おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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薔薇ひらく

 金曜に薔薇のつぼみはじめて開く。前日見て、あしたはこれがきっと咲くと思った充実した蕾が開いていた。野ばらにあざやかな色がついたような、咲きはじめの黄色い蘂が美しい一重の花。

  薔薇ひらく 顫へともなり生きゆかむ 亡き母のため 韻律のため

 別に共感する歌でもないのだが、自分の言葉でないもの(すべて言葉は自分のものではないが)が、ものにふれ自然に、つまり自動的に流出する。バルトが、エクリチュールによって生が記録されると言っていたやつだ(作者の生が記録されているのではない、念のため)。上記の歌、表記が正しいかどうかは自信がない(検索するもゼロ・ヒット)。作者は浜田到だったか。ちなみに、紫陽花を(あるいは「戸口戸口に」あふれる他の花を)見て出てくる歌は、「戸口戸口にあぢさゐ満てりふさふさと 貧の序列を陽に消さむため」

 二番目に咲いた薔薇というのはない。翌日はもう、株のいたるところでいっせいに開花がはじまっているから。虻の羽音が近づいて、見ている前で花心に飛び込み、花粉にまみれつつ次々と花を移る。もっと小さい虫がもぐり込んでいた花にも入って先客を驚かす。上の方と、庭へ引き込んでいる部分だけ、まだ比較的蕾が固い。道路に面した建物の東側に、薔薇も紫陽花も新顔の羽衣ジャスミンも植わっている。右手の紫陽花、花つきすこぶるよく、日に日に濃さを増す。一本の木の中にピンク、青、紫(その中でもヴァリエーションあり)が入り交じる。左手には純粋なピンクの木もあって、以前は右は青、左はピンクだったのだが、こちらは薔薇に押されて樹勢が弱まる。昨年は主要な枝が芽ぶかず心配していたが、今年はかろうじて残った枝と根元から葉が出る。ただし花はつかない。枯死した枝は薔薇の支えになっている。庭のある南側は隣に三階が建ってしまったので日が当たらない。それでも紫陽花は咲くのだが、今年は二つきり。額あじさいにいたっては全く花芽がつかなかった。エアコンの室外機を隠そうとおととし挿し木したのが育った株には、今年はじめて一つだけ花が来た。

 物干台で羽衣ジャスミンの花殻、手の届くところだけでもと切っていると、自転車をゆっくり引いてゆくおじいさんと、のばした片手をその荷台に置き杖をついて進むおばあさん、「ふさふさと満て」る前で足を止め、ここのはよく咲いている、うちのはまだなのになど言いかわす。真上にいるこちらには気づかない。再び歩き出したおじいさん、肥料がいいんだね、とつぶやいて去る。先年も「栄養が違うんだよ」という声を聞いた。(実のところは水しかやっていない。)

 休みがないので払いに行きそびれていた新聞購読料、行って二ヶ月分払い、展覧会の券を所望すると、上野がいいですよね、遠くでもいいですか、渋谷でも、と言う。ブンカムラですかと言うと、ブンカムラでしょうかと言いつつ券を取り出し、あー、世田谷でしたと残念そうな声を出す。世田谷美術館ならぜひ下さいと、ゲント美術館名品展の券をもらう。上野のもありましたとアール・デコ展の券も出す。これ、行こうと思っていたんですと有難く受け取る。

 日曜日、配達人の手を傷つけないよう、郵便受けにかぶさる薔薇の蔓を内側へ押しやり、紫陽花を圧迫する枝を針金で持ち上げ、指を黄色くしてアブラムシを取っていると、近所のおばさんが寄ってきて、昔は薔薇がアーチになっていたわねと言う。木の塀だった頃かと問うと、四十年前にお嫁に来て、薔薇がきれいな家だと思ったと。それなら、現在の家の新築後、庭をつぶして事務所を作る前のことだ。今とは逆で右に門があり、今の門扉の内側には新築後に掘った小さな池があった(出入口をこちらへ戻したとき埋められてしまった)。別のおばさんも来て、これはミニバラかと訊く。ミニバラなんでもの(言葉)がなかった昔からあるもので……。そのあと家の中にいても、通りがかった人の薔薇がきれいという声がする。

 土曜夕、劇団PINK TRIANGLEの公演「Secret Garden」見る。誘ってくれたYさん、パートナーのHさんと一緒で、Hさんの教え子の女子学生たちも伴い居酒屋へ。(「Secret Garden」についてはあらためて書く。よかった。)帰ってきて、また気になって紫陽花にのしかかる薔薇の枝を持ち上げると、指のすぐ先の外壁をヤモリが逃げてゆく。去年、街燈を反射する窓ガラスにはりついているのを毎晩のように見たものだが、今年は初の再会(といっても、同一個体かどうかはわからない)。

