おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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 塩辛を作ってみようとはかねがね思っていて、ゆうべ刺身用イカを見かけて買ったのだが、帰ってきてテレビをつけ、ちょっとだけのつもりで横になったとたん、夕飯も作らずそのまま眠ってしまった。イカもアサリ(ボンゴレの予定だった)も冷蔵庫に入れぬまま……。

 3時頃、テレビの音で目覚めた。次に目をあけると5時だった。ともかく出かける前になんとかせねば……6時ごろ起きてアサリを塩水につけ、イカのワタを引き出して塩漬けにし、胴と足を切り離し、前者は刻み、足先を切り捨て……下ごしらえの仕方はいろいろあるようだ。以前、金井美恵子のエッセイを見てこれで作れると思っていたが、今回は昨日持ち歩いていた『いとしい和の暮らし 手作りで楽しむにほんの毎日』(平野恵理子、ソニーマガジンズ) という文庫本で読んだばかりのやり方で。

 父はよく、ボウルにいっぱい塩辛を作っていた。混ぜ合わせたのを私が茶の間へ運んでつまみはじめると、胴の部分を残らずすすり込んでしまうのではないかと、ほかの料理をしながらも気が気ではなく、足も食べるんだぞ! と台所から叫んでいた。(え、じゃ、ぜんぶ食べろと?)

 平野本によれば、イカのワタは塩をまぶして冷蔵庫に一晩、胴と足も塩と酒を混ぜて冷蔵庫でねかせる。父がそんな手の込んだことをしていたとは思えない。たぶん、一度に混ぜて、一回目はそれだけでまずごはんのおかずにしたのだろう。(金井さんちのトラー並み! と馬鹿にされる—つまり、熟成させた味を知らないので—食べ方だ。)

 私が塩辛を食べられるようになったのは、今住んでいる家をやった大工さんが能登の人で、それまで見たこともなかったような各種の海の幸一式(ナマコが丸のままごろごろ入っていた)を、トラック便で故郷から送ってくれてからだ。宅急便などなかった時代の話である。それまで、塩辛なんてナメクジみたいで気持わるいと思って箸をつけたこともなかった。ところがその日、その容れ物の蓋をあけると、その瞬間、あたりに海の匂いがひろがった。いや、そうと知るより早く、私は別の世界の空気をかぎ、別の時間へ行っていた。プルーストが、紅茶のしみたマドレーヌのかけらが口蓋に触れた瞬間から思い出が甦るまでの時間をなんやかや言って延々と引き伸ばしているのは、あれは絶対、脚色だと思う。マルセルがお茶にトーストを(実際はそうだったという)ひたして口に入れたとき彼に甦った思い出は、むしろ意識がついて行けない速さで、主体をこことは別の場所へ連れ去るものであったろう。

その匂い、それは昔幼稚園で、お昼になって弁当箱の蓋を取ったとき(寒い季節になるとそれはダルマストーブの上に積まれて昼時まで温められていたのだが)、ごはんの表面から立ちのぼってきた海苔の匂いだった。海苔の映像は、それを上に敷いたごはんが温かいうちに蓋をされ、ストーブの上で蒸されて蓋の裏に水滴がつくような状態にならなければ、私に何も思い出させはしなかったのだ。たぶん、あれ以来、ごはんの上に敷かれはしなかったが、ただ四角に切られて醤油をつけられ温かいごはんを巻いたり、海苔巻として食べられたり、麺類の上にちりばめられたりしたために、その映像はこうした日々から離れて、より新しい別の日々に結びつけられてしまったのだろう。

 帰ったら、ワタの表面の塩を拭き取って中身をしぼり出し、イカの肉とまぜて味見する。お酒がないが、みりんを少し入れてもよさそうだ。うまくできたら持ち寄りパーティーにも使えそう。


追記
☆みりん、甘過ぎでした。あとでコンビニ行ってお酒買います。
☆わかってるとは思うけど、 青字は文体模写ですからねっ。 鈴木道彦訳が読めないのは、井上究一郎の文体がこっちの記憶に刷り込まれちゃってるからだと最近判明。
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by kaoruSZ | 2006-04-26 19:54 | 日々 | Comments(2)

