おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

カテゴリ:批評( 60 )

1月30日~https://twitter.com/black_tatarskiyに掲載(終了)

関連エントリ
tatarskiyの部屋(24)「”Sherlock”に見てとれる「美しい友情」の代償としてのホモフォビア」補遺http://kaorusz.exblog.jp/21704329

本エントリへの言いがかりに対する反論は以下に。
http://kaorusz.exblog.jp/19972406/
http://kaorusz.exblog.jp/19973107/
http://kaorusz.exblog.jp/20073529/



RT @kaoruSZ 夜中にtatarskiyさんに電話するとBBCのSherlock(第一話と第三話)見たらホモフォビアとミソジニーてんこ盛りでひどいダメージだと言う。
同性愛者を差別しないという表面的なポーズとセットの“ただしこの二人は違う”アピール、男ゲイを気持悪く描きエクスキューズとしてレズビアンを出す、女と同性愛者を踏み台にして強調される男の友情、ホモっぽく見せてくれさえすればどんな文脈でも萌えと言っていられて“公式様”を批判する発想のない卑屈な腐女子に耐え難いストレスというので、ツイートすることを勧める。
私はTVないからそもそも見ていないが、同じように感じてる人もいるのでは?


@tatarskiy1↑上のRTで相方が書いてくれたが、NHKで放映されているBBCの #シャーロック を見たらホモフォビアとミソジニーてんこ盛りの“ホモなんかじゃない健全な友情”万歳っぷりがまことにひどかった件について。正直こんなことを私個人の責任で書かなければならないのはあまりにも気が重いのだが。

何からお話すればいいのやら頭が痛いのだが、まず基本的な事実として、第一話においてウンザリするほど顕著だったが、このドラマの中でのホームズとワトスンの関係が「ゲイだという誤解に基づいて周囲から気遣いを受けカップル扱いされる」という描写の頻出そのものが、二人の親密さが本当にセクシュアルなものでありうること、またはそうした関係へと発展しうることをあらかじめ否定するためのものでしかないのだ。

あの第一話での周囲からのカップル扱いの頻出とワトスンからホームズへの「彼女いないの? じゃあ彼氏は?」という質問も、それに応えたホームズの側の「君の好意はありがたいしこちらも好意は持っているが“そういう意味”ではない」という含意の婉曲な台詞回しも、「それはこちらも同じだ」という意味のワトスンの応答も、彼らの間に存在する好意に“ゲイ”と分類されるような種類の感情が入り込む余地を慎重に排除し、かつ「彼らは絶対に違いますが、マイノリティであるゲイを差別する意図はありません」というポリティカリー・コレクトなエクスキューズをアピールするためのものだ。

それと非常にいやらしかったのが、ワトスンの家庭の事情に関するホームズの推理力を示す文脈で、ワトスンの姉がレズビアンであり、アルコール中毒でパートナーと別居したらしいこと、ワトスンは姉とパートナーの関係については理解があるらしいことが示唆されていたが、これも実は巧妙にポリティカリー・コレクトな“同性愛への理解”にみせかけたホモフォビアの表れだ。

なぜ原作では兄であったものを姉に変える必要があるのか? なぜ「兄がゲイ」ではいけなかったのか? 答えは簡単。「同性愛者を差別しない」という言辞で男同士のそれと女同士のそれを一括りにし、「差別しない例」として女同士のそれだけを取り上げるのは、“男同士の関係”を忌避しているからだ。

ホモフォビアとはその本質としてホモソーシャリティ≒“男の友情”のネガであり、つまりその絶対的な原義として「男同士の性的関係の忌避」である。それは権力者たる男が男であるために必要なタブーなのであり、そうした男同士が親密な関係を持つ上で絶対に厳守されねばならない掟なのである。

彼らはそのタブーが厳守されていることを確認してこそ始めて安心して“男同士の関係”の魅力を認めることができるのだ。あのドラマの製作者たちは、そのホモソーシャルのコードの厳守を示しつつ、その誤魔化しとしてレズビアンを“尊重”してみせた訳だ。(こうした扱い自体が女への搾取だと思うが)

女や女同士がいくら性的であろうと、ノンケの男にとっては痛くも痒くもあるまい。むしろポルノ的な文脈でもって喜びさえするだろう。どうもアイリーン・アドラーはそうした扱いであるらしいが。いかにもヘテロセクシストの考えそうなことである。

そして生身の同性愛者の男は存在しないことにされるか否定的にしか扱われず、当然レギュラーメンバーにも入れられていない。有色人種ならいかにもおためごかし的にヤードのチームに入れられていたり、冤罪をかけられて殺害された不幸な犠牲者として原作から人種を変更して加えられているが。

こうしたホームズとワトスンの関係性の描き方へのホモフォビックな抑圧は、実はそのまま原作における二人のそれぞれのキャラクター性をまったく把握できていないことに繋がっていると同時に、ドラマの中での二人の関係性を女と同性愛者を踏み台にしなければ肯定できない原因にもなっている。

その象徴的な例として、まずは二人の出会いのシーンを比較してみよう。不愉快な方から先に挙げるが、ドラマでは死体の置かれた病院の研究室にホームズと検視官のモリーの二人がいるところから始まる。ホームズに気があるらしいモリーは彼の気を惹きたくて化粧しているが、ホームズはそれをそ知らぬ顔で小馬鹿にし、モリーは傷ついた表情で口紅を拭う。

そこにワトスンが紹介者であるスタンフォードに連れられて現われ、すぐに彼が自分が募集していたルームメイト候補であることに気づいたホームズは、いきなり彼が派遣されていた戦場がアフガンとイラクのどちらかと訊ねて驚かせた後、ベイカー街の部屋を見せるために彼を連れ出す。

ここまでが二人の出会う最初の場面で、この後大家のハドスン夫人にカップルと誤解されながら部屋を見ている間に成り行きでホームズの仕事について行くのだが、総じて他人に対して人当たりが悪く気遣いも窺えない「高機能社会不適合者」と自称していたようなホームズが、なぜワトスンに対してだけ初めから比較的好意的であり、仕事に連れ出して信頼を寄せるようになったのか、ドラマの展開の中では説得力ある理由はろくに示されていないのだ。

はっきり言えば、彼らの親密さを担保しているものは、まず第一には彼らに「ホームズとワトスン」という名前がつけられているという単純な事実それ自体であり、もう一つは彼らの出会いに先立って、ホームズから(彼の登場とほぼ同時に)露骨に冷淡に扱われる哀れな女=モリーの存在である。

つまり、ホームズに色目を使いしかもまるで報われず冷たくあしらわれる哀れな女という、明白なマイナスの存在を踏み台にすることで、“彼女よりは遥かにまともな扱いをされる”という対比の形でホームズとワトスンの関係性を初対面から相対的にプラスに演出したというわけだ。

これだけでも露骨な女嫌い(蔑視)そのもののやり口であるが、先に述べたようにこのシーンの後にはさらに二人が「ゲイなんかじゃない」とアピールする描写が続くのだから「ホモソーシャリティとは女と男性同性愛の排除によって成り立つ」という教科書通りの図式を見事になぞっているという他にない。

しかもこのやり口は第三話において、今度は完全にホモフォビアとミソジニーが一体になったより悪質な形で反復されるのだ。研究室で作業中のホームズのところへモリーが新しい交際相手であるらしい男を連れて現れ、ホームズとワトスンの前で彼に向かってしなをつくって得意気にしてみせるのだが、ホームズはその男が自分に向かって挨拶してみせた直後に、冷然と「ゲイ」と一言吐き捨てるように言う。男は即座にその場から立ち去り、ホームズは動揺するモリーとなぜ彼女の交際相手にそんなことを言うんだと咎めるワトスンに対して、「眉を綺麗に細くして整髪料をつけ、いかにもなブランドの下着を見せていた」と言い、ワトスンは「整髪料くらい僕も使う」と反論するが、ホームズは「君の使い方とは違う」と言い、とどめに「自分に電話番号を書いたメモを渡していった」と男の置いていった紙片を示してみせる。

この場面における一連のやりとりそのものが、ホームズに相手にされなかったモリーの新しい交際相手を見せびらかすという彼へのあてつけが、彼女にとって最悪の形で裏目に出るという、露骨にミソジナスな“愚かな女”への嘲笑と、“ゲイ”とは“ノーマルな男”にはない特徴を持つ“特殊な人種”であり、それは「女のように身だしなみに気を使い、男のくせに男に色目を使う」という「男にあるまじき振る舞い」を意味するという「同性愛の人種化」であり、そして何よりも、それに対してホームズとワトスンが「そんな奴らとは違うノーマルな男」であることを強調する「差別としての差異化」を目的としたものであるのは明らかだ。しかもこの場面は第三話を丸々費やしたホモフォビアの発露の序章なのだから胸が悪くなる。

この後、彼らはモリアーティから制限時間内に犯罪の謎解きを次々とこなすというゲームを仕掛けられ、それと平行してマイクロフトから依頼された軍事機密のデータ盗難に絡んだ殺人事件の捜査の進展が描かれるのだが、これは当然原作の「ブルース=パーティントン設計書」が下敷きにされている。あのエピソードの犯人であるヴァレンタイン・ウォルター大佐は実はわかる人にはわかる形で同性愛者として設定されており、それはこのドラマでも変形させた形で踏襲していたのだが、その意味づけと描き方は原作への冒瀆としか言いようのないほどホモフォビックで醜悪なものだった。

先にドラマでのエピソードの概要を説明すると、原作での犯人ウォルター大佐とその兄でブルース=パーティントン計画の主任だったサー・ジェームズ・ウォルターは、ドラマでは本筋の事件の登場人物ではなくモリアーティからの課題として挿入されている小エピソードの登場人物に置き換えられている。サー・ジェームズの方はテレビの美容変身バラエティー番組の人気司会者の女性に、ウォルター大佐の方は彼女の番組でいじられ役を兼ねたアシスタントをしていたその弟に設定されている。彼は明示的にゲイであり、自分の愛人だった姉付きの美容師と共謀して姉を殺害したという話になっている。

そしてここからがあまりにも見ていて胸糞の悪かったシーンの説明になるのだが、先述した被害者の女性の弟に疑いを抱いたホームズとワトスンは、姉の死についての遺族インタビューを装い記者として彼の自宅を訪れ探りを入れる。

彼は中年の男性にも関わらず、紫のシャツを着て身だしなみを気にし、ペットの猫を可愛がるという、「見るからに女性的で薄気味悪い男」として描かれる。彼から話を聞いた後、カメラマンを装ったホームズが写真撮影を願い出ると、彼は鏡を覗き込んで顔と身だしなみをチェックするが、ホームズはこちらを振り向いた彼に断りも無く、いきなり至近距離からフラッシュを浴びせて連続撮影をする。画面には彼の眩しさのあまり目をかたく瞑った歪められた顔が、何枚も連続で大写しになる。そしてこの撮影が終わると、ホームズとワトスンはもうインタビューは済んだと言い、戸惑うばかりの弟を置き去りに退出する。

正直、解説するのも苦痛であるが、この一連の場面は露悪的なまでのホモフォビアとミソジニーに彩られたものだ。視聴者に違和感と薄気味悪さを感じさせるように故意に演出された、ステレオタイプそのもののゲイ男性、彼の「男にあるまじき」ナルシシズムを象徴する、紫のシャツやペットの猫、そして何よりも、そうした彼自身の姿そのものである、彼が覗き込んだ鏡、そしてその直後のホームズにフラッシュを浴びせられ、一瞬前まで鏡に向かって取り澄ましていた同じ顔が歪められた表情で大写しにされるのは、説明の必要もないほどに露骨な、「男にあるまじき、女のようなナルシシズム」を持った男への懲罰である。

このあからさまな演出自体、このエピソードにおける弟の真の罪とされ罰せられているものが、姉の殺害などではなく、彼の「男らしさからの逸脱」そのものであるのは明白だろう。そして彼の愛人が表向きの罪である姉殺害の共犯者とされていることも、「彼らの関係が罪である」という裏の意味を含んでいる。

つまり、この小エピソードは、流石に最近ではあからさまに差別することは許されないゲイ男性に対する、製作者であるヘテロ男性の密やかな“憂さ晴らし”と、彼らの製作するドラマの主人公であるホームズとワトスンを、そうした“変態たち”とはっきりと文字通り“差別化”するためのものなのだ。

原作者のドイルも紛れもなくその一人である、ホモエロティシズムに心惹かれていた過去の優れた作家たちは、まさにこのドラマの製作者たちにとっては嫌悪と蔑視の対象でしかないらしい“明示することを許されない愛”を描くためにこそ技巧を尽くしていたのだが。「隠して愛する」ために技巧を尽くすのではなく「隠して差別する」ためにそれをすることこそが最新のトレンドというわけであろうか。

そしてこの第三話とシーズン1そのもののクライマックスである、夜のプールサイドでのホームズとモリアーティの直接対決の場面。モリアーティは前もってワトスンを人質に取り、ジャケットに爆弾を括りつけられた彼の姿をホームズに見せつけてからおもむろに姿を現すが、それは前にモリーの新しい交際相手として紹介され、ホームズにゲイだと看破されて退散したはずの男である。モリアーティはホームズを試すためにあえてゲイのふりをして彼の前に姿を見せたのだと言い、以前から彼に興味を持っていたことを彼の能力への賞賛と揶揄を交えながら語ってみせる。

ホームズはモリアーティに要求されたブルース=パーティントン計画のデータが入ったメモリースティックを引き渡すが、モリアーティは「こんなものはいつでも盗めた」と吐き捨てると、メモリースティックをプールに投げ捨てる。ワトスンはその動作の隙をついて背後からモリアーティを羽交い絞めにし、ホームズはモリアーティに銃を向けるが、モリアーティはまるで動じないままワトスンのことを「忠実なペットだが情が移るのはまずい」と揶揄してみせ、同時にどこからか警告するように赤い光線がホームズの額にマーキングするように当てられる。

下手に動けばホームズが狙撃されると悟ったワトスンはモリアーティから離れ、二人にはもはや打つ手がなくなるが、モリアーティはホームズに「自分から手を引かないとどうなるかわかっただろう。今君を殺してもつまらないからそれはこの先の特別な機会にとっておく」と言い残してその場から立ち去る。

モリアーティが姿を消すとホームズは即座にワトスンに駆け寄り、爆弾を括りつけられた彼のジャケットを脱がせて投げ捨てる。ホームズは「さっき、君が僕のためにしてくれようとしたこと、凄い」と、珍しく感謝を言葉にし、それを聞いたワトスンは「誰もいなくてよかった。君に暗いプールで服を脱がされたのを見られたら大変だ」と冗談で返す。緊張の解けた二人は「噂じゃすまないな」と笑いあう。このやりとりは実質的なこのエピソードの締めくくりである。

実際にはこの直後にいきなり戻ってきたモリアーティが姿を見せると同時に、二人の体にライフルの照準を示す赤い光線が当てられるという、いかにもクリフハンガー的な引きが付け足されているのだが。

