おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

カテゴリ:批評( 59 )

tatarskiyの部屋(23)

下の文章は、和紙子さん(@amezaikuさん)の“腐女子自重ルール”反対の投稿企画
http://nozityo.blog.fc2.com/ への鈴木薫(@kaoruSZ)と私との支持表明、及び私からの補足として、 11月12日http://twilog.org/black_tatarskiy/date-131112~13日http://twilog.org/black_tatarskiy/date-131113にかけてツイッターに投稿したものであるが、ツイートにはしていない書き下ろしの追記をつけておいた。私はこの企画の参加者ではないが、コンセプトそのものは当然支持している。和紙子さんへの中傷のツイートや悪意あるデマに惑わされた人にも、企画ブログにある彼女の説明を読んで判断してもらいたい。また、この後に湧いてきた中傷者たちとのやりとりや批判についても後半にまとめてある。


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鈴木薫@kaoruSZ 11月12日
@amezaikuさんの、女性の手になる作品への不当な自粛要求に反対する闘いを断固支持するが、涌いてくる有象無象が目に余る。参考に拙ブログ「ロワジール館別館」内の、tatarskiyさんの過去のまとめを紹介しておく。http://kaorusz.exblog.jp/18345193

http://kaorusz.exblog.jp/19518802 ←こっちは、腐女子に「ホモ」は差別語だとか味方のふりして説教する奴に見せるといいよ。“tatarskiy”のタグ作ったから彼女の他の文章もどうぞ。理論的な基本は既にtatarskiyによって書き尽くされている。

有象無象は@amezaikuさんに酷い攻撃をする奴だけでなく、一見味方づらする奴の中にもいる。“男の自然で当然なヘテロセクシュアリティ”の覇権性に目をつぶり、「性的に消費」する点でお互い様とか寝言ぬかして媚びる奴は、ヘテロ男性には逆らえないから腐女子に八つ当りするゲイの男並みの臆病者だ。

「性的に消費」とは“男の自然で当然なヘテロセクシュアリティ”の対象である女のモノ扱いであり、しかもそれこそが女の栄光とされる。それ以外の部分は男にとって不必要、男同士の話を好むというのはまさしくこれに当る。お互い様とか言っている連中は男にこのような立場がありうると思っているのか。

ホモエロティックなものは、伝記的にはゲイとされていない男性作家の作品中にもしばしば存在する。「同性愛ではない、友情だ」と言い張るのは“女にされる”ことを死ぬ程恐れ、ホモ/ヘテロ の分割線を絶対的に必要とする“男の都合”であり、そのような禁止とは無縁の場所にいる女は容易にそれを見出し享受する。

tatarskiy@black_tatarskiy 11月12日
今更ですが、@amezaikuさんの投稿企画を応援しています。またぞろ沸いてきた馬鹿を相手に奮闘されているようだが、この手の馬鹿が難癖をつけてくるポイントについては以前に私がほぼ書き尽くしているのでまとめ記事を貼っておく。

「性的な表現は本質的に暴力なんだから女も反省しましょう」みたいな物言いに関しては→http://kaorusz.exblog.jp/18345193
「ゲイはいいけどホモは差別なんだから腐女子も気をつけなきゃ」というのには→http://kaorusz.exblog.jp/19518802
そして「女の男ファンタジーだって男の女ファンタジーと同じようなものなんだからお互い様だ。女だけが被害者面するな」というのには→http://kaorusz.exblog.jp/20773717

それから上に挙げた記事ではカバーしきれない部分への補足だが、賛同者面した連中も盛んに連呼していた「男と同じように性的に消費する」という実のところリアリティゼロの紋切り型と、それに輪をかけた「腐女子が同性愛者を性的に消費」云々というミソジニーに基づいた完全なヘイトスピーチについて。

正直今回の件で一番気になったのは腐女子叩きへのアリバイとして「レズビアンの腐女子もいる」みたいな物言いが出てくること。BLを「ヘテロ男のそれの女版としてのヘテロ女の横暴」と言い立てる連中への反論のつもりだろうが、完全に相手の術中に嵌っている。

こういうことを言う奴は、「性表現は搾取で暴力なんだからお前も加害者だ」と女を脅して萎縮させたいだけで、そのために“腐女子”をヘテロ男の女版に仕立て上げたいというだけ。つまりは最初から男女の非対称の隠蔽が目的。同性愛者か異性愛者かではなく、男か女かの問題であることを誤魔化している。

つまり、向こうが女から抗議の正当性を取り上げるために勝手にでっち上げたに過ぎない分断線に乗っかって「腐女子にもセクマイの人だっています」と言い出すのは非常に筋が悪い。ゲイだろうとヘテロだろうと男は権力者なのであり、女にはそんな力は無いという絶対的な事実を誤魔化させてはならない。

またそれはレズビアンだろうとバイセクシュアルであろうと全ての女性が“女”として差別されることから逃れられないことを隠蔽し、在りもしない“名誉男性”をでっち上げることでしかない。大体それは彼女たちを「ゲイ男性の女版」と見なすことでしかないし、それ自体が男を基準にした男尊女卑であろう。

言い足りないので補足。そもそも馬鹿がBLや腐女子について「男が女にしてたことを女が男にするのか」って言うのって、論理としてはそこで「ただしレズビアンなら別」になるのがおかしいんだよね。レズビアンも「女」なんだから「BL好きな女は皆加害者」じゃなきゃ一貫性が無いよ。

そこで「レズビアンなら別」になるのは決してレズビアンのためではない卑怯な男の都合でしかないんだけど、こうして見れば「叩いていい女」と「叩かれない女=名誉男性」を分断する線引きを「誰がしているのか?」すなわち「誰が権力者なのか?」は非常にわかりやすいと思う。結局男様が偉いんだよ。

そしてこんな線引き=分断を女が男に対してする力があると思う?考えただけでもナンセンスなのがわかるでしょ。そうやって男様から祭り上げられた名誉男性ポジションを真に受けて 「あんな“ただの女”と自分は違う」と思い上がっているような女には、セクマイだろうとなんだろうと軽蔑しか感じないよ。

今回の馬鹿どもの発言全般、渦中の人が@amezaikuさんなのも含めて妙に既視感があったんだけど、去年のこの時だったのを思い出した→http://twilog.org/tatarskiy1/date-120417こちらのログから見られますのでよろしければどうぞ。馬鹿の呆れるほどのオリジナリティの欠如がわかると思う。


【追記】上の文章を読み返したら、自分の本音からすればいささか優等生に過ぎる内容だったので追記。実を言えば上の文章を書いた動機は、TL上で見かける自称レズビアンやバイセクシャルの女性たち(自称腐女子の人も、普段は腐女子を見下している名誉ゲイじみた商業小説家もいたが)と、その周辺の発言に非常にイライラしたからだ。上に書いたことだけでも理解できるはずであるが、「腐女子でもレズビアン等のセクマイなら別」 であるかのような前提は、男の側が腐女子を「ヘテロ男の女版である加害者」として規定し、ゲイ男性を「ヘテロ男に搾取される女のような被害者」として偽装するためには、レズビアンを“名誉ゲイ”として“ただの女”から切り離しておく必要があるからである。

繰り返しになるが、 これは男女の絶対的な非対称を無視し、男(ゲイでもヘテロでも)の女性蔑視を正当化するための詐術でしかない。本当に見下されているのは「女のセクシュアリティ」そのものであり、それに気づかないまま、(他の“腐女子”を蔑視する意図が無かったとしても) 「私はレズビアンだから例外だって言い返せる」という前提で発言すること自体、無自覚であれ男による分断統治に相乗りしていることにしかならないだろう。

それから、「私はヘテロと言われてもしょうがないし、セクマイの皆さんみたいに抗議する権利なんて無い」と無自覚に思い込まされている女性たちが多いのであろうことも気になった。そもそも異性愛者/同性愛者という区分自体、それ(だけ)が本当に問題であるのは生まれながらに 「男としての特権」を持つ男性のみであり、女性はあらかじめ「男にとっての女であること」を義務として押し付けられている被抑圧者に過ぎない。つまり、 女性にとってのヘテロセクシュアリティとは特権ではなく「義務」に過ぎない以上、「ヘテロ男の女版としてのヘテロ女」など始めから存在しないのだ。

長くなってしまったが、私が言いたいのは、ヘテロであろうがなかろうが、そんなこととは一切関係なく、貴女には貴女に不当な扱いを強いてくる男に(そいつがゲイだろうがヘテロだろうが)反抗する権利があるということだ。それぞれの場所での皆様の健闘を祈って了としたい。


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上でも挙げた13日のログhttp://twilog.org/black_tatarskiy/date-131113にも残っているように、 この後に何人もの中傷者が沸いてきたのだが、その中でも特にひどかった一人が、私のことを「頭がおかしい。 在日は強制連行されて日本に連れて来られた被害者!だから日本人は一生、在日に償いましょう!って輩に似てる」と罵倒してきた、日頃からミソジニーだけでなく在日朝鮮人や韓国人への蔑視を隠そうともしないらしいレイシストの中傷者だった。更にくだらないことに、私がこの発言を差別発言としての“在日認定” であり、レイシズムだと批判したことに対して、腐女子叩きでつるんでいた周りの連中が、「これはたとえだから本当の在日認定じゃない」「ただのたとえだから人種差別じゃない」と逆に私が言いがかりをつけているだけだと中傷してきたのだが、それに対する私の再批判と、私や和紙子さんへの中傷ぶりを見かねてレイシストに意見してくれたふてねこさん(@futenecoさん)の会話が読めるツイログのページと主なツイートの個別のURLを貼っておく。

(私のツイログ及び個別のツイート)
http://twilog.org/black_tatarskiy/date-131119
https://twitter.com/black_tatarskiy/status/402528622855995393
https://twitter.com/black_tatarskiy/status/402532227512152064
https://twitter.com/black_tatarskiy/status/402533536529268736
https://twitter.com/black_tatarskiy/status/402534774259990528
https://twitter.com/black_tatarskiy/status/402536241595297792

(ふてねこさんのツイログ及び個別のツイート)
http://twilog.org/futeneco/date-131116
https://twitter.com/futeneco/status/401387255660412929 https://twitter.com/vvfuukavv/status/401386751442182144 https://twitter.com/futeneco/status/401415851154210816 https://twitter.com/futeneco/status/401523479406596096 https://twitter.com/futeneco/status/401526500802846720 https://twitter.com/futeneco/status/401527750982262784 https://twitter.com/futeneco/status/401531307533950977 https://twitter.com/futeneco/status/401531357009956864
また上にある私の11月19日のログには、上のレイシストの仲間の一人で腐女子を装って和紙子さんを叩くためだけにアカウントを作ったらしいミソジニストの百合豚と、ふてねこさんとの会話も残っている。それに対する鈴木さんと和紙子さんのコメントも載せておく。

鈴木薫@kaoruSZ 11月19日
ふてねこさんに絡んでた奴、「腐女子浪人生」じゃあり得ないな。

それから昨日ふてねこさんと絡んでいた@tea_shake、私がtatarskiyの過去の連続twをRTした直後RTして嘲笑、大学教授や知識人向けなら分るが学生や若い社会人にはもっと易しくという権威主義と反教養主義のコンボで「腐女子浪人生」という名乗りは最初から違和感があったが→

→ふてねこさんとのやりとりで大体判った。あれはホモフォビックな男、多分腐女子嫌いの百合豚で、男同士の話が好きな女なんて「腐ってます」と自己卑下してくれなきゃ我慢がならないんだろう。ツイートも最近始めたばかり、和紙子さんを攻撃するために作ったアカウントだね。

和紙子@腐女子であることは罪ではない‏@amezaiku 11月19日
正直言って腐女子ルールに縛られている腐女子がゲイで男であるふてねこさんをあそこまで罵倒するのが考えられない。そういった腐女子は「本物であるゲイor男に偽物の腐女子めが申し訳ありません」となるのが大多数。TL読んでもの凄い違和感。

腐女子から腐女子への批判には「当事者性」が大きく関わっている「当事者ではない自分たちがこんなことしていいのか」と(もちろんそんなもの気にする必要はない)それなのに腐女子でありながら相手が「ゲイ」や「男」であっても腐女子批判を軸に罵倒できる腐女子というのは存在しないと言ってもいい。


【追記2】このミソジニーネカマ男のことは翌1月半ばに再度話題にしているのでその時のログも貼っておく→http://twilog.org/tatarskiy1/date-140116その後いったんは消えていたのだが、和紙子さんの企画の実行にあわせて性懲りもなくまた出現しては見苦しくはしゃいでいたようだ。つくづく醜悪なクズである。その後も和紙子さんへの常軌を逸した嫌がらせは続いており、和紙子さんはその実態をブログで公開している。http://nozityo.blog.fc2.com/blog-entry-7.html このなりすましの正体も、腐女子で浪人受験生のティーフロと名乗っていたネカマであるのは文体から一目瞭然だ。


読んでみれば、絡んできた連中の一分の理も無い醜悪さは一目瞭然だと思う。腐女子叩きでつるめる仲間なら、たとえレイシストであろうと見逃してかまわないどころか批判する方が悪いらしい。ミソジニーで目が眩んでいるとしか思えないが、そもそもまともな人権感覚があれば 「在日」だろうが「腐女子」だろうが、「いくらでも差別していい奴がいる」などと思い上がるわけが無いのだから、これは完全に病理として同根というべきだろう。上でふてねこさんに意見されていたレイシストも、同時に同性愛差別者であった。そのことをツイッター上で公言しながら() “差別ではない”と言えてしまう時点で人としてどうしようもなかろう。つくづく下らない話ではあるが、ネット上で空気のように蔓延しているミソジニーとホモフォビア及びレイシズムの“担い手”が、必然として重なり合っていることの傍証ではあろう。図らずもだが、そうした構造を炙り出した意義はあったと言える。


(註) バタフライ@vvfuukavv 11月14日
>RT 残念だけど同性愛は普通にはなれない。何故なら繁殖できないから。生物として子孫を残せない存在は自然界では異質になるじゃないですか。そういう意味で「普通じゃない」のは当たり前かなって。差別以前の問題で見てる。繁殖機能はあるので繁殖だけ異性と関係を持つとかできるかもしれないが。(https://twitter.com/vvfuukavv/status/400278904977383424
別に萎縮する必要も、同性愛を普通の存在に持って行く必要性も感じないんだけどなぁ。何でこんなに差別差別って叫んでいるのかわからない。皆違って皆良い。(https://twitter.com/vvfuukavv/status/400279916542820353

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by kaoruSZ | 2013-12-03 07:13 | 批評 | Comments(0)

『高名な依頼人』ノート

(昨年12月11日から今年1月8日まで、及び2月20日にツイートしたものに加筆した。)

 フロイトは『夢判断』で分析の俎上に乗せた自らの夢の一つを「植物学研究書の夢」と名づけているが、コナン・ドイルの五十六篇あるホームズものの短篇の五十篇目にあたる『高名な依頼人』というタイトルも、むしろそのような意味で「高名な依頼人の夢」と解されるべきであろう。つまり、フロイトの夢に出てきた(現実には存在しない)植物学研究書はそれ自体が問題だったのではなく、そのような形で、当時フロイトの心を占めていた気がかりや関心事、及び過去の記憶や昼の残滓の断片が、変形、(再)構成されて織りなされている、そのネットワークこそが問題だったように、『高名な依頼人』も身分の高い依頼人から持ち込まれた事件(実際には存在しなかったと考えられる)の話ではなく、(フィクションの次元で)本当にあった 出来事から、ワトスンがどのように“夢”を構成したか(無論これもフィクションの次元で)を、ちょうどホームズが表面に見てとれる手がかりから物事の真の連関に至るように、辿り直す作業が要請されているテクストなのだ。

『高名な依頼人』という表題は、代理人を介した真の依頼人が、正体を隠した身分の高い世に知られた人であることから来ているが、実のところ、そのような人物である必然性は、表面的な筋からは全く導き出せない。あえて言うなら、『ボヘミアの醜聞』への目配せであろう。高貴な人物の依頼で事件を解決した探偵がまたしても栄誉を得たという表の筋は、いわば顕在夢であリ、過去の主題に繋がる以上の意味はなく、何よりもホームズの心身の不調が目立つ。そしてこれは襲撃という形を取って顕在化した敵(実際には存在しなかった)によるものでは実はない。

『ボヘミアの醜聞』でのアイリーン・アドラーと国王のツーショット写真に相当するのが、ここでは茶色いノートであり、その取り戻し方は、形式的には(どちらの場合も)『盗まれた手紙』からの借用である。ホームズの働きによって、グルーナー男爵とド・メルヴィル嬢の結婚は阻止され、また、ボヘミア王の結婚は妨害をまぬかれたとされる(しかし、過去に女優の愛人がいたとて国王の結婚に支障があるとも思えないから、あれも額面通りの話ではなかった)。