休日

 土曜日、たまりにたまった用事のなかでいったい朝イチで何をやるべきか悩んだが、9時に上野へ駆けつけてプラド美術館展を読売にもらったタダ券で見るのはやめて(しかし、早く見ないとこの券、四月いっぱいしか使えない。展覧会自体は六月までやるけど)、10:30からの『ブロークバック・マウンテン』見に日比谷シャンテへ。映画館のサイトで見たら、土曜の第一回はガラガラとは書いていなかったけれど実際にはスキスキだった。早めに着いて先に券買って近くでモーニング。ギリギリに行ってもどこでも座れた。二回目以降は全席指定。これが嫌いなので、一回目に行きたかった。

 見た結果は、薄味でがっかり。ミクシィでSさんが、いかにもステレオタイプな紹介記事を紹介してくれていて、そこには同性愛という特殊なドラマだけど普遍的なテーマとあったが……Sさん、ただの「普遍」でしたよ!
 男同士、ましてやカウボーイ同士である必然性まるでなし。
 せっかく西部劇が積み重ねてきた「男同士の関係」という素材があるのに、全く利用しないんだか、できなかったんだか。
 監督はたぶん「特殊なドラマ」の味わいを理解していないのだ。
 私は子供のときからずっとそういう西部劇系の「ドラマ」は、性的“嗜好”の対象だったからね。
 
 その私が、二人の男優にもその関係にも、何の魅力も感じなかった。女優たちはよかったけど、そっちに観客の目を行かせて、脇のドラマでふくらみを持たせて何とかしようと思ったのかねー、監督は、という感じた。
 というか、主筋がふくらんでいない。
 あれで泣く人がいるのか? 信じられない。

 始まる前、泣けるというから厚地のハンカチ持ってきたんだけど、という声(男の)が何列か後ろの席でして、それとなく振り向いてみたらゲイの二人組だったが、彼のハンカチも必要なかった模様。

 資料としてパンフレット買う。ざっと見ただけだが、原作の翻訳者の文章だけが面白かった。原作の方がいいのかな。

 このあとは日比谷から西日暮里まで地下鉄で行き、歩いて日暮里駅方向へ戻り、ウェブで評判のいい「ダージリン」でカレー。辛くて美味しかった。以前谷中に来たときもこの店の看板は見た覚えがある。そのあと、行きそびれていた朝倉彫塑館へ。伯母(伯父のつれあい)の法事で来たとき、帰りに喪服のまま見て行こうと思っていたら、お斎は別の場所に用意してあるということで上野まで連れて行かれてしまい、果たさなかったのだ。外観からは想像のつかない素晴しい空間。特に池を中心にめぐらされた廊下と座敷。林芙美子邸とどっちかやるけどどっちにすると言われれば、私は林邸の方でいいけれど、あの池はいいなあ。夢の中で見たことがあるかもしれない。池の面を吹き渡ってくる風が気持いい。全然違うけど、鎌倉の近代美術館の水の上の建物も好きだ。

 少しでも木がまとまって生えていると風が通って本当に涼しく感じるのは、地代を払いに、夏、従兄の家へ行くたび感じること。父の生家の庭のなごりのひとかけらだ。朝倉邸の窓の内鍵はうちのとそっくりだ。小さくずんぐりとしていて、押し込んで鍵をかけ、あけたときは抜いてそのまま垂らしておく仕掛け。屋上まで上って見下ろすと、目の下のほんのそれだけでしかない場所に、信じられないほどの濃密な緑。周りはまだまだ低層住宅だし、台地の上だからひときわ高くそびえているけれど、かつてはここからただ黒い甍の波のつらなりだけが見えたのだろう。父はここに来たことがあるのだろうか? あったら何か言うと思うから、なかったのかもしれない。知らなかったのだろうか? 父と来ていたら家の細部についていろいろ説明してもらえ(というか、得意になって説明されて)、面白かったろうと思う。

 素通りするには近過ぎるので菩提寺にも寄った。といっても、墓石を眺めてきただけ。伯母の法事で伯父二人の家の墓の場所をはじめて知ったので、そこも見てくる。要するに父以外の男のきょうだいはすべてここに墓を持つ――父は末っ子で、土地と家と墓地をもらいそこねた人なので、ここにはうちの墓所はない。祖父の戒名をはじめてよくよく見る。本当に、あまりにもベタで可笑しくなるほど、律儀な働き者の名前だ。
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by kaoruSZ | 2006-04-24 15:31 | 日々 | Comments(0)