このプールサイドのシーンでの一連のやりとりは、前半のホモフォビックな挿話がなぜ必要であったのかを明かしてくれている。このそこだけを抜き出せば感動的であろうホームズとワトスンの絆を示す場面を描くためにこそ、彼らが「絶対にゲイではない」ことを幾重にも保証しておく必要があったのだ。

ラストを締めくくるワトスンの冗談も、前半の挿話の中で彼らがあらかじめ「本物の同性愛者」から峻別されているからこそ、完全にイノセントな“純粋な友人”同士の“単なるほほえましい冗談”として成立しているのだ。

つまりこの台詞は彼らの関係にセクシュアルな危うさが存在する可能性を示唆するものではなく、「そんなことはありえない」ことをお互いに完全に了解しあっていることをはっきりと示し、彼らのイノセントさを強調するものであり、そしてそれが同時に“純粋な友情”の象徴として機能しているわけである。


また、ここまでの論証をご覧になっていればおわかりになるだろうが、この同性愛に対する「仄めかしてから排除する/排除するべく仄めかす」という扱いは、ホームズとワトスンの関係の演出においてだけでなく、ホームズに対するモリアーティの位置づけにおけるそれとしても反復されているのだ。

筋書きの上ではなんら必然性が無いにも関わらず、モリアーティがホームズに気のあるゲイの男であるかのように登場させられていたのは、ホームズとワトスンの互いへの好意と同様、モリアーティのホームズに対する執着に対しても、最初は同性愛的な要素の仄めかしによってそのインパクトを強め、しかる後にそれを否定することによって観客のホモフォビアを慰撫し安心させるという手続きであり、また同性愛という逸脱を“事実”としては完全に否定しつつ、その上澄みとしての“効果”だけを得るという巧みなやり口でもある。

つまりホームズのパートナー(ワトスン)との関係とライバル(モリアーティ)との関係の双方において、同性愛の要素を仄めかしつつ否定することによって「イノセントさの確保と関係の重要性の強調」を同時に演出しているわけであり、しかもワトスン、モリアーティのどちらの場合も「病院の研究室が初対面の場であり、モリーという女性が“踏み台”にされる」という全く同じシチュエーションの反復であるというのが厭味なまでに徹底している。

つまりどちらも「女ごときよりも男同士の友情/ライバル関係の方が重要。ただし絶対に同性愛ではない」という、露骨なミソジニーとホモソーシャリティに満ちたメッセージなのであり、同性愛イメージを搾取しつつ否定するという巧妙な仕掛けでもあるわけだ。

そして結局は生身のゲイ男性は悪役としてさえ「あらかじめ存在しなかった」ことにして一丁上がりというわけであるが、これも建て前としては「本物のゲイを悪役にすることを避けるポリティカリー・コレクトな配慮」と言い抜けられるのだろう。本当は「悪役としてさえ存在を許す気が無い」だけなのだが。

また、これは裏アカで先に書いた話の続きになるのだが、このドラマにおけるモリアーティとマイクロフトのそれぞれの特徴は、実は原作のホームズ自身の特徴の写しである。具体的には、モリアーティの場合は人質となっていた盲目の老女の言葉にもあった「柔らかな」つまり男らしからぬ調子の声音と、芝居がかった演出を好み、常に余裕ありげで飄々としたトリックスター然とした態度であり、マイクロフトの場合は金時計の鎖の下がった三つ揃いの背広に杖代わりの雨傘という、19世紀の紳士然とした出立ちそのものと、(後日詳述することになると思うが)シーズン2第一話のアドラーとの関わりにおいて歴然と示されていた、女嫌いでさえない全くニュートラルな女への無関心であるが、これは特にホームズ自身に対する強迫的なまでにしつこい“童貞”扱いと際立った対比を成しており、製作者がいかにホームズを単なる“童貞”だと、つまり「まだ女との経験が無いだけの未熟だがノーマルな男」だと思いたがっているのかを露呈していた。

もうお分かりになるだろうが、この原作のホームズ自身からモリアーティとマイクロフトに移されている「高い調子の声音」も「トリックスター然とした剽軽な態度」も「女への無関心」も、つまりは「男らしくない」とされるものだ。要するに、製作者はホームズが「ノーマルな男らしくない」ことを許さず、原作の彼自身を“検閲”したわけである。そしてその代わりとして、原作の彼にはありえなかったような、周囲の人々に対する無神経さと、女と女のような男=ゲイ男性への蔑視的な態度とを付け加えたわけだ。
[PR]
by kaoruSZ | 2013-02-10 05:21 | 批評 | Comments(0)
(承前)http://kaorusz.exblog.jp/19707251/
「空家の冒険」でのホームズとの再会の場面だって怪しいことばかりだ。周知の通り、目の前にホームズがいるのを見たワトスンは気を失ってしまい、本人はそれが最初で最後の経験だと言っている。だが、ワトスンにとってはそうでも、ホームズ物語の中には真っ当な紳士や淑女として通っている人物が、死んだと思っていた過去からの訪問者を目のあたりにして死ぬほど驚くという話がいくらでもあるではないか。「グロリア・スコット号」のトリヴァ老人など、ホームズにある人物と「たいへん親密な関係がおありでしたが、その後はその人のことを忘れてしまいたいと努めていらつしやいます」と言われただけで失神している。
 それまで他人事[ひとごと]として反復されてきたことが今度は他ならぬワトスンの身に起り、そして実はこちらの方が本質的なのだ。トリックの目新しさが命であるかのように書き継がれたホームズものの真の主題は『モロー博士の島』の場合と同様、二人の男の関係(その可能性の探求)であるのだから。

 周知の通り『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』に“二人の男”はおらず、“独りの男”がいただけであった。ジキルの友人だったはずの孤立した独身者たちはスキャンダルに対してどこまでも無力であり、ある者はジキルに先んじて自滅し、ある者はジキルの跡を継ぐよう定められた。ハイドの悪の正体は作者の友人たちにとって公然の秘密であり、その運命は身につまされるものであっても、表立っての抵抗など考えられないものであった。『ドリアン・グレイの肖像』の場合も主題が同性愛であることは明白で、作者の悪徳も知られていたが、ドリアンは男たちを破滅させはしてもポーに倣った結末に明らかなように、彼には分身しかおらず“二人”ではなかった。ヘンリー卿も実のところ彼の理解者からは遠かったのである。そして『ジキル博士とハイド氏』でハイドがそこから通りに出てくるドアのある家が登場人物によって「ゆすりの家」と呼ばれるほど、同性愛をゆすりと切っても切れないものにした法律が、やがて現実の作家を破滅に追いやることになる。彼とボジーの関係などは藝術の見劣りのする影に過ぎまい。

 ドイルがものを書きはじめた頃、彼は当然そのような分身譚、幻想小説、そして同性愛が置かれた状況を意識していたはずだ。ホームズを彼はいつから“そのような人”として考えるようになったのか? 最初からである。そうでなければ、あのように明らかな伏線を随所に張りめぐらしはしなかっただろう。

 あるいはそれは無意識のうちにだったかもしれない。ワトスンがホームズを徐々に知っていったように、ドイル自身によってもそれは書きながら、書いたもののうちに、書こうとするものの中に次第に形作られ、彼自身によっても発見されていったのかもしれない。いずれにせよ彼は前人未踏の領域に到ったのであり、いかなる作家にも似ていない達成を成し遂げることになった。それは単純なバディもの(ホモフォビックな解説者が今日なおこれは同性愛ではないと口を挟み続けるような)でもなければ、たとえばヘッセの『デミアン』のような、分身としての友人が主人公の成長とともに消え去る思春期のイニシエーションとも勿論違う。そうした未熟な若者の話なら、無論世間には受け入れられやすかったはずだ。

A charming week and a lovely trip
 ドイルがホームズを殺そうとして「最後の事件」を書いたとか、読者の非難や要求のために「空家の冒険」で再びホームズを登場させたとかという話は、たんに世間に流通し好んで語られるという以上の意味を持たないだろう。「最後の事件」は恐しく奇妙な話なので、ストランド・マガジンで当時これを読んだ人たちが小説家を非難して、再開しろと哀願や脅迫をしたと言われても俄かには信じ難いくらいだ。こんな出鱈目な話を読ませるなと言ったのならまだわかるが。なぜなら、「最後の事件」は、すでに述べたように本当にあったことを隠すためのスクリーンとして再構成された夢であり、実は「空家の冒険」もそうであるからだ。

 前者は先述した「閉ざされた夢想の部屋」からワトスンが結婚によって出て行ったあと、残されたホームズが深夜別れを告げに来て、そのまま二人で大陸へ向かった道行の顛末、すなわちホームズは行方不明になりワトスン一人が帰ってきたという話を、そして後者はつつがなく「大人」になって一家を構えていたワトスンの前に三年前死んだはずのホームズが現われて、元のベイカー街の部屋へ引きずり込み、再び、いや今度は本当の、「秘密の共有者」になるまでが書かれているのであり、モリアーティには(モランにも)何の関係もない。

 こうしたことを何も考えなかったとしても、たかがモリアーティが逮捕されるまで英国を離れているというだけの理由で、どうして「財産はロンドンを発つ前にすつかり始末して兄のマイクロフトにわたしてきた」などということになるのか、リアルタイムの読者は不思議に思わなかったのだろうか。

「最後の事件」における、実在の“モリアーティ”(無論作品内世界で)に関する記述とワトスンの書いたフィクションとの繫ぎ目は「『最後の事件』ノート」http://kaorusz.exblog.jp/19549811/でtatarskiyさんが綺麗に腑分けしてみせている通りで、モリアーティの影を一掃してみれば実際に何が起ったかは見やすくなるが、それも彼女がもう書いている。

 それにしても危険が迫っていると言ってホームズが自分を帰そうとするのをワトスンが拒んだあと、「一週間、私たちはローヌ河の渓谷を歩きまわつて喜んだ」とか「足下はもう春の美しい緑、頭上はまだ冬の処女雪――それは楽しい旅路だつた」というお花畑状態、何も知らずに読んでもどこか変だと誰も思わなかったのだろうか。「喜んだ」とか「楽しい旅路」とか英語では何なのだろうと思い今回はじめて原文を読んでみたが、 “For a charming week we wandered up the Valley of the Rhone, ” “It was a lovely trip, the dainty green of the spring below, the virgin white of the winter above;”と、もう完全に道行き文だった。「草も木も 空もなごりと見上ぐれば 雲心なき水の音 北斗は冴えて影映る」(近松門左衛門)

 いよいよライヘンバッハの滝へ行くと周知の通り「土地の若ものが」「肺病の末期にあるイギリス婦人」が喀血して同国人の医師の診察を求めていると宿の亭主からの「手紙をもってとんでくる」。言うまでもなく偽手紙だが、モリアーティは最初からいないのだから、この場面全体が実は作り事である。
と言ってもそこに意味が込められているのは勿論だ。まず使いの若者だが、「スイス人の若ものはついに発見されなかつた。その筈であろう、彼はモリアティの多くの配下の一人だつだのだもの」とあり、これは「(存在しない)モリアティの配下なのだから発見されるわけがない」と読みかえられるべきものだし、ワトスンが患者を診に行くあいだ「使いにきた若ものを、案内者兼帯の話し相手としてのこしておくことに話がきまつた」と書いてあるのに、ホームズの手記の中にモリアーティが現われた時彼がどうしたかが書かれていないのが不自然である。むしろ若者はワトスンを先導して宿に戻ったと(気がつくと姿が見えなかったとでも)した方が自然で、これはドイルが話はこびの不自然さを気づかせようとわざとこのようにしておいたのだと思われる。それでも、「モリアティの配下だから」見つからなかったと言われただけで、大多数の読者は納得してしまうのだろう。

 次に肺病のイギリス婦人、この人も存在しない訳だけれど、「空家の冒険」でホームズが帰ってくるまでにメアリが死んでおり(実際は彼女が死んだから彼が帰ってきた訳だが)、その死因が結核だと[作品外で]言われていたり、ドイルが最初の妻を結核で亡くしたことまでも知ってしまうと、この幻のイギリス婦人はメアリの幻としか思えなくなる。
 滝の前でホームズと別れて宿のイギリス婦人のところへ向かったワトスンとは、実はホームズと滝に飛び込んで死ぬのを思いとどまって踵を返し、メアリの下へ帰って行ったワトスンなのだ。しかし結局メアリは失われてしまう――幻のイギリス婦人のエピソードとは、ワトスンのそういう幻想が、あのような形で定着されたものだろう。

 ワトスンはホームズ失踪から二年目に「最後の事件」を書いており、ホームズの帰還は翌年だとすると、執筆時にメアリはすでに作り話の中の「イギリス婦人」のように病篤かったと考えられる。しかも帰ってきたもののワトスンは脱け殻状態で、何があったかメアリに悟らせてしまったろうし、要するにホームズと自分で結果的に彼女の死期を早めたも同然とワトスンは思っていたに違いない(『シャドウ ゲーム』でホームズとワトスンの代役であるモリアーティとモランにメアリの代役のアドラーを“結核で殺させた”脚本家は、よく原作を読み込んでいると言えよう)。

 ワトスンがこの時「麓のあたりまで降つてから見かえ」るともう滝は見えず、「山のいただきあたりに滝へゆく道がうねうねとうねつているのだけが見える」。その道を「ひどく急いでゆく男があつた。その姿は緑のバックのなかに黒くはっきりと見えたのを思いだす」。黒くはっきりと見える幻。無論モリアーティだが、あとで思えばあれがモリアーティだったのだ、などとはさすがにワトスンは言わない。“his black figure clearly outlined against the green behind him”とまるで切り抜いて緑の背景の上に置いたような「影」。実はこれがワトスンが間違いなくまさ目にみた唯一のモリアーティ(しかも、ホームズにあれがそうだと言われてそっちを見た時と違いこの時はそれと知らずに)なのだが、いったいこれは何か? 影は「坂道をとぶように登つてゆく」が「まもなくそのことは忘れて、病人のことばかり考えながら道を急いだ」。

 ホームズと別れてメアリ(と彼女に象徴される英国での真っ当な生活)の下へ向かうワトスンがそれと知らずに見たのは、自分の代りにホームズと滝へ飛び込むべく急ぐ彼自身の「影」だったのであり、彼が「そのことを忘れて」イギリス婦人の下へ急ぐのはけだし当然であろう。そしてイギリス婦人は幻でワトスンには救いようがないとは、もはやメアリの下へ帰っても手遅れであることの暗示でもある。

 医者が間に合わなくて実際に死ぬ結核の女性は、ホームズ生還後の『スリークォーターの失踪』に再び現われる。ポーの小説さながらの死美人は「ベッドに横たわっているひとりの女性――若く、美しい。穏やかだが、血の気のない顔、うつろに大きく見ひらかれた青い目――豊かに渦巻く金色の髪のなかから、その顔が凝然と天井を見ている」と描写され、傍で悲嘆にくれる夫がホームズとワトスンを医者と思って告げる――もう遅い。彼女は死にました。

