おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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今後の見通し

「きままな読書会」終わったが、それについて何か書いているひまがない(書きたいけど)。
 例年のことではあるのだが、いろいろなことが一度に押し寄せてくる……。年度末を迎えて仕事が忙しいのと、確定申告(まず部屋を片づけて書類を拾い集めなければ)と……。3月4日のイベントに誘われていて、一日ぐらいいいやと思ったら、Yさんが5日からまた東京に来るという。夕飯食べるとしたらいつ? 確定申告の締切かなり心配。その前に、「カルチャー・レヴュー」に緊張感を欠いた連載をしている成瀬の最終回書かねばならないのだが、自分が書いたものを読み返しているひまと元気がないのと、ちょっと気持ちが逸れているので、今回は番外篇として他のものを書きたい。3月1日カルチャー・レヴューを見られたし(リンクしてある黒猫のハタをクリック!)。原稿落してなければ載っているはず。テーマが何かはお楽しみに。オニババのときと違って今回はオマージュ。そのあと(その前から)新設シネマヴェーラへマキノを見に通いたいのだが。上野に若冲が来ていると遅まきながら知る。3月5日まで。葉書を送ってあったIさんから12日イベントなのでそれ以降ならとメールくる。その頃には暖かくなっているはずの二人の誕生日のあいだくらいには会えるだろうか。

Yさん、例の回転するスカイ・レストランで実は気持ち悪くなり、翌朝まで引きずったと、一週間後になって知る。確かに、喫茶店にも寄らずに帰ったのだが、予定が多くて疲れているのだとばかり思っていた。せっかく誘ってくれたからと、その場では言わなかったらしい。入る前に「回転するの大丈夫でしょ」と確かめていたのだが(「回転ずしかと思った」とそのときは笑っていたもの)、それでも酔ったというから、乗り物酔いする人は要注意。私は、大津へ一人旅して琵琶湖めぐりの遊覧船に乗ったとき、途中で波が荒くなり雨が降り出してもますます楽しいばかりで、波を乗り越えてゆく船の甲板で喜んで雨を浴びていたら周りに誰もいなくなってしまい、船室に下りてゆくと全員が卓に突っ伏していたので、外も見ないで何をしているのだろうとけげんな思いをしたことがあるくらいだから大丈夫(ただしジェット・コースターは嫌い)。
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by kaoruSZ | 2006-02-21 18:09 | 日々 | Comments(4)
*幼稚園で一緒だった男の子、岸田ひろし君(仮名)が、小学校の教室には中岡ひろし君(同)として現われ、中岡君と呼ばれて平気で返事をしているのを見たとき、岸田君にそっくりだけれど違う人かと私は思った。幼稚園の教室にはってあった岸田君の絵にクレヨンで確かに「きしだひろし」と書いてあったのを思い浮かべたり、母に「岸田君だよね」と尋ねたりした。

*ボルヘスの小説に出てくる「記憶の人 フネス」は、三時十四分に横から見た犬と、三時十五分に前から見た犬とが同じ名前で呼ばれるのが理解できず、二十万以上の数字にそれぞれ固有名をつけて記憶していた。

*バルトが引用しているニーチェ。一本の木は絶えざる生成の中にあるのに、それを「木」と呼んでしまうことについて。「われわれは繊細さの欠如のために科学的になるのだ」

*ブランショ。私が〈花〉と言うとき、そこには花も、花のイメージも、花の思い出もなく、花の不在がある。語は、その意味するものをわれわれに与えるが、まず存在を抹殺してから与える。言葉が語るとき、それは語るものの死を告げる。しかしそれゆえに、死は言葉の意味の唯一の可能性であり、われわれに存在が与えられる唯一の可能性である……。

*脳は無限の形を知覚しているわけではなく、たとえば、人間の唇を見分ける細胞群と、ピーマンのへこんだ部分(要するに唇に似た形)を見分けるそれは同じだという。(では、知覚の段階ですでに比喩(=言語)であり、抽象なのか?)

