おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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 Yさんと有楽町で待ち合せ。交通会館の旭屋書店二階売場と指定したのは言い間違いではなく、首尾よく落ち合ってのちYさんに、そこが三省堂であることを指摘されるまで気づかなかった。できた当時、近藤書店は本店閉めたのに旭屋は進出して景気いいなと思って以来、旭屋と誤解していたのだ! 東芝ビルの店舗とは、雑誌の並べ方など趣向を変えて特色を出しているのかと思っていた(思い込むといくらでも合理化可能なもの)。あまり来ていない店だけれど、それでも何度か買ってもいる。(朝日と毎日間違えるのなんて朝飯前のわけだ。)

 一度上ってみたいと思っていた、最上階の青いライトで縁取られた回転する円形レストランで食事。回転レストランなら、ホテルオークラと、それからいきなり規模が落ちるが 、今はない王子・飛鳥山の回転展望台に次ぎ三箇所目。行ってきたという事実に満足し、味は目をつぶらざるを得ないレヴェル*。昼間来てお茶とケーキの方がよかったかも。

 行政の仕事に加えて非常勤講師としてジェンダーについても教えるYさん、有楽町を見下ろしつつ、デモの集合場所があの辺で、あそこで機動隊から逃げたと語る年代だ。一つ前の記事で「迷いつつ」と書いたが、あれもまたイメージの一面化であり、「自信に満ちて」といれなきゃと思うくらい、地元で、DV被害者や性別違和を持つ当事者のための活動にかかわる一方、一般女子(比較的高年齢層)を相手に啓蒙活動もバリバリやっている。他の自治体の人が見にきて驚くそうで、それだけよそではフェミニズム活動に対する縛りがきつくなっている実態があるらしい。例の仙台の女の生物学者(以前理系研究者と書いたが、生物学者でよさそう)が、インターセックスは少数の例外的な人々であり、大部分の人間は二極に集まる、だから男女間は連続的でないと書いていることについて、数の大小が連続性を否定する根拠になるのだろうかとメールで以前問い合わせたとき、その人の考えは間違っていますと返事をもらっていたのだが、あれは男女は明らかに違っているはずというイデオロギーが目をくもらせているのでしょうか、と問うと、たんにその人が生物学を知らないのだと断言する。生物学者なのに? 生物学は非常に細分化されており、他の研究については無知な場合が多い、自分は生物学についてなら日本のどこでどんな研究をやっているか知っているが仙台で人類遺伝学をやっている人はいないはず、と言う。恐れ入りました。(しかし、まあ、例の人の場合、やはりイデオロギーが先行しているのだと思うけど。)

 鳥だってオスとメスの違いははっきりしている(だから人間も)という自民党議員に、Yさん、鳥には、オスメス[外見が]はっきり分かれているのと分かれてないのがいるんです、と言ってやったという。ニワトリとかキジ、孔雀あたりを想定したんだろうね、その議員。私は生物学が専門です、という科白はそういうとき利くそうだ。相手がたじたじとなるのが目に見えるよう。(しかし、スズメを考えるだけで素人にもわかるよ、それ。もともと、生物学的比喩は非常に安易。)Y染色体は相手の女性のX染色体と接合する段階ですでにもとのものではなくなるとは前にも聞いた話。まあ、ああいうのは、三種の神器がY染色体に代わったようなもので、男だけが代々引き継ぐ何ものか(という幻想)をそう名づけているだけだが。
 それにしても、降臨した天孫は誰の子だったんだっけ? アマテラスに夫はいなくて、どこか洗ったり息吹きかけたりするだけで子が生まれていたのだと思うけど、そのときY染色体はどこから湧いてきた?
 敬宮を、将来、男系男子と結婚させるのがいいと公然と言う人がいるのには驚くと言うと、
 ―さも、うやまっているようなことを言って、本当はそうじゃないのよね、とYさん。
 ―いったいそれって、誰のため? なんのため? 当事者はたまったもんじゃないよね。
 ―人権問題よ。
 ―でもあの人たち、もともと人権ないわけでしょう。

 まったく、もう一度人間宣言したほうがいいんじゃないか。われわれは人間であって、かけあわせの対象になる絶滅危惧種じゃないって。

*値段はサーヴィス料つき高レヴェル!
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by kaoruSZ | 2006-01-31 14:02 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(14)

恣意的な線引きに抗して

 ここ数日、ウェブ上で、なぜ上野千鶴子支援ばかりが盛り上がるのか、大学の中でだけ学問の自由が守られればいいのかといった趣旨の書きこみを見るようになった。それはそうだが、しかし、フェミ業界と一般女性というふうに、そう簡単に線引きはできない。フェミ業界といっても、難解な理論を弄ぶ(これもたんなるイメージに過ぎないが)のとはまた違う、フェミニズムの問題意識を学生たちに共有させるという困難な実践をして、成果をあげている人もいる。至極当然のことながら、いろいろなところで、いろいろな人が、自分にできることを迷いつつやっているわけで、それを一言でくくってはしまえない。そうした何人かの顔を直接知っているだけにそう思う。

