おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

カテゴリ:文学( 24 )

こんな気候の中にいてもジムはみずみずしさを失わなかった。彼がもし女だったら――と、私の友人は手紙に書いていた――花の盛りというところだな――慎み深く咲いているんだ――スミレみたいに。けばけばしい熱帯の花じゃなく。
                        ジョゼフ・コンラッド『ロード・ジム』
 
よしや空と海はインクのように黒くとも……
                        シャルル・ボードレール「海」
  

 ジョゼフ・コンラッドの小説をはじめて読んだ。もちろん、名前はあちこちで目にしていたし、船員上がりで、成人後に習得した英語で書いた、ポーランド生れの小説家であることは知っていた。たぶん、コッポラの『地獄の黙示録』の原作者というのが一番通りのいい説明だろう。しかし、面白いからぜひ読めという記述にも人にも会ったことはなかったし、雑誌が特集を組んだという覚えもない。日本でも古くから読まれていたはずだが、ポピュラーな作家ではもはやなくなっているのかもしれない。今回、彼の本を手に取ることになったのは、一緒に評論を書いている(http://kaorusz.exblog.jp/322048/)平野智子が、あるアンソロジーでたまたま読んだという『秘密の共有者』について話してくれたからだ。とりあえず、岩波文庫の『コンラッド短篇集』(中島賢二編訳)を読んでみた。まずはその一篇、『伯爵』について述べる。

1 コンラッドの “ナポリに死す”――Il Conde

『伯爵』(1908年)は奇妙な話である。“ナポリを見て死ね”を副題とするこの短篇は、名前の出てこない語り手が、ナポリで短いあいだ交流のあった“伯爵”について語るという形式を取る。国立博物館の、ヘルクラネウムやポンペイから出土したブロンズ像の前で、〈私〉は伯爵と近づきになるが、それ以前から、同じホテルに滞在し、“イル・コンデ”と呼ばれてうやうやしく応対されている、白髪に白い口髭、気さくで身綺麗な、高級な香水と上質の葉巻の匂いを漂わす、非のうちどころのない老紳士を見知っていた。話好きの伯爵は、やもめで、ボヘミアの貴族に嫁いだ娘がおり(彼自身、アルプスの向うのどこかが故国で)、なすべきことは何も無く、ナポリの気候のおかげで持病のリューマチからも解放されて、気楽な暮らしをしているらしい。続けて三夜、良き話し相手との晩餐をともにした〈私〉が、病気の友人を見舞うために十日ばかり留守にして戻ってみると、伯爵の身にとんでもないことが起きていた。残りのページは、伯爵から聞いた事件の叙述にあてられ、ナポリから永遠に去る伯爵の出立を〈私〉が見送るところで終る。

◆事件

 十日前、語り手を駅に送ってホテルへ戻ったのち――帰り道では、カフェでアイスクリームを食べながら新聞を読み、夕食のために着替えて食事をすませ、葉巻をくゆらせながら他の泊り客と言葉をかわし、しかるのち国立公園で催される音楽会に向かった――伯爵は、辻馬車で海岸まで行き、公園の海岸沿いに続いている長い並木道を徒歩でたどって、音楽を聴きに集まった上流人士に合流する――「彼もその人込みに身を投じ、人々の流れに身を任せながら、音楽に耳を傾け、まわりの顔を眺めて、心静かに楽しみに浸っていた」。しかし、カフェでレモネードを飲み、さらに歩き回るうち、「伯爵は、人込みの中で誰もが味わう、息苦しいような雰囲気に飽きてきて、少しずつ楽団から離れていった。並木道のほうは、楽団のそばとは対照的に闇が濃く、人気もなく、清々しい涼しい空気を約束してくれるように思われた」。彼が若い男にナイフで脅され、金を奪われたのはこの暗闇の中である。緊急用に金貨を身につけていた伯爵は、気もそぞろなままレストランに入るが、なんと客の中にさっきの犯人らしき男がいる。物売りに尋ねると、名家の「若様[カヴァリエーレ]」で、カモッラ党(マフィアのような犯罪秘密結社)のリーダーだという。近づいてきた若者は、彼だけに聞こえる罵倒の言葉を投げつけて去る。話しながら伯爵は震えていた。その後一週間、床についた伯爵は、ある決心を語り手に告げる――「やっと床から起き上がれるようになったから、この地を去る支度をしているところです、と彼は話してくれた。二度と南イタリアには戻らないつもりで。/他の気候の土地に行けば、まる一年と生きられないと確信していたはずなのに!」

私がどんなに説得してみても効果はなかった。伯爵は一度、「あなたはカモッラ党がどういうものか御存じないんですよ。私はもう眼をつけられてしまいましたからね」と言ったが、それが臆病ゆえの言葉でないのは明らかだった。自分の身がどうこうされるというようなことを恐れていたわけではなかった。品位を重んじる繊細な気持が、屈辱的な体験で汚されてしまったことに、伯爵は耐えられなかったのだ。過度の名誉心を傷つけられた日本の侍でも、彼ほどの決意を持ってハラキリに臨みはしなかったろう。故郷に戻ることは、気の毒な伯爵にとって、間違いなく自殺であったのだから

 日本の読者の目にはいささか唐突な「侍」(原文はJapanese gentleman)の登場だが、実は「ハラキリ」の比喩は、伯爵がナイフを突きつけられるところですでに出ていたものであり、これについては後で立ち戻ることになるだろう。ともあれ、伯爵の死は、すでに決定された事柄であるかのようだ。実際、駅頭で伯爵を見送る語り手は、「彼は間違いなくナポリを見た! そう、伯爵は万般見つくしてしまった。そして今、彼は墓へと向かっていく。国際寝台列車会社の特等車に乗り、トリエステ、ウィーンを経由して墓へと戻っていくのだ」と断言する。 “ナポリを見て死ね!”――一篇はこの格言で締めくくられる。語り手は、ナポリを“見た”伯爵が、まさに死へ向かって出発したと言っているのである。

 しかし――ここに書かれているのは本当にそういう話だろうか? 伯爵は何を見たというのだろう。“ナポリ”とはいったい何なのか。ちなみに、訳者のあとがきでは、この短篇は「ナポリに根を張っていた政治的・犯罪的秘密結社、カモッラ党メンバーからの理不尽な暴力に精神的に傷つき、自殺に等しい死を選ぶ老貴族が描かれる」と解説されており、訳者も語り手と同意見である――〈私〉の語りに何の疑いも抱いていない――ことがわかる。しかし、私が最初に「奇妙な」と呼んだのは、そんな話では全くない。

◆美を見た者は

 奇妙なのは、第一に、強盗がむやみに美しいことである。そのことは、この短いテクストの中で、二度も言葉を尽くして述べられている。音楽会に集まってきた人々が紹介される際、その“タイプ”は次のように書かれる――

伯爵が話してくれたところによれば、一番目立ったのは、南イタリア特有のタイプの若者だったそうである。白面の肌も綺麗な顔色、赤い唇、漆黒の口髭、横目をつかったり顔をしかめたりすると驚くほど魅力的な、澄んだ目元を持った若者だった。

 むろんこれはまだ強盗の描写ではない。カフェで、「ちょうどそんなタイプの若者の一人と」相席になったと語られるのみだ。暗い表情をした若者と伯爵は、そこでは交渉を持たなかったが、「その後、楽団の近くを歩き回っているとき、伯爵は、その若者が一人だけで人込みの中をぶらついているところを二度ほど見たように思った。一度は眼が合った。さっきの若者にちがいないと思ったが、なにせ、そんなタイプの男はたくさんいたので、はっきりとは確信が持てなかった」。そして伯爵は暗い並木道のほうへ入ってゆき、「やがて、オーケストラの音も遠のいた。そこで、彼はもう一度引き返して、再び辺りをそぞろ歩いた。こんなことを何度か繰り返しているうちに、伯爵は近くのベンチに人がいることに気がついた」。

 伯爵が〈私〉に語ったところによると、そこにいたのは、「カフェで、暗く沈んだ顔をしていた男ですよ。人込みの中で会った男です。でも、本当のところは何とも言えません。この国には、そのようなタイプの若者はたくさんいますから」。二度、三度、伯爵はベンチに接近する。つと、青年は立ち上がり、「ほとんどそれと気づかぬうちに」、「伯爵の眼の前に立ちはだかると、低い穏やかな声で、すみませんが、あなた(シニョーレ)、煙草の火を貸してもらえませんか、と言った」。結局、この男が強盗に豹変するのだが、その外見がようやく描写されるのは、伯爵がレストランに入った後である。