『高名な依頼人』におけるモリアーティとモランへの言及は、この短篇が、実際にあったこと(むろんホームズとワトスンが生きる作品内世界において)に大幅に変形を加えて再構成した(作家としてのワトスンが)話であり、同じくワトスン渾身の作である『最後の事件』(実際に何があったかは私の小説『晝顔』http://kaorusz.exblog.jp/m2013-05-01/をご覧頂きたい)や『空家の冒険』に連なるものであることの指標である。短篇集が出た時、「最近の二冊のホームズには知的な衰えが見られ」るとT・S・エリオットには酷評されたが、目的は表面的な謎解きではなく、ホームズとワトスンの真の関係を、直接彼らのものとしてではなく、彼らの外部に、言ってみれば“客観的相関物”として可視化することなのだから、これでいいのである。

 グルーナー男爵について、ホームズは次のように言う。「複雑な性格と見えますね。犯罪者でも“大”のつく連中は、みんなそうしたものです。わが古馴染みのチャーリー・ピースなんかはヴァイオリンの名手でしたし、ウェインライトも並みの芸術家ではなかった。ほかにも枚挙にいとまなしということです(…)」
 女性に関する記述で悪名高いフロイトの『ナルシシズム論』で、ナルシストとして女や子供や猫科の動物と並んで犯罪者が挙げられているのには、確か柄谷行人が注意を促していた。ここでホームズは、自身も“大”犯罪者であると(「ヴァイオリンの名手」)暗に言っているのだろう。実際彼は“女”でも“子供”でもありうるが、対象愛に偏した通常のヘテロセクシュアル成人男性でだけはありえない。 

 グルーナー男爵は「ヨーロッパ随一の危険な男」と言われている(ホームズによればモリアーティやモランより「危険」だそうだ)。世間知らずの令嬢がのぼせてしまったにすぎない男にかむせられたこの大袈裟な肩書。その犯罪の最大のものは、ヨーロッパの山中での、不慮の事故に見せかけた妻殺しだという。つまり、ライヘンバッハの滝からワトスンを英国旅館へ引き返させた作りごとの中の“幻の英国婦人”としてのメアリの死が、夢の中で変形されたらこうもなろうというものなのである。

「どうしてもきみが乗り出す必要があるのか? そいつがド・メルヴィル嬢と結婚するのがそんなに不都合なのことなのかね」とワトスンは言う。ホームズの身を心配してというのが表面上の理由だが、この問いは、グルーナー男爵の結婚を阻止してくれという依頼を普通に考えたとき、当然発せられるべきものであろう。ホームズの答えはこうだ。「あいつが前夫人を手にかけてるのはまちがいないんだから、それを思えば、不都合はおおありさ」
 おいおいホームズ、それは、ワトスンと二人でメアリの死期を早めたことの変形だろう。「彼の細君は(…)彼が殺害したものであること、あたかも現場を見てきたように明白そのものです」って……。そんな現場見なくたってメアリの死は、君らの駆け落ちに大いに原因があること明々白々だろう。

 ホームズは男爵の元愛人の、淪落の女を探させて連れてくる。殺された前夫人と、男爵が結婚しようとしているド・メルヴィル嬢との間に位置するキティ・ウィンター嬢は、ワトスンの亡き妻メアリと、ワトスンの未来の再婚相手の間にいるホームズと同じ立場にいる。スキャンダルを持つ男が令嬢との結婚を阻止される話に“あからさまに隠されている”のは、ワトスンの再婚をホームズが阻止できなかった話なのだ。

 茶色の革表紙のノートの存在をキティ嬢から聞いたホームズは、彼女を連れて、「生身の女性とも思えぬ」崇高さ、「現実ばなれした神秘性」を持つ令嬢を訪ねる。「感情よりもむしろ頭を使う人間」、普段は雄弁でない自分が「このときばかりはもって生まれた心情のありったけを吐露して、彼女をかきくどいたよ」とホームズはワトスンに語るが、その内容を聞いて違和感を覚えない者はいまい。「妻となってみてはじめて、夫の本性にめざめる女、それでもなお、夫の血に汚れた手、好色なくちびるの愛撫に身をまかせねばならぬ女――そういう女の立場がいかにみじめでおぞましいものか、縷々説き聞かせてやったわけだ。なにひとつ隠さなかったよ――その屈辱、その恐怖、その苦悩、すべてを遠慮なくぶちまけた」――“清らかな、天使のような”娘相手に初対面の男が話す話題としてはいささか生々しすぎやしないか? 

 ホームズの説得に令嬢が一ミリも心を動かされなかったことが述べられたあと、はじめて彼女はホームズの連れに目を向けて誰であるかを問い質し、捨てられた女は空しくまくしたてる。ホームズの言い分とは重ならぬ、何百人もの女が彼にたらしこまれてもてあそばれ破滅しているという、ホームズが言ったのなら納得できるような、一般的で妥当な言辞ではある。

 だからここではホームズこそが〈女〉として語っているのだ――令嬢は、自分はあのかたを愛しておりあのかたから愛されているのだと高らかに宣言し、「だから世間が何と言おうとも、窓の外で小鳥がさえずるほどにも聞こえないということです。よしんばあの気高いかたが、ほんのかたときなりと堕落なさったことがあっても、それを真実の、本来の高みにひきあげてさしあげる、そのためにこのあたくしは生まれてきたのかもしれません」と、いかにも世間知らずの思い込み(に聞えるであろう)を口にするが、いったいここでは誰が語っているのだろう? これはどのような関係についての言葉だろう? ホームズの綿々たる口説は元愛人になりかわってというより、むしろ令嬢の純粋で高尚な愛(「崇高な目標から目をそらそうとしない狂信者」と彼女の美をホームズは評する)に対する、肉欲を語っているのではないか。受動的でマゾヒステイックで女性的な、要するに、誤って“女性特有のもの”とされた欲望を。

 このあとホームズが暴漢に襲われることによって、代りにワトスンが男爵邸を訪れてグルーナー男爵に会い、そこへホームズと女がやって来てという、最後の舞台に至る道が開かれることになる。エリオットに倣って、ここでのホームズは探偵の仕事など全くやっていないと断言してもいいし、『最後の事件』でのモリアーティの襲撃と称するものが、どれも妄想(物語内のメタレヴェルでは、ワトスンがそのように設定し、創作したもの)だったように、ホームズの負傷それ自体が芝居だと考えてもよさそうだが――実際、ワトスン自身、「ひょっとするとこの男、私にさえそうは見せないが、じつはもっと早く回復しているのではないか、などとかんぐってみることさえあった」と言っているのであり、完全な狂言とまでは言わないにしても、要するにどこかで聞いたようなこうした筋書自体を本気にする必要はないと、語りが進んで明かしているのだ。

 しかしその中には、これこそ重要でしっかりと見極めねばならないと言えるものも確かにある。ホームズから泥縄で陶磁器についての勉強を命じられ、明朝の小皿を餌にグルーナー男爵(その道の権威でコレクター)を訪ねた時のワトスンは、その点誤ることはなかった。ワトスンが賞でたのは磁器の繊細な肌ではない。身元を伏せた依頼人の使いとしてベイカー街の部屋に現われた時のデイマリー大佐も「あの男は世にも稀なる美貌の持ち主であるうえ、人をひきつける物腰あり、やわらかな声音あり」と語っていた、グルーナー男爵の美しさである。そのデイマリー大佐自身についてもまた、「豊かな、響きのいい声音」を持ち、隙のない洒落た姿であることが生き生きと述べられて、かの令嬢が「若く、美しく、財産もあり、教養深く、あらゆる点で非の打ちどころのない」と通り一遍に評されているにすぎないのとは対照的だったが、男爵がランプを引き寄せて小皿を検分しはじめると、ワトスンもまた「心ゆくまでそのおもざしを観察する」のである。

「たしかに、並みすぐれた美貌の持主だった。ヨーロッパじゅうに美男の名をとどろかせただけのことはある。体格は中ぐらいだが、体つきがいかにも優雅で、しかもしなやかだ」「声音も魅力があり、(…)年のころは三十になったばかりと踏んだが、あとで知ったところによると四十二だという」とワトスンは評する。
 デイマリー大佐も彼については、「おまけに、女性にはきわめて大きな魅力を持つらしい、あのロマンティックな、謎めいた雰囲気もそなえている」と、「女性には」と断ることを忘れなかったし、それに倣うかにワトスンも「大きな、黒い、ものうげな目を見ると、女性は手もなくふらっとなるだろう」と女のことにしているが、美と受動性を己には禁じ、女として外在化した筈の「男」が、同性の容姿にかくも釘付けになり言葉を費やすこと自体、すでに十分異例である。「美しい――じつに美しい!」とは、むろん男爵が小皿のことを言ったのだが、まるでワトスンが歎声を発したかのようであり、意識的に美術品と男が並行して置かれているのだ。

 先日、グラナダTV版『高名な依頼人』をYouTubeで見たが、原作を表面上忠実になぞりながら、もともと変な話であるので不自然でなく見せようと腐心した結果、見事に意味不明になっていた。筋書の変更で最大のものは、キティ・ウィンター嬢の復讐を無理なく思わせるようにしたのと、最後にホームズが意図的に彼女を男爵邸に伴ったのではないとしている点である。トルコ風呂の様子とか見られて良いけれど、そもそもあれは一篇がワトスンの偽装(創作)で、トルコ風呂の場面は少くともあのような形では無かったはずである。おまけに原作と違って、その前のプロローグがいきなり男爵のアルプス山中での妻殺しだった。『最後の事件』の道行で結局はワトスン(とホームズ)がメアリを殺したも同然なのは確かだから、それなりに重要な細部であるとはいえ。

 グラナダ版は男爵を美男でなくして、令嬢をタカビーから清楚に変えている。また、原作ではホームズが(抜糸済みなのに)繃帯に血が滲む生霊状態で男爵邸に出現し、まさかキティちゃんがあんなことすると思わなかったよああびっくりしたと嘘八百なのを、襲撃後間がないことに変更して不自然さをなくそうとつとめている。壁に掛けられた男爵の肖像に酸がかかるのはワイルド(『ドリアン・グレイの肖像』)写しで面白いが、だったらなおさら、男爵は美貌であるべきだったろう。

 原作では、男爵の美しかった顔は「今や美しい絵の上を作者が濡れた汚いスポンジで擦ったようになっていた」とあり、最初から絵に喩えられているのを、グラナダ版は実際に絵にして見せたわけである。また、原作の記述は、『唇のねじれた男』で、ホームズがタイトルロールの顔をスポンジで拭うくだりを連想させずにはいない(『唇のねじれた男』も、『ドリアン・グレイ』の影響が顕著に見てとれる作品だ)。直前に美男ぶりを賛嘆していた細部を、これはすべて作り物に過ぎないのだと言わんばかりにスポンジの一擦りで拭い去ってみせる。

 これに先立ち、ワトスン目線で男爵の容貌が描写された直後、彼がホームズの回し者である事がバレて男爵は「茶色のノート」のある奥の部屋へ飛んで行き、ワトスンもあとを追う。すると「庭に通じる窓が大きくあけはなたれ」た内側に「血のにじんだ包帯を頭に巻いた」ホームズが立っているのだが、このホームズ、完全に生霊である。「なにか無気味な亡霊のように」とか「その青白くやつれた顔を見定めるひまもなく、つぎの瞬間には、すばやくその影はひらいた窓の外へすべりでた」という描写ばかりから言うのではない。すでに「七日めは抜糸が行なわれた」と書かれていたのだから、その包帯にもはや生々しく血が滲んでいようはずがないのだ。

 この時「外の月桂樹の茂みで、ざわざわと音がし」、男爵が「怒声を発して(…)ひらいた窓ぎわに駆けよ」り、「そのときである!とっさの出来事だが、それでも私はまざまざと見てとった。やにわに一本の腕、それも女性の腕が、茂みのあいだからつきだされたのだ。と同時に、男爵がすさまじい叫びを発した」などというのは『リジイア』で空中にルビー色の雫が出現して盃に落ち、ロウィーナ姫を斃すようなもので、ポーの語り手のように阿片の見せた夢でこそあれ到底リアリズムの水準の出来事とは思われない。「まざまざと」とか「その声はいまでも耳の底に残っている」という強調はその疑いをむしろ強めるものだ。

 それでも、濃硫酸を浴びせられた男爵は顔を押えて部屋中を駆け回ったあげくついに倒れてのたうち回り、「片目はすでに白濁しているし、もういっぽうは真っ赤にただれている」という正視に耐えぬ地獄図絵が展開されるが、駆けつけた使用人の一人がひと目見て失神してしまったというその描写も、よく読めば「ほんの数分前、私が嘆賞を惜しまなかったあの顔が、いまは見る影もなく、さながら画家が濡れて汚れた海綿で、美しい絵の表面をこすったかのようだ」という、すでに述べたように『唇のねじれた男』でホームズが実際に男の顔をぬぐったことを連想させずにおかない比喩は、むしろここでワトスンが立ち会っている全ては絵空事で、人の目をそむけさせずにはいない「人間のものとも思えぬおぞましい顔」は、背後の無を人間化し、表面の下には何もない(あるいはキャンバスか白紙しかない)という事実の隠蔽ないし隠蔽自体の可視化によって、現実の綻びを取りつくろっているのではないかと疑わせる。

 男爵への同情を感じられないまま応急処置をしてやったワトスンがベイカー街に帰り着くと「ホームズはいつもの椅子におさまっていたが、その顔は青ざめて、疲れ切ったようすだった」と、あたかも自室を動かないまま生霊として現場へ出かけていた者の風情、ワトスンの語る「男爵変貌の一幕に恐ろしげに耳を傾け」るが、ワトスンの見たのが幻影でなかった証拠には、件の茶色のノートはちゃんと持ち帰られて卓上にある。そして、ワトスンが正体を見あらわされる前にそれを入手するにはノートのありかが確実にわかっていなくてはならなかったので、「土壇場になって、あの女を連れていくことに決めたんだ」と説明するが、「いくらぼくでも、彼女がマントの下に大事そうにかかえていた小さな包みがなにか、そこまでは見抜けなかったよ」とは白々しい。そのくらいホームズに見抜けなかったわけないだろう。しかも、茂みの中からつきだされた腕は冒頭のトルコ風呂の場面でシーツの間からつきだされる「長い、痩せた、神経質そうな腕」を連想させずにはおかないから、その女の腕とはほとんどホームズ自身の腕としか思えないのだ。

 依頼人の代理デイマリー大佐がそこへやって来て経緯を聞き「神業ですな――まさしく神業だ!」と嘆声を発するが、すぐ見破られるレヴェルの知識しかないワトスンを送り込み、ばれるまでの僅かな時間を使っての単なる盗み、しかも女が何をするかわかっていてわざとそのままにしておく生霊作戦が神業か?

 要するに、依頼人が現われて探偵の仕事を称賛するこのフレームの部分は、文字通り取ってつけた(ホームズなら過去にそのような経験は幾らでもあろうから、ワトスンは適当に見つくろって引用すればよかったわけだ)ものであり、「やあやあ、サー・ジェイムズ(デイマリー)、ちょうどよいところに」云々というホームズの反応や、「あらかじめ呼び出しを受けていたのだろう、この温雅な依頼人は、それにこたえてあらわれたのだった」という、どんな意外な展開があろうと納得してしまう夢の中でのようなワトスンの独白は、“これが現実ではない”ことを示すものとして、むしろその継ぎ目を目立たせるためにあるのだろう。

 この夢はいつからはじまっていたのだろう? この物語の公表の許可を長年求めていて、「十回めくらい」にやっとホームズからオーケーが出たというのが書き出しだが、そのあとに、二人とも「トルコ風呂にはいたって目のないほうで」あり、「行きつけの店の二階」の「ほかとは隔離された一隅」に近頃何か面白いことはないかと問うたワトスンに「返事がわりに」ホームズが、壁にかかっている上着のポケットから依頼人の手紙を取り出すべく例の腕を「つきだした」時に、すでにそれがはじまっていたのは確かである。

 周知の通り、別の短篇ではホームズはトルコ風呂をくさしており、ワトスンはともかく、二人ながら「いたって目のないほうだった」というのがそもそも相当疑わしい。要するにそれも“夢”の一部であり、この話のもとになった現実、すなわちホームズとワトスンが生きている世界において交わされた話題も、男爵と令嬢の交際をめぐるものなどではあるまい。ワトスンの方から、近いうちに再婚するつもりだと打ち明けたというのがtatarskiyさんの推理である。疑惑と不名誉を避けるためのワトスンの再婚についてはここでは詳述しないが、「当時私は、ホームズとは別にクイーン・アン街に居を構えていた」というこのあとの記述も、(少くともワトスンの方では)密かな計画に基づく別居だったと考えれば頷けよう。

 いかにももっともらしい、馴染みのトルコ風呂の店の隔離された一隅などというのは実際には舞台ではなく、ただし「二人並んで横たわっていた時」というのは恐らく事実である。いずれにせよこの時のホームズの反応から以下の“夢”、すなわち事後的にワトスンによって構成された物語は生まれたのだろう。

 要するにこれは“女と結婚しようとした男”が手ひどい罰を受け、結婚が阻止されるという、(現実にはワトスンに結婚されてしまった)ホームズの、夢の中での願望充足(とワトスンの恐怖)の話であるのだ。ホームズの満足感は、依頼人の身分の高さや、「わが友人の職業生活の頂点になったとも言えるこの事件」というワトスンの言葉に置き換えられていよう。

 tatarskiyさんから電話で、私のツイートを見ながら『高名な依頼人』を読み直していたら、ホームズとワトスンが横になって話している場所は勿論、会話の内容、その後に起こったことまで判ったと、変形される以前に戻して全部説明されてしまった。本当にその通りだ……。日付が変ってからまた続き書く。(2013.1.8)

