おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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ハンカチと赤い手帳
――ガイ・リッチー監督『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』(2)          

tatarskiy

(1)から続く

“影”からの呼び出し
観客の前でモリアーティが始めてホームズと対面するのは、ワトソンの結婚式の後のことである。ホームズとワトソンは結婚前夜の最後の乱痴気騒ぎでボロボロになったまま、二人きりで自動車に乗り、無言のまま式が行なわれる教会に到着する。ホームズは式の一部始終を他の出席者たちと共に見届け、ワトソンと新婦のメアリーは腕を組んで幸せそうに教会の外に出て皆の祝福を受ける。ホームズは人々の輪から外れた庭の入り口の木陰でそれを見守り、そして背を向けてその場から立ち去る。画面が切り替わり、ホームズが屈んで自動車の状態を確認していると、ふいに自分に話しかける声が聞こえ、目線を上げるとそこにはモランが立っていた。モランは「教授の使いで来た」と手短に告げ、モリアーティの教えている大学まで来るように伝言する。

次の場面は大学の構内で、ガウンを着た学生や講師と思しき人影が行き交う中をホームズが通り過ぎると、回転するレコードが映り、続いて壁一面を占めた大きな本棚の陰からホームズが現れる。彼の台詞によってこの部屋に流れている曲がシューベルトの『鱒』であることがわかる。カメラがホームズの視線を追って切り替わった先には、この研究室の主であるモリアーティと、その後ろに控える学生の姿がある。モリアーティは振り返って学生に用事を言いつけ、さりげなく人払いをした後おもむろにホームズと向き合う。
ホームズは持ってきたモリアーティの著書『惑星運動の力学』にサインを求め、モリアーティは承知して自分の机に向かいペンを取る。さり気なく室内を観察するホームズに、モリアーティはサインをしながら「あの医者は今日結婚したそうだな?」と話しかける。ホームズは、ワトソンの結婚式は滞りなく終わり、もう自分と組んで仕事をすることもないだろうと答えて、暗にワトソンを巻き込むまいと釘を刺す。本が返され、二人はあらためて握手して挨拶を交わすが、この時モリアーティは「うれしいよ、やっと君に会えた……正式にな」と皮肉気に言い、ホームズが変装してモリアーティを尾行していたことを窺わせる。ホームズは本を開いてモリアーティのサインを確認すると、半ば唐突に「筆跡学の知識はお有りですかな?」と話しかける。ああいったものは学問とは呼べないと苦笑するモリアーティに構わず、ホームズは筆跡による心理分析にかこつけてモリアーティの性格を「非常に高い知性と創造性を持ち、かつ几帳面であるが、激しく自己中心的であり、モラル意識に至っては破綻している」と言い当ててみせ、モリアーティは怒りを抑えつつそれに答える。

「君は先ほど暗にワトソンを巻き込まないようにと釘を刺したようだが、答えはノーだ。天体力学の法則によれば二つの物体が衝突する際には付随する物にもダメージが及ぶ。例えを挙げてみようか。二人の紳士が正反対の目的に向かって進む。一人の女性がその間で引き裂かれる。彼女はその緊張に耐えられず突然病で倒れる。なんとも悲劇的な結末だ。珍しい型の結核で彼女の命はあえなく散った」
モリアーティはこう言って駒の並べられたチェス盤の上に、アドラーの遺品である、彼女のイニシャルが入った血の着いたハンカチをほうり出す。この時画面には実際にレストランの床に倒れ臥したアドラーと、それを冷ややかに見下ろすモリアーティとモランの姿が現われ、彼女の傍らに落ちた血の着いたハンカチをモリアーティが拾い上げる。

モリアーティはチェス盤から黒い駒の一つを取ると、明らかに動揺しているホームズに「本気でこの私とゲームをするつもりなのか?(…)はっきり言っておこう。いいか、私を破滅させるつもりならば、破滅するのは君の方だ」と告げ、それに対してホームズは「(…)もしあなたをこの手で破滅させられるのなら、命など惜しくはない」と答え、ハンカチを手に取ると出て行こうとする。モリアーティはホームズに「幸せなご夫婦によろしくと伝えてくれ。それではまた」と付け加える。ホームズが立ち去った後、モリアーティが手にしていた黒い駒でチェス盤に一手目を指す手元を大映しにしながら画面は暗転する。

ここまでの場面は、素朴に見たところでは、ついに結婚の日を迎え、いよいよ自分から離れて行こうとするワトソンを見守るホームズの寂しさと友情、これから幸せな新婚生活に入ろうとしているワトソンを巻き込むまいとしての気遣いと、宿敵と正面から対峙したことによってあらためてはっきりと示された死をも辞さない覚悟、そして彼と互角な存在であるモリアーティの存在感の大きさが、アドラーの死を告げられるという形で示されているものに思えよう。

だが、まず奇妙であるのは、なぜここであらためて(表面の筋書きの上だけではその必然性すら定かでない)アドラーの死が強調されねばならないのかだ。それも最初に示されるレストランでの場面では彼女が倒れる姿を直接は見せず、ホームズがそれを知る時に初めて観客にも確認させるという凝った演出を用いて。そしてモリアーティの台詞の字面だけを見れば、それは女をめぐる男二人の三角関係を示唆するのが自然なものであるにもかかわらず、画面に映されるアドラー殺しの情景は、先述したとおり彼女に対する一切の感情的な温度を欠いたものであるというちぐはぐさが、極めて不穏で不気味な雰囲気をかもし出しているのだ。

言うまでも無いがこれも素朴な鑑賞のレベルでは、あらかじめ観客には示されていたアドラーの死を、ホームズと一緒に確認させることであらためてショックを与え、モリアーティの悪事に対するインパクトを強めるためのものに思えようが。

そして極めて印象的な小道具である、アドラーの血の着いたイニシャル入りのハンカチ。モリアーティはわざわざこれを拾い上げ、ホームズに直接見せつけて引き渡しているが、これだけは先に明かしておくと、この行動の本当の意味は、表面的な筋書きの中でのホームズに対する警告としてのそれを超えた、ホームズとモリアーティとの同一性の証左である。そしてこのハンカチを受け取ったホームズの動揺も実はアドラーの死がショックだったからではなく、自らの分身から自らの“罪”の証しを突きつけられたからだ。これに先立つ彼らの会話の本質も、表面の筋書きを形作る字面通りのやりとりではなく、ホームズと彼自身の抑圧された本心──彼のアルターエゴとの対話なのだ。そして先述したように、それを滅ぼすことは自身もまた滅びることを意味する以上、この最後の台詞のやりとりはあらかじめ定まっている運命を互いに確認しあっているに過ぎない。

ここではまだ詳細を述べることはしないが、まず認識しておくべきは、モランによってモリアーティの許に呼び出される寸前のホームズが、ある意味向き合うことを先延ばしにし続けてきた、ワトソンの結婚によるパートナーとしての彼の喪失という事態がついに現実のものになる日が来てしまい、結局はただ友人としてそれを見守る他に何も出来ないという、外目にはいかに諦めて友人を祝福しているように見えようと、内心は無力感に打ちのめされていなかったはずもない状態であったことだ。

そして実は、ここでモランが彼を呼びに来ず、モリアーティからの宣戦布告がなかったなら、ワトソンの結婚をめぐるホームズの苦悩の物語も、この日で否応無く終わりを告げねばならなかったはずなのだ。実際にはこの会見の後、ハネムーン中のワトソン夫妻は列車の中でモリアーティの手下による襲撃を受け、それを予期して乗り込んでいたホームズは、メアリーを文字通り列車から突き落として排除した後、ワトソンと共にモリアーティの陰謀を阻止すべく、大陸ヨーロッパを巡る冒険旅行に旅立つのだ。言うまでもなく、この展開そのものが露骨に明らかにしているのは、ホームズにとってモリアーティの陰謀こそが、邪魔なメアリーをワトソンから一時的にでも排除し、再びワトソンと共にあることの出来る時間を与えてくれたことだ。

“女”を投げ捨てる
ご覧になった方なら誰でも印象的に記憶にとどめておられようが、この列車での大立ち回りの場面はかなりきわどい笑いを誘われるものだ。ワトソンとメアリーが奮発して乗った一等車の車室でくつろいでいると、突然車掌に変装したモリアーティの手下が襲いかかる。一人目をかろうじて撃退した直後、室外でも銃声がし、ワトソンが様子を見ようとドアを開けると、二挺拳銃を振り回す大柄な女が通路に立ちふさがって奮戦していて、こちらにやって来て見ればそれはなんと女装したホームズなのである。彼は唖然とするワトソンに向かって「ひどい変装だが時間が無かった」と理由にならない理由を述べた後、ワトソン以上にショックを受けているメアリーに対して「気持ちはわかるよ。招かれざる客。そうだろう?」と殊勝に同情を示してみせる。ワトソンがまだ残っている外の敵を追って行っている間に、ホームズは再びメアリーに「私を信じるか?」と問いかけるが、彼女の返事は「まさか!」というつれないものだった。ホームズは「仕方ない」とつぶやくと、いきなりメアリーを窓から車外へ突き落とし、彼女は悲鳴を上げながらちょうど橋の上にさしかかっていた列車から下の川へと落ちていく。そこにワトソンが戻ってくるが、その場にメアリーがおらず、ホームズが彼女を列車から突き落としたことを知ると、彼女が殺されたと思って逆上したワトソンはその場でホームズを締め上げて押し倒し、二人は揉みあいながら延々言い争う。結局はホームズがメアリーを突き落としたのは彼女を安全な場所に逃がすための算段だったのであり、彼女は下の川に落ちた直後にボートに乗って待機していたホームズの兄マイクロフトに救助されたことが明かされるのだが、このいささか悪ノリが過ぎるほどのきわどい場面が笑いを取りつつ明らかにしているのは、今までホームズの苦悩と嫉妬にも正面から反応を示さずに友人として振る舞っていたワトソンが、実は彼の気持ちをすべて承知の上であえて気づかぬ振りをしていたに過ぎないこと、ホームズが嫉妬のあまりメアリーを殺したとしてもおかしくないと思っていたことだ。ホームズが女装して乗り込んでくるのも完全にメアリーへの当てつけで、しかも本当に彼女を列車から突き落として自分が代わりにワトソンと旅行に行ってしまうのだからまったくシャレでは済んでいない。

モリアーティの手下を撃退して一息ついた後、君のせいだと自分を責めるワトソンに対してホームズは、「残念ながら君にも半分責任がある。君らが結婚の準備に夢中になっていなければ、今回の件はすでに解決していたはずだ」と返すが、これは当然恨み言である。
続く会話は、
「つまりだな。我々の関係は……」
「関係?」
「探偵と助手の関係は、まだ復活はしていないが……。我が親愛なる同志よ。もし君がこの事件を最後まで見届けてくれるのなら、もう二度と助手を頼むことはない」
というものだが、これだけでもこの二人の“探偵と助手”や“親友”といった名前に収まりきらない“関係”をめぐる過剰さこそが真の問題であることは明らかだ。そして観客はこれに先立つモリアーティとの対話の場面で、ホームズが自身の死を覚悟していること、つまり「この事件を最後まで見届けて欲しい」とは「自分の最期を見届けて欲しい」の意に他ならないことをも知っているのだ。

これに続くフランスへ向かう船旅の場面で、二人が甲板の椅子に座り、ホームズがこれからの予定を話していた時、ワトソンはふと荷物の間に例のアドラーの遺品のハンカチを見つけて手に取る。ホームズは見てほしくなかったものを見られてしまったような、そしてまるで彼の手の中のハンカチに嫉妬を感じたような表情でそれを彼からそっと取り上げると、彼に背を向けて甲板に立ち、ハンカチに一度口づけてからワトソンを振り返り、そして海に投げ捨てる。これは一見するとアドラーの死を悼んでのことのように思えようが、実はこの一連の流れそのものが二人の関係を象徴している。彼らの冒険旅行の相談を中断させた一枚のハンカチは、ホームズにとって二人の関係を阻む“女”の影の象徴であり、同時に自らの彼女に対する抑えがたい嫉妬心をも意味するものだ。口づけてから投げ捨てるという、それ自体感情的なアンビヴァレンスの表現そのものである動作は、ワトソンの手の中にあったそれへの嫉妬の表れであると同時に、封印することを決めた自らの思いに対する訣別でもあるのだろう。

ワトソンとの道行き
ホームズとワトソンはモリアーティの陰謀を追って最初はフランスへ、次いで山中を馬で進んで国境を越えてドイツへ向かい、モリアーティが密かに買収した武器工場へと潜入する。だがいよいよ敷地内へ入ろうという時、ホームズはワトソンに唐突に問いかける。
「幸せか?」
「は?」
「だから今、ブライトンに新婚旅行に行ったくらい幸せかと訊いているんだ」「お答えする気にもならないな」
「幸せか?」
「そんなこと言ってる場合か」
「まあな」
「早く」
「答えを」
「早くしないと見張りが戻ってくるぞ」
というのが一連のやりとりで、確かに常識的に考えれば場違いとしか言いようがない問いかけであるのだが、しかしここまで見てきた観客にとっては、これがホームズのワトソンに対する切実な問いであり、「自分と一緒にいて幸せだ」と言って欲しいだけであることは、切ないまでに自然に了解できてしまうものに過ぎない。そして常識的な振る舞いを盾にとって、自分に対して向けられたホームズの切実な感情を見て見ぬふりをするワトソンの残酷さもまた、この期に及んでいつものことであろうことも、たやすく察しがついてしまう。

結局ワトソンが答えないまま時間切れとなり、ホームズはワトソンに居住区に行って郵便局からマイクロフト宛の電報を打つよう言いおいて、自分は一人で先に工場内に潜入する。だがそこには部下たちを引き連れたモランが待ち構えており、ホームズは捕らえられてモリアーティの前に連れて行かれる。ホームズは彼の、世界大戦を引き起こし、軍需物資の供給を一手に握ろうとする陰謀を見抜いたことを告げるが、モリアーティはそれには構わず、ホームズの肩に鈎針を突き刺して天井から吊り下げるという拷問にかけ、彼の悲鳴を例のシューベルトの『鱒』と共にスピーカーを通じて工場中に流すことでワトソンをも誘き出そうとする。郵便局から戻ってきたワトソンは、残されていたホームズのメッセージを読んでから自身も工場内に潜入し、そこでスピーカーから流れるホームズの悲鳴を聞くが、モランに発見され銃撃戦となって動きがとれない。結局ワトソンはホームズのメッセージをヒントに砲台を動かして砲撃で監視塔を破壊し、その瓦礫の下にモリアーティもろとも埋まっていたホームズを救出するのだが、この時必死にホームズを呼ぶワトソンの声に「ここだ、ゆっくりでいい」と答えた後、彼に助け起こされたホームズは「Always good to see you, Watson.(字幕は“来ると思っていたよ”)」と嬉しそうに言い、言われたワトソンは微かに笑う。

ここまでの経過を見ればまたしても明らかなのだが、つまりは工場への潜入の前にワトソンの拒絶によって傷つけられたホームズの感情は、モリアーティに捕らえられて拷問にかけられるというハプニングを経由して、そこからワトソンによって助けられることによる自身への愛情の確認によって癒されるのだ。これはこの冒険旅行の発端そのものである、ワトソンの結婚によって情緒不安定に陥っていたホームズが、モリアーティの陰謀の阻止という大義名分を得ることによってワトソンを妻との新婚旅行から奪い返したことの、ミニチュア化された繰り返しである。このように、物語内の機能としても明らかであるのは、ホームズがワトソンとの関係で傷ついたり、無理をしたりして、不満が溜まることこそ、モリアーティが登場する契機となっていることだ。先述したように、ホームズがモリアーティに呼び出されて初めて正面から対決したのも、まさにホームズのストレスのピークであっただろうワトソンの結婚式の直後であり、モリアーティがその際予告した通りにワトソン夫妻を襲撃してくれたからこそ、ホームズは再びワトソンをパートナーとして冒険に出ることができたのだ。ホームズにとってのモリアーティとは、決して認められない自らのネガであると同時に、自らが意識的に望むことを許されない抑圧された願望が叶えられる口実を与えてくれる存在でもあるという、アンビヴァレンスそのものの象徴なのである。