『父 中原淳一』(4)

 女の身体は醜い(と信じる)ゆえに、中原は理想の衣服でそれを覆い、「女性批判としての衣服デザイン」をしたのだと著者は主張する。妻、母になることを本当は嫌っていながら(少女のままでなければならないのだから)道を説くという矛盾。 その少女たちは実際の女をモデルにしたものではない。何も見ないで彼のペン先から産み出されてくる、彼の理想。少女の裸体デッサンはありえない。

 著者はこんなエピソードを紹介している。まだ幼い頃、「中原の家に寄宿していたある女学生に、父の側近が言い寄るという出来事が起きた」。「妻子持ちの大人の男が、夜、女学生の寝室に忍び込んだのである。それも他人の家で」。そのとき、「それを察知して現場に忽然と姿を現わした」中原は、「だから女はだめなんだ! 世の中すべてを汚し駄目にする!」と叫んだという。

 まるで塚本邦雄の小説の登場人物ではないか。

「父は女性を信じていなかった。/女は物質的で欲が深く、いつも平然と嘘をつく存在だった。/そして、女は好色で淫らというより、その存在そのものが好色で淫らであり、人を(男を)堕落させるものだった」
 
 件の事件の際、「父の怒りを頭上に聞いて、それら父にもっとも近しい女性たちは、深くうなだれて身動きひとつ声ひとつなかった」。

 一方で、「彼は青年たちとのその付き合い中で、自分が教育者であることを十分意識し、一種の理想主義を燃焼させていた」。「彼は自分の家庭では、実の子供たちに対する教育には見向きもしなかった」のに。著者はそのために青年たちをうらやみさえした。

「子供の躾と教育は、母親の仕事であり義務である」というのが彼の決り文句だった」。もともと、結婚前に母が「良妻賢母を装った」などということはありえず、母は誰の前でも宝塚の男役スター葦原邦子であり、だからこそ父が惚れ、妻に選んだのだと著者はいう。
 著者は母について、極めて公平な見方と思えるものを示している――「確かに、家事に対する彼女の感覚と態度は、拙劣なものを通り越し、一種野放図でさえある。しかしそれを、かりに人間的な欠点とは言えても、彼女の女性としての悪徳と言って正しいだろうか。「つまり、家事に対する感覚や能力が男のように不足していることは、女性としての欠陥であり、恥なのか」
 
 裁縫の腕前一つとってみても、淳一は十分ジェンダー規範から逸脱した人間だ(性的指向も規範に入ろう)。しかし、女には逸脱を許さない。
「良妻賢母」とは「男性本位による女性の在り方」であり、「男の立場と都合から描かれた女性の理想像であり、そもそもそれは中原の語彙ではないと著者はいう。

 著者によれば、「夢見る少女」などという通俗性からは、中原はもっとも無縁だった。少女たちの目は見開かれており、「父はその瞳を覚醒として、またその女性たちを覚醒したものの姿として描いたのである」。
 にもかかわらず、「彼は女性に覚醒することを迫りながら、その一方で女性が真実覚醒することを激しく拒んでいるのである。/その彼の意識と考えにおける拭いがたい矛盾と誤りは、女性たちに対する無遠慮で露骨な説教となって表われる。/その説教の中身と調子は、女性たちがただ無知蒙昧なばかりか、自ら考え、判断する能力も資格もない者と言わんばかりである」

「彼の許で仕事をしていた多勢の女性たち」について、「率直に言って、その女性の多くは、彼の作品と精神のカリカチュアであった」と著者はいう。少なくとも中原の前では、「彼に忠実な、より正確には、おとなしい常識的な平凡な女性」でなければ、彼とはやっていけなかった、「それどころか、「彼から徹底した蔑みと怒りを買う」ことは避けられなかった(彼の母のように)。

 著者は、中原には「耽美的過ぎるまでの一種の柔軟性」があり、その一方で、「それとは全く無関係であるかのように、堅実に生きることや心の清らかさやそうあることの尊さが、肌理こまかく取り上げられ、繰り返し説かれる」と述べている

「その時代」の女性たちにとって、着物を自ら縫うということは、趣味や道楽などではなく、生きてゆくうえで欠かすことのできない労働であり、務めだった(たとえ中原の母にとって、避け難く置かれたそういう場が、自らの才能を発揮する場となりえたとしても)。

