おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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シロクジラ 可憐な収縮

 どういうスタンスで行くかずっと決めかねていたのだけれど、日記「のように」書くことで、ともかくも始動することにした。

2004.9.29(水)台東区立中央図書館へ。行くのは二度目。世界文学全集は揃ってないようだ(本当はどうなのかと思ってウェブで調べかけたら、図書館別の検索になっていなくてやりにくい。『ボストンの人々』の月報はなさそう。〈集英社ギャラリー世界の文学〉の「アメリカ文学」をためしに開くと、収録作品名がカタカナで並んでいる。それはいいのだが、「シロクジラ オウゴンムシ ヒモジ」ってアナタ……。帰り、新仲見世まで歩く。図書館に着く前、横断歩道で信号を待っていたときに、前にいた、それぞれ自転車に乗ったおばあさんと小母さんの会話——「浅草寺へはどう行くんでしょう」「ここをまっつぐ行って右へ入ると……」を聞いていたので迷わないし、そこまで行けば超方向音痴でもさすがに勘が働く。「まっつぐ」と言う人を見たのは久しぶり。六区の映画館、昔の建築はすべて消え失せた。先頃生き延びた花やしき、見上げると遊具の廻転が建物のあいだに瞥見される(父の生家の元使用人が花やしきの木戸番をしていたので、父たちは家中で行ってタダで入れてもらえたという。戦前の話)。親に連れられてよく来た「つるや」へ。最後に来たときは一人で、それからどれくらい経ったろう。テーブル席なので昔上がった座敷は見えないが、つくりは変わっていないとおぼしい(一軒おいてマクドナルドの大店舗——何軒かぶち抜きの間口——になっていてちょっと驚く。きっともうずっと前からあるのだろう)。うな重、無印と「上」があって(昔はどうだったのか? 親がかりだったからわからない)、無印の1800円を頼む。昔は肝吸いをなめこ汁に替えて注文したもので、品書きにはなめこ汁になったセットもできていたけれど、やめておく。そうでなくても1800円だし。うなぎ、味はよいが、御飯にまでタレがかかり過ぎ。昔はここが一番と思っていたが、あらためて戸田の「うな仁」もなかなかのものだと知る。父は一時期、毎週のように戸田に来て、私を連れ出してうな仁へ行っていた(毎週では飽きると贅沢を言って、こっちは天ぷら定食にしたりした)。つるやはおこうこだけだが、うな仁はもう一品ついてくるし(それともあれは「松」だったからか?)。ごはんにタレがしみ過ぎでは、おここで食べる余地もない。おかずが足りなくてごはんが余っちゃうのは困りものだが、過ぎたるもねえ。つるやは美味しくてあたりまえのような気がしていたので今回普通の味と思ったが、それは不味いうなぎを食べつけないからかもしれない。

 降り出した雨の中をバスで帰り、借りてきた本を読む。『女が読む近代文学—フェミニズム批評の試み』(1992)から、田嶋陽子「駒子の視点から読む『雪国』」。田嶋さんの教え子Hちゃんが「田嶋先生は文学批評の人」と言っていた意味がわかるような(今は昔かもしれないけれど)。「差別以前の区別という、女性にとってこの上ない残酷な状況を、実に正直に、見事に描き切っている」という結び(川端は他者との対等な恋愛などという幻想からほど遠かったために、かえって描き切れたということ)、昨今の、区別は差別でないと公言する恥知らずどもに聞かせてやるべきだな。女の感触をなまなましく覚えているという例の「人差し指」を「ペニスのシンボルである」と言い切ってしまうところなどは粗い感じだが(ペニスへ移行させるよりも指のままにしておいておいた方が有効な場合もある。そう言って人差し指を突きつけるのは、ペニスを突きつけるのより相手を玩具視している度合が強いだろう。それにわざわざ「左手の」人差指に限っているし。さらに言えば、男根を持たなくても指は使えるので、これをペニスに自動変換するのはファルス中心主義では)。しかし、次の引用文を見てあらためて思ったが、これも有名な、蛭のような唇と膣のダブルイメージは、シンボルなどという言葉を持ち出すまでもなく、小説中に露骨に書かれていたんだな——「あの美しく血の滑らかな脣は、小さくつぼめた時も、そこに映る光をぬめぬめ動かしてゐるやうで、そのくせ唄につれて大きく開いても、また可憐に直ぐ縮まるといふ風に、彼女の体の魅力そつくりであった」。ここ、なんといってもポイントは、「可憐に」という形容でしょう。「三國志遺文——孔明華物語」にアプロプリエイト[流用]してやろうかしらん。その「華物語」で一部擬古文を使う勉強用に、全訳の対訳がありがたい「日本古典文学全集/落窪物語 堤中納言物語」も重いのを借りてきた。「落窪物語」ははじめて読む。例によって几帳のかげのお姫さまは手引きされて男が入ってくればやられるしかないが(けれど男がよい人で+朝になって女を見るとかわいらしい顏なので)、結局は幸せになる。やられること自体よりも肌着が粗末なのに死にたい思いをするという“リアリズム”。それにしてもこのお姫さまたち、男が帰ればまた横になっているし、足がないみたいだ。

