おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

カテゴリ: (映画)( 6 )

私の選んだ3本の映画

b0028100_2157040.jpg(1)『ロシアン・エレジー』(アレクサンドル・
 ソクーロフ監督 1996)
 たぶん私たちが来る前に物語は終わっていたのだろう。今しも一人の男が病室で最期を迎えたところだ。彼の目を覆いつくしたのと同質の闇の中で動かぬ私たちの耳に、それでも〈外〉からの物音が聞こえてくる。やがて音は光を放って、緑したたる戸外を構成する……映画が本質的に夢であり、もっとはっきり言うなら死後の夢であり、目を閉じてなお見えてくるもの、瀕死の耳になお聞こえてくるもの、妄執に似た何かであり、生まれたての羊歯のように私の目の前でほぐれてゆく、みずみずしい人生(むろん贋物の)であることをあらためて教えてくれる作品。

(2)『東京暗黒街・竹の家』(サミュエル・フラー監督 1955)
 来日したギャングのボスは立ち並ぶ朱塗りの柱の間からフジヤマが見渡せるとんでもない家に住み、ホモソーシャルなギャングは潜入捜査官ロバート・スタックにボスの寵を奪われて嫉妬に狂い、家庭用檜風呂(懐しい)で入浴中に愛するボスに射殺されて、風呂桶の側面に弾丸があけた穴からお湯がピューと噴き出す。李香蘭の名を捨てシャーリー山口と名乗る山口淑子がスタックの相手役をつとめ、浅草松屋・屋上遊園にそびえ立つ土星形大観覧車(懐しい向きもあろう)で最後の戦いが行なわれる、戦後日本のドキュメンタリーというべき作品(かつては国辱映画と呼ばれた)。

(3)『夜半歌聲』(馬徐維邦監督 1937)
 三十年代上海の特異な映画監督マーシュイ・ウェイパン。顏を潰された美男、二度と会えぬ恋人の立つ夜のバルコニー、荒れ果てた劇場、貴方が松の木なら私はそれに巻きつく蔓(かずら)と夜の風にのせて切々と歌い上げる声は、『オペラの怪人』(1925)の翻案であり、六十年後にレスリー・チャン主演でリメイクされる正統的メロドラマだが、ジェイムズ・ホエイルに倣って怪人を丘の上へ追いつめ、群衆に焼き殺させた監督は、続篇(『夜半歌聲續集』)では生き延びた主人公を古城のマッド・サイエンティストに手術させ、素顔のままでも黄金バットの化け物に変えてフランケンシュタイン化をさらに進行させる。『竹の家』とは逆のベクトルによる異種混淆の傑作。

                      (初出「La Vue」14号 2003年8月)
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by kaoruSZ | 2004-09-25 21:18 |  (映画)
M: つまらない原作からでも素晴しい映画は生まれる。この映画について原稿を頼まれる仏文学者の多くは、たぶん、映画とは無関係の文学史的知識を駆使した上で、映画にしちゃあよくやったと結ぶでしょう(もっと控えめな言い方で)。でも、それは、単に彼らが映画を知らない(そして愛していない)から。映画はもっとやれるんです。たとえそれが素晴しい原作から作られた映画であってさえ。

Y: 私は最初の、写真を見せてこれは誰これは誰っていうところで、もう、ダメだ名前覚えられないって思っちゃった。

M: 原作のどこかでプルーストは、「誰かをそれなしで思い出すよりはるかに少なくしか思い出させてくれない写真」と言っています。

Y: なんかすごい皮肉。監督は知っててやってるのかしら。

M: プルースト読んでない奴はおつけで顔を洗って出直してこいと言ってる(もっと控えめな言い方で)監督だから、知らないはずはありませんが。

Y: 私なんぞ門前払いなのね、しくしく。

M: ハリウッド的話法を随分バカにしているようですが、その最良の部分を受け継いだクリント・イーストウッド監督の『スペース カウボーイ』を見てきたばかりなんで、なおさら、原作にもたれかかった自堕落さには目を覆いたくなりました。

Y: でも、男はいつまでも少年、みたいな話は嫌いだな。

M: いや、『スペース・カウボーイ』は老いと死についての映画ですよ。一言もいわれなくたって、あれを見れば、イーストウッドはあと何本映画を撮れるだろうかと胸をしめつけられずにはいられない。それに較べたらこの映画で、主人公が、私には作品を完成する時間があるだろうかと自問してみせたところでおめでたいだけです。

Y: なんかあの人、敷石がめくれたところに足引っかけて転びそうになったきり固まってましたね。

M: あれは、ヴェネツィアで同じ体験をしたときの感覚が甦ったってことなの。

Y: えー、わかんないよ、そんなのー。

M: 不揃いな敷石で躓いた拍子に過去が甦るという他人には知られぬひそやかな体験のはずなのに、足跳ね上げたままストップ・モーションだものね。
   
Y: ダサーい! 