 日曜日、有楽町で降り、マリオン内、丸の内ピカデリー1と2で「ミリオン・ダラー・ベイビー」と「オペレッタ狸御殿」かかっていると知る。どちらも早く見たい。アルモドバルの新作もまだ見ていない。銀座の地下で、去年と同じゾウリが出ているのを見つける。足をのせる部分が畳表のような材質なのが気持ちいい。鼻緒にはスパングルがびっしり並び、畳表の周囲は鼻緒と同じ色と材質で縁取りされている。底はフラット。お洒落な上に歩きやすく、近所なら十分歩き回れるし、去年は(近所ではないが)隅田川の花火見物にもこれで行った。去年は千円だったが、今年はまだ夏も初めで千三百円。でも気に入っているので二足(白とピンク)買う。
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by kaoruSZ | 2005-05-30 04:34 | 日々 | Comments(0)
 子供の頃、お金は汚いと親から教えられていた。人の手から手にわたって誰がさわったかわからないから、お金をいじったら手を洗えと言われていた。
 実際には、お金に触れることはほとんどなかった。お祭りに行っても、ゴムヨーヨーやハッカパイプを買ってもらいこそすれ、屋台の食べ物は眺めるだけのものと心得ていた。駄菓子屋で買い食いすることなどありえず、第一(一人で出歩かないので)、駄菓子屋の場所を知らなかった。ただ母の買物について行き、母がお金を向うにわたし、代りに物がこちらへわたされるのを横から見ていた。

 そしてあるとき、私は不意に気がついた。あの、およそ魅力のない物体を手渡す行為は、単なる儀礼、中身のない形式なのだと。お金には意味がない。もしあした世界からお金が消えたとしても、この生活は何ひとつ変わることはないだろう。すべてはお金があったときと同じに続くだろう。精巧な機械仕掛けのように。ひょっとして私は世界の秘密を発見したのではあるまいか? お金などただの見せかけで、母は私を連れて店へ行き、私たちに必要なものを店の人から受け取っている。おのおのがその担当する物を人々に供すべく、彼らはそこで待っている。パン屋はパンを、肉屋は肉を、魚屋は魚を、八百屋は野菜を私たちに差し出すために。

 この発見を告げると、そんなことはない、お金がなくなったら誰も働かなくなると母に言われた。みんなお金のために働いているんだからね。
 思いもよらない言葉だった。あの、見るからに暗くきたない色の、紙や冷たい匂いの円盤。あれがほしくてみんな働いている? 

 紐をかけた茶色の包みが、留守にしていても濡縁の端に置かれていた(門に鍵をつけたのはかなり遅く、近所に泥棒が入ってからだ)。それと同じ包みを二つ作ってもらう。よくお宅へうかがったから、おねえさんが高校生の頃を知ってますよ。姪たちを前にお味噌屋さんが言い、もっと前からでしょうと私は答える。生まれる前のことまで私は母から聞いて知っている。新婚の家と見て御用聞きがやってくるようになるだろうが、安易に頼んではいけないと祖母(母の母)から注意されていたにもかかわらず、最初に来た人に母は頼んだそうだ。話しながら味噌を量り終えた主人は無雑作にしゃもじを背後へほうる。それはあやまたず柄を上にして味噌の山に突き刺さり、見つめていた子供たちが感嘆の声をあげた。

 お父さんは本当におだやかで、温厚な方で……(そう言わない人はいない)。訊かれなかったので死んだ時期は言わなかった(まさか博善社で待機中とは思わない)。結婚したのかと、そのときと同じ質問をされる。答えを聞いて、ああ、だからと頷くのは、少子化云々の話ではない。女が結婚してくれないので、このあたりでも独りの男が多いのだそうだ。今では女性も仕事を持って、一人でも楽にやっていけるから結婚しない(楽じゃないですよ、と私)、昔は男が女を選んだけど、女が男を選ぶようになっちゃって。うちの息子たちも家事をさせられていてと、主人の話は止まらない。二人の息子は結婚して家を出たという。店の後継ぎはと尋ねると、二世帯同居のところは大概うまく行っていないと強調する。おねえさんはひとりでいるのか、もったいない。あのうちに一人でお住まいか、もったいない。いい人もいたんでしょう(過去形だ)。より好みしちゃったんでと私は答える。また買いに来ますから。

 主人が華麗な技を披露してくれなかったことに気づいたのは店を出たあとだった。彼にはこれからもそこにいて、「いつもの」味噌を量ってほしい。それを私に渡すため、昔ながらの店を開いていてほしい。むろん「交換」はちゃんとするから。
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by kaoruSZ | 2005-05-27 00:13 | 日々 | Comments(0)
 四年ぶりに量り売りの味噌を買った。帰宅して包みを開き、こんなに色が薄かったのかとあらためて思う。久しぶりに確かめた味はやっぱり違う。鍋で溶いても色は淡く、それでいてうま味は十分だ。くせがないので具の味が生きる。
 この味噌を使ったおつけをおいしく食べるため、これからは御飯を炊く手間を惜しむまいと思う。長いこと御飯は文化鍋で炊いていた。戸田に置いてあるのだが、今度取ってこようか。土鍋を一つ買ってもいい。電気釜は時間がかかる上、続けて食べないので、温めておいても意味がないのだ(と言いつつ、一日一度はコンビニでおむすびを買い、おつけだけを作っているここ数日の現状だ)。

 私は別に、選びぬいてその味噌に決めたわけではない。正式にはなに味噌に分類されるのかすら知らないままだ。母乳と果汁の時期のあとに、母がそれで作ったおつけの上澄みを私に吸わせた(母の育児日記にそう書いてある)。それで私は生涯その味を好むようになったのだ。合わせみそにするとおいしいと書いてあるのでやってみたこともあるけれど、結局私はこの味に戻ってくるのだろう。御用聞きが届けた味噌で、私の味覚は決まってしまったというわけだ。