さて、ホームズとワトソンの行動を時系列に沿って追うのはひとまずこれくらいにして、次はいよいよモリアーティについて書いていこう。彼がなぜホームズにとって許しがたいもう一人の自分であるのか。それを解き明かさなくては真相には迫れない。(続く)
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by kaoruSZ | 2012-11-18 23:53 | 批評 | Comments(0)
追記にあたる関連まとめこちらにも目を通してください。

7月24日に始まって途中休止していた、間借人tatarskiyの表アカ@tatarskiy1による連続ツイート、完結したのでまとめました。下のRTにも出てくる【tatarskiyの部屋(8)「ホモォ騒動の顛末について」http://kaorusz.exblog.jp/18675599/】の続きになります。東浩紀の発言というのもそちらで読めます。(鈴木薫@kaoruSZ)


H*O*M*O

RT @QueerESL: 【単語】naïve =「無知・考えの浅さが原因で、素朴である」

RT @QueerESL: (例)It was naïve for Hiroki Azuma to bring up the issue of yaoi so he could defend homophobes.(東浩紀が、同性愛嫌悪的なひとを擁護したいがためにヤオイの問題を持ち出したのは、安易すぎた)

RT @kaoruSZ: 折りよくtatarskiyさんのまとめ 「ホモォ騒動の顛末について」届いたのでアップしました(勿論偶然ではない)。

昨日は夏風邪でツイートできなかったのだが、上のRTの一件について。大元のしょうもない記事やそれへの反発に対して心無いホモフォウブが揚げ足取りをした話は確かにどうしようもないのだが、その後の東浩紀による最低な勘違い発言のせいでまたぞろこちらに火の粉が飛んできたらしいので。

早速私が見たはてなブックマークで自称腐女子が「私たちもホモなんて安易に言わないで気をつけないと、ゲイ男性様への差別になっちゃう」とかのたまっていたのにはウンザリし果てた。そして「ホモと言うなゲイと言え。LGBTと言え」と繰り返すだけで意味があると思っている連中には呆れ返る。

まず、あくまで日本語の世間一般を前提とした大ざっぱな話であることを断っておくが、そもそも「ゲイ」と「ホモ」では実はコノテーションの根本的な部分に差異がある。ゲイを馬鹿にした言い方がホモなのではない。

「ゲイ」とはある種“人種”化された社会的属性であり、基本的に“当事者”個々人の名乗りであり、それは本質的に“ヘテロ男性”に対置される、彼らと同等の社会的権利を要求する別の立場の主張である。だからこそ「ゲイの権利」という言い方が成り立つのだ。そして「ホモ」ではこれは成り立たない。

なぜ「ホモ」ではそうしたパブリックな権利の主張にそぐわないと感じられるのか?「差別用語だからだ!」と短絡的な反応をする前に、そもそも「ホモ」という単語をヘテロ男性が侮蔑語として用いる場合、彼は何を意図しているのかをよく考えてみるべきだろう。

“ゲイ男性”を差別すること?いやそれ以前の問題だ。彼が嘲る対象とは「男のくせに女のように同じ男と寝るような、受身であることを恥とも思わぬ男らしくなさ」そのものであり、彼はそうした「男にあるまじき態度」を「同じ男として」憎悪しているのだ。彼が差別しているのは人種ではなく行為である。

ホモフォビックなヘテロ男性にとっての真の恐れとは「男が男にとってのエロティックな対象であり得ること」そのものであり、それは彼自身が男でなくならない限り、決して排除しきれない可能性である。「ホモ」とはその後ろ暗い可能性の尻尾としてのレッテルであり、疑惑の対象は常に彼自身でもある。

「お前ホモじゃないか?」という嘲笑の疑問符は、「裏切り者はお前だろう?」というこの疑惑の他者化であり、本質的に“他人事”ではありえないからこそ、彼は常にそれを繰り返す必要があるのだ。

こうした相手に「自分はホモではなくゲイです」と言ったところで、それは「お前のような裏切り者は男じゃない」という罵倒に対して「自分は貴方とは別の種類の男です」と返すに等しく、本質的に反論たりえていない。相手が「そうか」と引き下がるとしても、それは極めて欺瞞的な手打ちに過ぎないのだ。

いや、端から相互不可侵条約を結んで“休戦”することが目的ならそれでよいのかもしれないが。「男が男にとってエロティックであるなどという現象は、“ゲイ”という限られた種族の間のみの特殊な例であり、スタンダードたるへテロ男性の世界観には関わりの無いことだ」というわけだ。

もうおわかりだろうが、この欺瞞に満ちた紳士協定はヘテロ男性の“ホモ”ソーシャリティが支配すべき“公共の場”での“ホモ”エロティシズムの可能性の抑圧に合意するものだ。存在を許されるとしたら、それはエロティシズムを漂白された「ゲイ男性の人権」を擁護するための啓蒙的広告のみであろう。

「ホモ」とはパブリックな男たちの「合理的で対等な」関係性の影に潜む、アンオフィシャルな汚名と疑惑の影である。それはエロティックで不合理な可能性であり、彼らはそれを互いに対して抑圧することによってのみ、“名誉ある組織の構成員”たりえるのだ。

ゲイは「ホモ」ではないという言い分もまた、この抑圧へ合意した“正規の構成員”としての承認を求めているに過ぎない。だがそれによって表面上は“平等”に遇されたとしても、ホモフォビアの存在は微動だにしないだろう。全ての男は男である限り「ホモであるかもしれない」容疑者であり続けるからだ。

ところで、この男たちの相互監視によって成り立つホモソーシャリティに支配された世界の中で、女性とはどのような存在であろうか?外的な立場としては、言うまでもなく彼女は彼女自身の固有の権利や名誉を持たない男たちの補完物であり、それを下支えさせるべくホモソーシャルの外部に疎外された者だ。

だが彼女がいかなる特権も名誉も持たないことは、男たちがそれと引き換えに縛られている“女ではないもの”としての自己規定─ホモフォビアの呪縛からも無縁であることを意味する。彼女にとって“男同士の絆”とは、その本質そのままに、ただありのままにエロティックなものとして享受されるだろう。

そしてそれは彼女にとって、時として彼女自身の義務として課せられた「男にとっての女の物語」よりも、遥かに甘美な魅力を持つだろう。だが彼女がそれを愛すること、男と男の間にあるエロティックな絆を描くことは、正にそれを否認することによってこそ均衡を保っている男たちにとっては、秩序の撹乱であり許しがたい逸脱をしか意味しない。女がただ男から愛されることだけを望み、男たちの間の秘密についてなどおよそ感知し得ない愚かな愛玩物としての客体であってこそ、このあるべき秩序は保たれるのだから。

女性によるBL表現という形でのホモエロティシズムの顕現は、彼らにとって、自らが抑圧したものが「女のものとして」回帰して来ることを意味する。実はこれは通常“女の本質”とされる「男を愛すること」が“男が抑圧したもの”の外在に他ならないことの、新たな形を取った繰り返しに過ぎない。

男とは、自らが自らに禁じたことを許されている者であるがゆえに“女”を憎むものである。ミソジニーとはすべてこうしたものであり、男をエロティックな対象として捉えることは、その禁止の核心に位置する。そして言うまでも無くホモソーシャルとは、禁止によって作り出される秩序に他ならない。

秩序を回復するためにこそ、彼らは“それ”を憎むのだ。それは“ゲイ”という限定された範囲内でポリティカリーコレクトに扱われるべき人種のやむをえざる性質としてではなく、「あらゆる男にとっての、あらゆる男が」エロティックな対象でありうるなどという無秩序な“ホモ”を描いたものであり、それも「男の当然の性的対象であり、本質としてそれを望むもの」であるべきはずの女が、「女の分際もわきまえずに」描いたものだ。ヘテロ男性にとっては単におぞましいものとして、ゲイ男性にとっては「女如きが俺たちの領分を侵す不届きな所業」として、罵倒し蔑むのが当然の代物だ。

彼らは口を揃えて言うだろう「俺達はこんな“ホモ”なんかじゃない」と。そして罵倒される女性たちの主観としては、彼女たちがそれを“ホモ”と呼んでいるのは、由緒正しい人種としてのゲイとも“普通の男性”とも無関係な、卑しい自分たちの単なる妄想であるという“わきまえ”の証しであろう。「男同士の絆が魅力的でエロティックに見えるのは、女の身の程も知らない私の妄想なのはわかっています。女如きに本物の男性なぞ描けるわけもありませんし、偽物なのはわきまえています」というわけだ。言うまでもなく彼女が蔑んでいるのは自らのセクシュアリティであり、ゲイ男性であろうはずもない。

女の描いた偽物の“ホモ”を叩くことは、ヘテロ男性には自らが由緒正しいマイノリティたるゲイ男性を憎んでいることを、ゲイ男性には自らが非の打ち所の無い“立派な男”であるヘテロ男性から憎まれていることを忘れさせ、「あの忌々しい女どものせいで」不快な思いをしていると信じさせてくれる。

だが男たちが彼女に負わせ、彼女自身も自分の罪と信じ込んでいる“ホモ”という汚名は、「男にとって男がエロティックであること」の可能性と美意識と世界観そのものであり、現実の社会においては、それを抑圧することの利得によって全ての男は共犯である。「ゲイ男性に失礼」とは大した言い逃れだ。

言うまでもなく「女こそ男にとって当然にして唯一の性の対象であり、男が望む形の美を体現することこそ、女の義務であり存在意義である」とする男性によるヘテロセクシズムの世界観とは、現実にこの社会を支配し「何が当然の前提としての従うべき“現実”であるか」を規定する覇権そのものである。

BL表現を愛好する女性たちがそれを“ファンタジー”と呼んでいるのは、それが本質的に“従うべき現実”としてのヘテロセクシズムの世界観に反するものであるからだ。それは決して彼女の“妄想”の産物などではなく、“従うべき現実”によって抑圧されている“もう一つの可能性”そのものであり、それは女こそを当然の対象とする通俗からは離れた、オルタナティブな美意識の表現である。そして「通俗以上の何か」を表現しうるものとは、あらゆる芸術の目指すところそのものだ。

勘のいい方ならもう気づかれたと思うが、ホモエロティシズムの表現とはかつて名だたる芸術家の─つまり“男”の手になる傑作を生み出してきた普遍的な美の対象であり、それは近代的なヘテロ/ゲイという二分法やそれに基づいたホモフォビアなど及びもつかぬ、文化そのものの始まりと共にあるものだ。

以前に制度的なヘテロ男性のメンタリティの問題として論じたことがあるが、http://kaorusz.exblog.jp/18345164/ 近代的なヘテロセクシズムとホモフォビアの機能は“性的なもの”と“知的なもの”との分離にあり、それは合理主義的な理性の優越による、官能的で不合理な感受性の抑圧である。

そして芸術とは、自らの官能的な不合理に基づくファンタジーを、知的な技巧を凝らして表現することによって、他者にも快楽として享受されうる普遍の域に至らしめようとする営みである。それは特定の個の感受性から発しながら、洗練を経ることで多数の個の感受性に働きかける力を持つことだ。

“性的なもの”と“知的なもの”の一致なくして芸術的な表現はありえない。そしてヘテロセクシズムの要諦とは両者を分離し、前者を“女”の本質とすることによって後者を男が占有することであり、それに対して芸術としてのホモエロティシズムの表現とは、本質的にこの二つの一致を象徴するものなのだ。

それはまさしく両性具有の実践であり、そこから生み出される表現もまた、個々の性別や性的指向を超えて人を魅了する力を持つだろう。ただ制度的なヘテロ男性のホモフォビアとヘテロセクシズムだけが、それが彼自身にとって魅力的であることと、彼のものであるべき女がそれに惹かれることを認めぬのだ。

この文章をここまで読んでこられたなら、本当に大切なことが何かはもうおわかりだろう。ホモエロティシズムのイメージ自体が蔑視されたまま、種族としての“ゲイ”だけは差別されないなどということはありえず、そんな欺瞞をヘテロ男性との“相互理解”であるとする錯誤はミソジニーの温床に過ぎない。

“それ”がなんと呼ばれるのかが問題なのではない。必要なのは彼自身が、それがイメージであれ現実の他者であれ、“ゲイ”ではない自らもまたホモエロティックなものに惹かれうること、その可能性そのものを肯定することだ。
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by kaoruSZ | 2012-11-18 16:56 | 批評 | Comments(0)
この件の前段についてはこちらを参照。

ある若い“腐女子”への手紙

はじめまして。先ずは返信を下さったこと自体に対しては御礼申し上げます。

本題に入らせていただく前に確認しておかねばならないことが色々あるのですが、例の大河ドラマについての文章以前に私の表裏両方のアカウント(両方ともプロフィールからツイログが見られます)を見たことがあれば、私がこれまで何について発言してきたかはおわかりになることと思います。

また、友人のブログには例の文章も含めて私がこれまでに書いたことをまとめたエントリーを「tatarskiyの部屋」というタイトルでいくつも掲載してもらっています。http://kaorusz.exblog.jp/
それらをご覧になればわかることですが、私は一貫して女性の性的ファンタジーに対する通俗な偏見と蔑視、及びその原因そのものである、この社会を支配する権力的な制度としての男性のヘテロセクシズムとホモフォビアへの批判を行なってきました。

そしてその中でも必然的に最も主だった話題は、男性同性愛の表象を愛好する女性が“腐女子”として“正常な女”からは分離したものとして扱われ、「女としてふさわしいあるべきセクシュアリティから逸脱した異常な存在」と見なされつつ、それに対する善意の“処方箋”として「ちゃんと“女としての自分”を受け入れられればまっとうな女として現実の男と関係できるようになる」だの「男同士の表象なんかに逃避せずにちゃんと“女性としての生き辛さ”を受け入れてフェミニズムに目覚めれば“成長”できる」だのという不当な中傷を受けることに対する抗議でした。
それもそうしたことをweb上で書くようになった直接的なきっかけは「腐女子がBLとして男性同性愛の表現を“消費”するのは、ヘテロ男性が女性に対して行なってきたのと同様の“搾取”であり、道徳的に糾弾されて当然の過ちだ」というゲイ男性による噴飯もののミソジニーに基づく暴論(それも言い出したのは立派な肩書きのあるアクティビストやクィア研究者です)から派生した、いくつもの不当な言いがかりを目撃したことでした。
本当に私が試みなければ誰も正面から反論しようとしなかったからです。

今でもそうですが、私は私以外に抗議すべき物事に対して抗議する人が存在し、それによって十分な効果を発揮していると判断できる状況であるならば、あえて自分からそうした物事に対して発言したいとは思いませんし、むしろ自分自身の性格としては本質的にはまったく不向きであると思っています。だからどれほど苛烈で自信ありげにみえる文章で抗議しているように見えても、内心では億劫で仕方がないほどですし、どう転んでも抗議した対象やその関係者からの恨みを買うのは避けがたい以上、なぜ私ばかりがそうした損な(時には“損”では済まないこともありました)役回りを引き受けねばならないのかと呪わしい気持ちを抑えがたいこともままあります。

