おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

カテゴリ:批評 アルシーヴ(文学)( 7 )

【古いのが出てきたので載せておく。これは活字にならなかった。】

高橋康也編 『シェイクスピア・ハンドブック』(新書館)


 十五人の執筆者による百十の項目から、ここでは真先に目を引いたいくつかを取り上げることにする。まず、〈詩〉(大橋洋一)。『ソネット集』後半に登場する「ダーク・レイディ」を詩人の実生活上の情人と見なしながら、前半での美貌の貴公子への讃美と愛情の吐露は、パトロンに対する当時の社会的・儀礼的慣習にすぎぬと注釈するあまたの学者[サヴァン]のあとで、「ダーク・レイディ」との関係は「前半とのパトロンとの関係を性欲化、男女関係化したもの」、つまりは後半が「前半の同性愛関係の異性愛による偽装」でありうるとの指摘に出会うのは何という快い驚きであることか! 第三のジェンダーたる「少年」への欲望。だが、もしいま作者が生きていたならばこれを少年愛とは限定せず、「異性愛批判とゲイとレズビアン共同体との関係として描こうとするにちがいない」と大橋は言う。当時と現代のジェンダー観の違い、その帰結としてのジェンダーの脱自然化(さらには性[セックス]そのものが構築されたものであることの示唆)、現代のゲイ・レズビアン批評(「Q[クイアー]批評」)とシェイクスピアとの関連等への言及を含む、〈現代批評〉(大橋)、〈ジェンダー/フェミニズム〉〈セクシュアリティ〉(以上、浜名恵美)の項をぜひ読まれたい。異性装、同性愛、両性具有――「いまQ[クィアー]批評は、本格的な考察から外されてきたこうした側面を強烈に照射しはじめている。来るべきクィアー・シェイクスピアの出現に向けて」(大橋)。「シェイクスピアの新たな解釈と上演は、異性愛を当然視している多くの人々を認識の危機に直面させる」(浜名)ことができるだろうか?
(1995)
[PR]
by kaoruSZ | 2007-05-03 14:44 | 批評 アルシーヴ(文学) | Comments(0)

愛の感染

 アン・ライス『ヴァンパイア・レスタト』
 (柿沼瑛子訳・扶桑社ミステリー・上下巻) 

 七年前、『夜明けのヴァンパイア』に思いがけず見出した、当時としては稀なゲイ・テイストに、ひそかな渇きを癒した向きも多かったに違いない。今日ライスが隠れもない「ゲイ・メイル・エロチカの女王」(ジョン・プレストン)であることを私たちは知っている。続篇の役者が柿沼氏であることも、さこそと人を頷かせよう。状況の変化に目を瞠るためには、レスタトのように数十年も地下に潜る必要はないらしい……。そのレスタトが、今度は自らその来歴を、前作では明かすことのなかった、ヴァンパイアの起源と歴史を語り出した。とはいえ、すべて謎解きというものがそうであるように、どこかで聞いたようなそれらの話は、面白いといえば面白いし、退屈といえば退屈だ。古代エジプトにまで彼らの高祖を遡らせる、ライスのこの力業は何ゆえか。むろん、キリスト教の呪縛からヴァンパイアを自由にするためだ。かつてそれは死を感染させるものであった。
 だが、ライスのヴァンパイアは、愛する人間との体液の交換によって仲間を得る。父あるいは母との同一化(性別の受け入れ)による生殖=再生産ではない、水平的な愛の感染。男あるいは女である(生まれた子供たちについて真先に尋ねられることだ)エディプス的な子供たちを再生産する家族に対し、レスタトは死の床にある実の母をヴァンパイアにすることで、女としての忍従の生から解放する。息子によって産み出されるというこの逆縁によって誕生した、年齢も性別も横断した母は、初めての獲物から奪った服で少年に変身するのだ。だが、皮肉なことに、永訣をまぬかれた者たちが、不滅の生の途上にあって互いの消息すら知ることのなくなる時がやってくる。
 だがどうして永遠の太陽を惜しむのか、もしぼくたちが神聖な光の発見にたずさわっているとしたら——季節の上に再生産する人々からは遠く離れて
 少年詩人の地獄めぐりの幕切れの大見栄を少しばかり変形させたこの文句こそ、彼らにふさわしいものだろう。
(初出「幻想文学」43号、1994/最終部加筆2005)
[PR]
by kaoruSZ | 2005-04-03 23:14 | 批評 アルシーヴ(文学) | Comments(0)

魔法が解けたあとに

 スティーヴン・ミルハウザー『三つの小さな王国』(柴田元幸訳・白水社)