 日が伸びてまだ明るい土曜日の夕方、人影のない味噌屋の敷居をまたいで案内を乞うた。返ってきたのは主人の声。よかった。他の人(といっても、それ以外の人に応対されたことはない)ではわからない。現われた主人に名を告げると、「あ」という顏をされる。うちでいつも買っていたおみそはどれでしょう。笑顔で訊ねると、これです、これです、お父さんがいつも買いにきてくれたのは、と容器の一つに彼は近づく。母がまだ生きていた頃から、買物は父がするようになっていたのだ。

 前回来たのは前世紀の、暮れもおしつまった頃だった。彼はそこまでは覚えていない。それでも、父が死ぬ前に家を新築したこと、弟がそっちにいることは覚えていて、おねえさんは今どこにと、そのときと同じ質問をする。同じところにいるんです。日曜日ぐらいしかこっちへ来ないので、とこっちは無沙汰の言いわけをする。これは言わなかったけれど、父の死後かなりの期間、思い出してしまうので家でほとんど料理をしなかった。その後は手に入る味噌で間に合わせてきたし、御飯を炊くこと自体すっかり減った。味噌のパッケージをカゴに入れるだけですむスーパーの買物と違い、避けられないこうした会話がいくらか負担に感じられたということもある。

 長いこと、品物と一緒に置いてゆくマッチに記された、店の場所さえ知りはしなかった。味噌や醤油は御用聞きが持ってくるもの。彼がどこから来るかなど気にとめもしなかった。醤油は一升瓶で届けられ、母に言われて醤油さしに瓶から移した。お勝手の床に醤油さしを置き、口をしっかり合わせて瓶の底を持ち上げる。口さえ合わせればこぼれないと母は言い、確かにそれは正しかった。床でやったのは、調理台まで一升瓶を持ち上げるのが子供の手にはあまったからだ。

 行く道の途中だからお味噌屋さんの場所を教えてあげる。そう弟の奥さんに言ったのは、父がときどき弟にもそこの味噌を届けてやっていたからだ。ついでにお味噌を買いたいと彼女が言い出し、私はためらう。おかしい? おかしくはないけれど……。

 父が作って持ってくる弁当のおかず——玉子焼きや、塩鮭や、ブリの照焼きを姪も甥も楽しみにしていた。シンガポールにしばらく里帰りしていたとき、まだ幼かった姪が味噌汁をほしがったので、Japanese foodの店でお味噌を買ったと義妹は話し、納豆も好きだし、pure Japaneseになっちゃったと言ったものだが、たぶんそれは父の料理の賜物だ。
 おかしいかと訊いたのは、通夜を待つ遺体に対面する前かあとに通る道であったからだ。おかしくはないけれど……父のことを絶対訊かれる。まあ、いいだろう。寄って行こう。これから行くお味噌屋さんはおみそをすくったしゃもじを、後ろ向きのまま、話しながらひゅっと投げるよ。子供たちに前もってそう説明してやる。もとの容れ物にちゃんと入るからよく見ておいで。
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by kaoruSZ | 2005-05-26 22:26 | 日々 | Comments(0)

「花日記」

「パラレル・ヴィジョン展」より前に世田谷美術館で何か見たのではないかと考えるうち、不意にある画家の名が浮かんできた。「ルシアン・フロイド 世田谷美術館」で検索すると、世田谷美術館の過去の展覧会一覧にヒット(美術館のサイト内にあったのに見つけられないでいた)。92年、「パラレル・ヴィジョン」展の前の年になる。思い出した。確かにあれが最初だった。読売の夕刊の文化欄で記事を見て(今回のウナ・セラディもそう)、はるばる尋ねて行ったのだ。期待にたがわず素晴しかった。翌年は、たぶん、シュヴァルの城の模型を見たくて行った(そしてダーガーを発見した)。翌94年、「秦の始皇帝とその時代」展に招待券をもらって行っている。どうやらこれですべてのようだ。
 けさ、「ウナセラ・ディ・トーキョー」展について検索していて、次のような文章に行き当たった。[カッコ内は内心の声]

 久しぶりに砧の世田谷美術館に行く。12年ぶりのことだ。 [私と同じだ(そのときはまだルシアン・フロイド展を思い出していない)。]前に行ったのは「ラヴ・ユー・トーキョー」展。アラーキーと桑原甲子雄のふたり展だった。 [パラレル・ヴィジョンと同じ年だったのか(あとで——上記の過去の展覧会一覧で——知ったところでは、パラレル・ヴィジョンの直前だった)。]12年前が東京ロマンチカ、そして今度はザ・ピーナツの60年代のヒット曲のタイトルをそのままいただいたもの。歌謡曲は必然的にノスタルジックな感じがする。つまり、私も歳を取ったということだ。 [おや、私と似たような感想を!]

