おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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いい加減な目撃者

 小林桂樹の『役者六十年』を読んでいて、山下清を小林が演じた(とははじめて知ったが)『裸の大将』は、最初、成瀬巳喜男が撮るはずで、山下本人や式場隆三郎とも監督と一緒に会ったという記述に出会った。その際、山下は「兵隊の位で言えば」監督は何かを知りたがり、大将だと教えられて尊敬の目で成瀬を見るようになったそうだ。
 それはともかく、面白いと思ったのは、完成した映画を見た山下が、線路の上を犬と汽車に追われて小林が逃げる場面について、「汽車に人が乗っていなかったな」と言ったというエピソードだ。さすが目のつけどころが違う。「落ちること」や、ひるがえるエプロンばかりを見ていた頃の蓮實のように、衛生状態改善を啓蒙する映画の中で、画面を一瞬横切るニワトリしか見ていなかったアフリカの(だったか?)人たちのように。

 以前、山下清の話を教室でした教師のことを書いたが、なるほどこの映画から数年しか経たない頃だったわけで、映画によっても山下清が広く知られるようになった、あるいは、映画化されるほどに有名になった時期だったのだろう。この教師はまた、国語の教科書にあった長めの(二年生にしては)物語を何人かに分けて朗読させ、おもむろに、今読んだところには何が書いてあったかと問うた。私はいぶかしんだ。今読んだのを、彼は聞いていなかったのろうか? もう一度すっかり読めというのか?
 かいつまんで述べるということを、私は知らなかったわけではない。幼稚園で見せられた紙芝居の内容を、家へ帰ると母に語ってきかせ、さらに手紙に書きつづって祖母に送っていたのだから、そうとは知らぬままに要約することの実践をしていたのだった。しかし、「今読んだところ」には渾然として分かち難いひとかたまりのフォルムがあったので、それを言い替えることは承服し難かった。(松浦寿輝が似たような体験を書いている。教科書の文章のうち、重要なところに赤で傍線を引きなさいと言われて引いているうち、どれも重要でないところはないと思われてきて、しまいには「そして」や「しかし」にまでも引きたくなった(のだったか、引いてしまったか)というのだ。)

 小利口な教師はあらすじのまとめ方を私たちに教えたかったわけで、まあそれはいいとしよう。社会生活の中で、要点を言う能力が必要になることは大いにありうるし、啓蒙され、教育された上で、なおニワトリを見ることは可能なのだから。堪え難く思われたのは、細部の無視を彼が平然と行なうことだった。先にあげたのとは別に、同じ教科書にオノマトペを多用した物語があって、教師は自ら朗読してみせたが、不注意のせいか、目でも悪かったのか、それとも無意味な音のつらなりなどどうでもいいと思っていたのか、それをまともに発音しないのだった。まあ、二年生ならこのくらいをやらせておけと教科書編纂者がまとめただけのものだから、今思えばたいした文章だったとも思えないからどうでもいいのだが、何が書いてあったか聞く前にちゃんと読めよと思ったものだ。

 さて、以上が、映画の細部、すなわちフィルムそのものである魅惑的なノイズを無視して、物語を抽出しようとすることに抗するための枕であることはいうまでもない。藤井仁子は、『成瀬巳喜男の世界へ』所収の論文「映画の中にいる他人」(面白い)で、『女の中にいる他人』において小林桂樹が本当に殺人を犯したのか、新珠三千代が本当に夫の飲み物に毒を入れたのかは確定できないと述べていて、これはあくまで物語を読むまいという意思のあらわれでもあるのだが、小林が若林映子の首を絞めるナラタージュ(登場人物のナレーションとともに現出する、いわゆる回想シーン)が真実とは限らないというのはともかく、新珠は最後にナレーションで饒舌に物語るので、少なくとも夫の小林を殺したことは事実として提示されているし、ミステリーあるいはサスペンスとして、物語派をも満足させるだけのつじつまあわせがされ、外見がつくろわれてはいるのだ。だが、逆説的に、ある見せかけとしてのジャンルにおさまることで、その中で最大限に冒険を重ねることが可能になる。ミステリーにおいて心理的な本当らしさはそれほど重要ではない。やたらと殺人が起こるジャンルだと、あらかじめ観客は了解しているからだ。

