おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

<   2005年 06月 ( 4 )   > この月の画像一覧

Old Fathers never die

  ピレネー山脈戀ひて家出づ心臓のあたりわづかに紅き影曳き

 塚本邦雄逝去を知った宵、イーストウッドの新作『ミリオンダラー・ベイビー』を有楽町、日劇跡で見る。

 10日朝、出がけに郵便受けから読売を取り出し、社会面を一度は開いていたのだが……左下、親指で押えたあたりに記事があったのに気づかず、閉じてそのまま出かけたのだ(あさき縁[えにし]や……)。
 夕方になって、朝刊数紙に目を通し、死亡記事の長々しい列になんの気なしに目をさらすうち、はっと気づいて見直せばまぎれもない塚本についての記述(呼吸不全、誤嚥がもとなら、母方のわが祖母の最期と似る)。毎日は一面に出し、夕刊には早くも追悼記事載る。少なくとも三紙までが代表作として「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」を挙げているが……絢爛たる修辞の例にもならないものを。税金で皇帝ペンギン飼いつづけるべきか否かという基本的なことが問われない今、アクチュアリティ感じて載せたのなら大したものだが。

  弑逆旅館[パリサイド・ホテル]、 毛深き絨毯に足没す——かくも父に渇き  

三十年といふ黄いろなむかし」——いや、まだ三十年までは行っていないが——「サンデー毎日」及び「短歌」誌上で塚本に自作の短歌や俳句を選ばれていた人々が、ある日彼の流麗な筆跡で自らの名が記された「筆趣展」の案内状を受け取って、気もそぞろに東京、赤坂に集まったことがあった(彼の著作でお馴染みのシャンソンのレコードの数々が、あのかん高い関西アクセントの解説でかけられた)。会場で言葉をかわした若い人々は、皆、どこの結社にも入っていないと強調した(申し合わせたようにそれを言うのでおかしかった。ただ塚本作品との出会いゆえに短歌をはじめたと、みんな——私も含め——言いたかったのだ)。
 念のため言いそえるなら、当時、短歌とは結社に入って作るものであるらしかった。また、若い世代が関心を寄せる対象とは全く思われていなかった。

 だから塚本邦雄はわが文学上の父——こういう言い方が許される(誰に?)なら——の一人である。だが、中井英夫(知り合ったばかりの頃——とは、中井が塚本を見出して歌を依頼し、東京と大阪で文通がはじまったという意味だが——二人はいつまでも喋りやまなかった(手紙で)と中井は書いている)の死に際して塚本が書いた追悼文の、また、かつての浜田到への手放しの称賛を知る者には驚くほかはない、現代歌人文庫に寄せた解説の、あの冷ややかさを、今はまねぶしかないだろう。澁澤龍彦はジャン・コクトーについて、納得づくで別れた女のようなものと言い、「天使のジャンよ、さようなら」という一文をたむけたものだが、澁澤についてなら私もそう言える。「天使の龍彦よ、さようなら」だ。むろん、澁澤からいかに多くのものを恵まれたか、アンドレ・ブルトンからノーマン・ブラウンまで(思えば「現実原則」と「快楽原則」という言葉さえ、澁澤によって——小学生のときに——知ったのだった)、〈澁澤龍彦の鍵〉によって幾多の扉がわが前に開かれたという事実はけっして消えはしないが。塚本について言えば——ことはまだ終っていない。

  はつなつのゆふべひたひを光らせて保険屋がとほき死を売りにくる

 作者を知ってからはこの保険屋は塚本自身のように思えてくるが——というのは余談で——この一首は、澁澤の文章に引用されていたのを見たのが最初だった(しかし、『日本人霊歌』に入っている歌は私は概して好まない)。冒頭に引いた「ピレネー山脈」はそれより前かあとか、高校の帰りに上野の山から下りて入った明正堂で見つけた、「NW-SF」誌の中で見た。須永朝彦の吸血鬼小説に引用されていたのだ。短歌と思って読んだのではなかった。むろん、形式的に短歌であるのはわかっていたが——これはいったいなんだろうと思ったのだ。

 塚本については、ことはいまなおアクチュアルだ。彼については、まだまだ明らかにされねばならないことがある。新聞が揃って「独自の美意識」と呼ぶものの内実は、塚本の基本ポジションが「受け」であるのと同じくらい明らかで、別にそんな暗黙の了解に属することを指して言うのではない。そうではなく、塚本の場合(とはかぎらないが)、それが最悪の形でミソジニーと結託していることが、いつの日か詳細に分析されねばならないだろう(これは〈父〉をただただ賛美しているか、さもなければ反逆するかすればいい〈男の子〉にはできないことだ)。