 ここまで読んで、梅本洋一の署名に気がついた。プロの書き手が複数で運営するサイトだったのだ。ホームに行くと、三信ビルについて、丸の内の変わりようについてと、私が最近書いたばかりのテーマと偶然重なる梅本さんの文章が見つかった。

……確かにオアゾにも丸ビルにも人が集まっている。丸の内中央通りには高級ブランドの露面店が軒を並べている。(……)高層もアトリウムもその複合体としても建物に人を集めるのに成功しているように見えるが、こうした選択は、丸の内をまるで郊外のショッピングセンターのように変えているもともとストリートであった丸の内が、それぞれの単体のビルの集合体に変貌しているからだ。/東京の再開発は、見事にストリートを消している。恵比寿ガーデンプレイス、代官山アドレス、六本木ヒルズ、それらのどれもが「広場」とその周辺に建つ高層ビルという構成で人を集めているが、それらは明瞭に周囲には何もない郊外のショッピングセンターの技法 なのだ。広場に集まった人は皆エレヴェーターに乗り最上階をめざす。そして各階層には商店が重層する。ストリートを「遊歩」する人は姿を消し、ランドマークを中心に円周状の街が建設されているからだ。強調は引用者]

 なるほど。先日も木場のイトーヨーカドー(実はここは嫌いではない)で——子供連れでやってきてそこから一歩も出ずに一日中過ごせるのであろう施設の一角で——家族連れに混じってテーブルにつき、ソフトクリームをなめながら、こういう環境で育つのと、上野の山で遊び、広小路を歩き、親の買物のあと松坂屋の食堂に入った私の子供時代との違いを考えていたところだった(木場はともかく、戸田のイトーヨーカドーときたら、ほんとに「周囲には何もない」)。

 そういうことを今度は書こうと思い、さっきもう一度行ったとき、同じサイト内にすごい日記を見つけた。花日記という可愛らしい名前にひかれてクリックしたその書き物が、映画批評に携わる学者たちのサイト内にあってなぜ異色かと言えば、作者の田中花さんが風俗店で働いているからだが、すごいというのは内容を指していうのではない。その文章の感触といったら——何と言ったらいいのだろう、ルノー・カミュの男あさり日記か、ミシェル・レリスの夢日記みたいなのだ。
 すっかり魅了されてしまったので、東京の郊外化についての考察はひとまずおくことにする。
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by kaoruSZ | 2005-05-23 23:37 | 日々 | Comments(0)

世田谷美術館へ

 たまった仕事が片づかない人のための解決策についての新書を用賀の本屋で見つけて開くと、やるべきことを書き出して優先順位を決めろとか書いてある。片づけ関係書籍を手に取ったときは(だめとわかっていてもつい手が伸びる)いつもそうだが、そこではたとページを閉じて棚へ戻す。それができる性格ならば苦労はないよ。えてしてこの種の本は一ページ目からそう言いたくなることばかりだ。

 休日は疾く過ぎて状況は変わらない。土曜日は「きままな読書会」延期にしてしまった。行くだけならできるが、今回はレジュメを作らなくてはならず、そうなると徹夜で準備するしかない。そこまで頑張らなくても、と思った瞬間中止を決める。
 だからといって、そのぶん他のことが進んだというわけではない。

 日曜日、29日までなので世田谷美術館の写真展見てくる。朝から出かけるつもりだったが、実際には午過ぎになる。9日に書いた“小さなおうち”の前を通って駅へ。あのときには一輪だけだった淡いピンクの薔薇が今を盛りと咲いている。塀のあいだからも咲きこぼれ、花びらが路面に散り敷く。お祭が近いので、駅へ続く道に提灯が下がった(花見提灯のように数を並べるのではない、一灯ずつ吊すお祭提灯。帰ってきたときには灯が入っていた)。うちの薔薇と紫陽花はちょうどお祭に咲くのだが、けさ見ると紫陽花がうっすら色づいていた。

 渋谷でもすでに遠いのに(日暮里から新宿まで二十分だが、それより先だと遠いと感じる)、そのさらに先というのはちょっと面倒。渋谷から用賀まで二十分、百九十円。駅がすっかり変わってしまったようだが、前からこうだったか。「パラレル・ヴィジョン展」以来、一二度来ているはずだが。骨の折れたのに替わる晴雨兼用の折りたたみ傘、リバティ・プリントの(去年地下鉄で、同じ生地のブラウスを着た人を見た)をさして砧公園への道を歩く(十七分とある)。派手過ぎない図案化された薔薇の模様で、きれいな色。帰りは予想外の雨が降り出し、雨傘として差す。前日も持ち歩いていたのだが、竹製の握りについたループ状の持ち手をどこかでなくしたらしい(出かけようとして気づいた)。砧公園、日曜日に来たのはたぶんはじめてで、なるほど家族向け公園とはこういうものかと思う。展覧会は題して「ウナセラ・ディ・トーキョー ANOHI ANOTOKIO - 残像の東京物語 1935〜1992」展覧会名の候補として挙がっていた三つの案がどれも捨てがたく、全部つけてしまったのかしらん。内容はとてもよかった。