伯爵は、注文したリゾットが早く来ないかとあたりを見回した。すると、なんと! 左手の壁を背にして、あの男が座っているではないか! 彼はシロップかワインの瓶と氷水の入った水差しを前に置いて、一人ぽつねんとテーブルに座っていた。滑らかなオリーブ色の頬、赤い唇、粋に跳ね上げた漆黒の小さな口髭、少し重たげな長い睫毛で隠された美しい黒い瞳(め)、そして、いくつかのローマ皇帝の胸像のみに見られる、残忍で不満げな独特の表情。間違いない、あの男だ。しかし、それはいくらでもいるタイプだ。伯爵は急いで眼を逸らした。向こうのほうで新聞を読んでいる若い士官も同じタイプだった。さらに遠くのほうでドラフトゲームに興じている二人の若者もそっくりだった。/伯爵は、あの若者の幻影に永久にとり憑かれるのでは、と空恐ろしくなり、思わず顔を伏せた。

 要するに、それが伯爵の “タイプ”なのだろう。「あの若者の幻影に永久にとり憑かれるのでは」? なに、出会う前からとりつかれていたのだ。〈私〉は何も気づかぬまま、読者に情報を提供しているが、これは伯爵の一人称だったら出せない効果で(まさにそのために語り手はいる)、語られているのはあくまで〈私〉が「眼に浮かべる」伯爵、つまり語り手の目を通した彼である。〈私〉は伯爵をすっかり理解しているかのように振舞っているが、実は知り合って間がないのであり、おしゃべりには向いていても、伯爵にとってとうてい真実を明かせる相手とは思えない。にもかかわらず、彼が見た伯爵像を素朴な読者は信じることになる。伯爵が語り手に聞かせたこと、あるいはそこから語り手の引き出したことしか私たちには伝えられない。とはいえ、それは語り手の思惑を越えて私たちに与えられる重要な手がかりだ。

 伯爵は〈私〉に真相を語っていない――彼の眼に映る伯爵像から、一ミリでもはみ出すようなことはけっして。それでもなお、〈私〉の口を通して二度までも語られる若者の美しさは、あたかも伯爵にそれほどの傷を負わせたのが、その圧倒的な美そのものであることを示すかのようだ。伯爵との出会いを語りながら、〈私〉は博物館の展示品についての伯爵の意見を、いかにもどうでもいいことのように――「ついでに言えば」と前置きして(しかもカッコ書きで)引いていた――「(ついでに言えば、彼[伯爵]は、大理石のギャラリーに並べられたローマ皇帝の胸像や立像は好きになれない、と話していた。強すぎて、決然たる感じが出すぎているのが、どうも自分の趣味に合わないのだ、と言っていた)」。しかし、「いくつかのローマ皇帝の胸像のみに見られる、残忍で不満げな独特の表情」という、すでに引いた文句をあわせ読めば、伯爵の本音がどこにあるかは容易に推測される。ローマ皇帝の大理石像は、その尊大でサディスティックな表情が、彼にとってあまりに魅惑的であったため、その前を黙って過ぎるわけにはいかなかったのだろう――あえてそうした発言によって、その事実を否定してみせねばならなかったほどに。

 公園の暗がりで、若者の求めに応じてマッチを取り出そうとした伯爵は、「胸骨のすぐ下」、「日本の侍がハラキリを始めるときに最初に刀を当てる、まさにその部位」を何かが押すのを感じる。それは「長いナイフ」であり、現金は渡しても亡妻からの贈物と父の遺品の二つの指輪を渡すのを拒んだ彼は、覚悟を決めて目を閉じる――「人の身体で一番痛みに敏感な鳩尾にぐっと押し当てられた、刃渡りの長い尖ったナイフで」、腹を「ぐりっと抉られるのを」覚悟しながら――

突然、伯爵は、悪夢のような圧迫感が敏感な部位から取り除かれたのを感じた。眼を開けてみると、すでにその男の姿はなかった。(…)しかし、ナイフが消えた後も、ぞっとするような圧迫感はいつまでも残っていた。

 それにしても伯爵は、なぜ、わざわざ、人気のない暗がりへ入って行ったのか(不自然さを感じさせないよう、もっともらしい理由づけ――「清々しい涼しい空気」を求めて――がなされているが)。さらには、ベンチに腰かけた若者の周りをうろついたりしたのか(「私は、彼がいつもながらの物静かな態度物腰で、南国の夜の香しさと、距離をおいたことで気持よく和らげられた音楽の響きを、心ゆくまで楽しんでいるさまを眼に浮かべることができる」と、語りは言いくるめる)。そもそもタバコの火を借りるとは、時間や道を訊くのと同じ、古い手ではないだろうか? 要するに、この短篇は、コンラッド版『ヴェニスに死す』ではないかと私には思えたのである。ただし、手を触れえない美少年を遠くから眺めることとは対極にある、向うから攻撃されて外傷を負うという形の――。

“ナポリを見て死ね”とは、つまるところ「美を見た者は、早くも死に囚われている」(プラーテン)ということではないか。それまで後ろ指さされることとは無縁だった、「人生の喜びも悲しみも、結婚、出生、死といった自然の流れによって定められ、上流社会の慣習によってあらかじめ規定され、国家によって守られたものだったに違いない」、要するに“自然の流れ”にそって制度の枠内で生きてきた伯爵は、もののはずみ(?)で暗い道に踏み迷っての自己発見の結果、死にまで追いやられようとしている(ヴェネツィアではとどまることがアッシェンバッハを斃したが、ここでは逆に、去ることが死を意味する)のではないだろうか(ちなみに『ヴェニスに死す』は1912年発表。『伯爵』の四年後である)。

◆別の読み方?

 たぶん、私が知らないだけなのだろう、と私は考えた。これだけはっきり書かれているものが(私の要約だけですでに真相に気づいた方もおられよう)見過ごされていることはよもやあるまい。まだ、岩波文庫の「解説」にまでは、反映されていないとしても――。そこで、“ジョゼフ・コンラッド 同性愛”と打ち込んで(さらに“伯爵”を加えて)検索してみたが、何も出ない。コンラッドについての日本語の論文はあるが、箸にも棒にもかからないレヴェルである。専門の研究者はというと、どうもコンラッドに関してポストコロニアリズム的にしか興味がないようだ。一般の人のブログで、「身内の冠婚葬祭を繰り返すうちに、いつしか自分のまわりには誰もいなくなって」しまっている伯爵という、語り手の判断をそのまま受け入れた同情的な感想ならあった。語り手並みに人の好い方らしい。

 ところが――ためしに英語でいくつかキーワードを打ち込んだところ、またしても驚いたことに、私が嗅ぎつけたようなことはすでに常識であるらしかった。たとえばここ   
http://dansemacabre.art.officelive.com/ilconde.aspx――『伯爵』のテクスト全文と短評であるが、それによるとこの小説は、ナポリで快適な生活をしていた老紳士が、「若い男の形を取った人生の暗黒面」に出会うことを余儀なくされてナポリを出てゆく話だと長いあいだ思われてきたが、「何年か前から、それとは別の読み方が出てきた。伯爵を無辜の被害者ではなく、その運命の共犯者と見る読み方である。この読み方は、伯爵はセックスの相手にする若い男を漁るため、演奏会へ行く通常の道から故意に外れたと主張する」。この読み方では、伯爵は、強盗に襲われたのではなく、ハッテン場で恐喝に遭った。「伯爵はもはやナポリが安全とは思えないからではなく、恐喝と暴露を恐れてナポリを去る」(John G. Peters)というのである。

 なるほど、辻馬車を途中で降りて暗い並木道を行くのも、若者と相席になったあとの挙動もそれで腑に落ちる。恐喝とは思いつかなかったが、要するに、黙って眺める片思いから、強盗/殺人の被害者まで幅があるのだ(ドミニック・フェルナンデスは短篇『シニョール・ジョバンニ』で、『ヴェニスに死す』を引き合いに出しながら、この両極端の間に引き裂かれた美術史家ヴィンケルマンを描いていた)。こういう説はすでに1970年代に出ていたらしい。

