おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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 10月1日、前回、前半眠ってしまった(いつもながら睡眠不足のため。映画が退屈で眠るということはまずない)『まごころ』を見に11時の回へ。10時31分の電車で、間に合うかドキドキ。それでも間に合って、見られて本当によかった。涙したのは、富子(役名)が信子(同)に、富子の母は自分の父と結婚するはずだったのだと聞かされて泣き出し、それを見て信子も泣いてしまい、丸太のベンチの上で同じ方向(信子が富子の背中を見る)を向いて二人泣くところでではない。私が涙ぐんだのは、信子が川に入って足を怪我する前の、水着姿の川辺のシーンだ。富子の母と信子の父が結婚していたら、「あなたでもわたしでもない子供」が生まれていたと信子が言い、それは彼女たちをともに否定するものであるはずなのだが、半分あなたに似て半分わたしに似た子供、とさらに続けることで、信子は実は現在の自分の母を否定してしまっている(富子の父は故人だからここからは外れるが、川へ来る直前の場面で、富子の亡父が飲んだくれのろくでなしだったことは祖母の口から暴露されており、さらにこのあと、富子は父の写真を母の箪笥の抽出からそっと出して眺めるのだが、観客にはその容貌は判別できないまま、信子の父の顏がオーヴァーラップする)のだが、それでもなお、まるで互いが互いの半身になったように感じて(と言葉に出して言われはしないが)、二人はほほえみあい、頬を寄せあい、するとキャメラは二人の後ろに回って、柔らかな頬のすきまに川面がかがやくのだ。

 このあと、信子が足に怪我→富子が走って母に知らせる→富子の母と富子が駆けつけると、信子はすでに浴衣をはおっていて信子の父(それ以前に、父が釣りに来ていることは、富子と私たちにさりげなく紹介されていた)がそばにいる→思いがけない再会をする二人の大人と、それをじっと見つめる二人の子供→富子の母が信子の手当てをする→信子が父におぶわれての別れと話は進む。そして翌日、お礼として箱入りの大きな抱き人形が富子の家に届けられるが、大人たちの困惑を察して、富子は人形を返しに行く。自分のあずかり知らぬところで進んだこの一件を知り信子の母は夫をなじるが、かえって自分の非を認めざるを得なくなる。この間、父に召集令状が来て「尊い御奉仕」へ行くことも明らかになる。信子は親には告げぬまま、人形の大きな箱を抱えて富子のもとへ向かう。それを知った信子の母は、ひどい言葉を口にしてしまった富子の母にもあやまりたいと夫に告げてあとを追う。大樹の張り出した枝の下の道を、浴衣姿の富子が足をひきずりつつ歩む後ろ姿。木の下でセーラー服に夏帽姿でひとり面伏せにたたずむ富子。

 この映画はここで終ってもよかったはずだ(と、最初私は思った)。このあと画面は突然変わり(おなじみの大胆な省略法)、軍装で送られる列車の中の信子の父、富子と信子、富子の腕に抱かれた人形、富子の母と信子の母がプラットフォームで人々に混じって送る出征シーンになる。映画が制作された昭和14年という時代がこうした終り方を必要としたという事情は確かにあろう(映画内の設定も昭和14年で、彼女たちは六年生だから十二才として昭和2年生れ、私の母と同年だ)。冒頭の、出征兵士を送ったあととおぼしき愛国婦人会の列へ戻ることで円環を閉じてもいるのだが、しかしそれだけではあるまい。
(つづく)
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by kaoruSZ | 2005-10-04 00:27 | ナルセな日々 | Comments(0)

