おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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 二つ前のタイトルを「つるかめランドとは何ぞや」とつけたとき、たとえば「カルチャー・レヴュー」を経由して関西方面から読みに来てくださる方々(がいるとして)に通じるとはまさか思わなかったが、元ネタがわかる人も読者の中にはいるだろうとうっすら期待してもいたのだった。ところが、南大塚萬重宝によれば、

大塚に住んでいると聞いて「角萬だね」という人に 20 代はいない。仮に言ったとしても、それは誰かから聞き覚えた固有名詞である。更に「おおつかぁ〜、かどまぁ〜ん」と叫んだ場合、その年齢はもう 10 歳ほど跳ね上がる。言い換えると、どんなに高齢であっても角萬という言葉を知っているためには、20 年以上東京に住んでいる実績が必要なのだ。

「角萬とは何ぞや」になると、これを知る人はさらに稀少だろう。ここはやはり説明しておかねばなるまい。
 再び同サイトより引けば、

大塚駅北口の線路際にある坂道、その途中に我らが角萬はあった。言い忘れたが、角萬とはこの町唯一の結婚式場である。戦後、都内のあちこちに「角萬とは何ぞや」という意味不明の看板が現れ、その意表をついた宣伝効果で名を馳せたのだった。高度経済成長の頃、角萬はビルを建て、その屋上には、いにしえの都・京都にある金閣寺が、燦然と輝いたのである。

 南側商店街奥の大塚名画座へはよく行ったものだが、角萬がその上に立つ土地を確認したことはない。だが、JR(当時は国電)大塚駅のプラットフォーム(むろん高架である)に隣接してこのビルは建っていたので、大学へ通う朝夕、電車の中からよく見えた。金閣寺が乗っているとは知らなかったが、プラットフォーム側のビル壁面(ビル内?)には、黄金の鶴が何羽もディスプレイされていた(亀がいたかどうかは不明)。東京で見つけたキッチュな風景としてどこかに写真が載ったのを見たこともある。戸田の旧マルエツの二階壁面に掲げられた「つるかめランド」という文字を見て、私が連想したのは、まさしくこの金ピカの角萬であった。「おおつかぁ〜、かどまぁ〜ん」と呼ばわるCMがかつて流れていたことは萬重宝紙面にあるとおりである。

「角萬とは何ぞや」の文字が東京じゅうに現われた話は、私は父から聞いた。「何だろう、何だろう」とみんなが言っていると、次には「角萬とは結婚式場なり」と出たというのだ。

かつて将来の展望を見誤り、営団地下鉄丸の内線の駅設置を蹴り飛ばした大塚にとって、都電の電停は最後の砦。曲がりなりにも「ターミナル駅だもんね」をたらしめる存在だ。乗り換える電車があるのだというプライドを、それなりにまともな「雨漏りのしない」電停が死守している。駅ビルは無理だとしても、出来れば専属駅員や駅長室も作って欲しいと願う今日この頃である。

 ここにもあるとおり、大塚には都電が通っている。スタンプ四つで一回分が無料になった大塚名画座に、私はある日、都電でのんびり行ってみようという気まぐれを起こし、町屋から乗り込んだ。それが運の尽き——何とその日は、巣鴨のお地蔵さんの縁日だったのだ。駅という駅から年寄りが乗り込んでくる。動作がのろくて全員が乗り込むまでに時間がかかるから電車はベタ遅れ。着席するかつかまるかしたのを見届けずに発車して転ばれてもいけないから、運転士も慎重になる。電車は遅れに遅れるし、若いこっちとしては席も譲らざるを得ない。まあ、それはいいのだが、映画には上映開始時刻というものがあって、待ってくれないのだ。(まあ、フィルムセンターと違って日に何度もやるし、途中からだって入れてくれるから見られたけれど。)