M: スプーンがカップに当たる音が、以前汽車の中で聞いた車輪を叩く音につながるというところも……。

Y: あ、あれは私にもわかった、ガチャガチャやってくれたから。

M: だけどあれ、スプーンの立てる音なんだから、もっとかそけき響きだと思うのよ。以前、交通博物館で満鉄の記録映画、つまり昔の国策映画を見たことがあるんだけど、小さなハンマーで機関車の車輪を叩いて点検する場面があって。音は入ってないのに、その瞬間、頭の中でかすかな音がしてプルーストのページが甦りました。

Y: こ、国策映画……Mさん、スクリーンでものが動きさえすりゃ何でもいいんですね。

M: 映画の基本は運動。乗物は映画にとって特権的な対象です。

Y: 話は変わるけど、登場人物がごく普通にバイセクシュアルでしたね。

M: そこらへんはセジウィックが『クローゼットの認識論』で扱ってましたね。ジョン・マルコヴィッチのシャルリュス男爵は悪くなかったけど。そうそう、あのシャルリュスが持ってる本の題名ね、原作では、英語にすれば“Between Men”★なの。

Y: ひゃあ! プルーストってセジウィック読んでたんだ。

                      ★E.K.セジウィックの主著の表題
 
                              (初出“LOUD NEWS”)
                               
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by kaoruSZ | 2004-09-22 17:51 |  (映画)
 『ファウスト』/『短編集』ヤン・シュワンクマイエル監督

 のっぺりした現在ばかりが幅をきかせる東京では、たとえば、シュワンクマイエルの紹介文(批評とは言うまい)に「シュールな」なるカタコトを見つけて思わず眉をひそめてしまうが、今回の『短編集』に含まれるBBC制作の彼自身へのインタヴューで、ゴーレムを思わせる粘土人形の作り手たるシュワンクマイエルが、ルドルフ二世の都(二十世紀には、そこはスターリニズム下のチェコスロヴァキアの首都であった)プラハにあって、自分は今なおシュルレアリストだと語るのを聞けば、彼の地の歴史の厚みにあらためて思いをいたさずにはいられない。「シュールな」とは、現実離れした、程度の意味なのだろうが、彼の作品は現実を超えた別世界というようなものでは全くない。『ファウスト』における、人間と人形の、屋外と屋内の、本筋と劇中(人形)劇の、虚構の空間と現実のプラハ市街との、自在な通底と浸透を見よ。(ちなみに巖谷国士によれば、シュルレアリスムとは「レアリスム」を超える「シュル」+「レアリスム」なのではなく、「超現実」が実在する、とする「シュルレエル」+「イスム」なのだという。)彼は、現実においてなんらかの意味を担わされている映像を他の映像と隣合わせに置くことでたんにその意味をずらすのだ。創造せずに組み合わせるデミウルゴス。人間を含む現実のオブジェは、二十四分の一秒の光の染みへと分解され、他の断片に接続されて作動する。アニメーションが生命を吹き込む技だとしても、撮られたものはその時点で死んでいる。いや、現実の生死には関わりなく、以後は永遠に(フィルムが摩滅するまで)、血肉を抜き取られた見せかけを繰り返すことになる(とはいえ、シュワンクマイエルの世界には、血も肉もふんだんにある——あなたは、小麦粉にまみれて愛し合う肉片を見たことがおありですか?)人形の頭部をすっぽりかぶせられる人間たちは文字通りがらんどうで(喋る言葉はゲーテとクリストファー・マーロウの口うつしだし、くたびれた中年男の姿をした悪魔との契約だって、人形に変身してから結んだものだ)、絶えずスラップスティックに解体する。彼の作品は現実の不確かさを象徴している? そうかもしれない。だが、〈超現実〉に不確かなものは何もない。それはカタカタと永久運動を続ける魅せられた機械であり、魔法の杖の一振りが現実のただなかに呼び込んで、単純な仕掛けに魅せられた子供たちの前で繰り広げる〈強度の現実〉だ。映画館の座席の上で、私たちの眼は驚きに見ひらかれ、もっと驚かせてもらいたがっている子供の眼になる。それともそれは、スクリーンという鏡の中からこちらをねめつけている粘土の頭部に埋め込まれたあの眼であって、見返す私たちもとうに粘土あたまなのではないか? さあ、あなたも、バケツ一杯の粘土に戻されてしまう前に、一刻も早く映画館に駆けつけるべきだ。