東洋永遠平和の敵

 30日の1時の回、『妻よ薔薇のやうに』見たが、疲れていて駄目。傑作なのか? わからない……。勤め先へとんぼ返りし、面倒な事案どうにか片づけ、7時の回に再び来FC。席を確保した直後満席に。今度は覚醒phase。『上海の月』、国策映画の断片(半分以下だとのこと)で、タイトルも何もなしに途中からはじまる。どんな映画でも、物語に入り込んでいない冒頭では特に形式ばかりに目が行くことになるが、頭が欠けているのでたまたまはじまりになった、大川平八郎が室内から出て車に乗り込み、走り出すと待ち伏せていた車が尾行して上海市内を走行するあたりも、見事なカメラワークに目を奪われる。中国人の女スパイが山田五十鈴とはチラシ見るまで気づかず。最後に映像に重ねてお題目がぞろぞろ出るが、それが、テロを憎む、テロは敵だとそればっかり。なんてタイムリー! 日本軍が列車顛覆させてもテロじゃないが、抗日ゲリラはテロ、真珠湾攻撃はもちろんテロじゃない。テロは東洋永遠平和の敵という一行もあって、もう誰も覚えていなかろうが、この「東洋永遠の平和」とは大東亜戦争のスローガンの一つ(平和のためと称さない戦争はない)、なんで私がそんなことを知っているかといえば母に聞かされたからで、べつに母は戦時中の体験を伝えようとしたのではなく、女学校の朝礼か何かで教師が毎度「東洋永遠の平和の基[もとい]!」と大声で叫ぶ、その発音が「もとえ!」となまっていたのが、後年繰り返しわが子に話さずにはいられないほどおかしかったというだけだ。

『秀子の車掌さん』、これが『上海の月』と同じ年('41)なのだから驚く。成瀬は傑作が多過ぎるため、そんなにいい出来には見えない。最後のバスの後ろ姿、本物の馬を追い立てて芝居の馬が駆けてゆく、『旅役者』幕切れの二頭の後ろ姿を思い出させる。笑わせるけれど、カタストロフはすでに起きてしまっているのだ。
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by kaoruSZ | 2005-10-04 00:16 | ナルセな日々 | Comments(0)
『夜ごとの夢』('33)と併映の『腰辧頑張れ』('31)[9月26日]で、大家が家賃を取りに来たので父親が押入れに隠れると、先に子供が入っている。上空を飛行機が近づく爆音がして、飛行機見たさに出ようとして子供が暴れる。襖が外れて倒れ、二人は大家に見つかってしまう。

 下線部は、飛行中の機体の映像の一瞬の挿入で表現される。というのは、これがサイレント・フィルムだからだ。それだけで、続く場面の子供の反応から、観客は爆音が聞えたことまで了解する。この瞬間、私は23日の記事に書いた、『三十三間堂通し矢物語』('44)での音の扱いを連想した。あれはサイレントでもそのまま通る——サイレントから継承した——手法なのだ。音なしでも、鉦や太鼓が叩かれる映像に田中絹代の映像を接続させることにより、彼女がそれを聞いていることを観客に示すことができる。

 逆に、トーキーでしかできないことは何だろう。音が先行する(次の場面の音を先取りして直前の画面に重ねる)のはやれない。登場人物が聞いていない音、画面に同調しない音はサイレントでは表現できない。(『夜ごとの夢』で、栗島すみ子が自宅の鏡に向かって顏を映している。その顏が髪を整え化粧したものに変わる。彼女は鏡の前を離れる。すると、もうそこは彼女の勤めるカフェの奥で、顏を直した栗島は客の前へ戻ってゆく。これは『秋立ちぬ』の場面転換と同じテクニックであり、上記の音による重ね合わせを映像で行なっているわけだ。)

『女の中にいる他人』('66)——あれはサイレントではやれない。やっぱり、あのノイズの入り方は尋常ではない。小林桂樹の勤め先の隣は、どうしてやわざわざ工事現場に設定されているのか……観客に気づかせるためだ。あれがノイズであることは誰にでもわかる。一方で、都会の大通りや激しい雨や花火に音が付随するのは当然だから、見(聞き)過ごしてしまう。