 しかし、伯爵がハッテン場の常連だったとしても(「ヨーロッパ全土から次々とやって来る旅行者の中から、一日だけの、ときには一週間の、場合によっては一カ月に及ぶこともある仮初の友人を見つけて、暮らしていたらしい」とはそういう意味だったか)、恐喝と言ってしまったのでは、話がいかにも切りつめられてしまうのではないか。伯爵が〈私〉に聞かせた単純な物語には、思いがけない過剰な情動が伴っている。ちょうど、顕在夢が、その内容に不釣り合いな強い情動を備給されているように(むろんそれは別な体験に属するのであり、表面に見てとれるのはその置き換えなのである)。それは、伯爵が無垢な被害者ではなく、男漁りをしていたのだと気づかない読者にも、明らかに感じ取られるであろう、最も素朴な読者にさえ、熱に浮かされたような強度として迫ってくるはずのものだ。これを「恐喝」の結果と置き換えてしまったのでは、すべての推理小説で最後に種が明かされるのと同様、興を殺ぐのではあるまいか。いずれにせよ、そこにホモエロティシズムが充填されていることは見間違いようがない。長いナイフを「敏感な部位」に押しつけられた伯爵は、完全に自己を放棄し、無防備に身をさしだしている。

◆「彼の美しい年老いた顔」

 平野智子にも『伯爵』を読んでもらった。ローマ皇帝の像についてのトピックが、生きた若者の「残忍で不満げな表情」として反復されていることを指摘してくれたのは彼女である。そう、伯爵は、嫌いだとわざわざ言明しなければならないほど、「残忍な」若者が好きなのだ。伯爵は確かに恐喝を受けたのかもしれないが、と平野は言った。要するに、夜中に散歩していてハイドに殺されてしまう、あの年寄りの議員のようなものだろう……。

 あの年寄り――ロバート・ルイス・スティーヴンソンの小説で、夜道でハイドに殺されるサー・ダンヴァーズ・カルーは、光文社文庫版の『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』では「年配の上品な紳士」と表現されているが、エレイン・ショウォールターの『性のアナーキー』で引用されている当該箇所では「老齢の美男子」と訳されていて、原文のaged and beautifulはこちらの方が近いのだろう。ショウォールターの示唆によれば、傍(はた)からは老人がハイドに道でも尋ねているかと見えたのは、年を取っても容姿に自信のあったカルー議員が、夜道で男に声をかけて殴り殺されたのである()。われらが伯爵も、カルー同様、「美しく老いた顔」(his handsome old face)をしている。そして、ロンドンの上院議員同様、闇に紛れて男をハントするため、目的地の手前でわざわざ馬車を降りて暗い道を行き、また、目をつけた若者がいるテーブルに進んで同席して自らを提示したのだ。しかし、運命的な出会いの相手が醜く不快なハイドではなく、澄んだ目元の、美しい黒い口髭の、そして「ぎょろっと眼を光らせ、白い歯をぎりぎりと軋らせ」る時は「ぞっとするほど残忍な様子」の若者であることは、コンラッドのこの短篇をきわ立って特徴づけている。

 一方には、語り手と伯爵が国立博物館で見たような、ヴィンケルマン的、ヴェニスに死す的彫像やブロンズ像があるのだろう。そして一方の極には、言うまでもなく、オリーヴ色の肌、赤い唇、漆黒の口髭等々で構成された生身の肉体がある。フェルナンデスに言わせると、ヴィンケルマンは手の届かない上流階級の金髪の青年およびその等価物である純白の大理石像と、手を伸ばせば届く(実際には困難だった)後者の間で引き裂かれていた。しかし、伯爵は、美術品への穏当な愛の表明(ディレッタントや目利き[コネスール]のものではないが、「実に的を射た感想」が伯爵からは聞けたと〈私〉は言っている)と、オリーヴ色の若者相手の実践の、両方にたずさわっていたのである。アッシェンバッハと違って、彼にあっては芸術と現実はなだらかに続いており、朝には逸楽的なローマ人が遺したブロンズの男性ヌードを鑑賞しながら芸術を語り(「彼の審美眼は、修養で得たものというより、ごく自然なものだった」と語り手は言う)、夕にはそうした美を体現する生ける彫像を探しに行くことができた。語り手のそうした言葉の意味も、そこまでわかってはじめて理解できるというものだ。

 自らも以前カプリに別荘を借りていたことがあるという(カプリ島が何で有名であったかは言うまでもない)伯爵は、ナポリ湾周辺に別荘を建てた古代ローマの貴族について話しながら、「ローマの上流人士たちは、辛いリューマチに特に罹りやすかったのだと思っている」とつけ加えていた。これを聞いた〈私〉は、「彼は、世の中の普通の物知り以上にローマ人について知っているわけではなく、自分の体験に鑑みて言ったにすぎないと」思い、彼自身が南イタリアでリューマチから解放されたことに単純に結びつけてしまうが、ローマ人の生活についてなら、伯爵には他にも「自分の体験に鑑みて」言えることがあったのである。

◆ナポリを見た者

 ヴィンケルマンが同宿の強盗に殺され、カルーがハイドの手にかかったことを思えば、『伯爵』の運命は彼の生活同様、相対的に穏当なものと見えるかもしれない。しかしそれは紛れもなく「死」という言葉で――“ナポリを見て死ね”という言葉で――表現されうるようなものなのだ(なぜ彼が「死」にまで至るのかを、名誉心だの繊細さだのという言葉で考察してきた人が大勢いるに違いない)。「“ナポリを見て死ね”とは過剰に自惚れた諺であり、すべて過剰なものは、哀れな伯爵の上品な中庸とは趣味が合わなかった」[拙訳]と語り手は言う。しかし、ナイフを突きつけてくる若者の美以外に、『伯爵』におけるどんな“過剰なもの”がありえよう。そして、語り手には中庸=穏健の人としか見えなかった伯爵は、実は、過剰なものに身を捧げる用意のある人だった。鈍感な語り手も、「伯爵は、この諺の自惚れた精神に、奇妙なほど忠実に従ったと言えるのではなかろうか」と言っている。だが、 “彼は間違いなくナポリを見た!”とパセティックに断言する語り手には、皮肉にも“ナポリ”の意味がわかっていない。伯爵は間違いなく“ナポリを見た”のであるが。

 無邪気な語り手、無邪気な読者はナポリを見ていないのだと平野智子は言う。『ヴェニスに死す』の、ようやく得た社会的地位に縛られ、抑圧された哀れな作家と違って、伯爵はその身分と財産に守られ、身過ぎ世過ぎにわずらわされずに、葛藤のない、欲しいもの(男)は金で得られる生活を送ってきた。しかし、ある日、これ以上無い至高のものに思いがけず出会ってしまったため、そしてそれは、他で探しても見つからない、けっして手に入らないものであるために、生き続けること自体が無意味な状態に陥ってしまったのだと。なるほど、そういう解釈なら、「恐喝」(だけ)に還元するのと違って納得がゆく。『ヴェニスに死す』を書く以前にトーマス・マンに『伯爵』を読む機会がありえたかどうかはわからないが(1926年には、マンはドイツ語訳のコンラッド作品集第一巻に序文を書いている)、もし読んだのなら読めなかったはずはないから、伯爵を、そしてここまで大胆に書けた作家をねたましく思いつつ、お得意の「芸術家小説」に変換してあの本を書いたのだと根拠のない想像をしてみることもできる。

 これについては拙稿「In Queer Street――ポールの奇妙なケース」で触れた。掲載誌『ポールの場合』購入は「ロワジール館別館で見た」とお書き添えの上、こちらまで。
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by kaoruSZ | 2011-08-15 18:33 | 文学 | Comments(0)
 ホモって言うのは、絶対に自分がその当事者であるってことから離れようとしな
 いんだから、まずホモである自分が説得されないかぎり、すべてのホモに関する
 文献は嘘だという、すごい論破の仕方ができちゃうんだから。その点じゃ、ホモ
 を相手にするっていうのは、女を相手にするより大変なことなんだから。
                                        橋本治『蓮と刀』