 中原の活動が女たちを惹きつけるには、皮肉なことに、それが女の義務ではなくなる(そこで女たちは裁縫が下手になった)ことが必要だった。なるほど「その時代」の女たちも、いろいろ工夫して楽しんだには違いない。しかし、それが「美しく生きる」指針として提唱される(という欺瞞がなされる)とき、それは、すでにそのような所与の生活とは距離が生じているというしるしでもあるのだ。

 少女たちの脱性化はまた、中原の自己抑圧でもあろう。

●中原淳一の利用法を考える
中原の少女をreappropriateすること。ポイントは、けっして男のための女に、妻に、母にならないというところ。異性間性交の不在を逆手にとること。有用性から離れた少女性を楽しむこと……。



『父 中原淳一』(1)http://kaorusz.exblog.jp/4297234/
『父 中原淳一』(2) http://kaorusz.exblog.jp/4428380/
『父 中原淳一』(3) http://kaorusz.exblog.jp/4429355/
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by kaoruSZ | 2006-04-24 06:25 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)

『父 中原淳一』(3)

 中原洲一は、父にとって「心の中の彼自身」とは、その作品である(男の)人形のような、傷つき、手に包帯を巻いた、長いすらりとした脚の持主だと言うのだが(あるいは、それはまた/むしろ彼の性的対象の形象化でもあったろう)、中原にはそれ以前に、もう一つ、美しい男と同じくらい彼自身からかけ離れたペルソナがある。それは、後年作りはじめた男の人形と違って彼がもっぱら表象していたものであり、堂々と人前に出していたものであり、高い評価を受けて彼に名声をもたらしたものだ――言うまでもなく、少女★としてのそれである。

「彼女たちに重なる父の顔。/あの少女たち、女たちは彼の顔なのだ。/彼の姿なのだ。彼が自分自身に望んだ顔であり、スタイルなのだ。
「彼は男として生を授けられながら、意識において、感覚において一個の女性だったのだ。
「彼はまさに女としての自己を担ったのである。/自らを正統として行使し、表わしたのである」★★

 父は女だった、父は本当は少女でありたかったのだと著者は書いている。中原が自らの母親に同一化していることを指摘する(そういう言葉は使っていないが)。「実際、今の女性は、針仕事ひとり満足に出来ない」「ぼくの母なんかは、着物でも何でも、自分できちんと縫い、それが当り前だった」。母と同じように淳一は何でも縫えた(ドレスメーカー女学院から推薦してもらったどの優秀な生徒も彼に遠く及ばなかった)。母と同じように人形を作った。

 母や姉たちの影響は一般に信じられているが、母も姉も淳一似の外見で、少女たちのモデルからはほど遠いと著者は言う。宝塚の男役だった葦原邦子によって女を知り、そして女を憎んだ。(ボードレール的女嫌い。「彼は「自然」あるいは「ありのまま」ということを、美意識として、極端にまで嫌い、憎んだ。/彼が自然を主題に描いたどんな作品をも、たとえば風景画や裸体画の一枚をも、ぼくは知らない」)。しかるに、妻と子供は「自然」だった。女と子供の領域と、(ホモ)ソーシャルな場とにくっきりと分かたれた家。

 中原の姉たちが葦原邦子を批判的に見ていることは、著者にすら伝わってきたという。伯母たちを中原は、「『とっても品があって綺麗だ』と大真面目で言っていたが、それはもはや完全に彼の主観と好みの範疇に属する」。著者は祖母を直接には知らないが、古い写真で見るかぎり「繊細さや綺麗さはとても感じられない」。母と姉たちと中原は互いによく似ており、そして中原が自分の「素顔を非常に気にしていた」、「体が小さく、貧相であるとも感じ、そのことも密かに気にしていた」と著者の筆は容赦ない。「祖母や伯母たちが、父の女性観形成に決定的な役割を果したという説を、いまぼくはきっぱり否定する」。「父が機会あるごとに礼賛し、まったく異なった印象を与え続けたことに、本当の意味が隠されているのだと思う」

 母や姉たちは、「現実には、彼の心を左右したり、自由な行動を妨げるような存在でなかった。言い換えれば、彼女たちは父に対し無力なのであった。が、彼は自分が自由でありえたその分だけ、“男装の麗人”葦原邦子に深く心奪われ、彼女に引き寄せられたのである」