*六つか七つのとき、いとこたちのお下がりの本をたくさんもらったうちの一冊、五年生のための算数の本(数式でなく、読み物やパズル)の中で、機関車のあとに数種類の貨車をつなぐやり方は何とおりあるかという問題に出会った。(おどろいたことに、無限ではないのだった。一台の貨車のあとに来る貨車の種類は、数的に限られているのだった。)それまで世界は無限に変化する「絶えざる生成」であったのに。

*やはりそのときにもらった理科の本。乾電池に豆電球をつないだ絵がいくつも描かれていて、どの電球がともるかを答えよという。そもそもプラスとマイナスの極に銅線がつながれれば電気が流れるという基本的なことを知らないまま、私は豆電球の向きとか、銅線の描く曲線とかを見くらべていた。当然のことながら、答えはわからなかった。そして、いとこたちのように大きくなれば、その微妙な違いがわかるようになるのだと思っていた。

*ところで中岡君は小学校に入る前に両親が離婚したのだろうか? それとも、父親と生別または死別していて、母親が再婚したのだろうか? 二十年以上たって、彼のお母さんにばったり会ったという(そして私の縁談を押しつけられてきた)母に尋ねると、あれはお祖母さんが娘の子に岸田姓を継がせたくて、そう名乗らせていたのだという。もともと戸籍上は中岡姓だったのだ(なんだ、それだけのことか。なぜかがっかり)。学校の行事にお祖母さんばかり来ていたのは、両親とも働いていたかららしい。ついに望みは叶わないままお祖母さんは亡くなり、そして中岡君は結婚して家内工業にたずさわっているらしかった。
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by kaoruSZ | 2006-02-15 05:27 | 日々 | Comments(0)

ケンカのやり方

 1月24日に当方でもリンクを張って東京都に抗議する署名への賛同の呼びかけをした、上野千鶴子任用拒否事件についての続報

 上野氏の公開質問状に対して、期限(31日)を過ぎても東京都及び国分寺市からの回答がないため、上野氏は回答を要求する督促状を出した。抗議文のサイトで全文を読むことができる。(以下、赤字は督促状からの引用。)

 この中で上野氏は、新聞報道や、新たな石原発言(知事の定例会見時に記者の質問に答えた公式なもの)を引いて、以下のように攻め立てている。さすが。

6) 石原知事は、「ジェンダーフリー」に対する誤解が「例外的な事例にもとづくメディアの持ち上げ方」によると発言した。とすれば、2004年8月の都教委による「ジェンダーフリー」使用禁止の通達が、一部メディアの偏ったプロパガンダに影響されたものであることを認めたことになる。したがって「誤解」にもとづいて「ジェンダーフリーの、ある正当性を持ったムーブメント」を抑圧した責任がある。(【対応する資料の番号】)
7) 石原知事は「日本語」の使用を推奨しているが、上野もその考えには基本的に賛意を示している(前回別送資料1)。だが発言のなかで、「ムーブメント」というカタカナ言葉を自ら使用することで馬脚を露呈した。(【対応する資料の番号】)「テレビ」や「パソコン」はもはや「電影機」や「電脳」という言葉に置き換えられないほどにカタカナ言葉として定着しており、「ジェンダーフリー」だけが、その責めを受ける謂われはない。


 もう覚えている人もいないだろうが、その昔、やはり小説家である某都知事が、ハローワークとは何かと議会で質問されて答えられなかったというので批判を浴びたことがあった。しかし、「ジェンダーフリー」という言葉と較べても(当時そういう言葉は影も形もなかったが)格段にみっともない「ハローワーク」なぞ、知っていても知らないふりをするのが文学者としての見識だと言っていいくらいの話ではないかと、当時私は思ったものだ。「ハローワーク」のほうはいまだに現役なのを、過日、退職する人と話していて知った。
「わくわくWeek Tokyo」なるものをご存じだろうか? ウェブ上では残念ながら表記不可能だが、「わくわく」には、さらに“Work Work”と英語のルビ(?)がふられる、奇ッ怪な意味不明の言葉だが、実はこれ、2005年から始まった都の重点事業で、都内の公立中学の生徒に、一週間、学校を離れての職場体験をさせるというものだ。日本なんだから英語使うことねえんだよ、わけのわからない英語をねと都知事は言わなかったとみえる。
 また、この「わくわく」、知事の唱導する「心の東京革命」に基づいて2000年に発足した「心の東京革命推進協議会」とも連携している、都の青少年対策だそうだ。**
 