 最近、これもtatarskiyさんから指摘されたのだが、この美女は蝋人形である――「空家の冒険」のホームズの蝋人形が存在せず、モラン大佐(実は彼自身もホームズの狙撃者としては存在せず、よそから借りてこられたのである)や読者の目を惹きつける囮であったように、彼女も異性愛のラヴ・ストーリーという表向きのプロットのために借りてきて据えつけられた作り物なのだ。スリークォーターはなぜ失踪したのか、本当の愛は誰と誰の間にあるものなのか、これは短篇で登場人物も少ないので、ぜひ御自分で確かめて頂きたい。

コナン・ドイルとは何者か
 帰還後の彼らの夢想の部屋は荒波にさらされる。彼らは本当のカップルになり、自分たちを否定する社会に対抗することになるのだ。ホームズが女嫌いだとはワトスン自身がそう書いてもいて、いくらでもそれを繰り返す人がいるのも事実だが、本当の「女嫌い」の推理小説とはレイモンド・チャンドラーのそれのようなものだろう。チャンドラーのことは以前ブログでもちょっと書いたことがあるが、特に彼と較べた場合、ドイルの特徴は際立つ。ホームズがホモソーシャリティから切れているのは、マジョリティの男たちのネットワークから否応なしにはみ出てしまう存在だからだ。一方、一匹狼を自認するハードボイルドの探偵とは、女を憎みながら女と性交する男であり、同じスタンスの無数の男たちが彼を支えている。

 もしワトスンがいなければ、ホームズは他の“犯罪者”たちと、そして/あるいはジキル-ハイドやドリアン・グレイやオスカー・ワイルドと同様の、さらにはロジャー・ケイスメントのような最期を遂げていたかもしれない。孤立無援の彼の唯一の砦にワトスンはなったのだ。植民地の人権問題に尽力し、アイルランドのために働いたロジャー・ケイスメントは、性的な秘密の暴露という理不尽なやり方によって殺された。ホームズの「帰還」以降、つまり彼らがカップルになって以降のワトスンが秘密主義になり、ホームズが事件の記録の発表を嫌うようになり、彼らがマイクロフトを通じて政治や謀略の領域により深く踏み込んでゆくようになったのもけだし当然と言えよう。変わり者の探偵とアマチュアの友人がベイカー街の部屋を訪れる市井の人の奇妙な訴えに耳かたむける「冒険」の世界は去り、秘密を握られ身を危うくする前に進んで他人の秘密を握ることこそ、自分たちを守るものであることを彼らは知ったのだ。

 ワイルド裁判の衝撃の下に明確にテーマを設定して書いたウェルズと違い、ドイルは少なくともはじまりにおいては、意識的に彼らの関係をメインの主題と意識していた訳ではないだろう。ホームズものの最初の二つの長篇は、伝奇小説であったり、臆面もないラヴ・ロマンスであったりという面を持つ。また、探偵小説の始祖としてのみならず幻想小説家としてのポーの衣鉢をも彼は受け継いでおり、それは「最後の事件」のウィリアム・ウィルスンを髣髴とさせる分身の描写一つ取っても明らかだ。しかし、ポーのデュパンと無名の語り手をモデルにホームズとワトスンを創造したドイルは、自らの小説の真のオリジナリティ――形式をまねた追随者のついに及ぶものではない探偵と親友の関係の魅力――の本質に向かって、ゆっくりと成熟して行ったのだ。

 ここでは私たちの見出した証拠のいちいちを述べることはしないが、少なくとも短篇第一作では、ホームズをクィアーとして描くことにドイルは腹を決めていたと思われる。そして彼は運命的にケイスメントに出会った。彼と、彼をあのような形で失ったことは、ホームズの話に人に知られることのない、しかし決定的な痕を残すことになった。周知のようにポーは「幻想小説」や「探偵小説」の祖として見なされてもその藝術性は担保されているが、ドイルは平気でたんなる凡百のミステリ作家の祖として片づけられてしまう。しかし、トールキンがファンタジー文学の祖であるなどということが全くないように、ドイルもまたその唯一無二の達成をヘテロセクシズムとホモフォビアのせいで今日まで認められることのない作家なのだ。
[PR]
by kaoruSZ | 2012-12-22 08:44 | 批評 | Comments(0)
「その夜寝台[ねだい]に二人の男あらむに」と聖書は記せり 黒き紅葉  ――塚本邦雄



ワイルド裁判と『モロー博士の島』
『モロー博士の島』出版(一八九五年)から三十年後に、H・G・ウェルズが自らの全集の序文で、この小説はオスカー・ワイルド裁判を念頭に置いて書いたと述べていることはエレイン・ショウォールターの著書『性のアナーキー』で知った。しかし、ショウォールターはその意味を完全に取り違えている。

 ウェルズ曰く――「その頃、スキャンダラスな裁判が、一人の天才のぶざまで哀れな失墜があった。この物語は、人間とは、動物が荒削りにされて形を成しているにすぎず、本能と禁止とが絶えず内部でせめぎあっている存在であることを思い出させるかの裁判への、想像力ある人間からの反応であった。この物語はそのような考えの体現であり、それ以外にはいかなる寓意も持たない。これは、荒削りで、混乱し、苦しむ獣としての人間というコンセプトをできるだけ鮮烈に描き出す、ただそれだけのために書かれた」

 批評家が「ワイルドとウェルズのつながり」を無視してきたとショウォールターは言う。しかし、彼女が主張する「つながり」とは奇妙なものである。『ドリアン・グレイの肖像』の登場人物を引き合いに出し、次のように述べているのだ。

「ヘンリー卿と同じくモロー博士も生体解剖者であり、世紀末の科学者の一人として女性のセクシュアリティと生殖機能を切り離そうとし、彼の場合は動物から人間を創造しようとする」「博士はまた(…)唯美的な科学論にのっとって苦痛や感情に無関心となり、その実験室はユイスマンスの部屋もしくはヘンリー卿のサロンの裏ヴァージョンで、そこで博士は科学のための科学のもたらす絶妙な感覚を楽しんでいる」

 そんな事実は全くない。ヘンリー卿が「解剖者」であるとは心理分析に長けていることの譬えにすぎず、モローは世紀末の唯美主義者になどおよそ似ていない。「女性のセクシュアリティと生殖機能を切り離そうとし」云々に至っては、切り離して何が悪い(というか最初から切れてるだろう)というのを別にしても、読者にフェミニズム的な怒りをかき立てるための捏造である。結局のところショウォールターはフェミニズム的アピールの材料に使うため、ウェルズもワイルドもねじ曲げていると言わざるをえない。

 ショウォールターは『モロー博士の島』で手術台に繋がれている牝のピューマを、当時の「新しい女」と同一視したり、「この[獣人の]女たちは博士の文明化の試みにとくに頑強に抵抗する」と主張したりしている。ペンギン・クラシックス版『モロー博士の島』の解説者は作家のマーガレット・アトウッドだが、彼女もまた、ショウォールター的な主張を踏襲し、女=抵抗者と見なすことを熱望しているので、「ピューマは抵抗する」だの、「モローを殺すのは彼女である」だの、男の犠牲者に甘んじない抵抗の表象として牝の獣を祭り上げたがる。

 だが、こうした偏見なしに読めば、当然のことながら、ここで問題にされているのは現実の女ではない。抵抗する牝のピューマは、男の女性性――男が否認し、女に投影したもの――の表象だ。この小説が(ショウォールター自身言っているように)「大きな意味をはらんだジェンダーのサブテクストを持っている」ことも、「ワイルドとウェルズ」のつながりも、ウェルズがワイルド裁判を念頭に置いてこれを書いたと述べていることも、そう考えてはじめて意味を持ってくるだろう。

 ショウォールターは、「ワイルド裁判を念頭に置いた」というウェルズの文章を読んで、動物を生体解剖して学界から追放されたモロー博士をワイルドだと思い込み、ワイルドの別の小説の登場人物ヘンリー卿の特徴でモローを補強しようとしたのだ。信じられない。それでは全く主題との有機的繫がりが無いではないか。

 ワイルドをモデルにしてウェルズが描いた人物は、モロー博士のすぐ傍にいる。医学生だった十一年前、酒を飲んで、「ある霧深い夜に十分だけ正気を失った」ため、「スキャンダラスな裁判」の主人公と同様、「ぶざまで哀れな失墜」の結果、人間社会から追放され、モロー博士にスカウトされて島に来た、「混乱し、苦しむ獣」モンゴメリーだ。失敗の中身は語られないが、主人公プレンディックはモンゴメリーから身の上話を聞いたあと、「じつをいえば、若い医学生がロンドンから放逐された理由など、あまり知りたいと思わなかった。私にだって想像はつく」と言っている。ウェルズは読者に想像力を期待しているのであり、それはさして難しいとは思われないのだが。

コナン・ドイルとケイスメントの黒い日記
 コナン・ドイルにとって、ウェルズにとってのワイルドに相当するのがロジャー・ケイスメントであろう。日本では ワイルドに較べれば勿論、そうでなくても知名度が格段に違うこの名前は、日本語ウィキぺディアの記事としては最初の概説しか見当たらず、しかも英文ウィキの当該部分の最終節(全体の四分の一を占める)に当たる記述を完全に欠いている。外交官としての功績でナイトの称号を授与されながら、第一次大船中にドイツと通じたとされ、叛逆罪とスパイ容疑で処刑されたこのアイルランド独立運動の活動家は、英文ウィキによれば、逮捕後、ブラック・ダイアリーズと呼ばれる日記にかかわるスキャンダルに見舞われた。彼の日記には、若い男性を好むpromiscuous homosexualとしての行動が記されており、このことは彼の支援者に手を引かせる効果があったのだ。彼を擁護した者の中には、W・B・イェイツやジョージ・バーナード・ショーといった錚々たる名前が見られるが、コナン・ドイルの名はその筆頭に挙げられる。ドイルは以前からケイスメントと交流があり、彼の大きな功績である、ベルギーのレオポルド二世の支配するコンゴ自由国での原住民への残虐行為の告発を基に、大部のパンフレットを書いている。

 tatarskiyさんと電話で話すうち意見が一致したのだが、映画『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』に出てくるモリアーティの「赤い手帳」とは、要するにケイスメントの「黒い日記」だろう――「彼自身の犯罪とそれによって得た隠し資産の在り処」の記録ではなく。いや、確かに犯罪ではあっても別の「犯罪」であり、モリアーティはロバート・ダウニー・Jrのホームズにモランとの愛の日記を盗み読まれた上、ロンドン警視庁へ通報されたのではないか。

 すでにtatarskiyさんが論じているが、あの映画の(実は原作でもだが)モリアーティの犯罪は多分にホームズの妄想くさく、彼とモランをつけまわしたホームズが実際に目撃しているものといえば彼ら二人の親密さだけであり、モリアーティが鳩に餌をやりながら手帳を開いているのを見ただけで、それが犯罪と隠し資産の記録だと“気づいて”しまう始末だが、それでも当時の法に従えば、ホームズは単なるリア充カップルを(ケイスメントのように)破滅させられるだけの証拠を、確かに集めていた訳だ(手帳の中身を知ったレストレードはさぞ驚いたことだろう)。

『モロー博士の島』が科学技術をめぐる寓話ではなく、プレンディックとモンゴメリーという男二人の同性愛的な関係をめぐる話であることを私に指摘したのは、去年この小説をはじめて読んだtatarskiyさんだった。その後私(たち)はそれを実証する記述をテクストの中に次々見出すことになった。上に述べたのはそのほんのとば口である。『モロー博士の島』はここではとても書ききれない隠喩で満ちみちているが、「血の味」を知ることが同性愛の隠喩になっていること、実のところプレンディックが、発端から、言葉では拒否しながらたびたびそれを味わっていること、さらに、獣人と人間の連続性(進化論が可能にした認識)が、“同性愛者”という特殊な人間が存在するという“種族化”の不可能性の喩であることだけは指摘しておこう。
tatarskiyさんのホームズ物語読解(『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』分析の副産物)の一部はすでに公開したので(http://kaorusz.exblog.jp/19549811)、ウェルズの小説の二人の男が、ドイルの場合はワトスンとホームズに相当すると言ったとしても、心ある人には受け容れられよう。


夢想の部屋
「最後の事件」を久方ぶりに読み返して驚くのは、ワトスンがこんなに“信頼できない語り手”だったかということだ。勿論、一番目立つのはホームズの追跡妄想だが、モリアーティについての情報がホームズの口から出るものに限られるのと同様に、読者の知りうることはワトスンの語りに限られている。実は、犯罪王モリアーティさえ、ホームズから聞かされたという体裁を取った“作家”ワトスンの創作と考えるべきであろう。そう、私たちはホームズの助手だの伝記作者だのという慎ましい肩書、文筆には素人である医者の片手間仕事という見せかけに騙されて、ワトスンを見くびってきたのではないか。

 それはまた、同様の経歴を持つコナン・ドイルが“作家として”まともに扱われてこなかったということでもある。彼は志と異なるものが偶然売れてしまい、自分の書いたものの価値が理解できなかった作家ではない。たとえ小説が書けたとしても短歌よりもなお悪かったであろう新聞記者あがりの歌人とは違うのだ。

 ホームズとワトスンの登場する話は、多くの(正確には五十六の)短篇と四つの長篇として散らばっているが、実際にはひとつらなりの、ワトスンが下宿をシェアすることになった驚くべき人物に関心を寄せ、相手を知ろうとするのにはじまる長い関係とその終り(どのような?)が書かれているのであり、結局ドイルも彼らと人生をともに歩むことになった。始まりでは二人とも二十代の終りくらいだが、ワトスンは従軍と戦傷のせいで引き延ばされたモラトリアム状態にあり、彼らはコンラッドのThe Secret Sharerのように住まい(と秘密)を分かち合うことになる。

 ホームズとワトスンに比べればあまりにも短い時を共有する、コンラッドの船長と海から来たその分身については以前書いたことがあるhttp://indexofnames.web.fc2.com/etc/conrad_men3.htm が、そこで私はロラン・バルトがジュール・ヴェルヌの『海底二万里』について、閉ざされた「室内」に引きこもり自分だけの夢想に浸る喜びこそが幼年期とヴェルヌに共通する本質であると論じている文章を引き合いに出した。最近、創元推理文庫版の『シャーロック・ホームズの復活』を読んでいてその「解説」に、『シャーロック・ホームズの記号論』という本に収められたシービオクとマーゴリスによる「ネモ船長の船窓」が、ノーチラス号とベイカー街の下宿との共通性を説いていることが紹介されているのに出会ったが、彼らは無論バルトを参照している。この「共通性」は、彼らを引用している解説者が思っている以上のひろがりを持つものだ。
ワトスンをこの閉ざされた夢想の部屋(そのあまたの“冒険”にかかわらずホームズはずっとそこにとどまっている)からともかくも一度は出て行かせることになったきっかけは、言うまでもなく『四つの署名』で知り合ったメアリ・モースタンとの結婚である。そしてその結果が「最後の事件」に他ならない。

