おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

カテゴリ: (性、フェミニズム)( 8 )

性という症状

 フランセット・パクトー『美人—あるいは美の症状』 
 (浜名恵美訳・研究社)

 美人といえば女。男はみんな美人が好き。女なら誰でも美しくなりたい。美しく装うのは女の特権(にして義務)。「男だってきれいになりたい」?——だが、男でさえそう主張するとしたら、女はますます、美しくあれという命令から逃れられないわけだ。
 美の担い手とされる女性は、だが実際には(当然のことながら)、若くて美しい人ばかりではない。たとえそうであったとしても、そうであり続けられる女は一人もいない。
 とはいえ、現実の女と非現実的な表象とを、単純に対立させるつもりはない、とパクトーは言う。歴史的・文化的な美の基準の多様性も、すでに知られた、言い古された事実であるから、そう主張して、男の押しつけでない 別[オルタナティヴ]の美を探ろうというのでもない。著者の関心は、美の帰属する対象よりも、美を何かに帰属させる行為自体に、それを美と見なす人の目が結びつけられている心的装置に、すなわち、そのもとになる幻想[ファンタズム]に向けられる。
 原題は“The symptom of beauty”で、これは「美という症状」と解しうるだろう。巻末の術後解説によれば、精神分析でいう「症状」とは、病気の表現ではなく、〈無意識的幻想の現実化〉の謂であるが、自分が他者にとってイメージであることを否認する男性の異性愛——著者に言わせれば、なぜ女性は自分のイメージにとらわれるかということよりも、むしろこちらの方が問題だ——を病気と考えるなら、女性に美を帰属させる男性の行為を病気の表現と見なしたとしても、あながち的外れではあるまい。この病理を幼児の発達心理によって解き明かす、といえば精神分析的読みの常道だが、多彩なジャンルの女性表象をめぐる議論は、単純な図式に還元されるものではなく、読み味わうに足る見事なものだ。
 最後に著者は、幻想の自己愛的次元、到達できないイメージとして生きられる女性のナルシシズムに筆を進めるが、そこで確認されるのは、そもそも男女どちらの子供にとっても、〈主体〉とは、鏡の中の他者として見出されたイメージ以外のものではなかったという事実である。(初出『季刊幻想文学』)
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by kaoruSZ | 2004-09-24 10:05 |  (性、フェミニズム)

ゾウリムシの性は?

 田崎英明『ジェンダー/セクシュアリティ』
 (岩波書店〈思考のフロンティア〉シリーズ)

〈用語〉は役に立つ。もはやジェンダーやセクシュアリティという語なしではやっていけないと私たちは感じている。そうした言葉がなかった(少なくとも知られていなかった)時代にも、「性について語る」とか、「性を考える」とかいうテーマは確かにあった。しかし、そこで扱われていたことは、要するに、男/女という、相容れない、かつ相互補完的とされる二項の関係と、生殖が目的でないときでさえ生殖行動を逸脱することのない行為ではなかったか。
 フーコーの『性の歴史』(表題の「性」は、原題では「セクシュアリテ」)の翻訳が出た頃、「セクシュアリテ/セクシュアリティ」は、「性」や「性現象」のルビとして見かけることはあっても、単独で使われることはあまりなかったと思う。ロラン・バルトの著作では、「セクシュアリテ」は、あっさり「性欲」と訳されていた(『恋愛のディスクール』の抄訳が雑誌に載ったとき、私はまだバルトを知らず、どうせ男と女の話だろうと思って、出会いそこねてしまったのだけれど)。フロイトの『性欲論』に由来するものだとのちに気づいたが、この訳語のさりげなさと清々しさはバルトにふさわしかった。(余談だが、「性慾」という旧い表記はなぜかいやらしい。「心」が入っているせいだろうか。)
 セクシュアリティとは何か。その昔、私がはじめて目にした定義らしきものは、確か、「男が男であるすべてのこと、女が女であるすべてのこと」というものだった。たぶん、ポイントは、「すべて」というところにあったのだろう。器官の違いによる性別と、その器官による性交で完成される行為を単に指すと見なされていた——要するに下半身の問題とされていた——性(セックス)に対し、それを越えた広がりを持つものとしてのセクシュアリティ。当時としては、十分進歩的な考えだったはずだ。しかし、「男が——女が——」という表現を前にして、私はその先を読む気が失せてしまった。なぜそこで、改めて男女の別が言い立てられねばならないのか。「女が女であること」と言うとき、そこで意味ありげに強調されるのは、女の性が生殖のために組織されている(いるかに見える)ことではないだろうか。自身「女」として分類されていながら、「女が女であること」(とされていること)の中に、当時私は——当時には限らないが——自分にとって切実なものを何ら見出せないでいた。いくら「すべて」と言われても、と私は考えた。「女」として一くくりにされてしまうのだったら、これは私に関係のあることでは全くない。
 そして今、誰もが「セクシュアリティ」と口にする時代がやってきた。今なら、「女が女であるすべての」うんぬんという表現について、最初の「女」は生物学的セックスとしての女であり、あとの「女」はジェンダーとしてのそれだと、指摘することもできよう。セクシュアリティをジェンダー化するのか、ジェンダー横断的なセクシュアリティは考えられないのかと、問うことも。そうしたことはみな、現在行われているような、「セクシュアリティ」や「ジェンダー」という言葉の使い方によって可能となったのだ。

