おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

カテゴリ:批評( 59 )

俗に「知的なもの」と「性的なもの」は別なものだと思われており、前者を高級で後者を低級なものとして扱うのが当然視されている。こうした前提を「当然のもの」として振舞う主体の性的ファンタジーはどういう代物であろうか?言うまでもないが、通俗で下品なものにしかならない。

「知的なもの」との結びつきを欠いた性的ファンタジーは、当然の結果として洗練を欠き、性を知的な考察の対象としえない知性は、性を不合理なものとして恐れると同時に、そもそも知の対象とするに値しない「下等なもの」と見なすことでそれを合理化するだろう。

言うまでもなく、こうした「性的なもの」と「知的なもの」を相容れないものと見なすメンタリティは、制度的な男性のヘテロセクシュアリティそのものであり、彼らにとって「性的なもの」とは当然対象としての“女”を意味する。

彼らの性に対する恐れと、その合理化としての侮蔑とは、そのまま現実の女性へと投影される。だからこそ彼らは「男とは当然のものである自然な本能として女に欲情するものであり、女とは男に欲情されるために存在する、本質的に性的であり受動的な存在なのだ」と確信し、その前提を相互に共有する。

彼らにとっては、そうした“女”に対する侮りと恐れの入り混じった嫌悪と、それと切り離せない劣情とを共有する者こそが“男”なのである。そしてその一方、「知的なもの」は本質的にパブリックな性としての男性に属するものとされ、女はそこに入るためには「名誉男性」として認められねばならない。

当然ながら、「男並みに知的なことが考えられている」と見なされうるか否かの決定権は男の側にある。そこで「所詮は感情的で不合理な女の浅知恵」とされてしまえばそれでお終いなわけだ。だからこそ男並みの承認を求める女ほど「男から論理的だと思ってもらえる話題や発言の作法」に過敏になる。

「男は論理的だが女は感情的だ」という通俗的な見解は、こうした最初から不公正極まりない茶番じみた線引きによって成り立っている。だが、自らに課した抑圧によって生み出された「抑圧されたもの」に絶えず脅かされ、それを否認し続けるために女に抑圧を転嫁する男のヘテロセクシュアリティこそ、不合理極まりない非理性的な代物であると言わねばなるまい。

つまり「男並みに論理的である」とは「男並みに性的なものと知的なものを分離できている」の意であり、本来不可分であるはずのものを相容れないものと見なし続けるという神経症的な強迫観念を模倣することでしかありえない。
しかも、この欺瞞的な前提を受け入れて「努力」したとしても、女が真に「男並みに」なることは決してできず、男の出来損ないに甘んじるか、悪くすれば自らの心身を破綻させることにしかならない。

なぜなら、男には対象としての“女”に「性的なもの」を外在化して担保させることで精神の安寧とホメオスタシスを保つことが許され奨励されているのに対し、男並みであろうとする女にはそんな手段など存在するはずもないからだ。女にとっての“女”は存在しない。

つまり男並みであろうとする女とは、本来男にとっては「性的」対象に過ぎないとされる自らを「知的」な存在として認めさせるための努力を強いられ、そのためには男のように外在化することなど出来ない自らの「性的なもの」を抱え込んだまま抑圧するしかなく、予めハンデを背負わされているのである。

このように、制度的な男のヘテロセクシュアリティとは支配的な世界観そのものであり、あらゆる価値を序列する体系そのものである。それは知性や普遍性と見なされるもの全てを独占する“全体”であり、それを補完する“部分”として“女”を規定するものだ。断じて「自然な女への性欲」などではない。

したり顔で抽象的な論理を弄ぶ取り澄ました顔の裏で、制度的な男のヘテロセクシュアリティは自らの性的対象たる“女”を苛烈に憎悪するものである。空疎な上澄みとしての知性こそを自らのものとして誇る男にとって、“女”とは自らのものとしては決して認められない穢れて淀んだ澱である。

だが自らが性的に魅惑された対象をそれ故にこそ憎悪し、絶えず蔑む必要に駆られているのは制度的なヘテロ男性のメンタリティのみであるのは言うまでも無い。彼ら以外の人々にとって、自らが対象に魅惑されることは純粋に愛することであり、自らがその対象のようでありたいと感じることと等価である。

私は彼であり、彼は私であり、私は彼を愛する。エロティックな表象を享受するとは、本来ただそれだけで完結したナルシシズムであり、アモラルで無垢なものである。ただ男のヘテロセクシズムだけが「彼女は自分ではない。だが彼女は自分のものである」と言い続ける抑圧的な自己欺瞞であるに過ぎない。

制度的な男のヘテロセクシュアリティが忌避する「性的なもの」の本質とは何であろうか?性的なものとは、五感を通して体に触れられる感覚から生じるものであり、官能的なもの、受動性そのものである。美は官能の内に宿るものであり、それは芸術の源である。(未定稿)
[PR]
by kaoruSZ | 2012-05-25 18:35 | 批評 | Comments(0)

ある反響

 昨年12月twitter上で@kkpastoと名乗る、今春大学を出て地方公務員になるという人物が、平野智子と私が書いたトールキン論「“父子愛”と囮としてのヘテロセクシュアル・プロット――トールキン作品の基盤をなすもの」(第一章 第二章 第三章)について暴言を吐いた。13日になってこれに気づいた私たちが応答したところ、相手はアカウントを削除して姿をくらました。先方のさえずりと、それに対する鈴木(@kaoruSZ)と平野(@tatarskiy1)の応答をまとめておく。

@kkpasto: LotR)lomelindiの日本語探してたらなんか論文に行きあたったが、何を言ってるのかちょっとよく分からない… 星の光は太陽や月とは違いシルマリルの光と同じってあるけど、星も太陽も月もシルマリルももともとは二本の木からのものだろ?[鈴木註; 太陽と月(作中では異性愛の指標)はモルゴスと蜘蛛に襲われ毒を注入されたあとの二本の木の産物であり、それ以前に存在した「無垢な光」とは区別されている。]
@kkpasto: 長いので途中で読むのやめて注釈見てるんだけど、なんか怖い…そんな視点で見られると怖いよ。論文で普通に論じられてるのが余計に怖い。そういうのは妄想の中に置いておくのがいいんだ…
@kkpasto: アレゼルがエオルにひかれてそのまま森に留まったことと、シンゴルがメリアンにひかれてそのまま留まったことと、ベレグがトゥーリンを探しにきてそのまま留まったことが同じだと申しておる…
@kkpasto: いや、そこまではいい。その理由が愛情によるものだって…前者2人はいいよ?そうでしょうともよ。メリアンがシンゴルに魔法掛けたみたいな言い方は引っかかるが。だが最後のは愛情は愛情でもさ…なあ。
@kkpasto: 前者2つが同じだってのは、ティヌヴィエルと同義語のローメリンディと、マイグリンの別称ローミオンがどっちも意味が同じだって…まあそれは面白い考え方だなあ。薄明の子ねぇ。
@kkpasto: 読めば読むほど怖いこの論文…公の場でこいつらホモだぜって言われてるようなそんな気分…しかも文字通りの内容だから困る。
@kkpasto: フェアノールとフィンウェについてはおいといて、エオルとマイグリンでもそれを言うかね… おい、マイズロスとフィンゴンが相愛の仲とかカップルとか明確に書くな
@kkpasto: おい、シンゴル→フィンウェまで取り扱ってるのかこの論文は。悪い意味でけしからんな… 
@kkpasto: 別にそういう考え方が悪いわけじゃなくて、そういう視点から見た論文はありだろうとは思うけども、そっちの方向へだけ持っていこうとするのはどうかと。これがこの作品の基盤だぜってそんなバカなww
@kkpasto: まあ内容はともかく、『シルマリリオン』って書いてる時点でタカが知れますよね。忘れよう。それがいい。これが女子乙ってやつか…
@kkpasto: トールキンの作品は、深く読めば読むほど馬鹿らしくなる気がする。いや、違う。あの世界の中で深く調べていくことはいいけど、現実と比較した時点でもう…
@kkpasto: モルゴスがシルマリル奪った理由って書いてなかったっけかなあ。シルマリルがフェアノールのあれこれでそれとかホントやめてくれよ。
@kkpasto: ローミオンはマイグリンのことだが、ローメリンディは動物名で、ティヌヴィエルは人物の別称だから全然同じじゃないよね。それぞれの名前が名付けられたときの由来が違うンと違うか?
@kkpasto: もうなんでもいいや…さっさと作業終えて、ジョジョ読もう。馬鹿げたことで時間食ってしまった。
@kkpasto: ホモはいいけど妄想の産物で置いといてほしいんだよ。公に、実はこうだよ!とか堂々と妄想を言うのはやめてよ… そう言った目で見てたかのように原文に書いてある、ってのが嫌だよ。行自体じゃなくて、行間読んでこその妄想だろうが!

@kaoruSZ: @kkpasto
「何を言ってるのかちょっとよく分からない」論文の著者(の一人)です。分らないのなら黙っていればいいものを、なぜ公の場で中傷するのですか。私達はトールキンの作品を人に知られるのが恥しい「妄想」の材料にしているわけではありません。                      

「妄想」の種にすることも二次創作することも全く否定的に考えませんが、しかし私達のしているのは二次創作ではなく「批評」なのです。未邦訳のものも含めたトールキンのテクストを読み込んだ上での「批評」であり、それなりの自負を持ってやっています。こうした仕事に(中傷でなく)反論するにはそれなりの準備と覚悟が必要なことはおわかりでしょうか

貴方がトールキンの作品に同性愛表象を読み込むことを「公の場でこいつらホモだぜって言」うのと同じと考えておられるのはわかりました。それが怖いというのはホモフォビアからというより、腐女子の妄想と取られることを恐れるからですね。

しかし、隠れた同性愛表象というものは別に腐女子の発明ではなく、西洋のハイ・カルチャーの中に脈々と流れているものです。特に同性愛を明示的に表現できなかった過去の時代には。

私達は「腐女子」と自分達のことを思っているわけでは全くありません。もっとも、そう自認する人が私達のような研究をしたとしてもなんら中傷させるいわれはありませんが。

また、「こいつらホモだぜ」云々と言うのと同じという表現は、貴方自身が同性愛や同性愛者の存在を恥ずべきものと考え、蔑視していると受け取られても仕方のないものですよ。

『シルマリルリオン』という邦題を使っていないことでなぜ「タカが知れる」のでしょうか。他の表記と合わせるために採用されたと思われるこの表記は個人的に好みませんし、邦訳が出る以前は『シルマリリオン』と紹介されるのが普通だったものです。(どうでもいいことながら一言)

私たちの読み方でトールキンの作品は全く矛盾なく読めます。もっとも、怖がっている貴方に読めとはいいませんし、読む能力もおありにならないでしょう。これからも自分の考えていることは「妄想の産物」であり人に言えない悪い事だと思い続ければよろしい

しかし、そのような卑屈な態度で生きている限り、他人の仕事について「堂々と妄想を」言っていると決めつける資格などないということだけは肝に銘じて頂きたいと思います。

@tatarskiy1: @kkpasto 貴方がある作品の基盤に同性愛があるということが「ありえないバカなこと」だと思うのは、貴方が同性愛というものを「猥褻で公にすべきでない単なる性的妄想」としか思ってないからでしょう
@tatarskiy1: @kkpasto もっと言えば男性同性愛の表象に魅力を感じるというご自身のセクシュアリティを「恥ずべき」ものだと思っていらっしゃるからですよね。貴方がそうお思いになるのは勝手ですが、他の女性に対してまでそれを押し付けるのはやめていただけませんか?