「最後の事件」とは何か
「最後の事件」は、それが発表された現実世界のドキュメントに見せかけたプロローグとエピローグ、そしてその間に挟まれた“妄想”から成る。最後のものは、一見、妄想に取り憑かれたホームズを、それに気づかぬ鈍い語り手のワトスンがリアリズム的に描いているかのようだが、それがワトスンの詐術である(いや、詐術などと言わずとも普通に「小説」と呼んでいいのだが)。彼らの同時代人だったフロイトが示したように、妄想と夢と小説は同じ品柄でできており、同じ論理に従う。それが或る時は現実の写しと見せかけていたり、ホームズの言動のようにあからさまに妄想的だったり、ワトスンの語りのようにニュートラルな叙述と見せて実は“夢”だったりという違いがあるだけだ。
 例の『シャドウ ゲーム』は、ほぼ全篇ホームズの夢と言ってよさそうだが、「最後の事件」は、本当に起こったことを明かすわけにいかないワトスンが代りにペンを持って紙上で見た、とりつくろわれ、再構成された夢なのだ。

 モリアーティが実在しないのはまず間違いない。ドイルも、はっきりそれを読者に示すつもりで書いていると思われる。ホームズは言う――「僕は幽霊など信じはしないが、いまがいま考えにふけっていた当の本人が、とつぜん目のまえに現われたのには、思わずドキンとなった」。幽霊ではないにしても、ドッペルゲンガーだろうそれは。
 すでに別にツイートしたがhttp://twilog.org/kaoruSZ/date-121104 ホームズによって描写されるモリアーティの外見自体、彼自身のものとして私たちが知っているものにそっくりなのだし、そもそもそうやって話しているホームズの、深夜のワトスンの診察室への出現そのものが、語られているモリアーティのホームズ訪問の反復である。さらに、モリアーティの部下に襲撃されたとホームズが主張する出来事は、どれも単なる偶然が、ホームズの妄想に取り込まれたとしか思えない。モリアーティの姿を見たと彼が言っている箇所も同様だ。

 ここまで明らかなことをワトスンはなぜ指摘しないのか。なぜホームズに、それは君の妄想だろうと一言云ってやらずに口をつぐんでいるのか。理由は簡単だ。その妄想を作り出しているのは実はホームズではなくてワトスン自身、作中人物ではなくてそれを書いている作家としてのワトスンだからである。(続く→http://kaorusz.exblog.jp/19707256/
[PR]
by kaoruSZ | 2012-12-22 07:47 | 批評 | Comments(0)
              彼は再発明された愛、そして永遠だ。――「イリュミナシヨン」

§
 昨日はtatarskiyさんとまず上野へ、上高近くの古い住宅を改装した隠れ家的ティーハウスを見つけてお茶したあと、紅葉終りかけの不忍池でスワンボートに乗る。ボート三隻しか出ていない水面に鷗の群が低空飛行。最後に、明日まで夜間開園の六義園へ。その前、上野駅のつばめグリルにいた時に地震。
 帰ってきて椅子でうたたねしていたら電話で起こされた。別れたばかりのtatarskiyさんが、ホームズとワトスンを“ブロマンス”の例とするツイートが多数出回っているのを見つけて、怒り心頭でかけてきたのだ。そりゃひどい。ホームズはホモソーシャリティから切れた人。彼が「男の友情が」とドヤ顔するなんて考えられるか? 「僕の友人は君だけ」の人だよ。ワトスンと二人で全世界に対抗する白い手と甲高い声のクィアーじゃないか。性的であることをあらかじめ絶対的に除外するというのはたんにホモフォビックだと知るべき。

“ブロマンス”の代表ならイシハラとハシゲとでもしておけ。(それにしてもアレをつかまえて自分の牛若丸って、みじめだと思わないのか。若さに輝いていた頃の弟のような青年ならともかく。TV無いから見てないけど薹の立った牛若丸もデレデレだったらしいね。醜悪極まる。)そもそも「女」や「ホモ」を石原が憎むのは内なる女性性を死ぬほど恐れているから。感じるように考え考えるように感じるホームズのような人とは正反対なのだ。(12月8日)

§§
 tatarskiyさんが映画『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』を見たことに端を発して、ホームズ物語(それ以外のドイル作品も)再読と発見の日々ははじまった。その直前まで私たちは、主に折口信夫の小説作品に関して同様の発見の日々を分かち合っていたはずなのだが、とりあえず折口は脇に置き、トールキンのことも忘れて。トールキンと言えばコナン・ドイルは、いろいろな意味でトールキンに比較されるべき作家であろう。先入見(前者は大衆小説、後者は学者の手すさびの“児童文学”と見なされて)によって真価を知られないままであることにおいて。新しいジャンルの創始者と思われているが、実は隔絶した孤高の作家であることにおいて。そのジャンルの後継者を自認する者はあまたいるが大半は凡庸なジャンル作家そのもので、創始者は理解されないまま、しかもその理解されなさのほどが半端ではない!
 そして何と言っても、同性愛を明示的に描くことが不可能だった時代に、それを主題として書き(勿論巧妙に隠して、しかもあらわに見せながら)、そのことが今なお発見されずにいるという点において。

 すでにtatarskiyさんの書いたものを映画についても原作についても載せているが、私の連続ツイートも以下にまとめてみた。別に中断しているものもあるが、完了させたらたら載せるつもりだ。

§§§
 昨夜は図書館で河出書房版(オクスフォード版の翻訳)のホームズ全集の(おもに『事件簿』の)注釈と解説をチェックしていた。ホモフォビックなのはかねて聞いていた通りだったが、ホモフォビックとは、たんに「ここには同性愛を示すものが何もないということを指摘しておく価値がある」という文句が突然出てきて唖然とさせられるという現象だけを指すのではない。そもそもそういう精神は批評に全く向いていないのだ。
 とはいえ、これは警察の捜査のようなもので、組織的にやってくれるからこっちとしては大いに助かる。だが、悲しいかな彼らには読み方が分っていないから、膨大な集積もとんちんかんな解釈の連続、宝の持ち腐れなのである。

「高名な依頼人」については別にツイートもしたばかりだが、あの中にホームズが「ヨーロッパ随一の危険な男」と呼ぶグルーナー男爵について次のように言うくだりがある。「複雑な性格と見えますね。犯罪者でも“大”のつく連中は、みんなそうしたものです。わが古馴染みのチャーリー・ピースなんかはヴァイオリンの名手でしたし、ウェインライトも並みの芸術家ではなかった。ほかにも枚挙にいとまなしということです(…)」

 このウェインライトなる犯罪者が実在したことを注釈で知った。オスカー・ワイルドが『ペン、鉛筆そして毒薬――緑の研究』をものしている毒殺魔というではないか。注釈はそれ以上触れていないが、これは “Pen, pencil and poison”に“A study in green”と副題してワイルドがドイルへのオマージュとしたものだ(ちなみに塚本邦雄の歌集『緑色研究』の題はここから来ており、無論ワイルド→男色=緑色の意)。

 ホームズが名前を挙げた「大犯罪者」二人のうち、前者はヴァイオリンの名手ということで明らかに彼自身に重なり、もう一人がこのウェインライト、調べてみると「芸術家」とは比喩ではなく、文学も絵画も手がけたらしい。「ペンと鉛筆と毒薬」とはその道具の謂と今さらながら知る。それらを使うわざ(毒薬以外)にいそしみつつ流刑先のタスマニアで没した由。塚本は歌集で二つの「研究」の表題を挙げ、自分は毒の方に関心があると称していたが、私たちの解釈を聞く機会に恵まれていればドイルとホームズにより関心を抱いたであろう。ホモソーシャリティに安住した女嫌いでは、見える幻にも限界があるというものだ。

 実在の、そしてオスカー・ワイルドと関連づけられたウェインライトが、犯罪者と芸術家を兼ねるのは、そしてホームズ自身が彼と同一視されうるのは偶然ではない。探偵は犯罪者でもある――ホームズはいかなる意味でも警察の側の人間ではなく、警察がその典型である制度的な見方とは違うふうに感じ/考え、見、読み取り、享受しうる。これは芸術家には絶対的に必要なことで、だからこそホームズは芸術家でもありうるのだし、制度的な異性愛の男が考えることと感じることを切断されて住まう貧弱な世界とは違うありようを生きる者でもありうるのだ。

 だが、なぜそれが“犯罪”なのか? R・L・スティーヴンスンが『ジキル博士とハイド氏』を発表したのと同じ月に発効した、そして『四つの署名』が載ったのと同じ雑誌の同じ号に『ドリアン・グレイの肖像』を書いた作家を失墜させた法律が、かの探偵の活躍期間を通じて有効だったのは確かである。この間[かん]、英国において同性愛は名実ともに犯罪であった。すでに畏友tatarskiyが端的に指摘しているが(kaorusz.exblog.jp/19664604/ )ホームズ物語に顕著な「過去の因縁」「秘密」「恐喝」「嫉妬」といったモチーフは、実はその大半が同性愛を主題に持ちながら異性愛のデコレーションで偽装されており、中のケーキは誰も手をつけないままであるのだ。

『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』は、「ゆすりの家」と名づけられた家の「秘密のドア」(ハイド氏が出入りするのがが目撃される。実は、ジキル邸の、別の通りに面したバックドア)についての会話に始まり、ジキルの書斎のドアが強引に打ち破られることによる秘密の暴露と主人公の死で終っていたが、ホームズと“彼の”犯罪物語は、「秘密」「恐喝」のモチーフを直接受け継ぎ、男たちの孤立した寒々しい死しか想定されなかった地点で始められながら、ついには「愛の再発明」(アルチュール・ランボー)にまで到らしめるという稀有な達成を遂げ、しかもそれを誰にも知られぬままだったのである。

 tatarskiyさんも前記の「『シャーロック・ホームズの冒険』読解メモまとめ」でほのめかしているが、初期の短篇のホームズは『ジキル博士とハイド氏』や『ドリアン・グレイの肖像』の世界から直接やって来たのであり、その「二重の魂」(ポー)は、先輩格の元祖引き込もり探偵にばかり倣った訳ではない。犯罪捜査と称して阿片窟に入り浸ったり、コカインを用いたりするのは、ハイド氏(ホームズもまた魔法のように別人に変身する)の夜の街での“悪徳”の正体がけっして明言されなかったのと同じ置き換えであり、彼は自分が熟知するロンドンの犯罪者と実は一つ穴のむじなである“犯罪者”であるのだ。

 一方、ワトスンはアフガン戦争での負傷によってモラトリアムを引き延ばされ、恩給と恐らくは親の遺産(とその運用)でホームズと下宿代を折半する暮しをしながら、作家になる夢も捨てていない医師として、つまりは開業していることを除けば彼らがその頭から出てきた当時のドイルと似た境遇の青年として登場した。彼は少なくともドイルに匹敵する力量を持つ作家になり、向う側の世界、すなわちドイルが存在せず、ワトスンが同居する探偵と彼自身との冒険物語の作者として知られる世界では歴史小説の(この分野に少なからぬ野心を持つ)書き手でもあったろう。周知の通り彼は『四つの署名』の依頼人として知り合ったメアリ・モースタンと結婚し、この仮住いをいったんは捨てて一家を構えることになる。

 tatarskiyさんが言うように、自身は秘密を持たぬ常識人のワトスン(ホームズより知力の劣る凡庸な人物という誤解を生んだ)は、ホームズとは誰であるかを、読者に代って、読者とともに探求する視点人物であった――ある時点までは。言うまでもなくその時点とは、原題をThe final problemという「最後の事件」の時で、ワトスンの結婚すらやりすごして先送りされ誤魔化されていた問題がついに表面化した時、彼がそれまでホームズと自分の間に存在することさえ気づいていなかった――と言えば嘘になろう、彼がホームズのうちに見ていたもの、彼を惹きつけてやまなかったものはまさしくそれに関連するのだから――問題が最終的な形であらわになる時であった。

 周知の通り「最後の事件」は、〈二人〉が死に向かい、〈一人〉だけが帰ってきた物語である。〈二人〉をホームズとモリアーティと見せかけたのはドイル=ワトスンの小説家としての手腕、語りえぬものをいかに語るかという追求の結果であった。ライヘンバッハの滝壺には彼ら二人が今も横たわるとワトスンは記すが、本当はそこでホームズと一緒に死ぬはずの者は彼だったのであり、ここでワトスンは己の死を幻視しているとも言えよう。十年後、ドイルが「空家の冒険」を発表することで公式には帰還者はホームズとなる。しかし、モリアーティは(作品世界において)本当は存在しないのだから、〈二人〉とはホームズとワトスンであり、帰ってきた〈一人〉はワトスンなのである。

「最後の事件」の隠された物語についてはすでにtatarskiyさんが書いている。http://kaorusz.exblog.jp/19549811/ それに続くエントリも併せて参照されることをおすすめする。「最後の事件」と「空家の冒険」に関しては私たちはすでに、本当にあった出来事の順番や詳しい細部まで突き止めているが、それについては別の機会に譲りたい。

 あらためてお断りしておくが、私たちはこうした読解を「多様な解釈」の一つとして提出しているわけでは全くない。一見似たような試みと私たちの仕事とは何の関係もない。これは対象についての恣意的な空想ではなく、あえて言えばホームズのやっているのと同じ推理によるわけで、いかにありえないことに見えたとしても妥当と思えるならそれが真実なのである。対象を本当に知る気があれば、これらの物語はこれ以外に読みようがないと、そしてその気になればそれは誰にでもはっきり見てとれるものだと私たちは考えている。

 急いで付け加えておくと、これはいわゆる二次創作的なものの否定ではないし、細部をあれこれ想像することを「恣意的な空想」と貶めたいわけでは全くない。評判の映画やTV番組も(私はTVを持ってすらいないので見られないだけで)機会があれば見たいと思う。そうしたものはすべて、特に二次と称する必要もない普通の「創作」だし、ホームズとワトスンの関係をホモエロティックなものとするのは原作がすでにそうなのだし、明示的に描くわけにいかなかったドイルが様々な工夫を凝らしたところでもある。

 私がクズだと思うのは、例えば二人について「同性愛でない」といちいち断わらなければいられない輩であり、「最後の事件」後の行方不明期間にホームズはアイリーン・アドラーと暮していたとか言う世にも下らない空想を書いていると漏れ聞くグールドとかいう男である。はっきり言っておくがホームズ物語はガチである。そういうヘテロ妄想は原作と原作者に対する冒瀆だ。

 アイリーン・アドラーについて言えば、おしなべて顔のはっきりしない女しか出てこない原作の中で、なぜ彼女だけがくっきりと鮮やかな輪郭を持つのか。the womanだから? その通りなのだが、そういう貴方がthe womanの意味を判っているとはとても思えない。女と聞いただけで、ヘテロセクシストどもは男とつがわせることしか頭にないから、ホームズと同棲とか言う馬鹿げた発想が出てくるのだ(というか、それ以外の発想はないのだろう)。原作を観察してみよう、ホームズのように。あんな短い話で、アドラーについての言及はさらに短いのに、どうしてみんな見落すのだろう。

 アドラーに夫がいることをどうしてみんな無視するのか。彼女の夫についてホームズが何と言っていたか思い出してごらんなさい、というのがtatarskiyさんからののヒントである(私は思い出せなかったが、その後電話で話すうち、彼女も気づいていなかった「アドラーの本当の正体」に思い至った)。

