おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

カテゴリ:批評( 59 )

tatarskiyの部屋(30)

意識的にあまり自分の興味内容・属性については表明しないようにしていたんだけど、正直に言えば私個人の実感としては「(大体20世紀前半以前の)男性同性愛文学・表象の愛好者」で狭義のBLや二次創作は守備範囲外なんだよね。でもまずはそういうポピュラーな裾野の部分とユーザーの女性たちを不当な差別や抑圧から絶対的に守らない事には、いろんな意味で状況が悪化していくのを止められないから微力を尽しているんだけど。そして“悪化”して何が悪くなるかと言うと、結論から言えば「女性が作家や内外の歴史や文学の専門的な研究者になること、優れた作品を書いたり研究成果を挙げることを極めて深刻なレベルで妨害することになる」から。

なぜかと言えば三国志や戦国時代等が典型的だけど、ゲームや漫画からのBL系二次創作を入り口にして、その国・時代や人物に興味を持った女の子がいた場合、彼女がもしその興味を伸ばすことを妨げられなければ作家や研究者として大成しうるだけの才能があったとしても、その“ジャンル”を牛耳っているミソジニー・ホモフォビア的な空気や具体的な権力を持った男たちから“腐女子”だと認定された途端に人間扱いもされないとしたら、彼女はそこで挫折するか、ミソジニー・ホモフォビアの空気に積極的におもねって“腐女子”を蔑視しつつ、“男様”のご機嫌を損ねず名誉男性として扱ってもらえる範囲に矮小化された作品・研究成果を発表するしかなくなるし、実際にそうなっていると思う。以前言及した実際に作家・研究者になっているような女性たちのヒステリックな“腐女子”蔑視も、そうしたミソジニー・ホモフォビアへのおもねりと自己嫌悪・同性蔑視の悪循環から抜け出せなくなった結果なのだと思う。でも皮肉なことに、どんなに“女”を排除しても、彼女が最初にそうしたものに惹かれた真の淵源である過去の国や時代の文化の中の男性同性愛そのものは消えてなくなる訳もないし、結果として何が起きるかと言えば「そうした過去の男性同性愛文化・表象・文脈等についてためらいなく言及する事が“正当に”許される主体が男性に限定される」という典型的な性差別状況。それもヘテロ男性の場合は「自分まで“ホモ”だと思われる危険が及ばない範囲のいわば“小ネタ”として」ゲイ男性の場合は「彼の属性からして当然の興味や“人種”的なアクティビズムの一環(分離主義)」に自ずと限られ、男性同性愛そのものが本質的に持つ“男女”というジェンダーの階級性(=文化的な“意味づけ”への依存性)やセクシュアリティそのものの生得性を問い直す契機は著しく失われるし、何よりもそれと極めて深く本質的に関連する、狭義の男性同性愛表象に限定されないエロティシズム・文化そのものにとっての“男の女性性”の重要性へのタブー視を必然的に継続・延命させることになるだろう。

要するに「ゲイはゲイ、ヘテロはヘテロ、男は男、女は女」という身分差別・アパルトヘイト体制(ホモソーシャリティ)を維持するためには「男の“ホモ”エロティシズムに魅力を感じ、場合によってはそこから更に知的な興味を持つ女」の存在など絶対に認めるわけにはいかない危険分子でしかあり得ず、だからこそ彼女たちは差別体制の既得権者たちから苛烈に蔑視・排除される事になるのだ。そんなくだらないホモフォビアと女性蔑視のために、彼女たち一人ひとりの尊厳と自己実現の可能性が毀損され続けている現実は、断じて是認するわけにはいかない女性への差別そのものであり、“今”状況の是正と改善に努力しない限り、決して自然に改善することはないだろう。どう考えてもそのための具体的な取り組みの方が、“フェミニズムの精神の表現”だの“女性同士の絆”だのと称して過去の作家や作品を「フェミ的に称揚する」よりも遥かに重要かつアクチュアルなことだと思うが、未だに“フェミニスト”の多くが狭義のBLを“道徳的な留保”抜きで承認することにさえ躊躇しているようでは、先行きは暗いと言わざるをえない。

余談ながら、先述したような男性同性愛表象に関しての作家・研究者への差別・ハラスメント行為については、ネット上のアマチュアながら私自身もトールキン作品やホームズ物に関して被害にあったことがあるし、折口信夫の女性研究者が暗に“腐女子”扱いで揶揄されているのも目撃したことがある。今時折口が実際にゲイだったことを知らない人はいないと思うが、そうした事実が知られている作家についてすら、ある種の男には“女ごときが”男の同性愛に関心を持つことなど、「研究者であってすら(あるいは研究者になる程関心を持つこと自体が)蔑視・揶揄されて当然のはしたない行為」なのだろう。

嘆かわしい状況や展望の暗さはそれとして、これからも個人的な思索であれ批判であれ、日々できることを続けるしかないのだろう。最後になるが、私は男性同性愛の表象とそれに女性が関心を持つことに対する差別の根源的な要因として、ホモフォビアやミソジニーという“現象”より更に深い部分に、“性的なもの”と“知的なもの”との分離という、実はそれこそがヘテロセクシズムと“男性”の主体化の要である規律への侵犯があると考えている(以前まとめて書いているので以下を参照のこと)
http://kaorusz.exblog.jp/18345164/
http://kaorusz.exblog.jp/19518802/
言うまでもなく“女性”とはそうした“男性の主体化”の都合から生じる抑圧によって“性的な存在”として規定されたものである。だからこそ女性が男性同性愛の表象に興味を持ち、“女性”として規定されたものから外れることは「女性が知的な主体としての自分を生きること」そのものでもあるのだ。

女性が知的な主体としての自分を生き、彼女が望みうる知的な自己実現を成し得るためには、彼女の性的な自己への愛、彼女の性的なファンタジーが、男や彼らが作り上げた差別的な社会によって攻撃され抑圧されることがあってはならない。女性の同性への信頼も、それが守られてこそ真に存在しうるだろう。
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by kaoruSZ | 2016-03-01 15:00 | 批評 | Comments(0)
 国立新美術館のマグリット展に行ってきた。今回の展覧会のポスターや図録の表紙にもなっている、無数の正装した山高帽の男が空中に浮いている『ゴルコンダ』――一見、クローンのような、取り替えのきく複製の男たちのようだが、よく見るとそうではなく、一つ一つ違った顔を持つ。マグリット自身、「それぞれ違った男たちです」と言っていた。「しかし、群衆の中の個人については考えないので、男たちは、できるだけ単純な、同じ服装をし、それによって群衆を表すのです」

 これを読んで気づいたのは、彼の作品における男と女の逆説だ。男は「それぞれ違って」いる。だが、「それぞれ違った女」など(たとえ華やかに、個性的に着飾ろうと)、いるわけがない。どれも同じように見える男は、実は見かけの匿名性の下に独自性を保持しているのだ。

 たとえば、会場でこのすぐ前に展示されていた『傑作あるいは地平線の神秘』では、山高帽の三人の紳士の頭上に、それぞれ三日月がかかっている。これについてマグリットは次のように言う。「ひとりの男が月について考えるとき、彼はそれについての彼自身の考えを持ちます。それは、彼の月になります。だから私は、3人の男の頭の上にそれぞれの月がかかっているところを描いた絵を描きました。しかし、私たちは本当は月はひとつしかないことを知っています。」月とは女のことだろう。

「群衆」としての男たちは、それぞれ女について「彼自身の考え」を持つ。しかし彼らは「本当は女はひとりしかいない」ことを知っている。その女とは、たとえばすぐ隣に掲げられた『夜会服』と題された絵の、裸の腰から上に黒い髪をふさふさと垂らした、後ろ姿の女だろう。男三人がてんでの方角を向いているのに対し、女は真直ぐに月に相対しているが、それは彼女が月そのものであり、月が彼女の鏡であるからだろう。男たちが「地味な、同じ服装」であるのに対し、彼女が豊かな髪しか纏わぬ裸なのは、ホモソーシャルな「群衆」の中で、彼女だけが、唯一、エロティシズムの対象として見出されるべき(逆に言えば、それ以外の人間はそのようにまなざされてはならぬ)ものだからだ。

『ゴルコンダ』についての説明(画家へのインタヴュー抜粋)を読んだ時、私には、それが「男たち」について語られたものでありながら、同時に、それまで会場で見てきた、妻の裸体を描いた彼の絵の秘密を明かしていると思われた。“彼の月”は、一目で見分けられる彼の妻の顔をしているか、そうでなければ全く別のものに置き換えられている。妻でない女は、彫像だったり、魚の顔をしていたり(周知の通り、マグリットの顚倒した人魚は、女の下半身と魚の上半身を持つ)、あるいは『凌辱』のように、トルソが鬘をかぶせられて女の顔を形成する。あの、乳首の眼、臍の鼻、性器の口を持つスキャンダラスな顔は、“女”には独自の顔などないことを、猛烈な悪意をもって私たちに突きつけてくるものだ。

“人魚”や『凌辱』の攻撃性は一目瞭然だが、山高帽の男の背中にボッティチェリの『春』のフローラの像を重ねた『レディメイドの花束』もまた、そのスキャンダラス性においてはひけを取らないと私には思われた。『春』は、西風に触れられたニンフが花の女神に変身した瞬間を描いたもので、原画でフローラの右にいる、いきなり西風に抱えられて怯えるニンフは変身前で、美しい花模様の優雅な羅[うすもの]を纏って踏み出した女神フローラと、実は同一人物だと読んだことがある。

 しかし、こうした解釈の己の絵への適用を、マグリットはあらかじめ拒否している。彼は、ただ山高帽の男の「一部を隠す」ものが必要だったのであり、ボッティチェリの人物を選んだのは、たんに気に入ったからだと述べている。ボッティチェリが彼女に与えた寓意的意味について読んだことはないし、読みたいとも思わないというのは韜晦とも考えられるが(自分の絵が『春』と帽子の男との結婚のようなものだと言っているのは、西風とフローラの結婚という、原画の主題を前提にしてのことだろうから)、「私に関心があるのは、哲学ではなくイメージなのです」という言葉は、額面通り受け取られねばなるまい。「私は《春》のイメージを選びましたが、観念を選んだわけではありません」

 彼の選んだ「イメージ」は、一枚の紙片のように、何の深みもなく山高帽の男の背中に貼りついている。実際、それを複製画から切り抜いて貼ってもよかったはずだ。しかし彼はその「イメージ」を、「この絵の中のボッティチェルリの人物は、どの細部も正確です」と自ら保証する技術をもって、自らの絵の中に再現した。どの細部も同一だが、元のコンテクスト(「観念」「哲学」)から文字通り切り離されたそれは、「女のイメージ」のたんなる引用にまで価値を限定、縮小されることで、初めて彼の作品の中に存在を許されたのだ。

 結婚、と彼は言っている。この絵は《春》と帽子の男との一種の結婚だと。だが、この結合のよそよそしさはどうだろう。彼らは背中合せで、女は宙に浮いている。貼り付けたわけではないから、剝がすこともできない。それとも、これこそが、彼が結婚と呼ぶものなのだろうか。その顔は引用だから、もちろん妻の顔ではない。だが、対象に忠実に細部までゆるがせにせず再現したこの技法は、まさしく彼が妻に対して取っていたものである。ジョルジェットをモデルにした絵を見て分るのは、彼が妻を理想化していなかったことだ。無論彼女は、そのままでも十分美しい。モデルに忠実に描かれたフローラと同様、彼女は彼によってあらかじめ選ばれたものなのだから。

 今回の展覧会では、マグリットの撮影したホーム・ムーヴィーの上映があって、動く夫人の映像によって、彼女がどんなに夫によって忠実に再現されているかを確かめることもできる。マグリット夫人とともに詩人のマルセル・ルコントが登場するフィルムもあるが、この人は、あらゆるものが石と化している室内を描いた『旅の思い出』に姿をとどめている。石の蝋燭の石の焔が石の果物の置かれた円卓に光を投げ、石のライオンが蹲り、石の壁に、マグリット自身の絵画が額ごと石化して掛かる部屋で、 石の山高帽と石の本を手に立つ石の男がルコントなのだ。この“モデル”問題についてマグリットの言っていることが、『春』の場合と全く同じなのが興味深い。