 上野さん自身については、「私はバイリンガル」と称して、ジェンダーフリーなどという言葉を使わなくても運動の現場では男女平等で伝わるじゃないか、というふうに、妙な線引きをしたがるのが気になる。現場でジェンダーとかジェンダーフリーという言葉を有意義に使っている人、あるいは、大学の外にもジェンダーという言葉によってものを考えている人がいることを想定していないのではないかと疑いたくなる。

 野原燐氏が、今回の抗議文は、過去の石原都政との問題に一切触れていないが、それらの事件の一例として今回の上野氏問題があるのだという把握が必要である、と批判的に書いているが、まさにそのとおりだ。そして実は今回の抗議文は、確かに表面的には今回の事件しか問題にしていないが、母体となったML自体は、それ以前からの石原都政(都政に限るわけではない)を問題にし、今動かなければという危機感を抱いた人々がいたからこそはじまったものである。(そのことは、新たに抗議文サイトに加わった文章の中で、「ある動き」という言葉で言いあらわされてもいる。)**

「ジェンダー業界総力を挙げての(?)今回の抗議文」とも野原さんは書いているが、それは買いかぶりというもの(もともと?がついてるか……) 。ML上で口を出すのは、どちらかというとマージナルな人たち(私自身も含め)だった。専門家はあんまり……だったと思う。(見直す元気もないけれど。)職業的には専門家でも、専門家としてではなく、個人的なこだわり(「こだわり」の誤用だけど使う)のある人が書いてきたようにも思う。(まあ、本気で論争したら収拾がつかなくなるし、そんな必要もないから控えたということもあるだろうし、私自身、ああいうものは紋切型でいいと考えており、その枠内で意見を言おうとした。)その代り、専門家はこぞって賛同メールを送ってきた。それも本文が完全には定まらないうちに。上野さん支援なら間違いないっていうことか。上野ブランド買いっ!てところ?

 とはいえ、今回上野さんに支援が集中したのは、大学関係者ほどの力も持たない女たちが、自分の代りに石原に一矢報いてくれないかと、こぞって署名したからでもあろう。私が個人的に送った署名呼びかけのメールにただちに反応して署名したと知らせてくれたのは(私自身もまだしていなかったのに!)、また、自分でもブログで呼びかけてくれたのは、そういう、所属先も持たず、組織にも属していない人たちだった。彼女たちは上野さんに投票した気持ちだったと思う。上野さんには今後ますます期待を担って活動してもらわなくてはならないだろう。***
 
 今、東京新聞の記事を見たら、若桑教授をはじめとするジェンダー研究者が署名 と書いてあった。個人的にはやっぱり問題だな、これ。新聞記事的にはわかりやすいので、別にいいけれど。

【2月8日、以下の註の大部分を新たに書き 、リンクを張る】

2004年12月16日 東大ジェンダーコロキアム 報告 ジェンダーフリー概念」から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係 参照

ここで上野氏は、男女混合名簿の意義を訴えた現場の教師に次のように答えている。

上野:男女混合名簿が現実を変えるかどうかについては、私は大学の教員として男女混合名簿を経験しておりますが、男女混合名簿と大学の性差別が何の関係もない、ということを実感しておりますので、そう申し上げたんですが、小中学校の現場では混合名簿が違う働きをしているということですね。実際それは現場では死活問題なのだというようなことですが、私がこれまでお会いしてきた男女混合名簿推進者の女性教員の方から、今のような形で明確なご返答をいただいたことがありませんでした。だからサンプルが悪かったと言われればそうかもしれません。あるいは私の視野が狭かった、ということでしょうか。

 この人はいつもこの調子、この図式なのか。男女混合名簿が問題になるのは大学なんかでじゃないということを、人に言われるまでわからない?(別の問題についてだが、考えてみればわかることじゃない、と対談相手の浅田彰に言われたものわかりの悪さが、ここでも大いに発揮されている)。

「サンプルが悪かったと言われればそうかもしれません」……。かつて、東大五月祭で行われた「ゲイ・スタディーズ meets フェミニズム」と題したシンポジウムで、過去の著作の中で同性愛者を差別していると聴衆に批判された上野氏は、同性愛者としてはミソジニックな三島、美輪、高橋睦郎しか知らなかったと(つまりサンプルが悪かったのだと)弁解し、レズビアンについては、掛札さん(『レズビアンである、ということ』の著者、掛札悠子)との対話で理解したと述べた。

 掛札氏がその著書の中で「自然」という言葉を使っていることを(レズビアンを自然なものとして受け入れてほしい、という文脈で)、上野氏が、この人にして自然という言葉を使ってしまうのかと批判していたことを、私は覚えていた。(しかし掛札氏は、「自然」という言葉を日常語、つまり自然言語として使っている。読み返してみると、その言葉は最後の最後、「あとがき」にようやくあらわれる。そこまで粘り強い緻密な思考を積み重ねてきた掛札氏が、最後にふっと力を抜き、ため息のように洩らした言葉、異性愛が「自然なもの」だとマジョリティが言うのと同断だなどとは読者はまず思わないであろう箇所で発せられている言葉だったのだ。しかし、専門用語と日常語のバイリンガルだと称する上野氏はそれを読ま(め)ず、ただただ「自然」という語を「言葉狩り」する、専門用語のモノリンガルとして反応していた……。