 ホームズの失踪と帰還という折り返し点以降の語り手としてのワトスンに話を戻すと、ホームズの「正体」を知った彼には、それまでのように読者の代りとしてホームズを見、事件について率直に語るというポジションは不可能になる。tatarskiyさんが言うように、以降は読者に対する“裏切り者”であるしかなくなった。逆にそれはホームズとの共犯関係が成立したということでもあり、再びベイカー街に戻ってきた(というかむしろ連れ戻された)後のワトスンは、ホームズとその秘密――あるいはむしろ“彼らの”秘密――を守ることに力を注ぐ。

「過去の因縁」「秘密」「恐喝」等のモチーフはここでも重要な役割を果たす。「空家の冒険」はほとんどセルフ・パロディであり、仲間を死なせて一人戻ってきて今は経済的にも安定し、申し分ない紳士として行いすまして暮している(メアリは真実を知ってしまったことだろうが)ワトスンの前に、昔の悪い仲間の亡霊としてのホームズが現れて気絶させる。チベットに行ったとか何とかいうのはハガードの読み過ぎで、女と一緒だったとは作り話としてもお笑い草である。実際にはメアリの容態をマイクロフトから絶えず知らせてもらっていて、ワトスンが独り身に戻ったらすぐさま帰る気でいたのだろう。ヨーロッパを離れたりする訳がない。

 河出版の解説(やっとここへ戻って来た)では、ある時期以降のワトスンの秘密主義、孤立化、親密さ(ホームズとワトスンの、またワトスンと読者の)が失われてゆくことが指摘され、それは正しい観察だが、しかしロブスンとかいうこの解説者は、何とそれを英国の衰退に結びつけて感傷的なお喋りをしている。要するに、芸術が分らないから時代背景とか政治問題を論じて批評と称する者がここにもいたのだ(それならば最初から芸術について語ったりしなければいいのに)。無論彼らに「空家の冒険」のホームズが、ワトスンの秘密の共有者、脅迫者にして性的誘惑者であることなど分る訳がない。

 ワトスンの秘密主義や孤立化、読者との親密さの喪失といったものは、tatarskiyさんの言うワトスンの読者への“裏切り”によって説明される種類のものである。ホームズとワトスンの親密さが減じて見えるとしたら、それは二人の関係の新たな段階を隠そうとした結果に他ならない。

 ドイルの作品はロブスンが考えるような安易に時代を反映する通俗小説ではない。ホームズものの同時代の読者たち、「最後の事件」に怒り、「空家の冒険」に殺到した読者たちの生きる世界はドイルの生きていた世界そのものだったが、作中世界は創造者としてのドイルの息吹によって生を与えられた別世界、この世界と細部に至るまでそっくりでありながら別物の、言ってみればJ・R・R・トールキンなら「アルダ」と呼んだものであったのだ。ホームズとワトスンが“現実に”生きるその世界は、ドイルの明確な意図をはっきり反映したものである。そこではサー・アーサー・コナン・ドイルの名など誰も聞いたことがないが、ナイトの称号を辞退したシャーロック・ホームズは実在し、彼を男のミューズとする作家ワトスンがホームズ物語の作者として知られている。そこで彼らは勝利する。ドイルはサー・ロジャー・ケイスメントを助けられなかったが、彼処ではホームズとワトスンが社会から抹殺されることなく添い遂げるのだ。

 たぶんそこではワトスンは私たちが読んで受ける印象より遙かに有名人で(ドイルがいないのであるから)、存命中は陰口や中傷やもっと深刻な讒言の種であった彼らの関係は、次第に広く、当然のこととして認識されるようになり、今では公然たる男同士のペアとして通用していることだろう。ホームズが隠遁し、ワトスンも二度目の(偽装)結婚相手が死ぬとそこへ行って住んだ家に近い、英仏海峡の白亞の断崖を見下ろす彼らの墓は(ワトスンは探偵小説と限らず大きな影響を受けたポーの「アナベル・リー」の詩句を墓碑銘に選んだかもしれない)ゲイの巡礼地になっているに違いない。ワトスンのブリキの缶の中に残されていた書類や原稿も今では出版され、彼らの画期的な伝記も書かれていよう。グラナダTV版はあったろうが21世紀に入るといよいよ当時は発表不可能だった彼らの本当の話が映像化され、感動を呼んでいるはずだ。ブロマンスとか下らない事を言っていないで現実も早く虚構に追いつくべきだ。

 河出版の注釈にはケイスメントの黒日記のことが載っている、しかも「高名な依頼人」の茶色のノートの発想の元ではないかと書かれていることも、tatarskiyさんからすでに聞いていた。そんなふうに一般に知られているのなら『シャドウ ゲーム』の赤い手帳は絶対そこから引用したね!と思った訳だが、実際に見ると残念ながら結構首をかしげる内容だった。

 ケイスメントのことはこのあたりでも(H・G・ウェルズについてのあとで)http://twilog.org/kaoruSZ/date-121121 書いたが、今ではウェルズにとってのワイルドにも増して、ドイルにとってのケイスメントは重要だったのではと考えている。

 ロジャー・ケイスメントは英国外交官としての功績でナイトに叙せられた後、職を辞してアイルランド独立運動に身を投じ、第一次大戦中の1916年、ドイツと手を組もうとしたとして帰国時に逮捕され、絞首刑になった。その際ドイルは弁護費用の大半を負担して他の文化人とともに彼を擁護したが、「ポルノグラフィックでホモセクシュアルな」Black Diariesのスキャンダルで多くの擁護者は手を引いた。現在では名誉回復されてサーの称号も復活(ホームズの叙爵話と較べ合わせて頂きたい)、遺骨はダブリンへ戻されて国葬後、再埋葬され、彼自身はゲイアイコンにもなっているという。

 このケイスメントの“日記”について、注釈は「高名な依頼人」の登場人物グルーナー男爵が女たちとの情事を綴った「茶色いノート」の「着想の源に」なっているのではないか、「彼にこうした武器の有効性という着想を得させたのはケースメントの一件だったかもしれない」と述べており、それ自体は妥当であろうが、しかし、ケイスメントという人物のドイルにとって意味するところの重大さに較べ、単なる「着想」とはまた随分枝葉末節(のみ)にこだわったものだ。「武器」とはこの場合、世間知らずの令嬢に男爵の色魔(古い言葉だ)ぶりを示して彼との結婚を諦めさせるためのそれで、間違っても男爵を死に至らしめるようなものではない。

 黒い日記へのドイルの反応を記した箇所も全く適切とは思えない。「こうした性的妄想(ケースメントの場合は同性愛)は問題となっている重大事件に比べれば」些事にすぎないと「軽蔑的な指摘をして見せた」とあるのだが、問題とされたのは、性的な記述一般でなく、あくまで男同士のそれである。この注釈はそれが同性愛である事の重大さ(叛逆罪で処刑する程の罪状でないところをスキャンダルと併せて反感を煽れば文字通り葬り去れるほどの重大さ)を軽く見せると同時に、ドイルの軽蔑の対象と、彼にとって何が重大だったかを曖昧にするものだ。
 
 英文サイトにわかりやすい記述があったので紹介しよう。ドイルが日記の中身を見ようとしなかったのを同性愛に対する嫌悪感からのように言う人がいるが、ありえないと思う。

http://soalinux.comune.fi.it/holmes/inglese/ing_casement.htm
“…he[Doyle] controversially repelled the emissaries of the British Government who came touting the pornographic homesexual diaries ascribed to Casement - and,as he (and he alone) said, these could have no bearing on a charge of treason which was graver than anything they might contain. (by Giovanni Cappellini)

(大意; ドイルはケイスメントのポルノグラフィックでホモセクシュアルな日記を押しつけようとした英国政府の使いに対し、反論して彼らを追い返した。彼は(彼だけが)こう言ったのだ――これらの日記と叛逆罪の容疑とは、何の関係もない。日記に何が書いてあろうと叛逆罪の容疑の方が重大だ。)

 注釈はまた、ドイルは「男爵とケースメントを類似性のある人物としては描いていない」と指摘するが、写実的に描く以外の言及の仕方があるとは思わないのか。これもまた何も分かっていない――ケイスメントと同性愛を重要だと注釈者が考えない=考えたくない――からこういうことしか言えないのだ。「高名な依頼人」は現在進行中の別の連続ツイートで扱っているので、この話題はそちらに譲ることにする。※

※「『高名な依頼人』ノート」としてまとめた。http://kaorusz.exblog.jp/21426732/
[PR]
by kaoruSZ | 2012-12-20 07:50 | 批評 | Comments(0)
映画も原作もまだまだ作業中ですが、色々と調査の進展はあったので相方の@kaoruSZさんの方のツイログhttp://twilog.org/kaoruSZをご覧下さい。ところで私からもちょいと楽しい中間報告を。短編集第一巻の『シャーロック・ホームズの冒険』を精読して割り出した、重要なお話リスト、そしてそのものズバリ、この巻の登場人物たちのガチホモ紳士録であります。というわけで【ネタバレ注意】それではどうぞ♪

『シャーロック・ホームズの冒険』所収の短編中で特に重要なエピソード
「ボヘミアの醜聞」
「赤毛組合」
「ボスコム谷の惨劇」
「くちびるのねじれた男」
「緑柱石の宝冠」
以上、全12編中5編。

【ネタバレ】ガチホモ紳士録【注意】

その1.シャーロック・ホームズ氏──言わずと知れた我らが主人公。証拠は多すぎるので割愛。というか、それを核心とした彼の一連の秘密を探り出すのが全編を通して読者に課せられた使命であると言っても過言ではない。

その2&3.ジョン・クレイ氏とその相棒──必要に応じて誰にでも化けられる、年齢不詳で札付きの知能犯。女のような白い手と親密な同性の相棒の持ち主。…誰のことだろうね。

その4&5.ジョン・ターナー氏とチャールズ・マッカーシー氏──愛してるから憎いのよ!金が目当てだったのね!

その6.ネヴィル・シンクレア氏──妻子ある健全な家庭人…と思いきやの二重生活者。我らが主人公と同じお店の常連さんです。気になる方は『ドリアン・グレイの肖像』をどうぞ。そっくり同じお店が出てきますよ♪二重生活の醍醐味については『ジキル博士とハイド氏』もよろしくね♪

その7&8.アーサー・ホールダー君とサー・ジョージ・バーンウェル氏──パパに怒られてでもあんなに貢いだのに!イトコと僕に二股かけてたなんて許せない!こんな冠なんかこうしてやる~!…「嫉妬とは緑の目をした怪物で、人の心を食い荒らして楽しむ」byシェイクスピア

はっきりわかる人たちは以上の通りだが、「ボヘミアの醜聞」も実は…。まあ、ともかく上で挙げた面子全てが先に述べた重要なエピソードの登場人物、かつほとんどの場合カップルなのは一目でわかるだろう。彼らの登場するエピソードにおけるホームズ自身の言動や行動も非常に示唆的なので要注目。あくまでヒントのつもりで半ばおちゃらけた調子で書いたが、シリアスな読解にはぜひ各自で取り組んでいただきたい。おそらくそれぞれに私も気づいていない発見があることだろう。

彼らの繰り広げた事件としてのドラマは、実は裏テーマであるホームズとワトスンの関係をめぐるドラマの展開の伏線であり、それ自体としては読者に明示されなかった彼らの秘密に対する、時と場所を違えた絵解きでもあるのだ。「過去の因縁」「秘密」「恐喝」「嫉妬」といったモチーフは、言うまでもなくホームズ物語の全編に渡って繰り返し描かれる「悲劇の元凶」であり、そしてこれらは一見ヘテロセクシャルな関係に置き換えられている場合でも、全て作品そのものの根底的なテーマである「同性愛」と緊密に結びついている。

ある意味ネタバレだが、大長編としての『シャーロック・ホームズ』の物語は、構成としては「最後の事件」までを境に完全に第一部と第二部に分かれており、しかもラストは作品のテーマと真のドラマの展開を把握した上で読者が並べ直さなければ“絵”として完成してくれない仕掛けになっているのだ。

だがひとまずは長編の『緋色の研究』『四つの署名』そして『冒険』『回想』の短編集二冊分までを読み込めば、そのラストにあたる「最後の事件」の真の内容を理解するには十分である。そしてこの後に来る「空き家の冒険」以降の第二部の構成と重要なエピソードは、実は意識的な第一部の繰り返しなのだ。

また、この大長編を貫く縦糸はホームズとワトスンの関係性をめぐる物語であるのは確かだが、実はその明示的な開始地点は二作目の『四つの署名』からであり、それとは別に最初の『緋色の研究』から始まっており、かつ先述した二人の物語と絡み合いながら並走しているもう一つのテーマがある。

それは最初は完全に読者の代理人である、自身には秘密の無い常識的な視点人物として登場し、明らかに特異な人物であるホームズと関わりを持つことになったワトスンの疑問として明示されていたもの──つまりホームズに対するWho are you? という問いかけである。

語り手としてのワトスンは、同時にこの問いに対する読者の代理としての探偵役でもあり、ホームズに関して彼の知りえた情報は、ある時点までは確かに読者のそれとほぼ比例するものであった。つまり読者はワトスンを信頼し彼に完全にシンクロして読み進めることを当然の前提として刷り込まれている。

だがワトスンは実は物語の途中から完全に読者を裏切っており、それによってホームズに対するWho are you?という問いは、読者に代わってそれを追求してくれる作中人物を失うことで完全に宙に浮いてしまうのだ。そしてそれはこの物語全体の「真の結末」が隠されていることとパラレルである。

早い話があの「最後の事件」における語りから囮であるモリアーティを取り除くことで垣間見える真実とは、ワトスンが読者を置き去りに一人でホームズの「正体」を知ってしまったこと、それこそが真の「大事件」に他ならず、それによってワトスン自身も、読者に対する“裏切り者”になってしまったことなのだ。

要するに、「最後の事件」の詐術を弄した曖昧な書き方そのものが、ワトスンが読者の代理人であったそれまでとは正反対の立場──ホームズとその秘密を共有し、それを読者の目から守るべき立場に立たされてしまったからなのである。

そしてこれ以降のワトスンの記述と彼の実際にとったであろう行動は、全てこの「ホームズと彼の秘密を守る」という目的に沿ったものであり、読者に正確な情報を伝えることなど三の次なのだ。それに気づかずに読み進めても、侵入者を拒むための迷路に引っかかったように真相からは遠ざけられてしまう。

そして真実を知るためには読者自らが、ワトスンがその代理人であることを放棄した問い──ホームズへのWho are you?を自力で追求することを継続しなくてはならず、そのためにはワトスンが隠したがっていること、隠しつつも示唆していることに敏感であらねばならないわけである。

実は読者はこの物語の真相を探るための努力を通じて、図らずもワトスンが辿ったのと同じ道を行くことになるのだ。それは「誰かを理解すること」と「誰かを愛すること」との幸福な一致の──つまりは理想化された究極の“恋愛”の軌跡を辿ることであり、それは“論理”と“感情”のペアをめぐる「愛の再発明」の物語なのである。そしてそれはまた、“知的なもの”と“性的なもの”との統一された調和こそが芸術の源であり、この物語の源泉であることをも意味しているのだ。この物語は本質として“恋愛小説”であり、“芸術家小説”なのである。