「人物像は詩人のマルセル・ルコントを表していますが、肖像画を描くときに普通用いられる設定はとっていません。この絵に描かれた人物は説明のつく意味を持つことをやめており、ひとりの人物が自らの肖像画のためにポーズをとるという意味において、マルセル・ルコントがモデルを務めているというふうには考えないほうが妥当です」。彼はそう言っているのだ。彼はルコントを描いた。しかし“それはルコントではない”。ルコントは『春』の人物のようにただ引用されただけであり、ある人格の再現を目指したもわけではない、再現されたものはただのイメージだと、マグリットは言っているのだろう。

 マグリットの絵を次々見ながら、傍に添えられた彼自身のこうしたテクストを読んでいると、これらの断言は、ジョルジェットについても適用されるのに違いないと思われてきた。いや、彼女にこそ、マグリットの見出した“彼の月”にこそ、それはあてはまるのではないか。要するに、次のように彼は言い得たのではないか。「絵の中の人物像は 妻のジョルジェットを表していますが、肖像画を描くときに普通用いられる設定はとっていません。この絵に描かれた人物は説明のつく意味を持つことをやめており、ひとりの人物が自らの肖像画のためにポーズをとるという意味において、妻がモデルを務めているというふうには考えないほうが妥当です」

 つまりこういうことだ。『春』は、そもそもがイメージであるので、その一部を切り取って二次的に自らの絵の中に再現したものは、コンテクストを切断されたイメージの引用に過ぎないと主張することはむしろ容易だった(若い頃に手がけたコラージュによってではなく、絵筆をとってそれを行なったのは、自らの画業が現実の複製ではなくイメージの複製なのだという、メタメッセージに見える)。『旅の思い出』ではルコントが、マグリットがどこかの図版から丹念に(『春』の“人物”を写し取るのと同様の忠実さで)写し取ったのかもしれないライオンと同列のイメージに、あまっさえ石にされているが、これがスキャンダルでないのは、彼の変哲もない服装と帽子が、むしろあの浮遊する「それぞれ違った男たち」の一人にいつでも加わる資格のあることを示し、抱えた書物もまた、彼が「月について考えるとき、それについての彼自身の考えを持つ」主体であることを表すから、要するにそれが「男のイメージ」であるからだ。

 絵の女がどれも妻であること、さもなければ顔がなかったり怪物だったりすること、妻は美しいがリアルに描かれ、理想化がないことなどを、同行のtatarskiyさんに言うと、(マグリットの場合)「夢から覚めると奥さんしかいないのよ」、だから奥さんを描くのだという応えが返ってきた。なるほど、同じように女は裸で男は着込んでいても、ポール・デルヴォーの世界は、存在しない同じ顔の“夢の女”で埋め尽くされている。フェルナン・クノップフの場合は、モデルとして最愛の妹がいたが、構図通りにポーズする彼女の写真を見ると絵の方が数段美しい。マグリットにはそういうこともない。ジョルジェットには美化、理想化の跡がない。マグリットが十四の時、母は入水自殺した。十四歳で見失った女が二度と見つからなかったのよ、この人は美人画を描けないね、とtatarskiyさんが言う。

『レディメイドの花束』は、男にとっての女とは、文字通りレディメイドでしかないことを明かしていよう。背中に貼り付けた「イメージ」は“夢の女”のものではない。帽子の男の「一部を隠す」必要があり、たんに気に入ったから選んだとマグリットが言う「イメージ」は、引用元がボッティチェリだから意味ありげに見えるが(そうしておいて彼はその意味を否定する)、たとえばヘンリー・ダーガーが気に入って、切り取ってコピーした“アニメ絵”だったとしても同じことだ。ジョルジェットのことも無論マグリットは気に入ったのだ――少なくとも、『春』の“人物”と同じくらい。彼は繰り返し彼女を画布に再現することになるが、それもまた引用なのだろう。

 女(la femme)は見つからず、代りに彼は、彼の妻(sa femme)に出会う。妻のイメージに邪魔されて、夢の女が見えなくなっているのだろうか。妻とは、女と彼のあいだにつねに割って入ってくる、“月”を目指す彼の探求を、常に挫折に終らせる邪魔者ではないだろうか。圧倒的な妻のイメージが、それ以外の女のイメージを、排除し、見えなくしているのではないか。いや、彼女が隠すのは夢の女の不在だろう。彼女がポーズしてくれるから、彼は「本当は一つだけ」の月が上るのを信じていられる。

“女”は存在しない。なぜなら、その別名は男であって、男たちが自分の中には存在しないと信じて、外部に空しく投影する“月”であるからだ。だが、妻が存在する時、彼女は、男がそのことを忘れ、目の前にいる女が自分の幻想には全く同調しない知的な生き物であるのを忘れることを、優しく許してくれる(少なくとも、男はそう信じることができる)。彼女が存在しないとはそのまま彼自身が存在しないことであり、彼がその恐しい事実に直面しないでいられるのは彼女のおかげなのだ。
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by kaoruSZ | 2016-01-01 11:26 | 批評 | Comments(0)
悲しみの安良
 善峯寺で床を並べて寝た夜に、渥美が、死ぬことのたやすさについて唐突に語り出しはしても、なぜ死にたいのかについては何も言わなかった理由はいまや明らかだろう。「わては死ぬくらゐなことはなんでもないこつちや思ひます」と渥美が言うのは当然だ。渥美はもう死んでいるのだから。しかし安良には、渥美の死んだ理由がわからないので、それについては何も言わせることができないのだ。つまり、本当は安良は、この愛の対象を理解などしていない。ただ、渥美が「けがらはしい」つながりなど求めず、ナルシスティックに閉じたまま、「清らかに」死んでしまった者だと見えている。

 安良が自身の外見に無頓着なのは、渥美にかえりみられなかった自分には価値がないから、どうでもいいと思っているからだろう(意識しているかは別にして)。上級生に言い寄られても応えないのは、失った渥美と似た者になるよう、彼をなぞっているからだろう(これもほとんど無意識に)。
 
 こうしたことがわかってはじめて、岡沢への安良の態度も理解できるというものだ。「悲し」という語は、安良に手紙を渡した岡沢に対して使われるのが初出である。逃げ出した安良が振り返り、「此方を凝視めて、あがつた肩も淋しげに、自分を見おくつてゐる男を、悲しむ心が湧いて来た」というくだりだ。

 これは恋を知らない天使が、そんなものにかかずりあって苦しんでいる、自分とは無縁の地上の人間に、憐れみをかける心が湧いたということではない。手紙の返事の期限が今日だったと気づき、それまで「返事を書かうとは思ひもよらなかつた」けれど、「今、あざやかに、返事を待つといつた時の、あの男らしい顔に漲つてゐた、憐みを請ふやうな、悲しい表情が思ひかへされたのである」という時も、その「悲しい」表情に同情が湧いたわけではあるまい。安良が見ているのは一年前の自分であり、その悲しみなのだ。岡沢と違って安良は手紙を送る機会も逸してしまった。

「悲し」はあと七箇所あるが、うち五箇所までが渥美に関係のある文である。いや、渥美に直接関係がないと見えても、そう読んだ時にはじめて意味がはっきりする、そこで渥美のことが思い出されている(たとえ安良の意識には上らずとも)という指標が、「悲し」なのである。

 先に引用した、湯上りの安良が「肩ごしに後姿を見ようとして、さまざまにしなを」作り、「その度毎に、色々な筋肉の、皮膚のなかを透いて見えて、いひしらぬ快い感覚に、ほれぼれとなつてゐた」直後にも悲しみはある――

すと彼の心を過ぎつた悲しいとも、楽しいとも名状の出来ぬ心もちがある。

 これは、鏡を見ることがたんなる自己陶酔ではないからだろう。岡沢に欲望される、しかし渥美には振り向いてもらえなかった自分を見ているからだろう。また、せっかく一泊旅行を許されながら、彼は同級生の斉藤と一緒に行くと叔母に余計な嘘をついてしまい、「どうして嘘などをいふ気になつたのだらう、と悲しくなつて来る」。

 これは普通の意味でも一見通るが、しかし安良の罪の意識は、渥美をめぐる「悲しさ」と密接に結びついている。

彼には渥美が近づきがたい人のやうに見えた。自身には「倍旧の御愛顧を」と書いてよこした岡沢が似合はしく思はれて、悲しくなる。

 これは例の「倉の影」で、渥美の手紙を読むくだりの中の一節だ。

 渥美が自分にそのような手紙を書くとは安良には信じられず(実は安良自身の思いが書かれているわけだから)、自分の渥美への心もちが、実は岡沢に対するのと同じ「むさい処に根ざし」ていると思うと、清らかな渥美を汚すようで、渥美にはとても近づけないと思うのだ。そのことと、大和から帰ったばかりで、また出かけるとはとても言い出せないという思いとが、ここには隣接して置かれている。結局安良は、父のさとへ行くと家には言い、それを嘘にしないために姉の家に泊り、三日後、大阪の家へ帰ると言って(これは嘘になる)京都の西山へ駆けつけたわけだが、それについてはこう語られる。

こんなにしてだんだん悪事に馴れて、とゞのつまりは救はれぬ淵へおちて行くのだと思ひかけると、堕落の日をまざまざと目の前に見てゐるやうで胸がせまつて来る。かういふ心でのめのめと、仏のやうな人の前にゐる自身が鞭うつても慊らなくつらにくゝ感じられて、悲しくなつて来る。

 ここでも再び、旅行に関して叔母や母に嘘をつくことと、「仏のやうな」渥美の「前にゐる」(実際には隣に寝ているのだが)ことの「悲しさ」が隣接している。浄瑠璃を聴きながら、安良は「あどけない長吉の画策の、しだいに崩されて行くのを悲しんだ」が、安良のつく嘘は明らかにこの「画策」にあたる。「こんなにしてだんだん悪事に馴れて、とゞのつまりは救はれぬ淵へおちて行く」だの、「堕落の日」だの、いかにも大袈裟に聞えるが、結局のところこの罪悪感は、隣りあっている性的なものの方が正体で、安良が進んで犯したり言い立てたりしている嘘つきの罪は、軽い罪を言い立てて本当の罪を覆い隠そうとするものだろう。

 斉藤と一緒だと嘘をついた自分を悲しむ安良は、「こんなしらじらしい嘘に、誠らしい顔をつくつて叔母をだました、あさましい心は、罵つても罵つても慊らなかつた」が、「あさましい」という語がこの小説で他に出てくる箇所はただ一つ、蜜柑畠の野番小屋の中を見た時である――

つきあげ戸から覗きこんだ彼は、そこにあさましいものを見て、思はず二足三足後じさりした。

道行
 残る二つの「悲し」は、渥美と渓川へ行ってから崖縁に至る道行の際、まさに渥美を目の前にしてのものである。

裸形をはぢらふやうに、二人はわかれわかれに着物を脱いだ。さうして、四五間もはなれて水の上に首だけを出してゐる渥美の姿を見まい見まいとした。泳ぐことを知らぬ彼は浅瀬に膝をついて、青く流るゝ水の光を悲しんだ

 何を悲しむのだろう? 安良が泳げぬことは、すでに夏休みに入った当初の「大川」での水泳の時間に明らかにされている。「彼は一年の時、二年の時、毎日欠かさず夏中通ひとほした。けれども今におきにからだは浮かうともせなかつた」。

 何でそんなに上達しないのかいぶかしまれるくらいだが、それでも彼は大川では水に入って、「炎天の下に、とろりと澱んでゐる水の、ひたひたと皮膚を撫でゝ行く快さに、目を細めてぢつとしてゐることなどもある」というのに、なぜこの渓川では浅瀬より先へは入らないのか。

 渥美はと見ると、すこし川上の岩に這ひ上[アガ]らうとしてゐる。岩は水から三四尺つき出てゐて、そのまはりには深い潭[フチ]がとろりと澱んで見える」と全く同じ言葉で描かれているのに。大川の「とろりと澱んでゐる水」の中では、安良は岡沢に抱きすくめられ頬にキスされている。それと対照的にここでは距離を保つのか。