 役に立つ〈用語〉はまた、それ自体が、人を束縛する規範にもなりうる。私が『ラブリス』[レズビアンとバイセクシュアル女性のためのミニコミ誌]の読者になって驚かされたのは、「自分のセクシュアリティが(まだ)わからない」、と発言する人の多さだった。最初私は、この科白が何を言わんとしているのかがさっぱりわからなかった。そこまで自分の身体について、何も知らないということがありうるのだろうか? その後、直接会った人の口からも同じ言葉を聞いたのち、さらにしばらく経って、ようやく、彼女(たち)が悩んでいるのが、自分はレズビアンかバイセクシュアルか、それとも本当はヘテロセクシュアルなのか、ということだと気がついた。どうやら、私の知らないうちに、「セクシュアリティ」とは、対象選択の(対象のジェンダーの)問題になってしまったらしかった。しかも、三つのうち(といっても、ホモ/ヘテロの二分法が前提である以上、本当のところは二つの要素があるだけなのだが)、どれに自分があてはまるのかが、緊急に解決すべき課題と感じられているらしかった。
 もちろん、それが重要でないわけではないし(とりわけ、相手が異性であることが自明であるとされているときに、同性である場合には)、そのことが最大の問題である人たちがいるのは理解できる。それにしても、誰もが同じ悩み方をしなくてもよさそうなのものなのに。
『ジェンダー/セクシュアリティ』において、「セクシュアリティを、分類に基づく集団への帰属の原理とは見なさない」と言明するとき、田崎英明はこのような立場の対極にいる。「セクシュアリティは、「自己」の存在に関わるのであって、人間の分類に関係するのではない」。田崎の言うこの「自己」とは、社会化された「私」とは別のものであり、同じく、「セクシュアリティ」は、外部との関係で規定されるものではない。外部にさらされた「私」(自我)の生を、田崎は「動物的生」と呼ぶ。「動物的」、と言っても、それに対置されるのは「人間的」生ではなく、他者を知らず、自己のみを享受する、自らを養い、老いによってなされるがままになる、「植物的」、「栄養的」、「内在的」な生だ。『ジェンダー/セクシュアリティ』という本は、〈用語〉の意味を「正しく」知りたいと思って開いても、役に立つことはたぶんない。最初の章は、「理論的、マゾヒズム」と題されていて、この表題自体畸形的なものだが、読んでみればすぐに、そこで言われていることが、通常の意味で「理論的」だったり、「マゾヒスティック」だったりするわけではないことがわかる。そうした言葉に彼がどういう「社会的意味づけ」ならざる意味を与えているのか、その意味づけに、辛抱強くつきあう(でなければ本を投げ捨てる)しかない書き方で、『ジェンダー/セクシュアリティ』は書かれている。