 しかし、「対話」によってそのあたりの誤解も解けたのだろう。聴衆のひとりだった私は、そんなふうに受け取ったと思う。
「サンプル」が掛札さん一人というのも問題にすべきかもしれなかったし(数の問題ではないと思うので私はそれには同調しないが)、演者としてステージの上にいるのが、男性のゲイとヘテロセクシュアルの女性だけでレズビアンがいないのはどういうわけかという質問も出た。同性愛者差別の記述を批判した女性は、上野さんの弁解に最後まで納得しなかった。
 全体として、その日上野さんから私が受けた印象は、「やっぱり長年やってきた人はすごみがある」であった。もうだいぶ前になるので記憶も薄れたが、それは特に、ゲイ男性はミソジニーに陥らずにフェミニズムと一緒にやれるのか、という意味の発言から来たものだったように思う。(現在ではこのシンポジウムの記録、単行本で読めるはず。)ひとことで言って、上野さんの著作よりも本人の方が良い印象であった(ほめ言葉にはならないと思うが)。

 それからしばらくして、偶然、掛札さんと短時間同席する機会があった(それ以前に、モニック・ウィティッグの小説『レズビアンの身体』の邦訳を私が持っていると聞き知った掛札さんから、人を介して貸してほしいという申し込みがあり、貸してあげたことはあったが、直接会ったのはこの時だけ)。くだんのシンポジウムの内容をまとめたワープロ原稿をその日私は持ってきており、掛札さんにそれを見せた。読みはじめた掛札さんは、「掛札さんとの対話で云々」のところで顔をあげた。私は上野さんと対話していませんよ。上野さんとは、○○体育間のトイレで挨拶しただけです。大まじめな顔で掛札さんは言った。

 インフォーマントから情報を得てはじめて理解するのだという、サンプルが悪ければ想像力が働かないままらしい上野氏は、また、著書を読むことを「対話」と称するらしい。

 いや、比喩としてそう言うことはかまわない(私自身はしないけれど)。しかし、会場であれを聞いて、上野さんが掛札さんと直接話したのだと思わなかった人はまずいなかったろうし、「自然」の一件についても、私のように、直談することで掛札さんとある種の共通の了解に達したと思うのが「自然」だろう。
 
 その「自然」という言葉を自分はどこで書いていたのかと呟いて、掛札さんがその場に一冊あった『レズビアンである、ということ』を懸命にめくりはじめたので、私は唖然としてその姿を見守った。結局掛札さんには見つけられなかったので、今度は私が本を手に取り、「自然」の二文字を求めてページを繰った。
 けれども、前述のとおりそれはあとがきにあったので、本文だけを探した私たちはついに見つけられなかった。

★「自然」の一件については、ここでも触れた。

** 野原氏のサイト 彎曲していく日常
野原さんが書きかけだった私の記事を読んで追記をされているのに今日気づいた。

>野原さん、コメントしに行くと黒猫さんのところに書いたままになっていました。この記事は、もともと野原さんへのコメントとして書きはじめられたのが形を変えたものです。根津さんのこと(だけが問題ではなかったのですが、ここまでのあいだにまったく言及していなかったので)について、とりあえず以下に。

 数年前、ある大学院生から根津公子さんへの支援を求められ(根津さんの件は、授業で従軍慰安婦及び同性愛を扱い、学習指導要領にないことを教えたと校長に咎め立てされたのがそもそものはじまりだと聞いている)、都教育長への抗議をメールで送り、また、各自が抗議文を送ってほしいとの依頼を今回と同じように知り合いに流して以来、根津さんの闘いは承知している(十分な支援をしてきたとは言わないが)。今回の、上野さんのために署名した人と根津さんのために何らかの働きかけをした人がどのくらい重なるかはわからないが、根津公子の名が、今回署名にかかわっている人たちにまったく馴染みのないものだとは思えないこと、今回の抗議サイトに明記された、対抗すべき「ある動き」の中には、日の丸君が代の強制が間違いなく入っていることを言っておきたい。

***つい紋切型に筆が流れた。どう見てもここ、それほど本気で書いていない。
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by kaoruSZ | 2006-01-30 17:25 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)
【ジェンダーは性差ではない】
「ジェンダーの娯楽化」とは、『やおい小説論—女性のためのエロス表現』中に出てくる言葉で、この本、以前触れたのだが、今回ググったところ9件(実質7件)ヒットして、何とウチのページが入っていない。何でだよ! どうなってるんだ、Google! なに漏らしてんだ! というわけで、あらためて書いておく。ジェンダーの娯楽化 ジェンダーの娯楽化 ジェンダーの娯楽化(「だるまさんがころんだ」の代りにするには一音足りない。)