若者を池袋に奪われ、年寄りを巣鴨に奪われ、山手線のつなぎ役に徹する町・大塚。

 これには笑った。確かに大塚まで来ると、次はもう池袋、と思うものだ。
「小さくて手薄な大塚限定情報」、homeは下記に。

http://www.edagawakoichi.com/ART/takanophoto/sunbbs/


この分類に……
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by kaoruSZ | 2005-09-29 00:36 | 日々 | Comments(1)
 昨夕『夜ごとの夢』('33)。スバラシイ! 『限りなき舗道』は見そこなってしまったけれど、無理をしないで見られるものを見ればいいやと思いかけていたけれど、やっぱり仕事なんかほっぽってを片づけて見るべき。とりあえず今日は7時の回、明日は早退して4時の回、あさっては途中外出して1時の回を見るぞ。
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by kaoruSZ | 2005-09-28 15:40 | ナルセな日々 | Comments(0)
 今日は曇って涼しいが、きのうは夏の陽射しが戻っていた。その中を(十時半の予約で)、このあいだから通っている戸田の歯医者へ。北千住で早朝に人身事故、京浜東北は大井町で「お客様が線路に転落され」たとかで(いずれもホームに入ってから放送で知る)微妙に遅れる。空を見れば秋の雲だし、帰りに西川口行きのバスを待った木蔭のバス停は風が吹き抜けて涼しかったが、それまでに前腕に日を浴びてかゆみが出る(田舎は道が広くて物蔭がないのだ。前回失敗してこの日は日傘を差していたが、それでも)。歯医者を出てから、建て替えた新家が目立つので、戸田の家に寄る前にマルエツのあたりまで遠回りすると、満ち欠けする月のように見えて実はただ欠けているだけのオレンジ色の円が並ぶマルエツのマークが見えず、代りに「つるかめランド」の文字。健康ランドにでも鞍替えしたか? いや、一階は前と同じ食料品だし、日用品、衣類がそこそこあった二階は100円ショップになっているが、階段もエレベーターもあまりにも変わらぬたたずまい(上がってみなかったが)。でも、入口の張り紙は「つるかめ店長」と名告っているから、やっぱりこれが店名なのだ。嫌だなあ、つるかめランドなんてとこで小松菜とか買うのは。

 覚えのある家何軒か、変わりないのを確認する。冠木門の農家、父の生家もこうだったのだろうと思いつつ前を過ぎる(野菜の出荷をしていたことを思えば、敷地が明治通りまであっても不思議はない。現在の門扉と場所だけは同じ)。日ざかりを歩いているとそのまま眠り込みそうなほどだるい。実は、月曜日はフィルムセンターが休みだから眠くてもいいやと、ほとんど寝ていなかったのだ。左上の犬歯の奥のつけ根とその隣の歯の裏、さらに次の歯とのあいだあたりに軽微な虫歯あり、仮の詰め物を取って削ったあと型取りしもう一度仮の詰め物。この日は歯茎落ち着いてきたからと、深い部分の歯石取りのため麻酔かけられる。それでもかなり痛かったのだが、歯医者を出て歩きはじめると、左の上唇が腫れて(実際にはそうではないのだろうが)異物のように感じられるほど効いている。なんと鼻までしびれていた。親知らず抜いたときの舌の痺れは知っているがこれははじめて。西川口から京浜東北線で延々有楽町まで南下、地下鉄を降りてサンドウィッチをテイクアウト。勤め先に三時に着いて紅茶をいれ、痺れのとれた口(患歯には仮の詰め物がされている)で平らげる。

 夜はわけあって山手線の最終(上野どまり)で帰り、うちまで歩く。上野から知らない町(真夜中にしか通ったことがない)を抜けるときいつも思うのは、幽霊というのはこうやって故郷の町に帰ってきて、自分の家が見つからずにさまよう存在であろうということ。「住宅地」とは一軒一軒塀に囲まれ庭があるようなところをいうのだろうからここはそうではあるまい、ただ小さな家がひたすら軒を連ね、コンビニは幹線道路沿いに店を開くのでここにはなく、車も入ってこず人っ子ひとり通らない寝静まった通りを進んでゆく……父もそうやって帰ってくるような気がするし、そして私ももう帰るところはないのだと思う(親の待つ家はもうない)。常磐線のガードをくぐり、しばらく行くと路地の先が仲町通りに通じているのが見分けられる。すでにここは見馴れたテリトリーだ。セブンイレブンでキノコうどんを買い、ピラフに入れた残りの海老半パックを傷む前に片づけようと(先日同じように残していて半パック無駄にしたのだ)、冷蔵庫から出し殻をむく。エビとヒラタケを足してそのままアルミ箔の容器で煮た実だくさんのうどんをよそって食べたときは二時をまわっていたろう。どうもそのまま眠ってしまったらしい(いくら歯医者行ってもこれではだめだ)。気がつくと外はまだ暗い……と思ったら曇りで明るくならないだけ、7時20分と知りあわてて這い出す。
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by kaoruSZ | 2005-09-27 16:22 | 日々 | Comments(0)
 22日、『女の中にいる他人』再見。間然するところのない傑作。見直して、新珠三千代が夫を手にかけたことも、この第二の殺人をいつか夫のように衝迫に駆られて告白してしまうかもしれないことも、画面外のモノローグで語られていたことがわかる。要するに、毒物を飲み物に入れる直截な描写はなくとも、物語としてのつじつま合わせは完全になされていたわけだ。『女人哀愁』のフェミニズム的(?)、ノラ的言辞は耳を素通りしたと前に書いたが、別にイデオロギーが問題なのではなく、こうした説明自体そもそも余分(『女人哀愁』のこの場面自体は素晴しい)なのだ。にもかかわらず(そうした蛇足的説明にもかかわらず)、『女の中にいる他人』は、白黒スタンダードの画面の強度のみによって傑作たりえている。