★この続きは書かなかったが、本当は何があったかについての再構成は『凶暴な猫の冒険』と題して小説の形ですでに書いている。手入れする時間ができたらアップする予定。
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by kaoruSZ | 2013-11-07 22:15 | 批評 | Comments(0)

tatarskiyの部屋(22)‐1

今年7月の10日過ぎ頃にtwitter上で祭りになっていたものだが、高校の男子水泳部を題材にしたテレビアニメ「Free!」のキャラクターに対する、男性視聴者からの「あんな奴らは男じゃなく女だ」というホモフォビックな反応への女性からの反発のツイートと、それに対する無理解丸出しの中傷めいたツイート、そして更に私自身がそうした中傷に対する反論としてツイートしたものをまとめてみた。リアルタイムで話題を追っていなかった人にも、下記を一読すれば何が問題だったのかは一目瞭然だと思う。

実はこの後にまったく見当違いな被害妄想から“腐女子”叩きに便乗するツイートをした「自称百合好き」のせいで更にくだらない方向に話がそれていってしまったのだが、私はそれについても徹底した批判を行なった。そちらの顛末についてはこちらの記事(tatarskiyの部屋(22)-2及び 3 を参照してほしい。

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和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月10日
「Free!」のキャラを「女じゃねーか」「女でいいじゃん」って言う奴いるけど、あんな女は現実にいないから^^それは男に都合のいい妄想をテンプレート化したものに「女」と名付けているだけだから^^現実と妄想の区別つけて、自分の妄想を女に押し付けるのいい加減にしろよチンカスども^^

ネコクロ @gata_negra13 7月10日
@amezaiku えええ!?そんなこというチンカスがいるなんて…どこが「女」なんでしょうかね?ああいう天然な性格=「女」とか笑えちゃいますよ。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月10日
@gata_negra13 なんか女っぽいとかカマ臭いとか色々あるんですけど、一番突っ込みたかったのは「会話が女同士にしても違和感が無い」とかいうコメントがあって「いやあるよ!」って叫びたかったです。

まきは岩鳶高校水泳部雑用係 @nejimakipero 7月12日
そういえばFree!の感想で男の人が「なんか女子の考える男子の日常って感じで気持ち悪い」って言ってたけど、京アニ女子の日常がリアル女子の日常だと思ってる皆様にその言葉をそっくりそのままお返ししときますね

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月12日
私がFree! の女キャラについてこんなに言うのって、ここで許したら「やっぱり男の欲望は上位のもので、女の欲望は下等だから、どんな場合でも前者を優先させるべきなんだ」という認識を許容し続けることになるので「男の欲望は自然で当然」を否定するためにも口うるさく叫び続けます。

海燕 @kaien 7月12日
ぼくは「こんな男/女はいない」という言葉がキャラクター造形への批判になりえるとは思わないんだよね。現実にはいないような個性だから魅力的なんじゃないか? どこにでもいるような性格のキャラなら現実を見ればいいじゃん。眠狂四郎とか金田一耕助は「こんな奴いない」からこそ魅力的なのでは。


和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月12日
私のあの主張は「女という幻想を現実にまで押し付ける男性ジェンダー」についての言及も含まれているのに、なんで「フィクションは現実と違うから楽しいんだよ」になるんだよ。ふざけんなよ。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月12日
「フィクションの男キャラへの批判」ではなく「”男”が”これこそ女である”という主張をし、それが通ってしまうことの異常性」を指摘してんだけど。そこになんの違和感も覚えないの?


海燕 @kaien 7月12日
ある性別向けの作品を異性が見て違和を感じ、それを意見として表明する。そのことそのものは問題ない。ただ、その意見がなかなか建設的な議論にまで至らず、「こんな奴いない」レベルの浅い批判にとどまってしまい、それに対する反論も同レベルでなされてしまうという事態は好ましくないと思うのです。


海燕 @kaien 7月12日
「こんな奴いない」「こんなこと現実に起こるはずがない」というのは、およそフィクションに対する最も浅薄な批判なのではないかと思うんだよね。現実を超克したいという願い、より素晴らしく、より美しく、より鮮やかに、という思いから作られたものに対し「これは現実ではない」と批判するとは……。


和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月12日
RT>「こんな奴いない」ではなく「これは○○だ」という決めつけを強者が行うことを問題視してのあの批判なんだけど、いい加減現実の関係性丸無視で「どっちもどっち」に持っていくの止めろよ。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月12日
私が指摘しているのは「現実にこのキャラがいるかいないか」ではない。「女と名付けられたテンプレート」が現実に存在し、それが権力となっているのだ。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月12日
私はいかなる場合でも「女性性」と「男性性」を並べることは心情的にも理論的にもしたくはない。


海燕 @kaien 7月12日
「「「Free 」のキャラを「女じゃねーか」「女でいいじゃん」って言う」ことが「”男”が”これこそ女である”という主張」をしているとは受け取りませんでした。この言葉だけだと「(フィクションで描かれた女キャラクターそのものじゃねーか」「女キャラでいいじゃん」とも受け取れるかと。



和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月12日
RT>男の妄想の女ジェンダーと現実の女を綺麗に分けられていると本気で信じているのならおめでたいことだ。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月12日
結局いつもの「女性差別なんてないだろ」の人間か…

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月12日
男の妄想と現実の女が綺麗に切り離されているっていうのならなんで某ゲームで「三次元はもういらない」って宣伝文句が出たんだよ。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月12日
フィクションに限った話しではなく「男の造った女」は現実の女に対して凄まじい重圧を発揮するんだよ。だからこそフィクションでも男の造った女キャラは許されて女が造った男キャラは許されないんだよ。「(男の造った)本当の女はそんなことしない」から。全部地続きなんだよ


ねこ@がんばらない @naruhodowakaran 7月12日
ヘテロ男としてアニメを見てきた身として思うけど、アニメのほとんどはヘテロ男による女性幻想、妄想に満ちている。そういう妄想ってアニメに限らず様々なメディアから溢れでていて、我々の生活を覆っているわけで、それが女性にとってどれほどの抑圧になってるかってことはまず前提にされるべきだよね

ねこ@がんばらない @naruhodowakaran 7月12日
「Free!」を見て、アニオタ男が「こんな男はいない」「こんな筋肉ありえない」とか吠えたり、腐女子のBL消費をキモいとか言ったりするのって、まんまお前らの美少女アニメ消費に言えることだからっていう批判が出てくるのは当然だなって思うわ。

ねこ@がんばらない @naruhodowakaran 7月12日
そういった議論が建設的じゃないとしてもそういうカウンターをミソジニーヘテロ男は沢山浴びたほうがいいって思うわ。自分の女性幻想の消費がいかに女性への抑圧になってうるかということについてもっと自覚的になれって意味で。

ねこ@がんばらない @naruhodowakaran 7月12日
生産量が圧倒的に違うと思うんだよね。99%の男性による女性幻想の生産物に対して、女性による男性幻想の生産物って1%にも満たないんじゃないかな。その1%を男性が必死に叩いてるのを見ると鏡見ろって言いたくなる。

ねこ@がんばらない @naruhodowakaran 7月12日
だから個人的には「Free! 」みたいな美少年アニメはもっと出てきたらいいなって思うし、腐女子のBLとかも「いいぞ!もっとやれ!」って感じで応援している。

ふて☆ねこ @futeneco 7月13日
こんな女はいない!と、散々言っといて、こんな男はいない!に反論するなんてという御意見。いや、そこ同じじゃないし、そもそもこんな男いないwwに対する反論じゃん。そこの非対称性は理解しとけよなぁ。なんだこれ。


tatarskiy @black_tatarskiy 7月12日
RT↑今更ですが、和紙子さんの意見に賛成なのと、一連の流れを見て私からも補足。「男の描いた理想の女像」と「女の描いた理想の男像」はいかなる意味でも対等ではないし、同列に批判もしくは許容されるのが当然なんてことはありえない。

というか一連の流れを見ると、「男と女」という単語の並びを見たとたんに脊髄反射的に「お互い様」と言い立てまくりたがる阿呆が大勢いるようだ。本当はそれこそが自覚の無いミソジニーの発露としか思えないんだが。ぶっちゃけ権力関係の隠蔽だよね?

「男と女」だと判断力が狂う向きにもわかるように説明するが、例えば「大人の考えた理想の子供像(純真無垢だとか学校の先生に褒めてもらえるような良い子だとか)」が子供にとっては抑圧であり、時にありのままのその子であることを許さない暴力でありうる、ということを否定する人はいないだろう。

逆に「子供の考えた理想の大人像」というものがあるとしても、それは「大人の考えた理想の子供像」と同等の権力を持ったものではありえないことは誰にでもわかるだろう。後者が現実の子供にとっては従うべき規範として働くのに対し、前者によって現実の大人が抑圧されることなどありえない。

それと、今回の「Free!」の一件でもそうだったけど、一般に男が男キャラに対して「こんな男いない」と言い立てるのは「女っぽいから」という理由でだけど、女が女キャラに対して「こんな女いない」と言いたくなるのは「過度に“女らしい”から」で、つまりは完全に非対称だ。

これはそもそも「女らしさ」というのが「男にそんなものがあるのは恥でしかない」属性の寄せ集めだから。つまり男は日々女性に対して「俺にそんなものがあるのは恥でしかないが、お前がそれを内面化するのは義務である」というダブルスタンダードの押し付けを当たり前のようにやっているわけだ。

で、この「男にとっては恥」になるものの中でも最大のタブーといえるのがずばり「同性と親密な関係を持つこと」つまりはホモフォビアで、だから今回の「Free!」の男キャラに対しての「こんな奴らは女だ」という反応がミソジニーとホモフォビアが見事に一体になったものだったのも当然の帰結。

そして「男らしさ」というのはあくまで「女っぽくなんかないこと」であり、つまり「男らしさ」も「女らしさ」も「なにが男にふさわしい/ふさわしくないか」も皆「男が決めたこと」でしかなく、これはもっと言えば「なにが“リアル”か」そのものを「男が決めている」ということ。

彼らが一体何を「リアルでないことにしたい」かといえば、端的に言ってしまえば「男が女のように美しいこと」「そうした“女のような男”が同じ男と親密になること」の二つに尽きる。そしてこの二つへのタブー視と嫌悪――ホモフォビアとミソジニー――は、私たちの現実の日常そのものを覆っている。

今回の「Free!」の男キャラへの彼らの反感も、そうした彼らの「現実の日常でのホモフォビアとミソジニー」が「そのままフィクションへの評価に持ち込まれた」に過ぎない。つまりは完全に権力者による権力の行使であり、それに対して女性から反発や非難が起こったのは権力者への当然の抗議である。

それを「リアルな異性が描けないのはお互い様」だの「フィクションはありえないから楽しい」だのとは片腹痛いし、それ自体が男=権力者の一方的な横暴を隠蔽する暴力である。男の描く「女らしさ」とは、女にとっては断じてフィクションではなく、日々彼女に押し付けられている「現実の規範」そのものだ。

(ブログへの掲載に際して誤字脱字を補い、↓を↑に変えてあります)

2へ続く http://kaorusz.exblog.jp/20773748/
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by kaoruSZ | 2013-10-17 08:44 | 批評 | Comments(0)

tatarskiyの部屋(22)‐2

1から続く http://kaorusz.exblog.jp/20773717/

以下は実際の経緯としては、テレビアニメ「Free!」のキャラクターに関しての男性視聴者のホモフォビックな反応とそれに対する女性からの反発で始まった話題(記事リンク)から続いているもので、「“腐女子”が百合を好きな人を不当に中傷している!」というツイートに対する反論として私も参戦したものだが、一読すればわかるように、こんなそもそもの本題とまったく関係ない馬鹿馬鹿しい展開に陥ってしまったのは、どうも日頃から“腐女子”及びBLに対して被害妄想的な偏見を抱いているらしい自称百合好き(にーにー@00kate22)が、それまで誰も持ち出していなかった「けいおん」という作品名を持ち出しつつ「“腐女子”が水泳アニメdisられた腹いせに百合を叩いてる!」という見当違いなフレームアップを行なったからである。

つまり、そもそもの本題だった「Free!」キャラに対する男性からの「あんな奴らは男じゃなく女だ」という決め付けの不当さと、それがまかり通る男女の権力差に対する指摘としての「男性向けにつくられた百合アニメの女だって、女からすれば偏っていて不自然だ」という「権力者=男性へのカウンター」としての当然の反応に対して、「百合アニメは自分のような女も見てるのに腐女子はそれを無視して馬鹿にしている」という、まったく現実の女性差別と、そもそも“女”とは“男ではないもの”(もしくは“男にあるまじきもの”)である以上、“女性像”というものは必然として“男らしくないもの”として決定されるものであるという、善悪以前の根源的な非対称性を無視した妄言()を吐いたわけであるが、これは「にーにー@00kate22」本人の被害者意識とは裏腹に、実際にはミソジナスでホモフォビックな権力者としての男性を免罪する “権力の犬”としての振る舞いに過ぎない。

要するに「女らしい女は女の自分だって好きなのにそれを無視してる!」と言い出したに等しいわけだが、これがどれだけナンセンスであるかは馬鹿でない人には自明の話でしかあるまい。

不運だったのはそれを批判した「和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku」さんが「にーにー@00kate22」にブロックされていて当該の妄言自体を直接RTできなかったのもあって、何が発端かを把握もせずに“腐女子”叩きに参加する百合豚(あえて“豚”と言っておく)が後を絶たなかったことだが、そもそもそれまでの経緯と「何が問題なのか」を把握していれば絶対にありえない差別的な反応に過ぎないだろう。今回の一件における百合豚たちの態度の悪さには、彼ら彼女らの“腐女子”に対する被害者面とは裏腹の、本質的には名誉男性的な思い上がりなしにはありえないような無礼な見下しが滲んでいた。私が以下の通りの徹底した反撃を行なった後にはだいぶ沈静化したようであるが、そもそもの元凶だった「にーにー@00kate22」はそ知らぬ顔を決め込んでいる。これまでも被害妄想的な“腐女子”ヘイトが見え隠れする、認知そのものに病的な問題のある御仁だと思っていたが、これからも好きなだけ汚物としての妄言を垂れ流したいのなら、ぜひ鍵アカにするかチラシの裏にでも書いていてもらいたい。

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にーにー@00kate22 7月13日
自分たちはけいおんを散々現実の女はあんなんじゃないんですけどーwwって笑っといて、水泳アニメdisられたら、けいおんとか百合持ちだして反論しようとするのって超ずるくね?


和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月13日
何故か知らんがいつの間にか「お前らはけいおんを”こんな女いない”と言っておいて自分達が同じこと言われたらけいおんを持ち出して怒るのか」みたいなこと言っている奴が出たんだけど、どうしてそうなった?

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月13日
「こんな男いない」だけではなく「これは女だ」が通ることも問題だと言っているんだけど。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月13日
なんか「けいおんは男オタクだけのものじゃなくて私のような女も見るのに」という馬鹿女がわいたから説明するけど、そもそも「けいおん」のみに言及した話しではないし、「造られた女像」がいかに強い権力があるかってことはまず、「女はけいおんを見ない」という認識がある程度→

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月13日
→共有されて自分自身も内包している所から、頭回らないのかな?その上での「権力への反発として女が造られた女を否定することの必要性」と「男が女の妄想とされるものを否定する時の権力」が重要なんだけどな。さっきから他にもわいている「どっちもどっち」の似非平等主義もいい加減にしろよな

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月14日
こういうのを見るたびに「腐女子死ね」と言われ続けるという経験の無いのに「私も女オタですけど、その感覚は分からないな~」って言い出す百合豚ノマ豚女は黙っててくれないかなと思うのね。お前らが抑圧を感じてないのは分かったから


三枝 @Pitalacta 7月16日
←百合豚ノマ豚女

三枝 @Pitalacta 7月16日
腐豚死んどけ


和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月17日
RT>いいよな。簡単にそういうこと言えて周囲から「マナーがなっていない」とか言われることのない立場の女オタクは…


宇井彩野@百合人企画@niyari_niyari 7月17日
抑圧を感じてることを語ったときに「わかんないな~」とか言われるのムカつくのはわかる話だけど、なんでそこで「百合豚ノマ豚女」とかって言葉使う必要があるのか…ていうかひどい言葉を使う対象が違うっしょ。ジャンル関係ないっしょ

aki @saphir_ 7月17日
こういうのやめて欲しいですしおすし。BL好きと百合好きと異性愛もの好きが被ってないと思うなよ? そしてこういう、どれかに属するひとが他を叩くみたいなアレで息苦しくなるんだわ。 https://twitter.com/amezaiku/status/356227462763511809


和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月17日
RT>阿呆が出た。私も百合好きで男女もの少女漫画愛好家だよ。その「言っている本人」が「被っている可能性」を考えない時点で分裂しているのはこいつ自身だ。「百合も男女も嫌いな腐女子がなんか言っている!」って思い込んでいやがる頭の悪い偏見野郎は黙っていろ。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月17日
そもそも私の主張は「ジャンルがどうの」ではなく「抑圧を自身が受けたことがないから”そんなものない”と考える人間」に対してのものだ男が「男だって辛いんだから女性差別とか言うな」と言い出すのと同じ。論の主軸すら見えない馬鹿は黙っていろ。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月17日
さっきの私に絡んできた馬鹿がRTされまくっている。とりあえずあれを正しいと思い込んで「そうだよ!皆一緒だよ!」って方向に持っていきたがる馬鹿は私の先程の呟きを見てからにしてほしいですね。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月17日
だから百合豚とノマ豚関係は嫌いなんだよ。「腐女子への差別なんて知らない!でも自分達も同じくらいの知名度が欲しい!」ってのが一定数でわくから。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月17日
というかあれを「自分達の立場じゃ抑圧を理解できない」ではなく「百合好きと男女好きをないがしろにしている><」になる人間が一定数いるのを見ると百合や男女を好きになると頭が著しく悪くなる呪いでもあるのかと疑うレベルで酷いんだが。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月17日
腐女子への抑圧が男女百合へは無いことを男女のジェンダー差から語る語る→百合や男女好きな女を蔑ろにしている!→腐女子への抑圧を百合男女好きは理解できないなら黙っていれば?→百合や男女好きな女をryという経緯なんだがお前ら被害者ぶって腐女子を黙らせたいだけだろ?

