おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

カテゴリ:やおい論を求めて( 15 )

 一月中は某原稿を書いていたので更新を休んだ。今日、「コーラ」編集人の黒猫氏から『密やかな教育』送られてくる(書評を書く予定)。まだ増山法恵インタヴューを読んだだけだが、彼女の果たした役割の大きさが、知ってみれば納得できる話でなかなか面白い。結局のところ、個々の作家がいるだけだよなー(独り言)。

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 以下は、パトリシア・ハイスミスの『キャロル』(1952年)から。
 変名で出したレズ小説以外はハイスミスの小説はほとんど訳されているとは小林信彦の弁だが、その「レズ小説」である。訳されていないのが惜しまれる。
 なぜ載せるかという理由はタイトルをごらんあれ。


「ねえ、リチャード」
「何?」
 彼の姿は視界の端にあった。腕を前に突き出して、サーフボードに乗っているかのように跪いている。「今までに何回恋をした?」彼女は尋ねた。
 リチャードは笑った。短い、かすれた笑い。「君がはじめてだよ」
「そんなことないでしょ。二回だって言ったじゃない」
「それも数えるなら、あと十二回ってことになる」リチャードは早口で言った。凧に集中しているのでそっけなかった。
 凧は弧を描きながら下降しはじめていた。
 テレーズは、声の高さを変えまいとした。「男の子に恋したことはある?」
「男の子?」リチャードは驚いて繰り返した。
「ええ」
 きっぱりと決定的な調子で、「ないよ」と答えるまでに五秒かかった。
 少なくとも彼は言いよどんだ、とテレーズは思った。もしあったらどうする、と尋ねたい衝動に駆られたが、しかし、そう質問する目的はほとんど見つからなかった。彼女は凧を見つめつづけた。同じ一つの凧を見つめながら、二人はなんと違うことを考えていたことか。「そういう話を聞いたことはある?」彼女は尋ねた。
「聞いたこと? そういう人たちのことを? もちろんあるさ」リチャードは今では直立し、糸巻きの糸を8の字に回していた。
 テレーズは慎重に話した。相手が耳をかたむけていたから。「そういう人たちのことじゃないの。突然、思いがけず恋に落ちてしまった二人のことよ。男同士とか、女の子同士とかで」
 リチャードの表情は、政治の話をしているのと変わらなく見えた。「知り合いに? ないさ」
 テレーズは、彼が再び凧を操り、高く揚げようとするまで待ってこう口にした。「だけどそういうことってあると思うの。たいていの人に。そうじゃない?」
(中略)
互いに恋に落ちる娘たちについては聞いたことがあったし、それがどういう人たちで、見た目がどうであるかもテレーズは知っていた。テレーズもキャロルもそうは見えない。けれどもキャロルへの思いは恋のあらゆるテストをパスし、恋を描くあらゆる文章に一致していた。「私にもありうると思う?」テレーズは単刀直入に聞いた。
「なんだって?」リチャードはほほえんだ。「女の子に恋することが? 思うものか。ないだろう、そんな経験。それともあるの?」
「ないわ」テレーズは、奇妙な、歯切れの悪い調子で言ったが、リチャードはそれには気づかなかった。
「また揚がってきたよ、見て、テリー」
 凧はぎくしゃくしながらまっすぐ上昇してスピードを加え、糸巻きがリチャードの手の中で回転していた。なんにせよ、これまで生きてきて今が一番幸せだ、とテレーズは思った。それなのに、なぜあらゆるものに定義を与えようと心を砕いたりするのだろう。

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by kaoruSZ | 2009-02-06 22:33 | やおい論を求めて | Comments(0)
(……)『ヴァン・ヘルシング』は幾通りかの二次創作のソースとなることを前提に製作されたフィルムであると仮定してみます。ひとつはアドベンチャー/アクションゲームとしての商業的な二次創作。もうひとつは同人誌やwebテキストや頭の中だけの想像といったかたちで観客が作り出すプライベートな二次創作、とりわけ、日本語では「やおい」や「ボーイズラブ」、英語では"slash"と呼ばれるような、主に女性による、女性のためのセクシュアル・ファンタジーです。女性の観客が、(基本的には)ホモソーシャルでヘテロセクシュアルな規範に沿った「オリジナル」の創作物から、ふたりの男性の登場人物の組み合わせを抜き出して(カップリング/pairing)、プラトニックなものからハードな性行為をともなうものまで、両者のあいだのさまざまな形態のホモエロティックな関係を想像し、それを小説やマンガ、イラストレーションなどの二次創作に加工してセクシュアルな享楽を得る、という消費文化にはすでに30年以上の長い歴史がありますが、かつて(表層的には)マイナーな位置にとどまっていたこうした文化は、おそらくはインターネットの普及をきっかけに、現在はかなりグローバルなレベルで、映画の消費文化のひとつのメインストリームを形成しつつあるのではないでしょうか。(鷲谷花「複製技術時代のホモエロティシズム) 

 本稿を書いた当時気づいていなかった、鷲谷のこの文章の、事実の歪曲と反動性については次に記した。
http://kaorusz.exblog.jp/14384401
http://kaorusz.exblog.jp/14384463/


 某所でやおいについてちょっとだけ「話題提供」する予定があるのだけれど、鷲谷花さんのこの論文、参加者にあらかじめ読んでおいてもらう参考資料に指定しておこうか……。

 クライマックスでは(…)ふたりの美男が、吹き荒れる吹雪の中で、長い黒髪を振り乱し、顔には幾つも血の筋をひきつつ延々と切り結ぶという、まことに「お耽美」な剣戟場面が延々と繰りひろげられます。一方、ふたりの男が共に狂おしい思いを寄せる「傾城傾国の美女」のはずのチャン・ツーイーは、胸にナイフが刺さって気絶しているうちに雪の下に埋まって姿が見えなくなってしまっているという、いやしくも恋愛映画のクライマックスにおいて、かくもいい加減な扱いをうけた「ファム・ファタール」がいただろうかという有様で放置されています。(鷲谷、前出)