〈父〉に愛されるには、〈女の子〉でなければならない(横抱きにされ、さらわれるお姫さまの挿絵を見て、幼い大岡昇平が悟ったことだ)。にもかかわらず、〈女の子〉は、〈男の子〉こそが〈父〉に愛されると、〈父〉に愛されるためには〈男の子〉でなければならないと錯覚する(委細をすっ飛ばして言えば、塚本はこの錯覚に貢献する)。彼女は〈父〉に同一化しようとし、そして、〈男の子〉たりえぬ自分に絶望して〈女〉になる。しかし、クリント・イーストウッドの新作では、三十過ぎの〈女の子〉が、〈父〉に“my fighter”と呼ばれるようになるのだ。

 感動的なのは、実の父娘にまさる彼らの絆云々といったことではない。〈父〉の抵抗に逆らって同一化しようとする〈女の子〉を最初は拒んだイーストウッドが、終局に至って、かつて自らに与えられたことのある悲劇的属性までを与えることで、この娘が彼自身(を継ぐ者)であることをはっきり示すことだ。イーストウッドは死なず、ただ消え去るのみ。本来なら父が先立つはずであり、死にゆく父を娘が看取るはずであるものを——。いや、父はやはり死んだのだ。少なくとも、これは死の予行演習なのだ。イーストウッドはこのようにして、一見それとわからぬやり方で、すでに私たちから消え去る準備を、ひそかに——いや、大っぴらに——ととのえているのだろうか?

   愛は生くるかぎりの罰と夕映のわれのふとももまで罌粟の丈
[PR]
by kaoruSZ | 2005-06-13 10:58 | 日々 | Comments(0)
 皆川満寿美さんのサイトからたどって以下の記事(asahi.com: 「性差解消教育、はびこっている」および自民党と「性教育・ジェンダーフリー」バッシング)を読む。

 中山成彬文科相は5日(中略)「教育の世界においてもジェンダーフリー教育だとか過激な性教育とかがはびこっている。日本をダメにしたいかのようなグループがある」と述べ、文化的・社会的に形成された性差の解消を目指すジェンダーフリーの教育などを批判した。

 自民党本部で5月26日、「過激な性教育・ジェンダーフリー教育を考えるシンポジウム」が開かれました。(中略)冒頭挨拶で、山谷[えり子]氏は「
子どもの年齢や心を無視したとんでもない人格破壊教育の暴走が教育現場で行われている。予算委員会で追及したら全国から大きな反響があった。実態をつかむことが大切と思い、安倍[晋三]議員に座長をお願いしプロジェクトチームを立ち上げた」と述べました。
 安倍氏は「
ジェンダーフリーを進めている人たちには、結婚とか家族の価値を認めないという一つの特徴がある。自民党は行き過ぎたジェンダーフリーには反対だが、民主党は奨励しているところが大きな違い」と発言しました。
 八木氏は、「
ジェンダーフリーは社会主義、マルクス主義の思想。性教育は原始共産制のフリーセックスを理想とする教育思想が背景にある」と発言しました。(中略)山谷氏は、大学の3割でジェンダー学が必修となっていることを問題にし、安倍氏は、男女共同参画社会基本法の見直しにも言及しました。

安倍発言の中身
「ジェンダーフリーが間違っているだけでなく、ジェンダーも誤解を呼びやすい言葉だ
基本法に暴走するDNAが埋め込まれているのではないか
基本法そのものについても検討していきたい。基本法と条例やジェンダーフリー教育の因果関係も見ていきたい

別ルートで見つけた山谷発言[2005.6.4付記事]。こちら[2005.6.7]もどうぞ。
「家事、育児を労働ととらえる考えは、家事サービスは外で買えばいいという発想につながる。家事は愛、調和、献身、祈りの行動である。水戸市の条例では「無償労働に対して経済評価」と規定されているが、家族が家族でなくなってしまう」
[PR]
by kaoruSZ | 2005-06-09 00:16 | 日々 | Comments(0)
●5日(日)夕、「STOP! 24条改悪キャンペーン」主催の“結婚は男と女のもの? 婚姻制度ってなんのため?「同性パートナーシップ」から婚姻制度と家族をかんがえる”(文京区民センター)へ。

●7日(火)、半日仕事を休んで「ベルギー象徴派展」(Bunkamura ザ・ミュージアム)へ。一歩入って、よかった、すいている、と思ったが、かなり地味な(すいているだけある)展覧会。ベルギー象徴主義(竹橋の近代美術館はこのタイトル)はすでに精華を見てしまっているのでこれでは淋しい感じ。クノップフ描く男装の騎士ブリトマート(『妖精の女王』の登場人物)、絵はがきを買いたいと思っていたが、あの縦長の絵を真中においた余白のクリーム色のせいで、再三手に取るも食指が動かず(白ならまだよかったか)。栞には向く形だが、ビニールにはさんだような安っぽさで欲しいという気にならなかった。カタログも、大勢で手分けして訳した長い論文一つきり、ちょっと心配でパス。