@kkpasto: どうして今更になってww わざわざご苦労様なことですね。
@kkpasto: いや本当にわざわざ…どういうこった。検索でもしてるのかね。なんか食い違ってる気がするんだが…

@kaoruSZ                                                          平野智子と私の論文を「腐女子の妄想を公にしてけしからん」と中傷した自称腐女子 @kkpasto 「どうして今更になってwwわざわざご苦労様なことですね」「何か食い違ってる気がするんだが」との台詞を最後にツイートに鍵かけたため、上にリツイートした先方の主張消えた。ログは取ってある。

言及から24時間以内にチキンは尻に帆掛けて逃げた。ツイート非表示、twilogの該当ツイート削除という姑息な真似の後、twitter退会して twilogも削除。自尊心低いんだな。悪さを見つかった餓鬼なら餓鬼らしく、来春からの地方公務員ならなおさら、一言非礼を詫びてから消えろよ。

以前公園でカルガモの母子を苛める悪童に遭遇、水遊びする人間の母子父子見て見ぬふりなので一喝したらガキ供平謝り、チキンもリアルで会えば泣いて謝ったろうが、向うで此方を見つけられるなら此方からも見えるのに気づかず泡くって遁走、中学生と見紛う幼稚な奴だが実年齢は平野智子と幾らも変らず。

“『カリガリ博士』という映画には―映画というものは一般にそうであるが―目に見えるものとは別に、どこか深いところに意味がひそんでいる訳ではない。全ては表層に、《観客の目に見えるところに隠されて》いるのだが、物語を性急に追う眼差しはそれを通り過ぎてしまうのである。”(「砂男、眠り男」)

私たちの「カリガリ博士論」から引いたが、トールキンも基本は同じ。「ホモはいいけど妄想の産物で置いといてほしいんだよ(…)公に(…)堂々と妄想を言うのはやめてよ(…)原文に書いてある、ってのが嫌だよ。行自体じゃなくて、行間読んでこその妄想だろうが!」と、読んだチキンがパニックに。

上の連続ツイート[同時期に平野が書き継いでいたもの。ここに再録した]の表現を借りれば「アモラルな自由と美的な表現」こそトールキンが作品の中にひそませた、否、表面に読み取れる形で私たちに遺したものだ。そこにしか真実はない。作者が作品について述べる言葉は多くの場合韜晦に過ぎない。だがテクストは作者が口を噤んでいる事をも残らず語るのだ。

私たちの文章を見つけたナイーヴ(悪い意味)な小娘に、何が「原文に書いてある、ってのが嫌だよ。行自体じゃなくて、行間読んでこその妄想だろうが!」と叫ばせたかと言えば、彼女が知っている同性愛が「こいつらホモだぜ」と蔑まれるアウトカーストかさもなければ政治的に正しい扱いを要求できる「現実」の「当事者」のもの、そして何の権利もない「腐女子の妄想」という貧しさだったからだ。
                                             
伝記的には同性愛者では全くない作家の作品に「男同士の愛」の表象が読み取れると公然と述べられていることは、許される筈のない彼女の「妄想」を白日の下に晒すように思われて、彼女は悪口を並べた挙句、見なかったことにして「忘れよう」と呟いている。あまりにも絵に描いたような反応で、ある意味興味深い……。  
                             
これほどナイーヴでなく、まともな本を読んでおり、そこそこの教養があって、単純に筋書を追うのではない読解というものが可能だと知っている場合でも、いやそうだからこそ、いわゆる二次創作の一方で、“正しい”解釈はそれとは別にあるとちゃんと知っていると主張する層が確実に存在する。裏で「妄想」を楽しむには、人一倍正典について知識を持たなければならないと思い、実際熱心に勉強し、そして妄想は妄想だから「表」へは一切漏らしてはならないと固く信じているのだ。

ここまで自己抑圧の強い女はどこにでも存在するわけではなくて歴史的に作られたもの、つまりある地域と時代にのみ見られるものだ。早い話が彼女たちと似た存在が「やおい少女」と呼ばれた昔には腐女子バッシングなどなかったから、別の問題はあったにしてもこんなふうにこじらせる女はいなかった。 

この一事を見ても過去二三十年の日本での性的解放が、相も変らず男との関係以外のセクシュアリティを女に認めず、男とのカジュアルな性交の自由(と義務)以上のものをもたらさなかったことがよく分るというものだ。tatarskiy1さんの示唆に富むツイート[前出]を最後まで追うことにする。
[PR]
by kaorusz | 2012-03-02 10:35 | 批評 | Comments(0)
2011年12月11日~23日 twitter https://twitter.com/#!/kaoruSZ に書き継いだもののまとめ。余談までお読み下さる方はtwilogで。http://twilog.org/kaoruSZ   

===================================

 丸尾末広の『パノラマ島綺譚』(江戸川乱歩の小説のマンガ化すなわち紙上脚色上映)、友人に借りて読む。素晴しい。内容自体はむしろ谷崎潤一郎の『金色の死』へのオマージュだ(人見広介が菰田源三郎になりかわるように、谷崎が乱歩にすりかわっている)。しかもあまりにも巧みで継ぎ目が見えない。島の風景や人物のポーズは既成の画家からの引用で出来ており、それ自体谷崎の「活人画」の流用だが、原作では人間で名画をなぞるというぱっとしないアイディアに見えたものの可能性と正統性を、丸尾は見事に証してみせたと言えよう。

 乱歩自身、『金色の死』に感激して『パノラマ島』を書いたのだから丸尾はそれをさらに推し進めたとも言える。友人は、主人公が妻を殺しコンクリート詰めにした表面に髪の毛がはみ出していて明智(!)が斧でコンクリートを割ると血が流れ出る(絶対ペンキだ!)という場面がないことを残念がっていたが、そのかわり丸尾版は睡蓮の池に殺した妻を浮かべてミレーのオフィーリアをやっている。この時はまだ洋服姿だが、以後主人公の出で立ちは『金色の死』のオリエンタル趣味に変り、彼の君臨する王国は、当時は明示できなかった一大性的オージーの楽園(ボスの『悦楽の園』が下敷き)であることをあらわにする。

 菰田の寝室の屏風は若冲。パノラマ島に建造されたボマルツォの怪物(実は厠)といい、ウェディングケーキ状のテラス式空中庭園(セミラミスの庭だ)といい、作者は澁澤龍彦の愛読者か。会話してるレスビエンヌのポーズはクールベの『眠り』、菰田/人見の少年時代の容貌は華宵写し。私にわかる出典はこのくらいかな。

 丸尾の博物学的細密描写は、鳥、虫(含爬虫類)、魚と、植物に対し最高に発揮されるところが若冲と共通する。虎や象、若冲は見るべくもなかったのだが、丸尾は虎に興味ないのか(と思える絵である)。個人的には『モロー博士の島』、この絵でやってほしいが、猫科に執着なくては無理か。一方でヒエロニムス・ボスから来ている、人間と同じ大きさの小鳥素晴しい。

 谷崎全集の『金色の死』が入っている巻と、ちくま文庫の夢野久作全集二冊(犬神博士/超人鬚野博士、暗黒公使)図書館で借りる。ちくま、表紙が綺麗。モノクロームの挿絵しか知らなかったが、竹中英太郎ってカラーだとこんな華やかな色づかいしていたのか

『金色の死』見直したら若冲の名前出ていた!「或は又若冲の花鳥図にあるやうな爛漫たる百花の林を潜つて孔雀や鸚鵡の逍遥してゐる楽園のあたりにも導かれました」とある。谷崎が楽園の壮麗を「読者の想像に委せて詳細な記述を試みることを避けようかと思ひます」と言っているところを、もちろん丸尾は全て可視化。

 やっぱり『金色の死』と『パノラマ島奇譚』は双子だ。乱歩のそっくりな学校友達と早過ぎた埋葬テーマ(によるトリック)はむろんポーからだが(後者についてはは自己言及あり)、『金色の死』の語り手と岡村君も学友で、各々小説家と楽園造りの芸術家、『パノラマ島』の主人公は両者を一身に兼ねている。

「それは本当に夢の感じか、そうでなければ、映画の二重焼き付けの感じです」(『パノラマ島奇譚』)。パノラマ島の花火は「普通の花火と違って、私たちのはあんなに長い間、まるで空に写した幻燈のようにじっとしているのだよ」。要するに、幻燈であり映画なのだろう。パノラマ館が活動写真に駆逐されたあとの時代の、「日本では私がまだ小学生の時分に非常に流行した」と主人公が言い、ベンヤミンが『1900年頃の幼年時代』で当時でさえ流行遅れだったと思い出を書いている、懐かしい演し物のヴァージョンアップされた再来なのだ。丸尾末広がむしろあっさりと普通の花火を描いているのは当然だろう。

『暗黒公使』の解説ヒドい。父との闘争という(捏造された)主題で夢野久作を解読しようとして、作中で新聞記事を引用する「奇妙な癖」は「父への腹いせの実行」だと言うが、これはたんに当時の最新メディアだった映画への憧れとその模倣だろう。『カリガリ博士』一本見たってそのことは了解される。号外、メモ、ポスター、貼紙、手紙等の引用は、無声映画が字幕とともに発達したことにも由来しよう。『少女地獄』について解説者は「これはぼくが最も愛する作品である」ともったいぶって宣言するが、嘘を重ねて破滅するヒロインを「日本の国家主義者たちの行く末を(…)久作は天才看護婦姫野ゆり子に仮託して予言した」とはとんだ小クラカウアーだ(余分な註;クラカウアーはカリガリがヒトラーを予告したと言ったヒト)。自分の小説をそんなふうに解釈されてもいいんだろうか、島田雅彦は。いや、そういう小説しか書いていないということか。他人の作品をダシにした根拠の無いカッコつけパフォーマンスには苛々する。

 もう一冊の赤坂憲雄の解説もナー。「そんな犬神にして、博士なるモノ、それゆえ犬神博士とは、いったい何者なのか。あらためて博士とは何か」と大上段に、アカデミズムの称号ではなく物知りびとだの、古代官職だの、陰陽師だの……我田引水もほどほどに。「無用な謎解きを重ねすぎたようだ」。そのとおり。目羅博士も犬神博士も鬚野博士も、皆あの映画から出てきたに決まってるじゃないか。そう思って前の方をパラパラ見ると、「天幕(テント)を質に置いたカリガリ博士。書斎を持たないファウストか。アハハ。なかなか君は見立てが巧いな。吾輩を魔法使いと見たところが感心だ」と、黒マントに山高帽の鬚野博士がのたもうている。Magie にしてDoktor、何が律令か陰陽師か。「隠された素顔」?「物語の深み」? 表面にあるものを見てから言え。そこへ行くと角川文庫版の『犬神博士』解説は松田修、流石に存念の美少年=小さ神を語ってあますところがない。(参考→http://kaorusz.exblog.jp/11781696/

『犬神博士』読了。女装のチイ少年、「よか稚児」とか「よかにせ」とか言われてる(にせは二世を契るの意とか)。鹿児島じゃなくても言うんだね。『ドグラ・マグラ』では若林博士が、眠る主人公を男でも吸い付きたくなるような美少年と言っている(おまえはタコか!)。頬の紅さは童貞のしるしだそうな。なぜ小林君がリンゴの頬をした永遠の「紅顔の少年」であるかも頷けようといふもの。乱歩も久作も同じ文化の中にいる。童貞とは蔑まれるべき資質ではつゆありえず、童貞ないし少年とは男によって希求されるべき対象だったのだ。「父はむかしたれの少年、浴室に伏して海驢(あしか)のごと耳洗ふ 」(塚本邦雄)

「幻術」「魔法」等に「ドグラマグラ」のルビを付したる例、『犬神博士』に幾つかあり。「あの児は幻術使いぞ、幻術使いぞ、逃げれ、逃げれッ」。「一眼見るとポーッとなるくらい、可愛い顔をしとるげなぞ」と言われるチイ少年、強い強い。

 上記引用歌検索したら、「現代詩文庫」版歌集のレヴューに好みの歌をジャンル立てで並べてる人がいて、下らん感想文より遥かにマシだが、「父はむかし」の歌は動物ものに分類されていた(無論本当は少年もの)。「禁猟のふれが解かれし鈍色の野に眸(まみ)ふせる少年と蛾と」(蛇足ながら、蛾の触角と少年の睫毛のダブルイメージを見るべし)。 

「呼子を鳴らすと、何処ともなく微妙な鈴の響が聞えて一匹の駝鳥が花束を飾った妍麗な小車を曳いて走って来ました。岡村君は私を其れに乗り移らせて……」(『金色の死』)。まるで童話の一節だが、「四顧すれば、駒ケ嶽、冠ケ嶽、明神ケ嶽の山々は此の荘厳な天国の外郭を屏風の如く取り包んで居ます」と、あくまで現実の一部としてかっきり区切られた空間は揺らがない。それに対して乱歩の人口楽園は、内部でありながら在り得ない広大な外界がたたみ込まれたパノラマ「館」が元にあるだけあって、パノラマ館のように空が閉じていないにしても、地下のグロッタ、『鏡地獄』のような出口のない球体、あるいは映画館のようなその内側で視覚的イリュージョンが上演される場所を思わせて、それは外界と匹敵するかそれを凌駕する夢を詰め込んでオーヴァーヒートした脳内でもありえようから、岩山が島の主人で創造者の巨大な頭部に形作られ髪や鬚は植栽で表されている丸尾版の奇怪なイメージは当を得ている。

 パノラマ島はディズニーランドより船橋ヘルスセンターに近いのではないかという気がしてきて検索すると、骨董屋で入手(!)の開園当時のパンフレットを載せたサイトが見つかった。「温泉は地下三千尺の二つの井戸から一日二万石も噴出!!これが大ローマ風呂、岩風呂、大滝風呂、その他大小二十個の浴槽にあふれています」