 だが、あれらもまたノイズだと、自然な音ではなく、内部を脅かす外部と——たとえそれが小林の内から来るものだとしても(「他人」は女=新珠の中ではなく、むしろ男=小林の中にひそんでいよう)同じことだ——考えるべきなのだ。

『夜ごとの夢』には、成瀬映画の代名詞の一つにしてもいいダメ男(斉藤達雄)がすでに登場する。しかし彼はよい父親ではある。ボールをほうってやろうとして、彼は遊びに夢中の息子に、横あいから来た車をよけさせる。交通事故の頻出をすでに見ている後年の観客としては、このさりげない仕草のうちに、もう事故(遺作に至るまで反復される)の予感がしてかすかな胸騒ぎを覚える。

 斉藤達男が不吉にも玩具の自動車をもてあそんでいる手元が大写しに。そこへ細かいカット割りで子供らが駆けつけ、実際に聞いたかと錯覚させる叫びが字幕で響く。「大変。文ちゃんが!」

 やっぱり——文ちゃんも!

 おもちゃの消防自動車のアップで場面をつなぐことにしよう。『女の中にいる他人』で、三橋達也が小林桂樹の留守中に、彼の息子への手土産にし、遊ばせていた、大きな音を立てる玩具だ。このフィルムで、三橋達也は奇妙な男である。新珠には子供のためを第一に思う母親という大義名分があるし、小林の場合、平凡な男がふとしたはずみに落ち込んだ罠ということで、一応説明されよう。しかし、三橋達也、いったい何なんだ。小林桂樹と並んでどっちが二枚目かは明らかなのに小林に妻を寝取られた、妻のいるあいだは奔放な彼女を満足させられないというひけ目の中に生きていた、小林が彼女を殺したという物的証拠が手元にあり、告白までされながら見過ごそうとする男。彼は一方では、「内」へ入り込んで小林の子供たちを手なずけ、息子の命を救い、おもちゃの消防自動車のノイズを響かせる。

『女の中にいる他人』では、水辺という指標に加えて、それを通り過ぎれば死が待っている(新珠に先導されて小林はそこから引き返す)トンネルの中での二度目の告白の終りでは、車までもが彼らに接近していたのだった。二人を轢かずに、斉藤達夫と息子が最初にそうしたように、日常的な仕草で車をよけた二人の傍を、トンネルの向うからゆっくりやってきた車は通過して行った。

●成瀬関係の記述、今までは「日々」に入れていたが、あまりにも多くなったので「ナルセな日々」の項目を作った。(成瀬に関係ない出来事の割合が多い回もあるが……。)当面、カテゴリの上段に置いておく。
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by kaoruSZ | 2005-10-02 07:34 | ナルセな日々 | Comments(0)

カ、カワイイ……


 29日7時の回、『君と別れて』('31)。相変らず寝る時間がなくてはじまりは眠かったが、水久保澄子の文字通り目のさめる美しさで覚醒。栗島すみ子は昔の美人だが、このひとは現代のアイドル顏。橋上での会話、吹き寄せられたゴミが浮いている掘割。ああ、『秋立ちぬ』だ……と思っていると、男女(芸者の水久保と、姉さん芸者吉川満子の息子である学生)が電車で出発、ロング・シートに並んで会話するのを正面から捉える。(あ、『鶴八鶴次郎』だ……)と思っていると、着いた先は女の故郷の海辺の村。『秋立ちぬ』の子供たちがタクシーに乗って行き着いたのは埋め立て地の茶色い海でしかなかったが、ここではいきなり、荒々しい「本物」の海が。一升瓶を割ってしまった弟役の突貫小僧が笑わせる。でも、ここは牧歌的な場所ではなく、突貫小僧のおつかいも酒飲みの父親に命じられてのもの。娘を食い物にしている父親は下の娘までも芸者にしようとしていて、水久保はそれを何としても阻止したい。二人で海を見ながら彼女は本当はこんなところからは逃げ出したいのだと嘆く(サイレントなので字幕である)。それに続いて、

  私、もう何処か遠い所へ行ってしまひたい。○○さん、私と一緒に行つてくれる?