あの大河ドラマについての文章も、完全にそうした必要やむをえざる取り組みの一環であったのですが、たまたま話題がそれまで私が関わっていたそれらよりもメジャーであり、その結果として貴方の目に留まることにもなったわけです。

そして、これが一番大きなことかもしれないのですが、何よりも私がこれまで書いたどの文章の中でも、自分のことを“腐女子”だとは名乗っておらず、そうした自己規定そのものを一切していないことの意味を認識していただきたいのです。
個人的な嗜好について言うのであれば、言うまでもなく私も男性同性愛の表象を愛好する女性の一人ですが、私が抗議し続けていることの本質として、それが私を有徴化される必要の無い“正常な普通の女性”から隔てられるべき“特殊な性癖”の持ち主として規定される特性を意味するという、極めて差別的な社会的前提そのものを受け入れるわけにはいかないからです。

もっと簡単に言えば「腐女子じゃない」ということが「私は男性同性愛の表現そのものも、そうしたイメージや関係性を明示されていないものの中に見出すようなことも好みませんし興味を持ちません」ということを意味すること、男性同性愛の表現を好むか好まないか、興味を持つか持たないかが女性に対する“踏み絵”として働いていること(他の性表現が女に対してこうした意味を持つことなどまずありえません)そのものが、女性に対してヘテロセクシャルを当然の基本とする現実の性的関係以外の「空想としてのセクシュアリティ」を本質的に認めようとせず、かつ当然のようにホモフォビックである制度的な男性のヘテロセクシズムによる抑圧の結果でしかないからです。

逆に言えば、男性同性愛のイメージを愛好する女性が“腐女子”を名乗っていることは、この社会の権力者である世間並みにホモフォビックなミソジニストとしてのヘテロ男性及び彼らの価値観を無自覚に内面化した男女にとっては、「正常な女のありようからは逸脱した“腐った”女が、その分際に相応しいレッテルを受け入れている」ことを意味し、それは彼女の性的ファンタジーや彼女の感受性と知性に基づいた発言それ自体と、実際に紛れもなく存在しているホモエロティシズムを感受することそのものを「取るに足らぬ“腐女子の妄想”」として片付けてかまわないという見下し──「どうせ腐女子だからそう思うんでしょ?」という蔑みに満ちた見解を補強してやることです。

そしてそれは同時に名乗る側の「皆様から馬鹿にされる存在であることはわきまえています。どうせ“腐って”いるのですから、何を言っても“しょうもない妄想”として大目に見てください」という差別との直面や摩擦の回避と表裏一体です。
これは完全に構造的な問題であり、「そんなつもりで名乗っているわけじゃない」という言い分が通用する次元の話ではありません。またそれは必然的に、「私のような女はそうやって馬鹿にしてくださってかまわないことを受け入れております」というメタ・メッセージを発することを意味し、男性同性愛のイメージを愛好する女性全てに対してそうした侮蔑の対象であることを“同類として”押し付けることでもあるのです。
もっとも、そうやって自虐的なレッテルの下で群れていれば、“全体”として侮蔑されることを受け入れることと引き換えに“個人”として浮き上がって叩かれる可能性からは遠ざかっていられるのでしょうが。
そして決まって「“腐的な妄想”とは別にちゃんとしたファンでもあるから」と嘯きつつ、自分が持つホモエロティシズムの魅力に対する感受性への蔑視を内面化していることを「ちゃんとわきまえている証拠」だと倒錯した己惚れと自己欺瞞を抱いているものです。

私が決して“腐女子”などと名乗ることなく、“ただの女”として一切のホモフォビアとミソジニーとヘテロセクシズムを前提とした女性に対する蔑視に抗議することは、自分自身の感受性と知性によって理解しうること、快楽であると感じられることの全てに対する不当な抑圧と──その抑圧者が何者であろうと──正面から向き合うことであり、必然的に“個人”として発言し注目され憎まれるリスクを否応なく引き受けること、その結果としてある種必然的に孤立することです。そして一度そうと決めた以上は、どれ程しんどいことがあっても投げ出すわけにはいかないことです。それでも友人の支えが無ければとっくに心が折れていたでしょうが。

そしてここからが本題なのですが、つまりは貴方と私では最初から“覚悟”の程がまったく違っていたこと、それ故に発言しうることの内容も、発言する際の前提として引き受けていたリスクそのものも、およそ比較にならないものであったことをまずは認識していただきたいのです。

失礼ながら貴方はおそらくさしたる抵抗感も無く“腐女子”と名乗りながらツイッター上で“公式”と無批判に戯れる無邪気なファンの一人として振る舞っておられたに過ぎず、そういう貴方がはっきりとした批判的意図を持ってあのドラマを批評した私の文章に対して、否定的ではない興味を持ったこと自体がある種のダブルスタンダードですし、その上「完全に同意できるわけではないけど」などという留保をつけたコメントをこれまた無邪気にしてくださった日には呆れるほかにありませんでした。
あの友人のRTとコメントはそれを見た私の精神的な苦痛と嘆きようを愚痴として聞いたからこそです。友人が「tatarskiyが何をやっているのかわからないからそんなことが言えるのだ」と言っていたことの意味は、ここまで読んでくださったならもうおわかりだと思いますが。

はっきり言えば、私があの文章の中でドラマの構成そのものにこれ以上ない程はっきりと浮かび上がっていた通俗なホモフォビアを指摘していたことなど、「“公式”を愛する無邪気な“腐女子”ファン」である貴方には、ツイッター上で具体的に言及することなどおよそお出来にはならないことでしょう?そして実際「同意できないのは結論じゃなくて細部なのに」とか嘯いておられただけでしたよね?なら私の“結論”と貴方が違う解釈をなさっていたらしい“細部”がどういったものであったかについて、もしお出来になるのであればそれぞれはっきり言及して下さい。
そんな“公式様”に対する批判がましいことが貴方に意識的に口にできるわけがありませんよね?
それとも今からでも「同性愛を悪や病理としてしか扱えなかった通俗なホモフォビアは残念だけど、ドラマとしては好きだし面白い」と仰って筋を通そうと思われますか?
後で詳しく述べますが、私がやったことは単に「誰かがやらねばならなかったこと」にすぎません。そしてそれをしたところで、私が得るメリットなど何一つありませんし、むしろ損失を被るばかりです。こうして貴方にツイッター上で悪口雑言を振りまかれ、メールで長文の説明に及ばねばならなくなっていること自体がいい証拠でしょう。

また私が最初にポストしたドラマ自体に対する批評の“細部”そのものが“結論”と不可分なものであり、そもそも批評において全体と照応しない細部などありえません。私が書いたあの文章は全体で作品の内と外に亘る一つの構造の指摘でしかありえないもの(同性愛や男性の女性性が悪や病理として意味づけられていたこと及びそのメタレベルの意味)です。そしてそれは私個人の好き嫌いや「自然な人それぞれの感想」などとはおよそ次元の違うものです。言っておきますが、そうしたそれぞれの感想それ自体は私も好んで収集していますし、貴方のところからも幾つか収集させていただいたことがあります。ですが何かを批評するというのはまったく違う次元の手続きが必要な話です。はっきり言えば、私が書いたものより「より精緻な批評」というのはありえても、「それぞれ平等に違う批評」などというものは成り立ちません。それは単に「どちらかが間違い」でしかありえません。

それから「直接こっちに言えばいいのに」とか言っておられましたが、そういう貴方が何について何を言われたのか最初はまるで明かしておられませんでしたよね。横から“助け舟”を出してくれたお友達の尻馬に乗っておられただけでしたよね?そしてお二人で私と友人を実に適当に悪者扱いにして悦に入っておられただけでした。あんな醜悪な真似をなさらなくても、私と友人のどちらにでも話しかけてくだされば、それがどんな内容であろうとたとえ罵詈雑言であろうと一対一でお聞きしましたが。
あの時の貴方は、それこそ“腐女子”として“分をわきまえて”群れている人の「個人としてリスクを負わず群れの一匹として仲間に頼る」という特権にぬくぬくと浴していたわけです。貴方が私のような否応なく孤立した、“公式”に対しても批判的な一個人でしかなかったら、あんな助け舟を出してくれるお仲間に恵まれたはずもありませんよね?

また別の話になりますが、私があの大河についての文章を書いたのは、ある種の予防的先制攻撃としての意味合いも大きかったのです。

というのは、あの文章の追記にも書いたことですが、要は“腐女子”への罵倒は本質的に男性同性愛に対する嫌悪感のすり替えであり、“腐女子”の人の自称自虐というのはそうしたホモフォビアを内面化した通俗な世間へのおもねりです。つまりその“自虐”は必然的にホモフォビアへの加担でもあるわけですが、当然ながらそれは女性が自身のセクシュアリティに対する自尊心を剥奪されている結果にすぎず、彼女をエンパワーメントすることなくさらに抑圧してもなんら解決しないことです。ですが呆れたことにゲイ男性(もしくはそのシンパ)の側でも権力者であるヘテロ男性との衝突の回避もしくはある種の“緩和”として「腐女子も自分たちへの差別に加担している」と言い立てたがる手合いが少なからずいます。

私はそうした手合いの妄言を相手にしたことは何度もありますし、正面から論破すれば一応はそれで済むのですが、ある意味彼ら自身より厄介なのが、そうしたこけ脅しの妄言を真に受けて「ちゃんと他の“腐女子”を批判しないと私までゲイ男性を差別してると思われる」と思い込み、ろくでもない“啓蒙”に奔る“模範的腐女子”が後を断たないことです。

そして私が危惧したのは、歴とした“肩書き”のあるゲイ男性もしくはそのシンパや何らかの“性的マイノリティ”、または“クィア研究者”が先にあの大河ドラマの内容への批判を然るべき場所で発表し、その中で直接ではなかったとしても、それに影響された連中が「あの大河での差別的な同性愛の扱いに“萌え”ていた腐女子も同罪だ」とでも言い出すことでした。
そしてそんな事態が現実になってしまえば、たちまち自称腐女子の人たちの間で近親憎悪的な“反省”合戦が始まるのは目に見えています。あるいは一切に目を瞑って“萌え”続ける人と二手に分裂して、後者が「腐女子の無反省の証し」としてヘイトスピーチの種に使われることになることも考えられますが。

それはともかく、あのドラマの中での同性愛の扱いそのものに倫理的な問題があり、それがドラマ全体のテーマや構成にまで及ぶ核心的な問題であるのは明白なのですから、そのことに対する指摘は、「必ず誰かがやらなければいけないこと」です。もっと言えば、私のやったことは、貴方がなさってもよかったはずのことに過ぎません。

tatarskiyより
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by kaoruSZ | 2012-08-29 16:55 | 批評 | Comments(1)
tatarskiyの部屋(10)「NHK大河ドラマ『平清盛』における同性愛の意味づけについて」追記


例の大河についての文章で私が何を言わんとしているのかまるでわからない人が複数いるようなので追記。あの時はドラマそのものの内容についての一番コアな部分を抜き出すので精一杯だったのでそこまで手が回らなかったのもあるが、皆まで言わずともわかる人にはわかっていたのだが。

私があの文章を書いたのは、件の大河ドラマの中での同性愛(及びそれをネガとして成立しているポジとしてのホモソーシャリティの描写)の扱いとそれに対する視聴者の反応そのものが、今現在の日本社会における同性愛への欺瞞に満ちた態度の縮図だったからだし、もっと言えばこうした指摘は肩書きのある本職のクィア研究者が公式な仕事として取り組むべきことだったと思う。そういう意味では何の肩書きも所属も持たない私が個人として矢面に立ってああした文章を書かねばならなかったこと自体が非常に歯がゆいことだと思っている。

要はあの大河の内容とそれに対する“健全な視聴者”の反応が象徴しているのは「明示的同性愛は悪や病理でしかなく、しかもそうしたネガティブな描写ですら“腐女子狙い”だとされ、それと対立する“健全なホモソーシャル”からホモエロティックなものを読み取ることも“腐女子の仕業”だと言い張り、そうして男の同性愛の描写のすべてを女のせいにする(はっきり書いてみるとこんな無茶が成り立つと思える認識自体が甚だしい転倒でしかないのは明白である)ことでホモフォビアを発散することが野放しにされる一方、史実としての登場人物たちは後ろめたさなど欠片もない両刀遣いでしかなかったことは実は皆が知っている」という甚だ滑稽でグロテスクな茶番でしかない。“腐女子”呼ばわりされる女性たちもまた「自分たちのしていることは妄想としてわきまえてるから」という従順さでそれを受け入れてしまっているが。

それにしても『ハートをつなごう』とかおためごかしを並べて「性的マイノリティへの理解」を語る一方でハリウッドなら50年代レベルの倫理コードを適用した“悪の同性愛者”の描写を看板番組で流すという某国営放送のダブスタぶりには恐れ入る。要はこうした偽善こそが今時の“良識的態度”な訳だが。

つまるところが現在の日本社会そのものが、「同性愛者の人権」については一応は異を唱え難い前提として人口に膾炙させている一方、属人化されえない「表象としての同性愛」については未だ明示することをタブーとし、それを開かれた場で肯定的に語る言葉を持たないことこそが諸悪の根源なのである。そして“腐女子”呼ばわりされている女性たちは、このダブルスタンダードの狭間で「同性愛者を差別するわけにはいかないが、同性愛は気持ち悪い」という通俗な世間のホモフォビアの生け贄とされているにすぎないのだ。

真に必要なのは、種族としての同性愛者ではなく“同性愛そのもの”への普遍的な肯定であり、そうしたことを語りうるだけの個別の表現への批評のモデルの提示である。またそれは女性がそれを語ることに対する“腐女子”呼ばわりの蔑視(という偽装されたホモフォビア)への当然の批判を伴うべきものだ。

私が書いた文章もまた、微力ながらそうした取り組みに寄与するものであればと思っている。後日また加筆修正した増補版を発表するつもりでいるが、骨子だけのラフスケッチのようなものであっても、まとめて公開しておく意義はあると考えた。思うところのある人には何某かの参考になれば幸いである。

<追記の追記>思い違いをされると困るので留保をつけておくが、私は今回の大河ドラマ自体に魅力を感じることそのものが間違いであるなどと言いたいわけではまったくない。

たとえば江戸時代に作られた歌舞伎の演目は、作中の舞台が室町時代であろうと(今回の大河と同じ)院政期末の源平合戦であろうと、幕藩体制のイデオロギーであった儒教に基づいた倫理観が適用されてしまっているものであるが、今日の観客がその様式美や筋書きの面白さのみならず、当時はそれを取り入れること自体が義務でもあったろう忠義や親孝行といったモチーフに魅力を感じたとしても、何一つ問題はないだろう。それは言うまでもなく、既にそうしたイデオロギーを従うべき権威として流通させていた封建的な身分制度そのものが崩壊しているからだ。作品に残されたイデオロギー自体がもはや物語を成立させるための素材以上の意味を持たず、むしろ過去の価値観を窺い知ることのできる貴重な資料であると同時に、結局は時代と共に過ぎ去り変容してしまう通俗なイデオロギーの無常さと、それに対して時代を超えて生き残りうる芸術そのものの価値とを教えてくれるだけだ。