 400畳敷の大広間で一日中ショーが続き、劇場、遊園地等々揃った「いわゆる歓楽境ではなく、健全の娯楽場」とある。開園は1955年。谷津遊園はなんと1925年開園で『パノラマ島』より早い(雑誌発表は26年から27年すなわち大正と昭和を跨いでの連載で丸尾版は作中の出来事をこの時期に設定)。無論パノラマ島が何かを真似たのではなく総合レジャーランドの方が後からできたに違いないが、実は谷崎と乱歩の楽園は温泉パラダイスである。

 むろん、「ダンテがヱルギリウスに案内されるやうに」と言うのだから地獄でもあるわけで、実際彼らが最後に見出すのは「地獄の池」だが、そこは「人間の肉体を以て一杯に埋まつて居」て、人魚の扮装の美女の遊ぶ池や「牛乳、葡萄酒、ペパアミントなどを湛えた」湯槽もある。

 思えば最初に水を渡るのも冥界の指標であった。乱歩の場合は主人公と妻がついに「巨大なる花の擂鉢の底」という『神曲』の地獄の底を思わせる場所に至るが、そこにいるのは氷漬けのサタンではなく「擂鉢の縁にあたる、四周の山の頂から、滑らかな花の斜面を伝って、雪白の肉塊が、団子のように数珠繋ぎにころがり落ちて、その底にたたえられた浴槽の中へしぶきを立てている」と描写される裸女の群で、「彼女らは擂鉢の底の湯気の中を、バチャバチャと跳ね返りながら、あののどかな歌を合唱するのです」。

 この奇妙なセイレーンの中に彼らも交じり、「肉塊の滝つ瀬は、ますますその数を増し(…)花は(…)満目の花吹雪となりその花びらと、湯気と、しぶきとの濛々と入乱れた中に、裸女の肉塊は、肉と肉とをすり合わせて、桶の中の芋のように混乱して、息もたえだえに合唱を続け(…)打寄せ揉み返す、そのまっただ中に、あらゆる感覚を失った二人の客が、死骸のように漂っているのでした」という天国いや温泉地獄(地獄谷?)

 この描写で分るのは、乱歩にとって裸女の群が、ごろごろ転がる「肉塊」「団子」桶にひしめく「芋」でしかなかったことだと思うんだが……いくら他に刺激が乏しかったといえ当時の読者にこれがエロと感じられたのかどうか。澁澤龍彦は谷崎と乱歩の二作は「浴槽の中に大勢の裸女が跳ねまわっているというエロティックな人口楽園のイメージまでが」そっくりと言う(角川文庫『パノラマ島』解説)が、谷崎の方は「海豚の如く水中に跳躍して居る何十匹の動物を見ると、其等は皆体の下半分へ鎖帷子のやうな銀製の肉襦袢を着けて、人魚の姿を真似た美女の一群でありました」というのだから芋洗いとは余程違う。

「そして、ついに地上の楽園はきたのでした」(『パノラマ島奇譚』)。しかし、YouTubeで見られる船橋ヘルスセンターCMソング http://www.youtube.com/watch?v=ME3GYYc8vok「長生きしたけりゃちょっとおいで」と谷崎や乱歩の夢の国が違うのは、後者が蕩尽のユートピアであるところだ。「僕はもうあるだけの財産を遣い切つて了つた。今のような贅沢は、此れから半年も続ける事が出来ない」(谷崎)「さすがの菰田家の財産も、あとやっとひと月、この生活をささえるほどしか残っていないのですよ」(乱歩)

『金色の死』の二人は温泉に入る訳ではなく、《人間の肉体を以て一杯に埋まって居る「地獄の池」》迄来ると、《「さあ、此上を渡つて行くんだ。構はないから僕の後へ附いて来たまへ。」かう云つて、岡村君は私の手を引いて一団の肉塊の上を踏んで行きました》となる。最初にダンテとヴェルギリウスに喩えられていたのを思えば、これはサタンを踏みつけて彼らが地球の中心へ降りるのをなぞっているのだろう。しかし岡村君と「私」は浄罪山へ上る訳ではなく、「私はもう、此れ以上の事を書き続ける勇気がありません。兎に角あの浴室の光景などは、其夜東方の丘の上の春の宮殿で催された宴楽の余興に較べたなら、殆ど記憶にも残らない程小規模のものであつた事を附加へて置けば沢山です」云々とあり、後はもう「歓楽の絶頂に達した瞬間」の岡村君の突然の死しか残っていないのだから、やはりこれは去年ここhttp://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-10.html にも書いたように、谷崎にも直接筆には出来なかった「健全な娯楽場」ではない「歓楽境」なのだろう。それを描くにあたって、丸尾末広はボスの『悦楽の園』やラファエル前派を導入し、主人公が妻を殺すのも龍頭のゴンドラの中(シャロットの女の死)と、温泉場的泥臭さを一掃した。なお、ゴンドラは『金色の死』にすでにある。

 それにしても乱歩の“俗悪さ”はハンパない。丸尾版で主人公夫妻はスワンボートに迎えられるが、これは水中から半身を出した水着の女たちが押しているとおぼしい。しかし原作では舟ではなく、人語を発する白鳥実ハ人間の女の背にまたがっており、乗り手は「腿の下にうごめくものは、決して水鳥の筋肉ではなくて、羽毛に覆われた人間の肉体にちがいない」と思い、「おそらくは一人の女が白鳥の衣の中に腹ばいになって、手と足で水を掻きながら泳いでいるのでありましょう。ムクムクと動くやわらかな肩やお尻の肉のぐあい、着物を通して伝わる肌のぬくみ、それらはすべて人間の、若い女性のものらしく感じられるのです」と、ほとんど人間椅子か家畜人ヤプー状態で、丸尾が白鳥に乗っての道程をほぼ忠実に再現しながら、荒唐無稽な過重労働を採用しなかったのは当然だろう。そして裸女の蓮台。丸尾版では妻殺害後の主人公が髪に花を飾った全裸の女たちの担ぐ蓮台でボッス写しの野を運ばれるが、原作では「肉体の凹凸に応じて」隈取をした女らが「肉の腰掛け」を作り、「人肉の花びらは、ひらいたまま」その中央に主人公夫妻を包んで、膝の下に「肥え太った腹部のやわらかみ」が起伏し、「肉体のやわらかなバネ仕掛け」の上に深い花の絨毯が加わって「彼らの乗物を、一層滑らかに心地よく」する。

 新聞記事挿入が通常の映画的手法であることは前述したが、丸尾末広版『パノラマ島奇譚』にも新聞記事は目立つ(「聖上崩御」とか「芥川自殺」とかオリジナルの時代設定の表示でもある)。明智が見ている新聞の「紀州のルートウィヒ2世 沖の島に奇妙な楽園建設」の見出しは人をほほえませよう。「ディアギレフのロシアバレエ団を招聘して/ニジンスキーに踊ってもらおうと思ったんだが」なる科白も原作にはないが、谷崎の方に「此の頃の露西亜の舞踊劇に用ひられるレオン、バクストの衣裳」云々の言及あり。ベックリンの「死の島」風景も丸尾のオリジナルだがこの絵乱歩が自宅に飾っていた由。

「探偵小説らしい筋もほとんどなく(最後に探偵が、コンクリートの壁から出ている千代子の髪の毛を発見するのはいかにも取ってつけた感じである)」という澁澤の評はむしろ丸尾版にこそふさわしい。探偵は、雑誌に掲載されて誰もが読める「RAの話」というテクストと現実との一致を指摘するだけで、物的証拠を提示すらしない。原作では主人公(菰田源三郎になりすました人見広介)の書いた「RAの話」は未発表原稿で、探偵(原作では明智でなく北見小五郎と呼ばれる)だけがそれに注目、人見自身は書いたことも忘れていたらしい小説の死体の隠し場所から、千代子の死体の在り処を推測してしまう。

 原作の探偵は人見にとっていわば過去からやって来た忘れた(捨てた)はずの彼自身であり、抑圧したものの回帰、彼だけが知っている(どころか忘れかけていた)はずの秘密を知っていて突きつけてみせる、『屋根裏の散歩者』の明智と同様、犯罪者と探偵のあざといまでの類似を際立たせる存在なのだ。

 壁(柱)の中の妻の死体はむろん『黒猫』からで、『ウィリアム・ウィルソン』『早過ぎた埋葬』とともにポーづくし。瓜二つの友人になりかわる際に殺した小説家としての自分自身は、人見/北見の対の名を持つ分身として、忘れたはずの小説を熟知する探偵の姿で戻ってくる。『金色の死』の場合は語り手である小説家は最初から“行為者”と分離されていてその死を見届けるが、北見小五郎もまた、「この偉大な天才をむざむざ浮世の法律なんかに裁かせたくない」と言って人見を自決に追いやる、『屋根裏の散歩者』の郷田三郎をさんざん煽って空想から実行へ一線を越えさせた明智と同様の、主人公の黒い分身だ。

 パノラマ島海底トンネルから見た海中描写、丸尾末広の絵でも圧巻だが、乱歩の叙述には何らかの下敷きがあるに違いない。今でこそ葛西臨海公園等大水槽を魚が泳ぎ回る水族館は珍しくないが、強化ガラスのない当時、これは不可能な夢だったはず。それで思い出すのはジュール・ヴェルヌのノーチラス号の船窓風景で、あれは華麗な文体による図鑑の引き写しだというが、乱歩についてそういう実証的研究はあるのだろうか。少なくとも『海底二万里』を読まずに書いたということはありえまい。リヴレスクな引きこもりの室内旅行としての〈驚異の旅〉。若冲の魚群図も錦市場の魚だろう。

「生きた魚類といえば、せいぜい水族館のガラス箱の中でしか見たことのない陸上の人たちは、この比喩をあまりに大袈裟に思うかもしれません。(…)しかし、実際海中にはいってそれを見た人でなくでは、想像できるものではないのです」(『パノラマ島奇譚』)

 俗悪と書いたが、裸女のひしめく乱歩の楽園は極めて触覚的、そしてオージーじゃない。つまり大人の性交ではない。死んだ菰田の妻に別人と知られるのを恐れて、主人公は彼女に触れない。つまりエディプス関係以前の子供に退行していると言える(もともと父を殺してなりかわるという労なくして得た妻だ)。

 菰田源三郎に「なった」彼は、利益追求と富の蓄積から一転して蕩尽へと転じる。その行き着く先は明らかだ。禁が破られた時、遅ればせの殺人が起る。性交が殺人であるような描写あり(極めて触覚的)。そして千代子の死以後、丸尾版では話が『金色の死』に入れかわる――つまり、“独身者としての芸術家”の話に。

 しかし、千代子殺しは、次々色が変わる強いライトを当てながら(それも子供が懐中電灯で顔を下から照らして怖がらせ合うような)の、それ自体がショーの一部であるような活人画かグランギニョル擬きで、丸尾はすっかり差しかえている。小説では夫婦が温泉に浸かって話をしているうちに殺しになる訳で絵になるまい。原作の北見小五郎は自分のことを芸術家と呼んでおり、『金色の死』の語り手同様、分身的な芸術家である主人公の死を、死で完成されるべき「芸術」を見届ける。それもお湯から首を出して、頭蓋の中の光景のように頭上に広がる花火として。

 言ってみれば「このからだそらのみぢんにちらばれ」(宮澤賢治)が蕩尽の当然の帰結なのだが、先刻まで彼がいた場所を占めて(お湯につかって)それを見届ける分身というのは探偵小説に固有の形式で、そこが谷崎の“失敗作”と違うところだ。夢想家と分析家の二人のデュパンがいると『盗まれた手紙』の語り手は言っていなかったか。北見が来なければ、空に広がったきり静止した花火のように、ユートピアはいつまでも持続したかもしれない。しかし探偵が現実原則を持ち込み、丸尾の主人公は蕩尽と千代子殺しの償いとして死に、原作ではむしろ自らの芸術の完成のために死ぬ。最後の演し物は降り注ぐ血という触覚性をそなえていた。

 パノラマ島の湯の羊水性と乱歩の小品『火星の運河』との類似は澁澤龍彦が言っていたが、tatarskiyの指摘によれば、パノラマ島で『火星の運河』と重なるのは、木立を抜けた果てに見出す泉と、それを覗き込んだまま動かない女である。『火星の運河』は女体化の話だが、この女ナルシスも男であるとすれば『金色の死』の岡村君の著しい両性具有性とも平仄が合う(ちなみに両性具有とはほとんどつねに男の属性である)。

 断章で書くのが限界に来たのでここで一応メモは終る。
[PR]
by kaorusz | 2012-02-24 14:39 | 批評 | Comments(0)
tatarskiyさんのツイートまとめ第二弾。  2/23補足