 今回パムクについて書く気になったのは、私のエントリをネタに“脳内妄想”を繰りひろげてくれた御仁がいたからだ。むろん同日の談ではありえないし、(ある作家の文章を一箇所変更して借用するなら)「まともに他人のエントリを読解して解釈して論じるだけの蓄積もスキルもなしに差別意識剥き出しの豚野郎であることを露出して恥じない」奴の駄文を云々するのは確かに時間の無駄であるが、一種のステレオタイプ言説だから、“紋切型辞典”用specimenにはなるかもしれない。http://h.hatena.ne.jp/nodada/9234089639431981707

 内容については後で検討するとして、『わたしの名は紅』に戻る。脱落箇所があるのを知って、もっと抜けているところがあるのではと、“MyName is Red”(Alfred A. Knopf, 2001)を眺めていたら、次のような箇所が目にとまった。

I briskly outlined the tail. How gentle and curvaceous I made the rear end, lovingly wishing to cup it in my hands like the gentle butt of a boy I was about to violate. As I smiled, my clever hand finished with the hind legs, and my brush stopped: This was the finest rearing horse the world has ever known. I overcome with joy(...)(276)

 ほとんど他人の手のように自分の手が動いて美しい馬を描き上げてゆくさまを画家自身が物語るシークエンスの終り、絵が完成しておのづから筆が止まるあたりまでであるが、ゴチックにした描写は日本語訳に存在しただろうか? 邦訳(和久井路子訳、藤原書店、2004)の該当箇所と突き合わせてみた。

それから尾を素早く描いた。尻を、今にもやりそうな少年の尻孔のように愛しみながら、手で触れたいと思いつつ、上手に丸く描いた。わたしが微笑んでいる間に、賢い手は後ろ足を終えて筆を止めた。この世で一番美しい、後ろ足で立ち上がった馬になった。心の中が喜びで包まれた。(417)

 訳し落としではなかったが……むろん、邦訳の方が原文に近いという可能性もあるわけで(あまりないが)、トルコ語を全く知らない者にはわかりようがないとはいえ(しかし、むろんパムクは英語はわかるわけで)、本人の書いたものや発言を見れば、洗練の極みに至るまでは筆を止めない修辞によって世界を捏ね上げるマニエリストでパムクがないわけがなく、「心の中が喜びで包まれた」に類する不用意な措辞を許すとはとうてい思えない。

 英訳に従うなら、この絵師は、自分が描きつつある馬の尻に「私が犯そうとしている少年の」――(gentle butt をどう訳そう? 「尻孔」でないことは確かだ)――「愛らしい尻のように両手をあてがいたいと思いながら」――(「あてがう」より、もっと包みこむ、あるいはつかむ感じだろうか、cup itは)――「いとおしみつつ」筆を動かしている。
 つまりここでは、芸術表現と性的欲望ないし(男同士の)官能性が明示的に重ねられているわけで、同様の修辞は他の絵師の語りにも見られる。つまり、この小説における最も重要な要素の一つなのだが、訳者にはそれを「愛しみながら」扱うことができなかったようだ。

 訳者あとがきには、この小説について、《まずミステリとして、「犯人は誰か」としてだけでも面白い。第二に、歴史小説・社会小説として読むと、十六世紀のイスラム社会の風俗、若い娘達の行動、狂信的イスラムム原理主義者と彼に従うグループ、それを毒舌をもって揶揄嘲笑する非合法コーヒーハウスの舞台に立つ噺し家とそこに集るインテリや芸術家たち[中略]スルタンに属する工房とその生活など興味深い。第三にカラとシェキュレの恋の物語としても官能的世界を展開する[後略]》とあるが、第一のミステリ云々はたんに形式を借りているだけだし、二番目については、男色に触れないのでは何も言ったことになるまい。第三の、カラとシェキュレのの恋物語は、これまた人目を引きつけ、話を進めるための口実に過ぎなくて、すでに触れたとおり、官能性は男同士の側にある。

 長い不在の後にカラが見出した、別れた時十二歳だった愛する女は、窓枠に縁取られた絵として、囮として出現する――「その時、氷のはった鎧戸がバンと音を立てて突然開いて、氷がついて日の光でキラキラと輝く窓枠の額縁の中にあの恋しい人を、十二年ぶりに雪の枝の間からその美しい顔をわたしは見たのだった」(64-65)。これは両思いのラヴ・ストーリーではない。女は男に幻想を抱いておらず、行方不明の夫に替わって自分と子供たちを養い、大切にしてくれる、条件の合う男と結婚したいと思っている。自分に恋着する義弟ハッサンがいるものの、思いつめて強姦しかねない男なので、憎からず思いつつも逃れるしかない。自分の思い通りになる男なので彼女はカラを選ぶのだ。

 彼らの結婚に至る話の主人公はシェキュレである。シェキュレの話だけなら、たとえば女の小説家が女を描くリアリズム小説にもなりえたろう(あるいは、『ボヴァリー夫人』のように男によって巧みに構成された――その場合、エンマ・ボヴァリーの想像力の強さは、ボードレールが断言したように男に所属するものとされるのだが――女性像に)。しかしシェキュレは、エンマの対局にいる女である。彼らの関係は、負傷して横たわるカラをシェキュレが口でいかせるところで頂点を迎え、子供たちにはお父さんに薬を塗っていたと言いなさい、とカラはシェキュレに言いふくめる。プルーストの「カトレアをする」が彼らの場合「薬を塗る」になるわけだが、その直後、二十六年後のカラの死をシェキュレは告げる。そして、昼の間に薬を塗っていたため夜は子供たちと寝られたのであり、それが女たちの幸福なのだと。

 義弟に手籠めにされるのではなく、抵抗できない男(カラは傷を負い無力だ)、自分を女神のように崇める男に、昂奮もなくその「小さな口」で快楽を与えることを、彼女は至善の策として選ぶ。自分の自由になる男であり、彼女の欲望の表現ではない。これが、男によって夢見られたものではない女の真実としてパムクが提示してみせたものだ。

「主人公」と呼ばれるカラは影の薄い狂言回しに過ぎず、彼らの恋物語を離れた一篇の真の主人公は――あるいは作中の誰かを作家の分身として指し示すとすれば――それは、《非合法コーヒーハウスの舞台に立つ咄し家》であろう。《狂信的イスラム原理主義者と彼に従うグループ》を《毒舌をもって揶揄嘲笑する》からではない。「わたしは女」と題された第五十四章に至って、「咄し家」は、「女」が男の夢でしかない――「女は存在しない」――こと(だからこそカラの恋は一人相撲なのだ)を、女の姿になってあますことなく語ってみせる。

亡き母の薔薇の刺繍のついている毛の下穿きをはくと、体の中に甘いやさしさが広がって、自分も母のように心細やかに感じました。おばがもったいないといって着なかったピスタチオ豆の色の絹のブラウスが裸の肌に触れると、体の中に全ての子供のに対するやみがたい愛を感じて、全ての人に料理を作って、乳を飲ませたいとの思いがしました。[中略]母の嫁入り道具の櫃の底にあった葉の刺繍をした敷布のそばにある麝香の香りのする靴下の中に隠してあったねじれた金の腕輪をつけて、風呂屋の帰りに頬をより赤く見せようと塗る頬紅を塗って、おばの松の緑色の外套を着て、髪をまとめて同じ色の薄いヴェールをかけて、螺鈿の縁の鏡で自分を見ると身震いしました。何もしなかったのに、目や睫毛は既に女の目や睫毛になっていたのです。目と頬としか見えなかったけれど、わたしはとても美しい女だったのです。そしてそのことがわたしをとても幸せにしました。それをわたしよりも先に気がついたわたしの男性の部分が勃起してしまい、そのことがわたしを悲しくさせました。(530-531)

 このように少年時代の思い出を語る「咄し家」は、カラの欲望の対象が幻想であることをあらためて明らかにしていると言えよう(カラが見出したシェキュレが「窓枠の額縁の中」にいたように、少年が見出す「女」は「螺鈿の縁の鏡」の中にいる)。「女」とは、男がそれを抑圧することによって男になるものであり、彼自身の抑圧された受動性なのである。『わたしの名は紅』が芸術家小説であるとしたら、それは、受動性を受け入れて「女」になれる者こそ芸術家であることを「咄し家」が示してみせるからに他ならない。(つづく)
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by kaoruSZ | 2010-06-25 22:57 | 文学 | Comments(2)
                              例ふれば恥の赤色雛の段    八木三日女    