 これはチャン・イーモウの『LOVERS』について。だが、そういう扱いを受けた「ファム・ファタール」なら、確かに他にも見た覚えがある。CGなどの最新の「複製技術」から突然サイレントに遡ってよければ、『肉体と悪魔』のグレタ・ガルボなど、自分に「狂おしい思いを寄せ」ているはずの二人の男の決闘を止めに急ぐ途中、足元の氷が割れて水中に落ち込んでしまう。一方、少年の日に永遠の絆を誓いあった男たちの胸には、現在を押しのけて甦るかつての友情の日々の映像が次々と繰りひろげられ(映画だからそれは当然私たちの目にもそのまま見えて)、それが彼らの周囲をぐるぐる周ってもう完全に二人の世界。ついに彼らは武器を投げ捨てひしと抱き合う。一方、ガルボはあわれ氷の下に消えてしまう……。

 鷲谷さんの論考は次のように結ばれている。

 しかし、こうした新しいタイプのメインストリームの映画においては、男性同士の絆のみが重要で本質的な人間関係であるとみなし、そうした真に貴重な絆を結びつけ、維持するための手段としてのみ女性の存在を許容し、要請しつつ、肝心な局面では蚊帳の外に追いやってしまうようなイデオロギー、つまりは昔ながらのホモソーシャリティと女性嫌悪(ミソジニー)が公然と息を吹きかえしているようにも思われます。ホモソーシャルな体制は、ホモエロティックなリビドーをアリバイに、女性観客を共犯者として取り込みつつ生き延び、みずからを増幅強化しているのである。などと、ついつい野暮ないちゃもんをつけたくなるのは、もしかしたらわたしがいつもスクリーンでの素敵な女性たちとの出会いを求めて映画館に出かけてゆくという性向の持ち主で、最近はめっきりそんな期待を裏切られ、淋しく映画館をあとにする機会が増えたからかもしれませんが。

 私も以前、《ここに出てくるのは男ばかりだけど、男が本当にカッコよくて価値があって男同士の関係こそが最高だなんて、夢にも思ってくれるなよ》とか、 《私自身はネタとわかって書いているわけだけど。「男への愛」からやおい書いてるわけじゃないんだけど。 でも、ベタで教育装置としても機能しうるわけで……。時々心配になる。ミソジニーに加担してしまっているんじゃないかってことに。》とか書いたっけ。

 鷲谷さんが上記の論文で「やおいリビドーを誘発するような男二人の結びつき」と呼んでいるものは、ホモソーシャルをホモエロティックに変換した結果見えてくるわけではなく、最初からあるものなのに、ホモフォビアに曇らされたストレートの男の目には映らなくて、最近では、それが可視的になったときは「女のせいにする」。つまり腐女子の妄想に。あまっさえ、それによってゲイ男性の存在を抹消しているとさえ中傷される。

 しかし、「岩波講座 文学」に収められた「ゲイ文学」と題する論考(以前、「やおいはヘテロ女の玩具じゃねえ!」というエントリで触れたことがある)で大橋洋一さんが述べているように、この「最初からある」ものこそ、「父権性」であり「ホモソーシャル連続体」であり「ヘテロという名前をいただくゲイ集団」なのだ。「ホモソーシャル連続体」の偏在性ゆえに、「ストレートフィクションの読み直しは、ゲイ文学研究の周辺的いとなみではなく、中心的なそれかもしれない」。そう言って大橋さんが「読み直す」のは「ストレートフィクション」としてパッシングしてきたテネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』だ(註)。ヒロインの誇り高いブランチが、最後には妹の夫である野卑で暴力的なスタンレーにレイプされ精神に異常をきたすという筋書について、

貴族的で高慢な女性の真相にひそむ獣欲をあばきレイプする卑劣な暴行魔のファンタジーと、汗くさく肉感的で粗野な男性にレイプされたい女性的ゲイ男性の、またそれに加えてヘテロと言う名のゲイ社会に生きる隠れゲイのファンタジーが交錯するのだ

と大橋さんは述べる。

 よく見ればわかるように、ここには女性に由来するファンタジーはひとつもない。「貴族的で高慢な女性の真相にひそむ獣欲」というのはそれ自体が男(“卑劣な暴行魔”)の空想であり、現実の女性がそういうものを具えているという裏づけはない。「汗くさく肉感的で粗野な男性にレイプされたい」と願っているのは、女ではなく、「ゲイ男性」だ。そしてその基盤にあるのは「ホモソーシャル連続体」すなわち「ヘテロという名前をいただくゲイ集団」であるのだから、ブランチという女が主人公と見えた異性愛ドラマから、実は女はあらかじめ排除されていたのだ。つまり、ブランチと名づけられたこの女性表象は、ゲイの男性作家によって、召喚され、利用され、抹消された。

〈女〉はこれにどのように対抗/応できるか? 三つの可能性を考えてみる。
(1)フェミ的
これをゲイの男性作家による女性表象の横奪であり、女の植民地化であり、女にステレオタイプを押しつけるものであり、女性差別的であると告発すること。いうまでもないがそこに快楽はない。

(2)女性的
《「貴族的で高慢な女性」が自分の「獣欲」をあばき出されるというファンタジー》をマゾヒスティックに楽しむこと。

(3)やおい的
《汗くさく肉感的で粗野な男性にレイプされたい女性的ゲイ男性のファンタジー》を流用して楽しむこと。

 やおいは女性性の忌避ではない。(3)は(2)とは別様に(あるいはそれ以上に)「女性性」を享楽することを可能にする形式だ。

(…)この理論によれば、すべての文学がゲイ文学でもある。ストレートフィクションの読み直しは、ゲイ文学研究の周辺的ないとなみではなく、中心的なそれかもしれない。(大橋、前出)