つまり問題は「今現在のアクチュアルな差別的イデオロギー」が、“当然の前提”として作品に無批判に反映されてしまっていることであり、それはその差別的な前提を支えている社会の多数派の意識が変化してしまえば――新たな問題が常に生まれるにせよ――問題の所在ごと忘れ去られ無害化していくものだ。今回の大河ドラマもまた、同性愛に対する差別的なダブルスタンダードが消滅した未来において再放送され、過去の魅力的な作品として人気を博したとしても、その時には非難すべき理由は何もないであろう。ただし、その時の視聴者の目には、同性愛の扱いに限らず、今現在の私たちにとっては“自然化”されている無数の無自覚な“偏り”が――ちょうど今の私たちの目に歌舞伎がそう映るのと同じ様に――“作品が作られた時代の刻印”としてはっきりと映されることではあろうが。
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by kaoruSZ | 2012-08-27 06:51 | 批評 | Comments(0)
NHK大河ドラマ『平清盛』における同性愛の意味づけについて



8/26 追記あり http://kaorusz.exblog.jp/18889616/


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RT: 大河見てた。来週怨霊ホラー回で崇徳院退場予定か。それを見たら前にも言ったことがあるけど文章を書く予定。ドラマとしては完全に出来のいいアニメの延長として面白いと思うけど、同性愛の意味づけ周辺で言っておかないとまずいことが色々あるし、「ホモは女のせい」ってふざけた態度は放置できない。(2012.7.29)

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表アカでの予告ポストを引いてきたが、実際に先週の崇徳院退場回を見た感想としては、予想の範囲内であったとはいえ、はっきり言って崇徳院じゃなくて私が憤死しかねない勢いで腹が立った。ネタを先に言えば典型的な健全なホモソーシャル(勝ち組)vs不健全な明示的同性愛(負け組)の構図だった。

要はあのドラマの中での明示的な同性愛の要素は、保元の乱の敗者である頼長&崇徳院の「負け組であり、悪役である由縁」として設定されていて、それは主人公である清盛たちの「健全でホモソーシャルな友情や主従愛や兄弟愛」に敗北すべき運命にあるという描かれ方で見事なまでに一貫していた。

先週の崇徳院の生霊が起こした嵐の中で絆を確認しあう男たちの描写なんて、もう完全にその縮図だった。TLでは経文じゃなくて西行を海に投げろコールが巻き起こってたけど、ここまでちゃんと見ていた人たちなら誰でもそう思うわな。あのドラマの崇徳院って実はジェンダーとしては“女”なんだよね。

西行への崇徳の片思いの描写って、このドラマの中での負け組フラグ=同性愛を崇徳に背負わせつつ、伝説にある母親の待賢門院と西行の悲恋の話と繋げてそれを崇徳の失恋の原因にすることで、主人公の友人ポジションである西行の方は“ノンケ”として免罪するという見事なパズルになっている。

だから退場回での怨霊化も史実とは意味づけがまったく違う。史実ではあくまで政争の敗者としての“男”の怨念だが、有り体に言えばドラマの中では出生の秘密ゆえに父の愛に恵まれなかった辛さを遠因とした同性への片思いと失恋、致命傷になったのは我が子を失った悲しみという、完全に“女”の情念。

つまりは父(鳥羽院)や片思いの男(西行)の愛を得られなかった“女”が、それ故に男たちのホモソーシャリティの敵になってしまったという話なわけで、要はあの大河での崇徳の怨霊化は完全に“魔女化”だったわけだ。

ちなみにノベライズでは崇徳が息を引き取る場面で聞こえる声は例の子供が謡う遊びをせんとやではなく、西行がかつてその心を解してやった崇徳本人の御製(百人一首のアレ)を詠みかけてやる声であるらしい。その方が露骨な分だけまだしも浮かばれたろう。国営放送では修正が入ったのかね?

話が前後するが、息子の重仁親王が生まれたことが描かれてもその母が出てこないのも、作中では崇徳自身が“女”だからだ。崇徳の出生そのものに象徴される朝廷の昼メロ的な泥沼劇──男女の裏切りやそれに端を発した親子のすれ違い──は“女性的”な属性であり、それは清盛たち武士によって刷新されるべき旧体制の病理そのものでもある。言うまでもなく武士が象徴するものは健全なホモソーシャリティとしての“男性性”である。朝廷という“女”の病理に、武士という“男”が勝利するに至るまでの物語の図式であるわけだ。

崇徳はこうした構図を象徴する、その結果としての“哀れむべき被害者”であり、そのために彼には同性への愛という“女性的病理”と、それに至るまでの同情すべき理由付けの物語が設定されているのだ。

崇徳のそれに比べれば、頼長の同性愛が担っていた役割は単純なものである。清盛と弟の家盛の“健全な兄弟愛”を危うくし、家盛の死の原因となるべき悪役の悪事であり、彼自身その報いとして敗死すべき伏線を張るだけだ。
ちなみに悪や病理としての同性愛とそれに対比される“健全な絆”がセットになっているのは、崇徳の西行への片思いに対する、西行と清盛の友情も同じである。

頼長のそれ以外の役割も、これもまた武士のマチスモに対比されるべき「いけ好かないインテリ、鼻持ちならないエリート」というものであり、義朝から彼が主人である頼長の陰険さと書痴ぶりを嫌っていることを聞いた清盛が「珍しく気が合う」と喜ぶのと、その直後に二人の紐帯となる女(常盤御前)が登場するのは象徴的だ。言うまでも無く、直接的な同性愛のタブー化と女を介した連帯の強調、それが悪役の明示的な同性愛とセットとされるのは、ホモソーシャリティの描写の定石である。

また息子の義朝と異なり、それまではあくまで頼長に従順だった為義が、保元の乱の最中に自分を守れと言う頼長を罵るきっかけも、戦闘の現実を知らない知識人頼長が夜襲の案を退けたために劣勢となり、最期まで心ならずも息子と敵対した為義を気遣う忠臣であった鎌田通清を失ったことに激昂したためで、このことからも、基本的に頼長が他の男たちの“男同士の絆”のネットワークからは排除された、それに対する“引き立て役”として配置されていたことがわかる。頼長自身にも唯一“健全な絆”として信西との友情とライバル関係があるが、これは頼長に続いて彼に勝利した信西自身が破滅に至る伏線である。

その前夜までの悪役ぶりとは一転し、乱に敗北した後の頼長の最期は、父の忠実に一目会いたいという切なる願いと、同じことを望みながらも罪人となった息子と対面することは叶わない忠実との親子の情愛のドラマによって締めくくられているが、これは信西が自らが政敵として葬った頼長の遺言を目にし、それによって政治への志しを新たにする描写と合わせて、頼長を最後にホモソーシャルの内部の“共感可能”な人物としてあらためて位置づけ、それによって信西もまた志しのゆえにかつては友でもあった政敵と同じ運命を辿ることを予告するためだ。

信西が遺言を目にする場面で、在りし日の頼長が初めてその息子たちと共に描かれることも象徴的である。最後には不気味な男色家の悪役としてではなく、父に愛された息子として、息子に志しを伝えようとする父として、そして遺言を通してかつての友に決意を新たにさせる政治家として描くことで、頼長の存在は完全に親子愛とライバルとの友情という健全なホモソーシャルの内部へと回収され、視聴者にとっての印象のある種の浄化と、平治の乱での信西の破滅への伏線の設置が同時になされるわけだ。

明示的な同性愛のみが描かれ、当然あるべき妻妾との関係が描写されないという偏りは崇徳と同じであっても、頼長の場合はあくまで社会的な立場とそれに基づいた同性との絆を持つ“男”であり、父からは嫡男とも望まれた愛された息子という、ある意味では崇徳とは対照的な位置づけを持っていて、それ故にこそ最後にはホモソーシャルの内部に迎え入れられることが約束されていたともいえる。同性愛の意味づけに関しては単なる悪役であるのも、同情できる説明が与えられていた崇徳の場合と正反対であるが、これも結局は頼長は“男”であり、崇徳は“女”であったからだ。

頼長の行動は悪事としての同性愛も含め、あくまで自律的で社会的な力を持つ“男”のそれであり、それ故に責めを負うべき“悪役”でありえたのに対し、実は崇徳には男としての社会的な関係と呼べるものが何一つ無い。

崇徳はその母の不義による出生の時点から、「思うままにならぬ」運命に翻弄され、他律的な存在であることを周囲から強いられ続ける。その苦悩は、父には愛されず母にも心をかけられない孤独の内に育ち、思いを寄せた男は母と密通し、弟にも裏切られ、最後には我が子に先立たれて絶望するという、完全に私的な愛情問題に終始するものだ。我が子を帝位に就けようと望むのも、白河院が鳥羽院を疎んじて実の子である崇徳を帝位に就け、それを恨んだ鳥羽院が今度は“叔父子”崇徳から実の子近衛帝へと譲位させるという愛憎の連鎖の一環であり、それがドラマの中における「父としての息子への愛情の証し」と「自らの父への報復」を意味するからだ。崇徳は権力者だった父に愛されず、それ故に半ば社会的に疎外され、他律的に生きることを強いられていた自らの力を取り戻すために、「我が子を愛し帝位に就ける父」として自らを愛さなかった父に成り代わろうとしたのであり、それは自らに他律的な存在──つまりは“女”であることを強いてきたものに抗おうとする試みでもあった。だがそれは敗北に終わり、崇徳は流罪となることによって今度は完全に社会から疎外されてしまうのだ。

崇徳が写経した経典を後白河の許へ送り、それが父に抱かれた幼子の未来の高倉帝に引き裂かれて戻ってくるのは、かつて崇徳自身が鳥羽院に送られた写経の文を引き裂いたことの反復であると同時に、父に愛された息子(高倉帝)からの、父に愛されなかった息子(崇徳)への意図せざる残酷な仕打ちであり、それは崇徳の生涯に及ぶ敗北と疎外そのものが、父に愛されなかった故であることの象徴である。讃岐に流され、政治的な力を全て失った崇徳は、意識的には自らの手で大乱を引き起こしたことの償いとして写経を送ったのであるが、その真の望みは形を変えた父との和解に他ならなかったのだ。それを残酷な形で拒まれ、我が子にも先立たれることで“愛の対象”全てを失い、悲憤のうちに怨霊と化すのだ。つまり崇徳は最後まで、父という男から愛されなかったが故に周囲からも疎外され、それでも愛されることを求め続けた“女”であり、それはこのドラマにおいて、実は「父から愛される」ことこそホモソーシャルの構成員としての一人前の“男”であるために不可欠な条件であることの逆説的な証明である。父に愛されなかった崇徳には男たちの連帯に参与する資格が無いのだ。先述したが、崇徳と頼長との決定的な違いもそこにある。

彼に一人前の“男”である資格を与えてくれる“息子を愛する父”とは、たとえば清盛にとっては忠盛であり、義朝にとっては為義であり、頼長にとっては忠実であり、頼長の息子たちにとっては頼長であり、頼朝にとっては義朝であり、清盛の息子たちにとっては清盛である。

それは、彼を自らの後を継ぐ者として承認し、彼に自らと同じ目的を与え、そのために連帯すべき最初の“男”となることによって、彼をホモソーシャリティの輪の中に参与させてくれる相手である。「父に愛されない」ことは、この同性に求めるべき“健全”な承認と交際のモデルから排除されることなのだ。

実はもう一人、“父”との関係に障害を抱えていたが故に“男”であることに失敗していた人物がいる。他ならぬ鳥羽院である。絶対的な権力者として君臨する祖父白河院に抑圧され続け、妃である待賢門院を寝取られ続けた上に不義の子である崇徳を押し付けられ、白河院自身が崩御した後もその影に脅え続け、それから逃れるために新たな妃として迎えた美福門院と待賢門院との女の争いの板挟みになり、右往左往し続けた鳥羽院は、要は“父”に脅えるあまり男としての自らに自信が持てず、それゆえに女に縋り、女に支配されるという悪循環を生きていたのであり、“叔父子”である崇徳を疎んじたのも、怒りや憎しみではなく白河院の影への脅えと、待賢門院への愛憎の分裂ゆえに崇徳を“藁人形”にしていたのであり、それ自体が逃避であったに過ぎない。鳥羽院のこうした女々しさがホモソーシャリティに相応しいはずもなく、“男同士の絆”とは無縁なのは当然だ。

つまり彼自身“男”であることに失敗していた鳥羽院には、最初から息子を“男”として承認してやれるような父性など欠けていたのであり、実はそれこそが彼の妻や息子たちも含めた関係性の病の大元だったのである。そしてその全てが鳥羽院の白河院に対する萎縮に起因することは言うまでもない。

先述したが、こうした朝廷の人々の病理は清盛と彼を中心とした男たちの健全なホモソーシャリティに対比させられている。だが清盛自身、本来は白河院の落胤であったのを忠盛が引き取ったものとして設定されており、つまり同じく白河院を実父とする崇徳の不幸と挫折は、異母兄清盛の成功のネガなのだ。

そして崇徳と清盛との差をもたらしたのは、言うまでもなく“父”からの愛と承認の有無である。養父である忠盛から惜しみない愛情と薫陶を与えられ、“父のような男”であろうとした清盛には彼を慕う仲間が集い、清盛は彼らを率いて、実父である白河院を象徴する旧体制としての朝廷に挑み勝利するのだ。

白河院の影をものともしない清盛の強さは、当然それに脅え続けていた鳥羽院からも一目置かれる要因となり、それまでは兄崇徳と同様、女々しい父と空虚な母の間に放置され、投げやりな不全感を抱えていた後白河もまた、清盛に親しみと競争心を抱いたことによって大きく成長し、後には幼少の頃の清盛の庇護者であった乙前(祇園女御)から自身も精神的な支えを受けて即位に臨んだことで、崇徳との決定的な差をつける。後白河は平治の乱後の滋子との婚礼(滋子が乙前と同じく例の今様を口ずさんで後白河の目に留まるのも示唆的である)によって名実共に清盛の義兄弟ともなるが、実は登場した時点から、後白河はいわば清盛の“弟”として設定されており、彼はその繋がりによってこそ男たちのホモソーシャリティの中へ加わりえたのである。そしてこれもまた、疎外され続ける“女”であることを運命づけられた兄崇徳との残酷な対比となっているのだ。

清盛が理想的な“男”になりえたのは、忠盛という健全な男の養子となることで、白河院の影に支配された“女”の病理の巣窟である朝廷から逃れたからであり、成長した彼がそこに変革者として影響を及ぼすことは、彼のネガである崇徳に対して悲劇的な結果をもたらす運命にあったのである。

同じ白河院を実父としながらも、理想的な養父に育てられ、武士として生きる術を身につけて自ら運命を切り開けた清盛とは逆に、崇徳は父からは奔放な母の不義の子として疎まれ、愛に餓えたまま閉鎖的で病んだ宮中に閉じ込められるようにして育ち、そこから逃れる術などあろうはずはなく、その孤独な心を和歌を通して唯一解してくれた男──西行に思いを寄せたものの、あろうことか母との密通という形で裏切られるのだ。これは自分を不義の子として産んだ母の奔放さにも再び裏切られたに等しく、つまり崇徳は父に疎まれたことによる周囲からの疎外によって“男”になることを阻まれた上に、男からの愛を乞う“女”としても、その孤独感の元凶でもある母に敗れたのである。西行を失い、父にも死なれた後、崇徳は我が子を帝位に就けることで“男”になろうと試みるが、先述したように、このドラマにおいては父から愛されなかった者は“男”とはなりえない以上、この試みは敗れる運命にある。

和解を望んで書写した経文を引き裂かれ、我が子重仁親王を失ったことで怨霊と化した崇徳は、いわば父からのそれに起因する「愛されなかった」ことへの恨めしさの化身であり、これは先述したように女性的な情念である。