 昔、国語の教科書に伊藤整の小説『若い詩人の肖像』の一部「海の見える町」が載っていて、感想文だか何かを書かされた。小樽の学校に進学した文学青年が自分の同類を見出す話、と当時の私は受け取ったようだ。私自身、高校に入って出会った同級生を、ついに自分に似た存在(本の話ができる相手、むろん女の子)を見出したと思って恋うていた幸福な時期だったこともあり、この感情はひどく親しいものに思われて、その線でまとめたらしい。なにしろあまりに時間が経っているので、どこからか出てきたとして(出てきてほしくないが)、記憶が現実とずれていることは大いにありうるが。

 それから十年あまり後に小樽へ行くことになり、ふと思い出して事前に『若い詩人の肖像』の文庫本をもとめた。教科書に載っていた部分はすぐ見つかったが、驚いたことに見覚えのない文章が肉に混じる脂身のようにあちこちに入り込んでいる。併せれば相当の量になろう。どこが教科書に採られ、どこが削除されていたのか、まだ若くて写真のような記憶力を持っていた頃だから、継ぎ目はくっきりと見分けられた。こんな孔だらけのものを読まされていたのか。

 削除されていたのはすべて、生徒間の男色にかかわる記述であった。それらを取りのぞいた上で、あたかもはじめからそうであったように整形されていたのである。

 このエピソードを思い出したのは、斎藤美奈子が《中学2年の国語教科書の定番教材》『走れメロス』について書いているのを読んだからだ。一篇の結びを斎藤は次のように紹介する。

ひとりの少女が緋のマントをメロスに捧げ、セリヌンティウスがメロスに言うのだ。「メロス、君はまっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ」。そして最後の一文。(勇者はひどく赤面した〉                        
「名作うしろ読み」読売新聞2010年6月4日付夕刊

 はて、「この可愛い娘さんは」ではじまる一文は、私の使った教科書にあったろうか。《ちなみにかつての教科書にはこの部分を(裸は教育上よろしくないという理由で?)カットして載せていたのもあったらしい》と、斎藤も言っている。しかし、「メロス、君はまっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい」と「勇者はひどく赤面した」には間違いなく覚えがあった。ひょっとして、《かつての教科書》には、「この可愛い娘さんは」云々だけをカットしたヴァージョンがあったのだろうか?

 さらに斎藤は言う。《それだと》――つまり、裸の出てくる部分を削除すると――《「万歳、王様万歳」という群衆の歓声で終わる『走れメロス』は友情の物語、メロスは王を改悛させた英雄になってしまう》。そして、《だけど、ほんとうにそうなのか》と問うて、次のように論じる。

 小説が〈激怒した〉ではじまり〈赤面した〉で終わるのがポイントだろう。赤い顔で激怒していた赤子のようなメロスが最後は赤い顔で恥じ入る。いいかえれば、単純素朴だった青年が恥ないし世間知に目覚める。そこから遡れば、この小説は感情のままに猪突猛進する者、あるいは「心もまっぱだか」な者の恥ずかしさを暗に描いているともとれるわけ。
 マントを手にした少女も「君は裸だ」と指摘した友も「メロス、オトナになろうよ」と促しているように見える。メロスが赤面したのは単に自分が裸だったからなのか、それとも自己陶酔に近い自分の行為に対してだったのか。いずれにしても最後、メロスはコドモからオトナに変わるのだ。


 なるほど、友情物語、信義の大切さ、真摯な行為が人の心を変えうること、などを読み取らせようとするドクサを、ここで、メタ・メッセージを引き出すことで斎藤がくつがえそうとしているのはわかる。《それを成長ととるか俗化と解釈するかは微妙だが、ひねくれ者の太宰だもん。ただの感動小説のわけないじゃない》というのが記事の結び。だけど、ほんとうにそうなのか。結果として友情や信実の称揚に代わって、「オトナになること」(《成長か俗化かは微妙にしても》)を掲げることになった斎藤は、十分に《ひねくれ者》でありえただろうか(むしろストレートなのではあるまいか)。

 そもそも斎藤の読みは、私に見覚えがないように思えたあの一文――「この可愛い娘さんは、メロスの裸体を皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ」――への考慮なくして成立している(ただし、ここで抑圧されているのは、少女とメロスの異性愛の表出ではない)。セリヌンティウスが彼女の内面を推しはかっていうこの言葉には、一片のリアリティも感じられず、彼女はマントを腕に掛けてハンガーのように立っている木偶人形としか思えない。これは、少女にかこつけてセリヌンティウスが自らの心情を吐露したものでなくてなんであろう

 それにしても私の使った教科書には、本当にその部分がなかったのだろうか。いつもなら探している蔵書はけっして見つからない本棚をちょっと捜すと、何とも恐しいことに中三の国語教科書があっさり出てきてしまった。見ると巻末に『メロス』が載っている(二年の定番と斎藤は書いているが、これは三年)。はたして件の科白はちゃんとあった(どうやら、私の記憶が検閲されていたらしい)。

 そうであれば、やはりあの科白も、恥ずかしさに拍車をかけたに違いない。思えば『走れメロス』は恥ずかしい小説である。メロスが赤裸を恥ずかしがるだけでなく、中二か中三の男女とりまぜた教室で《まっぱだか》の男を全員がイメージせざるを得ない状況に置かれ、あまっさえ運の悪い一人はそのくだりを朗読しなければならなかったという記憶によってのみならず、メロスとセリヌンティウスが、一度だけ互いを疑ったという内面を告白しあって、一発ずつ殴り合い、「ありがとう、友よ」と「ふたり同時に言い、ひしと抱き合い、それからうれし泣きにおいおい声を放って泣いた」なんて、もう最高に恥ずかしい。おまけに、理不尽に人を殺していた暴君までが、あろうことか改心したいじめっ子のように「静かにふたりに近づき、顏を赤らめて」、わしも仲間に入れてくれ、なんて言い出すのだから。[表記は見出された教科書による]。

 斎藤の言うように《小説が〈激怒した〉ではじまり〈赤面した〉で終わる》のは重要である。だが、私たちの目には、それ以外の「赤」も映る――「激怒」が「赤面」になるまでのメロスの踏破するページにあざとくも撒布された、「灼熱の太陽」、「真紅の心臓」、木々を染め上げる「斜陽」の「赤い光」、鉄人レースに「呼吸もできず、二度三度」メロスの口から噴き出る「血」、「胸の張り裂ける思いで」メロスが見つめる「赤く大きい夕日」、「顏を赤らめ」る暴君、「緋のマント」――そうやって移りゆき、リレーされた末、ついに再びメロスの面に「赤」は宿るのだ。生まれ出たばかりのように赤裸でマントに包まれるメロスは、結局、「赤子」のままではないのか。

 だが、別にここでは『走れメロス』についてこれ以上何か言おうとするものではない。昨年9月7日付で「愚鈍な女」と題する記事を書いた。あそこで、「ホモフォビアは検閲するけど、〈萌え〉は、[検閲を]しない」と、そして、「ホモフォビアのために萌えが最初から無視されて、批評の質が著しく損われることの方が現実にはずっと多い」と述べたことに関連させて、オルハン・パムクの『わたしの名は紅[あか]』を取り上げるのがそもそもの目論見であった。『若い詩人の肖像』から同性愛への言及を削ったのはホモフォビアであり、斎藤美奈子が神話破壊の読み手たらんとして結果的にもう一つの教訓的ストーリーを引き出してしまったのは「萌え」の抑圧の結果であろう。『わたしの名は紅』はといえば、検閲されたわけでもなく、誰の目にも明らかに、書かれ、名指されていながら、おおかたの批評から男同士の愛が黙殺されている好例だ。しかも、無視された事柄は後述するとおり一篇の主題と分かちがたいのだから、まさに「批評の質が著しく損われ」ている。

 最近、パムクの場合、具体的に検閲かと疑われさえする事実があることを知った。2ちゃんねるのスレッドで『わたしの名は紅』の日本語訳に欠落があることが指摘されているのを見つけたのだ。
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/book/1163674130/l50

 以下が、トルコ語からの英訳“my Name is Red”にあって(トルコ語原文にももちろんあるとのこと)、日本語訳にない部分。

I was told that scoundrels and rebels were gathering in coffeehouses and proselytizing until dawn; that destitute men of dubious character, opium-addicted madmen and followers of the outlawed Kalenderi dervish sect, claiming to be on Allah's path, would spend their nights in dervish houses dancing to music, piercing themselves with skewers and engaging in all manner of depravity, before brutally fucking each other and any boys they could find.