P.S
【ヒント】「プライアリー・スクール」を「サセックスの吸血鬼」と重ねて読むとわかる前者の真相が色々衝撃的です。そりゃ口止め料1万2千ポンドでも安いわけだよ公爵様。いやマジで普通は鬼畜外道って言いません?あの秘書は可哀相すぎるが、結果としては彼にとっても生き地獄からの解放だったろう。
[PR]
by kaoruSZ | 2012-12-14 16:15 | 批評 | Comments(0)
※続編あり

モリアーティ教授について事実であろうと判断できることは、ホームズが「世間にも知られている事実」として語っていた経歴、彼が何らかの犯罪に手を染めており、ホームズにその証拠を握られて社会的な名誉を失い、おそらく逮捕される前に自殺したこと。そしてワトスンが彼についてホームズから話を聞いていたこと。彼にジェームズ・モリアーティ大佐という兄弟がおり、この人物が「最後の事件」でのホームズの失踪から二年後に、モリアーティ教授の名誉を回復しようとして公開状を持って世間に訴え出たこと。だがどれもあの「最後の事件」には無関係なのだろう。本当はワトスンがあの時起きた出来事についてそのままでは書けないものをなんとか形にしようと決意したのとたまたま同じ時期に、モリアーティ大佐による彼の兄弟の名誉回復のための訴訟が起こったため、それにカムフラージュのネタの着想を得たに過ぎないのだろう。

モリアーティ教授の職歴や年齢については事実であろうから、彼が少なくとも初老に達していたインテリであり、彼が行なっていた悪事が知能犯としてのそれであり、そして自分が計画した悪事の直接の実行犯として、複数人のごろつきを使っていたのも事実だろう。だが決して「犯罪界のナポレオン」などという妄想じみた万能の悪ではあるまい。彼の犯罪の証拠を握ったホームズによって警察が動き、先に実行犯だったごろつきたちは皆逮捕されたものの、モリアーティ教授は最初の手入れから逃れ、そして死によって自らの名誉を守ることを選んだのであろう。

そしてこのモリアーティ教授の自殺によって幕を閉じたであろう事件は、どの程度かは不明であるが「最後の事件」より以前のものであるのは確実であり、おそらくその前年にあたる1890年にワトスンが記録したという三件の事件のうちのいずれかである。ワトスンはモリアーティ教授に関する事件の顛末をそれなりにリアルタイムでホームズから聞き知っていたと思われる。つまり、二人のモリアーティに関する会話の内容は、誇張され歪曲されてはいるものの、まったくの事実無根ではあるまい。だがそれは決してあのスイスへの心中旅行の道中で交わされたものではないのだ。

ワトスンが「最後の事件」冒頭で「私の知るかぎりにおいて、この事件のことがおおやけに報道されたのは三度だけである。1891年5月6日にジュルナル・ド・ジュネーヴに載った記事、同5月7日にイギリスの各紙に載ったロイター通信、そして最後が前述の公開状である」と述べ、そして最初の二つはごく簡潔な記事だったが、最後のものは事実を完全に歪曲しているのでここでそれを明らかにするのだと言って「最後の事件」当時についての記述に入るのだが、これは完全に継ぎ目の見える見え透いた詐術である。そもそも最初の記事はその新聞の名前からして、ホームズが行方不明になったライヘンバッハの滝のある地元スイスの現地報道であり、その翌日のロイター通信の記事は知らせが本国イギリスにも一日遅れで伝わったことを示すものだろう。そして最後のモリアーティ大佐の公開状は、ホームズによるモリアーティ教授への捜査の不当性を訴えるものではあるにしろ、実はホームズの行方不明とはまったく無関係なものなのだ。そもそも「最後の事件」に書かれているようにホームズとモリアーティが格闘の末に滝壺に落ちた可能性があったのであれば、それは立派な殺人事件であり、その報道も「簡潔な記事」で済んだはずはない。そしておそらくリアルタイムで報道されたであろう事実は、「友人と保養のための旅行に来ていたシャーロック・ホームズ氏がライヘンバッハの滝付近で目撃されたのを最後に行方不明となった。同行していた友人の証言によると、失踪当時の氏は情緒不安定に陥っており、錯乱して発作的に滝壺に飛び込み自殺を図った可能性がある」といったところだろう。

そしてどう考えてもワトスン宛に残されていたホームズの遺書の本当の内容が、すべてを公にできるようなものだったとは思えない。それでもあらかじめ財産を整理してマイクロフトに託したこと、「奥さんによろしく」という文句があったこと、そして結びのワトスンへの呼びかけなどの細部は事実と一致するだろう。

また、「空き家の冒険」でワトスンはホームズと再会するが、これは別にドイルが無理やりホームズを生き返らせたわけではない。「最後の事件」における結末のそもそもの意味が「ホームズが死んだ」ことではなく、「ホームズがワトスンの前から姿を消すことを選んだ」ことだからだ。きっぱり殺そうと思えばワトスンの目の前ではっきりとホームズを死なせればよかったわけで、そうではない時点でおのずと察しがつくというものだ。

【追記】
12月3日
朝ポストした文章をエントリーとして載せてもらったが、その後はっきりしたことを補足。上のエントリーではモリアーティ教授の兄弟の名前が「ジェームズ」だったように書いたが、皆さんご存知のようにこのファーストネームは「空き家の冒険」ではモリアーティ教授本人のものとされている。

で、結論から言えばこのファーストネームはモリアーティ教授本人のものに間違いないのだが、同時にこの名前が「最後の事件」の際には彼の名誉回復訴訟を起こした兄弟のものとされていたのも必然であり、ドイルのミスではない。これは巧妙なヒントなのだ。

また、このモリアーティのファーストネームが明かされる場面が、モラン大佐の経歴について語られるのと同じ場面であることは、実はそれ自体が種明かしに等しいのだ。ワトスンはやはりドイルの分身である。この詳細についてはいずれ私から語ることもあろうが、それよりぜひ各自で謎を解いてほしい。

12月6日
3日のツイートのヒントの続き。相方に難しすぎると言われてしまったし、自分でもこれだけじゃわからないなと思い直したので。実は「ジェームズ・モリアーティ」も「セバスチャン・モラン」もおそらく彼らの本名ではないということ。正確にはそれぞれ姓と名前の「半分が本当で半分が嘘」の組み合わせ。

これは名前自体が「虚実の継ぎ目」を象徴しているわけで、要は彼らが登場する「最後の事件」と「空き家の冒険」がホームズとワトスンの間に本当にあった出来事のすり替えであり、モリアーティもモランも“作者”であるワトスンが(作品世界における)実在の人物をモデルにキャスティングした囮なのだ。

そしてホームズとワトスンの間に起きた出来事が本当はどんなものだったかわかれば、「何が実際には起きなかったことか」も同時にわかる仕組みになっている。そして読者に示されたあの「虚構の出来事」の中でのモリアーティとモランの役割が理解できれば、同時に実在した彼らについても推測がつく訳だ。

「最後の事件」でも「空き家の冒険」でも、実際にはホームズとワトスンはモリアーティともモランとも顔を合わせていないし、ワトスンに至っては作品世界の時系列のどの時点でも、ホームズからの伝聞を除いてはおそらく彼らの姿すら見ていないのだ。つまり彼らについての記述は実は全て“引用”である。

自分で真相を探ってみたい方は、まずは原作のテクスト以外にシェイクスピアの『十二夜』を読んでほしい。これは捕縛されたモランにホームズが言った「旅路の果ては恋人同士のめぐりあい」という台詞の出典だが、実は“引用”されているのはこの台詞だけではなく、非常に重要な手掛かりになっている。

そして「最後の事件」ではモリアーティについて、「空き家の冒険」ではモランについて、ホームズがワトスンに話して聞かせる場面に注意を払ってほしい。重要な共通点が見つかるはずだ。ネタを明かしすぎかもだが、特に後者の場面では実はあからさまに“記述の引用”を示唆するアイテムが登場している。

また、実はこの会話の場面に限らず、全ての出来事はそれが起こった後から“作者”であるワトスンが再構成したものであり、要は読者はあらかじめ彼の掌の上で踊らされているようなものなのだ。彼は決して彼自身がそう装っているような、鈍感な善意の記録者にすぎない素朴な人物ではない。

つまり小説としての『シャーロック・ホームズ』の読解とは、いわば読者とワトスンとの真剣勝負なのである。そしてこれは言うまでもなく、メタレベルでは読者とドイルとのそれなのだ。私たちもまだ始めてから日が浅いが、こんなに面白いゲームは無いと言える。ぜひもっと多くの人に参加してもらいたい。
[PR]
by kaoruSZ | 2012-12-03 10:39 | 批評 | Comments(0)
前回の続きをtatarskiyさんが連続ツイートにしたので以下にまとめた。こんなことをわざわざ言うのは野暮であり馬鹿らしいのだが、一言だけ断わっておきたい。これはドイルの小説をネタにした“妄想”などでは全くなく、原文を偏見なしに読めばまさにそう書かれていると(ちょうどホームズの推理が彼がいなければ誰にも気づかれないままの事柄だとしても説明を聞けば納得できるように)誰にでも理解できることである。世の中には(たとえば)ワトスンの結婚の回数について片言隻語を取り上げた議論をして知的遊戯と称する人も多いようだが、これがそうしたたぐいと根本的に異なり、たんに“批評”であることも言うまでもない。(kaoruSZ)



「三人ガリデブ」でワトスンはなぜあんなに感激したのか


前回は原作の「最後の事件」と、「三人ガリデブ」「高名な依頼人」に出てくるワトスンの二度目の結婚の関係について触れたが、実はまだまだ細かい証拠はいっぱいある。あえて書かなかったネタも含めていずれ原作篇としてまとめるつもりだが、ここでは一つだけ追加しておきたい話を。

「三人ガリデブ」の、あの、撃たれたワトスンをホームズが介抱する場面。普通に読んでいて感動的なのは確かだけれど、よく考えるとワトスンの感激の仕方は非常に不自然なのだ。

なんで今の今まで自分を思いやっているのかも確信が持てないような相手に「多年にわたる私の取るにたらぬ、しかし心からなる奉仕の生活」というほどの無私の奉仕を捧げていたのか? それにここまで読んできた読者からすれば、ホームズがワトスンを信頼し必要としていたことはまったく疑う余地がない話。

つまり、ワトスンとホームズの間に読者には明かされていない事情があり、ワトスンの「奉仕」というのはそれに対してのもの、早い話が“負い目”があるからだったとしか考えられない。

彼の「この天啓の一瞬に頂点に達した」ほどの感激も、あの撃たれた自分を気遣うホームズの反応によって、“それ”が許されたこと、許されていたことを確信したからだ。先に挙げたエントリーに書いた話の続きだが、実はこのエピソードこそが、ワトスンが再婚に踏み切った直接のきっかけと見て間違いない。

ワトスンに、それがたとえホームズのためであろうとも再婚をためらわせる原因となっていた負い目、このエピソードはそれが払拭されたことを示している。もう言わなくてもわかるだろう。それはワトスンの最初の結婚と、そもそもそれに端を発した彼らの最初の破綻──あの「最後の事件」に他ならない。

あの一件の真相からすれば、ワトスンは一度はホームズを完全に追いつめて死なせたに等しく、本来ならモリアーティではなく彼こそが、ホームズと共に滝壺に身を投げるべき心中の片割れだったのだ。

彼はあの時ホームズが自分を道連れにすることを思い止まり、一人姿を消すことを選んだからこそ生きながらえたのであり、メアリーが死んで戻ってきたホームズが、実は自分に対して無言の内に償いを要求していることを知っていたのだ。

帰還したホームズから二度目の同居を申し入れられ、それに同意してからのワトスンの生活は、実はひたすらホームズに対して「あの時」を償うためのものだったのだろう。ワトスンがどれほど彼を愛していようと、再び彼を裏切ることなどありえなかろうと、「あの時」の負い目は彼らの間に、深い傷跡と無言のわだかまりを残していたのだろう。

だがワトスンは、今度こそホームズを守り抜くこと、二度と「あの時」と同じ思いなどさせないことを誓い、読者の前に示されている事件の際の直接的な暴力との対峙やホームズの心身のケアのみならず、おそらく彼らに向けられていたであろう、ありとあらゆる社会的な非難や疑いからも守り抜いていたのだ。皮肉なことに、そのためにワトスンに結婚歴があることは非常に役立ったに違いない。

だが、「三人ガリデブ」の事件の直前には、彼らはどうしても、もう一度明示的に“疑惑”を払拭する必要に迫られていたのである。それは何故か、私が皆まで言わずとも、この事件の冒頭でワトスン自身が触れているのでそれを確認してもらえれば十分だろう。

ワトスンには、疑惑を払拭するためにはもう一度どちらかが結婚するしかないこと、そしてホームズには到底そんなことは出来ない以上、自分が再婚するしかないことがわかっていただろう。

だが言うまでもなく「ワトスンの結婚」とは、ホームズにとってはあまりにもトラウマティックな思い出そのものであり、それは否応なくワトスンの裏切りを意味してしまうのだ。

たとえ頭では自分たちの名誉を守るためであると納得していようとも、いつホームズが「あの時」と同じ錯乱に取り憑かれるかもしれないことを、ワトスンは恐れていたのだ。それはそのまま、彼が本当に自分を許してくれているのかという恐れそのものであっただろう。

あの「天啓の一瞬」に、ホームズの反応からワトスンがすでに自分が許されていたことを悟ったのはなぜか。あの場面の状況での直接のメッセージ、それはホームズが「ワトスンに死んでほしくない」ことをはっきりと言葉に表したことだ。

これは実はあのライヘンバッハの滝の断崖での、置手紙を残しての失踪という行動によって示されていたのと同じものなのだ。それこそが彼らの苦い後悔の原点であり、ホームズが帰還してからの彼らの歳月は、すべてそれを取り戻すためにあったと言っても過言ではないのだ。

つまり、彼らの間に影を落とし続けていた「あの時」のリグレットは、ここで生身のホームズの「言葉」として解放されたのである。そしてそれはワトスンのホームズに対する“償い”の時の終わりでもあったのだ。

これが読者の目に見える形での彼らの“愛”のクライマックスなのは必然である。これ以降、ワトスンはホームズに「今度こそ最後まで一緒に生きるために」自らが再婚し、ホームズが隠棲し、そして再婚した妻が死ぬ時まで耐え忍ぶよう説き伏せたのだ。過去への償いではなく、共に生きる未来を摑むために。
[PR]
by kaoruSZ | 2012-11-25 06:02 | 批評 | Comments(0)
ドイルと因縁浅からぬロジャー・ケイスメントの件は鈴木薫のツイートの21日から22日のところhttp://twilog.org/kaoruSZ/date-121121にある話題。モリアーティの手帳やモランの風貌というのはガイ・リッチーの映画の話。「ケースメント」で検索しても実り少なかったが、写真は画像検索で多数見られる。(kaoruSZ註)
++++++++++++++++++++++++++++