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月17日
今まで言うの避けていたけどさ、やっぱ言うわ。百合好き女と男女好き女は被害者ぶって腐女子差別を語るのを妨害するクズが多いわ。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月17日
自分達の好きなものを「ノーマル」と呼んだり人を「腐った女」と言える立場であることに無自覚な時点でクズなんですけどね。それでもわりと言葉を選んで我慢してきたけどさすがにこうも「百合好きと男女好き女を蔑ろにしている!」と被害者ぶればなんでも許されると思い込んでいるクズが多いと限界だわ

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月17日
私が「百合豚ノマ豚」と言ったことを問題視している奴がいるので言っておくが私は「カウンターとしての暴言」を全て封じてお綺麗な政治的に正しい世界を造ろうとは一切思っていないのでそういった考えからの批判は気色悪さに鳥肌が立つだけです。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月17日
「これは暴言だからこんな言い方しちゃ駄目でしょ」しか言わず「何故そのような批判が出たか」には目を向けようとしない。相手を押さえ込んで上位に立ち「自分の決めた正しいやり方」を主張するしか脳の無いのは猿以下です。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月17日
猿との対話は不可能なのでやりたかないですが、その猿以下の主張を広め、論点をズラして必死で自分を正当化させる馬鹿が多いのが腹立たしいです。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月17日
一部じゃ何故か私が「けいおん!」を批判していることになっているが、遡れば分かるが、私は最初けいおん!は一切出して無いからな勘違いしてけいおん!がどうのと言い出した奴に反論しただけ。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月17日
もうぶっちゃけるとさ。百合豚とノマ豚の女にはジェンダーの話題の時は一切関わりたく無いわ。「女オタクだし、あっちの意見も聞くべき」とか思っていたけど毎回毎回毎回毎回、男女のジェンダー差について腐女子を中心に語ると「百合や男女を蔑ろにしないで」って絡んでくるんだけどさ。いや→

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月17日
→自分達の存在を主張したいってのは分かるが、それってこの話題の時に必要無いよね?だって女に興奮する女がいるからってジェンダー差が無くなるわけじゃないからね。「レズビアンのように女に興奮する女もいるんだから女を性的対象としてのみ扱うのは男性社会のせいではない」とか言われたら→

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月17日
→違うでしょ?存在の主張とジェンダー差の話しは違う所でしようよそうじゃないと話しが進まないんだよ!これってまんま女性差別の話題の時に「男だって差別を受けているのになんで女ばっかり」って言い出す男と一緒なんだよ。そっちの話しも大切だけど下手に絡ませたら主軸をブレさせるだけだよね?→

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月17日
→そんで「主軸をブレだせたい」という行動にでる理由は「そっちの話しはたいしたこと無いんだからこっちの話ししろよ」っていう自身の考えがマジョリティであるべきという強者理論だよね?そんなものに乗る理由はこっちにはねーから。マイノリティについて話したいように見せかけて→

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月17日
→自身をマジョリティとして権力が欲しいなんてクズですね。もう我慢の限界だ。今後腐女子中心にジェンダー差の話題をしている時に「百合は男女は~」って言い出す豚に一切餌はやんねぇ。片っ端からブロックするんでそのつもりで!

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月17日
これで軽蔑したり、私を差別主義扱いする奴が出てもお好きにどうぞ。正直もう疲れたんだよ。女性差別の話題の時に「男性差別が~」って言い出すやからの相手をしている時とまっっっっったく同じ疲れ方。こんなもん背負うなんてもうご免だ。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月17日
これだって本来は「男の造った女像」に対する反発って女が協力すべきじゃないの?なんで女同士で「私だって女に興奮するし~」って言い合わなきゃなんないんだよ。だいたい「女に興奮する女」が表明できないのって男性社会のせいであって攻撃対象が違うだろ。あ、弱いものいじめしできないクズだからか

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月17日
@black_tatarskiy 的確な批判ありがとうございます。書き上がっていたのに気づかなくて申し訳ありませんでした。明らかに違う意味の言葉を乱暴に繋げようとする人間が一人でも反省することを祈るばかりです。(この文でも気付かない人間はもうどうしようもないかもしれませんが)


tatarskiy @black_tatarskiy 7月18日
@amezaiku ありがとうございます。こちらこそ返信が遅れてすみませんでした。ところで今度は馬鹿な勘違い百合豚に絡まれたようですね。この手の話題については私が以前に書いたのがあるので→http://kaorusz.exblog.jp/18567610/ こちらを参照するように言ってやって下さいな。


和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月18日
@black_tatarskiy お気遣いありがとうございます。以前にも同じことがありましたね。その時と同じ面々を見かけるんですが、なんというか「反省とかしないのか」と力が抜けてしまいます。まともに相手をしたらろくな目に合わないので反論だけして後は関わらないようにつとめます。


tatarskiy @black_tatarskiy 7月18日
↑上のエントリにも書いたことだが「ちゃんと男女も百合も好きだよ」アピールしてる(させられてる)腐女子なら山ほど見るけど、いわゆる百合豚やノーマルカプ厨が「ちゃんとBLも好きだよ」なんて一生懸命言わされてるのかね?当事者が「それを好きなことを懺悔しなければならない」のはBLだけだよ。

tatarskiy @black_tatarskiy 7月18日
あと「人数としては腐女子のが多いからマジョリティだ」とか寝言こくなよ。どうしてもそう言い張りたいなら事のついでに「女は人類の半数なんだからマジョリティだ。差別なんかされてるはずない」とでも言ってみろよ。「前者は成り立つけど後者は成り立たない」ってのはただのダブスタだから!


ふて☆ねこ @futeneco 7月17日
女百合ヲタだかLGBTだか知らないが、フェミっぽいこと言ってる人達が続々と馬脚をあらわしてて、本当に本当にひどすぎる。すでに本人から説明されてる通りだが、せめて何に対する批判か見てから言ってくれよ。もう構造の問題が分からないならそれっぽいこと言うのやめろよ。

ふて☆ねこ @futeneco 7月17日
@_surtsey こういう、現状は男による女像(作り手が女性かは無関係です。構造として女性像がどう作られているかの話なので)が溢れていることを相対化して大したことないじゃん、ずるいとまで言う人がいるからじゃないですか。https://twitter.com/00kate22/status/355866530686304257



(上記の★印のついた私のツイートをRTして)

終末ヒロインよる子 @Yrzu_nainu 7月18日
そこ全然対等じゃないんだよね。例えば百合好きの人が男はいらんって言うのと腐女子が女はいらんって言うのとでは、後者の方がブスが美少女に嫉妬してて醜いw的な扱いされて言いにくい雰囲気があって男女カプや女の子も好きなふりをしなきゃいかん風潮があるというか。>RT


ハルカは分身などしない @noruhine 7月18日
それはあるけど、なぜそれを百合好きに言うよ、殴ってくるやつに言えよ、がFA


tatarskiy ?@black_tatarskiy 7月18日
@noruhine 今回@amezaikuさんにおかしなことを言って「殴って」きたのは百合豚(←あえて“豚”といっておきます)の方ですよ。経緯くらい確認して下さい。私が参照先として挙げたエントリの事例でも加害者は自称百合好きでした。


ハルカは分身などしない @noruhine 7月18日
当然、百合とBLは同じものじゃないし、比較するには条件が違いすぎると思うんだけど、そこで敵として百合好きやヘテロ好きの女子を叩いたらそれこそ泥試合というか、本当の敵の思うつぼというか…


tatarskiy ?@black_tatarskiy 7月18日
@noruhine 私に言わせればあなたも敵ですよ?都合のいいときだけ「自分たちは本当の敵じゃないのに」ですか。虫のいい話ですね。


ハルカは分身などしない ?@noruhine 7月18日
フェミが、自覚のない名誉男性をボコボコにしてもしょうがないのと一緒な気がする


tatarskiy ?@black_tatarskiy 7月18日
@noruhine男女でも百合でも「ちゃんと女をいいと思って女に同一化できる女」はある種の名誉男性です。だから彼女たちは“腐女子”のように叩かれることはない。そしてこれは当然現実のレズビアンの社会的立場とは何の関係もありません。少しは自覚があるなら反省してくださいね。

tatarskiy @black_tatarskiy 7月18日
@noruhine そして、「自覚のない名誉男性」は当然厳しく批判されるべきです。それ自体が「差別構造に加担して利益を得ている」ことなんですから。それは男や構造への批判と同時に行なわれてなんら矛盾しません。それくらいのことは貴方でも論理的に理解できますよね?


ハルカは分身などしない @noruhine 7月18日
@black_tatarskiy 都合のいい時だけ、とか言われても、私はどちらかというと腐女子当事者なんですけども…。そこで、百合ヲタという属性そのものを殴り返したら、同じ穴の狢じゃないのかと思ったまでです。


tatarskiy @black_tatarskiy 7月18日
@noruhine まったくもって陳腐な言い逃れですね。件のエントリでの加害者だった自称百合好きも最後は「自分はわりと腐女子でもある」とか言い出して批判をかわそうとしてましたよ。貴方がBLを好きだろうが好きじゃなかろうがそんなことは何の言い訳にもなりません。

構造的にまったく非対称なんですよ。「男女好き」や「百合好き」を名乗る側は、「そうした方が都合のいい」場合に応じて、腐女子やBLを「あんなのとは違う」といって切断することも、「それも好きだ」と言って領有することも自在です。

しかし“腐女子”の側には、男女や百合を「あんなのとは違う」と切断するメリットなどまるでありません。それどころか少しでも差別や不利益を逃れようとして「男女や百合も好きです」と“差別構造”への忠義立てを示さざるをえない場合がほとんどです。

あなたが私に「自分も腐女子だ」とか言い出したのは、今回の「私と貴方との会話」という極めて限定された局地的な場面において、「腐女子という属性を領有した方が有利に振る舞える」という状況が生じたからですよね?でも、世間における大半の場面ではその逆なんですよ?

一番有利なのは言うまでもなく「腐女子だと思われないこと」。そう思われるのは避けられない場合でも、「女のくせに“女”を嫌っているだなんて思われないように」男女や百合も好きですと言わずにはいられない。彼女たちにそう言わせているのは紛れも無い権力からの脅しです。

「自称百合好き・男女好き」には、こうした構造的な「権力からの脅し」など存在しません。それは「“女”の表象を欲望する」こと自体が制度的な男性のヘテロセクシズムのコードによって構造的に正当化されているからであり、早い話が「ヘテロ男様の好みに適うものは偉い」のです。

これは当然「“男”の表象を欲望する」ことへの異常視・蔑視と表裏一体であり、BLや“腐女子”差別はその極めてわかりやすい例です。つまり権力の後ろ盾があるのはあくまで「自称百合好き・男女好き」の側であり、こうした差別構造に相乗りできる立場にあるわけです。

そして本当に人を「殴る」=「差別する」ことができるのは、権力者やその後ろ盾のある“権力の犬”ならではの特権です。つまり貴方ご自身も含めた「自称百合好き」はいくらでも“腐女子”を殴ることが可能ですが、その逆は構造的に不可能です。

これは「女による男差別」が構造的に不可能なのと全く同じです。貴方に良識がおありなら、「FA」なんて高慢ちきな捨て台詞を吐く前に、まずご自分が強者の特権を自覚して「自分は権力の犬ではない」という身の証を立てるべきでしたね。それとも弱い者いじめの方がお好きですか?

まあ、貴方にとっては“腐女子”なんて「それまでの経緯の確認もせずに脊髄反射で当り散らしてもいい」ような“目下の者”だったんでしょうね。ともかく、今後は「不公平な権力関係を考慮もせずに」「感情のままに暴言を吐く」ような見苦しい真似は慎まれますように。では失礼を。


3へ続く http://kaorusz.exblog.jp/21287837/
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by kaoruSZ | 2013-10-17 08:43 | 批評 | Comments(0)

tatarskiyの部屋(22)‐3

※2017年5月追記
下の本文は4年前の記事ですが、私は率直に言って今では“百合”という単語を女性同性愛に冠する事自体に倫理的な問題があると考えているので、前置きとして以下のリンクを追加しておきます。

********************

2から続く http://kaorusz.exblog.jp/20773748/

tatarskiy @black_tatarskiy 7月19日
最後に補足。ここまでの文章をちゃんと読んできた方ならおわかりだろうが、ある“腐女子”の人が「男女や百合も好き」だと表明している場合、問題なのは「彼女が本当に男女や百合を好きなのか」ではなく、「その表明の有無によって彼女に対する周囲の扱いが違う/違うと思われている」ことである。

だから「腐女子にも百合オタはいるのに~」とか、頭の悪い台詞を能天気にのたまっている奴は何もわかっていない。問題は、男同士だけでなく百合や男女も好きな方が“望ましい”と思われていること、そう表明した方が有形無形の軋轢を避けられるというインセンティブ=圧力が存在していることそのもの。

そして「同じ人がどっちも好きなことだってあるのに~」という馬鹿に言っておくが、たとえ「どっちも好き」だと言っていようが、それは必然として「いざとなれば百合を足場にBLを切り捨てる」もしくは「百合をアリバイにBL嗜好を言い訳する」ことが出来るというだけの非対称な“保険”であり、「BLを足場に百合を切り捨てる」「BLをアリバイに百合嗜好を言い訳する」ような“その逆”のパターンはありえないものだ。これは本質として「百合が好きなことはBLが好きなことよりも正しく、望ましい」からであり、ついでに言えば、こうした見えざる規範は「女にだけ」課せられたものである。

「男女や百合も好き」という表明そのものが全て“有罪”だとまでは言うまい。だが、もし彼女が「男女や百合が好きではない」場合にも、「彼女がBLが好きであること」が彼女が有形無形の圧力に晒されていい理由であってはならないだろう。

私個人は「男女や百合も好きだよ」と言うことは決してするまいと思っている。だがそれは私が「男女や百合が好きか好きではないか」とはまったく関係ない。もし私がそう発言すれば、その瞬間に私の発言は構造的な差別からのある種のお墨付きを得てしまうからだ。

この件に限らず、私は自分を「有利にしてくれる」属性を身に纏って発言することは可能な限りしたくない。人が私の発言の価値をどう判断するかは、純粋に「発言そのもの」の内容に拠ってほしい。痩せ我慢かもしれないが、それが私の個人的な流儀である。今回の発言も、そのように読まれて欲しいと思う。


和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月19日
あのハルカなんちゃらって人も含めて百合豚ノマ豚と話しが噛み合わないと思っていたら経緯の確認もせずに「腐女子が攻撃したに決まっている!自分達は何時も被害者!」って悲劇のヒロインぶっていたのか。本当にクズだなこいつら。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月19日
ブロックしてしまったから詳しい内容は見れなかったけどあの百合豚「私も腐女子ですよ!だかこれは無効ね」って言い出したのか散々「百合好きとして攻撃してきた腐女子から百合好きを守る」って態度なのに批判されたら腐女子を持ち出せば済むと思い込んでいたのか。本当にクズ!