 光と闇の対比は妻子のいるわが家(いうまでもなく明るい)へ戻った小林桂樹が話しつつ家族へ背を向けるとき、その顏が半ば闇に浸されるところからすでに明示されていた。華奢な身体にスリップの肩紐の透ける白っぽいブラウスをまとった新珠は、いうまでもなく光の側にいる。新珠に対する一度目の告白は停電という、まさに闇と光の対比そのものの中で行なわれ、二度目のそれは、彼方に出口が見えるトンネルの闇(暗黒の背景!)を背負う小林から、キャメラが切り返してスクリーンいっぱいに捉える、トンネル外の明るさを背景にした和服——むろん白っぽい——姿の新珠のアップ(これまでにない比率で彼女の顏はスクリーンを占める)に向かって行なわれる。さらに、黒い夜空は白い花火に戯れに彩られ、見上げる子供たちの顏は明るく照らし出される。

 あと、これは徹底して視点が内部にある映画だ。もちろん屋外シーンも多いのだが、一つ前の記事で指摘したような、ガラス戸の外へのキャメラの後退に代表される運動は見られない。しかしこの内部は閉じているのではなく、むしろ絶えず外部を呼び込む。前半では、執拗に降る雨が小林の自宅の、また葬儀場の窓ガラスを伝いつづけるし、後半では隣家でゴーゴーを踊る若者たちの姿が、小林の友人で妻を彼に寝取られ、殺された、三橋達也宅の窓越しに眺められる(閉ざされた二人きりの告白の場——小林は三橋にも殺人を告げようとしている——であるべきものが、このように異物というかノイズに/へと、開かれ、浸透されているのは興味深い)。また、小林の勤め先は隣が工事中で、窓を開けると絶えず騒音が入ってくる。前述の花火もまた、窓の外に開くところを撮られている。
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by kaoruSZ | 2005-09-25 23:35 | ナルセな日々 | Comments(0)

噂の監督 2

 8月24日の記事、大間違いをしていた。『噂の娘』で船に乗っているのは姉の千葉早智子、妹と、姉の見合相手の男(大川平八郎)の方が橋上にいるのだ。橋上から一方的に見下ろす千葉というシーンが私の記憶の中には捏造されている。実際には船上から千葉が二人に気づき、妹の方も気づいてあとずさる——つまり両者とも気づいた——目が合った——ということ。今日、『噂の娘』再見して判明。

 祝日の今日、三回全部見る。11時の回『噂の娘』に続いてカップリングの『雪崩』はじまると眠りがちとなり後半しか見られず。終るとすぐ次の回のために行列を作る人たちがいるが(警備員もそれを助長)、並ぶのは真っ平なので外へ。ねぎラーメンでこの日最初の食事。ブックセンターへ歩き、直前に戻って『君と行く路』。席はまだ十分あった。大川平八郎と佐伯秀男(後者は『女人哀愁』で同定)のイケメン兄弟(それを自覚している設定で笑わせる)、母が芸者上がりのため差別を受けている。母は本質的にはお金のことしか理解しない。兄弟と母、それに兄の恋人の家の執事が話すうち、キャメラがいったんガラス戸の外へ引いて彼らをとらえる技法、他の作にもあった特徴と思う。話は悲劇。「君と行く路」それは死にゆく道なのだ。