「水の光を悲し」みながら「鳥膚のやうに粟だつた腕を摩[コ]すると、赤らみの潮[サ]して来るのをぢつと見つめてゐると、わけもなくよすがない心地が湧いて来る」。「わけ」がないわけはあるまい。渥美は安良の方も見ずに、「あちむきに岩の上にすつくと立つて、うつゝなく水の面[オモ]に見入つてゐる」のだから。

 本当は安良はひとりぼっちなのだ。渥美のいるところへ行くには「とろりと澱んで見える」「深い潭」を越えなければならないが、もしもそこに踏み込むなら ば、泳ぐことを知らぬ安良は必ず死ぬ。だから彼は浅瀬に膝をつきながら、「青く流るゝ水の光を悲しむ」以外にないのだろう。

 二人並んで淵に臨んで腰をおろしても、友は「項垂れたまゝ青ざめた頬を手にさゝへて、吸ひつけられたやうな目つきをして、淵の色に見入つてゐる」というナルシスのポーズを崩さない。その時の安良の様子はこう記される。

彼は悲しくわなゝいた。青い月光の光を夢みるやうな目をあげて時々空を仰いだ。

「青い月光の光」が何を指すか、それを夢みるとはどういうことか、最早明らかだろう。そして「悲しくわななく」安良の隣に本当は誰もいないことも。

 川から上がるより先に、もう帰ろうかと安良は渥美に声をかけられている。「『もうお寺いいにまへうか』彼は夢心地からよび醒まされた」。だが、うたたねからさめて渥美が現れるのと同じで、夢心地から醒めたところもまた夢なのだ。彼らは別に一緒に死のうと計らって出てきたわけではないし、この時もそんなことはまるきり言っていない。並んで淵を見つめたあと、「さあいにまへう」と渥美がまた言って二人は帰路につく。

 ところが渥美が 「釈迦ヶ嶽。あれが」と指をさすのに「こつから、よつぽどありまつしやろか」と安良が尋ね、そうでもないと相手が答える。そして「人ずくなゝ寺のうちにゐても、唯二人でないといふことが、彼には不満であつたのだ」という安良の内心を語る声は、即座に、「そんならのぼりまへう」という渥美の言葉で受けられる。「恐ろしいまでに自身の胸のうちを直感した渥美のことばに」「ぎくりと」する安良ほどにも、研究者は驚かないのだろうか。これを現実の出来事、現実の会話だと信じてしまうのだろうか。

 急な山道を登るうち「ざはざは薄原を踏みわけて来る物音がする。恐しい野獣の姿を思うておびえあがつた。けれども瞬間に、二人だ、喰ひ殺されたつて心残りがない、と思ふた、その恐しい時の来るのを一刻も待つ様な心が湧いた」という安良の盛り上がりようを異常だと思わないのだろうか。しつこいようだが。停車場での出会いで名前が出るまで、渥美はこの小説に全く登場していなかったのだ。富岡氏は、折口の弟子たちが渥美のモデルとする中学の同級生を、折口の片思いで心中するような仲ではなかったと書くが、それを言うなら渥美と安良も同様だ。

 勿論野獣は現れない。

目の前の草をわけて出たのは、白衣姿の巡礼で、
「良峰[ヨシミネ]さまへ行くのはこれかな」
と問ひかけた。
「大[オホ]きに大きに」
渥美のをしへた道をどんどん下つて行つた。


 この巡礼を出すのも実に旨い。現実効果について言うのではない。あとでこの中年男は貴重な証言者になるはずだから。一年前に自殺した住職の甥の同級生で、現場へ参りたいと一人で渓川へ降りた少年が戻ってこないと騒ぎになった時、この巡礼は、釈迦ヶ嶽の頂へ向う少年に会ったと話すだろう。ここへの道を教えてもらった、連れはなく、一人きりで登って行ったと。

 これまでの間に、渥美と安良は一緒に死のうと言いかわしたわけでも何でもない。「わては死ぬくらゐなことはなんでもないこつちや思ひます」と渥美が言い、「私も死ぬ」という言葉を発するのを安良がぐっと抑えただけである。渥美がその気でないのではないかという疑念があったからだ。自分の申し出を喜んで受けてくれるかどうか、確信がなかったからだ。去年渥美が安良のことなど眼中になしに一人で死んでいるからだ(それなのに、今になって来てくれという手紙をもらった。手紙を読んで「ほのかに渥美を怨む心が、ふつと安良の胸を掠めてとほつた」という文句の意味は、そう考えなければ通らない)。

 しかし今、渥美の意図には何の疑いもなく、安良は相手が自分の思うとおりに動いてくれることに驚きながら、苦しい胸を撫でてもらい、「渥美が先に立つて、時々仆れさうになる安良の手をとつてのぼつて行く」。

二人がかうした処をあるいてゐることを、叔母や母は知つてゐさうに思はれた。家人の冷やかな眼の光が胸を貫いた。今にも世界を始に戻す威力の、天地を覆へす一大事が降りかゝつて来さうに思はれた。(…)しかし、二人には目に見えぬ力が迫つて来て、抗ふことを許さなかつた。

 これが現実の出来事であるとどうして思えよう。「渥美の胸にあたまを埋めてひしと相擁いた」あと、「細い踵を吹き飛ばしさうな風の中を翔るやうに、草原をわたつて行く」渥美に導かれて安良は崖の縁[ヘリ]に立つ。

「漆間君」
「渥美君」


とかたみに名を呼び、

「死ぬのだ」といふ観念が、二人の胸に高いどよみをつくつて流れこんだ.。(…)二人の掌[タナゾコ]は、ふり放すことの出来ぬ力が加はつたやうにきびしく結びあはされてゐる。ぶるぶると総身のをののきが二人のからだにこもごも伝はつた。氷の如き渦巻火[ウヅマキヒ]のやうな流が、二人の身うちを唸をあげてどよめ きはしつた。今、二人は、一歩岩角をのり出した。

 二人、二人、二人、語り手はたたみかける。本当に二人なのかは訊くまでもあるまい。

 驚くのは、安良がここで死んだと思う(或は死んだかどうかは分らないが、と言う)人たちがいることだ。ほとんどトランス状態に見える語りだが、一方で安良の帰路はちゃんと確保されている。捜索隊のために証言してくれるはずの巡礼の小父さんもそうだが、安良が金づちで水に入らないのもすでにそうである。 泳ぐことを知らぬという“口実”なしでは、彼は岩の上に這い上がって「あちむき」で水の面に見入るセイレーンの誘いを受けたと信じ、とろりと澱む深い潭[フチ]に容易に身を投じたであろうから。そして渥美の死んだのと同じ淵にはまって死に、同時に岩の上に立つ幻影も消えて、物語は終了していたであろうから。

 潭を越える代りに彼は、「青く流るゝ水の光を悲し」み、そして幻覚のうちに渥美と擁き合い、手を取りあっての死を選ぶのだが、そこはさも恐しげに書かれてはいるが、「黒ずんだ杉林が、遥かに遥かに谷の底までなだれ下つてゐ」るので、「白い岩」にぶちあたりでもしなければ十分安良を受け止めてくれそうだ。

「『死ぬのだ』といふ観念が、二人の胸に高いどよみをつくつて流れこんだ」り、「氷の如き渦巻火」というオクシモロンが流れとなって「二人の身うちを唸をあげてどよめきはしつた」りと、まるで実行されなかった入水の代りを修辞が務めるようなクライマックスは、こうして、渥美が消滅し、安良が真実を思い出すことを予感させて終る。

続きはtwitterで随時進行中。https://twitter.com/kaoruSZ

別セリー

『釋迢空ノート』メモ 
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by kaoruSZ | 2015-10-18 12:00 | 批評 | Comments(0)
水鏡
 偶然声をかけて来た男・柳田が、渥美(しかもそれはその時はじめて出てくる名前だ)の従兄だったり、そのあと家に帰ると渥美から手紙が届いたりするのを、富岡氏のように「不自然」と言い、渥美はおとりで、渥美と柳田は同一人物だと言ったり、「事実は、三和の山もとで何らかの性的関係を受けいれた折口そのひとが、いずれかの寺に滞在し、おそらく得度している男性に会いにゆくという流れは、一連であり、おなじ人物ではないかという推定にふくらむ」となけなしの下司な想像力をふくらませ、「小説のうえで二人の人物に分けたことには運びとして無理があると、富岡氏も認めるところ」(いづれも『釋迢空ノート』解説)と、訳知り顔したりするのは、この不自然さが作家の意図してしたことであり、彼の天才の発現であることにまるで気づかず、作家折口への敬意を最大限に欠く振舞いである。

 渥美に「心をよみつくされ」、「胸のうちを直感され」ているように安良が感じるという記述こそ、不可解で不自然であるが、もともと、停車場でいきなり渥美という名が出てきたところからすでにおかしかったのだ。渥美こそはじめから隠されていたものであり、テクストがはじまる前にあった事件の核心であり、のどかに進んでゆく五月、六月、七月を経て夏の終りに、去年の同じ時期にあった事件の一年後の再会のために用意されていたものである。

 寺に泊った翌日、安良は「起きるとすぐ帰るといひ出した。しかし、渥美のとり縋るやうな目つきに惹かれては、たつてともいひはれなくなつた。どうなりとなれ、といふ気で、まう一日をることにした」。そして渥美に連れられ渓川へ行く。

 遠い昔のことになってしまったが、『死者の書』に関連して、『口ぶえ』原文は読み返さぬまま持田氏の論文から幾つかの文を引いた。
「安良は二人の上級生に心惹かれるが、二人は対極のタイプである」
「かたや肉欲、かたや精神性を強調される岡沢と渥美」
「岡沢と安良の水中シーンをなそるかのように、西山の谷川で二人が泳ぐ場面がある」
(「見よ眠れる船を(2)

 まず、渥美は上級生ではなかった。それから、谷川で安良は泳いではいなかった。もともと泳げないのだが、西山では「ひたくだりの坂道を」おりた先の川で、水面から首だけ出している渥美を見ながら、「泳ぐことを知らぬ彼は浅瀬に膝をついて、青く流るゝ水の光を悲しんだ」だけであった。

渥美はと見ると、すこし川上の岩に這ひ上[アガ]らうとしてゐる。岩は水から三四尺つき出てゐて、そのまはりには深い潭[フチ]がとろりと澱んで見える。

 今となっては、どうして持田氏がこの場面全体を現実の出来事と信じることができたのか不思議である。

友はあちむきに岩の上にすつくと立つて、うつゝなく水の面[オモ]に見入つてゐる。安良の胸には、弱ゝと地に這ふ山藤の花がふとおもかげに浮んだ。

 このレトリックの意味は明らかだろう。渥美は水面に見入るナルシスなのだ(しかもすっくと立つ花でなく、「弱ゝと地に這ふ」脆さで、うつゝなく夢想に沈む)。自分に見入って儚く死んでゆく若者であり、その意味で、岡沢の思いに応えず、己が姿を鏡に映していた安良の分身なのだ。

 岡沢と渥美が対比的に配されているのは確かである。安良が学校で手がけていた花畑は、夏休みに入って彼が岡沢にかかずりあっている間に萎れてしまうが、思えばあれも枯死する植物神に擬した、渥美を表していたのだろう。

 水から出て「着物をつけた渥美は、安良と並んで青淵[アヲブチ]に臨んで腰をおろ」す。「なぜか今朝からものかずもいはないでゐた友は、項垂れたまゝ青ざめた頬を手にさゝへて、吸ひつけられたやうな目つきをして、淵の色に見入つてゐる」。

 先にジュリアン・グリーンの名前を出した。『地上の旅人』では孤独な青年が友人を得るが最後は彼に導かれ崖から落ちて死ぬ。しかし残された手記と周囲の人間の証言から、自殺ではないと判断される。人々は彼がいつも一人きりで、そんな連れといるのは見たことがないと言い、友人に渡されたメモと思い込んでいたのは自分で書いたものだった等々の事実が判明するのだ。

『地上の旅人』を折口が読んでいた可能性すらあると思うが、全く別々に発想したのだとしても不思議はない、基本的なモチーフではあろう。自分によく似た分身としての友人が死に、代りに主人公は生き残る、青(少)年期のイニシエーションの物語だ。