(ブログへの掲載に際して誤字脱字を補い、↓を↑に変えてあります)
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by kaoruSZ | 2013-10-17 08:42 | 批評 | Comments(0)
例のしょうもないBBCのドラマについての批判から派生したゴタゴタで嫌気が差したせいで、すっかりツイッターから遠ざかってしまっていた。あちらもいずれ始末をつけねばなるまいが、気分転換も兼ねて書いていた今のところwebでは発表する予定の無い文章が相当な量になったので、その一部を元に書き直したものを以前の「モリアーティはどこから来たか?」の続編としてアップしてもらうことにした。今回も主にモリアーティ教授に関する話題であるが、他にも追加した事柄がいくつかある。

まず「最後の事件」と「恐怖の谷」のベイカー街の部屋での導入部を読み合わせて得られる情報を照合し、前者と後者が矛盾した場合は後者の情報が偽りであることを心に留めて読解すること。そしてその結果として得られる真実であろう主な情報は以下の通りである。

● ワトスンは「最後の事件」で提示される会話以前にモリアーティについてホームズから話を聞いたことはない。当然、マクドナルド警部のような警察の人々にもモリアーティ教授の話をした事実は無い。

● モリアーティが大学時代に書いた著書は「二項定理に関する専門書」であり、「小惑星の力学」ではない。

● モリアーティは名門の生まれであり、立派な教育を受けて数学者としての将来を嘱望されていたが、あるスキャンダラスな噂のために大学を追われる破目になり、ロンドンで軍人相手の個人教師となった。つまり、彼は一度スキャンダルのために社会的信用と輝かしい将来を失った過去がある、脛に傷持つ身なのであり、現在の社会的地位は決して高いとは言い難く、「恐怖の谷」で言われているような「誰にも疑われない非の打ち所の無い名士」ではありえない。

● モリアーティは老年に入ってなお独身者であった。

● モリアーティには弟が一人いる。だがそれは「最後の事件」冒頭で言及されている、兄の死後兄の名誉のために訴訟を起こしたモリアーティ大佐であり、彼は当然ながら「西部のどこかの駅で駅長をして」などいない。

● 「最後の事件」ではホームズの語りとして、深夜のベイカー街の居間でのまるで彼自身のドッペルゲンガーのような(どう読んでも容姿の特徴が重なっている上にこちらがポケットから銃を取り出せば向こうも同じように手帳を取り出す)モリアーティの、文字通りとしか思えない出現と消失という全くリアリティーを欠いた幻想的な場面が挟まれているが、「恐怖の谷」ではホームズはモリアーティを調べまわってはいても本人に直接会ったことは一度も無いと言っている。これについては当然後者の方が事実であり、前者が最初から明らかな嘘として書かれている以上実は矛盾してはいない。

● ホームズはモリアーティの部下の一人に目をつけ、密かにポーロックと名乗る彼と連絡を取るようになっており、おそらくはそれこそがモリアーティの破滅に繋がった。

● ホームズは「モリアーティの弱点はポーロックである」ことを見抜いていた。

● モリアーティは部下たちには「裏切りに対しては死をもって処す」という態度で臨んでいたらしい。ポーロックに対する「疑っているのに問い詰めさえしない」という態度はおそらく極めて異例である。

● ホームズが言うところでは、ポーロックは「気取ったギリシャ風の字体で手紙を書いて寄越し、良心を捨てきれず、おだてにのりやすい」性格であるらしい。これらの特徴は彼がまだ若い男であることを示唆している。

● また、なぜ彼がモリアーティがふいに入ってくるような部屋で、よりによってホームズ宛の密告の手紙などを書いていたのか?実は上の項目に書き出してきた内容こそがこの疑問へのヒントであり、そこから導き出される答えこそが極めて重要なものである。

● ポーロックからの二通目の手紙の差出人の署名が「フレッド・ポーロック」となっていたことの意味。「フレッド」というファーストネームが登場するのはここだけであり、さりげなく署名として紛れ込ませているが実は非常に重要な意味を持っている。ホームズが話している通り、彼自身が名乗ってきた偽名はあくまで「ポーロック」であり、「フレッド」とは、「ポーロックがフレッドであること」を示す作者ワトスンからのヒントなのだ。作者であるワトスンがそれを記しているのは、ホームズがあらかじめそれが「フレッドから来た手紙」であることを知っていたからであり、後にワトスンもまたそれを知ったからである。つまり、ホームズはポーロックが手紙を寄越す前から「彼が何者であるか」を知っていたのである。つまり「ポーロックを見つけ出したければ、この後に続く物語の記述の中に“フレッド”をさがせ」ということだ。(以前「モリアーティはどこから来たか?」で詳述したが、この姓と名前の「半分が本当で半分が嘘」というヒントは、実はモリアーティとモランの名として前例があるやり口だ。)

以上が「最後の事件」と「恐怖の谷」導入部の照合から導き出せる「おそらく事実であろうこと」の一覧であるが、重要な前提を明かすと、「恐怖の谷」のエピソードは作中世界において実際に起こった事件ではなく、ワトスンが「最後の事件」と実際にはそれ以前に起きた「本当のモリアーティ教授に関する複数の事件」の、そのままでは公表できない顛末を変形させた形で描いた、いわば劇中劇のような“小説内小説”である。またこれは実は「バスカヴィル家の犬」も同じなのであるが、こちらはホームズとワトスンの個人的な過去と二人の関係性についての物語としての性質が強く、“種明かし”としては「恐怖の谷」の方がより重要であるといえるが、モリアーティに関しても「バスカヴィル家の犬」で先に明かされている情報があり、また同じシチュエーションの引用によって示唆されているネタもあるため、これも読み合わせる必要がある。答えの一部を明かすと、モリアーティの本当の名前は「バスカヴィル家の犬」に登場するある人物の名前として書きこまれている。

上で「本当のモリアーティ教授に関する複数の事件」と書いたが、「作中世界で実際に発生した、背後にモリアーティ教授がいた事件」は実は合計3つ存在する。これも完全にネタを明かせば、この3つの事件とは年代順に「緋色の研究」「くちびるのねじれた男」そして「最後の事件の前年である1890年に発生し、モリアーティ教授の自殺によって幕を閉じた事件」である。そして「恐怖の谷」とは実はこの3つの事件に「最後の事件」を追加した合成物なのだ。

また、ここまでに全くモラン大佐の名前が出てこないのに気づかれたかもしれないが、実はモラン大佐はモリアーティ教授の部下ではない。それどころか、両者の間に果たして面識があったかすら疑わしいのだが、これも二人の“本当の接点”が何であったかは「空き家の冒険」を読めばちゃんと読者の目の前にはっきり書かれている。

そして上の一覧でも明らかだが、直接登場さえしないにも関わらず、ポーロックは実は非常に重要な人物である。ホームズへのポーロックからの手紙に「これは本名ではないが、といってはたして何ものであるか、ロンドンにうようよしている幾百万の人のなかから、探しだせるものなら探しだしてみろ」と書いてあったというのは、実はドイルからの“読者への挑戦状”であり、「この小説の記述の中からポーロックを探し出してみせろ」という意味である。そして事実、作者の置いたヒントを注意深くたどってみさえすれば、“彼”を探し出すことは可能なのある。

ところで、作中に登場する本当にモリアーティの部下であった人物はポーロック以外にもう一人いる。しかも手紙の差出人としてしかでてこないポーロックと違って、実際に読者の前に姿を現してくれているのだが、それも別々のエピソードに二度も登場しているのだ。つまりレストレードやハドスン夫人のような“お約束”の脇キャラ以外ではマイクロフトの他には例の無い快挙であるのだが、それが誰のことかはぜひご自分で探してみて欲しい。

また「恐怖の谷」の第二部の内容は、実はホームズとモリアーティの組織との間で一体どんな駆け引きや暗闘が行なわれていたのか?という誰もが興味を抱く事柄に対する答えなのである。実はポーロックの「フレッド」だけではないフルネームもこの中にさり気なく書き込まれているので探してみて欲しい。また、彼に相当する人物は男女二人に分割されて登場しているが、この二人は「同じことを言う」のでそれが符牒となっている。ここまでに述べたことを踏まえて注意深く読めばきっと見つけ出せるだろう。

そしてこれも核心となる前提を明かせば、第二部の主人公であり、第一部の被害者と思わせて実は生きていたダグラスの過去の姿として設定されているマクマードとは、実はホームズ自身であり、つまりダグラス=ホームズ=マクマードという等式が成り立つ。これは第一部やエピローグの意味を読み解く上でも非常に重要なので押さえておいて欲しい。ヒントとしては、第一部の密室殺人と入れ替わりトリックは「くちびるのねじれた男」を、第二部のアメリカが舞台のロマンスと冒険、また第一部が殺人事件の推理、第二部がアメリカでの過去の物語という構成は「緋色の研究」を示唆していることを忘れないで読むべきであると言っておこう。

私からのヒントは以上であるが、勘のいい方なら上の文章を読んだだけでも真相の一端には気づかれたことだろう。この一連の謎を解こうとする試みは、その過程自体でドイルの小説家としての比類の無い手腕を存分に堪能できるものであることは保証しておく。ぜひ多くの方に楽しんでいただきたい。
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by kaoruSZ | 2013-04-24 02:29 | 批評 | Comments(0)
tatarskiyの部屋(19) ”Sherlock”に見てとれる「美しい友情」の代償としてのホモフォビアへの反響2】の続篇ですので、先にそちらをお読み下さい。

管理人によるはしがき
“Sherlock”の脚本家の一人(マイクロフト役の俳優でもある)がゲイだとわざわざ教えてくれた人がいる。いや、正確には、シャーロックの感想書いてるあの人それを知らないんだろうかとdisってるのを見かけたのだ。しかしゲイだったらどうだと言うんだ? 度し難い権威主義者め。ゲイであればこそなおさら迎合する/しなければならない場合もあろう。女の書き手がセクシストである例などいくらでもある。出来上がったものが全てだしそこからtatarskiyさんがあれだけ緻密に読んで他人に判るように書いたものに対してよくそんなことが言えるな。 

 しかもそう書いているのが、名前を変えているが以前はbioに「BLの加害性について考えたい」とか書いていたのをtatarskiyさんのツイートに啓蒙されて外した人なのだからこれは恩を仇で返すというものだ。昨日から延々と投じてきたこの連続ツイートはtatarskiyさんを掩護するためのものだからこれは叩いておかなければ。そう思ってもう一度戻ったときにはしかしツイートがごっそり消えていた。相変らず臆病だわ。確かに、他にも鍵アカ相手によからぬことを話していた。見つかりたくなければ私のツイートをRTなんてしなければいいのに。

 ホームズは考える時指先をつき合わせたポーズを好んでする。彼の白い手を繰返し描写するワトスンによってそのことは原作に記しとどめられている。実は他にもtatarskiyさんにweb上で批判された恨みを持つ人が(あの時には同時に救ってももらったはずだが)、彼女に対抗するつもりで(?) ”Sherlock”を持ち上げはじめていると聞いた。なんと、権威主義的でないところが原作よりもいいとほめているそうだが、それが、シャーロックがものを考える時に手を合わせる恰好をするのが権威主義でないと言っているそうだからふるっている。

【反響2】として前回まとめたtatarskiyのツイートに対し相手の「そ @sh_1895」がよこした、客観性を装った失礼で見苦しいリプのRTを下にまとめ、そのあとにそれに対するtatarskiyの発言を掲載した。 
鈴木薫

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RT @sh_1895:@black_tatarskiy tatarskiy女史の呟きはちなみにこちらよりご参考のこと。>RT
[鈴木註:tatarskiyの部屋(19)にまとめられたものを指す。なお、「そ」が参照先を付けたのはこれが最初。] 

2/5より始まり、2/11完了までに合計28のログ。画面で見るには長く判りづらいので、以後引用は最初のログから順に振った番号で行うこととする。確認は各自にお任せしたい。

論の構成は、論の導入(何故自分が今回論じるのかの動機)、BBC某ドラマ内にあるホモフォビックとミソジニーについての関係の再指摘、(途中脇道としてホームズのキャラクターについての一考)、ホモを取り扱った作品についての考察と紹介、最後にそに対する私信。以上のパーツに分かれる。

(1)~(4)呟き:論の冒頭部分だが、まず認識が間違っているため実は意味がなかった。 ・まず、彼女が主張するところの「中傷」が行われていないこと。自説に対する異論を中傷と取るのは間違い。

・他者の呟きに対してリプライ、RTをするかどうかの判断基準はあくまでそ側にあると。 ・物事を論ずるのに「同じ手順を踏んだ上で」と、物事の見方と方法を画一化しようとしていること。←研究者としては致命的。

・そもそもそは自分の雑感を呟いたに過ぎず、tatarskiy女史と論ずる気持ちがまるでないこと。論も否定していない。自説に対する異論を否定と取るのは間違い。

(5)~(10)呟き:ホモフォビックを出せば何故観客が安心するかの説明がない。(現にtatarskiy女史は安心できていない)。

またこの論に沿うと、シリーズ内におけるモリー(男に色目を使う愚かな女の代表例)の成長が説明できない。

(11)~(15)呟き:「また注意深く読めば彼が同性愛者として設定されていることもわかるように書かれています」←論の一角をなす考察であるが、結論はあっても説明がない。

どの話のどの章を読んでそう読み取れるのか、論ずる側として補足が必要。キャラクター考察については人それぞれの感想があるため、そ側からの意見は割愛。

(16)~(18)呟き:BBCドラマシリーズ中、SHには特定の彼女はいないが、Jにはいるという点についての検証と説明があれば可。

(19)~(25)呟き:明確な認識の違い有り。そはtatarskiy女史が世の中に多数ある作品の中から特に、「これは(エロティックな男性同士の絆を扱ってはいるが)ホモフォビックではない」と判断した資料に興味を持ったに過ぎない。

作品そのものを未読と断じるのは間違い。

(26)~(28)呟き:同感です。そのまま貴方へ。

以上を通しての雑感まとめ:tatarskiy女史は結局のところ、論じたかったのか、そを非難したかったのか、恨みつらみを言いたかったのかが全て曖昧。もしも論じるつもりであるのならば、徹頭徹尾そこに集中するべきだった。残念。

以下私信:何かを論じる際には、まず個人的感情を出来る限り混ぜないようにしましょう。文章を読み通していくと、必要ない文が多々挟まっています。「(笑)」などは論外、減点対象です。折角正論を述べようとしてもそれだけで門前払いです。

他人の同意を得たいのならば、得られるに値する文を書きましょう。


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↑RT @kaoruSZ kaorusz.exblog.jp【「平野智子の部屋(19)”Sherlock”に見てとれる『美しい友情』の代償としてのホモフォビア」への反響2】完結しました

@black_tatarskiy↑私のツイートの全文はこちらの友人のブログで読める。「そ」氏からの返信も先にRTしておいたが、最初のエアリプとまるで態度が変わっていないのは一目でわかる。どこまでもご自分の体面にしか興味が無いようだ。不毛なのでリプライにするつもりはないが、理解力の欠如については指摘しておきたい。

そもそも彼のエアリプの内容はまったく私の文章の趣旨を理解しないまま、とうてい批評とは言えないレベルのそれこそ“主観的”なキャラや筋書きへの思い入れを格好をつけて呟くための踏み台にしていただけである。あれを“異論”などとは笑わせてくれる。私は主人公たちの関係性に対する「ホモなんかとは違う」という強迫的な差別化の描写からはっきり見てとれるホモフォビアと、それとセットの女性蔑視という構造そのものを指摘していたのにも関わらず、「ジョンがシャーロックに恋愛感情を抱いていたとしても彼は幼稚だから理解できないと思う云々」などという、私が書いた文章とは何の関係も無いどころか、あのドラマを見た感想としても無理のある「頼まれもしないキャラ語り」を並べ立てていただけだ。

そして私は彼へのリプライの中で、あのドラマのそれに限らずホモフォビアとミソジニーの描写は「ノーマルな男性視聴者」のためであること、それは“ホモ”と名指されることは激しく拒みながらも、“男同士の絆”の物語そのものは男性にとって普遍的に希求されるファンタジーであるからであり、あのドラマのホモフォビアとミソジニーの描写も彼らがそれを“安心”して享受するための安全弁であるという「構造そのもの」を重ねて説明している。

ここまで書いたように、私はそうした“安心”が必要とされる構造と、必要としている主体が“ホモフォビックな男性”であることをはっきりと指し示している。女性である私とは何の関係も無い。こんなことは普通は誤読しようがないと思うが。なにが「現にtatarskiy女史は安心できていない」だ。

「モリーの成長が云々」に至ってはなにをかいわんやだ。私は「主人公たちの親密さを示すために、彼らの出会いの場面でその片方に気があるとされる女性を冷淡にあしらわせ踏み台にしている」という極めて具体的かつ重要な場面での“機能”を例示したのであり、そこで道具にされた女性キャラにどんな後日談がつけられていようとまったく無関係な話でしかない。「キャラ」と「おはなし」しか理解できないような幼稚な読解力の持ち主以外には説明するまでも無いことなのだが。

そして私が原作のホームズについて言及した内容もその意味もまるでわかっていない。そもそも私が原作におけるホームズが注意深く読めば同性愛者として設定されていることについて述べたことはあくまで“おまけ”であり、まったく私の「論の一角をなして」などいない。

幼稚な俗物には「ホモかホモじゃないか」という低次元な問題としか理解できないのだろうが、そもそも私の文章の趣旨そのものが「ホモかどうか」などという話では全くなく「絶対にホモなんかじゃない」という線引きそのものの差別性を問題にしたものであること自体を理解できないがゆえの必然であろう。

だからこそ私はグラナダ版のそれを例に挙げ「同性愛者とはされていなかったがまったくホモフォビックではないホームズ像」であり、従ってBBC版のような問題は一切なかったと論じている。また私が原作のホームズについて述べたことは「人それぞれによって違うキャラ語り」などではまったくない。