 さて、黒猫房主のブログで、、東京都への抗議文作成過程について、もっぱら私個人に偏った話を記したが、あそこでは私とて思いきり抗議文というコンテクスト(それもフェミニズム・バッシングの論理に多かれ少なかれ縛られた)に偏っていたわけで、気がつくと欲求不満がつのっていた。「ジェンダー(社会的文化的性差)」とハンで押したように(げ。新聞記者文体がうつった!)カッコ書きする新聞記事を黒猫ブログでバカにしておいたが、この言い方、とりわけ「性差」がまずい。使用禁止!(笑)

 なぜまずいか。差異を実体化するからまずい、とまずは言えよう。それから……と考えていたら、ジェンダーとメディア・ブログで「ジェンダー=社会的、文化的性差」という定義がなぜまずいのかというそのものずばりの説明を見かけたので一部を引用しておく。

「ジェンダー=社会的、文化的性差」っていうこと自体、男女の権力差を生じせしめている社会制度、慣行などを問題にせず、個人的な特質差や性格の差、好みの差のみを問題にしているように理解されがちである点が極めてまずい定義だと思っています。(1.17の追記2)

 そのとおりなんだけれど、これではまだ言い足りない。差異がニュートラルに生じるものではなく、権力関係の中で生じるとは、つまり、「個人的な」差異とは実は政治的なもので、構造的なものだということだ(むろん、上の言明はそれを踏まえているわけだが、あえてそこまで言葉にすれば)。しかしまた、「社会制度、慣行」の中で育つ個体すべてに、どちらの性別で育つかによってそうした「特質差、性格の差、好みの差」等がもれなく出るわけではない。けれども、性差という言葉は、あたかも、すべての男女がそうした二元的差異を分有しているような錯覚を起こさせる。

 たのしいジェンダー、娯楽としてのジェンダーの話になかなか辿りつかないのは、具体的な性差別の現場に戻って、基本的なことをおさらいしておきたいという気持ちがあるからだ。というのは、来月、きままな読書会でやる、赤川論文をあらためて読みはじめてうんざりしたから。別に、赤川の仮想敵のフェミニストに私があてはまるというわけではない。そんなこと以前に問題ありすぎなのだが、まずは今回気づいたところを一つ。1990年頃に「セクシュアリティやジェンダーを社会科学的な研究課題とした」赤川は、自分の知見がどんなところから得られたかをいちいち挙げているのだが、その中にこうある。

……また、性差があるかないか(一階の差異)ではなく、他にもあまたある差異のうち、なぜ性差のみが言及されるのか(二階の差異)こそが問題であるという重大な示唆を、先輩である浅野智彦(現・東京学芸大学)から得たりしていた。

 机上の知識を馬鹿にする人間を馬鹿にすることでは人後に落ちぬ私でさえ言いたくなる

ホント、隅から隅までオベンキョーなんだねえ!
 
 大学の同級生だった人にこう話したことがある——「日本人はこれこれだ」と言われるのを聞いても、別に気にならないのに、「女はこうだ」と言われると、なんでこう、気になったり、反感を持ったりするんだろう。
 彼女にも私にもむろん答えは見えていた。それこそが、社会と、そこにおいて女として分類された私たちのあいだで鋭く対立するところであり、摩擦を起こすところだったからだ。他にもあまたある差異のうち、なぜ性差のみが言及されるのか。 それは、緊急の問いであり、現に日常的なこの社会で私たちを生きにくくさせている問題であり、示唆を得て自覚するような悠長なものではなかったのだ。
 それに続いてだったと思うが、当時とみに反動的な発言(女について決めつけるたぐいの発言)が目立つようになっていた倉橋由美子(かつてはファンだった)について友人は言った。反論できないのが口惜しいのよね。
 そんなことない。反論できるよと私は言った。

 とはいえ、当時はまだ、ジェンダーも(文法書以外には)、セクシュアリティもなかったのだった。構築主義という言葉も、本質主義という言葉も知られていなかった。赤川が東大で知見や示唆を得るより十年余り前のことだ。
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by kaoruSZ | 2006-01-29 05:42 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)
『君と別れて』で、字幕が無地の背景の上にではなく、海景の上にあらわれてびっくりした話は前に書いたが、『限りなき鋪道』でも同じことが起こっていた。どちらも、人物は画面に写っていない空ショット。電話をする男の映像に続いて、 銀座で会おうという声が、声だけ先回りして銀座の風景の上に出る(サイレントだから文字で)のだ。そのままキャメラは、約束に従って二人が会う銀座の街並へ進んでゆく。これはなかなか面白いテクニックで、あるいは私が知らないだけであってさほど珍しいことではなく、同時代の別な監督もこうしたことをやっているのかもしれないと気づいた。それにしても、二本の映画のどちらでもこのやり方が非常に効果的で、たとえポピュラーな方法だったとしても凡手のわざではない。Oさんにこの話をすると、ああ、オーヴァーラップするんでしょ、といわれる。オーヴァーラップ。その言葉で考えたことはなかった。Oさんはそう呼ぶのか。別に間違いではないけれど、しかし私はそうは呼ばない……。なぜだろう? 実景にオーヴァーラップすることが重要なのではなく、文字の背後が実景であることが問題に思えるからだろうか。いったいその違いは何か。トーキーで言えばヴォイスオーヴァーにあたるわけだが。