その悲憤の標的が清盛であり、その次男基盛の命を奪って皆を嘆かせたとされているのも、清盛こそ崇徳にとって「そうあることができなかった」自らの分身そのものであり、父と子と兄弟の愛とは、彼が疎外され続けたホモソーシャルで健全な絆そのものであるからだろう。

崇徳は一貫してこのドラマにおいて、あらかじめ敗北を運命づけられた本質的に女性的な存在であり、それは主人公であり勝利を約束された理想的なヒーローである異母兄清盛のネガとして対置されている。彼はいわば清盛の“妹”だったのであり、悲劇の“裏ヒロイン”であったといえよう。

長くなってしまった。 これでもドラマの中での同性愛に対する意味づけに絞るつもりだったのは変えていないはずなのだが。ちなみにこれまでに述べた通り、 同性愛が悪役&負け組の符牒とされている以上、 後白河に関してそうした要素が付与されることはありえないので、 信頼は単なるお笑いキャラだった訳だ。

だがそもそも、 同性愛が悪や病理というネガティブな意味づけを持たされていること自体がまったくの借り物なのだ。 院政期に限らず近代以前の本邦においてはそれは単なる“嗜み” であり、 今回の大河の登場人物たちも、史実としては現代人からすれば呆れるほどにフリーダムな両刀遣いであったに過ぎない。

つまりは同性愛をある限定されたネガティブな意味づけに押し込めることで特定のキャラクター性と結び付け、 それをイノセントなホモソーシャリティと対立させることでドラマを成立させているのであり、こうした約束事は言うまでもなく、 本質的にキリスト教文化圏である西欧由来の舶来品である。

要は今回の大河での同性愛の扱いは、「 明示的に描くなら敗北すべき悪役のものに限る」 という昔のハリウッドのヘイズ・コードの類であるにすぎず、 国営放送の看板作品がそうした法則に則っていることそのものが、 ドラマ自体の出来とは別に、現代の日本社会での同性愛への認識の程度を示しているだろう。


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表アカウント https://twitter.com/tatarskiy1
裏アカウント https://twitter.com/black_tatarskiy
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by kaoruSZ | 2012-08-25 05:48 | 批評 | Comments(0)

tatarskiyの部屋(9)

“主にBL”を標的にした、女性のレイプファンタジーに対する“道徳的非難”の不当さについて

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実は色々あって先日一旦はtwitterの方での“啓蒙活動”は引退を発表したのだが、それ以前に批判したことのある御仁がまた性懲りも無く、まったく同じ論法で女性(同性)のレイプファンタジーを非難していたのを見て頭に血が昇り、やむなく再度の反論をさらにしつこく試みる羽目になった。事の顛末は下記を参照されたし。

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7月3日

RT @akio71: 「純愛のていをとった、男性ないし攻めからの一方的な恋愛コンテンツ」って、異性カップルを扱った作品だけでなく、同性カップル(主にBL)にも沢山あると思う…ってタイプしてて、「残酷な神が支配する」を思い出した。グレッグぐらい気持ち悪い存在が、素敵な恋人として描かれてるもの…

posted at 19:11:32

↑RT:誠に失礼ながら「男性ないし攻め」だの「主にBL」だのいう発想のフレーム自体が有害であると判断して少々。どこから話そうか迷うが、そもそも狭義のポルノか否かに関わらずマゾヒズムと結びついた「愛されたい」というファンタジーは普遍、問題はそれが「女の願望」として本質化されること。

だから仮に百歩譲って「暴力的な純愛」表現が“有罪”であるとしても、断じて「男女」として描かれたものと「男同士」として描かれたものが“同罪”であるわけがない。この辺りの詳細は以前に散々書いている。http://twilog.org/tatarskiy1/month-1202/2  http://twilog.org/tatarskiy1/date-120108

あと私怨で恐縮ですが、こういう発言を見ると「やっぱり暴力的な男なんか出てこない清く美しい女同士というファンタジーを愛する僕のセクシュアリティは正しいんだよね~」とうぬぼれたがるキモい百合豚が超喜ぶと思うので気色悪い。本当は男が男に愛されることなんか考えたくも無いホモフォウブだが。

あと『残酷な神が支配する』を振りかざして「ハーレクイン的なBLを愛好する腐女子の堕落」を非難してるクズを複数人目撃したことがあるので(自称腐女子も少女漫画読みとかいう男もいたが)その点でも嫌なことを思い出した。ともかく私は女の性的ファンタジーを道徳的に非難する言説は大嫌いだ。

7月22日

RT @summerslope: 60〜70年代の映画観てるともー当たり前のよーに「普通の男女の不器用な恋愛(だからピュア☆)」としてレイプが出てくるからなー。『氾濫』は寿司屋の二階で女子大生引っ叩いて結婚するって嘘ついてヤるし、三島由紀夫主演の『からっ風野郎』も愛してるって言いながら殴って無理矢理、だし。

posted at 02:55:55

RT @akio71: 漫画やらアニメやら二次創作やらで、いまだに生き残ってる価値観だなあ、そんだけ根深いのかと遠い目になる。(「普通の男女の不器用な恋愛(だからピュア☆)として出てくるレイプ)、ヘテロ恋愛のもの、BL作品、だと「だからピュア」どころか「不器用なほうが真実の愛!」ぐらいに発酵しててウヘエ

posted at 02:56:11

RT @akio71: 百合作品はあんまり嗜まないので、どういう傾向があるのかわかんないです

↑RT:だからいい加減何度私に同じこと言わせたら気が済むんだよ。http://twilog.org/tatarskiy1/date-120703腹が立ってしょうがない。だからなんで現実の権力関係を無視して女の性的ファンタジーを覇権的な男のそれと混同して道徳的に断罪しようとしたがるの?ミソジニーがダダ漏れで見苦しい。

先に言っておくと当然ながら先にRTしたさかのなつ氏のツイート単体では別に問題には思っていない。何度も言っているがレイプファンタジーそれ自体は普遍的かつ凡庸なものであり、問題は男がそれを自分のものとしては断固否認し女に押し付け「女は男に犯されて喜ぶのが本質」と規定することだけ。

男は自分にとってタブーである「男に対して受身になること」を女の本質として外在化する。そして男は自分を“本能的”に能動的な性欲を持ち女を犯す「暴力的な加害者」として規定するから、必然的に女のイメージは「処女である無垢な被害者」と「男を誘惑し堕落させる淫乱な娼婦」に分割される。

そして自業自得の帰結として、ある種の男は自らが“穢らわしい性欲”を持った“能動的な加害者”でしかありえないことに不満を抱く。そして「自分に穢らわしい罪を犯させる誘惑者」である“娼婦”を憎悪する一方、「性という罪や穢れとは無縁の清らかな被害者」である“処女”に羨望を抱くのだ。

娼婦への憎悪も処女への羨望も、どちらも同じミソジニーの裏表に過ぎない。そしてこの女への嫉妬の本質は、言うまでもなく男が自らに否認した「男から受身で愛され犯されること」の外在化に由来する。自らに対して禁じた夢を見ることが出来る者への妬みであり、当然このタブーはホモフォビアと一体だ。

私がある種の勘違い百合豚が大嫌いなのは、この清らかな被害者=処女への同一化を自分の道徳的正しさだと信じ込み、“処女同士”の関係を「男に愛され犯されるなどという穢らわしさとは無縁であり、“清らかで正しいもの”」と考えている傲慢さにある。本質はミソジニーとホモフォビアの固まりだが。

結論から言えば、レイプファンタジーを道徳を持ち出して叩きたがる心性は、そのまま性的ファンタジーそのものへの嫌悪であり、その本質は必然的にミソジニーである。女性の場合、それは「男に愛され犯される願望」を本質として受け入れることを要求されている自分の立場への当然の不満でもあろうが、その「当然の不満」を口にすることを許されるためには、女が“男同士”として描いた「男が男から愛され犯されるファンタジー」も“平等に”批判しなければならないと思い込んでいるあたり、骨の髄まで「女は貞淑に道徳的であれ」というヘテロセクシズムの不文律に馴致されていると言わざるを得ない。

しかし男の監督が俗悪でホモソーシャルな一般世間に向けて「女ってこういうもんだろ?」ってしたり顔で提出して「やっぱ女はこういうもんですよね」ってベタにまかり通る映画作品と「所詮女子供のおもちゃレベルの慰み」である少女漫画やBLの性描写を同列にできる時点で正気を疑う。弱い者いじめ乙。

ぶっちゃけ、性的ファンタジーに道徳を持ち込んだ途端に「女同士>対等(笑)な男女≒当事者(笑)による男同士>>男女>【越えられない壁】>不届きな女の描いたBLなどという代物」というくだらない“正しさヒエラルキー”に巻き込まれるだけなんだよね。

そしてこのくだらないヒエラルキーは、そのままそのファンタジーを好きな女の“正しい順”でもある。男はこんなものに拘束される必要など無い。彼らが性欲とそれに基づいた幻想を持つのは“当然のこと”であり、その内容が暴力的なものであればそれは「男らしさの証し」であるし、あえて女のように道徳的に“対等さ”を気にかければ「リベラルで立派な男性」だ。どちらに転ぼうと男に損失などありはしない。女は「道徳に従うのが当然である存在」に過ぎず、貞淑な従順さか逸脱を罰せられるかの選びようの無い二択があるだけだ。

「私は正しい女です!レイプファンタジーなんか間違ってるし、しかもそれを女の分際で男様が女如きのように犯される作品を描くなんて、もちろん言語道断ですわ!」って、随分とわかりやすい同性に対するヘイトスピーチですね。そういうモロな差別に加担する方が恥ずかしいと思わないの?

繰り返しになるが、「男に犯されるべき娼婦」であることを拒否したければ「どんな形でも“犯されること”を夢想することなどない貞淑な女」であらねばならないと思うから「BLのレイプファンタジーなんか嫌いだ」と言いたがるんだよね。それ自体ヘテロセクシズムのダブルスタンダードへの忠実さに過ぎないが。

私は“娼婦”にも“処女”にも分類されるのは御免だし、BLも男女もレイプファンタジーそのものも楽しんでいますよ?私は道徳を振りかざして同性を罵倒することで自分だけは安泰を得ようとするような悪趣味な卑怯者ではまったく無いし、恥じ入るべきところは何も無い。私のファンタジーは私のものだ。
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by kaoruSZ | 2012-08-11 00:25 | 批評 | Comments(0)
※続編あり

最近も こんな形★で無責任な言及がなされたところだ。一つだけ断わっておくが、ツイッターでは、自尊心の異常に低い“腐女子”へのエンパワーメントや啓蒙に重点が置かれているので、今回も最後にようやく話題に近づいたところで中絶しているが、本来tatarskiyさんにとって、自称腐女子やジャンルBLは本質的な問題ではない(そもそも私たちはそういった特殊な存在があるとは考えていない。下手な書き手やよく書けていない作品は存在するが)。彼女が扱おうとしていることの一つは藝術の問題、なかんづく女は藝術家――道徳に気をつかい、女の分をわきまえるのではなく、自分の愛するものと欲望に忠実な――になりうるのか(あるいはどうしたらなりうるのか)という問題だ。ちなみに、twitter上での(これまでのような)“啓蒙活動”は近く中止するとのことである。https://twitter.com/tatarskiy1を参照されたい。(kaoruSZ)


“ホモォ騒動”の顛末について


RT @angelcrown: .@amoruk さんの「twitterトレンド一位にまでなった、溢れ出る"ホモォ"にリアルゲイが一人思うこと。」をお気に入りにしました。 http://togetter.com/li/289886

posted at 02:36:28

RT @ma_e: ホモォがあれだけ流行ったのは、腐女子を「腐女子という生き物」化するのが好きな人が多いから

posted at 02:09:19

RT @futeneco: コメント欄にある通り、ホモォは腐女子ってこんなんだ的な嘲笑を含むものだとも思うので、ヘテロ男性→ホモォを好む女性→リアルゲイという構図が当てはまるとは思えないわ。正しいセクシュアリティとそうでないセクシュアリティを区別した上で、後者を女と男性同性愛に押し付ける構造なら分かるけど。

posted at 02:10:45

RT @futeneco: @_surtsey このまとめ主、非腐女子もホモォ祭りに参加してることをまるっと無視して腐女子に責任をなすりつけて、マイノリティを傷つけるのは良くないでしょ?と正論をぶって自分の立場についてはノータッチというところが1番引っかかります。それでいて強くなれと、他人に説教する所も。

posted at 08:17:03

RT @futeneco:性的ファンタジーの分野、っていうかセクシュアリティは基本、社会的に構成されたファンタジーの要素てんこ盛りだし、リアルゲイ(なにそれ)とファンタジーゲイ(なにそれ)を区別する発想をやめた方が宜しいかと。

posted at 20:48:41

RT @futeneco:@_surtsey 私はどのセクシュアルファンタジーにも優劣はないだろうと思っています。同性愛表象でリアルな当事者様と偽物のファンタジーという区別をしても、ホモフォビアの解決にならないどころか、前者をゲイ男性、後者を女性に分けて差別しようとするヘテロ男性規範の反復だろうなと。

posted at 21:31:40

RT @futeneco:@amamako 腐女子とされる人が同性愛差別に加担したというか、それは社会(というよりヘテロ規範)がホモフォビックだからであり誰でも加担しうるわけですが、同性愛表象を好む人間がフォビックというのはあり得ないと思います。腐女子wと揶揄しなければならない現状がフォビックなだけです。

posted at 19:15:32

RT @AyahSaki: 「ホモクレちゃん」を見て、私は正直泣いたね。腐女子が喜んで拡散した自己像は、無害で幸せそうでちょっとキモいけど愛せる感じの生物だったんだよ・・・・・必死で「私達、美しくはないけど無害でかわいいやつです!愛して!」って;▽;泣ける

posted at 02:16:10

RT @amezaiku: 「ホモォ」は腐女子が抑圧されまくり崩壊し「異性愛男性主義の社会に認められたい」と媚売った結果。その結果が「ホモォと寄生を発することで周囲に嘲られながらも笑顔でい続ける哀れな生き物」になった上にリアルゲイ(笑)を初めセクマイコミュニティの目の仇にされたというのだから絶望しかない。

posted at 02:17:13

RT @amezaiku: 腐女子に限らずゲイ文化なんて女を馬鹿にして成り立っているものっすよ。でもそこが指摘されることなんて未来永劫無い。そしてそこをスルーしてゲイやその支持者は腐女子をdisり続ける。

posted at 20:31:50

**********

まだ話の途中でしたがhttp://twilog.org/tatarskiy1/date-120417関連のある話題なので、後出しジャンケンみたいで恐縮ですが上のRTの一件について少々。(口調の違いは気にしないで下さい)要は自称腐女子の人の自称自虐というのは必然として権力者であるヘテロ男性の感性に規定された通俗なホモフォビアに対するおもねりになるんだよね。

そしてそれを“リアルゲイ”に叩かれるのを恐れて「私はこんなリアルゲイの人に配慮の無い間違った女とは違います!」と主張しだすのも「男の顔色を窺って同性を蔑む」という点で実は全く一緒。“自虐”だろうが“反省”だろうが「女が“正しくない女”を蔑む/嘲る」というミソジニー的パフォーマンス。

つまり、いくら「身の程をわきまえて自虐的に」振舞おうと、おもねるべき相手がヘテロ男性とゲイ男性の両方である以上「あちらを立てればこちらが立たず」というくだらないジレンマに陥るだけになる。そしてますます女同士の相互監視と締め付けあいだけがきつくなり、男からはどのみち憎まれ続ける。