 心の東京革命。英語、日本語、カタカナ、アルファベットといった表記の問題ではない。見れば見るほど気持ちのわるい日本語だ。
 心。東京。革命。それぞれを見れば変哲もない語なのだが、この三つがくっつくと……ああっ、気持ち悪い!
「改革」だけでなく「革命」までも、今や左翼からアプロプリエイトしたらしい。(平気でカタカナ語を使うぞ、私は。***

 閑話休題。
 朝日新聞の訂正記事も、すかさず下のように取り込んでいる。

8) 石原知事は発言のなかで、不用意に、「ジェンダーフリー」 を分解し、「『ジェンダー』とか『フリー』とか」と二語にしている(【対応する資料の番号】)が、「ジェンダーフリー」と「ジェンダー」とは異なる用語であり、混同は許されない。「ジェンダーフリー」の使用禁止が「ジェンダー」の用語の使用禁止に及ぶのは由々しい事態であり、 国際的にも学問的にもけっして許容できない。朝日新聞報道における見出し、 「『ジェンダー』使用不可 都」(2006.1.26)は重大な誤報であり、朝日新聞は直ちに訂正記事「『ジェンダーフリー』使用不可 都」(2006.1.31)を掲載した。学術用語としての「ジェンダー」と「ジェンダーフリー」とのかかる混同は、無知と認識不足から来るものであり、厳重に注意されたい。

 かの抗議文の存在も、次のように役立てられた。

なお、1月27日付けで東京都知事および教育庁に宛てられた女性学・ジェンダー研究者らによる抗議声明(1808筆の個人および団体の署名を伴う)によって、本件は、上野個人からの東京都および国分寺市への抗議の域を超え、「言論・思想・学問の自由」の行政による侵害をめぐる問題に発展しています。内外のメディアの注目も高く、本状に対する東京都および国分寺市の対応については逐一関係者に情報公開するつもりでおりますので、誠実かつすみやかに説明責任を果たしてくださいますよう、要求いたします。

 念のため記しておくが、畸形的な表記を一概に退けるつもりはまったくない。そもそもこうして使っている日本語自体、漢字の畸形的使用なくしてはありえなかったのだし、それはとりもなおさず、純粋な日本語などというものが幻想にすぎないということだ。

**「わくわくWeek Tokyo」及び「心の東京革命」については、「ちくま」2月号掲載の斉藤貴男氏の文章に多くを負っている。

***もちろんケース・バイ・ケース[←あ、カタカナ語]であり、たとえばブログの記事を「エントリ」というのは、筆者は耳(?)馴れないため今のところ自分からは使っていない。
「電影機」で思い出したけれど、昔、弟が持っていた(今でも持っているんではないか)ブルース・リーのmoving picture、中国語では紙上電影というのだが、要するに「パラパラ」、連続写真を閉じた冊子を片手で操作するだけでブルース・リーのアクションが見られるあれ、カタカナでは「ペーパーシネマ」となっていて(表紙に三ヶ国語が並んでいた)、安っぽいペラペラの感じをよく写しつつ(表記が「ペイパー」ではだめ)なお楽しげな「日本語」にいたく感心したものだ。

★付記★ 
1月30日の記事「恣意的な線引きに抗して」に、2月8日までに主として「註」を加筆、本文よりも註が長くなった記事は、結果として上野千鶴子批判の強い内容になった。なお、今回の一件についての批判ではまったくない。
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by kaoruSZ | 2006-02-07 23:21 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(1)

同一化としての欲望

 やまじえびねの『LOVE MY LIFE』(祥伝社)買って読んだ。彼女のマンガで好きな作品はと訊いたときMさんが挙げた作。けっしてわるくはないんだけど、私はやっぱり『夜を超えて』の表題作が気に入っている。『LOVE MY LIFE』の思いがけない終り方は悪くない。『インディゴ・ブルー』と同じ解決だけど。でも、私は何もかも未分化だった、「夜を超えて』の混沌の方が好き。あそこはノイズでいっぱいだ。すっきりと、誰にもわかる『インディゴ・ブルー』や『LOVE MY LIFE』の方が、読者は獲得するだろうけれど。