[公開時旧稿]
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by kaoruSZ | 2004-09-22 17:49 |  (映画)

ソクーロフ覚え書

 アレクサンドル・ソクーロフの作品の幾つかをほとんど予備知識なく見るとき何が起こるか。たとえば、『ストーン——クリミアの亡霊』。冒頭、闇に沈んだ建物の外観が映しだされ、続いてキャメラが屋内に入ると、何やら火花の散る浴室で男が水を浴びている—— それを発見する青年。その建物がチェーホフの、今は記念館になっている旧宅で、青年はそこの管理人だなどということは、前もってこの作品について情報を得ていた者にしかわかりようがない。まして、浴室の男が甦ったチェーホフだなどという荒唐無稽な話を誰が想像しえよう。私たちがスクリーンに見るのは深夜の奇妙な邂逅ばかりだ(むろんそのことは、私たちがそれに魅惑されるのを少しもさまたげはしない)。あるいは、『日々はしづかに発酵し……』。中央アジアのどこかの町に流刑されたかのように派遣されてきたらしい若い男。映し出されるエキゾチックな風土と人々の生活は、ブニュエルの『糧なき土地』を連想させるドキュメンタリーとも見える。主人公の身に次々と起こる、物語に収まりきらない奇妙な出来事。友人の家の壁の一部はなぜか真っ黒に焦げ、毛が生え、膿のようなものを滲ませている。何なのだろう、明らかにミニアチュアである夜の町を規則的に照らしだすサーチライトは。突然現われた男の子は。先へ行けば、当然それらについてはしかるべき説明がされると思いきや、内陸だとばかり思っていたところに忽然と湖が出現し、船出する友人を見送るところで物語は不意に断ち切られる。さらに唖然とすることには、町自体、幻であったかのようにただの砂漠に還る(これもミニアチュアとはっきりわかる)。パンフレットを見るなら、原作がストロガツキー兄弟のSFであり、奇妙な出来事は宇宙人の干渉によるものだと知ることができるが、しかしそんな知識が何になろう、ソクーロフが一切の謎解きを省いてしまった以上——。
 物語は口実だ。それは『ロシアン・エレジー』のような、最初に闇の中での死という事件が置かれ、死後も二時間は聴覚が生きているのだというまことしやかな会話を聞かせた上で、あたかも物音に触発されて死者の網膜いっぱいに広がったかのような緑したたる風景を見せる場合でも変わらない。画面とシンクロナイズすることのほとんどない、物音、会話、笑い声は、それが外から来ていることを絶えず意識させつづけて(その「外」とは、死者が本当に死んでいる場所、人が眠りから覚めて見出すところ、私たちが映画を見終えて出て行くところとしての外部であろうか)、暗くなってから—— 意識水準の低下、あるいは場内の照明が落とされたあと——もなお(あるいはそうなってはじめて)見えるもの——映画、あるいは夢。「第二の生」(ネルヴァル)としての、あるいは死後の視覚としての夢—映画。〈死後の眼〉を口実に、私たちは、前世紀のヴォルガ河畔の人々を映した写真の細部へといざなわれる。それが、冒頭苦しげな喘ぎが途切れるのを私たちが聞いた人物による想起だなどど信じられるだろうか。何者かが冥界[リンボー]で思い出している映像だなどと信じられるだろうか(何一つ変わらない、昔のままのあの姿だ——そう思っているのはその時代を生きた人間ではなく、それを覚えているはずもない私たちなのに。)そのあいだにも絶えず入り込んでくる物音が、受動的な器と化した私たちの感覚を刺戟しつづける。そこに映っているものはすべて死に絶えたはずの写真にゆっくりと近づいたり引いたりする、キャメラのひめやかな息づかい。
 むろんキャメラは、何も感じてなどいない。作者はここで何を言いたかったのかという、書き手に向けられるあの愚かしい質問を、キャメラはついに知ることがないだろう。作者の「真の意図」の追求とは、ついに無縁のままにとどまるだろう。『ロシアン・エレジー』に引用された第一次大戦の実写フィルムで、撮影者が狙撃[ショット]されたためその手を離れて水中に墜落しながらも、なおも水面下にあって行きかう魚を撮影[シュート]しつづけていたキャメラの、あの死者よりも無感覚な眼差し、あれろこそがキャメラというものだ。だが、私たちはそこから出発して一切を得る。私たちは から覚め、そして外部にあって思い出すだろう、自分が生きたわけでは少しもない映像を。そして、すでに物語を知っていることとは関係なく、記憶にあるものと同じものを見るために、私たちはいつか再び映画館を訪れて、そして圧倒的な現前に出遭う。それは昔のままのあの姿だ——前世紀の写真の中の自分の知らなかった人々をはじめて見出したとき、すでにそれと認めたのと同じように――。