(必要な変更を加えれば)やおいについても同様のことが言えよう。


註 タイトルは、昔読んだテネシー・ウィリアムズの自伝で、『欲望という名の電車』をルキノ・ヴィスコンティ演出で上演した際の作家と演出家が一緒に写っているスナップにウィリアムズ自身がつけていたキャプション。
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by kaoruSZ | 2008-06-06 11:41 | やおい論を求めて | Comments(0)
「もちろん異性愛男性こそが女性イメージを圧倒的に性的な存在としてパタン化し領有してきたことは論を待たない。そのため「女の側だって少しくらい好き勝手してもいいのでは」という声もある。ただしもちろん、そういった考えは溜飲を下げる以上の効果はもたらさず、生産的な批判ではない、と考えられている」
           石田仁「ほっといてくださいという表明」
            『ユリイカ』2008年12月臨時増刊号 総特集BLスタディーズ

 
 石田さんはこのように述べるが、男性による女性イメージの「領有」は、なにも“異性愛男性”に限った話ではない。かなり以前のことになるが、タレントのピーコが、深夜番組で「爆笑問題」相手に、「[ピーコは]女らしい」「ピーコさんてほんとに女なんだね」といった反応を引き出すような自己規定を繰り返し、好きな男の顔を見ているだけでいい、何もしなくてもいい、と自らがrepresentする女性主体の脱性化(これは異性愛男性による性的対象としての女の“パタン化”と矛盾しない)をはかりつつ、ホモフォビックなヘテロセクシズムの強化(問題なのはピーコが現実に女ではないことであるかのように言われ、ピーコの男への愛は女が男に対する愛と同じものとされる。すなわち、“真の”男から男へ向ける欲望は存在しないことになる)を行なっているのを目撃したことがある。ゲイ男性が女性性をも兼ねそなえた存在としてふるまうことで、かえって生物学的女性の本質化が進められるのはよくあることだ。はなはだしい場合は生物学的女性に向かって女の道を説きはじめるし、それをもてはやす女もいる。

 かくも完璧な女性性の横取りと押しつけが横行する中で、「女の側だって少しくらい好き勝手」とか、「溜飲を下げる」というのは、あまりリアリティのある言葉とは思えない。そんなことではどうにもならないほど男の側からの領有は凄まじいのだが。そして、ピーコがこれだけやっても何も言われないのは、言うまでもなく男だからだ。だから少しぐらい、と私は言いたいのではない。この非対称を前にして言葉を失うのではなく、下記のように饒舌になることが信じられないと思うのだ。

「いったん「他者」として切り分けた存在を、「私」との関係で非対称に配当し、お決まりのパタンでくり返しイメージした後に葬送する。この表象の横奪の問題は、現代(ポスト植民地時代)の諸研究で、すでに重要な論点として認識されている。たとえばハワイ、スペイン、沖縄が、経済的宗主国によってリゾート地として創出-消費(開発)」されてきた経緯があり、しかもこの「開発」は現地のイメージを一方的に創出-蕩尽する営みと密接不可分だった。とすれば、「女ではない他者」のイメージをパタン化し領有するやおい/BLも、微睡みの中にいることは許されない」(石田、前出)

 女にとって男は「他者」だろうか。とんでもない。男にとって「他者」とされてきた女は、それ以外に自らのイメージを持たず、そこから抜け出すときには「男」となるしかない。なぜなら、女ではないものこそ「男」とされてきた(それゆえ男はなんとしても自らが「女」の位置におとしめられることを拒む)からだ。「男」との関係で非対称に配当され、お決まりのパタンでくり返しイメージされた「女」とは空虚な存在であり、一方、「男」の側にはすべてがある(ように見える)。権利がないのに占有した領域で、女がなりたいのは「女ではない他者」ではなく、「女ではない主体」だ。(エロティシズムの観点から言うなら、そうした主体こそが、主体が崩壊するときの、すなわち「受け」としての十全な享楽を持ちうるように思われる(幻想される)。男によって“パタン化”され領有されてきた女には、まず、この意味での主体がない。したがって彼女にとっての「他者」もありえない。

 上記の引用で、石田さんは、やおい/BLを、女が「他者」を植民地化しているありさまとして描いている。「リゾート地として」「現地のイメージを一方的に創出-蕩尽する営み」であると。しかしこれは、あまりにも男女の権力関係を無視した、男→女を女→男へ単純に反転させただけの安易なやり方ではないか。私は以前、ある発表(残念ながらやおい研究ではなかった)で使うためにappropriationという概念(石田さんが表象の横奪と言うときの「横奪」)について、文化人類学が専門のMさんに教えを乞うたことがある。それによればappropriationとは、たとえば宗主国から《「押しつけられた文化イメージを現地で逆手にとって観光資本にするとか、「グロテスクな大文字の他者としての我々」イメージをとっかかりにした》文学作品を書くとかいう意味でも使われるということだった。すでにある資源を加工して、好きなナラティヴに再構成する――やおいもこの文脈で語れると思うという彼の言葉に力を得て、以来私は好んで「流用」という訳語を使ってきた。

 文化資本を持たない女は、男の表象を流用して(それは男から見れば簒奪であり、権利のない占有/領有だ。“女の分際で”“身の程知らずに”そんなことをしているのだから)やおいを書く。だが、それは男を植民地化しているのではない(そんな力があるわけがない)。男についての表象資源はけっして当事者だけのものではなく、《あらゆる立場からのあらゆる目的での流用に「開かれている」》(Mさん)はずなのだ。それが具体的な場でどう働き、どのような意味を産み出すかは注意深く見ていかなくてはならないだろうが。