『口ぶえ』もそのような話だと私たちは考えた。渥美の死の事実を安良は受け入れられないまま、また夏がめぐってきた。標題の口ぶえとは魂[たま]よばひの謂、安良は知らぬうちに彼を呼び出してしまい(抑圧していた記憶が戻り)、彼から手紙で呼ばれたと思って訪ねてゆき、そして一人戻ってくるのだ。

『口ぶえ』の最後はどう終ると思うかとtatarskiyさんに訊かれ、ちょっと考えて、安良が水の面を見つめるところで終ると思うと私は答えた。先程引いた青淵、渥美が「吸ひつけられたやうな目つきをして、淵の色に見入つてゐ」た水面、安良が「心もちの異常に動揺するのを感じて友の方を見」ると「顔をそむけてゐた渥美の頬には涙が伝うてゐた」場所である。渥美は自分が死んだ淵に見入って涙を流していたのだろう。安良は後追い自殺のように(主観的には一緒に)死のうとしたが、間一髪助かって戻ってきた。そうやって安良は成長し、友の手無しでも一人で生きられるようになる(と、最初私は考えた)。

『地上の旅人』のことを考えれば、渥美からの手紙と思って安良が読んだのがどういうものだったかも了解されよう。あれは安良が自分で書いたのだ。さらにtatarskiyさんが言うには、あの本体はもともと安良が渥美に書いた恋文であり、それを出さないうちに相手は死んでしまった。それで封をしたまま抽斗か何か収めてあったが、岡沢から来た葉書をしまおうとしてそれを見つけた。ただし、真先に目をとめた「京・西山にて 渥美泰造」という封筒はまた別で、安良が本当に渥美から貰ったもの。去年渥美が伯父さんの寺に行くというので、手紙をくれないかと安良は頼んでいたのだ(安良が、旅の道連れがいるという嘘を本当にするために旅に誘うが断られる、同級生の斉藤が、旅先から絵葉書を送ってくれと言うように)。中身は無論どうということもないものだ。ただ、

山の上の静かな書院の月光の中でひろびと臥[ネ]てゐると淋しくもありますが、世の中から隔つたといふ心もちがしみじみと味はれます。

という最初の部分は本当にあったものだろう。無論それに続く「わたしは心からあなたに来ていたゞきたいと思うてます」は、渥美が絶対に書くはずのない文章だ。渥美は多分、封書を投函するよう小僧に託して、そのまま死んでしまったのだろう。だから本当に手紙が来たといって安良が大喜びしたとき、渥美はもう此の世の人ではなかったのだろう。

 背景が分ってみれば、月射すそこは死の世界でもあり、渥美は本当に「世の中から隔つ」てしまつたのだと思えてくる。そこへ「心からあなたに来ていたゞきたい」とは、ぞっとしないお誘いと感じられもするだろう。でもこれはたんなる安良の錯誤であって、怪談でもホラーでもない。

 このとき山上の書院を照らしていた光、それは『死者の書』では、山の上の静かな石室の中にまでどこからかさし入ってくる「月光とも思へる薄あかり」となって、「山を照し、谷を輝かして、剩る光りは、又空に跳ね返つて、殘る隈々までも、鮮やかにうつし出」すことになるだろう。

 こうしたことが分ってみると、安良の外見への無頓着や周囲への無関心、 自分の感覚にのみ没頭しているかの様子は、全く別な風に見えてくる。たとえば小説がはじまってすぐ、上半身裸の安良が体育教師の命令での台の上で号令をかけさせられる場面(一度取り上げている)で、「同年級の生徒のある者は、さすがにいたましい目をして、彼を見た」という一文がある。以前論じたのはここにあるが、 実は少し先で学校帰りの安良が、藤原家隆の歌を刻んだ塚の前に立つところで、「いたまし」という語はもう一度出てきている。

ちぎりあれば なにはのうらにうつりきて、なみのゆふひををがみぬるかな

その消え入るやうなしらべが、彼のあたまの深い底から呼び起された。安良のをさない心にも、新古今集の歌人であつたこの塚のあるじの、晩年が、何となく蕭条たるものに思はれて来た。その時、頬に伝はるものを覚えた。あたまの上の梢から、一枚の葉が、安良の目の前に落ちた。
見あげる彼の目に、柔かくふくらんだ、灰色の鳩の、枝を踏みかへたのが、見えた。
そのいたましく赤い脚。不安な光に、彼を見つめた小鳥の瞳[メ]。


 なぜ鳩の足の赤さがいたましく、小鳥の目が不安な光を放つのか。これだけ読めば思春期の少年の、不安定な心の投影としか思えないだろう。いたましいのは彼自身であり、家隆の歌を読んで涙するのは「をさない心」の感傷なのだと。

 だが、第一ページがはじまる以前に何が起っていたのかを知ってみれば、この一節は全く別な光に照らされる。彼の思い起したのは、家隆の晩年ではあるまい。「彼のあたまの深い底から呼び起された」のは、もっと身近な、もっと最近の、死者の記憶の影であろう。

 彼は涙する。何に涙しているかさえ思い出せないから(あるいは読者には知らせられないから)、頬に伝わったことだけを意識する。それに呼応するかに、一枚の葉が目の前に落ちる(自身夭逝した藤原義孝の、「夕暮の木繁き庭を眺めつつ木の葉とともに落つる涙か」が思い出される。これも哀傷の歌である)。それは渥美からの手紙であり、枝を踏みかえて木の葉を落した、「柔かくふくらんだ、灰色の鳩」、「いたましく赤い脚」をした生き物は、渥美の化身なのだ。

「いたまし」という語は、『口ぶえ』前篇でもう一度だけ使われている。手紙をもらって会いに行った時の渥美の印象――

安良はそつと上目づかひに渥美の顔をぬすみ見た。青白く殺[ソ]がれた頬を淋しみながら、夏瘦する渥美のくせを知つてゐる安良は、さまで驚きはしなかつたが、目をおとすと、きちんと揃へた膝がほつそりといたましくうつゝて来て、それが心もちわなゝいて見える。

「不安な光に、彼を見つめた小鳥の瞳」は、「いたゞきに着いた二人は、衰へた顔を互にまじまじと見つめてゐた」の崖から飛び降りようとする寸前の、安良がのぞき込んだ渥美の目として再現されよう(勿論、安良の見つめる渥美の目には彼自身が映っていたであろうから、これはナルシスの目でもある)。それにしても「いたましい」という語は、自他未分化な、対象の属性と話者の感情をともに指しうるから、どちらの場合でもこれほど適切な形容はなかったと言えよう。

 そもそも「をさない」安良の心が、なぜこれほどまでに「死」に傾斜するのか。新古今集歌人の蕭条たる晩年などに、なぜ少年がたやすく涙するのか、その「不自然」さをこそ疑うべきであった。あるいはとある夕暮、叔母に誘われ、安良は近所へ素人浄瑠璃を聴きに行く。安良の、物語の主人公長吉への異様な共感を、それこそ「不自然」と思うべきであった。

安良は、この浄瑠璃は始めてゞあつた。けれども、長吉が姉にいひ聴かされるあたりで、これは主人のかねを盗み出して来たのだ、と直感して、あどけない長吉の画策の、しだいに崩されて行くのを悲しんだ。
湯を沸かしに立つて行くへんになつて、死場所をさがして、野中の井戸を覗いて来たといふ処に来た時、水をあびせられたやうな感じが、あたまのなかをすうつと行きすぎた。


 なぜ長吉の運命がわがことのように感じられるのか。なぜ、死が「彼自身せねばなら」ぬことと感じられるのか。なぜ、井戸を覗くという言葉に、かくもいたましく反応するのか。

「あらな南のえゝ家[トコ]の若旦那だんね。うまいもんやな。貴鳳はんの後つぎだんな。文楽や堀江のわかてに、あんだけかたれるのはあれへん」などゝ、わあわあさわいでゐるなかに、安良は淋しく野中の井戸の底にうつる、わが影を見つめてゐた。

 渥美は水で死んだ。安良にとっては、そのあとを追うことが、「彼自身せねばなら」ぬことなのである。

 安良は井戸の底を覗くが、そこには「わが影」が映っているばかりだった。しかし同時に、それは渥美の似姿でもある。なぜなら、安良の知っている渥美とは、自分の思いに応えずに、己が影だけを見つめて死んだ者なのだから。

「あどけない長吉の画策の、しだいに崩されて行くのを悲しんだ」とあるが、実はこの「悲し」というのも、読んでいて気になるキーワードである。語検索して眺めていると、この浄瑠璃は『口ぶえ』にとって、『ハムレット』の中に埋め込まれた「ゴンザゴ殺し」のような、己の似姿なのだと分る。しかもその中心には鏡が用意されているのだから、折口の冴えた手腕には舌を巻く。


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by kaoruSZ | 2015-10-16 05:06 | 批評 | Comments(0)
どくだみと黒すぐり
 安良の部屋に鏡台があることが紹介されるくだりからは、もう一つ分ることがある。

安良は本を読みながら、鏡のおもてにうつる自身の顔に、うつとりと見入つてゐるやうなこともある。とんとんと梯子を上つて来る音を聞くと、どぎまぎしながら本のうへに目を落として、あらぬ行を辿つてゐることも、度々であつた。

 これは決して具体的に書かれることのない安良の顔についての、数少ない言及だが、同時に、そこは母や叔母や祖母が鏡を覗きに上がってくることがある、決して安心して独りになれる場所ではないということでもある。 岡沢から手紙を渡された時は、倉の二階へ上がって読んでいた。

 倉の窓の前には青桐の木が立ち、安良の部屋の窓にも、その葉が揺れている。風呂場からは倉と母屋の間の青空が見える。座敷からは物干台へ出られて、母らが鏡を見に上がってくると「ふけの散るのを厭うて、さういふ時は、きまつて物干台へ出てしまふ」し、かつての乳母に「小ぼんちやん、いつまでも、をなごなんて欲しおもひなはんなや」と言われた時は、「知らん」と言って「顔赤めて起つて」しまい、「そつと二階へあがつて行つ」て、「夜露の、しつとりおりてゐる物干台に出て、穴にでも消え入りたい、心地にひたつてゐた」場所である。しかし「梧桐の葉が物干台とすれすれに枝を延ば」すそこも、夏の宵に寝ござを抱えて上がれば、隣の鰻屋の旦那が晩酌しながら話しかけてくるのだから、一人きりでいられる場所ではない。

 渥美からの手紙を、だから「倉の影」の「不浄口へかよふ空地」で読む。岡沢の時は倉の二階へ行ったのだからそうしてもよさそうなのに、なぜかそこへ降りてゆく。すでにこのくだりは引いたがhttp://kaorusz.exblog.jp/24974752/ もう一度見てみたい。 戸外でありながら、そこは屋内で得られなかった「人目にない処」で、己が姿が安良には「岩窟にせなをまるくしてゐる獣のやうに」思われる。

裏通の粉屋で踏む碓[イシウス]の音が、とんとんと聞え出して、 地響がびりびりと身うちに伝はる。 

 これば大和の旅から帰った安良が眠れずに「露原にわだかまる淡紅色の蛇が、まのあたりにとけたりほぐれたりして、ゆらゆらと輝」くのを見たあと、「蚊帳を這ひ出して、縁端の椅子に腰をおろして見た。夜なべに豆をひく隣の豆腐屋の臼の音が聞える」のを思い出させる。なぜなら、このあと蒲団にもぐって固く目を閉じ、「自身の二の腕を強く吸うて、このまゝ凝つて行く人のやうにぢつとしてゐた」という、まるで安良自信が豆腐になって凝って行くのを擬態するかのような描写が、ここでは碓の「地響がびりびりと身うちに伝はる」と、やはり隣の家業の物音がそのまま、安良の身体へ通じる形になっているからだ。

 これは二つの場面で同じ性質のことが起きているか、あるいはは片方では省略したことがもう一方で書かれているので、重ね合わせたり補って読んだりすべきということだろう。

倉の裾まはりには、どくだみの青じろい花が二つばかりかたまつて咲いてゐた。「安良は手をのべて花を摘んだ。黴の生えた腐肉のやうな異臭が鼻をつきぬいた。彼は花を地に叩きつけた。さうして心ゆくまで蹂躪[フミニヂ]つた。五つの指には、その花のにほひは、いつまでもいつまでもまつはつてゐた。