  二十年代の漫画作家を主人公とする「J・フランクリン・ペインの小さな王国」ほか二篇からなる本書で、〈万人に受けるタイプではない〉(訳者あとがきより)ミルハウザーの邦訳も、『イン・ザ・ペニー・アーケード』以来、すでに四冊を数えることになった。自動人形、博物館、ゲームといった彼のおはこが誰に〈受ける〉かと言えば、それはまず子供たちであろう。しかし、かつては驚異の目で眺めたものも、年月を経て再びめぐり会った時には、子供時代の魔法が解けたペニー・アーケードのように、昼の光の下でガラクタと化す危険性をはらんでいる。大人の鑑賞に堪えうるには、より巧緻で精妙な詐術、そしてより長時間の骨の折れる労働が必要だ(四分間のアニメーションに必要な四千枚のドローイング!)。単に白地に引いた黒い線にすぎぬもののための、彼を理解しない妻や雇い主からも、彼の作品に感嘆しつつも分業化、機械化を勧める友人からも離れての、フランクリン・ペインの孤独な手仕事、それは幼年時の魔術的な対象を再び見出すために通らねばならぬ迂回路で、その果てにあるのは、夜を迎えて目覚めたおもちゃが動き出し、人形が巨大化して人気の絶えた都会をさまよい、そして元に戻って朝を迎えるまでの、魅惑の数分間だ。幼い日、フランクリンは父の暗室で、白紙の上に浮き上がっててくる幻像こそが世界であると知った。ミルハウザーがフランクリン・ペインの緻密さで、架空のアニメーション、絵画、博物館(そしてもちろん物語)を記述する時、言葉にその指示物が取ってかわり描写が不要となる——映画の原作となることで消費されてしまう小説のように——ことはけっしてない。それはいつまでも白地に浮かぶ黒い染みでありつづけ、彼のページを開く者を、ひととき不滅の王国に招き入れる。
(1998)
[PR]
by kaoruSZ | 2004-09-22 17:28 | 批評 アルシーヴ(文学)
 『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』
  (浅井編訳、久保訳・ちくま学芸文庫)

  新訳によるベンヤミン選集最終巻の白眉は、何と言っても「一九○○年頃のベルリンの幼年時代」だろう。六十年前に書かれた異国の、当時でさえすでに過ぎ去っていたこれらの断章、これらの細部は、なぜかくも心騒がせあるいは心に沁みるのか(「二十世紀の到来とともに滅んでしまった」パノラマ館が、最後の顧客となった子供に呼びさましたのが、見知らぬ国への憧れではなく、家郷へのそれであったように?) 幼年時代を照らした月が昼のベルリンの夢の空に君臨するとき、それは逆説的に、幼年期の終りを告げるものとなる。地球が引き裂かれ、あらゆる物が彼方へと連れ去られようとするカタストロフの中で子供は目覚め(夢の方は、「終着点を見逃して」持続したにもかかわらず)、「子供の私が経験してきた月の支配」が「私のこれ以後の全生涯にわたって崩れ去った」ことを知る。夢は終らないのに子供は目覚めてしまった。終ることのない幼年期は、以後、たとえば「字習い積み木箱」の中にひそみ、追放された人はペンを片手に過去の方へ身をかがめ、「手が枠のなかに文字を押して言葉になるように順々に並べた、その指使いのうちに」全幼年時が横たわる、と(そのようにして覚えたわざで)書きつける。文字と指の記憶は、だが本当はたんに「この感じ」としか言えぬ、本来名づけえぬ、私たちには知りようがなく彼とともに滅びるより他ないものだ。しかも、積み木箱は幼年時代と一体であったとしても、そうやって文字を再び学び直すことはもはや彼自身にもかなわない。この二重の隔たりのうちになおも喚起しようとするいとなみこそが書くことだという徹底した自覚、それがこの作品を、著者自身の控えめな予測通り、大都市で過ごされた幼年時の記憶の原形たらしめている。
[PR]
by kaoruSZ | 2004-09-22 17:26 | 批評 アルシーヴ(文学)

壁の中の本

 H・P・ラヴクラフト『夢魔の書』 (大瀧啓裕編訳・学研)

 夢をめぐる手紙と作品で編まれた本書を読んで改めて思うのは、HPLには大人になる前に出会いたかったということだ。子供の頃、家の奥に思いがけず本で一杯の戸棚を見つけた時、どうして彼の書物はそこに入っていなかったのだろう?
 しかし私は知っていたのだった、眠りが夜毎私を連れ去る、なじみ深い、私がそこでは別の形態の下に存在し続ける、自分は本当はそこに属するのだと感じられる実在する夢の国を。そこでは私は別の物語を生きていたし、生きたことがあった。そしてそう知った後では、もはやこの両親の子であるという物語は、無数の夢の中の一つの夢にすぎなかった……。
  未知なるカダスを夢に求めて。だがそれが、つねに既知のものであり、覚醒時には思いもよらない結びつきが異様な見かけを作り出しているのであることに、彼は極めて意識的だ。彼は夢のヴィジョンについて友人に熱っぽく書き送り、同時に、絵だったり、文字という極めて親しい「他」だったりする出典を明かして、小説の結構としては自分が信じているわけでない転生や、記憶の遺伝という説を採るのだと語る。彼は夢で虚空に飛び込み海底の砂に埋もれた都市に至る。私の中の私の外には星空が拡がり宇宙がある。それは私の死をも無視して存在しつづけるだろう。ある時は壮麗な都セレファイスとして、またある時は廃墟に刻まれ読まれるのを待つ文字として。
 久しぶりに生家に戻ってみると、戸棚と思っていた場所は壁で、誰も蔵書のことなど覚えていない。もはや内容もさだかでないあれらの本は、読んだこと自体が夢だったのだろうか。それとも、失われた物語にはその後世界の中で見出すことになった夥しい書物のどこかで、そうとは知らず再び出会っているのだろうか。(初出『季刊 幻想文学』1996)
[PR]
by kaoruSZ | 2004-09-22 17:25 | 批評 アルシーヴ(文学)
 松浦寿輝『もののたはむれ』(新書館)