「パラレル・ヴィジョン展」のカタログが館内にあって、十二年前の開催と知る(七年前ぐらい?と思っていた)。駅に隣接するビル(世田谷ビジネススクェア)、帰りに定礎の表示を見るとこれも十二年前の完成。(半円状の階段は以前にも登った? 確信がない。)前来たときに通った商店街に出た。見覚えのある小さなスーパー・マーケットがちゃんとある(前、そこで買物をした)。「田園都市線」というのがどうもひっかかっていたのだが(以前来たときと違う気がして)、今日調べて、新玉川線から田園都市線へ路線名変更(田園都市線に統一あるいは吸収されたということか)されたと知る。傘、持ち手がないと電車内で不便。
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by kaoruSZ | 2005-05-23 16:40 | 日々 | Comments(0)
 互いにときめきも感じなくなった二人。取り返しのつかない哀しみが男から女へ、「たった一つの表情をせよ」とうたわせるのだ。数かぎりなくて一つきりの表情とはどんな表情か。それは恋人だった者だけが知っている。

 読売新聞の朝刊二面右下に「四季」と題した、短詩を一作ずつ短文(上に引用したので全文)を添えて紹介する、気がついたらはじまっていた欄があって、わりと面白い。筆者は俳人の長谷川櫂(面白かったので、たまたま目についたこの人の俳句の本も買った)。忘れないときは読んでいる。カラー写真もついていて、その日の作品に出てくる事物が提示される。dogという単語に添えられる犬の絵のように、百科事典的に示されるイメージ——たぶんこの連載の写真について私の気に入っているのはそこなのだろう。

 さて、今回、上に引用した文章(5月15日付)は、タイトルとした短歌(作者は小野茂樹)についてのものだ。これを読んで私が真先に思ったこと——これって倦怠期の夫婦の歌だったの? 私はこの二人はすでに別れており、それでも相手を思いつづけているのだとばかり思っていた(相手の生死にかかわらず)。

 あらためて読んで、基本的な感想は変わらなものの、長谷川の文章に対する私の読みはすでに解釈であったのだと気がついた。「互いにときめきも感じなくなった二人」は、常住坐臥をともにしているわけではなく、今は遠く離れていて、それでもなお「表情をせよ」と呼びかけている。筆者はそう述べていると解してもいいわけだし、そうした二人が何かの拍子に再会したときの、一方からの心中の声だと言っているともとれる。

 そうすると私の感じた違和感は、一つには私が最初思い込んだような倦怠期の夫婦か別れた恋人かという問題にではなく、ロマンティシズムとリアリズムの対立に基づくものだと考えられる。私はどうもリアリズム的読み方が苦手で、そのためかえって、自分が見逃してしまうそうした読み方に目を開かされることがあるのだ。以前、『三國史遺文』のあとがきに取り上げた例を以下に記す。

 実はこれは、 「指の間[ま]をこぼれる蜜に気づかずに人は静かに老いに入りゆく」 という短歌のパラフレーズです。NHK教育TVの短歌の時間で偶然目にした視聴者からの投稿作品で、その場で書き取ったわけでもないので、作者にはまことに申し訳ないのですが表記は完全に正確でないかも知れませんし、作者がどなたかもわからないのですが、私が注目した(というか、他のことをやりながらTVを聞いていたのが、突然、目も耳も集中した)のは、その回のゲストが、これはリアリズムの歌ではないかと言い出して、撰者(春日井建だったと思います)もそれに賛成し、そのほうがいいと言い出したときでした。
「指の間をこぼれる蜜」のロマンティシズムにしか反応せずに、(甘美な、大切なものを見のがし、失いながら人は老いてしまうものなのだなあ)という感慨だとばかり思った私は、一人で読んでいたならリアリズムなどという発想は間違ってもしなかったに違いないのですが、番組では、これは老いのため、蜜が指をつたっているのに気づかないのだろうと言っていました。 私もなるほどと思い、そう解釈したときに一首の趣ががらりと変わるのに驚きました(かといって、最初の読みを捨て去る必要もありますまい。たとえ、「作者の意図」と完全に食い違っていようとも)。

 短詩形特有のこうした具体的〈もの〉への即しかたが、私にはかなり好ましく思われる。「四季」欄に添えられた写真の面白さも(すでに述べたように)そこにある。その意味では、今回の写真の選択は通俗に堕して凡庸だ(手短に言葉で描写するなら——夕陽が沈もうとする逆光の海辺に男女がシルエットとなって立ち、水平線は斜めに傾いている)。それは、この歌が実はきわめて抽象的であり、イメージに置きかえることができないからで、だから、ふさわしい写真を選びえなかったことは小野茂樹の栄光でもあろう。

 この記事からはもう一つ連想したことがあるのだが、それはまた別の機会に。


後記; 何連想したんでしょうね、私。
    さっさと書かないから忘れちゃったよ……。
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by kaoruSZ | 2005-05-21 11:25 | 日々 | Comments(0)

ゴッホ展へ(下)

 オアゾって鳥かと(オアシスへの連想を期待しつつ、oiseauxを、「ルノール」とか「ト エ モ」とか「フランソ」とか「マドモゼル」式に読ませているのかと)思っていたが、実は本当にオアシスのことでエスペラントだそうな。どうでもいいけど。そのうち丸善には行くことになるだろう。