 ブリトマートの傍に掲示された説明、対の女っぽいアクレイジア[といってもクノップフのことだからあっさりしているが。もともと三幅対の予定が二点のみ制作]に対し、妖精の女王にも恋される両性具有的な凛々しさ(しかも愛らしい!)、それでもやはりファム・ファタールと紹介し、クノップフの性的嗜好も表わしているとつけ加えていた。クノップフは同性愛と今は言われているの? とまず思ったが……この説明を読んで、クノップフは両性具有的な女が好みだと取る人もいる? (それとも、〈ジャンヌ・ダルク〉と知った途端に興味を失うと?) 
 いずれにせよ、この場合「嗜好」こそが正しかろう。性的「指向」による単純な仕分けを忌避するためにも。

 甲冑姿のブリトマートは私も好みだが、
謎めいた主題を好んだ画家クノップフは、このような両性具有的な人物像を数多く描いている。宝塚的なイメージと言ってしまえばそれまでだが、等身大に近い縦長の画面に描かれた存在感あふれるこの世紀末の「オスカル」は、物憂げで悩殺的な視線と扇情的なポーズで、たしかにヅカ・ファンならずとも、観るも[ママ]誰をもその虜にしてしまうのである。(Bunkamuraザ・ミュージアム学芸員 宮澤政男)産経ウェブ より

というのはちょっといただけない。「オスカル」なんて言ったら、イメージ台無しだ。会場の説明文書いたのと同じ人と思われるが、「物憂げで悩殺的な視線と扇情的なポーズ」だなんてどうしたら言えるのか。
[PR]
by kaoruSZ | 2005-06-08 14:51 | 日々 | Comments(0)

彼女たち/私たち

 Mさんの博士論文審査会からもう三ヶ月たってしまった。「フェミニストのおかずは何?」というタイトルでこのときのことを書こうと思っていたが(あのあと忙しくなってしまったのだった)、メモもとらずにいて、あらためて思い出そうとすると、忘れかけている! 記憶力を過信(どころかたんに信用すら)してはいけなかったのだ。劇団PINK TRIANGLE の『SECRET GARDEN』についても忘れないうちに書いておこう。(ということで併せて以下に)。

『SECRET GARDEN』は、あなたに、どうにかしたい(なりたい)と思っている女性がいるのなら連れて行くべき芝居である。ただし、この「あなた」に男性は入っていない。

『SECRET GARDEN』で真先に好ましく思われるのは、登場する女たちの感情の自然さだ。何の抵抗もなく入り込めるし、自分がレズビアンだとかバイセクシュアルだとか意識的に思っていない女の子に、こういう世界、こういう可能性があると見せられる。自然——上野千鶴子の天敵のような言葉であり、掛札悠子が『レズビアンである、ということ』(河出書房新社、絶版)で最後に(「レズビアンであること」について)「自然」の一語を出したといって上野は難詰しているが、なに、誰もが彼女と同じに言葉を使うわけじゃない。ヘテロセクシュアリティもホモセクシュアリティもともに自然ではないというのが上野の言い分だったと思うが、別に掛札は開口一番、レズビアンを自然なものとして認めてほしいと言ったのではない。そこに到るまでの『レズビアンである、ということ』一巻の流れの最後にでた「自然」の一語に、私はなんら違和感を感じなかった。(三十すぎで独身の女たちが出てくる日本のTVドラマなら負け犬がどうしたとか恋か女同士の友情かという話に今なら絶対なってしまうヘテロセクシュアリティははっきり不自然である。)

「自然」と同様、「依存」についても私は単純に「悪」とは思っていないので、その点は作者の想定する観客とはちょっとずれた見方をしていたかもしれない。先日書いた「閉じる」ことはそんなに悪いか?というのとも通じるが、恋愛にあっては『SECRET GARDEN』で描かれているような「依存」——他のことはどうてもいい、ただあなたさえいればいい——というのは、甘美な感情だし、(なかなか持てないとはいえ)恋愛ではありふれたことだし、そう思える相手がいるというのは幸せな状態だ。いくら眠くてもせいぜい二日も眠れば飽きるのと同じでいつまでも続くわけじゃないし、人生長いのだからしばらくは閉じこもっていてもいいじゃないかとは、若いとかえって思わないものだ。