「ぼくの考えでは、父は母と結ばれることによって、それまで自分が経験することのなかった、女らしさを、たっぷりと味わったのである。/精神的にも肉体的にも。/その経験の意味と衝撃の大きさが性にあったことは疑い得ない」
「館山[中原が病身となり、男の愛人に世話を受けていた、別荘のあった場所]で、父はぼくに、「女なんて人間じゃあない、獣だ」と言った」「ぼくがまだ幼い当時、父は母に対し、同じような言葉を投げつけたということを、母から聞いた。/彼がそういう意識を抱くようになったのは、結婚後五、六年を経てのようだ」「そしてその意識は、彼が死に至る最後まで、抱き続けられたのである」

「祖母と伯母たちを敬愛する彼の気持には、実は、彼の人並でない尊大さと自尊心が籠っている」「しかし正確に言えば、その気持の底にあるのは、過剰な自己中心性と女性蔑視の感覚なのである。/自分に逆らわない人物、という限りにおいて、彼は女性を許容した。/しかし、彼が女性そのものを尊重し、そのまま擁護するというようなことは、なかったと言ってよいと思う」「そして、その尋常でない彼の自尊心が脅かされ、傷つけられるというとき、彼は猛然と反撃に打って出るのである」「相手が完全に屈服しない限り、それは止まることはない。/母の女らしさと豊かさに初めて触れたとき、父はそれに抗う術を知らなかったのである。/しかし、彼にとっては、それは、もっとも忌まわしいものへの屈服だったのである。/自己が屈服したものが、駘蕩とした、むせかえるようなものであるだけ、彼の受けた傷と屈辱感は大きかった」

「しかし、「男装の麗人」こそ、彼の意識の底にある、彼の真の姿であり、願望だったのである。彼が「男装の麗人」葦原邦子に魅了されたことは、自然であったというより、必然だった、と言うべきなのだ。/自分自身が、もの思いに耽る美しい乙女でありたい、という願い。あるいは、同性に対する愛と信頼。/「男装の麗人」葦原邦子は、それらすべてのことを、彼に教え、与えたのである。/そして、彼が受けた傷も、その結果得た覚醒も、妻と子供たちを、家の一隅に体よく追いやり、見て見ぬ振りをするというようなことでは、決して癒されることも、全うされることもなかったのである。/戦後、中原淳一が、清純可憐な乙女を描く挿絵画家から脱し、女性とその生活を主題とし、対象とした、野心的な創造活動に心を据えたことこそ、その癒しであり、自己を全うすることであった」

★久世光彦が書いていたのだと思うが、中原以前には少女とは幼い女の子をいったもので、それが中原によってその指す年齢が引き上げられたのだそうだ。本当だろうか。だとすればそのおかげで、私たちは、売春だの覚醒剤だの暴走行為だので補導された二十歳[はたち]未満の女子について場違いに「少女」という言葉が発せられるのを、現在においても見聞きするようになったのだろうか。少女という語自体も歴史は浅い感じで、確かに江戸時代には少女はいなさそうだ。
そういえば少女が処女になる時期だか一瞬だか、そんな言い方を塚本邦雄がしていたっけ。この場合、処女といえば要するに男にとって性的対象となる女ということになろうが、久世の指摘が正しければ、中原は、すでに性的使用に供することが可能な処女をあえてそう呼ぶことで<少女>の時期を引き延ばしたのだと言えよう。

「別冊太陽」では巻頭に久世光彦が「蒼醒めた月―男の子にとっての中原淳一」と題するエッセイを書いているが、要するにこれは男の子にとっての密かな性的対象としての少女という、徹底的にヘテロ視点の解釈だ。そのあとたまたま久世のエッセイ集を買ったらその文章も再録されていた(少女という呼称についての文もこの中にあったのだと思う)のだが、同じ本のまた別のエッセイでは、久世は全面的に女性性をappropriateしたパフォーマンスを展開していた――自分は太宰に強姦されたと彼は書くのだ。あるいは逆に文学者たちを、太宰は床上手、三島はぴったりした黒を着ていて脱がせにくい女といったふうに女性化する。実に面白い文章ではあるけれど(三島のくだり大笑いだ)、自分だけがジェンダーを自在に操れるかのような、男性であるという特権の上に立ってのこうした振舞いには批判的検討がなされねばなるまい。