 ポストコロニアル的(って、私は全然詳しくないが)やおい理論の見取図としてはこのようなものを勝手に考えていたので、正直、石田さんのような適用のしかたにはびっくりしてしまった。
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by kaoruSZ | 2008-04-08 02:26 | やおい論を求めて | Comments(0)
 宮城県・黒石寺の“裸祭”蘇民祭のポスターがJR東日本に掲載拒否された一件はまだ記憶に新しいが、その理由は、JRの男性課長の言葉として最初に報じられたものによれば、胸毛などは「女性のお客様」が不快に感じるのでセクハラにあたるというものだった。事態を紛糾させた一因はこのセクハラという言葉にあったろうが――ポスターの写真を見、その記事を読んで最初に思ったのは、逞しい裸男が上を向いて口をO字型に開けたこの写真が、担当課長のホモフォビアを刺戟したのではないかということだった。これを見て女性が不快に感じるだろうか? もちろん、不快と思う人もいようが、「女性」なら不快に感じると決めつけられ、それを公然たる理由にされたことが私には不快といえば不快だった。

「セクハラ」にあたるポスターとはどんなものか? レイプを連想させるとして問題になった三楽のCMと言ってももう知らない人が多かろうが、私はリアルタイムであれを見ている。馬を乗りこなす男まさりの西部の女が荒くれ男たちに囲まれるCMを前夜のTVで見た翌日、同僚と歩いていた地下鉄の通路で、前夜の女が泥まみれになりようやく上体を起こしてこちらを見ている姿がアップになったポスターが目に入ってきた。あっと思った。これがTVでは放送されなかったフィルムの続き……。そのとき同僚が、「何、これ、嫌な感じ」と呟いた。「どうしてこんなの貼るの?」 TVスポットを見ていなくてさえ、彼女も何かを感じたのだ。「女性のお客様」が明らかに不快に思ったそれに、営団地下鉄の担当者は何も感じはしなかったのだろう(ついでに言えば、当時女性の職員は皆無だったはず)。「セクハラ」という言葉がまだなかったので、同僚も私もそう名づけることはできなかったが。

 三楽のポスター(たとえば)がなぜ女にとって「不快」で「セクハラ」かといえば、自分もまた同じように男たちの性的なまなざしの対象にされる――被害者の西部の女(乗りこなされたじゃじゃ馬)に注がれたのと同じ目が、今度は自分に注がれる――公共空間が、それに対してはポスターの女の無力なまなざしで対抗するしかすべのない、ヘテロ男の性的ファンタジーで充満した出口のない空間に変わる――いや、私たちが生きる空間がもともとそのような逃げ場のない、地の果てまで(男の)へテロセクシュアリティで舗装された世界であることを見せつけられる経験であるからだ。

 黒石寺の女性住職は、都会の娘に何がわかる、てなことを言ったらしいが、都会の娘は何も言っていない。JRの男課長が言ったのだ。マスメディアの報道のみを根拠にした臆測をあえてするが、男が性的なまなざし、しかも男のそれの対象になる可能性を、彼はあのポスターに見て不快になったのではあるまいか(それがもし快であったとすればますます不快に)。そう感じたのは自分なのに、「女のお客さま」が不快なことにした(あるいは、「女」にされて彼が感じた不快感か)。裸男が現実に迫ってくるならともかく、男の表象を女は(男のようには)恐れたりしない。恥しそうなふりはしてみせるかもしれないが、それよりも面白がるだろう、あのポスターなら。

 ニュースへの反響(もっぱらウェブ上の)で注目したことの一つは、JR東日本の決定を「差別」と呼ぶ者の多さだった。いわく、胸毛のある人への差別だ、いわく、女が好むきれいな男なら何も言われなかったろう。「差別」という言葉は今日ではいくらか護符のようなものになっているのかもしれない。やおいはゲイ差別というのも言う方は切札のつもりだろうし、それだけで反応してしまうリベラルな(と自らを思う)男性ブロガーもいるくらいだから。あるいは、美人コンテスト反対の論理を無意識になぞったのかもしれない。女の好みばかりが優先されると文句を言う男もいたが、これは、女は差別されていない、今やむしろ優遇されているじゃないかといったうわ言をいう層と重なっていよう。女の裸ならよくて男の裸はだめだというのは差別だなんで奴まで出てきて(これはゲイ男性のサイト)、ゲイでもストレートでも男のバカさ加減は同じと思わずにはいられなかった。

 私がこの事件に注目したのは、ホモセクシュアル/ホモエロティック(あのポスターの絵柄をそう読んでもいいだろう)な表象に出会ってホモセクシュアル・パニックが掻き立てられたとき、「女のせいにする」というのが、「腐女子」バッシングの図式とよく似ていたからだ。蘇民祭のポスターは「女性向け」というよりは「男性向け」だったが(といっても、むろん、写真の男は好みでないというゲイ男性も、胸毛の好きなストレート女性もいよう)、そのことは抑圧されて、「女性に対するセクハラ」という、曖昧な、しかし、「ゲイ差別」にも似た俗耳に入りやすい言葉に置きかえられた。このすりかえは、「女性向け」とされるイメージでホモセクシュアル・パニックを起こした男が、もっぱら「腐女子」のせいにするのと構造としては同一だ。

「ホモエロティックなもの」がもっぱら「腐女子」に帰せられるとき、人はゲイ男性の存在を安んじて忘れることができる。「ホモエロティックなもの」の表現(担い手の性別は問わない)が抑圧されることこそゲイ差別であろうに、いまや「腐女子の特殊な好み」(と見なされたもの)を公の場で語ることを抑圧する発言が平然となされている。「ほっておいてください」――やおい/BLに対する批評を拒否する「腐女子」の言葉――とは、第一に、そうした風潮に対する当然のリアクションではないか。


*これはウェブマガジン『コーラ』に載せる予定の拙稿の一部になるはずのものであり、「ほっておいてください」とは、石田仁氏の論考「ほっといてくださいという表明」『ユリイカ』2008年12月臨時増刊号(総特集BLスタディーズ)に言及したものである。
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by kaoruSZ | 2008-04-02 02:05 | やおい論を求めて | Comments(0)
「やおいはポルノではない」とう言明と同様(むろん、すべてのやおいがポルノというわけではないが)、「やおいとは火のないところに煙を立たせるものだ」という文句にも違和感があるが、それは、そうであれば「ホモエロティックなもの」は「腐女子」の妄想、でっちあげ、〈自律〉したファンタジーで、責任はゲイ男性を好き勝手にrepresentした彼女たちにあると非難することにつながるが、事実は違う――これも前々回書いたように、チャンドラーの小説レヴェルで、すでに火は燃えさかっているのだから。