「最後の事件」ノート                         

ふと思い立ってロジャー・「ケイスメント」で検索してみたらかなりマシでした。

http://d.hatena.ne.jp/Mephistopheles/20090124
http://ci.nii.ac.jp/naid/40016693804
http://b.hatena.ne.jp/complex_cat/Ireland/
>ロジャー・ケイスメントとは誰なのか?―コンゴ、同性愛、アイルランド蜂起 /友人の友人が彼の伝記をまとめ上げたが,そのドキュメントはアイルランド政府に押さえられた。かなりやばい話が入っているらしい。 2009/07/22


一番下のはその上の論文のブクマコメントで、大学関係者なら論文参照ネットワークで閲覧できるでしょうが、一般に出回っているものではないようなのが残念です。
ケイスメントは向こうではゲイアイコンとして知らない人はいないようで、モリアーティの手帳もモランの風貌もガチでオマージュでしょうね。

あと、『事件簿』読み返してて気がついたんですが、ワトスンの主観の中ではホームズと別居していてもほとんど「離れて住んでるだけ」に近い意識しかなくて、その時彼が結婚していたんだとわかるのは「白面の兵士」でのホームズの語りがあることでかろうじてです。
そしてワトスンの主観では一貫してホームズこそが最優先で、自分がどれほど彼に尽くしていたかについてはとても饒舌です。

で、諸々の状況証拠を合わせて考えるとですが、1902年6月末という設定の「三人ガリデブ」の冒頭(1925年1月発表)に何の説明も無く朝一緒にいる描写があるんです。そしてホームズともう一緒に住んではいないことを初めて彼が口にするのは、「三人ガリデブ」の三ヵ月足らず後(1902年9月3日)に設定されており、発表時期自体もその翌月と翌々月(1925年2月~3月)にあたる「高名な依頼人」冒頭です。
あのみんなが知ってる撃たれて介抱のラブシーンからほんの2ヶ月ちょいでいきなり再婚してて、しかも別居の理由が再婚であることを読者に言わないっておかしすぎますし、実際ほとんど続けて書いたに等しいでしょうからドイルの記憶違いとかでもありえません。

このことへの一貫性のある説明としては「実は二度目の結婚そのものすらホームズのためだった」ということしかありえません。そしてその理由は、メタレベルでの現実世界に対してのそれも含めて「彼と自分の名誉を守るため」以外には無いでしょう。だからメアリーの時とは違って妻に関して何一つ情報が無い。彼女に対するロマンスの実質なんて皆無だからでしょう。そして相手の女性がどんな人だったかも想像がつきます。
医者である彼に素直に依存してくれる、ひどいですがあまり長生きはできないことがわかっている相手。つまりは彼の患者でしょう。ワトスンがはっきり医者に戻っているのもそれと関連しているんでしょう。

で、さらに推測を進めると、どう考えてもホームズが戻ってきてからのワトスンが彼こそを最優先して守り抜くことを固く決意していたことは疑いようがない。そしてあの最後の事件こそが、メアリーとの家庭とホームズとの曖昧な関係との間で明らかに前者に傾いていたワトスンに、ホームズと一緒に死ぬ覚悟さえ決めさせる転機であったとしか思えない。だからあの表面だけでは意味不明な心中旅行の最中に決定的な何かがあったとしか考えられない。

で、あの例の電報の返事を受け取った後、帰れ帰らないの押し問答で30分費やして、その後はふらふらスイスの山の中をさ迷い歩いて死に場所を探していたとしか思えない“心楽しい旅”をしつつ、ホームズが「私たちがたとえどこへ行こうとも、執拗に後を追ってくる危険から完全にのがれさることはできないことを覚悟していた」という一連の流れ。
ホームズが自分でワトスンを連れ出しておきながら「帰国して医者の本業に戻りたまえ」とか言っているのは、本当は単に「帰れ」で十分なはずで、要は「メアリーのいる本来の家庭に帰れ」ということの置き換えでしょう。当然あの電報もモリアーティの一味云々ではなく、いきなり行方不明になったのであろうワトスンの消息を訊ねる連絡が来ていることを確認してしまったんでしょう。

そしてこの流れの中では、ワトスンが自分が「帰らない」ことを証し立てて旅を続けた、言い換えれば一緒に死ぬ場所を探すことに同意したとしか考えられないわけで、つまり橋に火をかけるような「後戻りできないこと」をしてやったとしか思えません。
要するに、あの電報後の押し問答から“心楽しい旅”が始まるまでの間に彼らはプラトニックではなくなっている。逆に言えば、だから死ぬしかないわけです。帰れるわけがない。ワトスンが帰れたのはホームズが死んだことで、“罪”を知る相手がいなくなったからにすぎません。
帰ってきてからではもう悪い夢だったことにしたいような話でしょうが。
それにしても空き家の冒険でホームズが帰ってきてからは、完全にいったんは忘れたことにした悪夢の続きみたいなもので、考えると怖い話です。そりゃ気絶もするわ。
[PR]
by kaoruSZ | 2012-11-23 21:07 | 批評 | Comments(0)
ハンカチと赤い手帳
――ガイ・リッチー監督『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』(4)          

tatarskiy

(3)から続く

手帳と鳩
場面は昼のエッフェル塔下のカフェへと移り、待ち合わせの時間に遅れて現われたホームズは、ワトソンにモリアーティを尾行して得た情報を話して聞かせ、画面にはその尾行の際の様子が映される。ホテルのラウンジで昨夜の爆破事件の記事が一面に載った新聞を広げているモリアーティ。そこにやってきたモランが「後四十分で列車が出ます」と出立を促す。二人がラウンジから出て行こうとすると、手前には眼鏡に白い髭面の老人に変装してこのやりとりを聞いていたホームズがいる。二人とは別の通路を通って先回りしつつ、早変りで今度はホテルの制服を着たポーターに変装すると、何食わぬ顔で、やって来たモリアーティの外套を預かろうとするが、鞄だけでいいと断られる。画面が一瞬カフェでの会話に戻り、ホームズが「だが……」と言葉を継ぐと、画面には再びホテルの廊下を連れ立って歩くモリアーティとモランの姿が映る。モリアーティがどこか嬉しげに「いつものあれをする時間なら十分あるだろう (We have enough time for me to indulge my little habit.)」とモランに向かって言い、モランも「ええ(Yes.)」と答えて微かに笑うと、画面はモリアーティが公園のベンチで鳩にエサをやりながら例の赤い革の手帳を広げている情景に切り替わる。ホームズの声がナレーションとして被さりつつ画面は再びカフェに戻り、モリアーティの言う「いつものあれ」とはチュイルリー公園の鳩にエサをやることで、列車の発車時刻までにそこから行ける駅はパリ北駅だけであり、そこからベルリン行きの列車に乗るつもりであろうことを突き止めた次第が語られる。

上の場面で表に出ている情報の中で最も重要なのは、モリアーティが「いつものあれ」と言っただけでモランには何のことか了解しうるという形で示される、彼らの日常的な親しさだ。おそらく彼以外にそれを鳩へのエサやりのことだと理解しうる人物は、彼らを尾行していたホームズのほかには存在しないのであろう。これまで詳述してきたように、モリアーティとモランの親密さは常にお互いだけに通じるなんらかの“合図”や“符牒”という形で表現されており、その形式自体が“言葉にできない秘密”を象徴している。

例の手帳はこの公園の場面が二度目の登場になる。先述したクライマックスでの種明かしの席で、ホームズは、変装してオスローでの講義に潜り込んだ時にモリアーティのポケットにあったこの手帳に目をつけていたこと、鳩にエサをやりながら手帳を開く彼の姿を見た時に、その内容が彼自身の犯罪とそれによって得た隠し資産の在り処を暗号化して記したものであることに気づいたこと、それ以来ずっと手帳を手に入れる機会を窺っていたことを自ら語っているが、繰り返しになるが重要なのは、手帳と暗号の初出がモリアーティとモランのやりとりの場面であったことであり、それ自体が彼らの秘密裡の“親密さ”の象徴であることだ。

そしてもう一つ重要なのは、ホームズが手帳に書かれていることの内容に気づいたのが、鳩にエサをやりながらモリアーティが手帳を開く姿を見ていた時だったと言っているのは、なぜ手帳の内容がわかったのかという合理的な理由付けにはまったくなっていないことだ。だが裏の意味を読み取れば、実は鳩へのエサやりというシチュエーションと例の手帳というアイテムの重なり自体が、「ホームズがモランと同様にモリアーティの秘密の内容を理解した」ことを意味しており、それはそのままホームズが“二人の秘密”について知っているということなのだ。繰り返し書いているが、モリアーティの陰謀とは完全に表向きの筋書きを構成する口実である以上、ホームズがモリアーティを尾行することで目にしたものは、実はこの場面に至るまでに観客自身が見てきたそれと同様、彼とモランとの親密さそのもの以外にはありえず、例の手帳とはその象徴であることを理解したからこそ入手することにこだわったのだ。

二組の“カップル”
そして次に、ある意味ダメ押しのような決定的な場面であるのが、これも先述した武器工場で、ワトソンが瓦礫の下からホームズを救出して互いの絆を確認する場面の直後のそれである。ホームズとワトソンの脱出が描かれた後、画面には先ほどワトソンがホームズを救出した瓦礫の山で、今度はモランがモリアーティを助け出そうとしている姿が映る。取り除けた瓦礫の下にモリアーティの姿を見つけたモランが「教授」と呼びかけると、モリアーティは呻きながらも懸命に顔を上げ、彼を制止するように片手を挙げながら「私は大丈夫、私は大丈夫だ。(I’m all right. I’m all right.)」と繰り返し、「私の世話をして時間を浪費するな。(Don't waste time attending to me.)」と命じる。丁度その時部下たちが駆けつけて来るが、モランは彼らを振り返ってドイツ語でホームズたちを追うよう命令すると、再びモリアーティに「必ず奴らを見つけます。必ず奴らを見つけます。(I’ll find them. I’ll find them.)」と繰り返し、怒りの表情でその場から立ち上がる。

この後ホームズとワトソンを追跡したモランは、他の部下たちがすべて返り討ちに遭い、自身もワトソンに撃たれて一度は倒れ臥したにも関わらず、執念で再び起き上がると、通りかかった貨物列車の貨車に乗り込んで逃げようとしていたホームズたちを目がけて発砲する。弾は彼らに同行していた案内役のジプシーの一人に命中し、もう一人のジプシーが悲痛な声で仲間の名前を叫ぶ。それを聞いたモランが肝心のホームズたちを撃ち損じたことを悟って執念深い怒りを滲ませた表情を映しながら、逃亡と追跡の場面は終わる。

ここに至る以前の場面では常に不気味なほど落ち着き払った態度で描かれていたモランに、これほどの怒りを覚えさせたのは、モリアーティに危害を加えられたことであるのは説明するまでもなく明らかだろう。この場面以外では、彼が殺人を実行したのはただモリアーティの忠実な手足として淡々と任務をこなしていたに過ぎず、彼がはっきりと自分で殺意を持って相手を殺そうとするのはこの場面だけである。モリアーティがモランに向けて自分が無事であることを強調し、自分の世話をして時間を浪費するなと言ったのは、そう言わなければ自分の傍を動こうとしないことがわかっていたからだ。そして言うまでもなくここでの二人のやりとりは、つい先ほど同じ瓦礫の下から救出し救出された、もう一方の二人のそれと完全に重なるものなのだ。もうおわかりであると思うが、この一連の場面が真に強調しているのは、ホームズとワトソン、モリアーティとモランという、この二組の“カップル”の同一性そのものである。

“私は彼を愛している”
これまで詳述してきたように、モリアーティとモランの関係のキーワードとは“言葉にできない秘密”そのものであり、それは実はそのまま、ホームズとワトソンの関係にも対応するものだ。レストランのホールでのアドラー毒殺、講演後のサイン会での暗号とチケットをめぐるやりとり、そして武器工場での瓦礫の下からのモリアーティ救出、モリアーティとモランが共に登場するこの三つの重要な場面のすべてで、本章の冒頭で述べたように、 “秘密”は言葉の代りに小道具やシチュエーションによって表わされている。そして、その“秘密”とは言い表せばどんな言葉になるものなのか。もうお気づきになっていることだろう。それはただ一つだけである。「私は彼を愛している」という言葉だ。

最初のアドラー殺しの場面における、二人の男が親密な合図を交わしあいながら、冷然と眉一つ動かさずに女を謀殺した情景は、言うまでもなく、彼らの暗黙の親しさとそれと反比例するかのような“女嫌い”の表出であり、サインを求める来場者の前での暗号とチケットをめぐるやりとりは、彼らの親密さそのものが、公式な社会的関係への裏切りであることの暗示である。この二つの場面をそれぞれ言葉に“翻訳”してみれば、それは「私は彼を愛しているから彼女を殺す」「私は彼を愛しているから社会を裏切る」というものでしかありえない。

そして、ホームズがモリアーティから奪った手帳に暗号として記されていたのも、この「語ることを許されない愛」にほかなるまい。それが表向きの筋書きの中では犯罪の証拠であり、それによって得た資産の隠し場所を記したものであること自体、ホームズが「悪者が罪を犯すのに理由など無い」と言い張っていたモリアーティの犯罪の真の動機をそのまま明かしてくれている。彼が彼の愛する男と共にしていることは、彼らの愛を「語ることを許されないもの」にし続けている、世界とそのモラルに対する復讐なのである。(続く)
[PR]
by kaoruSZ | 2012-11-18 23:59 | 批評 | Comments(0)
ハンカチと赤い手帳
――ガイ・リッチー監督『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』(3)          

tatarskiy

(2)から続く

第二章

上演された夢
モリアーティとはいったい何者か? これまでにも何度も述べたように、端的に言ってしまえば彼はホームズのアルターエゴである。彼の行動やそれによって暗示されている彼のパーソナリティのすべては、例外なくホームズが潜在的に保持していながら、自身のものとしては抑圧した願望である。つまり、モリアーティについて語られていることは、ホームズ自身のものとしては語るわけにいかなかったものなのだ。

先述したように、彼が始めて観客の前に姿を見せるのはレストランでアドラーを毒殺する場面である。この場面の印象の強さと重要性の一端についてはすでに触れたが、ここでもう一つ、鍵となる要素を追加してみよう。モランがスプーンでグラスを叩いて合図すると、他の客たちが突然立ち上がって出て行ってしまい、モリアーティの登場とアドラーの死は、三人の他には無人となったホールの只中で、まるで舞台の上での出来事のように上演される。
筋書きの上での合理化された説明としては、他の客たちはモリアーティの手による仕込みだったということであるのだろうが、ここで実際に目に見えるものとして生起する無言の群集の一斉の移動と消失、そしてメインの登場人物たちによる“芝居”という一連の演出は、あたかも楽曲のPV映像かミュージカルの一場面のように、リアリティーの欠如とインパクトの強さを同時に伴った、象徴的な“作り物”であり、明らかにそのあからさまな作為自体が“判じ絵”としての絵解きを要求しているものだ。そう、これは“夢”なのである。

そしてこの場面に限らず、モリアーティが登場する場面の多くはこうした“判じ絵”としての“夢”であり、それ自体が言葉としては語られえないものが小道具やシチュエーションとして置き換えられた、抑圧された願望の表現なのだ。このことを踏まえた上で、モリアーティに焦点を合わせるとしよう。