 Oさん、『君と別れて』はよかったでしょうと言っても賛同してくれない。あまりにもメロドラマでと言う。でも、海辺の村へ行く電車の中がよかったでしょうというと、見落したという。私も前回はよく見てなかったらしいのだが、ヒロインが、私たち何に見えるかしら。恋人同士? 兄妹?と言うと、それまで正面から、シートに並ぶ二人を写していたキャメラは、百八十度回り込み、彼らの上方の同じ画面に、幼い男女の子供のペアの顔を入れ、続いて、今度は反対側の電車の〈外〉から、窓越しに二人の子供を捉える。そして、そのあとも車内にいろいろな組み合わせが二人一組でいる様子を――共通点はどれも仲むつまじいこと――次々に映し出す。幸福そうな人たち。そのあいだも質問は答えられないまま続いている。「兄妹ね」というヒロインの声でこの緊張は解ける。

 Oさんの賛同を得ようとして、でも女優が可愛いでしょうと顔で釣る。現代的な顔だとOさんもようやく頷く。今だってアイドルになれるとウェブにあったと言うと、松浦理英子に似ていないかとOさん。確かに似てるかも。松浦がアイドル顔なのだ。ヒロイン――水久保澄子のその後の悲しい物語をOさんに聞かせる。『君と別れて』の相手役の男優が合わないとOさんけなす。年取ってる。私もそれはそう思う。あらためて見ても、電車の中の科白もほとんど彼女ひとりの自作自演のように見える。でも、それも悪くない。所詮兄妹以上にはなれない相手に彼女は束の間の、実現されるべくもないファンタジーをあじわっているわけで。この男優は、今回はじめて見た野村浩将の与太者シリーズに、三人組の一人として出ていた人。そこではずいぶんよかった。
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by kaoruSZ | 2006-01-27 05:28 | ナルセな日々 | Comments(0)
 先週の金曜日から風邪引く。寝込まず、熱ほとんど出ず、早退しただけで仕事もほとんど休まず、医者にはかからず、徹夜一回に睡眠不足数回でも平気なので、また体力を過信しそう(それでもやっぱり、治るまで一週間はかかる。昨日すっかり抜けたような気がしたのは勘違いだった。今週は歯医者行き休みなのだが、一応歯だけは気をつけている)。土曜日は大雪だったが、三時半に銀座でjjさんと会う約束。月曜日には出国してしまうので延ばせない。それでも、朝のうちは、急いで美容院へ行って髪を切ろうとか、雪景色を見たい場所に寄り道しようとか考えていたが、とてもそんな状態でないことがだんだんわかってくる。洗濯も面倒になり、前日と同じセーターをかぶる。外を見ていなかったので、出かけようとしてようやく、門までの道(短いけれど)、ふかぶかと雪に埋まっているのに気づき、帰りが心配になってスコップで取りのぞく。椿屋珈琲店に行くつもりだったが、私が場所を間違って覚えていて(行ったことはなく、地図上で覚えただけ)、結局ウェストに入る。

 ここもはじめてだったし、一度入ってみたかったところ。jjさん、子供の頃に家族で来ていたそうで(その後は長らく来ていなかった)、なつかしがる。それならよかった。私はコーヒーとキッシュ、向うは紅茶とサヴァランとり、これも最近なかなか見つからないと喜んでくれる。帰りにはお母さんのために生ケーキも買っていた。飲みものはおかわり自由。ブックマッチが素晴しく洒落ている。これで禁煙にしてくれればいうことなし。しかし、それだと、マッチも消えてしまうか。ずっと日本語の本を読んでいないjjさんに上野千鶴子の説明からしようとすると、そのニュースならTVで見たという。学会のために帰国していたのだが、ニュージーランド人たちと一緒のときに偶然見て、内容を訳して聞かせると、日本は民主主義ではないのかと驚かれたという。 

 夕食はオールドデリーへ。私はコースを頼んだが、最初のスープがすでに余分な感じ。かなり食い意地のはった私ではあるが、タンドリー・チキンも、チキン、海老ほか四種類から三種選べと言われて驚く。スパイスで一気に風邪を制圧のつもりが、堪能しすぎて嫌になった。築地にあったときよく行き、今の場所になってからなかなか来る機会がなかったものの、去年、フィルムセンターの上映の合い間に二度ばかり来ている。つまり、夜ははじめてで、ランチのカレーの量はナンの大きさに較べていつも物足りなかったのが、今日こそ大きな器に入ったたっぷりのカレーを平らげた。味も好みなのだが……。