=====================================

「腐女子のBL好きは病気であり、卒業してフェミニストになれば治る」だそうですよ。 

RT @guriko_: BLつーのを読んでもつまんねぇと思うけどスネークの物語ならつまんなくないだろう。男同士がセックスしてればいいってのはもう卒業したんだよ。
posted at 14:22:05
[1月13日]

RT @amezaiku: @guriko_ 貴方の理論に沿うと、私は貴方のような考えを「卒業」できたという事になるので嬉しいです。貴方と同じ所に堕ちなくて良かった。
posted at 14:22:35


RT @_pasenow: フーン性について卒業するとかいえる感性が驚きだわ昔はよく同性愛を卒業して異性愛にならないといけないといわれていたそうね卒業ってどこかの学校でもお出になったのかねえ
posted at 14:22:51


RT @guriko_: なんか話しがまた違ってきてるわね。性を卒業するってダレがいってんだかw
posted at 17:37:26


私はぱーぜなうさんが言ってたことは一つも間違ってないとしか思わないけどね。BL(ここでは男同士のエロティックなイメージ一般)が「特に趣味じゃない」だけなら別に抑圧的とは思わないが→
posted at 20:35:14

→「BLなんか読めない」と公言しながら、しかもそれを「自分の健全さの証し」だと勘違いしてる差別的な馬鹿はいっぱいいるよね。あ、男は「読めなくて当然」なのでこういう奴らはみんな女ですが。
posted at 20:40:27

まあ、自称健全な女性の「BL苦手自慢」なんて「あなたが男だったらただのホモフォビアと思われるだけだし、女だって本当は同じことですよ?」とせいぜい冷たく忠告してあげましょうね。
posted at 23:59:08

RT @guriko_: おもしろかった!RT @kuko_stratos: @guriko_ BL作家の野村史子さんが、なぜBL書きから卒業したのかって話が、参考になるかも。http://t.co/OsIBi7o8 http://t.co/x2V0GEUR
posted at 12:41:44[1月14日]

RT @amezaiku: 「BLはつまんねぇがスネークの物語ならつまんなくない。」「BLは男同士がセックスしてればいいだけのもの」「卒業」自身を持ち上げるために特定のものを自身の基準で「○○である」決め付けた上でその決め付けを元に「卒業」と言っているのに腹を立てているのに「単語が悪かった」とか言い訳乙
posted at 14:24:29


RT @futeneco: 卒業発言、誤解してるんではない。明確に「男同士セックスしてるだけのBLなんて卒業したの」と書いてある。ファンタジーに優劣をつけていると思うのは当然。
posted at 14:32:12


RT @carpe_diem435: @futeneco 私も「以前の自分は未熟だったから好きだったけど、今はもうそこから脱却したし~」以外の読み方出来ないと思います。どう見たって目的論的な考え方して優劣つけてる様にしか理解出来ません。
posted at 14:33:35


RT @carpe_diem435: おぞましい、ね。
posted at 14:34:18


RT @amezaiku: 時間無いからもう行くけど、私はあの発言も、あの発言に同調した者も、あの発言を見て「BLは卒業するべき論」を正しいと勘違いする野朗も絶対に許さない。
posted at 14:35:43


上の一連のRTを見て。言うまでも無いが、人間のクズ(本人的には“正しい女”)ぐりこは語るに落ちるな。「そんなのは誤解する方が悪いのよ」と開き直った直後に“正しいクズ”仲間からの「BL作家もこう言ってるんだもん“卒業”は間違ってないわよね~」というツイートにホイホイ乗っかる醜悪さ。

結局はBL表現と愛好者に対する丸出しの蔑視と「私は正しい女だからこんな奴らとは違うのよね~」とアピールしたい本音がダダ漏れ。私が以前に批判したフェミニスト気取りの映画研究者の女性もそうだったけど

carpe_diem435さんとfutenecoさんの会話にもあるが、問題なのは性的ファンタジーを「正しい目的」に合致するものか否かで序列化し、合致しないものは「卒業すべき“幼稚”なもの」として蔑視するという態度そのもの。特定のBL作品の内容を比較して云々するのは差別的な馬鹿。

馬鹿には当然理解できなかったようだが、私が「BLなんか読めない」と公言しながらそれを「健全さの証し」だと思っている差別的な女の態度が、男だったならホモフォビアと変わらないと書いたのは「文字通りの意味」である。

今回の場合「BL表現なんか女が描いてる偽物で本物の同性愛じゃないから馬鹿にしていいもの」だという暗黙の前提無しには生じ得ない醜悪な言動が渦巻いていたが、BLの作者が本当は覆面のゲイ男性だったり、女性の作者が後から性転換してFTMゲイ男性にでもなれば途端に差別できなくなるの?

要はなぜ「男同士のエロティックな表象」を描いて/愛好しているのが女性である場合、その人のセクシュアリティは蔑視されねばならないのかということだ。それは「“男同士”に現を抜かすなど彼女が現実に“女”としての正しい性的対他関係を取り結ぶ役に立たない」と見なされるからだろう。

だが言うまでもなく、人のセクシュアリティが「現実的な正しい目的」に沿って組織されねばならないというイデオロギーこそ差別の根源である。上のぱーぜなうさんのツイートにもあるが「未熟で無目的な同性愛から、生殖に繋がる異性愛へ移行することこそ正しい成長の証し」だとされてきたように。

早い話が、女の性的ファンタジーなんて「当然の制度である“正しい”異性愛」「道徳としてのフェミニズムに代表される“政治的な正しさ”」のどちらかに沿った“正しい”ものでない限り認められないのだ。

女が正しさとは関係ない純粋な表現としてのファンタジーを愛する権利など無く、そんなものは「女の分際で身の程知らずな」だけなのだ。だから平気で「正しさに奉仕する望ましいファンタジー」か、そうでない「間違ったファンタジー」かの差別的線引きをして恥じないのだ。

男は「ホモではなく、当然女に欲情する」のが正しい男なのであり、女は「男を補完する男にとっての女であること」が正しいのである。男が当然ホモフォビックであるように、女は「男にとって余計なもの」を持たないのが当然であるべき存在であり、「BL嫌い」はそのアピールに他ならないのだ。

「制度としての異性愛」を「道徳」に入れ替えても同じことである。「男に規定された、男にとって望ましい女」から「道徳に規定された、道徳的に望ましい女」になるだけだ。当然「道徳的でないもの」を持つことは許されず、正されるべき悪しき誤りとしか見なされない。

どちらの場合も彼女のセクシュアリティは「その望ましい目的に合致するものか否か」で測られ、彼女は「当然」それに従属すべき存在にすぎない。男の“女”か、道徳の“女”か。いずれにせよ“女”とはそういうものである。もっと言えば、道徳もまた女を“女”にする“男”なのだ。

そして「道徳という名の男」に成り下がったフェミニズムなど世俗の規範とは別種の抑圧に過ぎず、女の味方でもなんでもない。今でもすべての現実の女の立場は、男のための娼婦か良妻賢母か道徳的な修道女でしかなく、彼女がそのいずれであることにも奉仕しない性的ファンタジーは逸脱でしかない。

前に笙野頼子はクズだって話でも書いたけど、女が「男同士のエロティックなイメージや物語が好き」であることを自らのセクシュアリティとして肯定しうるような尊厳など最初から与えられていないのだ。そんな「女らしくなく」「正しくない」ものなどさっさと“卒業”しなければ蔑まれ続けるだけだ。

ところでBLなんかを“卒業”して今は何を愛好するどんな立場になったのか言ってごらん?娼婦?良妻賢母?フェミニズム的修道女?政治的レズビアン?どの道「正しくない」同性を抑圧することで歪んだ自尊心にエサを与えてもらう権力の犬だよね。醜いと言う他にないね。

kaoruSZさんのブログのこちらの文章が参考になるが、「現実」とは常に「これが現実であると信じられるべきである」とされる「覇権的なファンタジー」の産物であり、それに隷属するべき側が「違うファンタジー」をもつことを認めないものである。

だから女が「自分のための性的ファンタジー」を捨てて「現実」を受け入れるというのは「隷属」でしかなく、それを「成長」と言って誇るのは恥ずべき奴隷根性というものだ。馬鹿馬鹿しい。

RT @futeneco: ここのやり取りがマジ糞過ぎて打つ手が怒りで震えるレベル。これでも擁護する人とかいるのね。マジで馬鹿じゃねーの。 https://twitter.com/kuko_stratos/status/158070684990455808
posted at 22:41:53


RT @guriko_: 「少年マンガの登場人物たちの関係を解釈する方法として、恋愛という女性分野に位置づけられたものを使うことによって、男性を排除し、女性同士のコミュニケーションを効率化し、女性同士が自分の解釈を発表し共感し議論し合ったりできるようになる」 http://j.mp/wKhpAS
posted at 14:26:30


RT @guriko_: 「何故「やおい/BL」は恋愛を描くのかという、非常にラディカルな報告でした。…女性たちが自分に強制されてきた愛のコードを使い、女同士の絆を高め、かつ、ヘテロセクシャリズムの意味をずらすことにも使っているとの指摘… 」 http://j.mp/wKhpAS
posted at 14:28:15


RT @kuko_stratos: @guriko_ 講座の講師としてお呼びしたい[鈴木註;東園子氏を]けど恥ずかしい(*μ_μ)σ| モジモジ・・・うちは田舎なので、もうちょっと都会のイコーラム(東大阪)あたりがやれば、盛況じゃないかと思うの。個人的に、BLの卒業後はぜひフェミへ!と思うので、両者をつなぐ仕掛けがあればと。
posted at 15:19:22


RT @guriko_: @kuko_stratos なーるほーどー!!BL→フェミってのは、そのまま私だ!
posted at 15:21


RT @kuko_stratos: @guriko_ いわゆる「こじらせ」の要因は社会的なものであって、腐はその一表象にすぎないと私は考える。自分のこじれとの対話と、こじらせたものへの抗議がフェミニズムであり、こじれを結晶状態で抱えている腐こそは、フェミニズムの種を純粋培養しているものと思う。
posted at 15:34:31


RT @guriko_: @kuko_stratos うん、私もそう思うなー
posted at 15:37:41


RT @kuko_stratos: @guriko_ なのでこう、ね、種を土におろして、ぐりこさんみたいな大輪のフェミの花を!とw
posted at 15:39:01


RT @guriko_: いやいや、大輪なんて…orz でもフェミニズムを知ると色んなものが腑に落ちるよね
posted at 15:42:13


RT@kuko_stratos guriko: うんうん。今までいろんなこと知ったような顔して、「矛盾もしょうがないよね」みたいだったけど、結局それは男の目で語られた物語で、あんたの目をちゃんと開いて、あんたの立ち位置から見てみなさいよ、ほら、って言われた感じだった。
posted at 15:53:25

RT @kuko_stratos: でもまあ個人的にはちゃんとBLを修めてフェミに入学している人はうらやましいな。それだけ幅がある。興味はあるけど結局入れなかった。入試をサボった。お誘いはあった。でも、早熟な私は私私私私ーっ!と欲望する視線より欲望される視線を取りにいった。んでこのザマよ。
posted at 16:10:54

RT @futeneco: @miraiko 今見ました。そのやり取りで完全に例の発言だけでなく、ぐりこ(さん付けも馬鹿馬鹿しい)の認識がダメダメなのが露呈してますね。腐はこじらせとまで言ってますし、ホモフォビックなやり取り、かつフェミが正しいのよと言わんばかりのノリでため息しか出てきません。
posted at 22:06:33


RT @futeneco: 男性同士のエロティックな表象に萌える人は「こじれてる」んですって。ふーん、で、フェミはこじれてないとか正しいとか言いたいの?馬鹿じゃねーの?そりゃ自然に「卒業」とか言えるわけだ。あほらし。
posted at 22:08:20


RT @amezaiku: https://twitter.com/kuko_stratos/status/158074498359365632
はははは!!ははっは!!!BLはこじらせwww @guriko_ の野朗も同意していやがるww何が「個人的な事」だwwあははwwwクソ野朗!!
posted at 22:08:56


RT @amezaiku: @guriko_ に関してはもう何も言うまい。「BL=こじらせ」と発言しても「個人的な事です!」で通ると思っているカスだ。そんなフェミニズム滅んでしまえ。
posted at 22:17:22


RT @amezaiku: @Hornet_B 「BL=こじらせ」で「BLを”卒業”してフェミへ」と言われても我慢しろと?私はフェミニストの奴隷ですか?
posted at 22:17:37


RT @futeneco: @aintootiru 「BLなんて卒業した」と言った人が別にBLは貶めてないと言っていたのに、BLは性についてこじらせた結果だから次はフェミに来てほしいと、明らかにBLを蔑視してる発言をしたやり取りです。
posted at 22:44:44