 次までは二時間あるのにまたも行列、さっきよりすでに長くなっているが、だめならだめでいいと近くで小豆アイスあんみつ。あずきアイスとあんの半球が並ぶ。小倉とこし、どっちかと聞かれこしあんを選ぶ。つぶした小豆はアイスの方に入っているからね。こしあんの味よく、これならあんみつ以外のものも今度食べたい。再び八重洲ブックセンターへ。入口に、お金出した人に金箔を貼らせる二宮金次郎像(収益をどこかへ寄付する)が立っているのだが、その顏をじっと見上げていた女の子、私が後ろを抜けて店内へ入った直後、傍の父親らしき人に問いを発する——「夜になると動き出す?」 父親「ん……動かない、動かない」

 5時の回も直前に戻り、入るとすぐ満席に。危ないところだった(今回の特集、私が行った日で満席ははじめて)。後部右扉から入り、舞台前を通って左通路を戻り、後部扉からいったん出てまた右扉から入り、ようやく右手に席を見つける。『勝利の日まで』(45年制作、15分のフィルム断片)、半分寝ていたが、エンタツ、アチャコの出るTVヴァラエティ的ナンセンス。その前に市丸が歌い、山田五十鈴が舞っていたっけ……。メガネをかけた高峰秀子と徳川夢声の博士(いちいち右端に名前が出るのでわかりやすい)がロケットでせっせと「笑慰弾」を打ち出すと、南の島に着弾して詰められていた芸人が慰問する。作業にはげみながら高峰も歌う。徳川夢声が南の島のエンタツ、アチャコに呼びかけるところはテレビ中継そのもの。感想はナシ。

『三十三間堂通し矢物語』、タイトル下に昭和二十年六月の文字出る。敗戦の年にあんなのもこんなのも作っていたのか。ここでも、長谷川一夫の正体が明らかになるところで、複数の人物が一堂に会するときの撮り方、『噂の娘』で妹娘の出生の秘密が明らかになる室内や、前述の『君と行く路』と似る。ドラマとしては至極正統的。長谷川一夫文句なくカッコいいし、田中絹代も役にぴったり。長谷川の正体露呈の場面には、田中が繰り返し尋ね、その度に大真面目で偽名を名乗ってかわすユーモアが先行している。

 長谷川が一日に八千本射た通し矢の記録を、田中が主筋の少年に破らせる、その通し矢場面の単調さを成瀬はどう処理したか。基本的に矢を放つカットと、矢が的に当たる(あるいはそれて落ちる)カットの組み合せしかないものを、聴覚におきかえているのだ。矢が的を射ると太鼓が叩かれ、見物衆がどうっと湧き、外れると鉦の音が空しく響く。見るに忍びず家で待つ田中の耳にもそれらの音は届いて、ついには彼女も現場へ駆けつけることになるのだ。
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by kaoruSZ | 2005-09-23 23:32 | ナルセな日々 | Comments(0)

噂の監督

「カルチャー・レヴュー」に成瀬論書くときまで、感想は禁欲して貯めておいた方がいいのか、それともちょこちょこ書いた方がいいのか。
 まあ、書かないでいると、忘れたり、作品同士細部が入り混じったりしそうなので書いておく。「カルチャー・レヴュー」にはまた別のことを書きたくなるかもしれないし、書いているうちにひとりでに発展するかもしれないし。肛門性格的に止めておくことはやめ、書きたいときに書こう……。

 17日、『女人哀愁』(初見、1937)よかった。職を捨て入江たか子は見合によって家庭に入る。つまりこれも〈女たちの条件〉ものに入るわけだが、好んで忍従の生活に入った彼女を、婚家の夫の妹、つまり小姑たちは馬鹿にしきっている。まだ女学生の義妹がクラスメートたちを連れてくるが、女の子たちは全員が、自分は絶対恋愛結婚と口々に言う(この時代、現実はともかく意識はそうだったのか)。入江がせっせとガラスを拭くのは、それが好きだからだと見なされる。夫さえ、「家の道具の一つ」と思えばいいと妹たちに言うのを彼女は聞いてしまう。しかし、そう考えていることは夫が主観的には彼女を「愛している」ことと矛盾しないし、姑はよく働いてくれると目を細めるし、舅も厳しい家父長というのではなく、至極優しい(女中が寝たあとも彼女に、客と自分へのお茶をいれるよう頼むだけのことだ)。