 体調がよければまた違ったのかもしれないが、しばらくは見るのも沢山だ。月末にYさんが来るのでここに案内するつもりでいたが他を考えよう。雪、みぞれに変わる。ニュージーランド羊の毛で織ったマフラーをお土産にもらい、グルグルに巻きつける。翌朝も出かける用事あり、冷え切った空気の中を、マスクして帽子かぶってグルグル。中野で、凍った歩道を走ってきた自転車が目の前でものの見事に転倒し、放り出された若い男、そのままの格好でアイターと呟いている。マスクの下から、大丈夫ですかと声をかける。荷物でも散らばっていれば拾うところだが、それもなく、そばに立っていても役に立たないし、体裁悪くて無理に起き上がろうとしたのでは悪いから先へ行く。年寄りだったら死にかねないけど、うまく丸くなって落ちていたし(でもあれは痛かったろう)。この日は会った人に、そこまで具合の悪そうなあなたをはじめて見たと言われる。水曜日までマスク。今日は赤鼻をさらす。寒さいくらかゆるんで、透し編みのマフラーに戻る。
 
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by kaoruSZ | 2006-01-26 18:51 | 日々 | Comments(0)

★東京都に抗議を★

 一つ下の記事で言及した、ジェンダー・フリーという言葉を使うかもしれないという懸念から上野千鶴子氏を講師として呼ぶのを国分寺市にやめさせた東京都に抗議する署名運動がはじまりました。

ここから署名できます

 抗議文とともに、ことの顛末と、上野氏による公開質問状その他もごらんになれます。
 第一次〆切は26日正午と間がありません。すぐにどうぞ。
 氏名の公表を望まない方でも参加できます。


○2月7日付記 
1)上の呼びかけでは第一次s〆切となっていますが、処理能力に限界があるとのことで(二日半で集めた署名の取りまとめは、都庁へ持ってゆく前の晩に、二人のかたが徹夜でやったそうです)、署名集めは終了しました。その後の状況(現在進行中)は上記サイト「に詳しくアップされています。

2)これに関連する文章を、黒猫房主のブログ「シャ ノワール カフェ別館」にコメントとして書き込みました。黒猫さんが本文に転載してくれたのでここでお読みいただけます。なお、その下に続いているコメント欄では、署名の呼びかけをめぐってウェブ上で起こった珍事の一斑を見ることができます。

3)公開質問状に回答がなかったので2月7日に上野氏が新たに督促状を送ったことについての記事を、同日付けでアップしました。
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by kaoruSZ | 2006-01-24 11:16 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)

「男女平等」

 最近、新聞の書評で、書評者がフェミニズム=「男女平等」と思っているらしい記述に出会った。しかも、二十一世紀には「男女平等」はますます重要な課題になるのだそうだ。その理由はと言えば、少子化だの、女性の社会進出だの……いったい何の話だ(とはいえ、その程度のことを言う人間は、思えばまだましな方なのだった)。
 しかし、粗雑な議論にいちいち反論するのも、結構エネルギーを要するものだ。馬鹿にばかりつきあっていると馬鹿になる。その意味からも、たまには、『ジェンダー/セクシュアリティ』のような本をじっくり読むのはおすすめである。
(田崎英明の上記著書の書評。全文はここ)。

 上の文章で「最近」と言っているのがいつかが気になっていた。パソコンを調べたら、どうも2000年の12月らしい。「十二月だ、私から父を奪った十二月だ」――というのは、プルーストの言葉を一月ずらして引用しているだけで、私がパセティックになっているわけでは全くない。2000年の終り、父が死ぬちょっと前に、こういうのを書いていたのか。実をいうと自分の文章としてはかなり好きなもの(ただし、引用部より前のところ)。

 なんでこれを調べたかというと、かねがね、あのときは「男女平等」という言葉になんか洟も引っかけなかったということは、ジェンダーフリー・バッシングなどまだ先の話だったんだ、と思っていたからだ。
 幸いなことに、ジェンダーフリー・バッシングがいつはじまったかについては、成城トランスカレッジ!が取り上げてくれている。うーん、この12月は、偶然第一次男女共同参画がはじまった月だけど、まだまだジェンダーフリーが叩かれるには程遠かったのね。

「男女平等」という言葉が俄然私にとって前景化したのは、「男女共同参画」というケッタイな言葉が、「男女平等」を嫌う連中とのあいだの妥協案として生まれたものだと知ってからだ。「男女共同参画」などという言葉、自分からは絶対使わないし(つまり、今のように、それ自体を問題化するとき以外は)、「男女平等」という言葉には生ぬるさしか感じなかった(あらかじめジェンダー化されちゃって、その上でどうこう言うわけだからね)のだが、これがラディカルで許せない連中もいるんだ!

 東京ウィメンズプラザ、今でも、会議室利用希望者に、男女共同参画に関係のある集まりかと聞いているのかなあ。ジェンダーフリー推進の会合だと答えたらどうなるんだろう? きままな読書会で使っていた頃、しょっちゅうそうきかれて、フェミニズムやジェンダーについての本の読書会、と申込書に書き込みつつ、うちに貸さないでどこに貸すっていうんだ!と内心思っていたもの(石原が東京女性財団つぶす前の話)。

 以下は、以前一度引用したことがある、2005年の人生相談と、私のそのときのコメント。

 二十代の新婚の主婦です。夫の実家にいる祖父母や母親の言葉に疲れています。/悪い人たちではないのですが、「嫁をもらった」という感覚が強く、嫁は夫の親に仕えるものだというようなことを時々言ってきます。(中略)帰省した時、近所の人から「おかあさんが話すと嫌みになるから、私から話させてもらうね、今は男女平等って言うけれど、そうじゃないのよ」と言われました。
 