「夜を超えて」がどこまで松浦理英子の「乾く夏」に依拠しているのか、読み返していないのでわからないが、夜中にローラースケートで駆け抜ける女装の老婆(つまり男)=生と性を超えた存在というのは原作にあったのではないかと思う。そして、言葉で説明もされているこのイメージは、この短篇(マンガ)のなかでは一番つまらなくてどうでもいい部分だ。二人の若い女は、松浦の『セバスチャン』や『ナチュラル・ウーマン』でもそうだったように、突っぱったエキセントリックなS的美女と、その元ボーイフレンドに下げ渡されたM的ヒロインのカップルで、ヒロインの方は手術しないと男性器を受け入れられないらしい身体。で、結局はうまくいかないんだけれど、愛する友人の男だった井波に身をまかせながら、「過去の男たちとは比べものにならない」と闇の中で内的独白(黒い背景に文字が白抜きされる)する。「彼はこうして香織と幾晩もすごしてきたのだ」

「香織になったような気がする」という文字の上には、されている最中の、長い髪が目を覆っている香織の顔がある。(『LOVE MY LIFE』の方が『インディゴ・ブルー』よりも好きだとしたら、これとちょっとだけ似た、相手の元ボーイフレンドと偶然会ってしまって、彼としている彼女を想像して欲情するという場面があったからだ。)朝になって自宅へ戻ってくると家の前で香織が待っていて、紗英(これがもう一人の娘の名)が井波のところから帰ってきたと知ると、手首を切って自殺を図る。 

 首も手足もない金色のボディのマネキンに香織が自分をたとえたことがあったと、それ以前に紗英は井波から聞いている。結局紗英が井波と性交できなかったのだと知った香織は言う。

  井波君のことはもういいのよ
  
  私は紗英に
  金色のマネキンでいてほしかったの
  
  私の理想として


(まだつづきます。)→あらためて「カルチャーレヴュー」に書くことにしました。3月1日になったらここへ。
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by kaoruSZ | 2006-02-06 18:42 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)

「日本語でやってくれ」

何もね、日本なんだから英語使うことねえんだよ、わけのわからない英語をね。だからね、日本語にうまく訳せばいいじゃないですか。そうすればもっとわかりやすいよ。「ジェンダー」とか「フリー」とか言ったってね、英語のわからない人はさっぱり、おじいさん、おばあさんはわからんよ、そんなものは。日本語でやってくれ、日本語で

 とんだ老人差別で、石原はそれではわかるのかわからないのかと考えれば、問題は年齢でも英語でもないことは明らかだが、そういえば「世界日報」も上野千鶴子支援の抗議文について、一般国民は「ジェンダー」なんてわからないと言っていた。一般国民も見くびられたものだ。それにしても誰なんだ一般国民て。
 世界日報はそれなりに面白いのだが、朝日の記事はどうでもいいようなものだった(不偏中立なのかしらん)。Japan Timesの記事の方がわかりやすい。(しかも詳しい。)
「ジェンダー」を「社会的・文化的性差」と訳すことの不適切さについては、黒猫房主のブログにも書き込みしたことがあって、一つ下の記事に黒猫さんが書き込んでくれたのに応えてまた触れているが、次に引くJapan Timesの記事(1)には全く問題を感じない。朝日の記事から抜いた、同じことを説明している部分(2)と読み較べてみよう。

(1)
Since the mid-1990s in Japan, "gender-free," which has been interchangeable with "gender equality," carries the concept of being free from sexual differences in a social and cultural context.

But some quarters regard gender-free as a denial of the differences between males and females, and of traditional family values, and as a way to promote what they consider radical sex education.
(..........)
The metropolitan board of education announced in August 2004 that Tokyo would not use the term "gender-free" in its activities, claiming the concept is sometimes misused to ignore the fact that men and women are different.