 女中や家政婦扱いされるのは我慢できる、でも、人形として可愛いがられるのは我慢できないと、入江は名台詞を吐く。しかし、こうしたたぐいの台詞は、この程度なら紋切型としては効果的だけれど、度を越せば(しかも簡単に越す)うるさい。ラストでの自立を決意するところなど、私の耳はほとんど受けつけず、聞き流してしまった。この「人形の家」から彼女が出てゆくのには、上の義妹の恋に対する彼女の共感がかかわってくる。気軽に駆け落ちし、贅沢な生活ができないと知ると家に戻ってきた義妹の相手の男は、勤め先の金を横領してしまう。世間体ばかり気にする他の家族の中で、入江は義妹を助け彼女は彼のもとへ戻る。

 この横領事件は、前年の『朝の並木道』で夢の中の事件として描かれたものの、反復であり、実現だ(俳優も同じ大川平八郎)。それが、新聞記事として読者に示されるのも同様である。義妹まで情婦として一緒に写真が出てしまうが、これは『浮雲』(1955)で、加藤大介が自分を捨てた若い妻・岡田茉莉子を殺し、妻の愛人として森雅之のことまで書き立てられた(これも画面に新聞が出る)のを思い出させる(このため森は職を失い、最終的に屋久島まで流れてゆく)。ちなみに、このときの新聞記事は、森雅之の子を堕胎した高峰秀子が、病室で隣のベッドに寝ている女が広げている新聞に見出すという、彼女にも私たちにもショッキングな形で示される。

 18日、『朝の並木道』再見。夢の中での「公金拐帯」、女給との逃避行、無理心中(夢の中では実現しない)は、実は、千葉が女給になってすぐ、三面記事として話題になったものをなぞったにすぎなかったのだと気づく。最初に見たときは、たんに女給という仕事にはありうるかもしれない危険として提出されたのだと見過ごしていた(あとで、あれが伏線だと思い出しもしなかった)。二人が出奔したあと、カフェに刑事が来るという客観描写をやるから、観客が(私が)夢と気づかなかったのも無理はない。夢の中には夢中夢までが嵌め込まれている(故郷へ大川を伴い、両親に会わせる)。心中を迫られて必死に思いとどまらせようとするとき、千葉はもっとも美しい、恋する女としての表情を撮られている。再見して、千葉が女給という仕事になじむことによって変わることを恐れているのが印象的だった。

 転勤のモチーフを介して(いや、そればかりではなく)、『朝の並木道』は『女が階段を上る時』(1960年、7日再見)に重なる。大川平八郎は仙台へ。『階段』の森雅之は大阪へ。『朝の並木道』は千葉の片思いだが、連絡先だけを置いて去った男に対する思いを彼女は絶って、しかも女給の職から足を洗う希望を捨てずに、今日も「丸の内OL」を目指す。『女が階段を上る時』では、転勤は、高峰秀子がついに森雅之と寝た翌朝、恋する女の無防備さをさらけ出しているところに告げられるのだから、残酷さは比較にならない。しかし、千葉は自棄からではないが前夜酒を飲み過ぎて、その結果見た夢だった。その余韻で、早朝尋ねてきた大川が自分をあるいは仙台へ連れていってくれるという希望を抱いても不思議はなかったのだ。高峰は泥酔し、そのため森に送られて性交に及んだ。高峰の場合、夢ではなく現実なのだ。ついでに言えば高峰の自立とは堅気になることではない、なおも女給ならぬホステスを続けることだ。

 女給の境遇に身を置いたため、千葉は自分が以前と変わって見えはしないかと(特に大川の目に)恐れている。高峰は金のために男に身をまかせない、それゆえ汚れない女であった。結婚できるつもりになっていった加藤大介の場合は例外だが、彼女が彼の正体を知ったとき、彼の妻は、虚言癖のある夫が多くの女を騙したことを物語り、「あなたのようなきれいな方に、まさかそういうことはおありにならなかったんでしょう」と言う(実はあったのである)。寝室から去るとき森が置いて行った株券を、大阪へ出発する駅へ高峰は返しに行くが、彼の妻は走り出した列車の中で夫に、そういう仕事をしているようには見えない人ね、と言う。