『口ぶえ』 には色々と花が出てくるが、このどくだみの扱いようは群を抜いている。というか、こんなふうに扱われる花はない。渥美は月見草にも山藤にも喩えられているが、さすがにそれには似つかわしくないにしても、そもそもどくだみの放つのはそこまでの悪臭だろうか。これは安良にとっての、「淡紅色の蛇」と見なされた性の匂いだろう。

 このどくだみの匂う倉の影からは、時代も場所も違う少年が、一人になるために入り込んだ場所が連想される。プルーストの語り手が少年時代に、コンブレーで閉じこもる、家の最上階の小部屋である。アイリスの芳香剤の匂う卑俗な用途のための小部屋と言われているのは、要するにトイレなのだが、そこには野生の黒すぐりの花が窓から頭をさし入れており、その「身をかがめた葉」に、少年は「カタツムリの這ったような自然の痕」を残す。

 彼の場合、家で唯一鍵のかかる部屋であるそこへ、孤独を必要とする用事のために上っていったのだが、『口ぶえ』では上へ行ってもだめなので安良は梯子段を降りる。そして人目につかぬとはいえ、屋外という誰にも疑いを抱かせぬ変更と、「倉の影」の「不浄口へ続く空地」という大胆な謎かけ。コンブレーの小部屋に香るのはアイリスに黒すぐり、初稿ではリラであり、『口ぶえ』では窓に届く青桐がさわさわと葉を揺らす。

 コンブレーの少年は、最上階の窓から見える自然の中に、小説中では少女とされている性的対象が現れてくれないかと願って果さないが、より幸運な安良は、以前藤井寺へ行った時、道端で休んでいて次のような出会いを遂げている――

野らしごとから昼寝にかへる男であらう、真白な菅笠をかづいて、
すたすたやつて来たが、ふと停まつて彼を一瞥したまゝ、また静かに行きすぎた。それはせつないけれども、しかし快い気もちを惹き起すやうなものであつた。
安良はのび上つた。もうその時は、はるばるとつゞく穂麦の末に、それかと見る菅笠がかすんでゐた。浅黒い顔の、けれども鮮やかな目鼻だちをもつた、中肉の男である。まくりあげてゐた二の腕は不思議に白く、ふくよかであつた。勦[イタ]はる様に見つめてゐた、柔らかなまなざしが胸に印せられた。


 あるいは、祖父の地の大和で、十六七の少年を見るくだり――

三分ばかりに延びた髪の生えぎはが、白いまる顔にうつゝて、くつきりと青く見える。涼しい目をあげて安良をぢつと見た。
彼は、咎められたやうな気がして、顔がほてつて来た。すたすたと歩く自身の後姿を見送つてゐる、子どもの目を感じながら急いだ。
道は、横山を断ちきつてゐる流れについて、山の裾を廻[メグ]る。
どうも、あの顔には見おぼえがある。いつ見た人だらう、と記憶に遠のいてゐさうな顔を、あれこれと、胸にうかべて見た。しかしものごゝろがついてから、逢うた顔ではない、といふ心もちがする。もつともつと、古い昔に見たのだ。


 ちなみにtatarskiyさんは、少年は安良の親戚で、一度も会ったことはないが自分によく似た顔を安良はここで見ているのだろうと言う。つまり、読者には決して説明されることのない、彼自身にはそれと認め得ない安良自身の顔なのだと。

 たしか渋澤龍彦は、『失われた時を求めて』のこの挿話を、『仮面の告白』の主人公が海で射精するのと並べて、孤独な少年の欲望が自然に向かうのが共通するといった趣旨のことを書いていたと記憶する。もしも彼に『口ぶえ』が理解できていれば、三島などではなく折口のこの小説を挙げたことだろう。

 なお、「五つの指には、その花のにほひは、いつまでもいつまでもまつはつてゐた」という引用箇所結びの一文から私が連想したのは、ルイス・ブニュエルの『アンダルシアの犬』に現れる、男のてのひらを真黒に覆い尽くす蟻の群れというイメージと、かの映画を何度目かに見た際に、講演を聴く機会のあった種村季弘が、あの黒い蟻は本当は白い精液なのだという意味のことを言っていたことであった。わざわざ五つの指とことわってあることに引っかかって、ここに書いたようなことに気がついたのだ。種村のブニュエル論は多分映画論集に入っていよう。

夢中遊行
 安良の家族構成が同年齢時の折口とほぼ同じであることは、これまでにも触れてきたが、違う部分をあらためてまとめるなら、折口の父は存命だが安良の父は三年前に亡くなっており、実際には二人いた、同居の未婚の叔母(母の妹)が一人にされている。つまり、折口の父との間に双子の弟を産んだ叔母が消されており、折口の場合と違って、弟たちも同じ母が産んだということだ。

 十五歳の時に父が死んだ後、折口の成績は著しく下がり、落第まで経験するが、富岡氏はこれを、父の死を契機に弟たちの母が誰か知ったせいだろうと言う。また、折口自身も、父が別の女に産ませた子だろうと「推量」している。十代の頃、折口は一度ならず自殺を図っているが、その原因にはこうした家族の秘密が関わっているのは疑い得ない。折口は安良にそうした事情を一切与えなかった。だから三年前父が死んでも、安良は折口のような悩みを一切知らずに、今日を迎えているのである。

 それなら安良はなぜ渥美の下へ走り、心中までしようとするのか。恋のため? 渥美の従兄と名乗る柳田が現れ、渥美の名を言うより以前、渥美は一度も登場せず、話題になるどころか、思い出されることもなかったのに、そして彼らがなぜ死を選ばねばならないのか、何も説明されていないのに? いったい折口の研究者は不思議に思わないのだろうか。一度も登場しなかった人間が犯人と名指される推理小説があるだろうか。

 こうしたことは構成上の不備と解されているのだろうか。 学者の余技で未完の若書きだから、この程度のものと見なされているのだろうか。同性愛者の作品だから、同性心中くらいあるだろうと思われているのだろうか。あるいは、持田氏のように官能的、感覚的に細部を読み取れば、それで済むと思っているのか。折口が自伝的材料を構成もなくだらだらと垂れ流したと思っているのか。

 折口が小説から自らの父の否定的な面を取り除いたのは、周到な計算の上でのことだ。その空白に、彼は年上の先達であり導き手である、文学的な素養のある知的な男への憧れという要素を入れた。そしてこれは折口の実際の体験であり、(富岡氏の調査によれば)折口は十三歳の時、旅先で出会った男によってその憧れを満たされた。のちに相手は結婚し、そしてあまりにも早く亡くなった。

 自分の(そして自分よりも幸福な)代理人として、折口は安良という少年を創造し、そのような男を(無意識に)求めて父祖の地への旅をさせた。そして旅の終りに彼は「渥美の従兄の柳田」と名乗る年上の「若者」に出会った。

 だから富岡氏が柳田が藤無染だと考えたのは無論正しいのだ。折口が彼を柳田としてそこに置いたのだから。柳田がそれほど重要人物だと、普通に『口ぶえ』を読んで見抜くことはまずあるまい。だが、富岡氏が、渥美の存在はおとりで、渥美と柳田は同一人物であり、安良を西山へ呼び出したのは渥美ではなく、柳田からの手紙ではないかと考えたのは全く正しくない。

 確かに折口には無染の思い出があり、無染から手紙をもらって善峯寺に馳せ参じたことが多分あり、無染のいた場所に柳田と名乗る「若者」を配したが、そんなことは安良の知ったことではなく、実際彼は無染など知らないからである。

 富岡氏が柳田に注目し、柳田が重要だと思っているのは、ただただ彼の正体が無染であり、折口が十三の時に出会った最初の恋人だと知っているからに過ぎない。

 だが、私たち(tatarskiyさんと私)の読み取ったところでは、『口ぶえ』という小説における柳田という人物の重要性は、一見してそう思われるより遥かに大きい。そしてそれが誰の目にもはっきりするのは、前篇しか現存しない『口ぶえ』の後篇に入ってからの筈である。

 西山の寺では渥美ではなく、「若者」即ち柳田が待っていたのではないかと富岡氏は考えた。そうではない、小説では、あくまで待っていたのは(安良がそう思っていたのは)渥美である。無染が善峰寺で折口を待っていたというのは、それとは全く別の話だ。しかし、柳田と安良は後篇でもう一度出会うことになり、その場所は間違いなく西山の善峰寺である。どうしてわかるかって? 後半の展開がどうなるかは前篇に、すべててそのつもりになれば読み取れるように書かれているからだ。

「このあとどういう展開になるのか、無論、原稿がない以上、確実には何もわからない」(『釋迢空ノート』解説)って? お笑いぐさだ。前篇で張られた伏線が後篇ですべて回収されるよう、さりげなく書き込まれた細部が、後篇を読んだあとでは全く別な意味に見えてくるよう、信じられない緻密さで仕組まれたのが私たちの発見した『口ぶえ』である。二十六でこれを書いた青年の才には感嘆するばかりだが、当時、彼を励まして後篇を書かせ、小説をこそ専門にするよう勧める目利きはいなかったのか。いまだに先程の解説のようなことを言う人間ばかりなのだから、どうしようもないのはわかっているが。

 第一行よりとっくに前から、物語ははじまっている。といっても、便利な依頼人のたぐいがやって来て、それまでのいきさつを手際よく述べてくれる訳ではない。書かれていない過去の結果‐効果として在る「今」の安良の意識、感情、感覚、それらに寄り添うかに見えながら、肝心なことは黙っている不実な語り手の語りから、読者は、何が事件であるのかさえ教えられていない探偵として、何が起っているのかを見極めなければならない。『口ぶえ』とはそういう小説である。これは決して少年の思春期を描いた小説などではない。少なくとも安良についてさもそうした徴であるかに見えるものを、そう信じてはならない。

このごろ、時をり、非常に疲労を感じることがあるのを、安良は不思議に思うてゐる。かひだるいからだを地べたにこすりつけて居る犬になつて見たい心もちがする。

 これが、『口ぶえ』冒頭の第二パラグラフである。なぜそんな心もちがするのか。そういう気持ちになっても当然の原因が安良にはあるのだが、今の状態を「不思議に思う」のは、彼がそれを忘れているからだ。

この気持ちを、なんといひ表してよいか知らぬ彼は、叔母にさへ、聴いて貰ふわけにはいかなかつた。

 これは当然、思春期の心身の不安定さと受け取られようし、そうなることを期待して書かれてさえていよう。この叔母は母の下の妹で、折口の最初の本『古代研究』の序文に「この書物は(…)折口えい子刀自にまづまゐらせたく候」と献辞を書かれた「ゑゐ」がモデルだろうと思い(こういう読み方をすることは完全に正しい)、当時の女としては高学歴で母よりもものわかりのいい、叔母にさえ話せないのは、男として成長してゆくからだと考えるだろう。

 勿論そういう面も含まれようし、読者にそう読まれることを予想して書かれてもいる。しかし彼には、そんな一般的な話ではなしに秘密があるのだ。しかも「不思議に思う」ても、それを「なんといひ表してよいか」わからず、「かひだるいからだを地べたにこすりつけて居る犬になつて見たい」としか感じられず、それが意識の表面に完全に上るしてことは決してないが、しかしその断片は木の葉か雲母が日を受けてのきらめきのように彼の注意をひいて、確実に彼の言動に影響を与えている秘密である。

 しかし、こうしたことは一度目では見て取れず、少なくとも二度目に読んではじめてわかることである(わからない人もいる)。

「学校の後園に、あかしやの花が咲いて、生徒らの、めりやすのしやつを脱ぐ、爽やかな五月は来た」と、無邪気を装った語り手は高らかに宣言する(これが小説の書き出しだ)。「身なりをかまはないといふよりは、寧ろ無頓着なのを誇る風の傾きのある彼である」とは、バンカラに通じる男の子らしさと受け取られよう。だが、この無頓着さ、自分の外見に対する無関心も、理由のあることなのだ。

けふは、起きるから、いつもの変な心もちが、襲ひかゝつてゐた。彼は、目をおほきく大く睜[ミヒラ]いて、気持ちをはつきりさせようと努めた。けれども、其もその時ぎりで、後はやつぱりうつとりと沈んで来る。
けれども行かねばならぬ学校があると思ふと、そのまゝ歩き出した。