  これは1955年のではない、2005年5月の「人生案内」(読売新聞)だ。
  これほどいやがられるとは、〈男女平等〉もまだ捨てたものではないのかもしれない。


 思い出した。私の母方の祖母(生きていれば98)も私に、「今は男女平等の時代かもしれないけど、ここはアメリカじゃないんだ」と言ったっけ。「何? アメリカって。アメリカがいいなんて全然思っちゃいないよ」と答えた私。(具体的にどんな状況だったかは忘れてしまった。)むろん祖母が、アメリカについて何か知っていたわけでは全くない。

 とはいえ、世代的な限界は当然あったにしても、私を全く理解できず、「今まで何不自由なく育ってきたのに、どうしてお父さんのような人を見つけて結婚しない?」と愚痴ばかり言っていた私の母に較べれば(母が育った戦争へ向かう時代の教育が抑圧的だった?)、祖母はむしろ進歩的で、ユーモアとウィットのある人だった。ほとんど寝たきりになっても、祖母と話すのは面白かったのだ。上記の科白も、私が社会的に摩擦を起こすことを心配しているだけだった。それさえクリアーできれば、自分の知らない別な生き方*がありうることをわかっていたのだと思う。

 以上、、ジェンダーフリーという言葉を使うことを恐れて、東京都教育庁が、上野千鶴子東大教授が国分寺市の「人権に関する講座」の講師になることを拒否したという、その「粗雑な議論」への抗議文作成に関わる、「男女平等」の扱いにくたびれた日の終りに。

*念のために言っておくけど、それは理解ある夫と家事を平等に分担し、仕事と家庭を両立させて子育てをするなんてものでは全くない。

付記 第一次男女共同参画策定当時首相だった森某、あれを「男女共同参画社会」にしたのは失敗だった、「男女共同家族社会」にすべきだったと上坂冬子に語っているんだって。ひぇい!

付記2 結局、完成した抗議文に「男女平等」の四文字は無かった(男女共同サンカク? そんなものハナっから入っておりません)。
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by kaoruSZ | 2006-01-20 21:30 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)
 あらためて、なんて言っていると忘れるし、どの作品に属す断片かわからなくなる――すでにそうなりかけているので、八日から十五日までに見た演奏つき成瀬(他に野村浩将のが三本あって、これがまたよかった)についてメモしておく。昨年見そこなって今回完全にはじめてだったのは『限りなき鋪道』(1934)。見られてよかった――戦前の銀座の町並みがかいま見られたからばかりではなく、このときすでに成瀬は成瀬だったことが確かめられたからだ。まず、ヒロインを金持ちの男と結びつける原因としての交通事故。封建的家制度下の結婚という『女人哀愁』的主題(ヒロインの最後の演説も同じ。職業婦人に戻るのも)。しかし、瀕死の夫(これも、暴走の結果とはいえ交通事故。頭を包帯で巻かれた人物を、成瀬のフィルムでいったい何人見たことか。交通事故は、遺作に至るまで便利な「口実」として成瀬のフィルムに蔓延する)に付き添ってやらないヒロインは共感を呼ばなかろう。姑(と夫の姉)の態度は、あれは科白で説明されているように「家」のことしか考えないからではありえない。他人に入り込まれることに対する嫌悪、息子/弟を取られた嫉妬からだ。

『生さぬ仲』(1932)は、岡田嘉子の実の母、可哀想。息子の前妻、後妻のどっちに転んでも孫と暮らせる二股膏薬のバアサン、調子いい! 息子が破産して、下獄までしているとき、貧乏は嫌だと、息子の前妻、ハリウッドで女優として成功した岡田嘉子のもとへ孫を連れ去ってしまう。デパート・ガールになった育ての母、観客の紅涙をしぼる。育ての母が交通事故に遭うのは、道に落した人形が車に轢かれそうになって娘が飛び出したのをかばってだった。(その直前、飛行機の玩具も空を飛んでいる。)この献身のおかげで娘も人形も無事。後段、彼女と引き離された幼い娘は、夜、人形を抱いて家を抜け出し、自転車にぶつかる(それで頭を包帯でグルグル)。今回は人形、放置される。人形からの連想もあるが、「本当のお母さん」という問題系、『まごころ』に通じるもの。ついになつかず、育ての母を恋うる娘に、彼女は全財産を与えて失意のうちに米国へ去る。父親、出所してきて、パパ、ママ、ワタシの三角形にババつきの家族、岡田の金も入ってめでたしめでたし。やっぱり岡田嘉子カワイソ! 奪い取るか、さもなければ身を引くかの二者択一しかないんだもの。後妻に全面的に譲る以外には、たまに面会に来るという道もなく、たぶんアメリカへは行ったきり。二度と戻らない。実際には、生さぬ仲の母娘の深い絆というのは、『東京物語』の義理の親たちと原節子の関係同様、ファンタジーにすぎなかろう。
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by kaoruSZ | 2006-01-18 20:34 | ナルセな日々 | Comments(2)