 英語版を見てみたところ、確かにそのとおりだった(“my Name is Red” 9ページ)。上に挙げたのはパラグラフの後半だが、これが抜けているので、邦訳27ページの終りから二番目に当たるパラグラフは、オリジナルの半分の長さしかない。むろん、不注意で落ちたということは十分ありうるし、今の日本でこうした表現を制限する理由はありそうにないが。

『わたしの名は紅』の訳文の欠点はあちこちで言われていて、確かにひどいところは本当にひどい。文法的に変なところ(そういう箇所が多すぎる)さえなければ、文章自体には魅力があると思うし、正確に訳せてもセンスが悪い人はどうしようもないから、逆に惜しいのだけれど。

 ちなみに、上に引用したくだりは十二年ぶりにイスタンブルに帰ってきた“カラ”がピクルス売りから聞く、異端のカレンデリ派のコーヒーハウスでの乱行(/交)ぶりだが、そのものずばりの表現もさることながら、ここは先へ行ってコーヒーハウスが暴徒に襲われる事件の最初の伏線になっているし、これを読んでいれば50章で語り手になる二人組がどういう連中か、彼らがカレンデリ派だというだけでもう私たちにもわかっていたはずなので、この脱落による影響は一見そう思われるより大きい。(つづく)
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by kaoruSZ | 2010-06-21 01:18 | 文学 | Comments(0)
 季刊ウェブ評論誌「コーラ」12号に「囮としてのヘテロセクシュアル・プロット――トールキン作品の基盤をなすもの」(以下『囮としての』)と題して小論を書いたが、その後、共著者の平野智子から、『シルマリリオン』(邦訳『シルマリルの物語』)のマイグリンの話について、マイグリンがイドリルに禁断の恋をしていたという設定自体に裏があることを示しておくべきだとの指摘を得た。以下は、平野の教示に基づく当該記事の補足である。

 最初に、エルフの隠れ王国ゴンドリン陥落の因となったマイグリンの物語のあらましを述べておく。ゴンドリンの王トゥアゴンの妹アレゼルが、国を離れてナン・エルモスの森に迷い込み、そこに住む“暗闇エルフ”エオルのもとにとどまった結果生まれたマイグリンは、長じて母とともにゴンドリンへ逃亡する。追ってきたエオルは、マイグリンをめぐって王トゥアゴンと争い、「私のものをお前に渡しはせぬ」と叫んで息子めがけて槍を投げ、身をもってマイグリンをかばったアレゼルを死なせる。マイグリンは伯父王の下で頭角を現わし、ゴンドリンの実力者となるが、トゥアゴンの一人娘イドリルに密かに恋している。やがて水の王ウルモに予告された人間の男トゥオルがやってきてイドリルと結婚し、一子エアレンディルが生まれる。エアレンディルが幼い頃、マイグリンは(『シルマリリオン』全篇を通しての敵役である)モルゴスに捕まり、侵攻時に手引きをするのと引き換えにイドリルを約束されて帰される。ゴンドリン陥落時、トゥアゴンとマイグリンは死ぬが、秘密裡に脱出路を用意しておいたイドリルは夫と息子、生き残ったゴンドリンの民とともに遁れる。

 この話は、しかし、角度をずらして見ると森の中や木の中に隠れている動物が現われてくる絵のようなものである。ここでは、イドリルに焦点を合わせることでそのあたりを明らかにしたい。


   ☆    ☆    ☆


 イドリルの名は、第十五章「ベレリアンドのノルドール族のこと」で、その美しさが描かれるくだりではじめて現われる。

そこにはきらめく噴水が戯れ、トゥアゴンの王宮の庭には、古[いにしえ]の代の二つの木に似せたものが立っていた。これはトゥアゴン自身がエルフの手の技によって作り上げたものである。金で作った木はグリンガルと名づけられ、銀で花を作った木はベルシルと名づけられた。しかし、ゴンドリンにおけるありとある嘆賞すべき事物の中で、最も美しいものは、トゥアゴンの娘イドリルであった。かの女はケレブリンダル、即ち〈銀の足〉と呼ばれ、その髪はメルコールが来る前のラウレリンの金のようであった(『シルマリルの物語』224、強調は引用者による)

 ここでイドリルは「古の代の二つの木」すなわち、楽園ヴァリノールを照らしていたラウレリンとテルペリオンの写しに近接して登場し、その金髪によって「金の木」ラウレリンに結びつけられている。『囮としての』でも述べたが、『シルマリリオン』において太陽とは、ラウレリンがメルコールに枯らされた後に一つだけ実った果実から作られたものであり、トールキン作品のシンボリズムにおいて太陽は異性愛、月は同性愛の象徴である(これはマイグリンの話でも重要な前提なので記憶にとどめておいて頂きたい)。

 次にイドリルについて言及があるのは、エオルの許にいた頃、母からたびたびゴンドリンの話を聞いたマイグリンは「すべて胸中にしまいこんで忘れなかった」が、なかでも「トゥアゴンについて聞いたこと、とりわけトゥアゴンには世継ぎがいないという事実は、注意深く彼の脳裏に刻まれた」というくだりである。(第十六章「マイグリンのこと」237)

 やがて、マイグリンが本当にゴンドリンにやってきて、トゥアゴンに一目で気に入られ、彼が伯父を「主君、王として、その意を体することを誓った」時、マイグリンは「ただ黙って注意深く目を配りながら立っていた」。この時、聞きしにまさる「ゴンドリンの至福と壮麗」に目を瞠りながらも、「何にも増してかれの目を惹きつけたのは、王の傍らに坐す、王女イドリルだった」。

かの女は、その母の一族ヴァンヤール族の金髪を持ち、かれの目にはあたかも、全王宮がそこから光を得る太陽のように見えたのである。(241) 

 ここでもまたイドリルの換喩としての金髪が、太陽という直喩を呼び込んでいる。だが、最初にイドリルが紹介された時と違うのは、それがマイグリン視点であることで(といっても、実は、彼の主観が問題なのではない)、そのため、マイグリンがヘテロセクシュアルな欲望をもってイドリルを見たかのように、人間の読者はミスリードされる(そしてトゥアゴンの視線は見落される)のである。

 むろん、「ゴンドリンに来た最初の日から、マイグリンは悩みを懐くこととなり、それは年経るに従い深まるばかりで、かれから一切の喜びを奪ってしまった[…]かれは、イドリルの美しさを愛し、望みもなくかの女を得たいと欲したのである」(245)と明記されてはいる。しかし、こうした語りは人間の読者がいかにも飛びつきそうな囮であり、事実、これだけのことで、中に隠れている動物は見えなくなる。それより前に、「トゥアゴンには世継ぎがいないという事実は、注意深く彼の脳裏に刻まれた」と書かれていたことさえ、マイグリンがもうその頃から、トゥアゴンの娘婿になって自らが世継ぎになる可能性を考えていたかのように、遡って読者にインプットされてしまうのだ。

 しかし、「エルダール[エルフのこと]はこれほど近い親族とは結婚せず、それまでは誰一人そうしたいと望んだ者もいなかった」(245)のであってみれば、従姉との結婚でゆくゆくは自分が王位につけるなどと、マイグリンが思ったわけもないのだ。百歩譲って、イドリルの美しさを目にした時から彼女への欲望が生じたのだとしても、イドリルがたとえ彼になびいたところで、いとこ同士の結婚が正統とは見なされない以上、彼がトゥアゴンの後を襲ってゴンドリンの王に、あるいは、彼自身の嫡子がゴンドリンの後継者になるなどいうのは不可能であろう。

 だから、「トゥアゴンには世継ぎがいないという事実」、そして自分が王の妹の子であることを知ってマイグリンが密かに持ったかもしれない野心とは、『シルマリリオン』の語り手が強調するようなイドリルへの野心ではなく、たんにトゥアゴンの甥としてのし上がることだと思われる。