 昨年放映されて私自身のいわゆる二次創作(とは私は呼ばないのだが)の素材にもなった『鋼鉄三国志』について、あれはやり過ぎ、あそこまでやられるとかえってネタにできないという声があると聞いて違和感はさらに強まった。彼女たちは何を言っているのか。確かに「ねらっている」のは明らかとはいえ、あの程度(やおい度)のものなら、過去の映画やドラマや小説にいくらでもあろう。だが、そうしたメインストリームの作品と違い、いったん「腐向け」に分類されれば公然と非難してもよくなる。だから、『鋼鉄』本篇がニコニコ動画にアップされると、「腐女子」こそがホモエロティックな表象の担い手と決めつけた(「腐女子自重!」)、ホモフォビックなコメントが絶えなかった(むろん、楽しいコメントもいっぱいあったが)。

 要するにそこではホモフォビアは腐女子フォビアの形を取っていたのだ。腐女子フォビックな書き込みをする者は、自分のホモフォビアを、ゲイ男性ではなく「腐女子」にぶつけ、「ホモエロティックなもの」と女性の性欲を二つながらに本気にしなくてよいものとしして嘲りながら抹消することができたのだ。友人の言葉を借りれば、マジョリティ(ヘテロセクシュアル)の中のマイノリティ(女子)が一番叩きやすい。むろん、この場合、腐女子は全員ガチへテロで自分の願望を男同士に仮託している云々といった思い込みが前提としてある。

 だが、『三国志演義』でさえすでに「ホモエロティックなもの」を不可欠の構成要素としていたのであり、その書き手は(腐)女子ではありえない。



 前々回に引用した千田有紀さんによる森川論文(『ユリイカ』のBLスタディーズ特集所収)批判を、全篇通して読んだ上で、批判対象である「数字で見る腐女子」も読み直した。(男の)一般人対(男の)オタクという対立の図式をそのまま女にあてはめて、その女ヴァージョンとしての一般女性対女オタク(腐女子)という対立を無理やり作っているだけの論文であり、千田さんのように「森川さんの論考、こういうことを考えさせてくれるという点で、本当に挑発的で刺激的でした」とさえ言えないが、行きがけに二箇所ばかり、森川さんがいかにこじつけに長けているかその手口を示しつつ、そこから考察できたことをメモしておく。

「女性のためのエロス表現」「女性のための男性同士のラブストーリー」という言葉に対して、森川さんは、それは女性一般のためではないだろう、腐女子のためだろう、そう呼ぶのはアニメ絵のエロゲーを「男性のためのエロス表現」だというようなものだ、一般の媒体でそんなことを書けば「オタクのための」の間違いじゃないのかというツッコミが入るだろう、やおい/BLを「女性のための」と枠付けすることには「特殊な存在としての「腐女子」を後退させようとする力学が働いているように見える」と言うのだが(p.130)、これはわざと日本語がわからないふりをして強弁しているのだろうか。
「エロス表現」とはそれほどまでに「男性のための」ものであるとされてきたので、それとは別のものであることを言いたいがための「女性のための」なんだよと、わざわざ説明する必要があるだろうか?

「女性のため」とことわるのは、そうでなければ自動的に男性のためのものと解釈されてしまうからだ。男のための「エロス表現」はあふれかえっているから、この場合は特に「オタクのための」と細分する必要が生じる。

(なお、森川さんが論考の冒頭でパロってみせた、アクセスよけのためウェブサイトの入口に記す「女性向け」はこれとは微妙に話が別だが、今は触れないでおく。)

 これに続く章で、森川さんは「女性一般による腐女子差別に対しては異議申し立ても啓蒙もなされない一方で、やおいの中のゲイ差別的な表現については「無自覚」な腐女子たちに矛先が向けられ、啓蒙しようとなされる」のはなぜか、という問いを立てる。
 そして、「それは、ひどく単純なことである」といって挙げる理由は以下のとおり。「英米には、女性差別があり、ゲイ差別があり、それらに対してフェミニズムやカルチュラル・スタディーズが異議申し立てをしてきた蓄積がある。しかし、英米の学会には、腐女子差別に関する議論などはまた存在しない」。だから、「「一般」対「オタク」の構図は封殺され、代わりに、「男性」対「女性」や、「ヘテロ」対「ゲイ」の構図が強調的に前面化される」。

 まあ、ひどく単純なのは確かだ。「「一般」対「オタク」、あるいは「女性」対「腐女子」の構図で文章を書くための単語帳や参考書はアマゾンでは扱っていない」って、そんなことで“BL学者”を揶揄しているつもりだろうか。「一般」対「オタク」というのは男の特殊事情で、女の場合にそのまま重ねることはできない。そこまでして腐女子を「女のオタク」にしたいのか。「レズビアン&ゲイ なんとか」と銘打ってゲイ男性の話ばかりし、レズビアンについてはよくわからないからと言いわけしつつアリバイとして女を入れる連中もウザいが、これと比べればわからないと言うだけましに思えてきた。

 しかし、“学者”の揶揄は、私もしたい気がする。それには、次の部分が使えそうだ。

 そうしたやおい論や腐女子論を特徴付けるのは、もっぱら〈女性〉が「男性同士のラブストーリー」を対象にしていることにクローズアップした論述が展開される一方で、その媒体が、漫画・アニメ・ゲーム・ライトノベルなどの、いわゆるオタク系に偏っていることに関して、おおむね不問にされていることである。

〈女性〉が「男性同士のラブストーリー」を対象にしていることにクローズアップした論述が展開されるのは、その齟齬(見かけ上の)にこそ問題の核心があると見なされるのだから当然のことだ。だが、媒体の片寄りに関しては、別の理由があると私は思う。