(2)
「社会的・文化的につくられた性差の解消」を意味して使われることもある「ジェンダーフリー」という用語について、事業を委託した東京都教育庁は「男らしさや女らしさをすべて否定する意味で用いられることがある」として使用しないことにしている。


 黒猫さんとのあいだで問題にしていたのは、「社会的・文化的性差」という表現による「性差の実体化」だが、“sexual differences in a social and cultural context”であれば、“sexual differences”はあるコンテクストにおける現象として読むことができる。「解消」というと何やら決定的なことのようだが、 “being free from”なら今日からはじめられそうだ。二番目のパラグラフでは、〈彼ら〉の言う「男らしさや女らしさ」が何をコノートするかがきちんと示されている。「過激な性教育」が、あくまで彼らがそうconsiderするかぎりのものであることも。

 こうした受け取り方には、英語使用者でない私のバイアスが当然かかっていよう。だが、der Tod の方がle mortより、より「死」らしいと感じるとしたら、それはフランス語よりドイツ語に自分がより少なく通じているからだという、ブランショが言ったようなことはつねに起こるものだ(むろん、ブランショがドイツ語に通じていないといっても、私が英語に通じていないのと同日の談ではないわけだが)。馴れ親しんだ母語がどうにも不完全であり、言葉と自分に距離があり、これを断ち切って理想的な言語のほうへ脱出したいと夢見たことのない者は、結局のところ母語も満足にあやつれず、矛盾した答弁を繰り返すしかないのだ。

 the fact that men and women are differentをめぐって。今度きままな読書会で取り上げる「大航海」に載っている、扱う予定でない論文から紹介しておきたい。

歴史的・社会的・文化的に構築されるのは身体そのものではなく「身体」という概念もしくはイメージである。生物学的な性そのものではなく、(その時々の社会通念などによって)生物学的な性と考えられているものである。身体そのもの、セックスそのものは、ジェンダー一辺倒の論者がなんと言おうと、頑固に、物質的に、モノとしてそこに存在している。人間がそれをどう捉えるか、どう表象するかという点にはジェンダー・スタディーズも関与できるが、それ以前にモノを分析し解明できるのは生物学だけである。
 
 誰がそうでないと言った? 

 なお、上の文章には、次の一文が先立っている。

ジュディス・バトラー等の尻馬に乗って、身体も実は歴史的・社会的・文化的構築物なのであるとか、セックスも突き詰めるとジェンダーの一部である、なぜならそれもまた歴史的・社会的・文化的構築物だからであるとかいったドグマティズムに酔うのは、もういい加減にやめたほうがよい。**


*。石原東京都知事。27日の定例記者会見で、「ジェンダー」という語について誤解がないよう議論を深めていく気はあるかと問われて。

**堀茂樹「フェミニズムはヒューマニズムである」『大航海』2006.No.57
 なお、この論者は、「身体的・生物学的条件としての性差をリアルなものとして認めることと、フェミニズム的立場を支持することの間に何の齟齬も矛盾も」ないことの実例として、晩年のジュリアン・バンダが若年のボーヴォワールの主張を肯定しつつ、「ただ一点、生物学的な性差だけは打ち消すことのできないファクトであろうという意味の留保を示した」と主張するのだが、その証左として引用しているバンダによる「女体」の描写ときたら、典型的にヘテロセクシュアルな、手垢にまみれた紋切型なのだから恐れ入る。すでに解釈されたものを「身体そのもの、セックス」そのものと著者は呼ぶ。そこでセックスと呼ばれているのは、またしてもすでにジェンダーなのだから、「歴史的・社会的・文化的に構築されるのは身体そのものではなく『身体』という概念もしくはイメージである」という文句はそのまま著者に返そう。


○2月7日追記
ここで引用している知事の会見録及びマス・メディアの記事は、 ありがたいことに「東京都に抗議する」のサイトにまとめてリンクされましたので(抜粋も載せられています)、元記事へはそこから跳ぶのが便利です。

☆4月24日追記
Kleinbottleさんから2月9日にトラックバックしていただいたが、あちらの記事のURL変更のため(らしい)、現在跳べなくなっている。
代りにURLを示すので、これで読まれたし。

http://klein-bottle.orz.ne.jp/LifeIsSurvival/0602/091228.html#c7

TBの日時も違ってしまったけど、面倒だから説明は省略。
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by kaoruSZ | 2006-02-04 07:35 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)

読書会のお知らせ

「きままな読書会」再開します。詳しくはこちら

2006年2月18日(土) 18:00―21:00
銀座区民館3号室

★取り上げるテクスト
 季刊誌「大航海」2006 No.57(新書館刊、最新号) 
 特集 女と男の新視点 より
 1)【対論】「生物の性差、ヒトの性差」 田中富久子×長谷川眞理子
 2)「性差をどう考えるか」 赤川学
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by kaoruSZ | 2006-02-01 20:04 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)