 最近のベストセラーからも窺えるように、生物学、解剖学を男女の違いの根本に据えるのは、動物の性行動で人間のセクシュアリティの説明をするのと同じくらい、人気のあるやり方た。自分の思い込みを再確認して安心したい人が多いのか、たとえば、男と女では脳が違うと言われると、妙に納得してしまうようなのだ。しかし、田崎が生物学を引き合いに出すとき、それは見慣れた風景には少しもつながらず、彼の考察が彼らを安らかな気持ちにさせることはけっしてあるまい。彼が持ち出すのは、細菌のセックスだ。セックスと言っても、細菌に雌雄の別はないから、性別の意味ではない。また、分裂で自らのクローンを増やせるのだから、生殖行動の謂でもない。それは遺伝子の交換であり、端的に言って、老いに抗して個体が生き延びるためのものである(昔、ゾウリムシの交接について澁澤龍彦が書いていた、美しい文章を思い出す人もあるかもしれないが、残念ながら、ここで田崎が挙げている細菌の仲間には、ゾウリムシは入らない——細菌は単核細胞生物であり、ゾウリムシは人間同様、真核細胞生物なのだそうだ)。
 田崎が引用しているリン・マーグリスによれば、生物学的に言って、性とは、「二つ以上の源泉に由来するDNAの組換え」のことである。紫外線によって受けたDNAのダメージの修復を、マーグリスはセックスの起源と見ている。セックスはそもそも、生殖を目的とするものではなかったというわけだ。セックスの前と後で、いわば「別人」になってしまう単核細胞生物のセックスに、田崎は「個体化」を見る。自分に似たものから生まれ、自分に似たものを産み出す、同じものの存続のために存在する——個体をDNAの乗り物と見なす物語はその変形だ——個体、つまり「種」につらなる個体ではなく、親と似ても似つかぬものに突然なってしまう、「種」に分類されえぬ個体。

 社会とは、そこにやって来た者に、有無を言わさず、規則を(ローマ人ならローマのやり方を)教え込もうとするものだ。たとえば、そのようにして、人は男/女に分けられるのだし、言説を通じて性的主体に構成されもする。男性性器と女性性器という器官の差それ自体は目に見えるものだが、非可視的な、言説という装置に組み込まれることで、それは、非器官的な、性的差異となる。このことを、人間のセクシュアリティは器官的生から引き剥がされている、と田崎は呼ぶ。百年前にフロイトがパリの病院で見た、ヒステリー患者たちのことを思い出してみよう。器質的異状が認められないにもかかわらず、彼女たちは器官の障害を訴えていた。彼女たちの烈しい発作は、非器官的な生の可視化として、見る者を圧倒した。しかしフロイトは、田崎によれば、非器官的な生が器官を偽装するこの可視的な領域から去り、非器官的な領域へ——言語の方へ——移行したのである。
 人を、「私」に、よく統御された性的主体にするのが、社会的意味づけによって器官を装置に馴致させる言説であるとして、それより他の言語のありようは、考えられないものだろうか。「言語を装置とは別の平面に展開できないものだろうか」、と田崎は問う。それは「言語のゼネスト」、「言語に対する「私」の支配権の放棄」になるだろう。「言語を、誰もけっして、「私」のものとは思えないように使うこと、誰が読んでも、「これは私の言語ではない」と呟くことしかできないように用いること」。そのような言語を夢みて、『ジェンダー/セクシュアリティ』は書かれている。「社会」に属する「私」たちは、新参者に教えを垂れ、自分と同じようになれと命じる。それに対して、「自己」は、新しく来た者に誘惑され、それまで来た道を踏みはずす。このような「自己」によって構成される開かれた「共同体」の概念を、田崎は、前述のような言語の可能性に結びつけている。
 モーリス・ブランショの読者なら、「私」のものではない言語(「ワレ話ス、故ニ我在ラズ」(ブランショ))や、共同体(「明かしえぬ共同体」だ)をめぐるこうした思考に、ブランショのこだまを聴くだろう。事実、ブランショの名は、本文にも、巻末の文献案内にも現われる(別の書き手の読者なら、別の名前を思い浮かべるだろうが、残念ながら、挙げられた名前のかなりの部分が、私には未読だったり、未知であったりする)。とはいっても、出典、影響関係、系譜が問題なのではない。どんな先行者の影響下にこれらの思考が養われたかは、読者の知識の多寡によって、ほぼ察しがついたり、皆目わからなかったりしようが、正しい血=知を受け継ぐことは、これまでの話の流れからも、もはやそれほど重要だとは思われまい——不意に、潜在的な遺伝子のあらわれのようにして、由緒正しからざる記憶をまとい、誤読のように個体化した、それ自身が非器官的な生の実践たらんとしているこれらの言葉に触発され、自らもまた思いもよらぬものに変わることに較べれば。
「共同体は、新しい者に誘惑され、学ぶ」。同化すべく待ち受ける社会へと個体が到来するのとは反対に、「共同体の方が個体のもとに到来するのだ」。読者もまた、ここに提示された「知」を受け入れ、学び、正統的につらなる(ある意味ではずっとたやすいことだ)よりは、それぞれのやり方で、これらの言葉を自らに〈到来〉させるべきだろう。