『SECRET GARDEN』では、そのような愛情を向けられていた遥の過去が明らかになることで女二人の関係はそれまでと同じものではありえなくなるのだが、遥の過去はあの程度のものじゃなく、以前に恋人の女を殺したとか、傷つけたとか、ストーカー的行為をしたとかで、警察沙汰、裁判沙汰になったくらいでないとちょっと弱い気が私にはした。依存のテーマでまとめたのだろうし、またドラマチックな題材をわざと避けたのかもしれないし、知らないあいだはどんなふうにでも相手のことを思い描けるので、内容はどうであれ具体的な事柄を知ってしまうこと自体致命的ということなのかもしれないが。

 劇団PINK TRIANGLEは、日本で唯一の、カムアウトして活動しているレズビアン及びバイセクシュアル女性による劇団である。前知識なく、しかし期待して見に行ったという二十代前半の男性観客の評をウェブで見たので、以下に抜粋する。
 
果たして、どんな物語、どんな価値観、どんな世界を私たちに提示してくれるのでしょう?・・・そこには彼女達から見た彼女達の世界、そしてこの社会の視点が刻まれているのだろうという想像。/それがあってこその、この集団の意味でありますし、観客は制作者が望む望まないに関わらず「それ」を求めざるを得ないでしょう。

ただ単純に男女の恋愛の形を女女の形に摩り替えただけで、そこに流れている物語は独自の視点の無い、普遍的なものでしかなかったと思う。

もしかしたら女同士のラブストーリーのリアルがそこにはあるのかもしれない・・・ただ、私たちはそこに日常の彼女達の風景が見たい訳ではない、そして私には、そのリアルさの中に含まれている女同士の恋愛に潜む関係性に関する予備知識が無い。/そこに彼女達に共通するメッセージが入れ込まれているのかもしれないけれど、私の中に共通言語が無いために、それが読めない・・・だからなのか、今回の作品からはメッセージが抽出できなかった。

もっと露骨にメッセージを出してくれた方が良かったと思う・・・私達の言葉に翻訳して欲しかった。/下ネタに入ると一気に引き込まれる、だってそういうところにメッセージがあると思うし、そこがハッキリ言ってしまって魅力じゃないのかな?(一番盛り上がってたし・・・)

彼女達による彼女達なりの私達の為のストーリーが見られれば、そこには十分な価値が見出しうると思う。/今回は彼女達の為の物語、彼女達の為のお芝居になっていたと感じてしまった。

 
 この文章の「私」に対しては、これは「あなた」のための物語、「あなた」のための芝居ではないのだと言おう(別に書き手と対話したいわけではなく、ここで書いたことを読んでほしいとさえ思わないので、トラックバックもリンクもしない。全文を読みたい読者は容易に検索できよう)。「私」は珍しいものを見せてくれなかったと不満を述べている。しかし私はその「自然」さをこそ好ましく思うものだ。

 さらに、ここで言われている「彼女達」とは誰か。そのように「彼女達」とは一括りにできるものだと「あなた」は思っているのか。「彼女達」と「私達」の間の線引きは、恣意的なものであると同時に、政治的なものである。

 Mさんの博士論文は、レディースコミックを中心とした女性にとってのポルノグラフィについてのものだった。「博士論文審査会」(誰でも参加できるというので行った)で目立ったのは、これについてはよく知らないが、と前置きして語る人の多さだった。(それで「フェミニストのおかずは何?」と訊きたくなったわけだ。)つまり、彼女たちは、ポルノグラフィを消費する「彼女たち」と「私」(たち)という布置のもとに発言していた。この線引きはまた、権力関係をもあらわすものだ。そこで、答えはすでに知っていたが、それほど「よく知らない」人が多い中で、Mさんの研究は教授たちにどう受け取られ、受け入れられているか(あるいはいないか)について質問しようと考えた。ちょうどそのとき若い研究者が、(論文の中にはやおいについても出てきたことから)やおいはゲイ差別につながりポリティカリー・コレクトではないと言われるがどう思うかと聞いたふうなことをぬかした——いえ、おっしゃった——ので、まずはこれに対して何か言わずにはいられなくなった。

 その前にむろん質問を受けたMさんが答えて、やおいの読者にはゲイ男性もいるという観点からやおいを擁護した。そのあと私が手を挙げて、女性読者(とむろん作者)が享受するものとしてのやおいの擁護を強調した。先の発言者が、やおいを消費する「彼女たち」と、「彼ら」(男性のゲイ)にすり寄る「私」(たち)のあいだに線を引こうとしたので、私はすばやく「私たち」の方へ話を戻したのだ。次いで「先生たち」の意向について質問をすると、Mさんは、レディースコミックに関して「どういう階級の人が読むのかしら」と言われたという話を披露してくれた——「彼女たち」に無縁の「私たち」はここにもいたのだ。
[PR]
by kaoruSZ | 2005-06-04 06:19 | 日々 | Comments(0)