 小林がナレーションとともに若林映子の首からはずし、枕元の花瓶へ落し込むペンダント。確かに花瓶へ入れたと声は言っているのだが、私は、三度見て、三度目にやっとそれが花瓶に入るのを見届けることができた。一度目は気にしていなかったし、二度目は、一応注意していたのに外へ落ちたように見えたのだ。私があてにならない目撃者であるばかりでなく、そもそも、重要な物的証拠であるはずのそれをしっかり効率よく見せよう――ここが大切ですよと傍線を引いて――という意思が稀薄な感じなのである(ずさんな扱いと以前に書いたのはこのことだ)。これより前、殺人の行なわれた部屋の持主である草笛光子が、部屋の花瓶にこんなものが入っていたと、被害者の夫・三橋達也にペンダントを渡している。花瓶の中に入れたというのは、警察の捜査をまぬがれ草笛によって発見されるために必要だったわけだが、藤井は、女の首からペンダントを取り(首絞めプレイのためである)花瓶に入れたという小林の声とともに画面が展開するとき、誰が前の場面を思い出すだろうかと言う——私はそのことはただちに思い出したのだけれど、逆に、ペンダントが花瓶に入るのを認めえず、小林の証言と事実に齟齬があるのかと誤解しかけた、だめな目撃者(としての観客)であった。

 藤井によれば、もともと脚本では、夫の話を聞いた新珠は三橋に電話して、確かにペンダントが花瓶から出たことを知り、夫が犯人である消しようのない事実に直面することになっていたという。しかし成瀬は、この説明をあまさず切ってしまった。(この結果、ペンダントを花瓶に滑り込ませる場面は宙に浮くことになり、草笛が三橋にそれを渡す場面も物語との緊密な連携を失ったことになる)。草稿と決定稿の関係……ここではたまたま脚本家と監督は別の人間だが、小説家ならひとりでそれをすることになる。そして小説家はけっしてひとりではありえない。

『女の中にいる他人』は、女を殺してしまったばかりの小林桂樹が路上に佇んでいるのを私たちが見出す(むろん私たちはまだそのことを知らない)ところからはじまるが、それが雨上がりの舗道だったという私自身の記憶が正しいのかどうか私には自信がなかった。やたらと雨が降るという印象のために、遡ってそのときも雨のあとだと信じ込んでしまったのかもしれなかった。雨ばかり降っていたのは梅雨のせいだという合理的な理由がありうることに、梅雨が明けて夏になり、と誰かが書いていたので私はようやく気がついた。クライマックスが花火大会なのだから、確かにあれはそれに先立つ梅雨だったのだ。三回目(成瀬作品で三回見たのはこれだけ、あとは二回以下)でようやく、冒頭のシーンで路面が濡れていたのも確認できた。しかも、つぼめた傘を持った通行人が通り過ぎる。意識して分析的に見る前に、最大限に知覚してはいたらしい。

   *

 半月も更新を休んでしまったが、「ナルセな日々」はどうも終わっていないようだ。半月前、〈カルチャー・レヴュー〉用に 「成瀬巳喜男の日々の砕片[かけら]」を書いたものの、どうも調子が出ない(一回ではどうにも終らず、次号へ続くことに)。「ナルセの日々」の断片的なテクストは、相対的に公式な場であるウェブ/メールマガジン上の、まがりなりにも決定版たるべきテクストと、いかなる関係を持ちうるか/えないか? ……目下、読んでいる本は、松澤和宏『生成論の探求—テクスト 草稿 エクリチュール』だ(非常に面白い)。
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by kaoruSZ | 2005-11-15 23:44 | ナルセな日々 | Comments(2)