 ところで、『女人哀愁』の夫役・北沢彪は、NHK初の朝の連続TVドラマ『娘と私』で「私」(父)をやった人である。1961年の終りから翌年の春にかけてうちでは家を新築したが、そのための仮住いに置かれていたTV画面に、父から「ひょう」と読むのだと教わったこの名を毎朝見ることができた。原作者の名、獅子文六もこのとき覚えた。「娘」役の顏は全く記憶にないが、父親役の彪の顏は覚えており、成瀬の他の作品でのっぺりした若い顏を見ているうちに、まぎれもなく同じ顏であるのを認めた(時間がかかりはしたが)。ドラマの内容はほとんど覚えていないが、明るいメロディーと暗いメロディーが交互に置かれたテーマ曲(スキャット)は今でも口ずさめる。
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by kaoruSZ | 2005-09-21 21:27 | ナルセな日々 | Comments(0)
 土曜日、意見交換したくてMさんと会う。前夜、「現代詩手帖」の特集「塚本邦雄の宇宙 詩魂玲瓏」を入手、けっこうウキウキと読みはじめたのだが、だいたいの内容がわかった時点で気が滅入った。短歌雑誌ならともかく(とはいっても追悼特集を図書館でそのうち読むと思うが)、「現代詩手帖」にしてこの程度なのか……。

  レオナルド論やプルースト論、カヴァフィス論が同性愛的要素を外しては成り立たないように、塚本論もそれを外しては成り立ちえまい。

 何をいまさら——しかし、「それを外し」た論ばかりが並んだずっしり重い特集一冊、現に出てしまっているのだから、しかもこう書くのが高橋睦郎で、しかも高橋ひとりときているから、まるでそう書くことに意味があるかのようである。

 そりゃ、高橋睦郎の詩は現代詩文庫で読んだ昔は好きだったし、詩集(全篇男根の隠喩から成る)も持っているし、PR誌「銀座百店」の巻末に連載中の、読者の句の撰者としての短評も愛読しているけれど(俳句が解らないと言う人にすすめて喜ばれた)、だからといって昔もいまも彼がメイル・ホモセクシュアル・セクシストであることに変わりはない。そして特集中、同性愛のトピックに触れたのは他に皆無、いや、上田三四二の旧稿があるが、そこで論じられている歌集『水銀伝説』はまるごとランボーとヴェルレーヌの道行きが主題なのだから触れて当然、そうそう今思い出したが、水銀は鉄と化合しないのだそうで、それにひっかけて鉄の化学記号Feをfemmeと読みかえた(作者がそう説明している)、あれは公然たる女嫌いの書でもあったっけ。

 Mさんが塚本を全く知らないというので少々説明する。高橋睦郎は、上野千鶴子が同性愛の言説としては三島、高橋、美輪しか知らずその強烈なミソジニーに反感を覚えて[私は同性愛者を]「差別する」と書いたという、あそこに入っていた名前だと言うと、三島と美輪だけしか覚えていなかったとMさん。この話題が出た東大五月祭でのシンポジウムで、上野さんの口から高橋陸郎の名が出たのを実際聞いているから入っていたのは確実、新聞で同性愛について特集した際の〈編集長〉をつとめたとき、断りなしにレズビアンを無視(これも上野が指摘)したのもこの人だと説明する。今日ウェブで調べると、さらに稲垣足穂の名も加わっている。タルホがミソジニックと言われるとやや首をひねりたくなる。とはいえ、タルホを根拠に、天体や鉱物に対する嗜好は女にはわからないといったことを言い出す輩もいるわけだが。

 自分がそうした認識しか持てなかったことを上野千鶴子は時代の限界と言うんだけど……しかしそれは、上野さんの資質というか、感受性の限界だと思うな(それでいてマッチョの岡井隆のことは好きなんだから)。由紀夫、睦郎、足穂の女性読者だっていたはずだし……そうだ、長野まゆみのような人もいたっけ。

 ホモフォビック(塚本邦雄を論じて同性愛に触れない)か、さもなければホモソーシャルなホモエロティシズムを示唆する論考しかない塚本追悼特集を閉じて、私が思ったことはこうだった。こうした言説から塚本を奪還しなければ。塚本作品を「やおい」として——それが最初から(建て前として)排除している女性読者の読むものとして——読むというのはその一方法だ。

 Mさんと私がそれぞれ付箋をいっぱいつけて持ち寄った『やおい小説論』(上記のような観点は全くないが、ないものねだりをして非難しようというのではない)についてはあらためて。
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by kaoruSZ | 2005-09-12 22:27 | 日々 | Comments(0)