↑RT一覧:ぐりことクーコ、ゲスな人格が丸出しだが、こいつらの発想ってさあ、昔社会党の向坂逸郎が「ホモは病気であり、ソビエト社会主義者になれば治る」とか言ったのと同じだよね。ソビエトロシアではイデオロギーがセクシュアリティを規定するらしい。とっととシベリアで木を数えてこい。posted at 22:41:44

@amezaiku フェミニズムを宗教や社会主義みたいな党派による思想として内面化する必要や義務なんかないので、amezaikuさんにそんな抑圧感を与えるようなフェミが間違ってるだけです。自分の性的嗜好を含めた人格より偉い「フェミ的正しさ」なんかありません。
posted at 23:12:49


=====================================

「BL作家の野村史子さんが、なぜBL書きから卒業したのかって話」とはどんなものか参考までに(鈴木薫のツイート 1月15~16日)

あらためて読んでもキモいレポートだな。政治的に持ち上げることは政治的に貶めることと表裏一体。お前の性ファンタジーは女の解放や女の連帯につながると言われてそれが何か? http://wan.or.jp/reading/?p=745  http://wan.or.jp/reading/?cat=16

うぜー「SM的な関係は最も萌えるファンタジーの一つでしたが…一方ではリブの活動をしながら、もう一方では支配-被支配の関係に萌える自分がいる。この矛盾は中野さんを苦しめました。…JUNE作品を書くことにより、自分は何故このような性的ファンタジーを好むのかが分かってきたといいます→
posted at 09:01:23

→自分がいかに女性差別的な男性社会を憎んでおり、支配―被支配の男同士の関係、そして支配者たる男が破滅していくという物語を書くことによって自分の怒りをなだめていたのかが分かったそうです。…自分の怒りの方向性を認識することで、改めて現実の社会で闘っていこうと思い帰国されたそうです→
posted at 09:13:06

→物語を書くことによって、自己の中の怒りを発見し、現実に立ち向かっていく中野さんのお話はとても感動的であり、物語を書くことの力を改めて認識させられました。やおい/BL研究の中でも小説分野は今後ますます研究が必要な分野かと思いますので、非常に有意義なシンポジウムでした」
posted at 16:48:07

↑中野は昔の人だからこうだと思われるかもしれないが、大義の内容が変っただけで政治的な正しさに支えられたい連中が多いのはこのレポートでも分る。今はソフトに女子文化とか女の絆とか言っているだけ。追いつめられていた分正直なところもあり飯の種にして同性を搾取する連中よりある意味マシか。
posted at 22:18:01

@carpe_diem435 野村史子=中野冬美って男同士の話が好きなのに「やおいは女の自己否定」と思い込みしかも〈女〉が大嫌いという人だったんですね。小説は知らないのですがこんな先人が!と思って以前書いた文章の最後に註として載せましたhttp://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-5.html
posted at 08:57:47

→誰かが彼女に、女だから女であることを素晴しいと思えという命令などは突っぱねたっていいんだ、そこにいるあなたという女を架空の女に従属させないからといってミソジニスト呼ばわりされる筋合はないと言ってやれればそんなに苦しまなかったでしょうにね。@carpe_diem435
posted at 10:24:10



◆引用したツイート中、前出のツイートを指す「下の」は「上の」に↓は↑に直しました。
[PR]
by kaoruSZ | 2012-02-16 12:45 | 批評 | Comments(0)
twitterで140字ずつ投稿するのにすっかりハマってしまい、久しくこっちに戻っていなかった。                                        

http://twitter.com/#!/kaoruSZ
http://twilog.org/kaoruSZ
   
連続ツイートもしているので、長いものはおいおいこちらにまとめるつもり。
 
今回は私のではなく、一緒に文章を書いている(http://kaorusz.exblog.jp/322048/参照)tatarskiyさんのツイートのまとめに場所を提供した。このシリーズは今後も続く。


=====================================
佐藤亜紀氏が私への中傷を重ねている件については、上記ツイッターの5月24日以降のポストもぜひご覧下さい。
佐藤亜紀氏の読者のような良い趣味をお持ちの方なら、私の記事は当然お気に召すことでしょう(「最新の記事」欄を参照されたし)。どうぞごゆっくりお過しください。(鈴木薫)



(2012年6月5日ツイートより追記)

tatarskiy1@tatarskiy
色々途中ですが、馬鹿には何で私が笙野頼子はただのミソジニストだと言ったのかわからないようなので。たとえば「人種差別はよくない」とかもっともらしいことを言ってる奴が同じ口で「ホモや女装をするような奴はリンチされても仕方ない」と言ってても人道主義者だと思えるのかと小一時間(ry→


6月3日N/A ‏@carpe_diem435
私にとって、ずっと辛かったのは、「BLは 、フェミニズム的な意味を持つからこそ、価値がある」とされてきた事かもしれない。それは、正しい女であるために好きな物であり、加えて、何故か「いつかは卒業すべきもの 」とされていたな。うん。
tatarskiyさんがリツイート

tatarskiy1@tatarskiy
要は笙野頼子のやったことは上のRTで指摘されてるような抑圧的な意見の典型なんだよ。どんなにもっともらしく女性差別への批判をまくし立てていようが、「私はあんな道徳的に間違った女たちとは違う。一緒にされたくない」とわめいたならそれだけで貞淑な差別主義者の馬脚を現しているにすぎない。→

tatarskiy1@tatarskiy
「女性差別は不当だが、BLを好きな女は道徳的に間違っているから差別されて当然。断罪された後フェミに目覚めることで“健全”になるのが望ましく、自分はそのモデルケースだ」とアピールしてただけだよあれは。女の空想上のセクシュアリティは今も間違いなく最も認められていない人権の一つだね。→

tatarskiy1@tatarskiy
結局、性欲や性的ファンタジーをヘテロ男性をモデルに考えて罪悪視してるから「自分にはそんなものは無い」と言い張らなければ男を批判する権利がなくなると思い込んでるんだよね。つくづく凡庸な臆病さの発露でしかないけど。何度も書いたがヘテロ男性のそれは制度=権力でその女版なんか無い。

=====================================
笙野頼子(一人で)アンチスレ      tatarskiy


笙野頼子がフェミニスト面して持ち上げられてるのって、最低最悪におぞましい光景だわ。『幽界森娘異聞』って、森茉莉を一方的に政治的な正しさの高みから見下しながらダシにした、腐女子の人に対する悪質なヘイトスピーチ集でしかなかったと思うが。

要は「私はちゃんとフェミニズムに目覚めたからやおいなんていう政治的に正しくないものは卒業したの! 私は正しい女なの! だから私のような正しい女になれない腐女子のことは率先して断罪するの! それは森茉莉みたいな著述家としては優秀な人だって例外じゃないの!」っていう幼稚な自己正当化がやりたかっただけ。“貞淑な女”アピール乙としか言いようが無い。女が道徳的な正しさに基づいて「性的に堕落した」同性を断罪してみせるという古臭いミソジニー的な構図の再生産にすぎない。

女が美的に描かれた男性同性愛の表象を愛好することに、倫理的な問題なぞ本当は何も無い。卑屈になったり、誰かに謝ったり、模範的であるとされる態度を率先して示さなければならない理由など何一つ無い。あるのは、「女の分際をわきまえろ」という権力からの通俗的な脅しと、権力からの脅迫を内面化した女たちの、自分だけは堕落した女だと思われまいとしての同性に対する魔女狩りへの加担だけである。その根拠にフェミニズムだのゲイの権利だのの名前がついていたとしても何も変わらない。いるのはミソジニストと、彼らの憎悪の標的とされた女性たちだけである。

芸術とはモラルも含めた通俗的な根拠から離れた、アモラルな自由と洗練に基づく。道徳的な貞淑さを内面化した女の出る幕などない。笙野頼子のような女は、女性にとってのアモラルな自由と美的な表現を愛する権利を要求することは、男からの差別に抗議するためのモラルに基づいた根拠を失うことだと思い込んでいるわけだ。要はフェミニズムと道徳律(モラル)を同一視しているわけだが、そもそもこれが誤りの元。男が正しいこと=モラルだけではなく、正しくないこと=アモラルなものを享受することを許されているからといって、「男も正しいこと=モラルだけしか許されないようにしろ」というのは、そもそも実現性なぞ無く、思想としても非人間的な全体主義の奨励でありおぞましいだけ。効果としては「男にモラルを要求する以上、自分達はより率先してモラル的であらねば!」という風に内部粛清の動機を強化するだけである。

フェミニズムは、女性が女性であるという理由で排除されている一切に対して、その根拠の不在と排除の理不尽さを指摘する行為ではあっても、社会の道徳律の改良運動ではない。彼女がそれに抗議するのは、単に彼女に対する理不尽な抑圧があるからであり、道徳的な間違いだからではない。

面倒になってきた。要はフェミだろうがなんだろうが、既存の道徳に沿った形でしか自己肯定を許さないってのは女を人間扱いしない思想でしかない。

あと、笙野頼子みたいなバカは、男のヘテロセクシュアリティの本質を見誤って闇雲に嫌悪しているがために、やおい(BL)に対してもその嫌悪感を投影して「男が女にしたことを女がゲイにするのか!そんなことは許されない!」と頑なに思い込んでいるわけだが、(前に書いたが)そもそも全てのエロティックな快楽の源泉は「愛される/犯される客体」としてのナルシシズムにあり、単にこれをストレートに認めることが出来ないが故に女性に投影しつつ蔑視するしかない男性のヘテロセクシュアリティが特殊なだけである。この図式の女性版など存在するはずも無い。

男性の作り出したヘテロセクシュアリティという「それこそが当然であるものとしての制度」は権力そのものであるが、その反映としての三文エロメディアの類は、単に通俗な代物であり、制度から生じる結果ではあっても原因ではない。
そして、必然的に唯一の覇権的な制度としての男性のヘテロセクシュアリティ以外のものに、このような支配的な力などあるわけがない。

前にも述べたが、エロティックなファンタジーは本質的にアモラルなものなのであり、故に、問題とされるべきなのはファンタジーの内容が通俗的な道徳に照らして望ましいものか否かでは断じてない。そのような通俗的で抑圧的な基準でファンタジーそのものが序列化されることはあってはならない。

問題なのは断じて通俗的な善悪ではなく、制度とそれに基づいた権力という構造的な不公平の問題であり、自己欺瞞的な男性のヘテロセクシュアリティこそがその排他的な独占者であることに由来するものである。

もう何度も繰り返し言っているが、女性が描いた男性同性愛の表象にはいかなる意味でも覇権的な力など無い。それどころか、こうした表現を愛好することは“正しい女”から外れることしか意味せず、避けがたく理不尽な侮蔑にさらされることになる。
何より、既存の常識や道徳の後ろ盾を奪われているということは、それを自らのセクシュアリティとして肯定する尊厳すら与えられていないということだ。

笙野頼子のようなケースは、その状態に耐えられずに自らのセクシュアリティとそれに基づいた美意識を否定し、同性を侮蔑する側にまわることで歪んだ自尊心を保とうとしたにすぎない。心底軽蔑すべき臆病者だが、彼女のようなケースは余りにもありふれていると言える。
差別的な態度を隠そうともしない世間並みの男がろくでもないのは明白だが、フェミニストやクィアを自称しながら“腐女子”を蔑視して憚らないような輩はなおさら恥を知るべきだ。
それは「堕落した売女なぞと一緒にされてたまるか」とばかりに女に石を投げつける類の、伝統ある卑しむべき“貞淑さ”の反復にすぎないからだ。
=====================================

 tatarskiyさんのtwitterとtwilogは以下の通り。

    https://twitter.com/#!/tatarskiy1
    http://twilog.org/tatarskiy1

[PR]
by kaoruSZ | 2012-02-15 18:57 | 批評 | Comments(0)
『ウルトラマン』45周年で話数限定で無料配信されているのを見つけ、第一話を見た。ウルトラマン、喋っている! 死んだ(殺した)ハヤタを見下ろして自分の生命をやろうと話しかけ、一心同体になると宣言して不気味に笑う怪人ぶり。悪い宇宙人(怪獣)を追ってきた良い宇宙人(警察)、完全に宇宙パトロールものだ(「光の国からぼくら/正義のために」ではなく、偶然地球に来てハヤタを巻き込んでしまったというわけ)。スーパーマンやナショナル・キッドのように宇宙人が普段は地球人の姿をして暮らしていて事あればタイトルロールになるのではなく、地球人が宇宙人(しかも犯人を追う刑事)の宿主になるという形式まで含め、ハル・クレメントの『20億の針』が発想源か。(☆1)