 田崎が巻末の文献案内で紹介している、男性同性愛者とフェミニズムの共闘に対するデ・ラウレティスの意見というのが面白い。彼女は、「ゲイの男性と異性愛フェミニストが手を結んで、レズビアンの欲望の問題を排除している」と、厳しい批判をしているのだそうだ。“Gay Studies meets Feminism”と題された催しで、なぜ壇上にディスカッサントとしてレズビアンがいないのかと聴衆から問われた上野千鶴子が、フェミニズムはそのはじめからレズビアニズムと出会ってきたと弁明したことを思い出してしまった。アメリカでの運動はいざ知らず、日本でそう言うのは苦しくないだろうか。日本では今なお、女役割を逸脱しようとする女は、女としての幸福を欠如させているがゆえに男(むしろ中性)になりたがっている女たち、男女間のエロスも理解できぬ存在なのだ。ヘテロセクシュアルのフェミニストでさえそう思われかねないのだから、フェミニズムにレズビアニズムが——レズビアンの欲望が——何の関係があるのか、マジョリティには想像もつくまい。最近、新聞の書評で、書評者がフェミニズム=「男女平等」と思っているらしい記述に出会った。しかも、二十一世紀には「男女平等」はますます重要な課題になるのそうだ。その理由はと言えば、少子化だの、女性の社会進出だの……いったい何の話だ(とはいえ、その程度のことを言う人間は、思えばまだましな方なのだった)。
 しかし、粗雑な議論にいちいち反論するのも、結構エネルギーを要するものだ。馬鹿にばかりつきあっていると馬鹿になる。その意味からも、たまには、『ジェンダー/セクシュアリティ』のような本をじっくり読むのはおすすめである。
                     
(初出“LOUD NEWS” 2000.12)
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by kaoruSZ | 2004-09-22 15:04 |  (性、フェミニズム)
 鳴原あきら「幻の“ままの”朱い実〜石井桃子の自伝的【カムアウト】
 小説を読みとく〜」 
(女性学年報 vol.23  オルタテナィブ)


 高名な児童文学者が八十を越えて上梓した、〈自伝的〉と呼ばれる小説に「カムアウト」の名を冠すること、それは作者が夭折した友人と分かち合った青春の形見である作品に対する、挑発的と見なされうる行為でしょう。鳴原あきらはなぜあえてそんなことをするのか。それは、そうでなければ、名指されぬままの女同士の関係は、ここでもまた、異性との恋愛に至る前段階として見過ごされかねない—— 一般読者によってのみならず、鳴原さんがこの小説を読んでもらいたいと熱望する読者、すなわち、愛する女性と共に生きようとする女性たちによってさえ——からにほかなりません。