成瀬ふたたび

 無声映画にピアノの生演奏をつける企画(フィルムセンターでは以前からやっている)にさして期待はしていなかった。フィルムがもともと持つ〈音楽〉を消しかねないと思っていたから。出かけて行ったのは、たんにまた成瀬が見られるからだった。ところが――そんな子供絶対預かりませんからねッと柳眉を逆立てた女が、次のカットでは優しく子供にご飯を食べさせているがごとき展開に(映画についてはまたあらためて。新たな発見多し)。

 金曜日、仕事早退して『腰辦頑張れ』を見てのち、「あづま」で小ラーメン、しそおむすび、ソフトクリームあんみつのセットを食べ終え、満足して本を読んでいると名前を呼ばれる。メガネをはずしていたので顔が見えず、しかし声でOさんとわかる。見たばかりの『腰辦』の演奏よかったねと言いあう。五日から来ているそうだ。Oさん、食事ののち、小ホールでの松竹回顧上映へ。こっちはあいかわらずの寝不足で『腰辦』の前にやった斉藤寅二郎作品、全然見られなかった状態なので、あとの番組はあきらめて銀座へ歩く。松屋にふらっと入り、セールのワゴンの中に見つけたエンジのカシミヤのニット手袋、甲が縄編みで手首が折り返しのをはめてみて、その気持ちよさに購入。いつの間にか千円札二枚を残して財布の中身は領収証にすりかわっており、ポケットの小銭まではたく(そのあとで小銭入れをバッグの中に見つけ、コーヒー飲んで休んでしまう)。牡丹色のカシミヤのを今年はすでに買っているから贅沢なんだけど、あっちは布地だから……。

 明くる土曜日、二本見、日曜日にまた二本見て、八重洲ブックセンターから「限りなき鋪道」を有楽町へ歩く。humsumさんがブログに新旧のそごうの建物アップしていたので、ビックカメラになってからついぞ寄りつかなかったところへ入る気になった。かつて靴売り場だった奥の段差に覚えあり。喧騒の中にかつての店内が甦った(かも)。ヒール高くなくつま先尖らず、しかも甲に渡る革をレースのように水玉に打ち抜いて、縁をスカラップにととのえた可愛いデザインの白いサンダルを買って以来、そごうの靴売り場を見るようになったのだ(弟の結婚式のときも、買って何年も経っていたがシンガポールまで持って行ってそれを履いた。今でも女ものの靴の九割には無縁だが 、当時はさらに、歩きやすくしかも洒落た靴は稀だった)。アールのついた赤い階段は記憶していなかったが、明らかに今作ったものではない。それにしてもどうしてああ騒がしい中で買物させるのか、どうしてあれだけ人が集まるのか、理解できず早々に立ち去る。

 阪急の一階、通り抜けるだけのつもりが、ANNA SUIのきれいな編込みの帽子に目を引かれる。赤地をかぶってみるが、いくらなんでもかわいらし過ぎではと気がひける(別に赤が悪いわけではなく……赤だったら、すでに無地の毛糸の帽子を持っている)。黄土色の地にバラ色や青や白の編込みの色違いあり。一度西武の方へ行ってソックスを選んで戻る。どれも冬物バーゲン品。赤地でない方を購入。
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by kaoruSZ | 2006-01-16 14:23 | 日々 | Comments(2)
 石田仁さんのサイトへ久しぶりに偶然行きつく(前見たのとは変わっていた。私が知る限りでも二度変わったけど。トップに、レイザーラモンHD人形の一件が載っている)。明学での授業の内容紹介、「性のマイノリティ」に「女」を(それもトップに)入れているのに瞠目。卓見!(この社会ではメイル・ヘテロセクシュアルの鬱陶しい嗜好/思考につき合わされているんだからね。それに対して、私たちのような少数存在にも居場所を与えて下さいと訴えたいわけでは毛頭ない。)「マイノリティ」は数が問題なのではないということの例として「女」(実際には人類の半数いる)が挙げられるのは見かけるが、セクシュアル・マイノリティに関してのこの分類は一般的ではない……と思うが、どうなんだろう?
「セクシュアル・マイノリティ」という言葉、私はあまり好まないのだが、彼のように「女」を一番に持ってくるような使いかただったら使ってもいいかと思った。

 某MLで見たやりとりから――

   >もちろん、現行の婚外子差別は大問題。

  ですね。本人が「婚外子になる」ことを選んだわけはないんですから。


 オイオイ。本人の責任でそうなっているわけではないのだから寛大になれというのは、一つ前の記事でリンクした、ホモフォビックなサイトのコメント欄でも展開されていた論理だぜ。それが一つ。もう一つの問題は、言うまでもなく、この論理では「自分の子が婚外子になることを選んだ」者への差別を妨げないということ。「私生児を産むような母親」を選んだのは子供ではないのだから差別するなと言っていることになるのがわからないのかなあ。「子供が可愛そうだ」という論理はこの裏返し。私だったらまず彼女への差別を思うけど。
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by kaoruSZ | 2006-01-07 07:12 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(6)