 それはひどく単純なことだ。やおい研究者たちがまだそこまで手を広げられないから、あるいは、手を広げられない人がやおい研究者をやっているから。商業出版のジャンルとしてのBLにとどめておけば、少なくとも研究としての恰好はつこう。媒体の片寄りは単なるその結果であり、オタクうんぬんは関係なし。

「岩波講座 文学」の『身体と性』の巻で、何をもって〈ゲイ文学〉と呼ぶかについて論じながら、ゲイとは無縁の物語さえもゲイ文学へと変換し、あれよあれよという間に理論上すべての文学はゲイ文学でもあるという地点にまで至る大橋洋一の身振りを見よ。「理論が作品をマッピング」!
 やおいも基本はそれと同じだ。
 
 女が明示的ゲイ文学を読むのもやおいだよ! (だから、「やおいとは火のないところに煙を立たせるもの」という言説は違和感なのだ。)
 塚本邦雄をやおいとして読むとか、ユルスナルをやおいとして読むとか、私が言っているのもそういうことだ。

 もちろんそれは差別だ。前にも書いたが、女が関わる場合だけ、それを〈やおい〉と呼ぶのは差別。 
 だからあえて呼ぶ。

 最後に一言――森川論文で驚いたのは、末尾に守如子さんへの謝辞があったこと。守さんの書くものを知っている人なら私同様驚くだろうし、知らない人やあまり知らない人は、論文の著者に賛成なのかと思いかねない。守さんにしたら大迷惑だ。それとも意地悪でやってるのか。
 守さんに聞いたことをどう曲解したのか知らないが、この内容で、「執筆にあたり、格別なご教示を頂いた」なんて書いたのでは守さんに失礼だろう。
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by kaoruSZ | 2008-03-29 22:45 | やおい論を求めて | Comments(0)

補遺

Mさま

>男女間の逆照射とやおいを読む人は、男同士の関係性に反応できていない人というわけなんですね!!

「政治的腐女子」という言葉を最近思いついたもので、千田さんのブログを見てさっそく適用しちゃいました。

「それが悪いというのではない」とフォローしたのは、現実の男女間の関係も反映しているのは当然だからですが、ただ、そこから話を始めようとしたり、そこに「原因」を求める態度は最悪と思っています。

フィードラーの本から、「ホモエロティック」という別に新しくもない言葉を持ってきましたが、これの利点は、今、ホモソーシャルを腐女子がホモセクシュアルに読み替えると知ったかぶりに言われていますが、実はその手前ですでに男同士の関係性が(腐女子の手が触れずとも)エロティックなものとして成立していることを示せるところではないでしょうか。

ちょっと考えていたのは、やおい/BLはポルノじゃない、と言う人は、何を言おうとしているのかということ。
ポルノじゃなくても、「ホモエロティックなもの」にぐっと来ているんですよね。
フィードラーから引用した中に、「作中人物やその作家たちが男色に耽っていると主張しているのではない」とあるでしょ。『男生女相』に出てきた武侠映画の監督も、男たちの関係性を利用しているのであって、三国志の英雄たちがホモセクシュアルだったというんじゃない、というようなことを言ってましたが。

それをホモフォビアと呼ぶ必要は必ずしもないけれど、そこで踏みとどまる必要もないわけで。

あと、女にとってこの「ホモエロティックなもの」とは、勝手に思い描いているわけでは全くなく、本来は、女には入り込めない、当事者になれない、そもそも(過去の時代には完全に)そこから閉め出された文化の中の領域をappropriateしているわけで、その意味では贋物だけど、ゲイを好き勝手にrepresentしているというのは大嘘だと思っています。
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by kaoruSZ | 2008-03-26 00:25 | やおい論を求めて | Comments(0)

“政治的”腐女子?

 続き物の(下)は、「季刊コーラ」のための原稿を仕上げてからになる見込み。(下)で終わらない場合は、ある日カッコの中が数字に置き換わっているかもしれません。

 それまでは、「コーラ」用の草稿をぽつぽつ、メモとして置いてゆくつもりです。

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『レイモンド・チャンドラー読本』に収められ日本の男流評論家の無邪気な賛美の傍で異質な光を放っている「ホモセクシュアルの翳」(マイクル・メイスン)は、チャンドラーの小説がミッキー・スピレインのような「殺人を欲望で彩り、暴力に色情症の風味を添え」たポルノまがいではなく、男の友情の強調と異性愛に対する嫌悪(探偵が女と寝る時でさえ)からなっていることを指摘している。実際、チャンドラーの長篇で美女が出てくればそれは殺人者と相場が決まっており、しかしその描写は妙に官能性を欠く反面、男の魅力には敏感で……。

 こんな回りくどいことをせずに、不愉快な女が出てくる場面はすべて削って、フィリップ・マーロウが惹かれている(たとえば)大鹿マロイと邪魔者なしに愛し合うようにすればそれだけでもう「やおい」になるわけだが、実は上記のような点は『アメリカ小説における愛と死』でレスリー・フィードラーが、アメリカ文学の特徴として(成熟した異性愛を描けないとして批判的に)指摘していたものであり、メイスンの論文はフィードラーが上述の「ポルノまがい」の探偵小説家としてチャンドラーの名をも挙げたことへの異議からはじまっている。現に、チャンドラーの小説は、フィードラーの本の一章で典型的な一例とされてもおかしくないほどだ。

 性的なものを潜ませた「同性愛[ホモエロティック]の物語」としてフィードラーが挙げるのは、実際には性交渉を持たない男たちの関係で、たとえば長々と分析されているのはおなじみ『白鯨』のイシュメイルとクィークェグの場合だ。彼らの結びつきには「結婚」という比喩が使われているが(これはつい先立っての『鋼鉄三国志』を思い出させずにはいない)、十九世紀のアメリカでは、男同士の関係は「邪悪な女」に対する防波堤と思われていたというのだから、ミソジニーもいいところで、一方、同性間の性関係は想像すらできないほどにホモフォビア(この言葉は使われていない)が強かったということになろう(男同士の関係なら純粋、つまり肉体を欠いているので安心という言説は、ほとんど女同士について言われているのかという錯覚を起こさせる)。