「恋愛かと見まごう友情」という言葉を批評家から誘い出しもする、石井桃子著『幻の朱い実』。そこに描かれているのが、しかし、〈本当に恋愛である〉とはけっして思われないのはなぜか。そう問いかけることによって鳴原さんは、「構成と結末は褒めることができない」が、明[はる]子と蕗子という二人の若い女性の友情を描いた前半は「それを補って余りある」という読売文学賞の選評をはじめとする、この作品への評価が「幻の“ままに”」しつづけているものを明らかにします。

 小説の褒められなかった「結末」とは、次のようなものです。今は年老いた明子は、新宿御苑で見つけた貧弱な烏瓜の実を前に、亡き友・蕗子の家の門口になだれ落ちていた烏瓜について、「こんなものじゃない」、「見せたかった、そういうものも、この世の中にあるんだってこと」と自分の娘に向かってかきくどく(鳴原さんが指摘するように、この時の娘の反応が異様です)。なるほど、これでは「褒めることはできない」でしょう。いや、そもそも選者たちにはこのやりとりが理解できず、「パパや私たちのことも忘れないで」という娘の呟きなど、読まなかったことにしてやり過ごしてしまったに違いありません。

 この小説を読んで、夫を看取り、仲のよい娘のいる、七十を越えた老婦人が、夭折した友人になぜそれほど執着するのかと、本気でいぶかしむ人たちがいる——たぶんその方が多数派である——ことに、鳴原さんの論を読むうち、私ははじめて気づきました。蕗子が巻頭、門の烏瓜を指して言うとおり、「あの美しさが見えない人には見えない」のですね。滝のようになだれる烏瓜の実の豊かさと、朝の体操の時間、見学する蕗子の目前でほどけ、波うつ明子の髪——「あそこの先生たち、そういうことわからないのね」。女学生時代の明子の髪について、蕗子が笑みを浮べてそう断言するくだりを読みながら、なぜ人は、なおも「先生たち」に倣うことをやめないのでしょう。行間に潜むもの——まして、フィクションの背後にある〈事実〉——などではなく、まぎれもなくそこに書かれてある言葉へと、鳴原さんの平明にして犀利な分析は私たちの目をひらかせてくれます。  

                                             (初出「LOUD NEWS」 2002)
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by kaoruSZ | 2004-09-22 15:03 |  (性、フェミニズム)

あなたのセックスは……

 松尾寿子『トランスジェンダリズム』(世織書房)

 埼玉医大が反対の性(だがそれは本当に反対なのだろうか)への変更を望む人への手術を医療行為として認めると発表した際、以前からこの問題を調べていた本書の著者は、彼らを治療を必要な病気と説明する記者会見にかすかな違和感を覚えるが、それは発表を受けての報道がもっぱらその点を強調するのを、さらにはあまりにも不正確なコメントを見るに到って決定的なものとなる。「理解が遅れている」日本では混同されがちだが違う、と大新聞に決めつけられた「ニューハーフ」に、欧米のトランスセクシュアルや医療関係者に、そしてインターセックス(半陰陽)の人々に著者は取材を重ね、そして成ったのがこの本である。
 なるほど病気なら、あなたや私には何の関係もない少数の例外者の問題だ。だからといって、本人の責任外のことで苦しんでいる人の不幸が取り除かれるのを妨げる権利は誰にもあるまい。本来の性別に戻りたいというだけで、結局は男女どちらかに納まるわけだし。
 では、それには納まりきらない子供が生まれてきたらどうだろう。彼らを書類上のみならず肉体的にも明確に二分しなければと考える人々がいる。挿入可能なペニスか、さもなければ十分に深い腟を。性感を有する組織を切りとってでも、男あるいは女として通用する異性間性交可能な身体にしなければ。これをおぞましいと感じるなら、それはあなたや私が誕生以来男あるいは女として作られてきたのと同じおぞましさだ。外科手術で性を変えたいと願う人々が病気とされねばならなかった理由は今や明らかだろう。彼らの場合と同じくらい私たちの性別もまた虚構のものであることを忘れるために、彼らは病気と呼ばれねばならなかった……。