この場でもう少し親切に補足するなら、原作におけるホームズの推理力と変装の達人としての演技力という、誰にでも読める表層にはっきり記されている彼の特性とは、その同じ表層でワトスンや彼自身によって言及されているように「想像力」の賜物であり、それは彼が「芸術家」であることを示すものだ。

彼が実に頻繁かつ巧みに他者の境遇やそれに基づいた感情を読み取り、また他者が望む役割を演じてみせることができるのも、人並みはずれた想像力と、その源となる感受性に恵まれていればこそである。そしてこれは芸術家にとっての芸術的資質そのものでもあり、事実彼はそう呼ばれそう自称しているのだ。

「白い手」と「甲高い声」を持つ彼はまったくもって明示的に、人の目を瞠らせる魔術師であり、他者になりきる驚くべき演技力を持つ俳優であり、自身うっとりと陶酔しながら歌うようにヴァイオリンを奏でる演奏家であり、そしてその全てが示唆しているように“成人男子の規範”から逸脱した存在である。

誰かさんのように「男の体面」に固執し凝り固まった自我を生きる者に、「他者のありようを想像し、他者になりきる」能力などあろうはずもない。もうおわかりだろう。ホームズの特異な能力とは「制度が定めた男としての規範を生きる者」にはありえないもの──彼の“女性性”にこそ由来しているのだ。

そして「芸術」とそれと結び付けられた「女性性」とは、特に原作と完全に同時代である19世紀末の文学作品(ワイルドやスティーブンソンがその代表例だが)において同性愛を象徴するモチーフとして描かれていたものであり、実はドイルはそうした先行作品からのあからさまな引用を随所で行なっている。

もっと言えば、同性愛と芸術の結びつきの扱いにおいても、ドイルが最初に、そして最大の影響を受けたのは、表面的なジャンルとしての「犯罪小説」や「探偵小説」としてのそれと同様、かのE.A.ポーからのものであろうが、それらについてはひとまず置くとしよう。

だがはっきり言っておくべきなのは、「ホームズが同性愛者として設定されている」ことの傍証となる細部は、それだけが独立したものではなく、他の幾つものテーマと結びついた広がりを持ちながらテクストそのものの至るところに鏤められているのであり、実はそれこそが単純な筋書きを超えた原作の魅力の源泉であるとすら言えるものだ。

逆に「ホームズが絶対に同性愛者であるはずがない」という意見は、それこそ始めから「それ以外の答えを許さない」強圧的な決めつけであり、テクストに対する検閲であり、細部に対する読解の禁止であるにすぎない。

あらためてBBC版の話題に戻ろう。ここまで解説してみせたように、原作におけるホームズの推理力と演技力という特異な才能が、彼の成人男性としての規範からはずれた“女性性”に由来するものである以上、今回のBBC版のようにそうした“女性性”を持たない人物として設定するのであれば、当然彼の能力の性質やその由来にも「原作とは別の理由づけ」が必要だったのだ。念のために言っておくが、これは「ホームズを必ず同性愛者として描かなければならない」ということでは全くない。

何度も言っているが、グラナダ版の場合ホームズは他者と性的な関係を持とうとはしない人物として設定されていたが、物事に対する子供のように無邪気な熱心さと女性的な繊細さを併せ持ち、他者に対して無神経な振る舞いに及ぶことなど決してないキャラクターであり、つまり同性愛者とはされていなくとも、彼の能力は原作におけるそれと同様、成人男性にありうべからざる“女性性”に由来するものとして描かれていたと言える。余談ながらこうした意味でもジェレミー・ブレットのホームズは単なる容姿の類似以上に原作における彼の本質をよく捉えていたと言えるだろう。

だが、あのBBC版におけるホームズの描き方からはこうした“女性性”が全く欠落しており、他者に対して無神経である上にどう考えても不必要にホモフォビックな「単なる頭のいい変人」でしかない。それでいて他者の心情を読み解く能力や変装の達人であるとかヴァイオリンの演奏を好むといった、原作写しの特性だけはおそらく何も考えずに持ってきているのだから、実のところは全く筋が通らない人物造形になっている。繰り返すが、原作におけるそれらは彼の“女性性”と結びついていたからこそ意味のある細部であったのであり、「断じてホモではないし女っぽくもない」ことにしたいらしい人物にそんな特性を付与しても、それは単に彼に「ホームズ」という名前が与えられていることとセットの空疎な記号にすぎないのだ。

もし本当に「原作とは違う、女性的ではないホームズ」を描きたいと思ったのであれば、女性性ではない彼の能力の由来の明確な設定と、ヴァイオリンなどではなくそれを示すはっきりした独自の特性を持たせるべきだったろう。もっとも、ホモフォビアだけはどうあっても言い訳できないが。

しかしながらあのドラマの製作者たちは、大して原作を読み込むこともせずにホームズの能力や特徴の表面的な部分だけを真似しつつ、「人付き合いの悪い変人」という程度の通俗なイメージをなぞるだけで事足れりとし、設定を現代に置き換えたという目新しさを売りにしつつも本質的な独自の工夫も無く、結局のところ彼らがもっぱら腐心してみせたのは、「どうすれば絶対にホモには見えないか」というくだらないにも程がある差別的なこだわりに過ぎなかったのだから、その安直さには溜め息しか出ない。

つまるところホームズとワトスンの関係性の描写も、「人付き合いの悪い無神経な変人が、ワトスンとの友情によって多少は人間らしくなる。絶対にホモではないが、お互いの存在は女との関係より優先される」という程度の、最初から落としどころの見え透いた、極めて陳腐なものにしかなりようがないのだ

前にも書いたが、ホームズの側にも女をあてがっておくという手が使えたなら、彼にあんなにもホモフォビックな態度を取らせる必要はなかったであろう。だがそうすれば、彼にはホームズと名乗る必然性も、ホームズと呼ばれるだけの説得力も持たないことがあまりにも明らかになってしまっただろう。

ホモフォビアが必然的にミソジニーに由来するものである以上、「ホームズは絶対にホモなんかじゃない。ホームズとワトスンの関係がホモなんかであるはずがない」という強迫的なバイアスは、実はそのまま原作で描かれているホームズの“女性性”を決して見まいとすることでしかありえないのであり、つまり同性愛以前に、男の持つ“女性性”そのものが未だにアクチュアルなタブーなのだ。そして原作におけるホームズのキャラクターは、未だにこのアクチュアルなタブーに触れるものなのであり、皮肉ではあるがそうした意味でもまったく古びていないと言える。

そしてあのBBC版でのホームズの描き方は、彼とワトスンとの関係性に対するそれと同様、通俗なホモフォビアとミソジニーによる検閲の結果であるに過ぎず、「こうした描き方しか許さない」という抑圧の反映として以上の価値や意味は、およそ見出しがたいものであるとしか言えない。

あとは本アカの文章の続きに譲ろう。もっとも、そちらもある種の二度手間込みで書かねばならないことを考えると気が遠くなるのだが。純粋に好きなことをするつもりで原作について書き出した当初は、また人の恨みを買うのを承知で文章を書かねばならない日が来るとは思っていなかった。

ちなみに「そ」氏の馬鹿さ加減には事細かにつきあう気は最初からなかったのだが、私がはっきりと書いていることを明らかに自分のプライドのために無視していたのには正直苦笑した。特に、格好をつけたつもりでいるらしい結び。なにが「他人の同意を得たいのなら、それに値する文を書きましょう」だ。

私ははっきり「お前と積極的に話すつもりなどなかったが、一度は示しをつけておかねば済まないから」話しかけたのだと書いたのだが。つまり私はあらかじめ「お前の同意を得たいなどとは微塵も思っていない」と通告していたのだ。読解力の欠如を憐れむべきだろうか。

もっとも、こちらを「女史」呼ばわりしつつ、いかにもこちらが「感情的なだけの女」であるかのように見せかけ、自分は「冷静で分析的な男」ぶってみせていること自体で、それこそ「差別的な男」としての馬脚を現しているが。

元々私の文章について(最初から読解力の欠如丸出しであったが)言及した動機そのものが、自分がいかにも知的で公平に見えるように振る舞うための踏み台として使うために過ぎなかったのであろうが。その踏み台が直接口を利いて自分に文句を言ってくるとはまるで思っていなかったのだろう。

他にも今回私の書いたことについて差別的で理不尽な物言いをしてくる男女はウンザリするほどいて引きも切らない。私がゲイ男性や肩書きのあるクィア研究者であれば、これほど大勢から無礼な物言いを投げつけられることは決してなかったであろうが、私は誰かが言わねばならないことを言ったまでである。

自分の言ったことについては一切間違っているとは思わないし、後悔もしていないが、本来なら私以外に、私より先に言うべきであった人がいたはずだという思いもまた確かである。もっとも、こんな後書きめいた感慨に耽る余裕はまだ無いのだが。ともかく今日はこれまで。今度は本アカの方でお目にかかろう。

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by kaoruSZ | 2013-02-26 19:36 | 批評 | Comments(0)
続篇掲載しました(2月26日)。http://kaorusz.exblog.jp/20073529/
★もう2ツイート分脱けていました。●を付してあります。2月14日訂正
★最後の段落を落していました。2月12日訂正(kaoruSZ)

RT @sh_1895 twitter上でとあるSHERLOCK論を読んだんだけど、なんか論点がずれている気になって今ひとつふに落ちなかった。なんつーか、口唇期の子供をセクハラだ!と非難しているような違和感。

自分が嫌だったからこれは間違っている!というスタンスに感じられたんだよな。いや自分の論理と感情を黄金律のように設定するってどうよ、というような。うーん、あるいはそういう問題に対するこちらの理解不足という面があるからかもしれないが。

twitter上で見かけた「Sherlock」論がまだ続いていたので、ついつい読みふけっていた。…うーん。三度ほど読み返してみたけどやはり腑に落ちない。

長文を要約すると、あの二人の関係を表すのにホモフォビアとミソジニーがセットになって常に用意されている(それはとても愚かなことであり許せないことである)、という話になるのだけども、その根拠というか、着目の仕方が多分自分とは違うんだろうなあ。だから多分、飲み込めないんだろう。

あのドラマがホモソーシャルを主点というか、二人の関係を表すのに重要な要素として扱ったかどうか。あの二人がずばりゲイであるかどうか。互いに対してセクシャリティな感情を持つことがストーリー的に外せなかったかどうか。そこを問題にしなければならないかどうか。自分は問題にしなかった側だ。

どちらかというと、あのドラマの主点は主人公であるシャーロックの人間的な成長(という言い方すら自分の友人は嫌うが)を扱っていて、S1の1話から3話まではだから彼の対人間関係の未熟さ加減を目立たせている。彼は女性にのみ対して厳しいのではない。彼自身に対する周囲の無理解に対して厳しい。

仮にジョンがシャーロックに対してセクシャルな要素も含めた好意を持っていたとしても、彼は理解できなかったのではないかと思える。そのくらいS1の彼は好意という感情が未分化だ。例えるならば子どもが自分の周囲にある人間を「好き」と「嫌い」の二択で判断しているに過ぎない。

そんな人間の行動がホモフォビアとミソジニーで成り立っている、と言われても正直自分はピンとこなかった。うーん、彼はそこまでまだ成長していないんじゃないかなと。

しかしこの方の言うところの、「「シャーロック」のような下品なホモフォビアをまったく用いずにエロティックな「男同士の絆」を描ききった名作がいくらでも作られています。」という名作の名前が後学のためにも知りたいなあ。どこがどう違うのか興味がある。


RT @kaoruSZ そういう名作枚挙に暇がないんだけど。The Celluloid Closetでも読んだら(棒)。男の友情物語は男が男のために作って同性愛の含意ゆえに長年「男を」魅了し続けてきたものなんだが。
この人、彼女の文章三度読んだそうだが()なぜリンクしないんだろう。読者がすぐに比較して判断できるのにね。だからしない? tatarskiyさんは主役二人の関係が同性愛かどうかなんて話してないだろう。「性的な可能性を前もって強迫的に排除する事」をホモフォビックだと言っているんだ。


@black_tatarskiy: @sh_1895 エアリプでの中傷おつかれさまです。わざわざ「三度ほど」も読み返していただいたらしい文章を書いた本人ですが、はっきり言って悪意すら感じるほどに「読めていただけたいない」ので、まずはこの場でもう一度読み返して下さいね。http://twilog.org/tatarskiy1/date-130131

私に対して直接リプライしないどころか、私の文章を直接RTすることもなかったのは貴方のフォロワーの方に私の文章を直接参照されては困るからでしょう?貴方の言っていることがまるきり的外れな中傷なのがわかってしまいますものね。

友人が先に書いてくれたのをRTしましたが、私は貴方が中傷なさったのとは違い、あのドラマの映像そのものに現われていた構造的な差別そのものを、全て具体的な該当箇所を例示して解説しています。印象批評や思い込みではまったくありません。

貴方が私の論を否定なさりたいなら、同じ手順を踏んだ上で、誰の目にも私以上の正確さを示さなければ無意味です。ご自分の主観的なキャラ語り(笑)以外に根拠のないあやふやな印象論を、フェアな手続きに従って作品を論じていた私を踏み台にして語っているのは貴方の方です。

●そしてこんな常識的なことを、いい大人であろう方に言って聞かせねばならないこと自体情けないのですが、そもそもフィクションの中の出来事に「たまたま」や「偶然」はありえません。

●映像であれ文章であれ、その表層に描かれた全ては観客の目に映ることを前提に“演出”されたものであり、全て「観客のために必要な情報だから」提示されるものに過ぎません。あのドラマの中でのホームズやワトスンのホモフォビックな身振りも結局は観客を“安心”させるためです。

私ははっきりとあのドラマの構成を指し示し、あの二人の親密さが描かれる場面の前には、必ず明示的ゲイ男性と彼らを差別化する要素が組み入れられていること、また、性的関係の要素を女とのそれに限定した上で、「男に色目を使う愚かな女」を侮蔑し、彼らの関係を「そんな女との関係よりも重要」なものとして演出していると論じてみせたはずです。これはそれこそ“要約”して差し上げれば、「女との性的な関係より男同士の関係の方が重要。ただし絶対に同性愛ではない」ということであるのは明白でしょう。

言葉の意味を知らないでいらっしゃるようですから教えてあげますが、「ホモソーシャル」とはこのように「性的存在としての女性の蔑視」及び「男同士の親密さを明示的同性愛と強迫的に差別化する」ことによって成り立つもののことです。

その二者関係が性的なものであるかどうかではなく、「非性的な関係でなければ絶対に肯定できない」というジャッジを下している規範それ自体の本質的な差別性の問題です。これは私の書いた文章を読んだだけではっきりわかることで、誤読しようが無いと思いますが。

そしてあのホームズの描き方も、原作においてはっきりと女性に恋愛感情を持たない人物であることを強調されており、それが彼のアイデンティティにとってあまりにも重要である以上はヘテロセクシャルに描きようがなく、かといって「絶対にホモにはできない」ために過ぎません。

ついでに言えば原作のホームズは女性に対して無礼な口をきいたことは一度も無く、本質的には“女嫌い”ではまったくありません。また注意深く読めば彼が同性愛者として設定されていることもわかるように書かれています。あのドラマの製作者は絶対に読み取りたくないのでしょうが。

またこれは表アカの文章の続きとして詳述する予定ですが、ホームズの推理力というのは彼の常人とは異なるセクシュアルな感受性と切り離せず、それは彼を人並み以上に「他人の感情に敏感な」人間にさせているものです。情緒的に幼稚な人間にあんな能力はありません。

グラナダ版でジェレミー・ブレットが演じていたホームズも狭義の同性愛者ではなく他者と性的な関係を持とうとはしない人物として設定されていましたが、原作と同様他者の視線や感情へのセンシティヴな感性を持っていることが窺えるように描かれていました。

もちろんBBC版のようなホモフォビックな要素など一切ありません。つまり、ホームズは「子供のように無邪気」な面を持つ人ではあっても決して「子供のように無神経」ではありえないわけです。そんな鈍感な人物には推理力も演技力も備わっているわけがないからです。

ホモフォビアの話に戻りますが、大体あの「ゲイ男性に鏡を覗き込ませた後わざと至近距離からフラッシュを浴びせて歪んだ顔を大写しにする」一連の場面なんか、鉄パイプで殴って顔を歪ませるのと意図するところは大差無く、ほとんどヘイトクライムと言ってもいいくらいのものです。

これも彼らに「ホームズとワトスン」という名前がつけられてさえいなければ、ここまでひどい描写をする必要はなかったでしょう。彼らの名前は「男同士の友情」のアイコンとしてあまりにも有名なものであり、それは男性にとっては彼らの関係に惹かれていれば惹かれているほどに「絶対にホモであってほしくない」ということを意味します。加えてホームズの側にアリバイとしての女をあてがうという手を使えないことが、ますます直接的なホモフォビアの描写を助長したことも間違いありません。