 ホモソーシャルという用語もなかった時代に書かれた本なので、フィードラーは、実際の性関係を含む「ホモセクシュアル」に対しては「ホモエロティック」という語を対比させている。「……私は、ある作中人物やその作家たちが男色に耽っていると主張しているのではないことをはっきりさせたかったのである。それ故、できる限り、「ホモエロティック」以上に耳障りな「ホモセクシャル」を避けたのである」

 だが、この言明の直後に「(翻訳では区別しなかったことをお断りする――訳者)」と、抑圧したものが行も替えずに回帰しているのには笑わされる。つまり、すべてを「同性愛」としてしまったということだろうが、なかには「ホモエロティック」のルビも見られる。

 ホモセクシュアル/ホモエロティックの対比は、少々手垢がついてきたホモソーシャル/ホモセクシュアルの対と較べても、かえって新鮮に見えるような気がしてきた。というのは、やおいはホモソーシャルをホモセクシュアルに読み替えるなどとこともなげに言われてしまう昨今だが、それ以前に、身体を交えずとも「ホモエロティック」がないことには(それが感じられないことには)、そもそもそのような読み替え自体ありえないからだ。「やおい」に性的描写はなくてもいい、かえってほのめかしにとどめた方が好きだ、あるいは、やおいはポルノではないと主張する人々がいるのも、そうした「ホモエロティック」に魅了されるあまりだろうと私は理解している。

 ところで、ホモソーシャル/ホモセクシュアルの違いを知るまで、自分は男性同性愛者を、女を差別するものだと思っていたという上野千鶴子は、当然のことながら「ホモエロティック」には惹かれないのだろうが、そもそもホモソーシャル/ホモセクシュアルの関係をどうとらえていたっけ? と思っていたら、おあつらえむきの答えがウェブ上にあった。

http://www.kinokuniya.co.jp/02f/d05/scripta/nippon/nippon-2.htm

 上野さん、フロイトが生物学的決定論でないことをいつ理解したのか? 名前が出てくる斎藤環に教わったのか? 

 ついでに言うと、私が一つ前のエントリで引用した高橋睦郎は、三島、美輪とともに、上野さんが彼らしか知らなかったために男性同性愛者=女性差別主義者と「かんちがい」したという三人組のひとりである。 彼の名前だけ覚えてない人がいるので念のため。

 これはあとで利用するとして、もう一つ、偶然見つけたものを下に貼っておく。千田有紀さんのブログだが、「ホモエロティック」を感じられない体質の女がBLを読むというケースをよくあらわしているように思われた。「ホモエロティック」を知るのにBLというジャンルに出会う必要はない。「やおい的感受性」は早ければ物心ついた時にはもう「構築」されている。

 冒頭で「前の『腐女子~』」と言っているのはユリイカの一冊目の特集「腐女子マンガ大系」のこと。男‐男に感応しないのなら、ヘテロセクシュアリティに対する批評(「男女の間にあるさまざまな関係が逆に照射されてきて」)としてフェミニスト的に読むしかあるまい(それが悪いというのではない)。

 なお、ここ(これは続きもののほんの一部)で行なわれている批判自体には賛同する。というか、批判する価値もない対象と思うが。

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(以下引用)http://blog.goo.ne.jp/yukizoudesu/e/3fdfcc5998f42669f709fc43f8791718


前の『腐女子~』を読んでわたしが衝撃を受けたのは、BLの読まれかたの違いに気づかされたところです。本当に読みかたって、多様なんだなぁと。確かに、「BLはポルノ」という言い方をされることがありますが、自分は少女マンガの延長で読んでいたので、この「ポルノ」っていういいかたは、「メタファー」だと思っていたんですよ。いや本当に、上品ぶるわけではなく。ところが、本当に「ポルノ」として読むという読み方があるんだ、ということを突きつけられて、眼から鱗というか、何というか、衝撃、としかいいようがありませんでした。

そうか、ポルノだと考えれば、人前でBL読むとかいいにくいよなぁ…。なんだか妙に納得。わたしは社会学者なので、「実にジェンダー論的に面白い」というか、読んでいると、男女の間にあるさまざまな関係が逆に照射されてきて、面白いなぁと思って読んでいるという自己正当化ができるからかもしれません(いや単純に面白いんですよ、作品として)。でも本当にびっくりしたんです。

考えてみれば、24年組→白泉社系で、ひとまずピリオドを打ったわたしの読書経験としては、BLに触れたのは、今度は30を過ぎてからなんですよね。この年になったら、(あの程度では?)ポルノとしては機能しないんですが、中学生とか高校生には確かに刺激が強いのかも…。そしてその頃から読んでいる読者がそういう読みを身につけていても、なんら不思議ではないですね。

あと、やおいとBLは違うんだなぁとも思いました(相対的にですけれど)。金田さんはやおい同人誌が好きで、商業誌はそれに較べるとあまり好きではないとおっしゃっていたけど(知っている後輩に「おっしゃって」とかいうのもなんか照れ臭いですが、ここでは敬意を表して敬語に)、わたしはやおい同人誌を作っているひとは楽しそうだなぁと、同人活動を羨ましく思いますけれど、作品としては同人誌はあんまり好きじゃないんだろうなぁ。商業誌にやおい同人誌的なものが出てきた(尾崎南が『マーガレット』に連載開始とか)ときに、わたしはこの手のものから離れたのは、偶然じゃないと思うんですよね(あ、やおい=同人誌、BL=商業誌って本当に乱暴なくくりですけれど、ここでは暫定的に)。
(後略)
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by kaoruSZ | 2008-03-25 07:18 | やおい論を求めて | Comments(0)