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by kaoruSZ | 2004-09-22 15:01 |  (性、フェミニズム)

性別化される身体

 トマス・ラカー『セックスの発明』 (高井宏子、細谷等訳・工作舎) 

 もし性別[セックス]が、発明されるまでもない身体的事実としてあるのなら、歴史学者である著者が、本書を書く必要もなかっただろう。だが、セックスとは一つきりで、女性とは不完全な男性であり、腟とペニス、子宮と陰嚢、月経と痔の出血(!)は同じもの、とされた時代もあって、そうした考えが放棄されたのは科学の進歩によるのでは必ずしもなく、時代のイデオロギーが別の物語を要請したからだと著者は言う。例えば、妊娠には不可欠と信じられていた女性のオーガズム(性交によるとは限らない)に関する記述が産科学の本から消え、受動的で性欲を持たぬ女性というまことしやかな物語が作られた時期は、排卵や受精が性的快感とは無関係に起こることが確認された時期と一致しない。フロイトの、女性の成長に伴うクリトリスから腟への性感帯移動説に関して、私は以前から当時の医学界の常識に興味があったのだが、本書を読んで驚いた。何とフロイト以前には、クリトリス以外に女性がオーガズムを感じる場所があるとは、誰も思っていなかったし、彼自身、自分の主張の解剖学的・生理学的根拠のなさを知っていたに違いないというのだ! 結局彼の関心は、解剖学的には根拠のない異性間性交を身体が役割の性として引き受けさせられる、という事実を確認することにあったのだと著者は言う。近代以前の解剖学者の中立的ならざる眼差しには、腟が裏返されたペニスとしか見えなかったのだが、フロイトは、クリトリスがペニスに相当すると知りながら、腟とペニスを対立させて、男女の社会的役割の根拠を身体組織の中に見出したいという同時代の熱望に応えたのだった。私たちの居場所も基本的にはここからさして隔たっていないのだが、さてそれは、いかなる同時代の欲望の反映だろう?(初出『季刊幻想文学』1998)
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by kaoruSZ | 2004-09-22 15:00 |  (性、フェミニズム)

ジェンダーという拘束

 ジェシカ・ベンジャミン『愛の拘束』(寺沢みづほ訳・青土社)

 性差が社会的に構成される道筋を解明し、さらに異性愛を見直す試み——フェミニズム批評と精神分析理論による目配りのきいた本書もまた、最近少なからず見られるそうした試みの一つと言える。著者が手がかりとするのは、支配と服従、主体と対象が、男女の二極に重ね合わされてしまい、生物学的決定と見られかねないほどに、女の愛には服従が刷り込まれているということだ。男の子が、強大な力(幻想なのだが)を持った母親からの分離を、父親に同一化し女を軽蔑することで果すのは、正常な男性となるのに不可欠とさえ見なされる。一方女の子が、自律的な欲望を持たぬ(従って娘の欲望を理解できぬ)母親から顔をそむけて父に向かっても、父親自身かつて自らの母と同類であることを拒絶して、以後も女との差異に固執してきたのだから、娘からの同一視を受け入れることは彼にはできない。著者によれば、悪名高いペニス羨望とは、この阻止された同一性のしるしである。男の子には可能なホモエロティックな絆を拒絶され、彼女は以後、自らは所有しえない権力と欲望を持つ男に対する理想化と賞賛を、無意識の、あるいは明白な屈従のうちに表現するようになるだろう……。ところで、著者も触れているフロイトの論文『子供が打たれている』では、女の子は、男の子が打たれるという空想から、男の子に同一化してエロティックな快楽を得ていたのだった。私見をつけ加えるなら、『仮面の告白』の主人公がジャンヌ・ダルクを女と知って興味を失った挿話はこの裏返しであり、女性がもっぱらエロティシズムを代表するとされる社会において、(男女を問わず)ある人々にとっては男性のみがエロティックな同一化の対象となることの秘密も、このあたりにあると思われる。(初出『季刊幻想文学』)
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by kaoruSZ | 2004-09-22 14:57 |  (性、フェミニズム)