 このようにマイグリンの意図について読者が欺かれやすいのも、彼が黙って見ている(そして忘れない)だけなので、読者が勝手に(というわけでは実はない)補完して読んでしまうからである。上記の引用に続いてエオルの槍投げ事件が起こるが、「エオルはたちまち大勢に組み伏せられ、縛り上げられて、連れ去られた。そしてアレゼルは、傷の手当てを受けた。しかしマイグリンは父親を打ち眺めるだけで、一言も声を発しなかった」(244)と、マイグリンの内面は意図的に伏せられている。

 では、この時、イドリルはどうしていたのだろう。

エオルは翌日、裁きの庭に引き出されることに決まった。アレゼルとイドリルは王に慈悲を乞うたが[…]。

 さりげなく叔母とセットにされているが、これが、イドリルの行為についてのテクスト上でのはじめての言及だ。なぜ彼女は、見も知らない“暗闇エルフ”を助けようとするのだろう。彼女の心理についても、マイグリン同様、何ら触れられていない。アレゼルの方は、何といってもエオルは夫で子の父であり、槍に塗られた毒で自分が死のうとしているとは知らないのだから、命乞いをするのも無理はないように思える。だが、イドリルは? なぜ彼女はエオルを殺させまいとしたのだろう。

 アレゼルが死ぬと、エオルは絶壁から投げ落とされることになり、断崖の上に連れ出される。この時「マイグリンは傍らに立っていたが、一言も口を利かなかった」(「慈悲を乞うた」イドリルと対照的だ)。この処置は「ゴンドリンに住む者すべてにとって、正しい処置に思われた。しかし、イドリルは心を騒がせ、その日からあと、血のつながるマイグリンに不信の念を懷くに至った」 (244)。

 このイドリルの心理はどう解すべきだろう。なぜイドリルは「心を騒がせ」たのか。マイグリンが父の命乞いもせず、死に際の恨みのこもった言葉にも応えずに、平然と(?)眺めていたからだろうか。なぜ、マイグリンに、彼女は「不信の念を」抱いたのか。自分を殺そうとした父に母が傷つけられて死に至り、父も目の前で処刑されたマイグリンが、終始一言も発せずにいたとしても不思議はないのではあるまいか――むしろ彼は同情されるべき年少者ではないのか?

 イドリルが「心を騒がせ」、「マイグリンに不信の念を懷くに至った」というのは、彼女の内面について触れたはじめての記述であるが、上に述べたようにその意味は不明である。なぜ「王に慈悲を乞うた」のかについてもわからない。せいぜい、女であるので心優しさから助命嘆願したのだろうと補完して読むくらいのことしかできまい(実際、多くの読者はそうすることだろう)。しかし、イドリルは父王トゥアゴンの傍に座して、一部始終の出来事に立ち会い、語られた(そして語られなかった)すべてを目にしている。ここで彼女は、確かに、読者には明示されていない何かを、会ったばかりの従弟に見て取ったのだ。そしてそれこそが、「自分への思いを知ると、かえってますますかれを疎ましく感じた」(246)理由に他ならない。(異性の)いとこに思いを寄せるという“倒錯”ゆえに、マイグリンを忌避したのではない。それ以前に(「かえってますます」)、「マイグリンを全く愛していなかった」のであり、その理由はこの最初の日の出来事にまで遡るのである。

 とはいえ、それが、目に見えない深いところに潜んでいるわけではないのはもちろんだ(動物の絵は深さのない表面にある)。「黙って……立っていた」「一言も声を発しなかった」「口を利かなかった」という繰り返されるフレーズは、マイグリンの内心が積極的に隠されていることを示す。マイグリンがゴンドリンで確固たる地位を占めながら、「その心を明かすことをせず、万事が思い通り運ばなかったとしても、黙ってそれに耐え、自分の本心を隠していたので、その心を読むことのできる者はほとんどいなかった」(245)と駄目押しにそれが明示されたあとに、「いたとすれば、それはイドリル・ケレブリンダルである」という断言が続くことで、読者はマイグリンの内面についてはもっぱらイドリルの解釈に頼るよう誘導される。そして、彼の秘密とは、たんにイドリルへの禁じられた愛であるかのように言いくるめられてしまうのだ。

 この、マイグリンのイドリルへの愛のモチーフが、『シルマリリオン』の核心であるフェアノールとフィンウェの「禁じられた近親」への愛の反復であり、フェアノールとマイグリンにはあるレヴェルで類似が認められることは「コーラ」12号でも言及した。しかし、マイグリンの話の表の図柄である「禁じられた異性の近親への欲望」というヘテロセクシュアル・プロットは、読者をミスリードして真実を見えなくさせる。「それを見る目のない者には見えない」裏設定が、トゥアゴンの「同性の近親への〈禁じられていない〉欲望」であることもまた拙論で述べたが、「王の傍らに坐」してそれを残らず目撃し、「心を騒がせ」、「マイグリンに不信の念を」懐いた者こそ、イドリル・ケレブリンダルに他ならない。

 マイグリンが優秀なであったことは、第十六章「マイグリンのこと」に縷々述べられている。

マイグリンの運は栄え、ゴンドリンのエルフの中で次第に頭角を現わし、みなから一様に誉めそやされ、トゥアゴンの覚えもめでたかった。なぜなら、かれは習える限りのことを熱心に、速やかに習得しようとするばかりでなく、かれの方からもいろいろ教えるところがあったからである。(244-245)

マイグリンは智慧にすぐれ、しかも慎重で、同時にまた、必要とあれば大胆かつ勇敢であった。このことはその後、実証されることとなった。なぜなら、かの痛ましいニアナイス・アルノイディアドの年、トゥアゴンが囲みを解いて、北方のフィンゴンを助けるべく出陣していった時、マイグリンは、王の摂政としてゴンドリンに留まろうとはせず、自らも出陣して、トゥアゴンの傍らにあって戦い、戦場にあっては、情け容赦もなく、恐れを知らないことを証明したからである。
(245)

 ニアナイス・アルノイディアドとは「涙尽きざる」の意味で、モルゴスによってエルフと人間が大敗を喫した合戦のことだが、この戦いで、少年時代にトゥアゴンに寵愛された(『囮としての』を参照)人間の兄弟フーリンとフオルは、自らは踏みとどまってトゥアゴンを落ち延びさせる。トゥアゴンとの別れに際してのフオルの言葉を、マイグリンは「耳にして忘れなかった。しかし、かれは何も言わなかった」(334)と、特徴的な表現がここにも出てくる。マイグリンがどう思ったかは明示的に隠されているのだ。
 フオルの最後の言葉とは次のようなものである。

「しかし、今しばらくゴンドリンが倒れずにあれば、その時は殿の御家からエルフと人間の望みが生まれるでありましょう。王よ、わたくしはこのことを、死にゆく者の目で王に申しあげるのです。殿とわたくしは、ここで永久[とわ]にお別れすることになります。殿のお国の白い城壁を再び仰ぐこともないでありましょうけれど、殿とわたくしとから新しい星が生じましょう。それではご機嫌よう!」 (333-334)

 死なんとする者がしばしば未来をかいま見るというのは物語内の約束ごとであるが(機能的には筋書を前もって明かす読書ガイドである)、ここでフオルの口から出た「希望の星」は、イドリルと、フオルの子トゥオルとの間に生まれる、エアレンディルとして結実することになる。イドリルとトゥオルが愛し合うようになると「マイグリンが密かにかれに懐いている憎しみはいやが上にも強まった。かれは、何にも増して、ゴンドリンの王の唯一の後継者たるイドリルをわがものにしたいと欲していたからである」(406)とあるが、マイグリンがそれ以前からトゥオルに「懐いて」いた「憎しみ」とは何ゆえであろうか。トゥオルが「王の厚い寵愛を受けていた」(406)こと、そもそもトゥオルが水の神ウルモの送ってよこした者であることとも関連しよう。だが、一番の原因は、彼が、トゥアゴンがかつて寵愛した人間の息子であることであろう。「ゴンドリンの王の唯一の後継者たるイドリルをわがものにしたいと欲していた」というのは、囮の、表設定の、見えすいた――だが人間の読者には易々と受け入れられてしまう――口実なのだ。