またこうした嘲笑と“自虐”の悪循環は、多くの女性に対する「“腐女子”と認定されることは自らのセクシュアリティに対する一切の尊厳を認められず侮蔑される存在になることだ」という見せしめの効果を担ってもいる。これは実は男性にとっての「自分がホモだと思われる恐怖」に正確に対応するものだ。

だがそもそも男性同性愛及びその表象を愛好することがそれ程に差別されているのは、言うまでもなく社会の権力者であるヘテロ男性がホモフォビックであり、女性とゲイ男性を蔑視しているからでしかなく、そもそも女性がゲイ男性を差別することなど出来はしない。女は常に男の意向を伺い従属するだけだ。

いかなる場合であれ「女が悪いから」ゲイが差別されるというふざけた言い分は、「本物の権力者とは対立したくないが、憂さ晴らしはしたい」という卑劣で虫のいい発想にしか聞こえない。ヘテロ男性にとっても人権や政治的正しさを盾に非難される心配の無い腐女子叩きはホモフォビアの発散に丁度いい。

つまり男性同性愛の表象に関してトラブルが生じた場合に“腐女子”を生贄にすることにはヘテロ男性・ゲイ男性双方に明確な利害の一致があり、暗黙の“紳士協定”が成立している。男が男を告発することには相手の面子を潰して恨まれるリスクがあるが、男が“ふしだらな女”を侮蔑するのは当然だからだ。

男には“男としての名誉”が約束されているが、女にはセクシュアリティに関する独立した尊厳など認められていない。女には“正しい女”か(“腐女子”のような)“ふしだらな女”かを分かつ踏み絵があるだけだ。後者であるとされれば、見せしめとして何をされても“当然の報い”に過ぎない。

だからこそ女は自分が「あんな女とは違う」ことを証明するのに躍起になる。“普通の女”は腐女子だと思われまいと努め、腐女子と思われるのは避けられない場合も、せめて「マイノリティに配慮し身の程をわきまえた」“貞淑な腐女子”として罪一等を減じられることを望む。無論裁定を下すのは女ではない。

女が“女”としてではない性的ファンタジーを持つことなど、彼女の守られるべき尊厳のうちには入らない。これは“当事者様”や“性的マイノリティに理解のある皆様”にとっても当然の前提なので“レズビアン”や“バイセクシュアル”ではない“腐女子”には冷淡だ。

この辺りについては以前に詳述したのでhttp://kaorusz.exblog.jp/18567610/繰り返さないが、今回の一件でも、実際には“弾除け”(にしてサンドバッグ)としての腐女子に遮られて直接的な被害など受けていないゲイ男性の人権の問題としてしか歯止めがかからなかったのがふざけた話なのだ。

真に問題にされるべきは「“腐女子”のせいにすれば好きなだけホモフォビアを公言できる」というヘテロ男性の態度と、それに付け込まれる女性の側の自尊心の欠如であり、必要なのはヘテロ男性のホモフォビアに対する批判と、女性の性的ファンタジーの自由に対するエンパワーメントに他ならない。

今回の一件とは少しばかりズレがあるし、話がややこしくなるので深入りはしないが、いずれにせよ私は女性の側(腐女子とは言わない)がゲイ男性に気を使ったり理解を求めたりすべきいかなる理由も存在しないと考えているし、そうした“男からの承認”を求めること自体が差別の是認にすぎないと考える。

今見返してみればなんともぎこちない文面で気が引けるが、ひとまずこのことに関連のある以前の他の人との会話のログを貼っておく。

http://twilog.org/tatarskiy1/date-111217

http://twilog.org/tatarskiy1/date-111224


なお、上の会話に引き続き返信するつもりで書き溜めたものの中絶していたメモ書きも、この際ポストしておく。何某かの参考になれば幸いである。(了)


(12月18日付の会話より続く)お返事ありがとうございます。ただ、返信を拝見して少々補足させて頂きたい点があります。「不正確なイメージ」を「消費」しているから反論の余地は無いのではないかと怯えてしまわれるとのことですが、これはこんな怯えを抱かせる側が100%悪いだけの話で、貴方を含めたBLを好きな女性には何一つ責められるべき謂れはありません。実は明日の朝早くから用事があるので、今晩は長い文章をツイートする余裕がありませんので、この件についてはまた日を改めてお伝えしたいと思います。では今日はこれにて。

まず「不正確なイメージ」云々ですが、先にお送りした私の連続ツイートの意図の一つは、本物の「正確な」イメージというものは存在せず、それは「これこそが正確なイメージと信じられるべきである」というイデオロギー的な文脈によって浮上してくる虚像にすぎないということです。
これに補足すると、「不正確なものとして否定されなければならない」とされるイメージとは、そのネガに他ならないということです。

具体的には、私が例示したような「性的指向以外はいわゆるヘテロのまっとうな社会人男性と変わらないゲイ男性」というイメージがネガとして否定しているものは、「社会的に不安定な立場の、場合によっては水商売に従事しているような、女装癖があったり“女性的”な振る舞いをする、世間的に“まっとうな男”とは受け取られない」男性のイメージです。つまり、「ゲイは“女”なんかじゃない」と言いたいわけです。
これは“女”として扱われることから逃れようが無い生物学的女性にとってはふざけた話で、本質的に女性差別的な主張です。

早い話が、ゲイ男性は「男のくせに“女”のように男の性的対象になりたがる/男が男を性的対象すなわち“女”にする」と思われているからこそ、「当然女っぽくなどないまっとうな男」であるところのヘテロ男性から差別されるわけで、実はこれは「受動性(性的な受身性を原義とする一連のイメージ)を“女”として外在化した、自らは“女”であってはならないもの」こそが男そのものの起源であり、ゲイ男性の存在はこの男の成り立ち自体を危うくするものだからです。逆に言えば、「男に対して受動的であるもの」こそが“女”の起源であり、つまり“女”とは本質として現実の女性のものではありません。

伝統的に、優れた男性の芸術家が往々にしてゲイである場合が多いのは、この“女”に象徴される受動性から生じる美的な価値こそが優れた「表現」を生み出すのには欠かせないものであり、受動性を単に女性の本質と見なした通俗的な“女”イメージのみに縛られがちなヘテロ男性と違い、ゲイ男性は受動性を自分から外在化していない分だけ通俗的女イメージへ縛りつけられておらず、その分だけより洗練された受動性のイメージを生み出すのに有利だからです。むろんこの有利を優れた「表現」を作り出すのに生かせるだけの才能の持ち主はいつの世にも希少なのですが。

逆に、当然ながら才能さえあればヘテロ男性でも優れた表現者でありえます。また、そもそも“女”とは男性の受動性であることから、男性が作り出し、時には自ら体現する“女”のイメージは、現実の女性以上に“女”らしく、つまり現実の女性以上に優れたものとして受容されるのです。おネエキャラや歌舞伎の女形なんかいい例ですね。二次元美少女は開き直りすぎて誰の目にも子供っぽいですが。

そして男性による男性同性愛の表象は、近代的なヘテロ/ゲイという二分法が成立する遥か以前から文化の中に存在し、これは先述した「通俗的な“女”イメージではない洗練された受動性」の伝統的な表現形式だったわけです。

これまでの流れでお分かりでしょうが、この「男性による受動性の外在化としての“女”」と「男性による洗練された“女”/受動性イメージの創出としての芸術」という図式は、実に有史以来と言っていい程に伝統的なものです。(中絶)

※上の文章、「伝統的に~」以降と話が繋がっていないですが、これは別々に書いていた二つの文章をまとめて投稿したためです。ややこしくてすみません。



★“@hazuma これはマジで素朴な質問なのだけど、BL関係で「ホモォ……」とか呟かれているのはどう感じるの。RT @masayachiba: まぁ、ホモってのは、現在、基本的に「ほぼアウト」の侮蔑語だと思うんだけど。どうでしょう。公の場では。(当事者が自分で自分を茶化すときには使われると思います”
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by kaoruSZ | 2012-07-30 21:22 | 批評 | Comments(0)

tatarskiyの部屋(7)

twitterで腐女子は権力者()だと言い張っていた被害妄想基地外の一件について

以下のまとめは内容的には「tatarskiyの部屋(2)“BLからフェミへ”(笑) 」の続き。
なお、このときtatarskiyさんは中平康監督の『狂った果実』を論じ石原慎太郎のホモフィルぶりについて書いていた最中だったのが中断されてしまって非常に惜しい。http://twilog.org/tatarskiy1/month-1201ぜひ続きを書いていただきたい。(kaoruSZ)
********

RT @Hornet_B: BLはー、腐女子ではない女子オタクにはー、男子むけのごくふつうのポルノと同じ圧力をかけてるよー。男子ポルノが『正常な男』を規定するのに使われているんだとしたら、BLはいまや『正常な女子オタ』の踏み絵になりかねないということさ。
posted at 02:08:13

RT @Hornet_B: 流れちゃったけど、いま、TLのカタスミに、正常な男を規定するもの=ポルノ、で、それと同じような使われ方をしているものなどないって見えたもんだから。いや、もっとずっと小さい狭い範囲ではあるが、もはやBLだってその力を持っているよと。
posted at 02:08:32


@tatarskiy1です。上の@Hornet_Bの馬鹿発言に釘をぶっ刺しておきたいと思ったのですが自分の垢では連続ツイートの途中なのでこちらにコピペ頼みました。→
posted at 02:14:39

→で、本題だがはっきり言ってマジで訳ワカメ。いったい何時BL好きなことが「排他的に“正しい”当然のものとしての女の欲望の形」になったという事実があるの?@Hornet_B、お前自身のBL蔑視から来る被害妄想を投影してるだけだろうが。→
posted at 02:22:01

→それこそ「あんな女たちと一緒だと思われるかもしれない私が可哀想」ってことだろ? それって、「BL好きな女=あんな正しくない女」という前提があるからじゃん。→
posted at 02:23:26

→私自身何度も書いて来た事だが、「男の当然の正しい欲望=女に欲情すること」で、女は「男に欲望されることを受け入れること(より平等な男女関係とやらを望む態度も含む)」が正しいとされる欲望のあり方なの。→
posted at 02:23:57

→だからBL好きな女なんてどれ程多かろうと「公式な正統性」を認められない当然蔑視されるべき異常な欲望でしかないんだよ。「腐女子」という呼称自体が、「正統とされる女子のあり方からすれば“腐って”いる」という自虐的な前提なくしてはありえない。→
posted at 02:26:33

→だから“正常な男”が「当然ホモなんかと一緒にされたくない」と公言して憚らないように、“正常な女”をアピールしたい@Hornet_Bは「当然“腐女子”なんかと一緒にされたくない」ということだよね。頼まれもしないのに差別主義者丸出しでご苦労様。
posted at 02:27:19
[ここまではkaoruSZのtwitterアカウントを借りてポスト]

RT @carpe_diem435 いかんRTしたまま寝てた。私の記憶では、腐女子が「正しい女のあり方」であった事は無いなぁ。寧ろ、「女のオタク=腐女子」というレッテルに対し、「何でもホモにするあいつらと一緒にしないで」ときう反発しか聞いた事ない。
posted at 03:27:52


RT @carpe_diem435 数は多いし、コミケなんかでも確かに腐女子という人口は一定の割合を占めているよ。でも、それは「覇権的」とは言えない。常に気持ち悪い、それこそ腐ったものという自認をつきつけられ、自重を迫られる立場だと思うけどね。
posted at 03:32:44

RT @andy_kam: 批判は受け止めるつもりでいる。でも血を流しながら「ほっといて」と悲鳴を上げざるを得ないほど作品を脇に置いて性やらなんやらにレッテル貼られまくってきた腐女子の状況を全く鑑みず覆いかぶせるようにして「お前らはもうマジョリティだ強者性を自覚しろ」とかやるのはえぐすぎると思う……。
posted at 13:06:15


RT @amezaiku: @carpe_diem435 正直言って腐女子に限らず女オタ(というか女全体で)「認められている正しい姿」っていうのは存在しないと思います。そんな中で「強者を作り出してそれを叩く」というのは間違いだと思います。
posted at 13:10:17

RT @amezaiku: 「BL好きが正しい姿とされている」と言われたら爆笑するし「乙女ゲー好きが正しい姿とされている」と言われたら鼻で笑うし「夢好きが正しい姿とされている」と言われたら苦笑するし「百合好きが正しい姿とされている」と言われたら欠伸するし「少女漫画好きが~」と言われたらryそんなもん。
posted at 13:10:41



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本当は連続ツイートの途中で余計な用事に(ryだが色々とあまりにも酷いので失礼。スズメバチの馬鹿が被害妄想の虜になっているだけの卑怯者なのは当然だし、批判している人たちの言わんとしていることも理解できるのだが、私は所謂BLを好きな女性とそれ以外の嗜好を持つ女性が平等に抑圧されているとはまったく思わないし、andy_kamさんが「批判は受け止めるつもりでいる」と書かれているが、「受け止めるべき批判」などはっきり言ってまったく存在しないしあるなら具体的に教えていただきたいくらいである。

amezaikuさんが言うように、女の好み自体が軽く見られ馬鹿にされているのは確かだが、BLを好きなことは他の男女や女同士のファンタジーを愛好することとはおよそ比較にならない、明白な男性からのヘイトと同性からの差別化としての忌避にさらされるし、それには明白な構造的理由がある。

繰り返し書いてきたことだが、性的ファンタジーに対する社会的視線のヒエラルキーは、ホモフォビアを当然の前提とする男性のヘテロセクシュアリティを中心に、それに対立するように見えて実は相補的である「道徳」に支えられて形成されており、この道徳には「道徳としてのフェミニズム」も含まれる。

端的に言って、BL好きな女性の存在は、まず第一にそれが男性同性愛の表象であること自体によって支配者としてのヘテロ男性の逆鱗に触れ、第二に、男にとっての女であるべき/それを夢見るのが正常であるべき女の分際で「男にとっての男」を思い描くことの逸脱によって、「普通の女」としての同性に「殿方や自分と同じ“普通の女”にあれの仲間だと思われたくない」という忌避とその表明としての差別化を生じさせ、第三に「男にとっての女ではなく、主体性を持って同性と連帯し女であることを肯定する女」という「もう一つの正しい女像」を称揚するフェミニズム的道徳によって「女ではなく男を称揚する利敵行為」として断罪される。

つまり世俗のヘテロセクシズムとフェミニズム的道徳とは、共に「女は女であることを喜ばしく思い夢見るべきである」という根本的な戒律を共有しており、「女性が男同士のイメージを愛好すること」はこの「女性に女イメージへの同一化こそが正当であるとして強いる」戒律と完全に衝突するが故に肯定されえず蔑視されるのだ。

道徳からも世俗のヘテロセクシズムからも後ろ盾を得られない性的ファンタジーが、通俗な世間に対して正統性を主張しうる根拠などありえない。逆に言えば、性的ファンタジーに関するおよそ凡ての通俗な正統性の主張の根拠は、世俗のヘテロセクシズムと道徳とに由来している。

こうした原理に例外は無いがそれも当然のことである。「正統性の根拠たる源泉」を独占してこそ「支配的なイデオロギー」足りえるのだから。他者を差別しうるのは「支配的なイデオロギー」を後ろ盾に持つ者だけだ。平たく言えば「権力の犬」なればこその特権だということだ。

私が「正しい女」「正常な女」と書くとき、それは必ずこの「権力の犬」を意味している。「誰でも人を差別することはあるかもしれないんだから、気を使いましょうね?」などという抑圧的な寝言は、ここまでに散々述べてきた支配的なイデオロギーが権力を振るう厳然たる制度の存在を隠蔽するものだ。