 真実がわかってみれば、すでにここで安良は夢遊病者のように歩き出したのだと、見ひらいてもなお曇った目の、意識したくない事があるため真実が見えないデイドリーマーとして生きているのだと気づくべきだったのである。

 この「深いねむりのどんぞこ」から、渥美の名を聞いた途端に彼が「ひき起されたやうな気がした」のは、そしてそれが夢の核心への入口だったことはすでに見た。夢の中でさらにうたたねした彼が人の気配で目覚めた時、渥美はそこにいた。


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by kaoruSZ | 2015-10-14 18:36 | 批評 | Comments(0)
月光とナルシス
 寺に着き、うたたねからさめて渥美を見出した時は、まだ、そうではないように思えたのだが。

「よう出られまひたな」
「えゝ」
「手紙はつきまひたか」
「えゝ、ありがと」
渥美のことばゝ、いつものとほりにしか彼の耳には聞えなかつた。やすらかにこだはりのない口ぶりが、彼の予期とは非常にちがつてゐた。
それに自身はどうだらう、こんなにどぎまぎして、と思ふと顔もあげられない。伏目になつて青畳を見つめてゐる。


 ここに来てほしいと、恋文のような(とは決して言われないのだが)手紙をよこしておきながら、まるでそうではないような、顔と、言葉つきを渥美はしている。寺の住職は叔父にあたり、「わては 時々こゝへ来て、坊主んでもなつて見ようか知らん思ふのだす」というのを聞いて安良は思う。

これがあゝした手紙を書いた人だらうか、何やらだまされたやうな気もちになつて来る。あれを見て、天へものぼる心地で、叔母や母によい加減ないひまひをしてやつて来たかるはずみが見すかされたやうに感じた。

 そして「安良は渥美ばかりにものをいはせておいて、自身はたゞ頷いて見せたり、「えゝ」といつて見たりするだけ」なのだから「来ていたゞいて自身の思うてゐることの万分の一もいへない」などということは渥美の方には全くなくて、「わたしはあなたとおはなしをしてゐるとなんだかかうわくわくしておちついた気になれない」のは無論、安良の方であり、「渥美のことばが、こちらの胸に、一々深く滲み透つてゐる、といふことを知らせたい思ひで一ぱいにな」るばかりなのだ。

 しかしその渥美のことばの内容は、「どうしてこの人はこんなことまで考へてゐるのだらう」と言われるばかりで、具体的な内容は示されず、このあと住職が部屋を訪れて暫く話をする一場を経て、並べた床の中で渥美が次のように言い出すのはいかにも唐突に聞える。

みんな大人の人が死なれん死なれんいひますけれど、わては死ぬくらゐなことはなんでもないこつちや思ひます。死ぬことはどうもないけど、一人でえゝ、だれぞ知つてゝくれて、いつまでも可愛相やおもてゝくれとる人が一人でもあつたら、今でもその人の前で死ぬ思ひますがな、そやないとなんぼなんでも淋しいてな。

 しかし安良はそうは取らない。

 渥美のことばは、彼の心に強い力となつておつかぶさつて来た。彼は唇までのぼつて来たことばをあやふく喰ひとめた。

 ここでは安良の方が、渥美の心を、いわば透視している。渥美がそこで言いやんだのを、「かういつて暫くことばをきつた。それは安良の答を待つてゐるのだ」と思い、「『わたしも死ぬ』唯それだけの答を聴かうとしてゐるやうに、安良には直感せられた」のは、だが、彼らの心が通じ合っているからではないのは言うまでもなかろう。

「わたしも死ぬ」という言葉は発せられない。

けれども、もしもといふ疑念が恐しい力で舌のうへにのしかゝつて、彼に口を開かせなかつた。唇は激しい痙攣にうちわなゝいた。

 もしも、何だろう。もしもそれが渥美の求める言葉であると思ったのか間違いだったら、もしも渥美がそれを望んでいなかったら、もしもこの申し出を拒まれたら、だろう。

しめ残した雨戸から、月が青くさしこんで、障子を照らしてゐる。(…)ざあざあといふ音に、雨かしらと聴き耳を立てると、それは遥かな渓川の音であつた。

 長谷寺で白い影を幻視した時、河原で渥美のことを柳田と話した時にも照っていた月であり、渓川は翌日、渥美と行くことになる場所だ。

渥美はかすかに糸を揺るやうな鼾を立てゝ寝てゐる。寝がへりをうつと、そこに月あかりをうけた額が白々と見える。

 富岡氏が、折口が中学を出て国学院に入った、つまり藤無染の下宿の部屋に同居するようになった年に作った旅の歌として引いている中に、私はこの一節のもとになったとおぼしき二首を見つけた。

寝かへりの額ほの白き旅の君枕屏風はなかなかにうし

ひぢゞかに鼾く君かなしかすがにほゝゑむ片頬[ほ]にくからぬかは


 これは渥美が無染だということではない。たんに無染も素材の一つだったということであり、すでに作品化されているなら、なおさら使うには勝手がよかったということだ。

 月あかりをうけた額が白々と見えたあとは一行アケて、

河内の国も、ずつと北によつて父方の親類が三軒まであつた。父のさとゝ、父の二人の妹のかたづいた 家といつた風の縁つゞきで、どれにも伯父や叔母がをつた。五人の男兄弟のかしらに、唯一人の女であつた彼の姉は、父のさとへ嫁入つてゐる。

と、安良自身は覚えがないと言っていた寺までの経緯が語りによって辿られるのだが、こうした血縁は細部まで折口のそれと同じものだ。姉一人の下は二人の兄に双子の弟という、兄弟の構成も一致する。たぶんもう一人が兄がいたが、夭折したところまで同じなのだろう。だが、言うまでもなく、これはフィクションだ。現実とそっくりのフィクションであり、あまりにそっくりなので見分けがつかないだけである。 

 兄も弟たちも、『口ぶえ』に登場することはなく、母と叔母たちからなる家族で兄たちが遊学中の今、安良が「一人まへの男」としての扱いをうけていることを述べる際に言及されているだけだが、「父のさと」だけは、先に祖父のさとの大和へ一泊旅行に行った安良が、帰ってすぐまた出かける口実として使われる(しかしなぜここまで口実が必要なのか。現実の折口十三歳の時は、初めから一人旅を「許されて」いるのに)。

 富岡氏は、安良が柳田に中学校の「三年」と答えていることを記したあとで、安良は「『父が三年まへに、心臓麻痺で亡くなつて』祖父のさとが飛鳥の古い神社だときかされて、そこを訪ねたくなったとしている。現実では、父の死は、迢空十五歳、中学校四年生の時である。自伝的小説といっても、小説というのは現実の中の、小説のために「使える」ところを使って書かれるのはいうまでもない」と書いていて、私はこの文章の繋がりが俄かには理解できなかった。要するに氏は、小説はそれよりも上位の現実から「使える」部分をつまみ取り、必要があれば変形してフィクション中に書き込むものだと考えている訳で、氏の書き方だと、“大和旅行時に父親存命の「現実」”は、折口には「使えない」ので、変形したということになる(ちなみに、先に述べた、藤無染との体験を素材として『口ぶえ』に「使う」というのは、夢が材料を選ばないように、根拠のないよせあつめとして小説が構成されるという話であり、富岡氏が言っているのとは異なる)。

 父在世では、なぜ、「使えない」のか。伝記的細部を、一見不要と思われる処まで忠実に再現しているこの小説で、そんなにも大きな変更があるのは重要と思うが、どうも富岡氏は、父の死が、祖父のさとへの関心を安良に目覚めさせた程度にしか考えていないようだ。

 勿論、折口が現実の父にまつわるもろもろを捨て去ってこの設定を選んだ理由を、富岡氏が知らぬ訳はない。折口の場合、彼自身の出生の秘密には踏み込まずとも、 双子の弟に関することだけで、事実の奇なること通常の小説の域を越える。自分よりも悩み少ない少年として折口は安良を設定したのだが、小説の結構としての父の不在は、その程度の理由によるのではない。安良の亡父は、幼い彼を俳句に親しませ、文学の手ほどきをした人である。岡沢の恋文に安良は人を食った俳句で応えるが、文学が分らないので理解できなかったと岡沢は言う。安良の求める男に文学は必須であり、失われた父を求めるとは理想の男を追うことに重なるのだ。

 富岡氏の本に詳しいが、折口の父は、北河内の裕福な名主の家から、折口家の入り婿になった。「だが、祖母などでの話では(…)家に来て十五、六年間と言ふもの、結婚前から持ち越した遊蕩生活を、毫も緩めなかつた」と折口自身が書いている。安良の父にはそのようなことは全くない。「父は朱子や王陽明などといふむつかしい名の支那人の書いた書物をたくさん蓄へてゐる学者」で、「安良が幼稚園から小学校へ進んだ頃、毎朝ほの暗いうちから寝床の中で目をあいてゐると、きつと安良、安良、と呼ぶ。ちよこちよこと二間ほど隔つてゐる父の寝床へはしつて行つた。彼を蒲団のなかに抱き入れて、古池やの、かれ枝にのと、口うつしに暗誦させた」という。

 折口の父が教養人でなかった筈はなく、あるいは本当に俳句を教わったことがあったかもしれないが、はっきり父の特徴を写したと分るのは、「田舎のたかもちの大百姓から出て、人にあたまをさげることを知らなかつた」安良の父の「気むつかしさ」だ。折口の父の、遊蕩は止んでも「ものごゝろついた時分は、唯むやみに気むづかしい父の表情が、私どもの前に、人をよせつけぬ壁の様に峙つて見えた」という、その気むつかしさだけが安良の父にも移されて、「しちめんどうな親類づきあひに、心を悩ますのを嫌つた」ため、「祖父のさととは音信不通になつてしまつてゐた」となっているが、このあたりも多分事実に基づいていよう。祖父も入り婿で、大和と河内に別々に実家がある訳だが、安良にとっては、「祖父も、父も、歌や詩を作り、古典にも多少の造詣は持つてゐたので(…)安良も、いつの間にか飛鳥や奈良の昔話に、胸をどらすやうになつてゐた」と、一つに括られる人たちなのである。

 奈良の神職の家に生まれて医師だった祖父は「死んで二十年にもなつてゐるけれど、土地[トコロ]では今でもなんかのはずみにはその名がひきあひに出て、春の海のやうな性情や、情深かつた幾多の逸話が語られた」というのだから、まさしく父の「気むつかしさ」とは反対で、「じやうひんで脆い心もちが慕はし」い(「岡沢には、これが欠けてゐるやうに思はれた」)安良の理想にかなう。その、とうにいない死者の国に旅をするのが大和行きだったのだ。それは、布団の中で父が俳句を教えてくれた「そのようなその頃からして、彼のあどけない心のうへに、うすら明るい知らぬ国の影がうつつてゐた」と言われる国、「近ごろになつて彼の前にまざまざと隠れなく見え出した、西行や芭蕉などいふ人の住んでゐた世界」、「白じろと彼の前につゞいてゐる」「西行や芭蕉のあゆんだ道」に通じるものだ。そして「安良がその道へ行かうとすると、どこからともなく」「ちよろちよろと這ひ出して来て、行くてを遮つた]「淡紅[トキ]色の蛇」とは相反するものだ(少なくとも安良はそう思っている)。

 この文章を書き出したとき、私はまだ『口ぶえ』を再読していなくて、渥美と岡沢は単純に対立するように、漠然と記憶していた。しかし、読み返してみたところ、安良ははっきりと岡沢に性的に惹かれているのだった。それだから「美しいものと思ひつめてゐた心の奥に、これまで知らずにゐた、さういう汚いをりがこびりついてゐるのだと思ふと、あたまがかきみだいたやうに、くらくらとして来る」のだし、「この頃では思ふことなすこと、すべて岡沢に根ざしてゐるやうに見えた。それがまた彼には憎むべきものに思はれ」るのだ。

一番風呂にはいった安良が、「小一時間も風呂にひたつて、軟らかな湯に膚を弄ばせながら、身うごきもせないでゐる」うちに、思いが岡沢の上にそれて、そう「思はれ」だのだが、叔母に「安さん、まあどうしてなはんねん。溶けてなはれへんか」と座敷から声をかけられて「罪ある考を咎められたやうに、ぎよつと」するのも当然なのである。