『女が読む』より、漆田和代「「渾沌未分」(岡本かの子)を読む」。『渾沌未分』は未読だが、自慰の描写ではないかという指摘面白し。漆田さんは居酒屋じょあん代表とあり、ウェブで調べると今もそうだった[現「花のえん」]。イメージ&ジェンダー研究会で藤木直実さんが森しげについての発表をしたときのコメンテーターでもあるとわかる。つるやのうなぎ腹持ちがよく、これは不規則な生活のせいだが頭痛がして、夕飯抜きで寝てしまい、また起きる(こういう生活がいけないのだが)。関礼子「闘う「父の娘」—一葉テキストの生成」、小林富久子「『女坂』—反逆の構造」も読む。桃水に師事する以前の一葉の習作はじめて知る。「 人中へ顏を出さないなんかつていふのは昔の事ですわましてわたしらなんざ何かまふことが有ますもんかいくらでも御金のとれることをして早くよくなる工夫をするのですもの夫に最下等の七銭より外とれないだろふといふこともなかろうかとわたしや思ひ枡わ[中略]ネー兄さんどうぞ出して頂戴な」ううむ。一葉の日記に文語でいきいきと書かれた桃水との会話(おしるこを手づからすすめられたり)、実際にはどう喋っていたのだろうと友人に言ってそのとおりだったんじゃないのという答えが返ってきたことがあるが、むろんそんなことはありえない(千束あたりだから、「まっつぐ」と言っていたかも)。デリダの「ジャンルの掟」という言葉、バーバラ・ジョンソンの『差異の世界』で引かれていたのか(関論文)。今度調べてみなければ。30日朝、頭痛おさまらないまま出勤。
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by kaoruSZ | 2004-09-30 18:36 | 日々 | Comments(0)

私の選んだ3本の映画

b0028100_2157040.jpg(1)『ロシアン・エレジー』(アレクサンドル・
 ソクーロフ監督 1996)
 たぶん私たちが来る前に物語は終わっていたのだろう。今しも一人の男が病室で最期を迎えたところだ。彼の目を覆いつくしたのと同質の闇の中で動かぬ私たちの耳に、それでも〈外〉からの物音が聞こえてくる。やがて音は光を放って、緑したたる戸外を構成する……映画が本質的に夢であり、もっとはっきり言うなら死後の夢であり、目を閉じてなお見えてくるもの、瀕死の耳になお聞こえてくるもの、妄執に似た何かであり、生まれたての羊歯のように私の目の前でほぐれてゆく、みずみずしい人生(むろん贋物の)であることをあらためて教えてくれる作品。

(2)『東京暗黒街・竹の家』(サミュエル・フラー監督 1955)
 来日したギャングのボスは立ち並ぶ朱塗りの柱の間からフジヤマが見渡せるとんでもない家に住み、ホモソーシャルなギャングは潜入捜査官ロバート・スタックにボスの寵を奪われて嫉妬に狂い、家庭用檜風呂(懐しい)で入浴中に愛するボスに射殺されて、風呂桶の側面に弾丸があけた穴からお湯がピューと噴き出す。李香蘭の名を捨てシャーリー山口と名乗る山口淑子がスタックの相手役をつとめ、浅草松屋・屋上遊園にそびえ立つ土星形大観覧車(懐しい向きもあろう)で最後の戦いが行なわれる、戦後日本のドキュメンタリーというべき作品(かつては国辱映画と呼ばれた)。