 実物と印刷とのあまりの違いに、カタログを全く買う気にならない展覧会があって、今回のゴッホもそうだった。買ったのは絵はがき二種、三枚だけ(前に書いた療養所の庭と、点描の室内)。モネも、あのヴァーチャル・リアリティの陶酔はその場に行かないと味わえないから、まず買わない。近代美術館にはじめて行ったのは高校生のときで、マグリット展だった。マグリットを知ったのはかなり早く、少年マガジンだかサンデーだかの特集の安っぽい印刷で、マグリットはそれでもコンセプトは伝わるから、私は「大家族」の小さな写真を切り抜いてずっと持っていた。少年マガジン(?)の「大家族」には、描かれた鳥について「羽も内臓もみな雲でできている」とキャプションがついていて、このユニークな(というか、あまり適切と思えぬというか)描写も含めて、面白いと思ったのだろう(あまりに昔なので推量になる)。ごく普通に説明しようとするなら、暗い空が鳥の形に切り抜かれ、その部分だけ白い雲の浮かんだ青空が見えている、ぐらいになるのではないか。

 たぶん日本初だったそのマグリット展のとき、新聞に乗った紹介記事は、同じ絵を、嵐の海から暗い空に飛び立った鳥の広げた翼に遮られた部分だけが晴れた青空で雲が浮かんでいる、といった具合に描写していて、この文章も私の目を惹きつけたのに違いない。この記事も切り取ったから、昔使っていた机の抽出を探せばあるだろう。本物を見れば鳥の足元の波はマグリットが一筆一筆描いたのがわかる。だが、彼の場合は図版になっても、ある意味で失われるものはあまりない(断言してよいものか。この件は留保しておきたい気もする)。このとき買ったA4ぐらいの「大家族」は、長年二階の私の部屋に貼られていた。机を置いていた広縁の側にガラスを、座敷の側には紙を入れて障子にした建具のガラス側に、青空に浮かんだ雲が映ると、それはマグリットの空だった。今日にいたるまで——けさ、地下鉄を出て見た空もそうだ——それはマグリットの空なのだ(これはすごいことではないか?)。当時のカタログはビニールの袋ではなく紙袋入りで、提げることはできず、抱えるしかない。小脇にかかえ、暑い中を長く歩いたために、紙袋の上辺は汗で擦れてしまった。

 Iさんから聞いた話。以前勤めていたところは店長がいい人だったので、客のクレームに言い返したくなるときでも、店長に迷惑をかけることを思って我慢したという。今日、某有名政治家事務所からの電話に際してはからずも役立った。感謝。
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by kaoruSZ | 2005-05-19 18:39 | 日々 | Comments(0)

ゴッホ展へ(中)

 常設展示場はすっかり広くなって(階数も増やした?)、はじめて見る絵が多い。かつては近代美術館の常設展示は数が少なく、いつも同じ(古賀春江に萬鐡五郎)という印象だったのだ。前に来てからどのくらい経つのかとIさんに聞かれ、二十年ぐらいと答えて驚かれる(そりゃ変わるだろう、と思うでしょうが——でも最近、ついこのあいだだと思っていると十年前だからね。夏目漱石の千円札が二十年間流通していたなんで信じられる?)。ゴッホ展もこういうふうに話しながら見たいもの。

 レストラン「クイーン・アリス」が入ったことは知っていたが、ここも混んでいないわけがなく、外へ。(以前、カフェのたぐいはあったのか……さっぱり思い出せない。)東御苑を通って大手町へ抜ける。園内の三の丸尚蔵館で若冲を見たことはあるのだが、ちゃんと見物するのははじめて(と、歩くうちに気がつく)。子供なら喜んで走り回るだろう、だだっぴろい草地。本丸の土台の石垣、上をコンクリートで固めなくていいのに。土曜日に日の照る中うっかり大川端を歩いて日焼けしたので(その前、肌寒い日が続いたので油断した。次の日まで鼻すじが赤かった)、私は日傘を差して上る(この折りたたみ傘、昨日、昼休みにビルの横で風にあおられ骨が二本ぐにゃりと曲がり、室内で伸ばそうとして、うち一本あっさり折れる。今日は別のを持参)。皇居というと……ここに住んでるんですよね、どのあたりですか、とIさん。そのへんにいないのは確かだけど……。庭園としての面白みはうすいと思ったが、あとで地図を見ると日本庭園のある場所に行きそびれていた。

 大手町から東京駅方向へ歩くうち、丸の内オアゾという文字を見つける。丸善が移ったところだ(まだ冬の頃だったか、「隅田川テラス」から東京駅へ抜けようとして、近くまで来たからと思い丸善に寄ろうとしたところ、なんと閉鎖。建て替えるらしい。いくら丸の内を本店にするからといって日本橋店壊すとは思わなかった。私のあとから来た御老人も貼紙を見て驚いていた)。元の丸ビルがと言っても、Iさんは(モノじゃなく)言葉自体を知らない。「丸の内ビルティング」をそう略することを面白がる。丸ビル何杯分、などと言われた往時を説明(この日、残った時間に行く場所の候補として世田谷美術館の「ウナ・セラディ・トーキョー(中略) 残像の東京物語」展があったのだが、会場で東京にまつわるヒット曲を流しているそうだから、もし行っていれば、「恋の丸ビル あの窓あたり 泣いて文書く人もある」といった歌詞を聞けたかもしれない)。新しい丸ビルなどお上りさんにまかせておけばよく、あまり足を踏み入れたくない(実は一度踏み入れている。クリスマスの時期で、一階ホールの四方の壁に映像を投影する催しがあるので見て行かないかと誘われたのだが、いつの前衛かと言いたくなる酷いセンスにあきれる)。オアゾ一階で軽食風中華。メニューにザージャー麺とあるので、ジャージャー麺じゃないんだ、と言うと、「ジャージャー麺」も初耳だったので説明。Iさん「ザージャー麺」をとり、私はチャーハンのたぐいにする。