具体例に話を戻そう。今回の場合なら、「百合が好きだから腐女子なんかとは違う/こっちはちゃんと女の子が可愛いと思ってるし、女同士が対等なのっていいことだと思う。あいつらは男を女にしてるだけじゃん」という女にはフェミニズム的道徳が、「男女が好きだから腐女子なんかとは違う/男と女で対等な方が正しいと思うし、あいつらは男を女にしていてゲイ男性に失礼だと思う」という女には、世俗のヘテロセクシズムとフェミニズム的道徳の双方が、それぞれ後ろ盾になっている。

で、「BL好き」な女性がこうした文字通り「権威を笠に着た」発想自体出来ると思いますかね?まして公言することで他者を威圧することができるとでも?その威圧感を感じさせるだけの権威ある後ろ盾が一体どちらにあると仰るのでしょうか?こっちにそんなものがあるわけがねえんだよ権力の犬どもめ。

また例示したような所謂ノーマルカプ厨や自称百合好きによるBL蔑視的な発想は、腐女子の人の間でもかなりの程度内面化されているし、それに正面から異を唱えている人など見たことが無い。それも当然だ。誰もが同じ「支配的なイデオロギー」に規定された構造の上に生きているのだから。

「ちゃんと男女も好きだよ」、「百合もいいと思うよ」、「美少年受けなんかより親父受けの方が面白いよね」こうしたアピールをする発言が物語っているのは個人の嗜好それ自体ではない。本来それ自体はどんなものであろうといかなる正しい価値も正しい意味も無くただ自由なだけだ。問題はこうした発言をアピールとして引き出す動機であり、その発言が支配的なイデオロギーの構造の中でどのような意味を持つのかだ。しかし、誰が逆に「ちゃんとBLも好きだよ」と言わずにおれない程の抑圧の許に置かれていると言うのかね?リアリティ皆無だよ。「苦手自慢」なら腐るほど見たが。

それにしてもこうした所謂BL周辺で姦しく囀られている「望ましくて正しいとされる表現/間違っていて正されるべきとされる表現」のコードを読み解けば、実に馬鹿馬鹿しいことがわかる。

要は「女は女に同一化するのが望ましく正しく(男女、百合)、男が女性的であることはあるまじき間違いである(女性的な美少年より逞しい親父)」ということで、何のことはない、ミソジニーとホモフォビアとヘテロセクシズムに立派に準拠した、正しい男と女の描き方を形を変えて説いているだけだ。

逆に言えば「男に愛される男が女性的に美しく描かれていること、その表象を愛好すること、特に愛好する者が女であること」は蔑まれるべき罪であるということだが、馬鹿でなければこれがヘテロ男性の視点で規定されたホモフォビアでありミソジニーなのはお分かりだろう。

つまりもっともらしい理屈を捏ねてBLを差別したがる連中は、当人が“政治的に正しい”つもりであるのとは裏腹に、釈迦の掌の上でわめき暴れるが如く制度的なヘテロセクシズムに囚われている。それも当然であろう。ヘテロセクシズムとは何よりも男が男に対して受身で愛されることのタブー化である。

ついでに言えばミソジニーの強い一部のゲイ男性が「女が描いた女のような美しい男なんて偽物で差別でふじこ」とゴネていることがあるが、何で「女が描いたら偽物」で「美しいのは差別」になるのかといえば、ご当人が「俺は女なんかとは違う、一緒にされたくない」と女性を差別しているからであろう。

「女同士なら対等だから~」「やっぱり対等な男女を描くのが正しいと思う~」「受け攻め固定より対等なリバの方が~」この手の陳腐なフレーズの決まり文句である「対等」という言葉が意味するものは、要は“犯される女”に象徴される受動的なマゾヒズムとナルシシズムへの罪悪視であるに過ぎない。

つまりは馬鹿な連中からの「男が女を犯すポルノと同じ事をやっている」という非難を内面化して恐れるという、これも抑圧の結果である。何度も書いてきた事だが「受身で愛される/犯される」というマゾヒズムとナルシシズムこそ性的な快楽の源泉であり、これを認めず蔑視するヘテロ男性が特殊なのだ。

馬鹿はヘテロ男性の自己欺瞞を見抜けないまま受動性に対する蔑視だけはきっちり内面化し、その鬱憤を何の権力もあるはずも無い女性の性表現にぶつけて晴らそうとする。こっちの方がヘテロ男性が自身の受動性への蔑視をそれを外在化し押し付けた女性にぶつけるのと相似形なのが醜悪で手に負えない。

繰り返し書いているが、性と性表現が暴力としてしかイメージされず本質的に「罪深い」ものであると言う観念は、制度的な男性のヘテロセクシュアリティが根源的な快楽としての受動性=犯されることを自分のファンタジーとしては否認し、それを「女のファンタジーであり本質」として外在化することにこそ起因する。

「俺は自分が犯されたいのではない、女を犯したいのだ。それこそが男の快楽であり、俺に犯されることこそが女の快楽であり本質なのだ」と主張する一方、無意識下では自分で自分に禁じた「犯されること」の快楽を享受することを許されている存在である女に嫉妬し憎悪を募らせ、この「憎みながらも惹かれずにはいられない」という女へのアンビヴァレンスの結果として「性とは本質的に罪であり、男を誘惑する性的な存在である女とは罪深いものである」という道徳的な観念が生まれるのだ。これが多くの文化圏で宗教と結びついた普遍的な観念であることは誰でもご存知だろう。

つまり「性欲とは攻撃的で暴力的なのが当然のものである」という通念も、「性欲とは罪であり懺悔すべきものである」という道徳的観念も、共に制度的なヘテロ男性のメンタリティから発する主観であり、本質的に男性のものなのだ。
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by kaoruSZ | 2012-07-08 20:48 | 批評 | Comments(0)
<24年組からよしながふみへ(笑)>

……愉快なネタをRTした直後にウンザリする話だが、書いておかねば仕方がない。この時http://twilog.org/tatarskiy1/date-111230とかこの時http://kaorusz.exblog.jp/18505306/とかに書いた話の続きだけど、数年前のはてなとかで群れてたリベラルぶったミソジニスト共の何がクズだったかという話(あとこの時http://twilog.org/tatarskiy1/date-120122とこの時https://twitter.com/tatarskiy1/status/159193953311277056にもちょっと発言してるが)。

要はあの連中が好んでやっていた24年組(特に萩尾望都)とフェミニズムと決まってよしながふみをくっつけて「女性たちの表現の歩みとリンクしたフェミニズム的達成()」とやらをでっち上げるやり口が死ぬほど下らない有害な与太話だったということだが。

今でも「BL やおい」とかと「フェミニズム 24年組 萩尾望都 ゲイ よしながふみ」とかのキーワードで検索すれば、連中が差別的なゲイの男に文字通りヘイコラしながら“正しい女”として承認されその他大勢の同性を差別されて当然の立場に追い込むことに加担した証拠が山ほど残ってるけど。

だいたいテレビドラマレベルの通俗なあざとい“世間のみんなに褒めてもらえる”お話と背景描けないのはテレビに失礼なレベルのバストショットばっかのポンチ絵のよしながふみ如きと、純粋に先駆的な漫画の表現者だった24年組の人を同列に語れる時点で美意識の欠如をひけらかしているに過ぎないわな。

よく「描き手が女性である」というだけでクソもミソも一緒にできるよ。と思うが、それも結局は今でも女性の作品に対しては「独立して優れた表現」であることより「女ならではの“望ましい”女性性の表現」であることが求められているからに過ぎないだろう。通俗化した“フェミらしさ”もその一つだ。

友人のブログの記事だがhttp://kaorusz.exblog.jp/11888365/ここでの吉本隆明の萩尾望都へのセクハラぶり(褒めてるつもりで自分の女性観とホモフォビアをごり押し)と、通俗フェミ的解釈でもって「女性特有の状況や内面が男同士という形で表現されている」とかのたまう馬鹿は結局同じだろ。

よしながふみのくだらない下品さって、そういう俗物どもの「これは貴女の中のフェミニズム的なものの表現なんだよねぇ?」って好色なヨダレ垂れ流したようなリベラルぶった(必然的に)男の価値観にデフォでおもねって作品の外でもベタに「そうなんですよv偉いでしょv」ってコメントする媚び媚びぶり。

そういうあられもなく下品な“政治的に正しい女の媚態”の発露だからこそ、臆病な通俗フェミぶった馬鹿どもが「24年組からよしながふみへ」みたいなでっち上げ偽歴史のゴール()に仕立て上げてくれるんだが。本当は24年組とよしながふみに「男の人が褒めてくれてる」以外の共通性なんて無いよ。

言うまでもないが24年組の人の作品を男が認めたのは、それが誰の目にも明らかな革新的な漫画の表現だったからにすぎないし、そこに政治的道徳的な意味づけなんか必要なかったのも当たり前。でも彼らは同時にホモフォビアと一体の、女が男の同性愛の表現を読み描きする「男心をそそる」理由を探したがった。

よしながふみを持ち上げるのって、そういう男の側のスケベ心と女の側の道徳的な自己正当化を欲する臆病さとに見事に対応しているわけだ。表現としての巧拙ではなく「正しい“女”の内面の表現」として弁明できるかという尺度を最優先した評価軸なんて、道徳の教科書の採録テキスト選びと変わらないが。

当然ながら私はそんな女性差別的な茶番に付き合うつもりはさらさら無いし、他の人にもそんな必要は無いと言い続けるつもりだが。浜の真砂は尽きるとも、差別的な自覚も無い馬鹿の種は尽きないけど。
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by kaoruSZ | 2012-07-02 21:21 | 批評 | Comments(1)

tatarskiyの部屋(5)

もう一ヵ月半ほど前のことだが、ツイッター上で長野ハル氏が主催する「左翼BL」に関する話題でTLが炎上した件で、それをきっかけに自分で発言した一連のツイートをまとめてみた。それまでの経緯は下記のURLのトゥギャッター及びふてねこ氏や私のツイログを参照してもらいたい。トゥギャッターの方はほとんど発言の取捨選択がなされていないこともあって、発端について以外を把握するにはお勧めできないが。

左翼BL論争togetter
http://togetter.com/li/301060

ふてねこ氏のツイログの該当箇所
http://twilog.org/futeneco/date-120508
http://twilog.org/futeneco/date-120509
http://twilog.org/futeneco/date-120510

私のツイログの該当箇所
http://twilog.org/tatarskiy1/date-120509

そういうつもりで書き出したことではないが、結果的には私がツイッターを始めてからこれまでに書き溜めてきたことの決算になっているので、何か気になることがある人は、これを参照して各自が思うところに役立ててもらえればと思う。個人的には、女性の性的ファンタジーの自由と権利に関して私が言うべき基本的なことは、すべてこの文章の中に尽くしたと感じている。

**********************

所謂BLに関するあらゆる不当な中傷についての当然の反論。あるいは真に女性が要求すべき自由とその権利について

言わずもがな、昨日からTLを異常に加速していた一件についてですが、実は個人的にあまりにも嫌なことを思い出す話だったのもあり、主だったツイートを収集しながら見てはいたものの、何か言う気にもなれずにいたのですが、これ以上黙っているのが我慢ならない部分があるので失礼します。

わたる氏や北守氏への主だった批判には今更私が付け加えることなどない。BLや同性愛への偏見、および女性の性的ファンタジーへの無理解がなければおよそ出てこない態度と発言だったにすぎない。前にも書いたが、彼らのような人は異性愛男性モデルの性欲=暴力という図式を発想の基本にしているため、「暴力などではない性欲やファンタジー」が存在しうること自体にリアリティが持てず、彼らにとってセクシュアリティとは「穢れ」や「罪」のことでしかない。中にはその負い目からの反動によって「罪を自覚できている自分は素晴らしい」と思い上がり、それを他者にも布教しようとする者もいる。

こうした構図とそこから派生する問題についてはもう何度も書いてきた。http://twilog.org/tatarskiy1/date-120427 http://twilog.org/tatarskiy1/date-120428 http://twilog.org/tatarskiy1/date-120105 http://twilog.org/tatarskiy1/month-1202/2 http://twilog.org/tatarskiy1/date-120205 http://twilog.org/tatarskiy1/date-120206
で、非常に気が重いのだが本題に入ろう。私が言わずに済ませられないと思ったのは、そんな自明の差別についてではなく、「BL表現」一般についての偏見に基づく不当な言いがかりの問題と、長野氏を主とした「左翼BL」という同人活動については別の問題であり、私は後者を支持する気にはなれないからだ。

なぜかと言うのはかなり面倒な話になるが、まずは下のRTにもあるご本人のブログを見てみようhttp://d.hatena.ne.jp/nagano_haru/20120508/1336495908 これを一読すれば自明だが、彼女は「左翼BL」とは「フェミニズムや労働問題についての政治的な実践」と「自分の女としてのセクシャリティの葛藤」を結ぶ活動で、それは現実の生活の中の問題意識と結びついた“女性の実感”と性的ファンタジーの表現を融合することだと考えているようだ。そしてそれを通して「女性以外の労働者やマイノリティとの融和」がありうるとも。“綴方教室”のBL版のようなコンセプトなのだろうが、私はまったく支持する気になれない。

それによって得られる承認とは、「女性が自分の性的ファンタジーとして男性同性愛の表象を愛好し、かつそれを表現すること」は「使い方によっては“正しい”政治的目的に奉仕できるから」というものでしかなく、女性が男性同性愛の表現に惹かれること自体も「女性の女性としての葛藤の昇華に役立つから」か、「ゲイなどの性的マイノリティへの理解を広め、かつ彼らの“腐女子”への悪印象を払拭できるかもしれないから」という、どこまでもその母体となる“正しさ”(ここでは“左翼”やマイノリティ運動やフェミニズム)に従属したものでしかなくなる。それは女性の一個人としての自由とは相反するものだ。

私は自分自身も不可避に含まれる女性たちが、男性同性愛の表象に惹かれる「女ならではの」理由を詮索されたり語らされたりすること自体が極めて不愉快だし、そうした需要に応える形で流通することになる“理由”の大半は、男性のホモフォビアの不問と女性のステレオタイプへの押し込めに終始するものだ。

それはたとえ“フェミ的に支持されうる”内容のものであっても同じである。「同情に値する女性の境遇/実感」なるものは、常に現実の権力関係の中における「作られた語り」であり、「これこそが“女”と信じられるべきである」という、個々の女性を抑圧する虚像を生み出すのだ。

何が言いたいのかといえば、あの長野氏のブログでのBL表現に惹かれる理由を“女の境遇と実感”に還元してフェミ的な支持を取り付けようとしたり、“マイノリティへの理解”を広める啓蒙的ポジションをアピールしたりは、それ自体が「正しい腐女子のステレオタイプ」としての振る舞いだったということだ。

「こうすれば許される」というポジションの提示は、「こうしなければ許されない」という冷酷な線引きの裏表である。女性やセクシュアリティの話に限らない問題だが、真に必要なのは、こうした線引きを当然のものとして行なう“権力”そのものへの批判である。弱者とは線を引かれる者のことなのだから。

女性の性的ファンタジーとその表現の自由を守るために必要なことは、彼女の境遇や内面についての説明などではなく、現実を規定する権力的な制度である男性のヘテロセクシュアリティの仕組みの解明による非自然化と、男性のヘテロセクシズムの補完物ではない女性の一個人としての自由の保障に尽きる。

長野氏が、そうした自分以外の女性の性的ファンタジーを持つ権利が、政治的正しさ(規範に対する“貞淑さ”)と無関係に保障されるような取り組みをきちんと行なった上で個人の実感を語り、また「左翼BL」を創作していたなら、私は何も問題に思わなかったであろうし、逆に一般的な商業BLにおけるリーマンもの等と同じ様な単なる職業フェティシズムに基づく娯楽創作として描かれたものであったなら、これもまた何も問題に思わなかっただろう。言うまでもないが、「BLにしてはいけない題材」などあるわけがない。