(3)『夜半歌聲』(馬徐維邦監督 1937)
 三十年代上海の特異な映画監督マーシュイ・ウェイパン。顏を潰された美男、二度と会えぬ恋人の立つ夜のバルコニー、荒れ果てた劇場、貴方が松の木なら私はそれに巻きつく蔓(かずら)と夜の風にのせて切々と歌い上げる声は、『オペラの怪人』(1925)の翻案であり、六十年後にレスリー・チャン主演でリメイクされる正統的メロドラマだが、ジェイムズ・ホエイルに倣って怪人を丘の上へ追いつめ、群衆に焼き殺させた監督は、続篇(『夜半歌聲續集』)では生き延びた主人公を古城のマッド・サイエンティストに手術させ、素顔のままでも黄金バットの化け物に変えてフランケンシュタイン化をさらに進行させる。『竹の家』とは逆のベクトルによる異種混淆の傑作。

                      (初出「La Vue」14号 2003年8月)
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by kaoruSZ | 2004-09-25 21:18 |  (映画)

構築中

もうしばらくお待ち下さい
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by kaoruSZ | 2004-09-24 20:36 | 日々

性という症状

 フランセット・パクトー『美人—あるいは美の症状』 
 (浜名恵美訳・研究社)

 美人といえば女。男はみんな美人が好き。女なら誰でも美しくなりたい。美しく装うのは女の特権(にして義務)。「男だってきれいになりたい」?——だが、男でさえそう主張するとしたら、女はますます、美しくあれという命令から逃れられないわけだ。
 美の担い手とされる女性は、だが実際には(当然のことながら)、若くて美しい人ばかりではない。たとえそうであったとしても、そうであり続けられる女は一人もいない。
 とはいえ、現実の女と非現実的な表象とを、単純に対立させるつもりはない、とパクトーは言う。歴史的・文化的な美の基準の多様性も、すでに知られた、言い古された事実であるから、そう主張して、男の押しつけでない 別[オルタナティヴ]の美を探ろうというのでもない。著者の関心は、美の帰属する対象よりも、美を何かに帰属させる行為自体に、それを美と見なす人の目が結びつけられている心的装置に、すなわち、そのもとになる幻想[ファンタズム]に向けられる。
 原題は“The symptom of beauty”で、これは「美という症状」と解しうるだろう。巻末の術後解説によれば、精神分析でいう「症状」とは、病気の表現ではなく、〈無意識的幻想の現実化〉の謂であるが、自分が他者にとってイメージであることを否認する男性の異性愛——著者に言わせれば、なぜ女性は自分のイメージにとらわれるかということよりも、むしろこちらの方が問題だ——を病気と考えるなら、女性に美を帰属させる男性の行為を病気の表現と見なしたとしても、あながち的外れではあるまい。この病理を幼児の発達心理によって解き明かす、といえば精神分析的読みの常道だが、多彩なジャンルの女性表象をめぐる議論は、単純な図式に還元されるものではなく、読み味わうに足る見事なものだ。
 最後に著者は、幻想の自己愛的次元、到達できないイメージとして生きられる女性のナルシシズムに筆を進めるが、そこで確認されるのは、そもそも男女どちらの子供にとっても、〈主体〉とは、鏡の中の他者として見出されたイメージ以外のものではなかったという事実である。(初出『季刊幻想文学』)
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by kaoruSZ | 2004-09-24 10:05 |  (性、フェミニズム)
M: つまらない原作からでも素晴しい映画は生まれる。この映画について原稿を頼まれる仏文学者の多くは、たぶん、映画とは無関係の文学史的知識を駆使した上で、映画にしちゃあよくやったと結ぶでしょう(もっと控えめな言い方で)。でも、それは、単に彼らが映画を知らない(そして愛していない)から。映画はもっとやれるんです。たとえそれが素晴しい原作から作られた映画であってさえ。