 優れた詩人、仏文学者、評論家の初の小説集。綺譚・怪談の形を取ってはいるが、ほどよい恐怖とエロティシズムに浸透された抑制のきいた文章は、おどろおどろしさとはおよそ無縁だ。とはいえ、無にかむせられた仮面のようにその裏に何一つ存在しない端正な文体は、なまな阿鼻叫喚よりよほど恐しい。他人の家の二階座敷に上がり込んだような奇妙な喫茶店で過ごすひとときも、宝石でできた性器を持ち、J・G・バラード写しの終末後の浜辺でテントに横たわる少女娼婦も、何年経っても童形のまま将棋の相手をしてくれる小学生も(そしてあなた自身も)、「本当は僕はいないんだよ」の一言で消滅するだろう。新宿副都心からタクシーを走らせて降り立った南千住で、自分の人生もまた迷い込んだ映画館で見た雨降り映画と同じ幻であり、その映画館自体二度と見つかるまいと悟る老人は、この世界の構造そのものを会得したわけだ。ここでは本物の老人に身をやつしているが、また、女性と同性愛者の男性が各々主人公のものが一つずつありはするが、基本的に、展開されるのは人生の半ばに至ったあからさまにヘテロセクシュアルな中年男の幻想だ(従って、女嫌いのイデオロギーにもこと欠かない)。「腐敗しうるものだけがうつくしい」という美しい言葉が開く新生[ヴィタ・ノーヴァ]。吉田健一の晩年の作は、著者が先行作品として意識したに違いないものの一つだが、その吉田は、「人間にいつから文学の仕事が出来るかはその余生がいつから始るかに掛つてゐる」と書いていた。その意味で、現実の作者が幾つであろうとこれはすでに余生の始まった者の仕事であり、「その輝きを思ふならば若いものが若さを謳歌し、未熟な人間がその未熟さをさらけ出したものなど読めなくなる筈」なのである。(初出『季刊 幻想文学』1998)
[PR]
by kaoruSZ | 2004-09-22 15:08 | 批評 アルシーヴ(文学)

蛆虫の無方向的な運動

ミシェル・レリス『ゲームの規則 ビフュール』(岡谷公二訳・筑摩書房)  

 夏休み、両親に連れられて入った食堂に、驚くべき文字が掲げられている。「生[いき]ビールって何?」子供は尋ね、即座に思い違いを正される。だが、そのほんの一瞬、泡立ち、震え、動き回り、笑ったり喋ったりするのかもしれない黄金[こがね]色の液体の怪物は確かに存在したのだ——生きているビール。「マドレーヌのように泣く」(註) という成句が、「泣くお菓子とか、段になっている部分に液体が滲み出ているお菓子」を想像させたという本書のくだりに触発されての、私的な回想を許されたい。こうした記述には(かの有名なマドレーヌ同様)、読者をむしろ読者自身へ、記憶の中の類似の経験へ向かわせる作用があるかもしれない。子供だったことのある誰にも覚えのあろう、ありふれた体験。だが、ミシェル・レリスのように、言葉遊びと言うにはあまりにも真剣に——子供の遊びのように真剣に——生涯、透明なコミュニケーションを躓かせる言葉のなまなましい手触りに、ひたすらこだわりつづけた人はめったにいない。幼い彼の肉体から叫びや笑いのように発せられた音声が、実は単語の一部であり(それゆえ正しくないとされ)、他の人々の文化に属するという発見の挿話で本書は始まる。レリスは幼年時代を特権化しはしない。その時彼は無垢だったのではなく、すでに言語の中に生まれ落ちていたのだから。彼は「正しさ」を知り、大人になるが、意味を生じさせる魔術的なこの力を、かつての自分と言語をめぐる際限のない記述に使うのだ。いや、「かつての」と断わる必要さえ本当はないのだろう。幼年時代があり成人した今があるがそこに隔たりはない。成長はなく、ただ滲み出る液体を滴らせながら這い回る蛆虫の無限の運動があるばかりだ。

 さめざめと泣くという意味。マドレーヌとはマグダラのマリアのこと。


(初出『季刊 幻想文学』)
[PR]
by kaoruSZ | 2004-09-22 15:05 | 批評 アルシーヴ(文学)