そしてここまで懇切丁寧に解説したからには、おわかりいただかねばその甲斐も無いというものですが、「男同士の絆の物語」とは、男性にとっては“ホモ”と名指されることを恐れながらも同時に強く希求される普遍的なファンタジーであり、それ自体がある種の神話的な原型であるとさえ言えるものです。それこそ古今東西の本当の神話や英雄譚(イーリアスでも平家物語でもいいですが)から現代の映画作品に至るまで連綿と続くあまりに普遍的なものであり、当然枚挙に暇もありません。知らない方がおかしいようなものです

映画なら戦争物や冒険物や西部劇といったジャンルにおいて繰り返し描かれています。興味がお有りならぜひご自分でお探しになって下さい。また、明示的ゲイ男性を主人公たちとの差別化の為に踏み台にするようなホモフォビックな描写の登場自体が実は極めて新しいものです。

それ以前の“アリバイ”的な描写としては単に女性の恋人役を配置しておくだけで事足りていたのです。つまり「女にはわからない男同士の絆」という符牒だけで、ゲイもヘテロも関係なく男性の観客からの共感を当てにできたわけで、完全に「男のための」ものだったのです。

そしてエロティックな含意なくして魅力的なモチーフでありえるはずもなく、当然その魅力の源泉は男同士の関係性そのものに内包されたエロティシズムです。つまり“ホモ”と名指すこと/名指されることはタブーでありながら、“それ”なくしては成り立たないという本質的なアンビヴァレンスを内包しているものです。ちなみに「下品なホモフォビアを全く用いずにエロティックな男同士の絆を描ききった名作」を一つだけ挙げてさしあげれば、原作の『シャーロック・ホームズ』シリーズこそがその中でも最高の傑作の一つだと言っておきましょう。

ドイルが書いた同性愛モチーフの作品は他にもたくさんありますが、ホモフォビックな描写は一切ありません。またドラマと同じく最近の映像化作品であってもガイ・リッチーによる映画版は原作のエッセンスをよく汲み取ったもので、当然まったくホモフォビックではありませんでした

エアリプで私を見下して言いたい放題の小馬鹿にしきった態度を取ってくれた方と、積極的にお話したいとは思いませんでしたが、他にもウンザリするほどいるであろう貴方のような方への反論として、一度は示しをつけておかねば済まないことでした。

私は好き好んであのドラマを批判したわけではありません。何の権威も無い一個人であり女でありながら覚悟も無く軽はずみな発言が出来るほど馬鹿ではありません。私は貴方のような「いいご身分の方」とは違うのです。私の文章の趣旨をまともに受け取る気なんか端からお有りにならない方に、いい加減な口を出されてはたまりません。

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by kaoruSZ | 2013-02-14 23:13 | 批評 | Comments(0)
RT @tanadanada BBCシャーロックのホモフォビアについては恥ずかしながら言及されるまで考えてもみなかったけどゲイティス氏だったかモファット氏だったかが前に「これシャーロックとジョンのラブストーリーだから」みたいなこと仰ってた記憶があるので制作サイドとしてはシャーロックとジョンのホモソーシャルを主張するというよりもホモソーシャルとホモセクシャルの間というかそのどちらにも属さない関係を提供するためのアレかと思ってたよ

でも「この二人仲良しすぎだろ」→「ホモなの?」→「ホモじゃないってさ」→「ホモじゃないにしてもただの友達ではないよね」っていう流れ作るための展開なのかと

友達だけどただの友達じゃないよっていう

そこにホモフォビック的な意思は感じなかった 私が(今のところ)ヘテロセクシャルだからそういうのに疎いだけかもだけど


@tatarskiy1:@tanadanada @tatarskiy1ですが、あちらでは長文の連投中につき裏アカにて失礼します。上にRTさせていただいたツイートは私の文章に対するエアリプでしょうが、まったく内容を理解されていないようですね。その無理解ぶり自体がはっきり言って有害だと判断せざるをえません。

まず、明示的にセクシュアルではない親密な男同士の関係性を描くだけなら、ホモフォビアなんかまったく必要ありません。それが必要なのは「性的な関係」そのものを蔑視し、それを女とのものに限定することを当然とするミソジニーに由来するものであり、つまりホモフォビアが現われる時は必然的にミソジニーとセットです。そしてあの「シャーロック」というドラマは典型的にその図式をなぞっており、「男に色目を使う女」への蔑視と「女みたいで気持ち悪い」明示的ゲイ男性への差別を露呈していました。

どちらもあのホームズとワトスンの魅力的な関係が描かれた原作にはまったく存在しないものです。つまりあのドラマは19世紀の水準からも呆れるほど退歩しているとしか言いようの無いものです。

そして表現とは常に「描かれたものが全て」であり、事後的な言い訳など一切通用しないものです。映像作品なら「映像として表面にあらわれたもの」が全てです。そしてあのドラマはその映像の中で恥ずかしげもないホモフォビアとミソジニーを露呈し、男性同士で性的関係を持っているとされる登場人物は否定的にしか描写されません。そりゃあ本編中であれだけホモフォビックな予防線をたっぷり張っておけば後からいくらでも安心して“ラブストーリー”とでも何とでも言えるでしょうよ。「そこまでしないと男同士の愛を肯定できない」のがホモソーシャリティというものです。

そして「ブロマンス」とかいう区分自体、ゲイ男性を露骨に差別できなくなったのと平行して「友情」という言い方ではセクシュアルなニュアンスを否定しきれなくなったために過ぎず、そんな造語ができる遥か以前から「シャーロック」のような下品なホモフォビアをまったく用いずにエロティックな「男同士の絆」を描ききった名作がいくらでも作られています。

はっきり言えば、あれだけ念入りに「エロティックな可能性」を潰す描写をしてからおもむろに「友情」を描写するという手順を厳守した作りもなかなか無いくらいですよ?>詳細は本アカに書いた通りなので繰り返しませんが、あれは製作陣が男だろうが女だろうがヘテロであろうがなかろうが、言い訳の出来ないレベルだとしか言いようがありません。

私が腹を立てているのは別にゲイ男性のためではなく、ホモフォビアの元凶が常にミソジニーである以上、それは「私に対する差別」だからです。貴方がそれを「理解できない/したくない」とおもわれるならそれは勝手ですが、それを「人それぞれの解釈の違い」だとか言い訳しないで下さいね。

私が書いたのは適当な印象批評などではない厳密な読解であり、それを否定なさりたいのであれば、同じだけの精度が必要であることをご理解くださいますよう。それでは失礼します。



頭に血が昇ったままでなかなか眠れそうも無いので、ついでに追記。私の批評を読んで理解した上でそれでも『シャーロック』のドラマ自体は好きだというなら別にそれ自体を責めようとは思っていない。

この件については去年大河ドラマに絡んだ私信で述べたことがそのまま当てはまるので、URLを貼っておくhttp://kaorusz.exblog.jp/18901463/ホモフォビアは残念だけど、ドラマ自体は好きだし面白い」というなら、それはそれで構わない。

単に、それと正確な読解に基づいた認識は別であるというだけだ。「ホモフォビックな作品を好きなのは悪いことだ。だからホモフォビアと言われても否定しなければ」などど思う必要は無い。「面白いけど、ホモフォビアが無ければもっといいのに」と思っていれば済むことだ。

それはダブルスタンダードなどでは決して無い。真に責められるべきダブルスタンダードを露呈しているのはあくまでホモフォビックな製作者の側であり、作品に“萌える”女性視聴者ではありえないのだから。

RT @kaoruSZ tatarskiyさんよくきっちり書いてやったねえ。なんだこのどうしようもなさは。 https://twitter.com/mumeei/status/298002052704002050?p=v



RT @tanadanada:@black_tatarskiy リプライありがとうございます。まず初めに私の一連のツイートがあなた様のツイートへの批判と呼べるほど大それたものではなく、当該作品のいちファンとしての所感に過ぎないことをご理解ください。

と言いましてもあなた様のツイートを拝読の後の所感ですので、エアリプ・批判と受け取られても仕方がないことは承知しています。

当該作品の読解につきましては反論の言葉もございません。申し上げましたとおり私はこの作品のファンですし、さらにブロマンス、ホモセクシャル、という話題におきましても、(不快になられましたら申し訳ないですが)腐女子ですので偏った見方しかできません。

ジェンダーについても、数回講義やシンポジウムに参加した程度で大した知識はございません。何を語るにしてもただの素人です。

あなた様のお考えに対する悪意はまったくございません。無理矢理に論を進めているとも、突拍子のないことが書かれているとも感じません。ただ私は、このドラマを見てあなた様のような感想を持ったことがない。あなた様のツイートを読んだ後でも。

勝手な言い分ではございますが私のツイートはいち感想として流していただければと思います。思慮の浅いツイートであったことは自分でも承知しています。リプライありがとうございました。


@black_tatarskiy:@tanadanada お返事どうも、とだけ言って済ませられればよかったとこちらも心から思いますが、他のことは置くとしても「腐女子ですので偏った見方しかできません」とはいったい何のつもりですか?本気で意味がわかりません。

先に言っておくと、私は別にジェンダーやセクシュアリティの研究者ではありませんし、そんな単語を冠したシンポジウムに行ったことだって一度もありません。世間様から所謂「セクシャルマイノリティ」としてカテゴライズしていただけるような立場にもありません。
私は、単に男性同性愛の描かれた文学作品や映画の愛好者であり、女性であるに過ぎません。つまり貴方とは違う特権的な立場を保証された存在ではまったくありません。

しかしながら、自分が「偏った見方しかできない腐女子」であるなどという卑屈な自意識を抱いたことは一度もありません。表現とは表現されたものが全てであり、作り手の側であれ受け手の側であれ、その人が男だろうと女だろうとセクシュアリティが何だろうと、「その人が何を描くか、何を快楽として享受するか」には一切関係ありません。「関係がある」と思うのは善意であれ悪意であれ単に差別意識の表れです。

そして作り手としての表現の達成や受け手としての批評の精度としてその人がどれ程のことを成し得たかは、純粋にその個人の能力に依存します。性別やセクシュアリティの部分に人種や民族を代入すればそんなのは当たり前のことに過ぎないことくらいお分かりになりますよね?

それを謙虚ぶったつもりで「腐女子ですので偏った見方しかできません」などとおっしゃるのは、「女は馬鹿なので難しいことはわかりません」というのと同じことですよ?

貴方はその一言で「社会的に貴方と同じカテゴライズを強いられざるをえない」他の全ての女性に対する侮辱に加担したのです。もちろん私も否応無くその一人に入ります。私は貴方のような卑屈な男尊女卑を内面化してなどいないので非常に不愉快です。

今回の貴方の態度ににじみ出ているような、「女には男性同性愛の表現なぞ本当に理解できるわけがなく、それを男性に遠慮せずに享受する権利も無い」という女性に対する蔑視とその内面化は女性に対する差別そのものであり、言い訳の余地など無いことを肝に銘じておいて下さい

貴方がこうした恥ずべき言動をさらしてしまったのも、日頃から「男性様」や「権威ある作家様」、「れっきとしたマイノリティ様」には気を使っていらしても、「自分と同じただの腐女子」のことは馬鹿にしきっていて何も考えていなかったからでしょう。

私には貴方のそうした差別的なヒエラルキー意識や言動を修正する権限も手段もありませんが、できればなぜ私からこうして苦言を呈されたかについてはよくお考えになって、「女性に対する発言」についてももう少し慎重になっていただきたいと望みます。それでは失礼を。

@tanadanada:@black_tatarskiy「腐女子」という私の安易なカテゴライズが不適切でしたね。ごめんなさい。あなた様の男性同士の恋愛に対する楽しみ方は存じ上げませんが、二次創作的な男性同士の恋愛を楽しむ身としましては、常に原作者の意図を意識的に歪ませている、穿った見方をしているという意識がありまして。

その他女性差別・蔑視・卑下意識などにつきましては、後付けになってしまいますがそんなつもりはないとしか言いようがありません。ですがあなた様のような受け取り方をなさる方がいらっしゃるという事実は受け止めたいと思います。失礼します。


@black_tatarskiy:@tanadanada 本当に頼みもしないのに余計なことを次々言って下さいますね。「二次創作的な男性同士の恋愛」を楽しむことが「原作者の意図を歪ませている」とはどういう意味でしょう? そもそも全ての創作は二次的なものですし、ある原作をドラマ化や映画化すること自体が二次創作と言え、それは、「元あったものに違うものを付け足して、新たな意味を持たせる」という営為です。これは所謂ファンフィクションであれ“公式な”ドラマ化や映画化であれ本質的な違いはまるでありません。違うと思うのは単なる権威主義です。

そして「元あった素材に付け足す素材」が男性同性愛である場合に限って「歪めている」だのという話になるのは単なるホモフォビアの内面化でしょう。

それに加えて「元あった原作自体」が本質的にホモエロティックなものであり、単に時代の制約によって明示できなかったに過ぎない場合が往々にしてあり、あのドラマの原作であるドイルの『シャーロック・ホームズ』シリーズはまさしくその典型的な例です。

「非難すべき不当な二次創作」というものがあるとすれば、あのBBCの「シャーロック」こそ原作には微塵も無かったホモフォビアを付け足してドヤ顔をしている「原作を歪めて貶めた恥ずべき二次創作」です。ファンの女性たちの、主人公たちのホモフォビア抜きの親密さを描いたファンフィクションの方が、よっぽど「原作に忠実」でしょう。

そして私個人の話をするなら、当然のこととして自分の美意識や好みを持ってはいても、私は常に単なる「読者、視聴者」であり、そうした私の目に映る全てのものの中に、ホモエロティシズムも画面構成の造形美もシナリオの秀逸さや稚拙さもホモフォビアもミソジニーも等しく含まれており、私は自分が読み取った全ての情報を分析し、それを最終的に自分にとっての「快/不快/倫理的な嫌悪感」として分類しているに過ぎません。

つまり私は「腐女子だから妄想している」などという卑屈なものの見方をしたことなど一度も無く、私がはっきりと論拠を示して言及できるほどにホモエロティシズムを読み取れるのは、それと同時にホモフォビアやミソジニーやそれ以外の多くのものをも余すところ無く読み取っているからです。そしてこれは「そうする勇気」さえあれば誰でも出来ることです。

まず貴方は何よりも、自分自身のホモエロティシズムに対する感受性を卑下なさることをおやめになるべきです。それをしない限り、「自分と同じ卑屈になるべき恥ずべき妄想の持ち主」に対する蔑視をあらためることはできないでしょうから。

「自分のことだけを言っているので貴方は関係ない」と仰りたいかもしれませんが、はっきり言って、貴方の自己卑下が構造として通俗な世間の差別意識そのものの内面化である以上、それは「世間が貴方の同類とみなす」全ての女性に対する蔑視の肯定です。

繰り返しになりますが、私に貴方の言動をあらためさせるような強制力はありません。ですが、今回の貴方の卑屈で有害な発言が、私の目の届く範囲で私の書いた文章を発端としてなされたものである以上、見過ごすことはできませんでした。それをご承知下さいますよう。では失礼を。
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by kaoruSZ | 2013-02-10 10:14 | 批評 | Comments(0)
1月30日~https://twitter.com/black_tatarskiyに掲載(終了)

関連エントリ
tatarskiyの部屋(24)「”Sherlock”に見てとれる「美しい友情」の代償としてのホモフォビア」補遺http://kaorusz.exblog.jp/21704329

本エントリへの言いがかりに対する反論は以下に。
http://kaorusz.exblog.jp/19972406/
http://kaorusz.exblog.jp/19973107/
http://kaorusz.exblog.jp/20073529/



RT @kaoruSZ 夜中にtatarskiyさんに電話するとBBCのSherlock(第一話と第三話)見たらホモフォビアとミソジニーてんこ盛りでひどいダメージだと言う。
同性愛者を差別しないという表面的なポーズとセットの“ただしこの二人は違う”アピール、男ゲイを気持悪く描きエクスキューズとしてレズビアンを出す、女と同性愛者を踏み台にして強調される男の友情、ホモっぽく見せてくれさえすればどんな文脈でも萌えと言っていられて“公式様”を批判する発想のない卑屈な腐女子に耐え難いストレスというので、ツイートすることを勧める。
私はTVないからそもそも見ていないが、同じように感じてる人もいるのでは?