モリアーティに関してアドラー殺しの次に来る重要な場面は、言うまでもなく、ある意味このシーンと明示的に一続きになっている、研究室でのホームズとの対面の場面である。これはあまりにも核心に近いため、ここではひとまず後回しにするしかないが、繰り返しになるが押えておくべきなのは、彼らが態度として目に見える形で観客に示している情動は、実は、彼らが喋っている台詞の字面通りの意味と見せかけのシチュエーションには対応しておらず、そこからずらされた裏の意味にこそ対応していることだ。

“ラヴ・シーン”
続く場面は、ホームズがワトソンを連れて最初に向かう地であるフランスでの出来事だ。画面がホームズとワトソンの船旅の場面から、船が目指す先にある陸地を望みながら切り替わり、次いで街角の掲示板に貼られているらしいモリアーティの講演会のチラシ、そしてその会場と思しき城館のような大きな建物の外観が映される。次いで机に向かうモリアーティと彼の前に整列している一見して学者風の人々、そして彼が以前ホームズにしたように差し出された自著にサインをしている姿が映り、モリアーティが二人より先に自身の講演会のためにフランスに来ていたことがわかる。と、そこに横からモランが現われて傍らに座り、サインをしているモリアーティの机の上をそっとすべらせるようにして、暗号らしい数字が書かれたメモを示す。

モリアーティはサインをした本を相手に返してフランス語で挨拶しながらさりげなくメモを確認し、机の上にあった赤い革の手帳にはさんでしまい込むと、そこでようやく口を開き、「and my ticket?」(吹き替えは“席はとれたのか?”)とモランに訊ねると、モランは上着の内ポケットから「ドン・ジョヴァンニ」の演題が記されたチケットを取り出してみせる。チケットは二枚あり、モランは一枚を机の上においてモリアーティの方に押しやりつつ、手元に残ったもう一枚を名残惜しそうに見つめている。モリアーティはそれを見ると、「残念だったね。君のぶんは必要ない。(Unfortunately, you won’t be needing yours.)」と言い、モランはそれを受けて「本当に残念です。教授。ドン・ジョヴァンニを楽しみにしてたのに。(That's a shame, professor. was looking forward to Don Giovanni.)」と答える。このやりとりの後、外の街路に出たモランは部下に、標的である財界の要人マインハルトを尾行するよう指示を出し、カメラは命令を受けた部下たちがマインハルトの馬車を監視する姿を追って切り替わる。

この場面は、表面的な筋書きの上では、この後オペラ座でモリアーティが「ドン・ジョヴァンニ」を観劇中に、彼の命を受けたモランがマインハルトを暗殺する場面の伏線として機能している。モリアーティがモランから受け取った数字による暗号のメモとそれをしまい込んだ赤い革の手帳については、クライマックスであるライヘンバッハの滝を望むテラスでの彼とホームズとの直接対決の場面で、手帳に暗号で記されているのが彼自身の犯罪記録と犯罪によって得た莫大な隠し資産の在り処であったと明かされるが、しかしその時には、ホームズがすでに暗号の解読法を見破った上に本物の手帳を盗んで偽物とすり替え、それをメアリーを通してロンドンのレストレード警部に送ることで、モリアーティの資産のすべてを差し押さえさせてしまったとも語られる。このわかりやすい筋書き上のキーアイテムとしての機能は、しかし表面的なものでしかない。本当に重要なのは、この場面が初出である手帳と暗号が、あからさまにモランとのやりとりのためのアイテムであることだ。

まず、よく見れば気づくことは、この場面のシチュエーション自体の不自然さである。常に慎重かつ老獪であり、裏では恐るべき規模の犯罪と陰謀の実行者でありながら、ホームズ以外は誰一人として彼を疑うことも無く、表向きにはこれ以上望むべくも無いほどの社会的地位を築き上げているとされるモリアーティが、学者として講演を行なった後の来場者に対する自著へのサインという、まさに彼の社会に対する表向きの顔を象徴する場で、たとえ暗号化されたメモのやりとりとはいえ、裏の仕事の片腕との犯罪の打ち合わせを人目のある場所で同時に行なうということ自体が不自然に思えるし、一見それをカムフラージュするためであるかのようなチケットをめぐるやりとりも、今まさに自著へのサインを求めて目の前に並んでいる、学者としての彼の心酔者であろう人々を無視してまで語り合う必要性のあることだとは到底思えない。つまり、そもそもこの場にモランが現われること、しかも来場者の目の前でモリアーティの傍に座ること、そしてやりとりの内容に至るまで、すべてがリアリティーに反しているのだ。
それを認識した上であらためてこの場面を見直せば、重要なのはこのシチュエーションそのものの非現実性、公共の場でモランとやりとりする、つまり「公衆の面前での秘密の語らい」という、本質的に相容れない組み合わせそのものであるのが了解されよう。

見世物小屋には他にも大勢の客が入っていたようだが、「大勢の人」というのは「類型夢」の一つであるから、その意味はフロイト博士に訊いてみるといいかもしれない――「夢の中で「たくさんの他人」に会うのが何を意味するかご存知ですか。たとえば裸の夢などではしばしばそういうことが起こって実に恥ずかしい思いをしますね。その意味するところは他でもない――秘密ということです。つまりそれは反対のものによって表現されているのです」(『著作集』6「隠蔽記憶について」)
<『砂男、眠り男──カリガリ博士の真実』より>


上は先に挙げた鈴木薫と筆者の共同論文『砂男、眠り男──カリガリ博士の真実』の註13からの引用であり、ここで例示されている見世物小屋の場面とは、主人公フランシスと友人アランが縁日でカリガリ博士の見世物小屋に入り、大勢の見物客の前で博士の操る眠り男チェザーレから不吉な予言を受けるというものだが、実はこの「たくさんの他人に囲まれるというシチュエーション」とは上述の通り“秘密”を意味し、この場面自体が、あたかも夢の中での出来事のように、“それ”を隠しつつ表すものとして象徴化されたものなのである。

勘のいい方ならもう察しがついたと思うが、モリアーティが自著へのサインの求めに応じながらモランとやりとりをする場面も、そしてこの二人の初登場シーンであるレストランでのアドラー毒殺の場面も、この『カリガリ博士』の一場面と同様、「群集の只中で/それをあからさまに人払いした後の無人の空間で」、象徴化された“秘密”が暴露されるという、本質的に同じ性質を持った重要な場面なのだ。加えて、先述したように、特にここで取り上げているサイン会の場面での二人のやりとりの性質自体が、彼らを取り巻くオフィシャルな聴衆とは相容れないものであり、それに象徴される公式な社会的関係への彼らの秘密裡の裏切りを暗示する。

暗号の数字が記されたメモと、それがしまい込まれる赤い革の手帳はそのまま、二人が共有する“秘密”とその在り処を示す。そして続く「ドン・ジョヴァンニ」のチケットをめぐるやりとりは、表面に出ている会話の意味をそのまま追うだけでも、元々の予定ではモランもモリアーティと共に観劇するつもりでいたこと、そして従者であるモランが主人に命じられたチケットの手配を当然のように「自分の分まで」行なっていたことからして、彼らにとってそれはおそらく「いつものこと」であり、モランが同行できないことの方がイレギュラーな事態であったであろうことを明かしてくれている。おそらくあの暗号のメモには、マインハルトの暗殺予定時刻がオペラの上演時間と重なってしまうことが書かれていたのだろう。暗号のやりとりによる彼らの無言の会話と後に続く明示的な会話とは、完全に一続きのものであったのだ。

もうおわかりだろう。つまりはこの一連のやりとりの本質は悪事のための打ち合わせなどではなく、プライベートな楽しみの外出を共にすることを約束していた者同士の片方が、都合がつかなくなったことを相手に連絡しているものなのだ。彼らが行なっていることが “犯罪”と呼ばれるのは、彼らの関係へのカムフラージュであると同時にダブル・ミーニングであろう。つまり、作品の舞台として設定されている19世紀末(あるいは20世紀初め)のイギリスにおいて、“それ”が本当に刑法に触れる罪であったことをも踏まえていよう。

“秘密を分かち持つ”
『カリガリ博士』の、社会的地位のある行ない澄ました紳士(医師)が実は犯罪者だったという表のストーリーは、『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』のあからさまな流用であろう[☆6]。類似はそれだけにとどまらない。スティーヴンソンの小説の場合も、殺人を含むハイドへの疑惑は「表のストーリー」であり、「裏のストーリー」は伏せられている。いや、近年の研究を見ると、それは隠されていた訳では全くなく、『性のアナーキー』の著者エレイン・ショウォールターによれば、スティーヴンソンの周囲では暗黙の了解があった上、この小説が刊行されたのは英国で男性間の性行為を犯罪化する法律が施行されたのと同年同月(1886年1月)であり、冒頭に出てくる「ゆすり」という語は、それだけで当時の読者には同性愛を連想させうるものだったという(ちなみに、『性のアナーキー』のこの章は「ジキル博士のクローゼット」と題されている)。つまり、殺人という表面上の嫌疑の下に、当時ドイツでも英国でも実際に刑法に触れる犯罪であった同性愛の主題が潜んでいるという点も含めて、『カリガリ博士』は『ジキル博士とハイド氏』を“粉本”として使っている。
<『砂男、眠り男──カリガリ博士の真実』より>

「ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件[ケース]」とはそのままシャーロック・ホームズの事件簿に入れても(或は症例研究でも)おかしくない表題だ。ジキル博士が怪しげなハイドを遺産相続人にしているのを心配するアタスンがベイカー街で辻馬車を降りたなら登場する独身男がさらに二人増えていただろうというのは些かアナクロニックであるが。『ジキル博士』刊行の1886年1月は英国で男性同性愛が犯罪化された月であり、ウィーンの医師が男性ヒステリー研究でデビューしたのもこの年、ロンドンで患者の来ない眼科医が待ち時間に書いた『緋色の研究』の発表に漕ぎつけたのは翌年だった。
<鈴木薫のツイログhttp://twilog.org/kaoruSZ/date-121101より>


上の引用で『ジキル博士とハイド氏』と『カリガリ博士』について述べられている、「社会的地位のある行ない澄ました紳士が実は犯罪者だった」という表のストーリーと、それが隠蔽しつつ示唆している「“真の罪”としての同性愛」という図式は、まさしく今回の『シャドウ ゲーム』におけるモリアーティの罪そのものである。モリアーティとモランの関係は文字通りの“共犯者”であり、暗殺にまつわる暗号のメモと「ドン・ジョヴァンニ」のチケットをめぐる二人のやりとりは、約束していた晴れの外出を共に出来なくなったことへの軽い無念さと、今夜はたとえ離れた場所にいようとも、犯すことを約束した罪それ自体を分かち合うのだという暗い喜び、そして何も気づこうとしない自分たちの周囲の社会に対する密かな優越感すら入り混じった、甘美な秘密の共有なのだろう。この「“共犯者”として表された親密さの表現」というモチーフは、最初のアドラー殺しの場面ですでにモリアーティとモランのものとして示されていた。

もう一人のワトソン
パリでホームズとワトソンは、モリアーティが計画している爆破事件を阻止すべくオペラ座に忍び込むが、この時ホームズに続いてワトソンが一瞬振り返ってから楽屋裏への通路に入った直後、通路の片隅に蹲っていた人影が立ち上がると、それがモランであることがわかる。布に包まれた細長い荷物を抱えた彼は、二人が通り過ぎるのを意味深長な視線で見送る。結局、オペラ座に爆弾が仕掛けられていると思わせたのはモリアーティの罠であり、ボックス席で悠然と観劇しながら舞台の後ろに忍び込んだ彼を見つめるモリアーティと目が合った瞬間にすべてを悟ったホームズは、本当の爆破現場である通商会議の会場のホテルへと急行するものの間にあわず、出席していたマインハルトを始めとする財界の要人たちは会議室もろとも爆殺されてしまう。

爆破事件は阻止できなかったものの、現場の柱とマインハルトの死体の頭部に弾痕があるのを発見したホームズは、彼がホテルの向かい側のオペラ座の屋上から狙撃されたらしいことに気づいて、ワトソンと共にそちらへ赴く。二人は屋上で狙撃犯の使ったと思しき三脚と風速計の痕跡、そしてタバコを消した跡を見つける。だがそこからマインハルトのいたホテルの窓まではあまりにも遠く、ワトソンがこれほどの距離をものともせずに標的に銃弾を命中させうるほどの腕を持っているのはヨーロッパでも数人ほどだと言うほどだった。ホームズは、犯人はその中でもアフガニスタンへ派遣された人物だと言い、その証拠としてトルコ産のタバコの葉が落ちていたのを拾い上げ、ワトソンに差し出して「君たち皆が吸っていたのと同じでは?(Wasn't that the blend you all smoked?)」と問いかける。周知の通りワトソン自身、かつてアフガニスタンへ軍医として派遣されていたのである。ワトソンが頷くと、先ほどのオペラ座の楽屋裏への通路でワトソンが一瞬振り返る場面がフラッシュバックし、次にホームズが「(狙撃手の)大佐について何か読んだことがあったかな?(Didn't I read something about a colonel?)」と自問する。それに対してワトソンが「セバスチャン・モラン」と答えると、それに合わせてさっきフラッシュバックした場面の続きが映るが、ここでは、ワトソンの後姿が通路に消えた後にモランの立ち姿が現われ、そこにワトソンの「陸軍一の狙撃手だ」という台詞が重なるという演出がされている。実はこの映画の中でモランの名前が明かされるのはこれが始めてである。画面が再び屋上での会話に戻り、ワトソンは更に「不名誉除隊になってる」と付け加える。
「で、殺し屋になったわけか。奴の犠牲者を見るのは二人目だ」「巧妙だな。誰も爆破現場で銃弾の痕など探さない」というやりとりで会話が締めくくられると、再びフラッシュバックして、砲身の長い狙撃用の銃、それに弾を装填する手元、それが照準を合わせたホテルの窓辺にいるマインハルトの姿がつぎつぎ捉えられる。そして銃声と共にカメラが後退し、標的に向かって引き金を引くモランの姿が挿入された後で場面は暗転する。

まずは表面に現われた意味を確認してみよう。言うまでもなく、ここでの一連の流れはホームズの対等な好敵手としてのモリアーティの巧妙な手強さを、その忠実な手足であるモランの不気味な存在感や彼の狙撃手としての並ぶ者の無い驚異的な腕前と共に、強調するものだ。だがここで示されている真に重大な手掛かり、というよりほとんど種明かしに近い収穫であるのは、モランの名前と経歴が明かされる場面における、かつて軍務でアフガニスタンに派遣されていたというワトソンとの共通性、それを具体的に示す「君たちが皆吸っていた」トルコ産のタバコの葉、そしてその前後にフラッシュバックで反復され、強調される、オペラ座の通路で振り返るワトソンの後姿に重なるようにすり替わるモランの姿という、ちりばめられた細部による示唆そのものだ。
ここまで来ればもうおわかりだろう。モランはほとんど明示的に、もう一人のワトソンなのである。(続く)
[PR]
by kaoruSZ | 2012-11-18 23:56 | 批評 | Comments(0)