 このあと急いで二階へ上がった安良が、鏡におのが姿を映すくだりは、すでに「見よ眠れる船を」(2) でも扱ったが、少し長いけれどその時引用しなかった部分を引く(これでも全部ではない)。

鏡を伏せ加減にして、片脚をまつすぐに立てゝ、今[マウ]片方の脚を、内へ折り曲げるやうな姿勢をつくつて見る。豊かな腹のたわみが、幾条の緊張した曲線を畳んで、ふくら脛のあたりへ流れる。後向きになつて、肩ごしに後姿を見ようとして、さまざまにしなを凝して見る。その度毎に、色々な筋肉の、皮膚のなかを透いて見えて、いひしらぬ快い感覚に、ほれぼれとなつてゐた。

 安良のナルシスぶりは明白だが、再読して物語の中に置いた時、これはたんに自己を見つめるというより、岡沢に愛されている自分を見ているのだと気がついた。やはり持田氏が似ていると言う谷崎の『颱風』とは、同じ、男が鏡を眺めるのでも、大分違う。谷崎の場合、鏡の中の自分を見るのは、性的対象としての女に対する男としての、自信に満ちた主人公の眼差しであろう。 

 安良の机の脇に据えられた鏡は、「伏せ加減に」するのでも分るように鏡台(「叔母の大きな鏡台」)で、

家職にとりまぎれ、身じまひにかゝつてゐることの出来なかつた女の人たちは、鏡をさへも二階へ抛りあげたまゝにしてゐた。それでも時をりは、買い出しに出かけるのだというて、母などが、鳥の巣のやうになつた髪を片手につかんで、上つて来た。

 それに今は男の安良がじっくり身を映しているのである。
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by kaoruSZ | 2015-10-14 18:35 | 批評 | Comments(0)

tatarskiyの部屋(29)

下に転載したのは最初8月5日に裏アカでツイートした文章だが、それをRTした藤本由香里氏が、私を「極論を述べる過激派」扱いしつつご自身の「穏当な私見」を述べる踏み台にした結果、私の発言の文脈をまるで理解しない人々によるRTと無礼なエアリプが殺到したため、一度やむをえず削除して藤本氏に抗議した後、8月7日に再投稿したものである。おまけとして事の顛末を述べた8月15日のツイートとkaoruSZさんのコメントも載せておいた。

今読み返しても、この程度の現実的な認識を述べたに過ぎない見解を「利用はしたいが絶対に自分が同じだと思われては困る過激な発言」としか受け取れないデフォルトの卑屈さには呆れるばかりだが、一応はプロの批評家として名が通っているはずの人からしてそれ程に貞淑従順な自意識の持ち主であったこと自体が、「どれ程女を見下したミソジニー的な罵倒に対しても、それがゲイ男性からのものであればうかつに反論してはいけないし、どうしてもしたい場合は可能な限りの気遣いが必要」だという男尊女卑そのものの前提が、いかに深く“腐女子”やBLを云々する人々に内面化されている(いた)かを物語ってくれているだろう。それも結局は女性のセクシュアリティや性表現自体が、それを擁護しようとしているつもりの人々にすら、ヘテロ男性をモデルとした「性欲=暴力」という図式の“女版”としか考えられていないために、あたかも「女にも反省すべき罪がある」ことを認めることが“公平”であるかのように誤解されているためであろう。

私はずっとそうした「暴力=原罪」的なセクシュアリティ観こそが間違いの元であり、それは性的快感の根源である受動性(受身で愛される/犯されるというファンタジー)を自身のものとしては決して認めえず「女のものとして」蔑視する他ない制度的なヘテロ男性のメンタリティこそが“スタンダード”とされていることに由来していることを説明してきた。批評家や研究者ではない一個人として出来ることは既に十分に行ったつもりでいるし、本当はそうしたあまりに基本的な啓蒙からはもう引退したつもりでいたのだが。なんにせよ、これまでに書き溜めてきた論考で十分にカバーできる範囲の問題なので、以下のリンク先から参照して欲しい。
tatarskiyの部屋(4)
tatarskiyの部屋(7)
tatarskiyの部屋(27)


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tatarskiy @black_tatarskiy 8月5日
「同性愛者でなければ同性愛表現をしてはいけないというのはおかしい」という話。これだけ見ればもっともなようだが、その前段になっている、BL叩きの口実として「腐女子の描いたBLは同性愛者に失礼」と言われ続けていた話の本質は完全に男尊女卑の問題なので、実は話がずれてしまっている。

そもそもずっと(女性)同性愛だろうが異性愛だろうが男が女を描くことは「当然」である上に男の描いた女は「生身の女より高級」「女の手本」でさえあるという前提がまかり通ってたのに、女の描く男はそれが同性愛表象か以前に「女の描いた男だというだけで」嘲笑の対象だったんだから完全な非対称。

ぶっちゃけ、腐女子に対する「同性愛者でないのに云々」は、本質的にそういう「当然の前提としての男尊女卑」をストレートにそのまま吹っかけたのでは流石にもっともらしく聞こえないからこその“カモフラージュ”に過ぎなかったと思う。当然本音は完全なるミソジニーで1ミリの正当性もありゃしないが。

そして決まってこういう話になると「同性愛者の腐女子もいる」みたいな方向に話がズレるんだけど、要は「話の都合で」いつのまにかレズビアンが名誉ゲイ扱いになってるわけだ。この話のおかしさについても以前に書いているのでこちらを参照してほしい→http://kaorusz.exblog.jp/21519413/

要はBLや腐女子云々の話に対しての「同性愛と異性愛」「同性愛者と異性愛者」という問題の設定自体が欺瞞的なわけで、構造としての男尊女卑の問題を隠蔽することになってしまう。本質はあくまで「男が女を描くこと」と「女が男を描くこと」の非対称=権力差の問題であることを誤魔化させてはならない。


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tatarskiy@black_tatarskiy 8月15日
先日の藤本由香里氏に迷惑を被った一件の話http://twilog.org/black_tatarski/date-140805あの時は一刻も早く切り上げたかったからあえて突っ込まなかったけど、向こうがRTを取り消したんじゃなくて、私がRTされたのを全て削除してから向こうの便乗ツイートを削除しろと言っただけなんだよね。

(続き)http://twilog.org/black_tatarski/date-140806要は“踏み台”を消されてしまった以上、脈絡もなく私の名前を晒して過激派扱いしてる意味不明なツイートだけ残しておいても仕方ないからこっちの要求に従う他に道がなかっただけ。あれ以上向こうの面子を傷つけて逆ギレされても厄介だったから、最低限のことしか言わなかったけど、明らかに「踏み台に使った素人の反応」なんて考えてもいなかったのが明白だった。そのくせ私の中傷ストーカーから太鼓持ちされれば「私も貴方の言う通り自分が正しいと思いますが、相手が嫌がるからやめてあげたんです」と面の皮の厚い台詞を吐いてたのには呆れた。

そもそもご当人が、腐っても有名人でプロの文筆家のくせに無名の素人を盾に使って「私はここまで過激じゃありませんが」なんて姑息なエクスキューズを用意しなければ物申せないような卑小な御仁でなければこんなくだらないトラブルは起きようがなかったのだが。次に私以外の人がダシにされないよう願う。


鈴木薫@kaoruSZ 8月15日
tatarskiyさんの再投稿されたtwはこちら。
https://twitter.com/black_tatarski/status/497076121427382272
この一連に含まれるリンク先を読めばコンテクストはより明らかになろうが、これは彼女がネット上で地道に積み重ねてたきたいわゆる“腐女子”に対する啓蒙活動の一環であり、「極論だしそこまで言うと違うと思うが私も以前から同じようなことを考えていた」などと、自分が矢面に立つ気のない人間にお手軽に利用されていいようなものではない。
第一、ここでの主眼は、レズビアンを名誉ゲイに回収して“腐女子”を孤立させる詐術への批判な訳で、「こんな極端な奴と同じだとは思われたくはないが利用はしたい」という人の考えていたのとは「同じようなこと」でさえないだろう。

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by kaoruSZ | 2014-09-02 17:48 | 批評 | Comments(0)
tatarskiy@black_tatarskiy
裏アカを全く関係ない話題で再稼動することになった。腹立たしいので手短に。昨日(7月31日)の夕方BSで流れていた子供向け番組http://www3.nhk.or.jp/d-station/program/waracchao/が、露骨なホモフォビアと女性差別を幼児に刷り込むのが目的としか思えない最低の代物だった件について。

この番組、ワラッチャオとかいうらしいが、後述の通り全然笑い事ではないという意味で笑えないので、タイトルが皮肉にしかなっていない。後で調べたら私が見てしまったのはリボンつけたあしゅら男爵みたいな可愛くない猫(キャサリンとかいうらしい)が主役のコーナー「キャサリンのマウステッキ」で、この猫が魔法のステッキを使って町の中のいろんな物に魔法をかけて口が利けるようにしてお話しするという趣向らしいが、私が見たのは電柱とお話しする回だった。まず、一本目の電柱に魔法をかけると、黒い線で書いたような口が浮かんできて、男の声が一人称俺で愚痴を言い出す。

曰く、自分は毎日休まずみんなのために電気を送って働いているのに少しも感謝されない上に嫌がらせばかりされている、と不愉快な出来事を列挙しだすのだが、その口調と不満タラタラで投げやりな態度だけでも、「いかにも男」の横柄さが滲み出ていて正直非常に不愉快だったが、これは文字通り序の口。

この長台詞の最後、不満タラタラ電柱男は「列挙してきた不愉快な出来事の中でも極めつけに屈辱的で情けない経験=“オチ”」として「酔っ払いのおじさんに延々プロポーズされてめちゃくちゃ気持ち悪かった」ことを挙げて我が身を嘆きだすのだ。明らかに「ここで笑ってね!」という文脈で差し出される「コントのオチ」としての「軽いホモフォビアネタ」だが、作り手の自覚のなさと幼児番組という舞台の食い合わせがなんとも陰惨な気分にさせてくれる。「こういうのが“笑える”ポイントなんだよ!男が男にプロポーズされるなんておかしいよね!」というホモフォビックな“笑いのツボ”の早期教育だよね。

しかも話はここで終わってくれないのだ。リボン猫はすっかり捻くれてしまった電柱男を説得するために、今度は向かいの電柱に魔法をかける。すると今度は真っ赤なルージュを塗った妙にぷっくりした唇が浮き出てくると、高い女声が露骨な女口調でしゃべり始める。台詞の細かい内容は覚えていないが、要は「あなたのことは私がわかってるわ」という文字通りの「甘いささやき」でもって「傷ついた“男のプライド”を慰撫してあげる女」というあまりにも陳腐な図式で、先程のホモフォビアネタだけでもこれ以上ないほどゲンナリしていた気分を更に下降させてくれた。

で、このホステス紛いの電柱女の台詞に励まされてどん底から一気に有頂天になった電柱男は「君に抱きつきたいけど抱きつけな~い!」と浮かれた台詞を吐き、リボン猫の「よかったね」という内容のコメントと共にめでたしめでたしでコーナー自体が終わる。思い出す度に何度でもウンザリ出来るクオリティ。

食い足りないので追加の解説。後半のベタベタな女記号まみれのホステス紛いの電柱女の登場は、実は前半のホモフォビアネタを受けた必然的なもの。

つまり、男に言い寄られる=女扱いされるという屈辱を受けて傷ついた男としてのプライドが「女らしい女」から慰められつつ「男として立ててもらう」ことによって回復されるという一貫したストーリーを構成していて、見事なまでにホモフォビアとヘテロセクシズムの必然的な結びつきを物語ってくれている。

しかしエロ漫画なんかより、本当はこの手の「健全で微笑ましい差別意識の刷り込み」の方が徹底して批判されるべき「有害な表現」だよね。明らかに「子供の教育に悪い」んだから。

でもこの番組の存在自体が証拠みたいなものだけど、公共放送の幼児向け番組の製作者みたいな、「何が健全か」をジャッジする権力者の側が「明らかに差別的な表現」を“健全”と見なして奨励すらしているわけだ。要は未だに日本でのホモフォビアと女性差別は「微笑ましい健全さの証し」ということだろう。