@tatarskiy1↑上のRTで相方が書いてくれたが、NHKで放映されているBBCの #シャーロック を見たらホモフォビアとミソジニーてんこ盛りの“ホモなんかじゃない健全な友情”万歳っぷりがまことにひどかった件について。正直こんなことを私個人の責任で書かなければならないのはあまりにも気が重いのだが。

何からお話すればいいのやら頭が痛いのだが、まず基本的な事実として、第一話においてウンザリするほど顕著だったが、このドラマの中でのホームズとワトスンの関係が「ゲイだという誤解に基づいて周囲から気遣いを受けカップル扱いされる」という描写の頻出そのものが、二人の親密さが本当にセクシュアルなものでありうること、またはそうした関係へと発展しうることをあらかじめ否定するためのものでしかないのだ。

あの第一話での周囲からのカップル扱いの頻出とワトスンからホームズへの「彼女いないの? じゃあ彼氏は?」という質問も、それに応えたホームズの側の「君の好意はありがたいしこちらも好意は持っているが“そういう意味”ではない」という含意の婉曲な台詞回しも、「それはこちらも同じだ」という意味のワトスンの応答も、彼らの間に存在する好意に“ゲイ”と分類されるような種類の感情が入り込む余地を慎重に排除し、かつ「彼らは絶対に違いますが、マイノリティであるゲイを差別する意図はありません」というポリティカリー・コレクトなエクスキューズをアピールするためのものだ。

それと非常にいやらしかったのが、ワトスンの家庭の事情に関するホームズの推理力を示す文脈で、ワトスンの姉がレズビアンであり、アルコール中毒でパートナーと別居したらしいこと、ワトスンは姉とパートナーの関係については理解があるらしいことが示唆されていたが、これも実は巧妙にポリティカリー・コレクトな“同性愛への理解”にみせかけたホモフォビアの表れだ。

なぜ原作では兄であったものを姉に変える必要があるのか? なぜ「兄がゲイ」ではいけなかったのか? 答えは簡単。「同性愛者を差別しない」という言辞で男同士のそれと女同士のそれを一括りにし、「差別しない例」として女同士のそれだけを取り上げるのは、“男同士の関係”を忌避しているからだ。

ホモフォビアとはその本質としてホモソーシャリティ≒“男の友情”のネガであり、つまりその絶対的な原義として「男同士の性的関係の忌避」である。それは権力者たる男が男であるために必要なタブーなのであり、そうした男同士が親密な関係を持つ上で絶対に厳守されねばならない掟なのである。

彼らはそのタブーが厳守されていることを確認してこそ始めて安心して“男同士の関係”の魅力を認めることができるのだ。あのドラマの製作者たちは、そのホモソーシャルのコードの厳守を示しつつ、その誤魔化しとしてレズビアンを“尊重”してみせた訳だ。(こうした扱い自体が女への搾取だと思うが)

女や女同士がいくら性的であろうと、ノンケの男にとっては痛くも痒くもあるまい。むしろポルノ的な文脈でもって喜びさえするだろう。どうもアイリーン・アドラーはそうした扱いであるらしいが。いかにもヘテロセクシストの考えそうなことである。

そして生身の同性愛者の男は存在しないことにされるか否定的にしか扱われず、当然レギュラーメンバーにも入れられていない。有色人種ならいかにもおためごかし的にヤードのチームに入れられていたり、冤罪をかけられて殺害された不幸な犠牲者として原作から人種を変更して加えられているが。

こうしたホームズとワトスンの関係性の描き方へのホモフォビックな抑圧は、実はそのまま原作における二人のそれぞれのキャラクター性をまったく把握できていないことに繋がっていると同時に、ドラマの中での二人の関係性を女と同性愛者を踏み台にしなければ肯定できない原因にもなっている。

その象徴的な例として、まずは二人の出会いのシーンを比較してみよう。不愉快な方から先に挙げるが、ドラマでは死体の置かれた病院の研究室にホームズと検視官のモリーの二人がいるところから始まる。ホームズに気があるらしいモリーは彼の気を惹きたくて化粧しているが、ホームズはそれをそ知らぬ顔で小馬鹿にし、モリーは傷ついた表情で口紅を拭う。

そこにワトスンが紹介者であるスタンフォードに連れられて現われ、すぐに彼が自分が募集していたルームメイト候補であることに気づいたホームズは、いきなり彼が派遣されていた戦場がアフガンとイラクのどちらかと訊ねて驚かせた後、ベイカー街の部屋を見せるために彼を連れ出す。

ここまでが二人の出会う最初の場面で、この後大家のハドスン夫人にカップルと誤解されながら部屋を見ている間に成り行きでホームズの仕事について行くのだが、総じて他人に対して人当たりが悪く気遣いも窺えない「高機能社会不適合者」と自称していたようなホームズが、なぜワトスンに対してだけ初めから比較的好意的であり、仕事に連れ出して信頼を寄せるようになったのか、ドラマの展開の中では説得力ある理由はろくに示されていないのだ。

はっきり言えば、彼らの親密さを担保しているものは、まず第一には彼らに「ホームズとワトスン」という名前がつけられているという単純な事実それ自体であり、もう一つは彼らの出会いに先立って、ホームズから(彼の登場とほぼ同時に)露骨に冷淡に扱われる哀れな女=モリーの存在である。

つまり、ホームズに色目を使いしかもまるで報われず冷たくあしらわれる哀れな女という、明白なマイナスの存在を踏み台にすることで、“彼女よりは遥かにまともな扱いをされる”という対比の形でホームズとワトスンの関係性を初対面から相対的にプラスに演出したというわけだ。

これだけでも露骨な女嫌い(蔑視)そのもののやり口であるが、先に述べたようにこのシーンの後にはさらに二人が「ゲイなんかじゃない」とアピールする描写が続くのだから「ホモソーシャリティとは女と男性同性愛の排除によって成り立つ」という教科書通りの図式を見事になぞっているという他にない。

しかもこのやり口は第三話において、今度は完全にホモフォビアとミソジニーが一体になったより悪質な形で反復されるのだ。研究室で作業中のホームズのところへモリーが新しい交際相手であるらしい男を連れて現れ、ホームズとワトスンの前で彼に向かってしなをつくって得意気にしてみせるのだが、ホームズはその男が自分に向かって挨拶してみせた直後に、冷然と「ゲイ」と一言吐き捨てるように言う。男は即座にその場から立ち去り、ホームズは動揺するモリーとなぜ彼女の交際相手にそんなことを言うんだと咎めるワトスンに対して、「眉を綺麗に細くして整髪料をつけ、いかにもなブランドの下着を見せていた」と言い、ワトスンは「整髪料くらい僕も使う」と反論するが、ホームズは「君の使い方とは違う」と言い、とどめに「自分に電話番号を書いたメモを渡していった」と男の置いていった紙片を示してみせる。

この場面における一連のやりとりそのものが、ホームズに相手にされなかったモリーの新しい交際相手を見せびらかすという彼へのあてつけが、彼女にとって最悪の形で裏目に出るという、露骨にミソジナスな“愚かな女”への嘲笑と、“ゲイ”とは“ノーマルな男”にはない特徴を持つ“特殊な人種”であり、それは「女のように身だしなみに気を使い、男のくせに男に色目を使う」という「男にあるまじき振る舞い」を意味するという「同性愛の人種化」であり、そして何よりも、それに対してホームズとワトスンが「そんな奴らとは違うノーマルな男」であることを強調する「差別としての差異化」を目的としたものであるのは明らかだ。しかもこの場面は第三話を丸々費やしたホモフォビアの発露の序章なのだから胸が悪くなる。

この後、彼らはモリアーティから制限時間内に犯罪の謎解きを次々とこなすというゲームを仕掛けられ、それと平行してマイクロフトから依頼された軍事機密のデータ盗難に絡んだ殺人事件の捜査の進展が描かれるのだが、これは当然原作の「ブルース=パーティントン設計書」が下敷きにされている。あのエピソードの犯人であるヴァレンタイン・ウォルター大佐は実はわかる人にはわかる形で同性愛者として設定されており、それはこのドラマでも変形させた形で踏襲していたのだが、その意味づけと描き方は原作への冒瀆としか言いようのないほどホモフォビックで醜悪なものだった。

先にドラマでのエピソードの概要を説明すると、原作での犯人ウォルター大佐とその兄でブルース=パーティントン計画の主任だったサー・ジェームズ・ウォルターは、ドラマでは本筋の事件の登場人物ではなくモリアーティからの課題として挿入されている小エピソードの登場人物に置き換えられている。サー・ジェームズの方はテレビの美容変身バラエティー番組の人気司会者の女性に、ウォルター大佐の方は彼女の番組でいじられ役を兼ねたアシスタントをしていたその弟に設定されている。彼は明示的にゲイであり、自分の愛人だった姉付きの美容師と共謀して姉を殺害したという話になっている。

そしてここからがあまりにも見ていて胸糞の悪かったシーンの説明になるのだが、先述した被害者の女性の弟に疑いを抱いたホームズとワトスンは、姉の死についての遺族インタビューを装い記者として彼の自宅を訪れ探りを入れる。

彼は中年の男性にも関わらず、紫のシャツを着て身だしなみを気にし、ペットの猫を可愛がるという、「見るからに女性的で薄気味悪い男」として描かれる。彼から話を聞いた後、カメラマンを装ったホームズが写真撮影を願い出ると、彼は鏡を覗き込んで顔と身だしなみをチェックするが、ホームズはこちらを振り向いた彼に断りも無く、いきなり至近距離からフラッシュを浴びせて連続撮影をする。画面には彼の眩しさのあまり目をかたく瞑った歪められた顔が、何枚も連続で大写しになる。そしてこの撮影が終わると、ホームズとワトスンはもうインタビューは済んだと言い、戸惑うばかりの弟を置き去りに退出する。

正直、解説するのも苦痛であるが、この一連の場面は露悪的なまでのホモフォビアとミソジニーに彩られたものだ。視聴者に違和感と薄気味悪さを感じさせるように故意に演出された、ステレオタイプそのもののゲイ男性、彼の「男にあるまじき」ナルシシズムを象徴する、紫のシャツやペットの猫、そして何よりも、そうした彼自身の姿そのものである、彼が覗き込んだ鏡、そしてその直後のホームズにフラッシュを浴びせられ、一瞬前まで鏡に向かって取り澄ましていた同じ顔が歪められた表情で大写しにされるのは、説明の必要もないほどに露骨な、「男にあるまじき、女のようなナルシシズム」を持った男への懲罰である。

このあからさまな演出自体、このエピソードにおける弟の真の罪とされ罰せられているものが、姉の殺害などではなく、彼の「男らしさからの逸脱」そのものであるのは明白だろう。そして彼の愛人が表向きの罪である姉殺害の共犯者とされていることも、「彼らの関係が罪である」という裏の意味を含んでいる。

つまり、この小エピソードは、流石に最近ではあからさまに差別することは許されないゲイ男性に対する、製作者であるヘテロ男性の密やかな“憂さ晴らし”と、彼らの製作するドラマの主人公であるホームズとワトスンを、そうした“変態たち”とはっきりと文字通り“差別化”するためのものなのだ。

原作者のドイルも紛れもなくその一人である、ホモエロティシズムに心惹かれていた過去の優れた作家たちは、まさにこのドラマの製作者たちにとっては嫌悪と蔑視の対象でしかないらしい“明示することを許されない愛”を描くためにこそ技巧を尽くしていたのだが。「隠して愛する」ために技巧を尽くすのではなく「隠して差別する」ためにそれをすることこそが最新のトレンドというわけであろうか。

そしてこの第三話とシーズン1そのもののクライマックスである、夜のプールサイドでのホームズとモリアーティの直接対決の場面。モリアーティは前もってワトスンを人質に取り、ジャケットに爆弾を括りつけられた彼の姿をホームズに見せつけてからおもむろに姿を現すが、それは前にモリーの新しい交際相手として紹介され、ホームズにゲイだと看破されて退散したはずの男である。モリアーティはホームズを試すためにあえてゲイのふりをして彼の前に姿を見せたのだと言い、以前から彼に興味を持っていたことを彼の能力への賞賛と揶揄を交えながら語ってみせる。

ホームズはモリアーティに要求されたブルース=パーティントン計画のデータが入ったメモリースティックを引き渡すが、モリアーティは「こんなものはいつでも盗めた」と吐き捨てると、メモリースティックをプールに投げ捨てる。ワトスンはその動作の隙をついて背後からモリアーティを羽交い絞めにし、ホームズはモリアーティに銃を向けるが、モリアーティはまるで動じないままワトスンのことを「忠実なペットだが情が移るのはまずい」と揶揄してみせ、同時にどこからか警告するように赤い光線がホームズの額にマーキングするように当てられる。

下手に動けばホームズが狙撃されると悟ったワトスンはモリアーティから離れ、二人にはもはや打つ手がなくなるが、モリアーティはホームズに「自分から手を引かないとどうなるかわかっただろう。今君を殺してもつまらないからそれはこの先の特別な機会にとっておく」と言い残してその場から立ち去る。

モリアーティが姿を消すとホームズは即座にワトスンに駆け寄り、爆弾を括りつけられた彼のジャケットを脱がせて投げ捨てる。ホームズは「さっき、君が僕のためにしてくれようとしたこと、凄い」と、珍しく感謝を言葉にし、それを聞いたワトスンは「誰もいなくてよかった。君に暗いプールで服を脱がされたのを見られたら大変だ」と冗談で返す。緊張の解けた二人は「噂じゃすまないな」と笑いあう。このやりとりは実質的なこのエピソードの締めくくりである。

実際にはこの直後にいきなり戻ってきたモリアーティが姿を見せると同時に、二人の体にライフルの照準を示す赤い光線が当てられるという、いかにもクリフハンガー的な引きが付け足されているのだが。

このプールサイドのシーンでの一連のやりとりは、前半のホモフォビックな挿話がなぜ必要であったのかを明かしてくれている。このそこだけを抜き出せば感動的であろうホームズとワトスンの絆を示す場面を描くためにこそ、彼らが「絶対にゲイではない」ことを幾重にも保証しておく必要があったのだ。

ラストを締めくくるワトスンの冗談も、前半の挿話の中で彼らがあらかじめ「本物の同性愛者」から峻別されているからこそ、完全にイノセントな“純粋な友人”同士の“単なるほほえましい冗談”として成立しているのだ。

つまりこの台詞は彼らの関係にセクシュアルな危うさが存在する可能性を示唆するものではなく、「そんなことはありえない」ことをお互いに完全に了解しあっていることをはっきりと示し、彼らのイノセントさを強調するものであり、そしてそれが同時に“純粋な友情”の象徴として機能しているわけである。


また、ここまでの論証をご覧になっていればおわかりになるだろうが、この同性愛に対する「仄めかしてから排除する/排除するべく仄めかす」という扱いは、ホームズとワトスンの関係の演出においてだけでなく、ホームズに対するモリアーティの位置づけにおけるそれとしても反復されているのだ。

筋書きの上ではなんら必然性が無いにも関わらず、モリアーティがホームズに気のあるゲイの男であるかのように登場させられていたのは、ホームズとワトスンの互いへの好意と同様、モリアーティのホームズに対する執着に対しても、最初は同性愛的な要素の仄めかしによってそのインパクトを強め、しかる後にそれを否定することによって観客のホモフォビアを慰撫し安心させるという手続きであり、また同性愛という逸脱を“事実”としては完全に否定しつつ、その上澄みとしての“効果”だけを得るという巧みなやり口でもある。

つまりホームズのパートナー(ワトスン)との関係とライバル(モリアーティ)との関係の双方において、同性愛の要素を仄めかしつつ否定することによって「イノセントさの確保と関係の重要性の強調」を同時に演出しているわけであり、しかもワトスン、モリアーティのどちらの場合も「病院の研究室が初対面の場であり、モリーという女性が“踏み台”にされる」という全く同じシチュエーションの反復であるというのが厭味なまでに徹底している。

つまりどちらも「女ごときよりも男同士の友情/ライバル関係の方が重要。ただし絶対に同性愛ではない」という、露骨なミソジニーとホモソーシャリティに満ちたメッセージなのであり、同性愛イメージを搾取しつつ否定するという巧妙な仕掛けでもあるわけだ。

そして結局は生身のゲイ男性は悪役としてさえ「あらかじめ存在しなかった」ことにして一丁上がりというわけであるが、これも建て前としては「本物のゲイを悪役にすることを避けるポリティカリー・コレクトな配慮」と言い抜けられるのだろう。本当は「悪役としてさえ存在を許す気が無い」だけなのだが。

また、これは裏アカで先に書いた話の続きになるのだが、このドラマにおけるモリアーティとマイクロフトのそれぞれの特徴は、実は原作のホームズ自身の特徴の写しである。具体的には、モリアーティの場合は人質となっていた盲目の老女の言葉にもあった「柔らかな」つまり男らしからぬ調子の声音と、芝居がかった演出を好み、常に余裕ありげで飄々としたトリックスター然とした態度であり、マイクロフトの場合は金時計の鎖の下がった三つ揃いの背広に杖代わりの雨傘という、19世紀の紳士然とした出立ちそのものと、(後日詳述することになると思うが)シーズン2第一話のアドラーとの関わりにおいて歴然と示されていた、女嫌いでさえない全くニュートラルな女への無関心であるが、これは特にホームズ自身に対する強迫的なまでにしつこい“童貞”扱いと際立った対比を成しており、製作者がいかにホームズを単なる“童貞”だと、つまり「まだ女との経験が無いだけの未熟だがノーマルな男」だと思いたがっているのかを露呈していた。

もうお分かりになるだろうが、この原作のホームズ自身からモリアーティとマイクロフトに移されている「高い調子の声音」も「トリックスター然とした剽軽な態度」も「女への無関心」も、つまりは「男らしくない」とされるものだ。要するに、製作者はホームズが「ノーマルな男らしくない」ことを許さず、原作の彼自身を“検閲”したわけである。そしてその代わりとして、原作の彼にはありえなかったような、周囲の人々に対する無神経さと、女と女のような男=ゲイ男性への蔑視的な態度とを付け加えたわけだ。
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by kaoruSZ | 2013-02-10 05:21 | 批評 | Comments(0)