 オアゾから東京駅側へ抜けてしばらく歩き、振り向くと、ビル群が佇立するのはまぎれもなくかつての国鉄本社のあった場所。家賃を払いに、八重洲側から毎月あそこへ通ったこともある(当時の勤め先が八重洲北口を出たところで、新宿駅構内に、案内所を出すスペースを借りていた。国鉄は長年男しか採らなかったのだが、本社内には戦争中に男の代りに採用された女性たちが、当時まだ残っていた。もちろん年を取って)。新丸ビルも更地となって囲われているのが目に入る。あそこには、高い天井に取り付けられた羽根がぬるい空気をゆっくりかき混ぜているような食堂があったものだ(とっくに——それこそ二十年くらい前に——改装されてしまったが)。今はまだ健在の丸の内八重洲ビルヂングの前を通り、有楽町から日比谷へ。三信ビルに入り、二階まで上がってのち公園へ。鶴の噴水のある池畔で休み、雀の巣食う四阿前で水中の亀をかまい、巨大鯉の遊弋を眺める。日比谷交差点まで戻り、ゴジラ像の前を通って日比谷コリドー街へ。日が長いのでまだ明るさの残る中、店々が次々あかりをともしゆくさまを、Iさん「いいですね」と言う。新田ビルはすでに普請中のシートで覆われていた。

赤い文字の建物については二月末と三月初めに記載あり。
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by kaoruSZ | 2005-05-19 15:33 | 日々 | Comments(0)

ゴッホ展へ(上)

 けさ、地下鉄を出ると夏の光。青空を白い雲が流れる。

 17日(火)、久方ぶりに平日の休みを取り、竹橋の近代美術館へ招待券でゴッホ展見に行く。(西洋美術館のときも同じようなことを書いているが)内部の変わりように驚く。もっと天井が高くて吹抜になった広々とした空間だったと思うのだが。ベルギー象徴派展(今、同じ名前でBunkamuraでやっているが、このときはクノップフの「愛撫」がポスターになったので、駅のホームでも電車の中でも人面のチータが見られた)に来たのが最後だったのだろうか。中央に「霊感の泉」という大きな絵が展示されていて、そばに立つと本当に気持ちよかったものだが。あれ以来だとすれば、二十年以上足を運ばなかったことになる。(あとで調べたら、数年前、二年半も休館して改装したらしい。)

 十時開館で、十五分前に着く。地下鉄からの道、通勤とは全く見えない既リタイア年齢の群れが続いていたのだが、それがみんな(やはり!)一点を目指す。当日券売場には行列(すでに群れ、人だかり)。券を持っている人はどんどん中へ入れている。Iさんが九時四十五分発の、東京駅からの無料バス第一便に乗ってくるので中へは入らず(会えなくなりそうだし、この人数では、並んだところで大勢に影響なさそう)、ゴッホ展特別仕様のバスの黄色をめあてに外で待つ。○時間待ちの札がすでに用意されている。ついにバス来る。降りてくる人もほんとに若くない(若いのはIさんくらい)。発着所には、出発までにバス三台(一台あたり定員四十人)でも運び切れない列ができていたとか。前日ウェブでバスも行列だったという記事を読み、こっちからメールで知らせてはいたが、そこまですごいとは。Iさんは早く着いたので二番だったそう。

 いい展覧会なのに人が多過ぎ。みんな、そんなにゴッホが好きか? (私は好きだ。)出口近くで「これだけ?」と言っている人たち二組に遭遇。「これで終りなの?」なにが不満なんだか。「私たち、糸杉見そこなったのかしら」すぐそばにかかってるんだけどね。人の頭で見えないからしょうがないけど。私は糸杉の絵の一つ手前の、療養所の庭の絵が好き(療養所と訳してあったが、原題——じゃなかった、英語タイトル——のasylumってむしろ精神病院の意か。ゴッホが自主的に入ったところ)。

 広重描ク赤い花の錦絵なども見られてよかった。ただしその奥の、浮世絵風のゴッホ作品のあたり、袋小路的な会場の構造もあって人が溜まっており、私は入り込むのをあきらめた。一歩会場から出ると、売られているゴッホ・グッズの多種多様さに一驚。最近の展覧会では見馴れた風景だし、キッチュながらくた、まあ面白いといえば面白いけど。「ベルギー象徴派展」のときは特大の「愛撫」ポスターを買ったっけ(「愛撫」Tシャツなど当時はもちろんない)。本物よりずっと大きく、チータの尻尾は途中まで。当時、親元を離れて暮らしはじめたばかりで、ポスターを貼れる壁があるのが嬉しかったのだ(砂壁にそんなポスターは貼れないし、第一似合わない。実家——現在戻って住んでいるわけだが——はトイレまで雨戸があり、日除けはすだれだから、カーテンというものにも憧れた)。

