますと、前半部分の「「PC的に許されない」と“知識”でわかっている人間」というのも、私はメタ・レベルでなくとらえています。そして、こういう人間を信用しません。「頭では」わかっていても、それは往々にして「あいつら気持ち悪い。見えないところで勝手にやってくれ」という本心とセットだからです。

 つまり彼らは、「「レズビアンやホモセクシャル」の恋愛は「異様」だと思うのがふつうの人であり自分はふつうの人であると思っている人」です。

 こうした人間こそが石原さんの言説にハマれる個体、つまり啓蒙的に教育されうる対象ではないかと、(ちょっと意地悪に)思ったわけです。

 私は“ふつうの人”でないので、はじめからメタ・レベルへ追放されており、だからこそ、石原千秋はここでなぜ非異性愛者という例を喩えに選んだのか? と違和感を持ちました。

>本気でセジウィックを読んでいないと思われたのでしょうか。ちょっと、意地悪ですね。

 ちょっと失礼でしたね。すみません。
 意地悪はぐっと抑えているつもりです。

 でも、そうであれば、同性から成る同質社会を意味する「ホモソーシャル」に、あえて「欲望」という語を接続させ、homosocial desireというオクシモロンを作ったのだとセジウィックは"Between Men"の最初で述べているというのに、なぜ、「ホモソーシャルとはそれ[ホモセクシュアル]とはまったく違った概念で」と引き戻すのでしょう。「「ソーシャル」だから「社会構造」のレベルの問題である」というのなら、セジウィック要らないじゃありませんか。もともと歴史学や社会科学の用語だというセジウィック以前の「ホモソーシャル」で足ります。セジウィックの名前を出さずとも上野千鶴子で足ります(だから出さないんですか? と意地悪を言いたくなります)。

 橋本治はセジウィック以前に『こゝろ』に対する「同性愛的」という形容を嗤って「ホモ丸出し」と言い、大橋洋一は(むろんセジウィックを踏まえて)「ホモソーシャル連続体」は「ヘテロという名前をいただくゲイ集団」なのだと言っています。石原さんが「ホモソーシャル」を「同質社会」とのみ捉えるとしたら、『こゝろ』についてはどのようにお書きになっていたのだったか。

 先日ケータイ小説についての新刊をめくってみた時(この本は買いませんでした)、ホモソーシャルはホモセクシュアルと違う、ソーシャルだから社会構造で云々と説明されているのを見かけて気になっていたのです。石原さんのお仕事はずっと追ってきたつもりですが、漱石論を読んだのはもうかなり古いことになるので(一時、ホモソーシャルといえば『こゝろ』でしたねえ)記憶が薄れてしまいました。今度読み返してみるつもりです。

鈴木 薫 拝
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by kaoruSZ | 2008-12-06 11:09 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(3)

Desire

「恋愛」にまともな恋愛とまともでない恋愛を想定するのは、異性愛以外のレズビアンやホモセクシャルを差別する硬直した恋愛観と同じくらい差別的な恋愛観ではないだろうか。『ノルウェイの森』を読んでもし「これは恋愛ではない」と感じるとしたら、気づかないうちに「恋愛差別主義」(?)に陥っているかもしれないのだ。
                    (石原千秋『謎とき 村上春樹』272ページ)


 むろん石原千秋はこの文章を、その書き手が「非異性愛者差別者」であると読まれうるとは夢にも思わずに書いたに違いない。

「心を通わせていない「恋人たち」の関係が「恋愛」であるはずがないという批判」に対して、上の文章は書かれたものである。石原はどうしてこの比喩を選んだのか(彼自身も言うように、テクストに偶然はありえない)。「『レズビアンやホモセクシャル』(ママ)の恋愛を差別するのはいけないことだ」という前提がある(少なくとも石原の本を読むほどの者なら、差別は正しくないという知識を共有している)ので、これを出しておけば間違いなく勝てるというのがまずあろう。「レズビアンやホモセクシャル」は、すでにそうした表象になっているわけだ。

 しかし比喩にはもう一つの機能がある。「レズビアンやホモセクシャル」の恋愛関係と、「心を通わせていない「恋人たち」の「恋愛」関係」が、ここでは交換可能な位置に置かれることになる。どちらも「異様」に感じられようが(石原自身がどう感じているかは関係ない。「テクストはまちがわない」)、「硬直」していない「差別的」でないあなたならそれを理解できますよね、と彼は想定された読者に呼びかけているのだ。つまり、この比喩に躓かずにスルーできる理想的読者とは、非異性愛者の恋愛を差別することはPC的に許されないという知識を持っており、かつ、「レズビアンやホモセクシャル」の恋愛は「異様」だと思っている人だということになろう。

 もともとこの本は、石原千秋の「ホモソーシャリティ」についての認識を確かめたくて買った(念のために言うと、どちらかといえば好きな書き手であり、ずっと読んできた)。今日の夕方買ったばかりなので隅々まで読んだわけではないが、「ホモソーシャル」については以下のように説明している。

ホモセクシャルとホモソーシャルは違う。ホモセクシャルはふつう「ホモ」と略されるもので、男性同士が肉体的な関係を持つことを言う。ホモソーシャルとはそれとはまったく違った概念で、「ソーシャル」だから「社会構造」のレベルの問題である。簡単に言ってしまえば、男性中心社会のことである。現在のわれわれの「父権性的資本主義社会」の性質はホモソーシャルと呼んでいい。
 
 石原はセジウィックの名前を挙げていないようだが……信じられないことだが(『こゝろ』をはじめとする漱石研究の立役者であるから)、読んでいないのか? 引き合いに出されているのが上野千鶴子だし。

いまは少なくなったが、結婚式に行くとまだ「何々家・何々家披露宴」と書いてあることがある。この何々家とは父の名のことを指している。ということは、男同士が女のやりとりをしているのである。こうして何々家と何々家が次々と女性の交換をし合うことで、ホモソーシャルはシステムとして成り立つ。

 これだけなら「父権制」ですむことだ。セジウィックは「Homosocial Desire」と言ったのである。



「ウェブ評論誌コーラ」の次号に載せてもらう拙稿は、結局「〈ホモソーシャルな欲望〉再考」と題するものになった。書き切れなかったので次回に続くが、上のケースにも話が及んだりすると、三回くらいになるかも。今回も映画の話ではなくなってしまったが……以下の文献に言及している。12月半ばにはアップされるでしょう。お楽しみに。

中沢新一『ぼくの叔父さん 網野善彦』(集英社新書)
Eve Kosofsky Sedgwick "Between Men: English Literature and Male Homosocial Desire" (Colombia University Press)
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)
高田里惠子『グロテスクな教養』(ちくま新書)
黒岩裕市「“homosexuel”の導入とその変容――森鴎外『青年』」『論叢クィア』第1号(クィア学会)
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by kaoruSZ | 2008-12-05 21:14 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(2)