Y: 私は最初の、写真を見せてこれは誰これは誰っていうところで、もう、ダメだ名前覚えられないって思っちゃった。

M: 原作のどこかでプルーストは、「誰かをそれなしで思い出すよりはるかに少なくしか思い出させてくれない写真」と言っています。

Y: なんかすごい皮肉。監督は知っててやってるのかしら。

M: プルースト読んでない奴はおつけで顔を洗って出直してこいと言ってる(もっと控えめな言い方で)監督だから、知らないはずはありませんが。

Y: 私なんぞ門前払いなのね、しくしく。

M: ハリウッド的話法を随分バカにしているようですが、その最良の部分を受け継いだクリント・イーストウッド監督の『スペース カウボーイ』を見てきたばかりなんで、なおさら、原作にもたれかかった自堕落さには目を覆いたくなりました。

Y: でも、男はいつまでも少年、みたいな話は嫌いだな。

M: いや、『スペース・カウボーイ』は老いと死についての映画ですよ。一言もいわれなくたって、あれを見れば、イーストウッドはあと何本映画を撮れるだろうかと胸をしめつけられずにはいられない。それに較べたらこの映画で、主人公が、私には作品を完成する時間があるだろうかと自問してみせたところでおめでたいだけです。

Y: なんかあの人、敷石がめくれたところに足引っかけて転びそうになったきり固まってましたね。

M: あれは、ヴェネツィアで同じ体験をしたときの感覚が甦ったってことなの。

Y: えー、わかんないよ、そんなのー。

M: 不揃いな敷石で躓いた拍子に過去が甦るという他人には知られぬひそやかな体験のはずなのに、足跳ね上げたままストップ・モーションだものね。
   
Y: ダサーい! 

M: スプーンがカップに当たる音が、以前汽車の中で聞いた車輪を叩く音につながるというところも……。

Y: あ、あれは私にもわかった、ガチャガチャやってくれたから。

M: だけどあれ、スプーンの立てる音なんだから、もっとかそけき響きだと思うのよ。以前、交通博物館で満鉄の記録映画、つまり昔の国策映画を見たことがあるんだけど、小さなハンマーで機関車の車輪を叩いて点検する場面があって。音は入ってないのに、その瞬間、頭の中でかすかな音がしてプルーストのページが甦りました。

Y: こ、国策映画……Mさん、スクリーンでものが動きさえすりゃ何でもいいんですね。

M: 映画の基本は運動。乗物は映画にとって特権的な対象です。

Y: 話は変わるけど、登場人物がごく普通にバイセクシュアルでしたね。

M: そこらへんはセジウィックが『クローゼットの認識論』で扱ってましたね。ジョン・マルコヴィッチのシャルリュス男爵は悪くなかったけど。そうそう、あのシャルリュスが持ってる本の題名ね、原作では、英語にすれば“Between Men”★なの。

Y: ひゃあ! プルーストってセジウィック読んでたんだ。

                      ★E.K.セジウィックの主著の表題
 
                              (初出“LOUD NEWS”)
                               
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by kaoruSZ | 2004-09-22 17:51 |  (映画)
 『ファウスト』/『短編集』ヤン・シュワンクマイエル監督