 やはりそのとき買った小さなポスター「私は私自身に扉を閉ざす」(これもクノップフ)は、部屋のドアに貼った(テーブルに肘をついた——それとも棺の上だったか——長い髪の女性。Hとイメージの重なる肖像)。これはまた別の話だけれど、最近、一般人(じゃなくて、無知な人々と言えばいいと思うが)に誤解される病名を変えようという動きの中に、「自閉症」という名称もあるという。自らの意思で閉ざしていると思われたり、育て方のせいだと誤解されたりすると。「自閉症」という病気の場合については、これは基本的に正しい議論なのだろう。それとは離れて言うのだけれど、一般的に、「自ら閉ざす」のはそんなにいけないのか? 閉ざしていたら悪いのか? ゲイになりたくてなっているわけではないという言説とも通じてこれは気に入らない。クノップフのあの閉じ方、人間嫌いぶりは好ましい。

 とはいえ、あれらのポスター(今は戸田で、どこかに巻いて置いてある)を買った頃のような吸引力は私に対してはもうないので、今回のはどっちてもいいような気がしていた。しかし、これを書くうち、Bunkamura(以前にもクノップフ展があって、マルグリットが、兄が描くほどの透明な美人じゃないことを知った。しかし、この名称——美術館の、である、はじめっから嫌い——なんとかならないか。弟が結婚して間もなく、外国人である奥さんと何かの展覧会を見てきて、奥さんが(当時は新しかった)Bunkamura行ってきたの、Bunkamura、とあたりまえの日本語のように連発するので、変な名前なのよ、ブンカムラ、と応えたもの。あれから十年以上変な名前でやってきたことになる)で今やっているのを見たい気もしてきた。
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by kaoruSZ | 2005-05-19 09:41 | 日々 | Comments(0)

猿の(死なない)生き肝

 ボルヘスの短篇で(ボルヘスの長篇というのはありえないわけだが)、死ぬ間際の詩人が、自分の詩が世界に替わる調和の取れた小宇宙などではなく、世界の渾沌にもう一つ渾沌を加えただけだということを悟るというようなのがあったと思う。こうして記事を書きつづることも全くそうで、書くことで考えが整理されるかというと、そういうことはあまりない。書いたことも片端から忘れ去る始末で、だからといって何も書かずにいたって思い出せはしないのだが。
 それでも書くのは、外部に刻みつけるのは、書かれたものが〈猿の生き肝〉だからだろう。猿の生き肝というのは——子供の頃親から聞いた話で、龍宮の乙姫様が病気になり、治せるのは猿の生き肝だけだというので、クラゲが島に住む猿のところへつかわされる。そして、猿をだまして背中に乗せて龍宮へ向かう途中、本当の理由を話してしまう(クラゲは実は、生き肝の何たるかを知らない。子供も知らないので、親に説明してもらう)。これは大変だと思った猿は、しかしあわてることなく、生き肝だったら洗濯してほしてきてしまった、取ってくるので一度島に戻ってくれと、言葉巧みに難を逃れる。

 子供にとってこの話は、〈生き肝〉を取られたら猿は死んでしまう、という事実によって怖いものなのだが、同時に、〈猿の生き肝〉は竿に干された洗濯物として相変わらずハタハタとはためいてもおり、それゆえ安堵できるものでもある。実際には猿が助かったのはとっさの機転によってだが、子供の想像力の中では、猿が殺されずにすんだのは、いくぶんは、生き肝が彼の体内ではなく、他の場所に置かれていたことによってであるかのようなのだ。つまり、こういうことだ——猿がもし龍宮に連れて行かれたとしても、生き肝が洗濯竿に干されていれば、誰も猿からそれを奪うことはできはしない(逆に、龍宮の連中が島に上がって、勝手に生き肝を取って行ったら万事休すだが)。

 要するにこれは一種の外化された生命——それを破壊されると本体も死んでしまう——であって、アンデルセンの『ある母親の物語』で、死神の花園に植えられている花のを引き抜かれるとその花につながる人間も死んでしまうというのが怖かったのもこのせいだ。自分の知らない、力が及ばないところで生死が決定されたのではたまらない——とはいえ、花を抜くという行為なら傍にいて阻止することができるかもしれないが、私たちは最後には力及ばず、自らの身体の中で——身体によって——身体そのものとして——滅びるのだから、結局同じことなのだけれど。

 猿の生き肝のことを思い出したのは、しばらく前、デリダの『パピエ・マシン』上巻(ちくま学芸文庫)を朝の地下鉄の中でぱらぱらと読み(フロイトのマジック・メモや、エクリチュールのシュポール[支持体]の話のあたり)、地上へ出て歩き出したときだった。生き肝としてのエクリチュール。しかしこの生き肝は、死神の花園の花のように〈本体〉とつながってはいない。それは作者の生死にかかわらず、作者を死なせ、自らは生き、不死となる。猿の生き肝化、それは思考の外化、自分自身(との一体性)からの疎外、そして読まれることの可能性のはじまりだ。
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by kaoruSZ | 2005-05-09 21:01 | 日々 | Comments(0)