しかし馬鹿はこの手の幼少期からの絶え間のない文化的刷り込みという前提を無視して「ホモが気持ち悪いのは自然で当然」とかよくのたまえるよね。そしてNHKはこの手の差別的刷り込みの主犯の一角を担ってるくせに『ハートをつなごう』とか、面の皮が厚いにも程がある。完全にマッチポンプだろ。


鈴木薫@kaoruSZ
↑番組の作り手にはホモフォビアとミソジニーを教え込む意図さえあるまい。「内面」から出てくるものを「自由に」表現したら、規範でドクサで差別まみれのステレオタイプになるんだから救いようがない。頼まれたわけでもないだろうに。「表現の自由」があっても「自由な表現」ができるとは限らない。

「表現の自由より自由な表現を」とは晩年の澁澤龍彦が新聞の文化欄に書いていた。

きんちゃん@kinchan666
同性から告白されて気持ち悪い刷り込みってテレビからの影響めちゃめちゃ有るよな…百害あって一利無し
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by kaoruSZ | 2014-08-09 19:09 | 批評 | Comments(0)

覚え書き in progress

6月23日
tatarskiyさんと昨日までに電話で話したこと。覚え書きとして、以下に。


【トールキンと折口信夫】
まず、トールキンと折口が“古代人”ではないこと。トールキンはモダニストではないが前世代の耽美主義の継承者であり、パーソナルなファンタジーの(ジャンルのではなく)創造者だ。折口の場合も同じで(ともに学識に目を眩まされがちだけれど)、彼の小説は、たんなる「男」でしかない書き手による時代小説、歴史小説とは全く異なる、“女性的”でパーソナルなファンタジーだ。

tatarskiyさん、折口全集の戯曲の巻を読んでいるそうで、『死者の書』未完続篇のありうべかりし形の傍証として、具体的に戯曲の内容を示さる。また、トールキンへのフィオナ・マクラウドの影響確実ならむと。

Il faut être absolument moderne.
さらに言うなら、“絶対的に女性的でなければならない”。さもなければ批評はありえない。

7月1日
覚え書きまだ続くはずが日が経ってしまった。書くべきだったのは、コナン・ドイルの長篇『四つの署名』に関すること。その後さらにつけ加わったのは短篇『悪魔の足』について。それからヴィリエ・ド・リラダン『未来のイヴ』について。忘れないうちにメモを取っておかないと。

今日は書く暇なかったのにまた電話で話し、書くべきこと増えた。 以下とりあえずのメモ。『竹取物語』原典についての大塚ひかりの妥当な解説と、フェミぶった駄目アニメと。作者、紀貫之でなくとも“ネカマ”ならむ。『源氏』との関係と差異と。小津。ドイル式部のホームズものと女装との関係。マイクロフトは何者か、等々。


【ジャンルとしての探偵小説の(不)成立】
初期探偵小説(ポーとドイル)の特質を以下に挙げるなら、反俗のダンディズムと同性愛、世紀末の耽美主義、様式としてはアール・ヌーヴォー。探偵の推理が芸術鑑賞のパロディであること。探偵は芸術家にして批評家であり、芸術家としての批評家(ワイルド)である。探偵と犯人との共犯性、分身性、ノーブルな選民意識。《秘密の共有者》。物語上の表層的な謎解きは囮だが、ポーについてはその部分しか注目されず、本領であるゴシック性は幻想作家としてのポーのものとして取りのけられた。ドイルはポーの何を受け継いだかを理解されず、真に読まれぬまま現在に至っている。探偵小説はドイルで始まりドイルで終った。 例えば乱歩は稀有な継承者だが、それは作家としての特異性(そして共通性)であり、ジャンルの問題ではない

7月7日
昨夜tatarskiyさんと以下のこと電話で話す。


【『竹取』と『源氏』】
『竹取物語』はいわば翁と姫のどちらにも己を投影した男作者による、父(翁)と男(帝)のどちらも選ばず天に帰る女の話であり、紫式部はそれを紫の上(“養父”と結婚)から浮舟(結婚せず)に至るリアリズムで書いた(小津映画の娘も結婚という名の下に姿を消す)。いや、正確に言うなら、『源氏物語』は、“帝と結婚した結果死んだ女”(桐壺)からはじまっている――tatarskiyさんの指摘に驚かさる。
『竹取』が終ったところから『源氏』ははじまる。拒んで天に帰ることのできない地上の女の現実を、女の書き手である紫式部は書いたわけだ。

【『死者の書』について】
『死者の書』の場合、“地上の女”である郎女の孤独が、ホモソーシャルな美しく自由な男たちとの対比で描かれるとtatarskiyさんは指摘する。郎女は中将姫伝説から切れた作者のオリジナルであり、彼女を訪れる大津皇子の死霊が最後の阿弥陀如来像へ昇華されるわけではない。大津皇子は不気味な骨の指をした亡霊であり、作中「美しい男」として描かれるのは恵美押勝だ。彼や、大伴家持、久須麻呂(ここでは明示されないが万葉に相聞歌あり)は、郎女の手の届かない知的な男のサークルを構成しており、そこでは彼女は政略結婚の道具である身を、噂にされる存在でしかない。とはいえ、押勝もまた、大津(そして続編の藤原頼長)と同様、敗死を予定されている。

『死者の書』続編では、男色のモチーフは左大臣頼長を中心に据えることで鮮明になり、彼の教養、彼の美貌、彼の自由が描かれる。優れた男の書き手である折口は、『竹取』の作者同様、女の作者に先んじて女の状況の本質を記しえた。 そして男であっても近代人である彼に頼長のように生きる可能性は閉ざされていた。

【『未来のイヴ』について】
未来のイヴはハダリーではない。 tatarskiyさんにそう言われて、ああ、未来に現れるべき現実の女という意味かと膝を打った。『未来のイヴ』は、内容がSF/未来小説的だから「未来のイヴ」と呼ばれるのではない。精巧な自動人形に実在の女をコピーすれば事足りるとたかを括っているエディソンが作った、あの人造人間が未来のイヴなのではない。物語の中の現在であるリラダンの執筆当時、存在したのは「現在のイヴ」、すなわち男のナルシシズムの投影であり、補完物である、人形であることを期待される現実の女だけだった。少なくとも、『未来のイヴ』を構想し、自ら書きうるような女はまだ生まれていなかった。

通常信じられているのとは違い、男の《理想》である自動人形ハダリーは、偶発的なアクシデントによって失われたのではない。リラダンは男の美しい夢が海の藻屑と消え、悲劇的な喪に服するなどという安っぽいメロドラマを書いたのではない。
『未来のイヴ』は、高貴な美青年エワルド卿に人工の女を贈ろうとしたエディソンの傲慢が、 存在しないはずの自我のある女(繰り返すが彼女はその時代に生存不可能だった)によって打ち砕かれる話である。リラダンの驚くべきフェミニストぶりが読者の目に映らないとしたら、それは時代が彼の先進性とラディカリズムにまだ追いつかないということなのだろう。

7月22日
再び書くべきことのメモ。折口について論点残るが、その前にルイス・ キャロルについて。彼が小児性愛者ではないことについて。『ロリータ』のハンバート・ハンバートが少女にしか欲情しない男ではなく通常の異性愛者であるこ とについて。そして通常の異性愛者である批評家が揃って陥る誤読について。



以上は最初ツイートとして書かれ、まとめる際、部分的に手を入れた。この続きはhttps://twitter.com/kaoruSZ にて現在も進行中。
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by kaoruSZ | 2014-07-23 14:13 | 批評 | Comments(0)

tatarskiyの部屋(27)

以下の文章は、今年の2月に@amezaikuさんへの私信として書いたものをtwitterに掲載した文章と、それに対する@amezaikuさんの公開での応答、及び彼女が私からの私信の続きを独自に掲載してくれたものをまとめたものである。きっかけとしては個人的なやりとりとして書いたものであるが、結果としては普遍的なセクシュアリティに関する男女の非対称性とヘテロ規範の本質についての解説になっていると思うので、こちらにもまとめて掲載することにした。何某かの参考になれば幸いである。


【私信より引用】以前私が書いた記事
http://kaorusz.exblog.jp/20773748/
http://kaorusz.exblog.jp/21287837/
を読み返して欲しいと思ったのですが、そもそもはっきり言えば「男同士」と「女同士」が「同じ非へテロ」という前提が反動的なまやかしです。

ヘテロ規範の本質は「男女」ではなく「エロ=女」という決め付けで、性的対象であることを女の本質とする一方で、男がエロティックであることを否認/否定するというホモフォビアです。

だから百合豚の男というのは往々にして究極の処女厨で、当たり前ですがミソジニストなわけです。そして腐女子がその“女版”なわけがありません。

そして、男にとってのヘテロセクシャルな男女関係というのはそれが「当然」である一方、「当然のように汚らわしい」ものでもあるわけです。それは彼らにとっての女の本質が「男に対して受身であること」という「もっとも恥ずべき行為」の外在だからで、ここでも性嫌悪=ミソジニー=ホモフォビアなのがわかります。だから、彼らにとって女同士というのは「男に愛され犯されるなんていう“穢れ”とは無縁の清らかな処女同士」という夢想を投影できる対象なわけです。

だから、不用意に「男女」だとか「ヘテロ」だとかを叩くのは、「男に対して受身になる女は汚らわしい」という反動的な思想への加担になってしまう。

批判されるべきなのはあくまで「性の対象=エロいのは女だ」という決めつけと、それと表裏一体の男のホモフォビアであって、「男同士も女同士もいい。ヘテロじゃなければいい」というのはどうしたって反動的な誤魔化しへの加担になってしまうわけです。

あなたにそんな悪意があったとはもちろん考えていませんし、上のようなことを状況に応じてきちんと書くのは実は難しいのですが、なるべくなら「クィアぶったヘテロ叩き」みたいな安易な方向へは行かないでほしいと思ったので。

上のエントリーにも書いたことですが、特に今の日本的世間の風土では「百合も好き」なのが正しいという雰囲気は、そのまま「百合も好きと言えない限りBLを好きである“正統な”資格はない」という抑圧に直結してしまいます。

もし「百合も好き」と言いたい時には、それが必然的に“有利”な発言であることを踏まえた上で、抑圧に加担しないような留保を付けてほしいと思ったのです。【了】

@amezaiku
↑こちらの文は数日前に私が
https://twitter.com/amezaiku/status/433577619087298562 を始めとした発言に対する指摘です。安易なヘテロ叩きはそのまま男に対して受け身である女性への蔑視へ繋がるものになります。あくまで問題なのは女性=エロ=汚れているという図式に乗っ取った権力であるということを踏まえてなければ権力への荷担になってしまいます。今後は気をつけたいです。
tatarskiyさんから転載の許可をいただいたので、メールからの引用を載せます。


正確に言えば「ヘテロ規範=男女」ではなく「ヘテロ規範=エロいのは女」だという非対称の問題で、つまり男にとっては百合も「エロいのは女=ヘテロ規範の内=俺にとって都合の良いもの」だということです。

だから男女とかヘテロを叩くのが悪いというより、「男に対して受身であること(愛される/犯されること)」を叩くのが悪いということですね。ヘテロ規範とは「男が男に対して受身であること」を“恥”と規定し、「そんな恥ずべきことをするのは女だけだ(=ホモフォビア)」とした上、「そんな恥ずべきことを喜んでする女は汚らわしい(=ミソジニー)」として、更に「男に犯されていない清らかな処女はなんて素晴らしいんだ(=性嫌悪・処女崇拝)」というマッチポンプです。つまりヘテロ規範を否定するためには、そもそもの出発点である「男が男に対して受身になること(ホモエロティシズム)」を否定する男のホモフォビアへの批判が絶対的に必要なわけで、それをしないまま「男同士」と「女同士」を「反男女=反へテロ」として並列してしまうことは、「男女の非対称と男のホモフォビアの隠蔽」にしかならないというわけです。

以上はtatarskiyさん(@tatarskiy1)からのメールより引用しました。

※上とは別の機会に書いたものですが、補足的な内容になっているのでこちらもおまけとしてリンクしておきます。

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by kaoruSZ | 2014-05-23 09:45 | 批評 | Comments(0)