【旧稿】
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by kaoruSZ | 2004-09-22 17:48 |  (映画)

死者たちの再会

 『マザー、サン』アレクサンドル・ソクーロフ監督
  
 闇の中から浮かび上がる二つの顔。老いた母とその息子。『マザー、サン』は、母の死に至るまで、この二人以外は誰も登場しない映画である。息子は母を抱いて戸外に出、白樺の幹に母の枯木のような身体をもたせかけ、また一人山道を歩き回るが、他の人間には一度も出会うことがない。たとえ母に若き日の母宛ての手紙を読みきかせようと、すべては前世の出来事のように遠い。それは単に時間的な隔たりではなく、互いの存在以外の何物も関心の外に退いてしまったがゆえの遠さだ。ついに母が死を迎える時息子は語りかける。「もう一度会える。約束したあの場所で、きっともう一度会える」。この悲痛な声を最後に、画面は再び闇に沈む。「約束したあの場所」とは不吉な言葉だ。彼らはいつ約束したのか。そしてそれはどこなのか。私たちは自問し、そして思い至る。二つの闇に挟まれこの世ならぬ美しさを放つフィルムとして、出会いはすでに起こっていたのではないか。技巧の限りを尽した映像は、息子をすでに彼方へ連れ込んでいたのではないか(そうでもなければ、彼のさまよう野山の異様な美しさは説明できまい)。海に浮かんだ白い帆影は見せかけの出発、けっしてありえぬ他界の幻かもしれない。物語が始まったとき、歩くこともできず、ほとんど目をあけることもなかった母親は、通常の言い方ではすでに死んでいたのではあるまいか(それがこの世界に彼ら二人しかいない理由だ)。しかし二人は死に切ることなく、繰り返しスクリーンに現われてくる。もう一度、もう一度。流れる雲、一瞬の風、木の葉のきらめきを糧に彼らは息づく。映画とは甦った死者たちが再会する不吉な場所であるのだ。

[公開時旧稿]
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by kaoruSZ | 2004-09-22 17:47 |  (映画)

アイビキノ場所

 『ストーン——クリミアの亡霊』アレクサンドル・ソクーロフ監督

                私ト私ノ死ンダ妻トノアイビキノ場所(入澤康夫)

……横扉カラ入ルト、大音響ノ中、斜メニ歪ンダ巨大ナ顔ノ照リ返シヲ受ケ、座席ノ上デ魂ヲ抜カレタヨウニ瞠イテイル、コチラニ気ヅクフウモナイ奇妙ナ群レ……(深夜のチェーホフ記念館で眠けと不動から死者は醒め(無論しね・う゛ぃう゛ぁん・六本木ハ入替制ダシ、『すとーん』デハ大音響ナド響ク筈モナク、私タチハアルカナキカノ音響ト乏シイ光ニヒタスラ感覚ヲ研ギ澄マスバカリナノダガ)、自らの遺品である服を着け(闇ノ中ノ襟ノ白サ)、番人の青年から食物を頒ち与えられる。しかし私たちは椅子の上で麻痺したようにみじろぎもせず、飲食を禁じられ——シネ・ヴィヴァン六本木では実際禁じられている)——〈客[チェーホフ]〉の食べるソーセージのひと切れも葡萄酒の一雫も味わうことはない。それでも私たちは味わうだろう、チェーホフとともに、私たちも思い出すだろう。ジャム入りクレープとオートミールを、エゾライチョウと薫製の鮭を、一度も食べたことのないものたちを。青年はどうして目をつむるのか、二つの顔だけの、物を食べるのみの(食べているものをろくろく見せもしない)動作が、これほどの親密さをかもし出すのはなぜなのか。岬の尖端に立つ〈客〉の周りでひそやかに立ち騒ぐのは波か光か。私たちの行けない彼方に甦ったすべてはあり、私たちは吹雪に震え、科白はとぎれ、客人は闇にまぎれ青年は再び目を閉じ、私たちはもうすぐ立ち上がり、階段を上って照らし出された夜の中を歩き出すのだろうが、だが今は鳥の声、犬の啼き声、波音と風の唸りがモーツァルトと混じり合い、視界が鎖されたあとまでも生き残る聴覚に似てあと引く音に、エンドマークで堰き止められるまで私たちは耳かたむけつづける。

[公開時旧稿]
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by kaoruSZ | 2004-09-22 17:46 |  (映画)