本[複数]が行方不明

 土曜日、デニーズからの帰途、TSUTAYAに立ち寄り(駅前のビルの中にあった本屋はとうにつぶれているので、そのあたりで本を見られるのはそこしかない)、「現代思想」9月号の特集が「女はどこにいるのか」だったので買った。十川幸司「セクシュアリティの二重性——システム論的精神分析の展開」が、突出して面白い。
 二重性とは、フロイトが「人間の性生活は二度始まる」、人間の性的発達は「潜在期によって中断されている」と『性欲論三篇』[この本も百歳だそうだ、『夢判断』刊行が1900年とは覚えていたけれど]で書いている、「人間のセクシュアリティにおいては、幼児のセクシュアリティと成人のセクシュアリティの二つの異なったシステムが別様に作動しているのであり、この二つのシステム作動の様態が様々な病理を生みだしているのである」と十川がいう事態である。

 十川は結論部で、「倒錯」を「可塑性が乏しく、作動が固定したために病理が生じている状態」と(普通使われる意味とは別様に)定義した上で、「私たちはしばしば性差を自明なものと考え、その自明さに安住してしまっている。それはとりわけ男性において顕著である。というのも、私たちの社会が今もなお、男性の「倒錯」的な幼児のセクシュアリティをもとに成り立っているからである」と述べている。ここで「作動が固定」しているのは、男根がある/男根がないという対立が関心の中心となっている、女を「男根を奪われた存在」と考えるセクシュアリティである(十川の註によれば、「ここに男根中心主義的発想の起源がある。このような発想は、性差別的という以前に、名ににもまして幼児的なものである」というわけだ)。

「男根的な論理」に基づかない、オルタナティヴとしての女の子の空想が「内部空間のイメージ」だというここで紹介されている説については、その当否の判断を私は保留するけれど、彼が典拠にあげている文献の一つはジェシカ・ベンジャミンの『愛の拘束』だ。この本にはかつて書評を書いたことがあるけれど、そんな記述があったとは。(全く覚えていない……本はどこへやったっけ)。

 十川論文の註に「フロイトの『子供が叩かれる』というテクストの今日的な解釈については、次の書物が詳しい」とあったので、On Freud's "a Child Is Being Beaten", Edited by E.P.Person、買うことにする。論文中で重要視されているわけではないが、個人的な関心から。そもそも"A Child Is Being Beaten"は、未訳だったノーマン・ブラウン(竹内書店から出ていた『エロスとタナトス』は、私のバイブルだった時期がある)の"Love's Body"等に引用されているのを見て非常に興味を覚え、未訳だった、そして注文した洋書を半年待つのが普通だった二十年前に、新宿紀伊国屋でペリカン・ブックス版を見つけて読んだ(そして読み切れなかった)論文だ。年月が流れ、ある日、人文書院のフロイト全集がいつの間にか冊数をふやしており、「子供が叩かれる」という題でこれが入っているのを発見(ちなみに、"A child Is being beaten"という、タイトルになった科白(もともとカッコにくくられている)は、分析を受けている子供が医者に対して言うものなので、「子供がぶたれているんです」とでも訳すほうが適切ではないかと思う。)それからまた年月が流れた。

 skysoftでは見つからず、Amazonで検索してContemporary Freudというシリーズの一冊とわかる。はじめてAmazonで注文する。編者のファースト・ネーム、Ethelとあるのを見た途端、見覚えのあるエセル・Pという名に変換される。エセル・P・パーソンなら、『ひとはなぜ空想するのか』の著者ではないか。私はこれの書評も書いている(掲載誌がどこかから出てきたらアップしよう)。
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by kaoruSZ | 2005-09-07 17:57 | 日々 | Comments(0)

ジヤウブナカラダ

「カルチャー・レヴュー」に成瀬について、中間報告的な、簡単なものを書いた。時間がとれなくて、簡単なのに大変。実際にキーボードを叩いていたのはわずかな時間だが、自分の文章を読み返すのに絶対必要な距離をおくための時間が持てないまま出稿。どうにも書けていないことを発見するのを恐れて、翌朝こわごわアップされた同誌に目を通すが、だんだん大丈夫な気がしてきたのでここでも紹介する次第。