明智探偵の夢

「ヒーローはおじさんだった」の記事、たんにヒーローの年齢の高さが問題なのではなく、「少年探偵団」との関係について書こうとしていたはずが、すっかり抜け落ちていた。以下にあらためて。

 そう、ベイカー・ストリート・イレギュラーズと書きながら、江戸川乱歩の少年探偵団を落してしまった。まねっこ乱歩のオリジナリティは明智探偵×小林少年にある。リンゴのほっぺの健全な美少年は戦前の少年倶楽部から、思えば、私が幼稚園のとき二年間うちで取っていた「小学一年生」誌上の連載にまで登場していたのだが、子供が出てくるのは読者の同一化の対象を作ることであると同時に、作者から見れば性的対象としての少年の造形のためだろう。少年探偵団とは明智小五郎の夢だったのだ。明智×少年、あるいは、明智のもう一つ(一つ?!)の顔としての怪人二十面相×少年。ここまでは成年男子(おじさん)としての乱歩の対象愛だが、「父は昔 たれの少年」(塚本邦雄)なのだから、乱歩だってもともとは少年、少年への同一化だってするのだ。

 だからこれは年長者であると同時に少年である「おじさん」のホモエロティックでナルシスティックな夢と言える。そして、女性に分類される主体でこの図式に感応する者にとって〈受け〉とはなぜ「少年」であって「少女」ではないのかと問えばこれはやおいの話になる。
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by kaoruSZ | 2008-02-22 10:51 | やおい論を求めて | Comments(0)
 拙稿「緊急座談会「『鋼鉄三国志』は〈事件〉か?」by 鋼鉄オールキャラクターズ」の載った、黒猫房主の主催する ウェブ評論誌「コーラ」3号出ました
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html

 それに先立って、Mさんに鋼鉄のキャラだけでも見てもらおうかと思って、今、ウェブで、『鋼鉄三国志』どれくらい見られるのかちょっと調べてみた。
 それで久しぶりにオープニング見たら……発見してしまった。というか、私が今まで見間違っていた!

 上記座談会中、凌統の発言として――「腰じゃねえ、尻だよ、尻。孔明の奴、羽の扇子持ってないほうの手で兄貴の尻触ってやがった」と書いてしまったのだが、孔明、扇持っていない! 両手で陸遜を抱いている。 みんな、こういうオープニングを見ていたのね。それなら騒がれるはずだと今頃尚更今更納得。
 どうして間違ったかというと、「鋼鉄」の孔明は左肩に、水平に突き出た翼様のものを飾りとしてつけているのだが、はじめてこのオープニングを見たとき、そんな衣裳とは知るはずもなく、孔明のアットリビュートの白羽扇を左手で高く掲げ、右手で陸遜(とはまだ知らなかった)を抱き寄せていると思ってしまったのだ。

 そのときの印象のまま今まで来てしまった。(こういうことはたまにやる。人と違うオープニングを見ていたわけだ……。あのオープニングからして……と人が書いているのを読みながらも、実は認識にズレがあったわけだ。困ったものです。黒猫房主へ即訂正依頼。)それにしてもオープニングの、そのときは未知だったキャラたちに見入っていると、何も知らずにはじめて見た時の感覚が甦り、まさかこうなるとは夢にも思わなかったなあと感慨が……。

 ところで、孔明の翼は左だけだし、袖も左右で違うし、陸遜にしても凌統にしても、皆アシンメトリーが際立つコスチュームだ。服装が変わらない(孫権は例外)のは少年マンガの特徴として、このアシンメトリーは日本的なのだろうと最初に思った。というのは、高島俊男の本で日本では左右非対称が好まれるが、中国では断然左右対称だと読んだところだったから。

 こんな三国志にして中国に怒られないかという書き込みがほとんど紋切型になっていたけれど、なあに「Three Kingdoms」が潜在的にそういう話だということは『男生女相』に出てきた武侠映画の監督も認めていた――「ただし三国志の英雄たちがガチホモってわけじゃないよ」(意訳)。それを顕在化させたときの反応が「腐女子自重」や 「自分も腐女子だけどこれはやりすぎだと思う/ついて行けない」といったコメント[後者は分をわきまえ〈自重〉する良い腐女子であることをアピールするいわば改悛言説]だったのは興味深いが、「座談会」では残念ながらそのあたり十分突っ込めていない。

 さらに、今回書ききれなかったことというか、キャラが喋っているので入れる余地がなかったということもあるんだけど、ともかく洩れてしまったことに、ここに出てくるのは男ばかりだけど、男が本当にカッコよくて価値があって男同士の関係こそが最高だなんて、夢にも思ってくれるなよ(註2)ということがある。

 私自身はネタとわかって書いているわけだけど。「男への愛」からやおい書いてるわけじゃないんだけど。 でも、ベタで教育装置としても機能しうるわけで……。時々心配になる。ミソジニーに加担してしまっているんじゃないかってことに。

 やおいは「ホモフォビアに依存しつつさらにそれを再生産する、二重のホモフォビア装置」という妄説(あえてそう呼ぶ)をもじって、やおいは「ミソジニーに依存しつつさらにそれを再生産する二重のミソジニー装置」と言ってみる(しかるのちそれを否定する)……と言ったセンで考えてみる(今度)。
 ついでにメモしておくと、「男らしさ」に依存/寄生しているという点では、ゲイ男性の場合とも構造は同じ。(cf. レオ・ベルサーニ)

(註1)レズビアンのオモチャでもないけどね。
(註2)これはいうまでもなく女性に対して言っている。
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by kaoruSZ | 2007-12-17 10:42 | やおい論を求めて | Comments(0)
『赤壁の宴』という小説[絶版]に対するAmazonレビューから。

「女だから書けた」という宣伝すら同性として恥ずかしい気がします。
たしかに男性がゲイ小説書くとは思えませんものね。

 これが「表象の剥奪」ってやつですか?>石田さん

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by kaoruSZ | 2007-08-12 08:35 | やおい論を求めて | Comments(0)