 目を見張ったのは、この文字が波さわぐ海景に重ねられたこと。それまでは無地の背景の上に文字が出ていたのに、そしてこのあともそうなのに、この一枚だけは実景の上に文字が出るのだ。今のはなに? なんなの!(と大興奮)。

 嘘よ、と即座に水久保は打ち消す。

 このあと、もとの町へ戻って、彼が不良仲間から抜けようとして喧嘩になり巻き込まれた水久保が刺されるという事件が。病院でベッドの中から顏だけ出していてさえ、水久保の愛らしさは光り輝く。おかげで男が釣り合いません。悪いけどこのカップル、あまりに容貌の差ありすぎ* 。

『秋立ちぬ』の子供たちは、子供であるがゆえに大人の都合に翻弄され、望ましい家族を作れず(父の本妻の子である実の兄姉に冷たくあしらわれた少女は、友だちの少年をお兄さんにと望むが、大人たちはむろん歯牙にもかけない)、死に等しい別れを経験しなければならないのだと思われた。しかし、そうではなかったのだ。大人になってもさして状況は変わらない。それどころか、事態はいっそう悪化しているとさえ思われる。水久保の怪我は大したことなくすんだけれど、彼女は「遠いところ」へ行かなければならない。妹だけは「清いままで」いさせるために、もっと稼げる遠い場所へ「住み替え」をするのだ。「遠いところ」、それは仏印か屋久島かはたまたラホールか** 。

「遠いところ」へ行く者たち。『乱れ雲』の加山雄三もその最後につらなる者だった。『乱れる』の加山雄三が行き着いた先も——思えば、高峰秀子が「次で降りましょう」と言い、降りたのが川と橋*** のあるところであったのは偶然ではなかった。『乱れ雲』で司葉子は加山が船出するのを見送らねばならなかった。「一緒に行く」ことはかなわない(例外として『浮雲』。しかし結局は……)。水辺は成瀬における死と別れの場所なのだ(それはすでに『夜ごとの夢』で——圧倒的に——明らかだ)。

*だから、「嘘よ」という科白にも、そりゃ嘘だよね、ほかに言える相手もないから、自分を慕っている年下のコに言ってみたんだよね、と半分茶々を入れたくなる。『君と行く道』の佐伯秀男が電車の中で見初める堤真佐子の御面相も……(失礼! 門付けの姉さんのときはそんなこと思わなかったんだけど)、知らない同士で見つめ合い、惹かれ合う、電車内の場面そのものはいいのに、なんでこれが「理想の女性」なの???ではあった。

**水久保澄子にとってそれはフィリピンだったらしい。この、あまりにも美しい、そして全く聞き覚えのない、たんに私が無知なばかりではなく、今に名前が残っているとも思われない女優の名を検索すると……なんと彼女、実生活でも、芸者照菊同様、親に寄生されていたらしい。それが原因らしい、自殺未遂もしている。そしてそこから逃れた先がフィリピン人の金持ちとの結婚……それがまた、『女が階段を上る時』の高峰秀子みたいな、騙された結婚(相手が既婚という意味ではなく)……。きっと成瀬監督がこんな役をやらせたせいだよ!

***『女の中にいる他人』で、神経衰弱になった小林桂樹が保養に行く温泉では、川に吊り橋がかかっている。あとからやってきた新珠三千代、(直後に夫から殺人の告白を聞かされる)トンネルへ入ってゆく夫に、「この先に何かあるんですの?」吊り橋から河原へ投身自殺があったのを観客はすでに知っているからこれは怖い質問だ。
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by kaoruSZ | 2005-10-01 07:22 | ナルセな日々 | Comments(0)