だがご本人のブログやツイッター上の言動や、描かれた作品のサンプルを見てみれば、それは明らかに「政治的正しさの実践とアピール」として描かれたものだ。取り上げること自体に政治的なよき価値があるとみなされる題材を扱っていることに重きがあり、読者はあらかじめそれを了解している必要がある。

また失礼ながら、そうした“作者の意図”を共有せず政治的共感を持たない読者にとって、魅力的な表現として受容されうるだけの完成度などまったく感じられないものだった。つまり政治的に正しい意図という註釈=エクスキューズ無しには読めたものではなく、自立した表現にはなりえていない。

当然ながらこれが好きなアニメや漫画の二次創作であったなら、完成度云々は単に大きなお世話であろう。また描かれた当時は強くイデオロギーを帯びていたであろう多くの宗教絵画の傑作のように、優れた作品であればそれを描かせたドグマの権威が比べ物にならぬ程失われた後も傑作であり続けられる。

だがあの「左翼BL」の評価を支えているものは、はっきり言えばローカルかつお粗末な政治的正しさにすぎず、表現としての普遍性を持たないものだと判断せざるをえない。表現の普遍性とは快楽と言いかえてもよいが、娯楽であることか、芸術であることか、そのどちらかであることが出来ているものだ。

同性愛表象を例にとれば、過去に男性の作者による男性同性愛を表象した傑作は枚挙に暇がない程だし、現代の女性作者によるBL表現も、多くの人に通じる性的ファンタジーを提供する娯楽となりえている。

こうした表現の強度を支えているものは、その本質として必然的にアモラルなものである受動性の夢=愛される/犯されるファンタジーであり、間違っても移ろいやすい通俗なモラルなどではない。女性が芸術家になれないとされてきたのは、彼女が妻や母や修道女としてモラルにかしずく存在だったからだ。

娯楽であり、芸術であり、快楽であるものを楽しみ創造する権利。それこそが女性が要求すべきものであり、通俗なモラルからお墨付きをいただくことではない。前者である「BL表現の自由」を擁護することと、後者であると判断せざるを得ない「左翼BL」を持ち上げることは、残念ながら相反している。

ここからは半ば余談だが、実を言えば徹夜でこれだけの文章を打ち込まずにおれない程の不快さの原因というのは、TLが祭り状態だった二日間の長野氏本人の態度と、絡みに来た相手が北守氏だったことが一番大きい。お二方とも以前は所謂はてな民でいらっしゃいましたよね。と言えばピンと来ますかね?

まず、いかに相手がひどかったにせよ、長野氏の他人事のような静観ぶりが解せなかった。また私がRTしたものを見てもわかるように、わたる氏や北守氏と直接やりあっていた人たちが主張していたのはあくまでホモフォビアへの非難と表現の自由の主張という基本的なもので、「左翼BL」は実は無関係だ。

そして長野氏はひたすら「こんなにいい心がけのつもりでいいことをしていて、認めてくれる人もいるのに非難された私」というナルシシズムを弄びながら周囲から慰められていたとしか見えなかったし、本来なら彼女が引き受けるのが筋だった正面の戦いを肩代わりしていた和紙子さんが正直気の毒だった。

言っておくが、私がそう感じたことは和紙子さんご本人がどう思われているかとは関係ない。そして私は北守氏に和紙子さんが言っていたことには一切反対する理由は無いが、長野氏の態度と彼女の「左翼BL」については全く評価できないと思うまでだ。

私は長野氏自身が、BL表現一般についての偏見を非難した上で、それとは別に自分の創作物としての「左翼BL」の位置づけを宣言するべきだったと思う。だがそれが無かったがために周囲の人が全ての対処を肩代わりすることになり、彼女はBL表現一般への擁護に紛れる形で守られることができた訳だ。

“戦略”としてはお上手かもしれませんが、はっきり言って日頃大義ある政治的正しさについて論じる立場にあるお方にふさわしい態度とは思えませんね。私が思うに、彼女の“政治的正しさ”という着ぐるみの内側には自己憐憫があるだけなので、一個人としての自分の正統性など主張できないのだ。

彼女がなぜ未だにそんな情けない風であるのかだが、彼女自身の性格やリアルの環境のせいだけとも思えない。個人的な観察だが、むしろ数年前のはてなダイアリーでBL論議めいたことをやっていた人たちに共通の傾向のように思うのだ。今でもその人たちをツイッター上でみかけると大体どうしようもない。

「腐女子という“ただの女”が性的マイノリティ様に配慮するにはどうしたらいいか」「フェミ的にも評価できるBLとはどういうものか」「ゲイ男性に怒られたけど謝ったらちゃんとわかりあえてよかった」今でも目にする女を蔑んだ茶番じみた設問の数々が毎日のようにホットエントリとやらになっていた。

北守氏の名前もその頃に初めて見かけたものだが、常に絶対に自分が正しさの側にいることを確認するために、誰にも反対できないことを好んで主張する人という印象だった。だが私が呆れたのは、表現規制問題に関連したこちらのエントリーを見た時だ。http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090611/p1
上のエントリーを見てもらえれば分かるように、北守氏にとって性表現とは“暴力”であり、黒人差別と同じであるらしい。話題になっているのは男性向けのエロゲーだが、最初に言ったように、この手の“罪の意識”で凝り固まっている人はそれ以外の発想が持てないので女性による表現にも当然不寛容だ。

繰り返しになるが、問題は愛される/犯されるというナルシスティックなファンタジーを自分のものとしては決して認めずに「女の願望であり本質」として他者化せずにはいられないヘテロ男性のメンタリティであり、「女に対する暴力だから罪であり、それを自覚できる自分は偉い」というのは二重の勘違いだ。

北守氏のような人――あらゆる差別とされる事象(人種・民族・障碍の有無など)について「差別などしない正しい立場」であることに拘り、それをプライドの源泉にしているヘテロセクシュアルの男性――にとっては、自らの女へのセクシュアリティそのものがセルフイメージにおける“致命的な汚点”であり、彼はそれを挽回しようとして「自分のように罪を自覚できていない」他の男性や、「男のように罪を犯し加害者となった女」を正義に基づいて糾弾してやまないのだ。彼の望みは「相手が自分のように“反省”すること」であり、他者が抱える個別の事情も男女の非対称も知ったことではないのだろう。

だがこうした「他者に対する想像力の欠如」こそが典型的なヘテロ男の悪癖だ。彼は自分のことを「意識が高い」つもりでいるようだが、実はブランドものとして登録された「権威あるマイノリティ」を気遣う自分に酔っているだけで、個別の他者をその人として思いやる能力を実は全く欠いているのだ。

私が北守氏の名前を覚えていたのもそうした傾向が抜きん出て強い人だったからだが、あの頃のはてなでは、彼のような主として天下国家を語りつつ“性的マイノリティの人権”にも意識があることを示す男たちと、“腐女子”と性的マイノリティ様に二股をかけつつ女を善導しようとする男たちの両方がいて、肩書きの無い“ただの女=腐女子”たちは、そうした“名誉ある男たち”からも“性的マイノリティ様”からも“フェミニスト”からも監視を受けながら、上目づかいで懸命に「私たちがBLを必要とする可哀相な理由」や「正しいBLの可能性」について理解を求めていた。今思い出しても反吐の出る光景だ。

あのキーワードとブクマに繋ぎあわせられた隣組じみた相互監視システムのムラ社会の中で、“名誉を持たぬ賤民”として蔑まれた側が、「自分も名誉がほしい」と考えずにいられなくなるのは当然の成り行きだろう。だから進んでフェミニストを名乗り、「BL好きはフェミと一致する」とアピールする。

そして彼女がBLを好きな理由の中に“フェミと一致しない”ものがあればそれは抑圧される。彼女が公表した「みんなが認めてくれそうな正しいBL語り」は、偽善的な予定調和の中で受け入れられ「ああいう風に語れば責められないで認めてもらえる」という前例となり、後は模倣が模倣を生み続けるのだ。

あの日本的世間の醜悪なパロディの中で“フェミ”という単語が意味していたものは、まさに“貞節”そのものだった。女たちは“フェミ的でない”と見なされることを何よりも恐れ、権威ある男たちとある種の名誉男性である“性的マイノリティ様”からの承認を何よりも欲し、彼女らにとって名誉を持たぬ“ただの女”としての自分自身も含めた同性と、彼女が持つ通俗モラルに従わない自由な性的ファンタジーの存在とは「一切の価値を持たず、そこに落とされたら終わりであるにすぎず、絶対に同じだと思われてはならないもの」だったのだ。これはミソジニー以外の何者でもない。

つまりは“正しくない同性”との差別化のための“フェミニスト”という肩書きへの固執自体が、実は紛れもない“ミソジニスト”の証しだったのだから皮肉という他ない話である。そしていったんその肩書きと“正しく許されるポジション”を手にすれば、当然ながらそれに縛られ続けるしかなくなる訳だ。

そうやって“政治的に正しい理由づけ”の内面化で自分を鎧うことは、そこから外れた“それ以外の自分”を自分で肯定する力を失うことだ。だからいったん政治的な正しさの鎧を剥ぎ取られてしまえば、自己憐憫に浸るしか術のない無力な姿の他には何も残らない。彼女自身の自尊心は剥奪されているからだ。

だがそもそもBLを好きな女性が「私は私である」という根源的な自己肯定の機会を剥奪されているのは、彼女のパーソナルな感受性の基礎とも言える性的ファンタジーの自由を認めず、検閲と処罰を当然のものとする通俗なモラルとヘテロセクシズムの共犯的権力によるものであり、これは人権侵害なのだ。

たぶん、私がさんざん目にしてきたあのリベラル気取りの俗物たちはこう言うだろう「そんなことは現実の具体的な女性差別や他のマイノリティの皆さんの“本物の苦労”に比べれば大したことではない」「そう言うならヘテロ男性向けの性的ファンタジーやポルノ表現も無条件に肯定して我慢するんだな」と。

こうしたヤクザじみた脅し文句をちらつかされることでどれほど多くの女性が黙らされてきたかを考えるだけで腹立たしいが、はっきり言おう「何で権力の手先にすぎぬお前ごときに、この私への不当な抑圧を我慢するよう命じられねばならないのだ。何でお前が“正式なマイノリティ”として認可下さった者以外には反抗する権利すらないと思えるのか。女の“本物の苦労”と“我慢すべき瑣末事”とを高みに立って線引きしてこれる高慢さに根拠があるなら言ってみろ。100年前なら今の“立派なフェミニズムの問題”なぞ全て“女のわがまま”だ」と。

そしてこうした強権的で高圧的な物言いをする者たちが、ヘテロ男性の性的ファンタジーの制度的な仕組みや問題点を把握していた例など皆無である。実のところ彼らは「女を処罰したい欲望」に満ち溢れたミソジニストの男と「女は清くなければ守って貰えない」と思い込んだ貞淑な女との呉越同舟である。

この点については何度も述べているのでログを貼っておく。http://twilog.org/tatarskiy1/month-1202/2 繰り返すが、受動性のファンタジーをただ自らの快楽として享受しうる者にとって性は罪ではありえない。制度的なヘテロ男性のメンタリティの問題は、“暴力”ではなく自己欺瞞にこそ起因している。

“女”とは、男が自らのために生み出した“男にあってはならぬもの”の集合としての幻影である。そして現実の個々の女性は、この男が生み出した“女”を内面化し同一化することを求められ続ける他者であるのだ。男女の根源的な非対称の図式とはこのようなものであり、当然この図式の逆は存在しない。

そもそも、性表現と“そうでない表現”という区別自体、まことに奇妙なものであり、検閲ならざる批評の次元においては意味をなさないものだ。「何が性的か」を決定する基準とはそれ自体が恣意的な権力の行使である。そして結論から言えば「性的でないもの」など実は存在しない。

以前にも書いたが、http://kaorusz.exblog.jp/18345164/男性のヘテロセクシズムの制度的な効用とは、まず第一に“性的なもの”を全て女性の属性として負わせ、しかる後に彼女を公共領域から排除することで、性などという“不合理なもの”から自らを防衛することだ。

「女が性的であるのは当然だが、男(同士)は断じてそうあってはならない」からこそ、ヘテロ男性向けの性表現は“描写の過激さ”という相対的な尺度でしか問題視されないのだし、BLはたとえ狭義のポルノに該当しない場合でも、女ではなく男(同士)を性的に描いた時点で“公序良俗”に反しているのだ。

だが、これはあくまでも権力=検閲者にとっての意味づけであり、個々の表現者の意図とは無関係だ。そして多くのBLの作者は単に自分にとって魅力的なモチーフとして男同士の関係の表現を選んでいるだけであり、「“対抗的な表現”だから許そう」という上から目線の物言いは実は検閲者と変わらない。

こうした物言い自体、表現に対して“社会批評”以外の効用を認めない審美眼の欠如と杓子定規なモラリズムの露呈だろう。こうしたお説が正しいとするなら、同性愛の表現が評価されるためには永久に社会がホモフォビックでなければならないことになる。言うまでもないがそんな馬鹿な話は成り立たない。

つまり「役に立つ/正しい表現であれば認めるべき」という発想そのものが「役に立たない純粋な快楽としての表現」への罪悪視に基づくピューリタン的な発想であり、(特に)女性が、(特に)男性同性愛の表象を彼女にとっての快楽として享受することそのものを純粋に擁護するつもりなどないのだ。

権力の源泉とは、その社会における正統性の根拠を独占する支配的なイデオロギーであり続けることにある。中世のキリスト教やかつての社会主義国家における社会主義を思い浮かべれば理解しやすいだろう。つまり権力を批判するとは、疑うことを許されない“当然の正しさ”に異を唱えることそのものだ。

構造的な必然として、「最も批判されるべき有害な表現」とは「最も正しく疑ってはならないとされるイデオロギーの反映」である。誰もが「あれはひどいね」と頷き合ってくれるようなわかりやすい悪などでは決してない。批判とは根拠の無さの指摘であり、「別の当然の正しさ」をぶつけることではありえない。

“女性による表現”を例にとるなら、真に問題とされるべきは、イデオロギーが要求する“正しく当然な女性像”を「女として女らしく」再生産することであり、「女ごときに本物が描けるはずのない」彼女の理想の男性イメージの表現に対してではあるまい。BLと違って母性崇拝は圧倒的かつ具体的に有害だ。

「“女”であることを受け入れた女」として振る舞うことこそ女性が要求され続けてきたことであり、女性が創作をする際はそうした“女”を描くことのみが世俗のヘテロセクシズムとモラルの期待に沿うことだった。だから彼女が彼女自身の快楽として“男同士”の表現を選ぶことは、いわば二重の逸脱なのだ。

そして逸脱と自由の余地の無いところには、真の尊厳もまた宿らないだろう。女性にとって必要なのは、その逸脱を“正しさ”として弁護してくれる別の権威ではなく、自己の人格と不可分なセクシュアリティそのものを肯定できる一個の人間としての自尊心である。

私もまた現実には力の無い一人の女に過ぎないが、これまでに私の書いてきたことが、たとえ見知らぬ誰かであれ、その人の自己肯定の一助になり得るのであればこの上なく幸いである。今より少しでも多くの女性が、自由にファンタジーを享受し、自由に思考することができるようになることを願っている。
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by kaoruSZ | 2012-06-30 15:22 | 批評 | Comments(0)