『仮面ライダー』が「変身」と名づけたのは、クラーク・ケントからスーパーマンへの早替りの変形だが、変身して戦うのを女にしたのは『美少女仮面ポワトリン』から? あれは完全に仮面ライダーを女の子にしたアイディアに見えた(数回しか見ていないが、日曜日のTV画面に鈴木清順が出てきて、しかも神様とか称しているので驚いた)。当時の勤め先で、あれを見ていた看護婦さんにポワトリ-ヌの意味を教えたら、どうしてそんな名前つけるのかと嫌な顔してたっけ。といっても、お色気路線ではなかったし、美少女にも(私には)見えなかった。『ウルトラマン』はむろん完全にホモソーシャルで、第一回でも桜町浩子は「女の子」呼ばわりされているが(見た目は今時の女の子――三十過ぎでも自称するような――ではない。昔は、大人は大人だったのだ)、それをさらりと受け流して仕事している、まさに「紅一点」だったが、むしろそのタイプ。

 そして言わずとしれたセーラームーンが来るわけだが、あれについて女のホモソーシャリティとかいうのは間違いだ。女のホモソーシャルとホモセクシュアルの連続性がどうのというのはセジウィックでもかなり怪しいわけで、もともと文化の中にそういう場所はないのだから、あれは美少女の展示場に過ぎない。『ポワトリン』の場合、お遊びであっても、女にヒーローをやらせるという新機軸があって、それはもしかしたら女にも一人前の働きをさせるといったフェミ的なものの反映だったかもしれないけれど、その後の“戦闘美少女”の繁栄を見ると、そういう方向へは向かわなかったようだ。

『ウルトラマン』は、『ミステリー・ゾーン』や『アウター・リミッツ』の模倣として生まれた『ウルトラQ』から、怪獣とそれと同じくらい大きいウルトラマンのレスリングへと舵を切った番組で、その先にあるのは博物誌的(「怪獣図鑑」や決め技の分類、図解等)男の子向けの商業戦略であったと思われる。では、女の子はヒーローものの何を楽しんでいたのだろう? 24年組世代の少女マンガ家たちが、男の子が関心を持つのは(少年ジェットが立ち木を真っ二つにする)ミラクルボイスだったが、女の子はジェットが敵に捕まってあわやといった展開が好きだったと貴重な証言をしていたのを思い出す。もちろん、男の子もそれに惹かれなかったわけはないのだ――意識的にか無意識的にか抑圧していただけで。もっとも、そうした繊細な同一化に、彼女たちがすでに子供時代を脱した時期に現われたヒーローの、いかにも鈍重な身体は向かなさそうだ。表情と内面を欠いた塩ビ人形的「ウルトラマン」は、性的潜伏期に入った鈍感な男の子向けキャラと言えるのではないか。

『20億の針』(中学生の頃読んだ)は、少年と彼の体内に侵入したゼリー状の異星生物(犯人を追って地球に来た)との関係が魅力的だった。岩明均の『寄生獣』を読んだ時、明らかにこれを下敷きにしていると思ったが、それは主人公と右手に寄生したミギーとの関係にまで及んでいた。『ウルトラマン』では「一心同体」というのはほとんど慣用句的にしか聞こえない上、最終回でハヤタはそれまでの記憶を失っているらしいが、『20億の針』と『寄生獣』では、少年と異星人のペアは文字通りそういう関係である。前者の場合、犯人が死んだあとも故郷の星へ戻る手段がないので、彼らはずっと共存することになる。ミギーの場合は、けなげにも進んで身を引く(主人公の体内で眠りにつく)。理由をつけてはいるが、明らかに、その直前に主人公が女友達と性関係に入ったせいだ。

『寄生獣』の例でもわかるように、潜伏期の後にあるのは、言うまでもなく〈女〉へ、ただひたすら〈女〉だけへ向かう性欲だが、「戦闘美少女」の時代には事情が少々違うようだ。ヒーローにヴァルネラブルな受動性を見るのではなく、戦う少女にそれを見る――彼女たちはむろん女性観客のために作られたのではなく、ホモソーシャリティを忌避して少女の自意識に感情移入したい男たちのためにいる。しかしこの男たちは女の味方ではなく、しばしばホモフォビックかつミソジナスである。

 以上のような最初のアイディアを平野智子に伝えたら、少年はホモソーシャルなメンバーとして「男」になることが予定されているが、戦闘美少女は〈女〉になることのない「人形」なのだと言われた。いかにもその通りなのだが、しかし、少年もエロティックな「人形」なのではないのかと言うと、だから、「父に対する受動的態度」の外在化が「人形」 (☆2)なのだと言われた。なるほど、普遍的に考えるというのはたいしたものだ。

(以下、平野さんの助言による、補足のためのメモ)

女のホモソーシャリティはないということについて
少年は社会的に一人前になって女を所有する。女との違いは、性的な主体性があるかないか。
女には、一人前の構成員として認められる社会がそもそもない。

ホモとヘテロという線引きを主体化のために必要とするのは男。
男が男に対して受動性になることをタブーとしてと男の主体が規定されたあと、それを補完するものとして女が規定される(そのようなものが女と呼ばれる)。

男がいて〈少女〉がいるのであり、その逆はない。
男に欲望されなければ意味のないものであり、男がその内面を好きに投影できるのが少女である。
少女とは“男にとっての女である”以上の余計なものを一切持たない存在。

少女とは免責されたイノセンスであり、少女が戦うのはイノセントのまま暴力を振るいたいという男の願望の具現化。男なら責めを負わなくてはいけないが、少女なら咎められない。責任を永遠にまぬかれている存在。

主体として責任を負うことに男が堪えられなくなっている。弱さとか無垢なそぶりを許容されたい。自分が可哀想と言いたい。少女を守るのではなく、自分が少女になりたい。
男を見たくない。女が仲良くしているところだけを見たい。
ハーレムアニメを発展させると百合アニメになる。
男に動物的な「本能的な」性欲があると信じることが、こうした男の屈折のありようを見えなくしている。




☆1 20億というのは当時の地球人口。第二話の「バルタン星人現わる」を見たら、世界の総人口は22億になっていた。そこへ、故郷の星を失ったバルタン星人が移民したいと言ってきたのを、最初は、法を守れば住まわせてやるとか言っていたウルトラマン(ハヤタ)、彼らが20億いると聞いて、「バクテリア大」に縮小された20億人が乗っている円盤をあっさり爆破。難民船を撃沈か!

☆2 「人形」については以下に詳しい(長いけど)。
平野智子/鈴木薫「砂男、眠り男――カリガリ博士の真実 」
[PR]
by kaoruSZ | 2011-10-16 14:25 | 批評 | Comments(0)

父子迷情

 今年四月上旬のこと。節電中のかつてない暗い渋谷で、二日続けてソクーロフの映画を見た。『ファザー、サン』の始まり、何も知らないでセリフなしで見たらゲイポルノと思うだろう。どの部分かも判然としないまま、抱き合い、揉み合っている肉体、開いてゆく口(?)――身体のどの開口部かもわからない(だいたい、映像の出る前からタイトルの後ろでハアハアいっていた)。息子が悪夢をを見て殺されそうになったところを、父に起こされ、助けられたのだと判明。父の胸にすがる息子。といっても子供じゃない。そして父……若すぎる!(エルフの父子かw)。昔見た『マザー、サン』は老母と息子の、これも周囲から隔絶した愛だったが、こちらもチラシには退役軍人の父と軍人養成学校の生徒の息子とある。誰だって、年寄りかと普通思うだろう。あと、父子の確執とかのテーマかと。だが、そんなものはまるでなし(トールキンと同じ!)

 父が二十歳の時の息子で、妻は(都合よく)早く死んでしまったそうだ(トールキン!)。学校に面会に行って、同級生に息子を呼ぶように頼んで、父親なんだとわざわざ断っている。そりゃ、彼氏にしか見えないもの。息子の彼女も面会に来るが、私よりお父さんの方が大事なんでしょうと愛想づかしされる。全く、どういう映画なんだ。父子だと言えばなんでもできるのか(神話を口実にヌードを描けたようなもの)。前の日に見た『ボヴァリー夫人』は、夫と恋人たちには別人のような美女に見えているとしか思えない、鳥ガラのような険のあるエンマで、レオンとの情事が母子相姦にしか見えなかった。夫と、そして二人の情人と、律儀に全裸のセックス・シーンが繰り返されるが、『ファザー、サン』の一場面ほどにもエロティックでなく、夫婦の朝食のポットにとまる夥しいハエのように、昆虫の生態と思って撮っているとしか思えない。

 中国語のタイトルは『父子迷情』だという。ためしに検索してみたら(中国語は読めないけれど)文の最後に「一対恋人」の文字を見つけた。さすがにそう思わない人はいまい。トールキンの『失われた道』、ソクーロフなら撮れるだろう。



トールキンと『失われた道』については、以下に書いた。
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/kikou10-1.html
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-9.html
[PR]
by kaoruSZ | 2011-10-04 16:06 | 批評 | Comments(0)
先に(上)の平野さんの論考http://kaorusz.exblog.jp/14384401をお読み下さい。

さらに後日談あり 
http://kaorusz.exblog.jp/14892828 



 鈴木薫です。
 当ブログ内の関連エントリーとして平野さんが挙げた“「彼は私をブランチと呼んでいた」”というタイトルのものの外にもう一つ、“お知らせとメモ”というのがあります。
“「彼は私をブランチと呼んでいた」”で検討していることの一つは、「男が流用した女性性を女が再流用して享楽する」可能性です。
 こういう場合に、“男の流用した女性性なんてけしからん、こういうものは否定して女の手で「正しい」「本物の」女を表象すべき”という方向へ行かないのは、一つには私が根っからの快楽主義者だからでしょう。以下の考察もそのような人間の視点からのものです。

 鷲谷さんの論考の最後の部分について言えば、“ホモソーシャルなもの”はつねにすでにホモエロティックだったのであり、これからもそうであろうこと(鷲谷さんが言うような「アリバイ」などではありえません)を看過するという、ありがちな(かつホモフォビックな)間違いを犯し、おまけに「女性観客」の「リビドー」を貶めるのみならず、彼女たちを「ホモソーシャリティ体制の共犯者」扱いしてしまうところは、かつて溝口彰子さんが書いた、やおいは「ホモフォビアに依存しつつさらにそれを再生産する二重のホモフォビア装置」というその後大勢の馬鹿によって繰り返されることになったフレーズと同様最悪で、これがあるためにそれまでの部分を台なしにしているのは最初に読んだ時からわかっていました(しかし世の中にはこの最後の部分にばかり注目して、重要なことが書かれているとかなんとか言い立てる人がいるんですねえ、呆れ果てました)。

 それがなぜ平野さんのような透徹した認識と歯に衣着せぬ批判へ直ちに繋がらなかったかといえば、強いて言うなら私の個人的心理の問題であり、それについて書いたところで誰も面白いとは思わないでしょうからやめておきますが、その代りとして、鷲谷さんがここで唐突に持ち出している、「スクリーンでの素敵な女性たちとの出会いを求めて映画館に出かけてゆく」という文句の付けようのない(?)「性向」をそなえた書き手がいったいどのような主体であれば、それまでの部分と齟齬を来さないかを考えてみます。

 第一に、鷲谷さんが“「素敵な女性」を性対象にする男性”だったら全く問題はなかったわけで、平野さんが“男の評論家がゲイ映画の批評をした後で、「私は健全な男性なので、男性よりも素敵な女性達が活躍する映画の方が見たい」というホモフォビックな発言をしているのとまったく同じ”と書いているとおりです。

. 女である主体がこのような発言をするのには、本質的に無理があるのです。だからこそ、それを行なった場合には異化効果が生じます。
 といっても今回の場合は、鷲谷さんの動機は、平野さんが掌を指すように示してみせた安っぽいものでしかなく、その効果も空振りに終っているのですが。

「スクリーンでの素敵な女性たちとの出会いを求めて映画館に出かけてゆくという性向の持ち主」が“レズビアン”を名乗るのなら、これまた話は簡単でしょう。もっとも通常、そうした言説は“レズビアン=異性愛男性の女版”程度の認識しかもたらさないので(そういう認識ですませている“レズビアン”当事者だっていくらでもいるので無理からぬことですが)、異性愛のオルタナティヴなどには絶対になりえず、“レズビアン”の一語はむしろ人を安心させる政治的に正しいレッテルとして機能して、ヘテロセクシュアルな男性主体を一ミリも脅やかすことはないでしょう。

(馬鹿を対象に書いているのではもちろんありませんが)馬鹿も読みに来るのだからもっとわかりやすく書けと平野さんに言われたのでこの緑文字部分を追記します。鷲谷さんが以下のような主体であると私が主張しているわけでは全くありません。「鷲谷さんはこう書けばよかった」ということでさえありません。そもそもそれが可能な人なら、正しく見えそうなことをなんとなく書いてしまったりはしなかったでしょう。