 のっぺりした現在ばかりが幅をきかせる東京では、たとえば、シュワンクマイエルの紹介文(批評とは言うまい)に「シュールな」なるカタコトを見つけて思わず眉をひそめてしまうが、今回の『短編集』に含まれるBBC制作の彼自身へのインタヴューで、ゴーレムを思わせる粘土人形の作り手たるシュワンクマイエルが、ルドルフ二世の都(二十世紀には、そこはスターリニズム下のチェコスロヴァキアの首都であった)プラハにあって、自分は今なおシュルレアリストだと語るのを聞けば、彼の地の歴史の厚みにあらためて思いをいたさずにはいられない。「シュールな」とは、現実離れした、程度の意味なのだろうが、彼の作品は現実を超えた別世界というようなものでは全くない。『ファウスト』における、人間と人形の、屋外と屋内の、本筋と劇中(人形)劇の、虚構の空間と現実のプラハ市街との、自在な通底と浸透を見よ。(ちなみに巖谷国士によれば、シュルレアリスムとは「レアリスム」を超える「シュル」+「レアリスム」なのではなく、「超現実」が実在する、とする「シュルレエル」+「イスム」なのだという。)彼は、現実においてなんらかの意味を担わされている映像を他の映像と隣合わせに置くことでたんにその意味をずらすのだ。創造せずに組み合わせるデミウルゴス。人間を含む現実のオブジェは、二十四分の一秒の光の染みへと分解され、他の断片に接続されて作動する。アニメーションが生命を吹き込む技だとしても、撮られたものはその時点で死んでいる。いや、現実の生死には関わりなく、以後は永遠に(フィルムが摩滅するまで)、血肉を抜き取られた見せかけを繰り返すことになる(とはいえ、シュワンクマイエルの世界には、血も肉もふんだんにある——あなたは、小麦粉にまみれて愛し合う肉片を見たことがおありですか?)人形の頭部をすっぽりかぶせられる人間たちは文字通りがらんどうで(喋る言葉はゲーテとクリストファー・マーロウの口うつしだし、くたびれた中年男の姿をした悪魔との契約だって、人形に変身してから結んだものだ)、絶えずスラップスティックに解体する。彼の作品は現実の不確かさを象徴している? そうかもしれない。だが、〈超現実〉に不確かなものは何もない。それはカタカタと永久運動を続ける魅せられた機械であり、魔法の杖の一振りが現実のただなかに呼び込んで、単純な仕掛けに魅せられた子供たちの前で繰り広げる〈強度の現実〉だ。映画館の座席の上で、私たちの眼は驚きに見ひらかれ、もっと驚かせてもらいたがっている子供の眼になる。それともそれは、スクリーンという鏡の中からこちらをねめつけている粘土の頭部に埋め込まれたあの眼であって、見返す私たちもとうに粘土あたまなのではないか? さあ、あなたも、バケツ一杯の粘土に戻されてしまう前に、一刻も早く映画館に駆けつけるべきだ。

[公開時旧稿]
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by kaoruSZ | 2004-09-22 17:49 |  (映画)

ソクーロフ覚え書

 アレクサンドル・ソクーロフの作品の幾つかをほとんど予備知識なく見るとき何が起こるか。たとえば、『ストーン——クリミアの亡霊』。冒頭、闇に沈んだ建物の外観が映しだされ、続いてキャメラが屋内に入ると、何やら火花の散る浴室で男が水を浴びている—— それを発見する青年。その建物がチェーホフの、今は記念館になっている旧宅で、青年はそこの管理人だなどということは、前もってこの作品について情報を得ていた者にしかわかりようがない。まして、浴室の男が甦ったチェーホフだなどという荒唐無稽な話を誰が想像しえよう。私たちがスクリーンに見るのは深夜の奇妙な邂逅ばかりだ(むろんそのことは、私たちがそれに魅惑されるのを少しもさまたげはしない)。あるいは、『日々はしづかに発酵し……』。中央アジアのどこかの町に流刑されたかのように派遣されてきたらしい若い男。映し出されるエキゾチックな風土と人々の生活は、ブニュエルの『糧なき土地』を連想させるドキュメンタリーとも見える。主人公の身に次々と起こる、物語に収まりきらない奇妙な出来事。友人の家の壁の一部はなぜか真っ黒に焦げ、毛が生え、膿のようなものを滲ませている。何なのだろう、明らかにミニアチュアである夜の町を規則的に照らしだすサーチライトは。突然現われた男の子は。先へ行けば、当然それらについてはしかるべき説明がされると思いきや、内陸だとばかり思っていたところに忽然と湖が出現し、船出する友人を見送るところで物語は不意に断ち切られる。さらに唖然とすることには、町自体、幻であったかのようにただの砂漠に還る(これもミニアチュアとはっきりわかる)。パンフレットを見るなら、原作がストロガツキー兄弟のSFであり、奇妙な出来事は宇宙人の干渉によるものだと知ることができるが、しかしそんな知識が何になろう、ソクーロフが一切の謎解きを省いてしまった以上——。
 物語は口実だ。それは『ロシアン・エレジー』のような、最初に闇の中での死という事件が置かれ、死後も二時間は聴覚が生きているのだというまことしやかな会話を聞かせた上で、あたかも物音に触発されて死者の網膜いっぱいに広がったかのような緑したたる風景を見せる場合でも変わらない。画面とシンクロナイズすることのほとんどない、物音、会話、笑い声は、それが外から来ていることを絶えず意識させつづけて(その「外」とは、死者が本当に死んでいる場所、人が眠りから覚めて見出すところ、私たちが映画を見終えて出て行くところとしての外部であろうか)、暗くなってから—— 意識水準の低下、あるいは場内の照明が落とされたあと——もなお(あるいはそうなってはじめて)見えるもの——映画、あるいは夢。「第二の生」(ネルヴァル)としての、あるいは死後の視覚としての夢—映画。〈死後の眼〉を口実に、私たちは、前世紀のヴォルガ河畔の人々を映した写真の細部へといざなわれる。それが、冒頭苦しげな喘ぎが途切れるのを私たちが聞いた人物による想起だなどど信じられるだろうか。何者かが冥界[リンボー]で思い出している映像だなどと信じられるだろうか(何一つ変わらない、昔のままのあの姿だ——そう思っているのはその時代を生きた人間ではなく、それを覚えているはずもない私たちなのに。)そのあいだにも絶えず入り込んでくる物音が、受動的な器と化した私たちの感覚を刺戟しつづける。そこに映っているものはすべて死に絶えたはずの写真にゆっくりと近づいたり引いたりする、キャメラのひめやかな息づかい。
 むろんキャメラは、何も感じてなどいない。作者はここで何を言いたかったのかという、書き手に向けられるあの愚かしい質問を、キャメラはついに知ることがないだろう。作者の「真の意図」の追求とは、ついに無縁のままにとどまるだろう。『ロシアン・エレジー』に引用された第一次大戦の実写フィルムで、撮影者が狙撃[ショット]されたためその手を離れて水中に墜落しながらも、なおも水面下にあって行きかう魚を撮影[シュート]しつづけていたキャメラの、あの死者よりも無感覚な眼差し、あれろこそがキャメラというものだ。だが、私たちはそこから出発して一切を得る。私たちは から覚め、そして外部にあって思い出すだろう、自分が生きたわけでは少しもない映像を。そして、すでに物語を知っていることとは関係なく、記憶にあるものと同じものを見るために、私たちはいつか再び映画館を訪れて、そして圧倒的な現前に出遭う。それは昔のままのあの姿だ——前世紀の写真の中の自分の知らなかった人々をはじめて見出したとき、すでにそれと認めたのと同じように――。