 アレゼルから聞いた「トゥアゴンには世継ぎがいないという事実」は、かつて「注意深く」マイグリンの「脳裏に刻まれた」が、内実が何であれ、それは「耳にして忘れなかった」フオルの言葉の実現とともに潰え去った。トゥアゴンの摂政兼愛人として黙々と頑張ってきたマイグリンはここで完全に敗北したのである。としてのみならず、トゥアゴンのとしても。なぜなら、エアレンディルとは、トゥアゴンとフオルから――「殿とわたくしとから」――生じた「新しい星」であるからだ。マイグリンがモルゴスに捕われて裏切者になった時期へのさりげない言及――「ところで、エアレンディルがまだ幼い頃のことであるが」(第二十三章「トゥオルとゴンドリンの陥落のこと」407)――の裏には、そういう事情があったのである。イドリルの結婚ではなく、エアレンディルの誕生によってこそ、彼は政治的にも性的にも傍流に押しやられてしまったのだ。

 ちなみに、これより先に、マイグリンが少年時代のフーリン、フオル兄弟と(/に)絡むくだりは『囮としての』でも引いたが、つけ加えておくなら、マイグリンはそこでトゥアゴンには言えないやるかたない思い――なんといっても、「その心を明かすことをせず、万事が思い通り運ばなかったとしても、黙ってそれに耐え、自分の本心を隠していたので、その心を読むことのできる者はほとんどいなかった」マイグリンである――を、王のはからいでゴンドリンから帰されることになった人間の兄弟相手にぶつけているのだ。

「王の御慈悲は、そなたには分からぬぐらい広大なのだ。それに掟も以前ほど厳しくはなくなっている。そうでなければ、命が終わるまでここに留まる以外、そなたたちにはいかなる選択も与えられなかっただろう。」(第十八章「ベレリアンドの滅亡とフィンゴルフィンの死のこと」277)

 兄弟は当然ながら、ゴンドリンの位置を他言するのではないかとマイグリンが疑っているのかと誤解して(王甥が王の愛人でもあるとは彼らは知るまい)、「トゥアゴンの意図を決して口外しないこと、かれの王国で目にしたことは一切秘密にすることを」誓うという、(マイグリン以外は)微笑を誘われるずれた対応をする。言うまでもなく、ここではトゥアゴンに公私ともにいくら尽くしても報われない(たとえば人間の子供相手に浮気されてしまう)マイグリンが、通じるはずもない嫌みを言っているのであり、かつて王の慈悲を与えられることなく処刑された父、自分が見殺しにした父、息子を取られるくらいなら殺そうとしたほど独占欲の強かった(そういう愛され方しかマイグリンは知らないわけだ)、ポリガミー志向のトゥアゴン――彼がそこまでして乗りかえた相手――とは対照的な父に、思いを馳せているのである。

 としてのマイグリンが最初の日からイドリルに欲望を抱いたことがゴンドリンの禍をもたらしたと、表のヘテロセクシュアル・プロットは告げる。しかし、ナン・エルモスの暗闇の中で生まれた従弟が現われて、父トゥアゴンに臣従の礼を取った時、その叔母ゆずりの美しい顔にイドリルが読み取ったのはそんなものではあるまい。父が目の前で美少年に骨抜きにされてしまい、あとを追ってきた愛人/父親から何としても彼を奪い取ろうとして修羅場になったのを見たイドリルは、これ以上事態を悪化させないことを願ってエオルの命乞いをしたのだろう。

「アレゼルとイドリルは王に慈悲を乞うた」とひとまとめにされているが、二人の動機はたぶん全く違っている。アレゼルは、かつてエオルとともに「逍遥」した森に夫が息子を連れて出て行くようになり、自分は闇の中に一人取り残されても、彼らの関係に全く気づいていなかったと思われる(たぶん、こういう大雑把なところが、トゥアゴンと似た兄妹だったのだ)。しかし、敏感なイドリルは、「最初の日から」マイグリンの正体に気づいたのだ。自分に欲望を向けるではなく、伯父に一目で気に入られ、父親から彼女の父に乗り換えようとする、としてのマイグリンに。薄幸な子供ぶって、黙って愛人/父親を見殺しにした、なんて嫌な、と彼女は思ったに違いない。マイグリン欲しさにエオルを処刑させた自分の父親にも、父を殺した男の愛人に平気でなった――いや、追ってきた前の男を、新しい男に殺させたとさえ言える――従弟にも、彼女は戦慄したに違いない。「イドリルは心を騒がせ、その日からあと、血のつながるマイグリンに不信の念を懐いた」という記述は、こうした事態を指していると考えられる。

ところで、イドリル・ケレブリンダルは賢明にして先見の明があったが、この頃かの女の心には不安がきざし、不吉な予感が暗雲のように忍び寄ってきた。そこで、かの女は秘密の道を用意させた。[…]かの女はごく少数の者にしかこの工事のことを知らさないように取り計らったため、マイグリンには何の噂も聞こえてこなかった。(第二十三章「トゥオルとゴンドリンの陥落のこと」407)

 むろん、トゥアゴンの耳にも聞こえてこなかったに違いない。父に話せばマイグリンに筒抜けになると、イドリルにはわかっていたであろうから。「心を騒がせ」たその日以来、イドリルは父にも「不信の念を懐」いていたと思われる。実際、水の神ウルモがトゥオルの口を借りて「かれが創建した美しい立派な都を捨て、この地を去って、シリオンを下り、海に出るように命じた」にもかかわらず、「王の御前会議でいつもトゥオルに反対した」、そしてその言葉が彼の「気持に合っていたから、それだけ納得のいくもののように思われた」マイグリンに従って、トゥアゴンはついにゴンドリンの滅亡を招くことになる。マイグリンは文字通り男の傾城になったのだ。

 イドリルが危険を見抜けたのは、たんに「賢明にして先見の明があった」からではなく、「かの女の心には不安がきざし、不吉な予感が暗雲のように忍び寄ってきた」のはたんなる直感ではなく、理由のあることだった。その理由とは、マイグリンをとして見るかぎり、「ゴンドリンに来た最初の日から」(245)彼が抱くことになったと言われるイドリルへの欲望、およびそれと切り離せない権力欲であり、それが満たされないためモルゴスへの内通にまで至ったマイグリンの裏切りであろうが、マイグリンをとして見れば――それこそが、『最初の日から」イドリルが見て取っていたマイグリンだ――ストーリーは変わらないまま、真相が浮かび上がることになる。このことは、「フェアノールへの愛に惹かれ」(136)、職務も、再婚して得た家族も放棄して息子を追って行ったフィンウェを女王と見れば――彼はガートルードなのだ――真相が明らかなのと軌を一にしている。また、トールキンを“男流作家”と思うから、批評家たちが今に至るまで見当外れなお喋りしかできないことにも通じるものである。

 ところで、ゴンドリンに着いたトゥオルは、ヴァリノールの聖なる木の写しである二本の木を見た後、トゥアゴンの前に立つが、この時、王の右手にはマイグリンが立ち、左手にはイドリルが坐している。これについて私たちは『囮としての』で次のように論じた。

この視覚的なイメージの連続は印象的であり、一種の絵解きが可能と思われる。二本の木は言うまでもなく、ここが最初の、ヴァリノールの楽園であることを示す。 トゥオルの前にいるのは、実際にはゴンドリンの王トゥアゴンと、妹アレゼルの忘れ形見、そして実の娘であるが、象徴的には次のように解される――「王」はかつてのフィンウェであり、右手に立つのは「死んだ女の形見である同性の近親」、そして座っているのは「正統な婚姻を結ぶべき金髪の女」だ。すなわち、(選択すべき)二者と、その間で揺れる「王」という最初の構図の反復を、トゥオルは(それと知らずに)見ているのである。

 この“絵”が同性愛と異性愛の対立をあらわしていることは言うまでもないが、「その髪はメルコールが来る前のラウレリンの金のようであった」、「あたかも、全王宮がそこから光を得る太陽のように見えた」イドリルに対して、〈月〉としてのマイグリンが効果的に配されていることも言いそえておかねばならない。『囮としての』で詳述したが、アレゼルについての記述は「白」「銀」「青白さ」、月光ないし星明りに結びつけられており、マイグリンはそのアレゼルに似ているのに、トールキンはわざと(直接的には)そうは書かなかったのだ。むろん、マイグリンがテルペリオンのように、あるいは月のように美しいと形容されることはありえなかった。『シルマリリオン』にそう言われるべき“男のヒロイン”は一人しかいないからである。
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by kaoruSZ | 2010-05-14 22:28 | 文学 | Comments(0)