 私は、たとえば――自分は「素敵な女性」の官能的イメージに萌える、しかも「素敵な女性」を欲望の対象にするのではなく彼女に同一化してオーガズムを得る性向の持ち主で、とりわけ、能動的で男勝りの強い女性が危ない目に逢ったり、敵に捕えられたり、拷問にかけられたり、時にはもっと酷い目にあったりというのが、性的指向という分類なんぞ自分には何の意味もなかったのだとあらためて実感させられる“嗜好”の持ち主なので、近頃は男あるいは男同士を官能的に描く映画ばかりでまことに残念だ――というのであれば、筋が通っている(現状を分析したそれまでの論考の内容と整合性がある)と思いますし、それはそうだろうと納得しますし、道徳的にであれ他の意味においてであれ正しくないなどとは全く考えません。

 むろん、そうした主体(念のため言っておきますが、女性とは限りません。男性主体とは性的指向にかかわらず、その成立条件からして必然的に「女になって犯されたい」という無意識の願望を抱え込むものですから)が、「お前は女だから女に同一化するのが正しい」というメタ・メッセージを発しているのであれば話は別ですが。

 以上、ながい蛇足でした。

──補足──

 平野さんが鷲谷さんの分析している映画の内容にまで踏み込んで補足したもので、私ももう一言。
 チャン・イーモウの『LOVERS』がそんなふうなら(ちなみに取り上げられた映画、私はどれも未見です)、むしろ私が過去ログで言及した(その後、コメント欄で恐れ多くも鷲谷さんが「参考になりました」と言って下さった)『肉体と悪魔』にこそ、鷲谷さんの指摘はふさわしいことになりますね。あれは正真正銘ヒロイン無視(しかも死亡)で男同士抱きあってましたっけ。思えばこれ以外にも例として選べたフィルムはあったので、たとえばハワード・ホークスのある作品(題名を思い出せないのですが、フィルムセンターのホークス特集で見ました)では、親友と妻の姦通という『肉体と悪魔』と全く同じシチュエーションながら死ぬのは妻ではありません。最後は妻を寝取られた船長が大怪我をして、死にゆく船長の左右に妻と親友を配した構図に。ところがそこでキャメラは船長と親友に寄って妻はフレームの外に追いやられてしまい(二度と戻って来ない!)、スクリーンは男二人を大写しにして、許しと和解と愛の再確認、そして永遠の別れという感動的な場面(「お涙頂戴的な場面」ではありません)で終ります。そう、「ヒロインの存在が消されたまま」で。

 しかしあれは果たして(男同士の)「真に貴重な絆を結びつけ、維持するための手段としてのみ女性の存在を許容し、要請しつつ、肝心な局面では蚊帳の外に追いやってしまうようなイデオロギー、つまりは昔ながらのホモソーシャリティと女性嫌悪(ミソジニー)」(実際、昔の映画ですが)の発露だったのでしょうか。

 そうした映画は要するに異性愛のラヴ・ストーリーとして“パス”しつつ、実は男同士のホモエロティックな関係を表現していたわけです(そこには単に多数派に受容されるための手段にとどまらないものがあるようにも思えますが、それはまた別の話)。そこで作動していたのが、もっぱら、鷲谷さんの言う、(何やらやたら獰猛なばかりで快楽を欠いた)「みずからを増幅強化する」ような「ホモソーシャルな体制」なんてものだったとはとても思えません。「昔ながらの」ではなくアクチュアルな――「腐」呼ばわりして(しなくても)女を攻撃し、ストレート男性とゲイ男性が頷き合う、そして権威主義的な女性が彼らに気をつかい同性を非難する――今どきのニッポンのホモソーシャル体制ならまぎれもなく存在しますが。

 これ以上長くなるのは避けたいのでこのくらいにしますが、最後にこれだけは言っておきます。強制的異性愛体制(ヘテロセクシズム)下にあって男とつがうこと以外の可能性を否定されている女性(レズビアンであってもこの条件は変わりません)は、しばしば男性のホモエロティシズムを甘美なオルタナティヴとして(再)発見するのです。異性愛が規定する〈女〉とされることへの反発と拒絶(こうした反応自体、至極まっとうなものです)は、原因ではないとしても、そこに確かに含まれています。しかしそれを「ミソジニー」と中傷し、自己否定扱いするのは、まして「ホモソーシャリティ体制の共犯」に繋げようとするのは、絶対おかしいし、最低です。

 なお、平野さんが触れている“「コーラ」に共著者として書いた拙稿”はここにあります。
(実はこの論文中には私の不注意によるミスが二つあります。「失われた道」の主人公を「オックスフォードの歴史学教授」と呼んでいますが、彼の勤務先はオックスフォード以外の大学でした(作者とつい混同)。それから、アレゼルだけでなくニエノールも黒髪であるかのような書き方をしてしまいましたが、彼女は言うまでもなく金髪です。幸い論旨にはさしたる影響はないものの、ここで訂正しておきます。)
[PR]
by kaoruSZ | 2010-11-11 01:03 | 批評 | Comments(6)
後日談あり http://kaorusz.exblog.jp/14892828  

            
僕はただ、女嫌いで女性を出さないというふうに見ている人も多いと思うけどね。あの物語に関しては、久生を除いて女性に出てこられちゃ困る、という感じなんですね。 ――中井英夫
                             
                               

 なかなか更新できないでいますが、今回、友人の平野智子から場所を貸してほしいと原稿をもらい、これは広く読まれるべきものだと考えましたので、ゲスト・エントリとして掲載いたします。
 
 これは、現在、以下で読むことのできる、鷲谷花さんの論考について書かれたものです。、

http://d.hatena.ne.jp/hana53/20081010/1223647850
http://d.hatena.ne.jp/hana53/20081017/1224253971

 鷲谷さんの文章については、私自身、大分前になりますが、むしろ好意的に言及しています(参考までにあとで読んで戴ければと思います)。
 そこにも書いていますが、私は最初、個人ブログでないサイトに他の書き手とともに載っているのを見つけた、才能ある若い女性研究者とお見受けした鷲谷さんの論考の、「腐女子」という種族化・属人化、「BL」という商業ジャンルへのゲットー化ではない、メインストリームの文化に見てとれるようになった〈やおい文化〉という包括的な捉え方や、具体的な映画作品を対象とした冴えた分析に注目し、さらには、〈やおい文化〉が「インターネットの普及をきっかけに、かなりグローバルなレベルで、映画の消費文化のひとつのメインストリームを形成しつつある」とか、『ロード・オブ・ザ・リング』がそこでは大きな役割を果たしたとかいう、私が全く通じていなかったトピックに引かれて、フェミニストを自任する、しかし「やおい」については知識のない人たちが少なからず集まる場所で少々話した際に、資料として使わせてもらいました。

 しかしそれは、鷲谷さんの説明を借りて彼女たちに効率的に情報を与えた上で、話を発展させられる(異論の提示を含め)と思ったからであり、〈やおい文化〉という括りに私が心から満足していたことは一度もありません(そのあたりはあとで挙げる私の関連エントリからも窺えると思います)。

 今回の平野さんの論考は、私よりはるかにラディカルな鷲谷さんへの批判です。

 平野さんの文章は私と違って非常に明晰なので、この上私から付け加えることは何もありません、と言いたいところですが、蛇足ながら最後にもう一度出てきて一言申し述べます。


鈴木 薫

 今回、この分析は、平野さんによって、いかに根拠のないものかが完膚なきまでに証明されてしまった。


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  


二年間持ち越していた鷲谷花氏への批判、あるいは「ミソジニストはお前だ」

はじめまして。平野智子です。
鈴木さんの共同執筆者として「web評論誌コーラ」の記事に名前を連ねたことはありますが、単独で書いたものを掲載してもらうのはこれが最初になります。
さっそくですが、以下の文章は鷲谷花さん個人に対する批判であると同時に、彼女の論考「複製技術時代のホモエロティシズム」の最後の部分での、腐女子に対する“道徳的蔑視”をもっともな意見だと思われたような方たちに対してのものです。

まず、私が最も憤りを感じた部分からですが、

しかし、こうした新しいタイプのメインストリームの映画においては、男性同士の絆のみが重要で本質的な人間関係であるとみなし、そうした真に貴重な絆を結びつけ、維持するための手段としてのみ女性の存在を許容し、要請しつつ、肝心な局面では蚊帳の外に追いやってしまうようなイデオロギー、つまりは昔ながらのホモソーシャリティと女性嫌悪(ミソジニー)が公然と息を吹きかえしているようにも思われます。ホモソーシャルな体制は、ホモエロティックなリビドーをアリバイに、女性観客を共犯者として取り込みつつ生き延び、みずからを増幅強化しているのである。などと、ついつい野暮ないちゃもんをつけたくなるのは、もしかしたらわたしがいつもスクリーンでの素敵な女性たちとの出会いを求めて映画館に出かけてゆくという性向の持ち主で、最近はめっきりそんな期待を裏切られ、淋しく映画館をあとにする機会が増えたからかもしれませんが。


この文章は「私はこういうミソジニー的なホモソーシャル体制に無批判に“萌え”てとりこまれているような愚かな女達とは違うのよ。私は女性の方が素晴らしいと感じて女性の活躍こそを楽しみにしている、“政治的に正しい”女なのよ」
という、それこそミソジニー的なメタメッセージを内包しています。

それこそ「じゃあ貴女はそういった“活躍する女性”をオカズにしているの?」と聞き返してやりたくなりますね。上の論考の中で、彼女は映画の二次創作を楽しんでいる女性達を、一貫して「男同士での性関係を快楽の対象とした性的ファンタジーの持ち主」として表象しているので、本当に自分を「そういう女たちとは違う女」として表象なさりたいなら、「私のオカズは男同士じゃなくて男女or女同士のこういうパターンです」というところまで表明しなければ無意味です。
“野暮ないちゃもん”とか和らげたつもりになってみせたところで、こういう文字通りの差別化をせずにはいられないところで馬脚をあらわしています。

しかも「女性が活躍する映画が見られなくなったのは男同士の話を好む女が増えたせいだ」とでもとれるような結び方ですが、鷲谷氏はそれまで「女性の観客が男同士の話を好んで二次創作をするという消費の仕方がネット時代になって目立つようになった。映画そのものもそういった女性たちをあらかじめ観客として当てにして演出されているようにも思える」という論旨を展開していただけで、「男同士の関係をクローズアップした映画が増えたせいで女性の活躍する映画が減った」という論証をしていたわけではないのに、この結びの部分で無視できない(悪質な)印象操作的な飛躍をしているわけです。

これって、彼女がそれこそ女だから「こういう女たちとは違う」という形をとりましたが、本質的には男の評論家がゲイ映画の批評をした後で、「私は健全な男性なので、男性よりも素敵な女性達が活躍する映画の方が見たい」というホモフォビックな発言をしているのとまったく同じです。要するに、“男同士での性的なファンタジー”を享受する主体は不健全であるとする病理化です。

え?「男同士のファンタジー自体が不健全なわけではない。ゲイ男性なら問題無いけれど、女がそれを好むのはやっぱり異常だ」とおっしゃりたい?
まず、“男性による女性イメージの横奪”こそ歴史的には現在に至るまで続く制度化されたお家芸です。
下の(まだ私が鷲谷氏はおかしいと意見する前に)鈴木さんが書いたエントリーにその一例が取り上げられていますが、
http://kaorusz.exblog.jp/8729974
端的に言って、“女”なるものは男性が自分のものとしては抑圧した受動性を女性に投影したイメージであり、また、能動性としての“男らしさ”とは、「受動性を“女”として外在化し続けること」すなわち抑圧によって成り立つものであり、つまり“男”も“女”も“男のもの”なのです。
この秩序は必然的に、「男性が同じ男性に対して受動的であること」つまり男が“女”になることを最大のタブーとしますが、それ故にこそ、「男でありながら受動性=“女”を自分のものとして体現する」男性は「女以上に“女”らしい」ものとして受容されます。

馬鹿でない方にはもうおわかりでしょうが、前者は基本的に“異性愛”と呼ばれるものの基本的な図式であり、後者の「“女”を自らが体現する男」とは“同性愛”と呼ばれてきたものに本質的な関連を持ちます。(ここで「女性にも同性愛はあるじゃないか」とか言い出そうとした貴方は単なる馬鹿です。ホモ/ヘテロという区分を自己の主体化の為に大問題とするのは常に男性であり、本質的にこの区分自体が“男のもの”です。女性は「男の差別につきあう」形でそれを内面化=補完するのです)