【旧稿】
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by kaoruSZ | 2004-09-22 17:48 |  (映画)

死者たちの再会

 『マザー、サン』アレクサンドル・ソクーロフ監督
  
 闇の中から浮かび上がる二つの顔。老いた母とその息子。『マザー、サン』は、母の死に至るまで、この二人以外は誰も登場しない映画である。息子は母を抱いて戸外に出、白樺の幹に母の枯木のような身体をもたせかけ、また一人山道を歩き回るが、他の人間には一度も出会うことがない。たとえ母に若き日の母宛ての手紙を読みきかせようと、すべては前世の出来事のように遠い。それは単に時間的な隔たりではなく、互いの存在以外の何物も関心の外に退いてしまったがゆえの遠さだ。ついに母が死を迎える時息子は語りかける。「もう一度会える。約束したあの場所で、きっともう一度会える」。この悲痛な声を最後に、画面は再び闇に沈む。「約束したあの場所」とは不吉な言葉だ。彼らはいつ約束したのか。そしてそれはどこなのか。私たちは自問し、そして思い至る。二つの闇に挟まれこの世ならぬ美しさを放つフィルムとして、出会いはすでに起こっていたのではないか。技巧の限りを尽した映像は、息子をすでに彼方へ連れ込んでいたのではないか(そうでもなければ、彼のさまよう野山の異様な美しさは説明できまい)。海に浮かんだ白い帆影は見せかけの出発、けっしてありえぬ他界の幻かもしれない。物語が始まったとき、歩くこともできず、ほとんど目をあけることもなかった母親は、通常の言い方ではすでに死んでいたのではあるまいか(それがこの世界に彼ら二人しかいない理由だ)。しかし二人は死に切ることなく、繰り返しスクリーンに現われてくる。もう一度、もう一度。流れる雲、一瞬の風、木の葉のきらめきを糧に彼らは息づく。映画とは甦った死者たちが再会する不吉な場所であるのだ。

[公開時旧稿]
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by kaoruSZ | 2004-09-22 17:47 |  (映画)

アイビキノ場所

 『ストーン——クリミアの亡霊』アレクサンドル・ソクーロフ監督

                私ト私ノ死ンダ妻トノアイビキノ場所(入澤康夫)