 土曜日、偶然、小野田寛郎のインタヴューの二時間番組見はじめてしまい、五時前ならやっているかもと思っていた東京ガスの営業所へ五時過ぎてから出かける。「デニーズ」で休むつもりで、筆記具と『やおい小説論』と“Le Plaisir du Text”をバッグへ。「エネスタ」(energy stationのつもり?)、さすがに商売であいていた。督促状分の他に期限前のも一緒に払うかときかれ、二ヶ月分のガス代支払う。男の係員に、領収書が二枚になってしまうんです、すみません、とあやまられる。なぜあやまるのか不明。

「デニーズ」のカウンター席で“Le Plaisir du Text”ひろげる。『テクストの快楽』でないのは、本がすぐに出てこないから。バルトが「読んで快楽を感じる」と書いているフローベールの文章(ぴんと張ったロープに洗濯物が干されている様子の記述)、確かめたかった。出典は『ブヴァールとぺキュシェ』(8月17日の記事で『ブヴァール』に言及したときは意識していなかった)。『テクストの快楽』は、昔、原書と両方を一人旅に持ち歩いたこともあり、かなり覚え込んでいるので、フランス語の向うに訳文の断片がうっすら立ち上がる。そのうち目が馴れて(?)フランス語自体も読めてくる。『やおい小説論』(予約していたのを30日に引き取ってきた)が「テクストの快楽」という言葉を使っているため、読み返しているわけだが……バルトには言及していないようだ(未確認)。だが、引用されている「ボーイズラブ」小説のテクストから引き出されるものを「テクストの快楽」と呼ぶのには、どうにも無理があると思われる。もちろん、ある用語——ここでは「テクストの快楽」——をどう流用しようと自由だが、有効に活用できているとは思えない。(むしろ「ジェンダーの娯楽化」という言葉は、あるいは流通する力を持っているかもしれないと思わせる。)

 L字型のカウンターの手前に私がいて、左手では年配の夫婦らしき男女が食事をしながら、かなり大きな声で喋っている。親戚か何かの幼い男の子の話を妻がするのがこちらの耳に入ってくる。幼稚園のおゆうぎ会(と今でも言うのだろうか)か何かにマントをまとって出演したが、本人はお姫さまになりたかったと言っていると。夫いわく——おかまになりたいのか。

「ジェンダーの娯楽化」——この言葉を、左手のカウンターの私から遠い方にいて、顏をこっちに向けている、髪を短く刈った親父にぶつけてみたらどうだろう、とページから目を上げずに私は夢想した……それは単なるジェンダーの娯楽化であって、お姫さまのドレスを身につけることは、永続的なおかまというアイデンティティを持つことと特に関係があるわけではありません。ただ、「おかまになりたいのか」という台詞がそこにあびせられた結果として、「お姫さまになりたい」という無邪気な望みを坊やは二度と口にすることがなくなり、「オカマになる」ことを死ぬほど恐れるようになる——ちょうど今、あなたが恐れているように——というだけのことなのです。

 日曜日、台風が来るとも知らず植木に水をやったあと、伸び過ぎた枝を切っていると、にこやかなオバチャンに門扉の外から声をかけられる——色つきの飲料が入った牛乳瓶三本を片手で一度に持って、「ごあいさつ」にくれると言う。胸にMのマークが見えるから、だまして毒入り牛乳をつかませる無差別殺人者ではあるまい。しかし私は牛乳はいつも低温殺菌牛乳を飲んでいる。そう言って断わるが、しかし——コンビニにには売っていないので、時にはやむをえず高温殺菌のも買う。この日も実は小型パックの飲みかけが室内にあり、午後になってようやく冷蔵庫へしまった。オバチャンからもらっておけばよかったかと思うほど喉がかわいたころになって、あれがあったと思い出す。冷えたのを取り出し、一気に喉へ——え? 舌に当たるこの感触は何? 酸っぱい! おまけに苦い!(しかし臭くはなかった——と思いたい。)いつから出しっぱなしだったのだろうとはじめて疑問がわく(そのあたりはあまり追求したくない)があとの祭。口にふくんだ分は吐き出したが、すでに喉を通ってしまったひとかたまりは平気で食道をおりてゆき、胃におさまりつつあった。その後——まったく異状は起こっていない。

 結局、土日ともフィルムセンターへは行きそこなった。
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by kaoruSZ | 2005-09-05 22:52 | 日々 | Comments(0)