そして、この“受動性”こそエロティシズムの享楽には欠かせないものであり、「私は能動的な女が好きなだけ」という言い逃れは通じません。
また女性にとっては上に述べた「男性のヘテロセクシュアリティの図式」を補完する「“女”であることを受け入れた女」であることしか許されておらず、「男を補完せず、また“政治的に正しい”とは評価されない性的ファンタジー」を持つことは侮蔑の対象にしかなりません。(“男同士”ファンタジーはまさしくこれに該当します)

繰り返しになりますが、だいたい“男同士”ファンタジーに対して“単品の女”(としか読めない)という反論になっていないものを持ち出してきているのが卑怯ですね。この場合、“男女”か“女同士”でなければ持ち出す意味は無いです。(たとえその場合でも「性的ファンタジーに道徳的ヒエラルキーを持ち込んで差別した」という噴飯物の性的人権侵害がより明示的になるだけですが)

つまり鷲谷氏が結果的にやったのは、「女のくせに、受動性を“女”として受け入れないのはけしからん。不健全である」という、「女の分際をわきまえろ」という最悪の意味での保守的な説教であり、より直接的には「女は女らしくするべきなのに、今時の女は生意気になっちゃって、同じ女として恥ずかしいですわ」という実にミソジニー的な“貞淑さ”のアピールです。
だいたい、「“正しい女像”に同一化できない女は不健全である」という使い古された差別的なテーゼを用いてフェミニスト面をするというのが信じられません。
「男同士というパターンの性的ファンタジーを持った生身の女性より、“スクリーンで活躍する女性たち”とやらに自己投影できる私の方が“健全”である」という浅ましい蔑視です。

また、彼女が言うような「潜在的にホモエロティックなホモソーシャルの映画」が最近になって急に出てきたという事実はありません。
変わったとすれば、それが「どうせ女向けの偽物」という実にホモフォビックでありミソジニー的な“安全化のラベリング”の対象になり、そのラベリングに基づいた(男性にとっては、あらかじめ余裕を持って侮蔑することを許された)“マーケティング”<>が行われるようになったというだけでしょう。

たとえば彼女が持ち出していた映画『ヴァン・ヘルシング』の原作はブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』ですが、この小説も含めた吸血鬼表象そのものが、近代以降の文学においては、同性愛の伝統的と言ってもいいほどのメタファーになっており、彼女自身もそれを知らなかったとは思えません。
(ちなみに狼は『吸血鬼ドラキュラ』の中でもドラキュラ伯爵の変身した姿として登場し、草稿の一部である短編『ドラキュラの客』では語り手とドラキュラ伯爵である狼との極めてホモエロティックな描写があります)

また映画『ロード・オブ・ザ・リング』とその原作『指輪物語』を比較すれば、フロドとその従者サムとの親密な絆が、ヘテロセクシャルな要素の大幅なクローズアップによってぼやかされ、(特に滅びの山の麓での場面のように)原作において感動的な場面に決定的に水を差しているのが見て取れます。

王となる宿命を背負ったアラゴルンとその仲間たちであるボロミアやレゴラスとの絆は、なるほど確かに原作よりも分かりやすくドラマティックに演出されていた部分もありましたが、同時にアラゴルンの婚約者アルウェンを、原作では彼女の出番でない場面において、他の男性キャラクターの見せ場を奪ってまで男勝りの活躍をさせたり、回想やテレパシー的な夢を挿入するという形で登場させて濃密なラブシーンを描いたりして無理に“ヒロイン化”しており、結果的に原作とは似ても似つかぬ「凡庸なホモソーシャル映画」に仕上げています。(ついでに言えば、監督のピーター・ジャクソンがアカデミー賞の授賞式で、フロドとサムの関係をゲイではないかという意見について、「ユーモアとしては買うがアイデアとしては買わない」といったホモフォビックな発言をしているそうです)

ちなみに原作者トールキンの描いた世界が『指輪物語』に限らず、特に『指輪』の前史にあたる『シルマリルの物語』においていかにクィアーなものだったかについては、「コーラ」に共著者として書いた拙稿をご覧ください。

映画の中の虚像としての女がどれほど“政治的に正しく、能動的に”描かれたところで、性的ファンタジーを持った生身の女性の解放には繋がりません。
また、「“正しい表象”の方を愛好できない女は間違っている」というフェミニズムの名を借りた道徳律に基づく抑圧は、いかなる場合においても正義ではありません。
それは保守的な性道徳の強化にしかなりえず、女性を萎縮させる効果しか持ちえません。女性をエンパワーメントするために必要なことの逆なわけです。「お前の道徳に承認されない正しからざる部分は“罪”なのだ」という脅しですから。

ホモエロティックなものがホモセクシャルな関係でもあるものとして明示的に描かれることが忌避されなくなり(男の“女性性”の忌避の解消)、それを生身の女性が享受することが蔑視されなくなった時(女性が性的なファンタジーを持つことの純粋な承認)には、世の中の“女性観”そのものが真に変革されていることでしょうが、その時にスクリーンにはどんな“虚像としての女”が映っているのか、それはその時代の人にしかわからないことですが、その時に生きている人たちなら──個々人のセクシュアリティともイデオロギーとも関係無く──みんなが知っていることでしょう。少なくとも「スクリーンでの素敵な女性達との出会いを求めて」などという空疎かつ実はミソジニーそのものの欺瞞的な文句が、その人たちの口から出るとはとても思えません。

とりあえず以上です。この長文をここまで読んでくださった方には感謝いたします。

──以下註釈および補足です──

とはいえ、この“マーケティング”にも果たしてどこまで実体があるものやら個人的には甚だ怪しいものだと思いますが。それなりに製作者側が念頭に置いていると思われるのは──それでも“男性向け”のセールスへの意識よりも優先順位は低いだろうと思いますが──日本のアニメ市場くらいじゃないでしょうかね?とても“グローバル”なものとは呼べません。
というのも、少なくとも欧米圏においては「男性同士のホモソーシャルな/エロティックな表象」の担い手および享受者の双方の中心は「狭義のゲイを含めた“男性”である」という前提は、それを愛好する側にとっても差別する側にとっても揺らいだことは無く、ましてや「“政治的な正しさ”を表明することを目的としない男同士の表象」は全て「女のせいにする」という態度がまかり通ることはありえません。
こうしたミソジニー的な責任転嫁の横行自体が“日本ローカル”な代物でしょうし、そうなった原因はまた今回の一件とは別の話になりますが、少なくとも女性の側には一切非はありません。

また「女性にとって男同士のエロティックな物語が魅力的である」ということ自体はおそらく普遍的なことですが、その社会的な意味づけは時代や文化圏によってそれぞれ異なるものであり、たとえば欧米のスラッシュ文化を指して「海外にもBL(やおい)がある」というのは、「江戸時代や古代ギリシャにも同性愛者がいた」と言うに等しい錯誤に過ぎません。

また鷲谷氏が持ち出していた他の映画も、彼女が作った筋書きを裏付けてくれるようなものとは思えませんでした。
チャン・イーモウの『LOVERS』の場合は(アマゾンのDVDのレビューでも指摘されてましたが)そもそも映画のストーリー自体が破綻しきっており、とても引き込まれるような出来ではありませんし、単に映像美をすべてに優先させているという以外に一貫したコンセプトは感じられません。当然男女の三角関係の話そのものも、女を取り合う男二人の間に特別な絆があるというものではまったく無く、鷲谷氏が自説の根拠にしていた剣戟のシーンも、単にヒロインの見せ場ではない(このシーン以前にいくらでもありますが)から舞台の端で待機させられているだけで、それに特別な意味は見出せません。ちなみに最後は唐突なヒロインの死と、彼女の亡骸を抱いて嘆いている主人公というお涙頂戴的な場面でおしまいで、ヒロインの存在が消されたまま終わる映画なんかでは全然ありません。というか、スタンダードにヘテロセクシュアルな映画だと思うのが普通でしょう。

『トロイ』の原典は言うまでもなく古代ギリシャの叙事詩『イーリアス』で、この中で語られているアキレウスとパトロクロスの友情の物語は“男同士の愛”のイコンとしてあまりにも名高いですが、言うまでも無く「腐女子が作った話」ではありません。そもそも古今東西の別なく戦記物や英雄譚の中心人物が男性であり、そこで展開されるのが友情やライバル関係といった男同士の絆や愛憎劇であるのは必然であり、女性が登場するのは“女”役割を担う物語の彩りに限られるというのは単に“イデオロギー”と呼ぶことは出来ない必然的なものです。単に女性キャラクターを活躍させればいいという問題ではありません。むしろ「男同士の絆のエロティシズムなんぞ見たくもない」といったホモフォビックな──必然的に本質としてはミソジニーなのですが──人物には歓迎される傾向にあるように思えます。「ちゃんとヒロインが活躍してたから腐女子が喜ばなくていい」といったような。つまり、安易に女性の存在を強調することは、「男性の“女性性”や同性愛」の排除を“健全”なものとして正当化しうるわけです。

「真に重要な場面からは締め出されるアリバイとしての女」は「親密な絆で結ばれた男同士がホモだと思われないために」というホモフォビアによってこそ要請されるのであり、「女との関係よりも男同士の絆の方が価値がある。ただし同性愛は認めない」という不文律を本当に“イデオロギー”として信じる/信じる必要があるのは男性だけです。「親密な男同士の関係」のホモセクシュアリティを女性が楽しむこととは関係ありません。彼女がそれを愛好しているのは「男同士の関係が魅力的だから」であり、「女が排除されているから」嬉しいわけでは当然ありません。

また、男性の登場人物や彼の同性との関係の描写の方が、女性の登場人物や彼女を対象とした異性愛の描写よりも優れていたり魅力的だったりする作品を鑑賞した時に、作り手の側を「監督がホモなんじゃないか?」とは言わずに「女受けを狙っている」と言うのは、二重にホモフォビックでありミソジニー的ですね。「同性愛男性を差別したと思われるわけにはいかないが、同性愛的な表現は気持ち悪い(もしくは気に食わない)。だが女のせいにすればいくら叩いても問題ない」というわけですから

ただ、上に書いたのはあくまで『イーリアス』について当てはまる話であり、『トロイ』の場合、アキレウスとパトロクロスの関係についてはろくにスポットが当たらない軽い扱いしかされておらず、重きを置かれているのは原典には無いアキレウスとトロイの王女とのラブストーリーや、時代錯誤な趣すらある、健全なヘテロセクシャルな夫婦(トロイの王子ヘクトルと妻アンドロマケー)を中心としたトロイ王家の“家族愛”であり、まったく“男同士の愛”についての話ではありません。早い話が「健全かつ陳腐なヘテロセクシュアリティを描いたストーリー」と「規模は大きいが『ロード・オブ・ザ・リング』の二番煎じの感が拭えない合戦シーン」を見せるためのものでしかなく、鷲谷氏がこだわっていらっしゃった“女性の扱い”については「原典とは比べ物にならないくらい重きが置かれた“健全”な描写をされてるじゃないですか?」としかお答えのしようがありません。

また、単に「主役級である男の俳優が格好良くセクシーに演出されている」ことと「男同士の愛が描かれている」ことはまったく別の話で、つまり『トロイ』は前者には当てはまっても後者には当てはまるとは全く思えません。

『ヴァン・ヘルシング』も実のところ単にクリーチャーの造形や特撮CGを用いたクリーチャー同士の闘いがセールスポイントの娯楽映画であるという必然から製作されているという印象が強く、鷲谷氏が「腐女子目当て」で演出されているように言っていた要素も単に「その場での演出」に止まっており、ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』やその草稿の一部である短編『ドラキュラの客』のような、テーマの表出として必然的に存在するホモエロティシズムではありません。

つまり、彼女は最初から「映画そのものが“女性向け”に演出されている」という自分の結論に都合のいいバイアスのかかった説明をしようとして、実際には単にヘテロセクシュアルな物語であるもの(『LOVERS』)や、男の監督自身はホモエロティックな演出を避けたがっていたが、原作にあるそういった要素が物語の構造と不可分であったために結果的に残ったもの(『ロード・オブ・ザ・リング』)
題材に選んだ時点でホモエロティックな雰囲気になるのは必然的でありながら、時代錯誤ですらある“健全なヘテロセクシャル”的な脚色がされたもの(『トロイ』)
伝統的に同性愛のメタファーとされるモチーフを生かした演出がされたシーンは当然ホモエロティックにも見えるに過ぎないもの(『ヴァン・ヘルシング』)
といった、まるでバラバラの内容である上に実はどれ一つとして彼女の主張したがっている結論の証拠にはなっていない映画を、あらかじめ決まりきった結論のために利用したわけで、これは証拠の捏造に等しいです。

鷲谷花批判「女性嫌悪のイデオロギーが公然と息を吹きかえしていた」のか?(下)へ
[PR]
by kaoruSZ | 2010-11-11 00:45 | 批評 | Comments(0)