……横扉カラ入ルト、大音響ノ中、斜メニ歪ンダ巨大ナ顔ノ照リ返シヲ受ケ、座席ノ上デ魂ヲ抜カレタヨウニ瞠イテイル、コチラニ気ヅクフウモナイ奇妙ナ群レ……(深夜のチェーホフ記念館で眠けと不動から死者は醒め(無論しね・う゛ぃう゛ぁん・六本木ハ入替制ダシ、『すとーん』デハ大音響ナド響ク筈モナク、私タチハアルカナキカノ音響ト乏シイ光ニヒタスラ感覚ヲ研ギ澄マスバカリナノダガ)、自らの遺品である服を着け(闇ノ中ノ襟ノ白サ)、番人の青年から食物を頒ち与えられる。しかし私たちは椅子の上で麻痺したようにみじろぎもせず、飲食を禁じられ——シネ・ヴィヴァン六本木では実際禁じられている)——〈客[チェーホフ]〉の食べるソーセージのひと切れも葡萄酒の一雫も味わうことはない。それでも私たちは味わうだろう、チェーホフとともに、私たちも思い出すだろう。ジャム入りクレープとオートミールを、エゾライチョウと薫製の鮭を、一度も食べたことのないものたちを。青年はどうして目をつむるのか、二つの顔だけの、物を食べるのみの(食べているものをろくろく見せもしない)動作が、これほどの親密さをかもし出すのはなぜなのか。岬の尖端に立つ〈客〉の周りでひそやかに立ち騒ぐのは波か光か。私たちの行けない彼方に甦ったすべてはあり、私たちは吹雪に震え、科白はとぎれ、客人は闇にまぎれ青年は再び目を閉じ、私たちはもうすぐ立ち上がり、階段を上って照らし出された夜の中を歩き出すのだろうが、だが今は鳥の声、犬の啼き声、波音と風の唸りがモーツァルトと混じり合い、視界が鎖されたあとまでも生き残る聴覚に似てあと引く音に、エンドマークで堰き止められるまで私たちは耳かたむけつづける。

[公開時旧稿]
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by kaoruSZ | 2004-09-22 17:46 |  (映画)

魔法が解けたあとに

 スティーヴン・ミルハウザー『三つの小さな王国』(柴田元幸訳・白水社)

  二十年代の漫画作家を主人公とする「J・フランクリン・ペインの小さな王国」ほか二篇からなる本書で、〈万人に受けるタイプではない〉(訳者あとがきより)ミルハウザーの邦訳も、『イン・ザ・ペニー・アーケード』以来、すでに四冊を数えることになった。自動人形、博物館、ゲームといった彼のおはこが誰に〈受ける〉かと言えば、それはまず子供たちであろう。しかし、かつては驚異の目で眺めたものも、年月を経て再びめぐり会った時には、子供時代の魔法が解けたペニー・アーケードのように、昼の光の下でガラクタと化す危険性をはらんでいる。大人の鑑賞に堪えうるには、より巧緻で精妙な詐術、そしてより長時間の骨の折れる労働が必要だ(四分間のアニメーションに必要な四千枚のドローイング!)。単に白地に引いた黒い線にすぎぬもののための、彼を理解しない妻や雇い主からも、彼の作品に感嘆しつつも分業化、機械化を勧める友人からも離れての、フランクリン・ペインの孤独な手仕事、それは幼年時の魔術的な対象を再び見出すために通らねばならぬ迂回路で、その果てにあるのは、夜を迎えて目覚めたおもちゃが動き出し、人形が巨大化して人気の絶えた都会をさまよい、そして元に戻って朝を迎えるまでの、魅惑の数分間だ。幼い日、フランクリンは父の暗室で、白紙の上に浮き上がっててくる幻像こそが世界であると知った。ミルハウザーがフランクリン・ペインの緻密さで、架空のアニメーション、絵画、博物館(そしてもちろん物語)を記述する時、言葉にその指示物が取ってかわり描写が不要となる——映画の原作となることで消費されてしまう小説のように——ことはけっしてない。それはいつまでも白地に浮かぶ黒い染みでありつづけ、彼のページを開く者を、ひととき不滅の王国に招き入れる。
(1998)
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by kaoruSZ | 2004-09-22 17:28 | 批評 アルシーヴ(文学)