生物学は宿命か

メアリー・バトン『女と男・愛の進化論』(青木薫訳・講談社)
 
  自分は男だから雄の動物の行動の方が理解しやすいと発言する人間の雄の学者の著書などはなるべく遠ざけてきた僕が本書に手を出したのは、訳者あとがきに進化生物学の成果を都合よく利用して男らしさ女らしさのステレオタイプに同調するたぐいの本とは違うとあったからだが、先の発言を不気味と感じる僕などはやはり少数派なのだろう、果して女の学者について同様のことをいう文が出てきた。けれどそれは気にならなかった、男が女に選択権(男の、生活の、自らの体への)を認めないことが他の種の雌の行動を色眼鏡で見させてきたという文脈での話だから。動物の話はいつも面白い。個体識別のため付けた足輪の色が新たに互いの性的魅力となったフィンチの例など、誰かに電話で話してやりたい。女が選択権を堂々と行使するどこかのナントカ族の話も。だが、ひとたび牧歌的領域を離れるなら、何と暗澹たる人間の歴史。その改善を願う著者の結論は存外穏健で、繁殖のための生物学的戦略にのらず避妊せよというものだが、今なお女の性器切除や健康を害しての出産や女児殺しが横行する世界では、それさえ到底穏健とは言えまい。ただ、女こそが選ぶのだという主張も、優劣はないと言いつつやはり性差を温存するものと僕には思える。遺伝子の命令の上に人間は多大の意味を押しかぶせてきた。その生物学的基盤を取り去った上での自由な意味の戯れを僕は夢想するけれど、フロイトには性別の事実に反抗する患者と見なされそうな僕の感想は、繰り返して言うが大方の支持は得られまい。本訳書の製作者たちもそれを知っていて、邦題も副題も帯の惹句*も、性的ディスプレイさながら、あげて男女関係の範を生物学に求める読者を惹きつけようとしている。(初出『季刊幻想文学』)

*「女は男をとことん選ぶ」
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by kaoruSZ | 2004-09-22 14:55 |  (性、フェミニズム)
D・M・ハルプリン『同性愛の百年間 ―ギリシア的愛について』
(石塚浩司訳・法政大学出版局)


 邦題の同性愛とギリシア的愛はどんな関係にあるのか。後者は少年愛だという指摘がありえよう。なるほど本書には、『イリアス』の英雄たちが後代のアテナイ人の目には少年愛の関係にあると映った次第も述べられている。だが、その際、彼らの常識ではアキレウスとパトロクロスの役割は明確に定まっていたはずで、この点では意見が分かれたらしい(まるでやおい少女のように、どちらがウケかが気になった訳だ)。著者によればこのカップルは、ギリシア世界よりむしろギルガメシュ神話やダビデ物語の傍に置くのがふさわしい。

 自分たちの概念を前の時代に適用しようとした彼らの錯誤は、現代の概念、例えば「同性愛」が普遍的なものでありどの時代にも見出せると信じるときわれわれが陥るものでもある。どの時代、どの地域にも同性との性的接触を求める人間はいたが、それは「同性愛者」という本質がどこか(例えば遺伝子の中)にあって、社会によって違う発現をするということではない。「異性愛」と同様、それはたかだか百年前の西欧の発明なのだ。

 著者はM・フーコーの仕事を高く評価し、彼の方法に一章を割いてもいるが、ヨナタンの愛が女の愛にまさっていたと語ったダビデには性的動機があった訳ではない、女性の性は生殖と切り離せない特質を持つというギリシア人(に限らないが)の考えは「女性性」を女に押しつけるいつもながらのやり方で、実は生殖とオーガズムを切り離せないのは男の方なのだ、といった逆説の鮮やかさはむしろロラン・バルトを思い起こさせる。基本的に古典学者の専門論文集である本書だが、「一般読者をも引き込まずにはおかぬほど面白いものがあると思う」という著者の言葉はいかにも控え目に聞こえる。
                                             (初出『季刊幻想文学』1995)
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by kaoruSZ | 2004-09-22 14:53 |  (性、フェミニズム)