★★ここにも、男による女性性の流用の問題がからんでこよう。



『父 中原淳一』(1)http://kaorusz.exblog.jp/4297234/
『父 中原淳一』(2) http://kaorusz.exblog.jp/4428380/
『父 中原淳一』(4) http://kaorusz.exblog.jp/4469181/
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by kaoruSZ | 2006-04-19 10:49 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(1)
 この本、(1)の続きが書けないでいるうちに返却期限をとっくに過ぎてしまっているので、一度返して、折りを見て仕切り直すしかないと思っているのだが、返す前に簡単な覚え書きだけでも記しておく。

 著者の中原洲一は淳一の長男で1944年生まれ、すでに鬼籍に入っていることは、名前で検索して遺作展の記事があったことから知った。画家だったのだ。今回、中原について急に関心を持ち、別冊太陽の「美しく生きる 中原淳一 その美学と仕事」を取り寄せたが、 この編集には次男である中原蒼二 がかかわっており、蒼二氏は父とその作品をめぐり現在その他のプロデュースもやっているらしい。次女の中原すみれが父親の作品を再現して本を出すなどしていることは前から知っていたし、その本も見たことがあったが、『父 中原淳一』で長女の名は芙蓉というと知った。中原が自らの娘に与えた名は、「芙蓉」に「すみれ」だったのだ。(洲一という名は満洲からだろうか? それよりも、当時すぐ連想されるのは大八洲国――「希望ハ躍ル大ヤシマ」――だったのかな。いずれにせよ時代が刻印された名前だろう)。蒼二という文字づかいは、『虚無への供物』を思い出させる。もしかして中井英夫、ここから取った? おまけに姪がシャンソン歌手で名は美紗緒――ヒサオの名は十蘭からということはわかっているけれど。

 しばらく前まで河口湖近くに中原淳一美術館があったそうだが、そこでこの本を売っていたとは思えない(他の子供たちがかかわっていたから)。現在この本は流通していない。内容をかいつまんで紹介しようと思ったが、中原洲一はあまり論理的、分析的な文章を書く人ではなかったようだ。改行の多いぷつんぷつんとした文の並列は、パラグラフごとに意味を押えられる性質のものではないのだ。断片的というのでも必ずしもなく、流れを追うことで何を言いたいのかが浮かび上がるので、一部を抜き出すのは難しい。

  彼は少し頭でっかちだった。鼻翼は膨らんでいた。口唇は厚かった。
  小柄で足の短い男だった。
  それらのことを、本当によく知った男だった。
  いつも白い革の高靴をはいていた。
  ぼくの父。

 これは最後から二番目の章の結びであり、人が「詩」として知る形式にたまたま似通っているが、他の部分はここまでぶつ切れではない。自らの父についてこのように表現できる人に文章力がなかったとは言えまい。この断章はこれだけでも味わい深いが、この直前の部分と続けて読まれることでまた違った意味を生じる。

「父が全盛期の頃、ある高校教師から送られてくる詩作品のために、父は雑誌の二頁をさき、それに自分の絵を添えて発表するようになった。/その挿絵作品が非常に気に入ったぼくは、そのことを父に伝えると、彼はそれが自分でも最も気に入った仕事であることを教えてくれたのである。/その詩のための絵には、いつも男が単身描かれてあり、その男の顔には深い憂いがたたえられ、作品によっては寂寥として悲愴である。そして、肩口から腕にかけては広く太く、激しいデフォルメがほどこされ、それに比して長く細すぎるような足が腰からすっと伸びていたのである。/ある場合には、彼の手には厚く包帯が巻かれ、はっきりと彼が傷を負った者であることを表わしている。/ぼくは、それが心の中の父自身でなくては、他の誰でもない、と考えている」

 この直後に、先の引用部分が続く。
 この挿絵も詩も、お望みなら、当時の高校教師(現在は詩人と肩書きがある)の文章とともに「別冊太陽」で見ることができ、あまっさえ、挿絵の男をそのまま人形にした作品の写真まで載っている。
 
 さらにその前の部分には、中原の明かされることのなかった同性愛についてこのように書かれている。

「……彼はそれを社会に対し隠し通したのである。(……)が、いったい、彼のような才能豊かな芸術家に、そういうことを陳腐な日常会話で言ったり、物語らなければならないような必要や、意見があったであろうか。/彼が絵を書き、衣服を創作し、雑誌を編集するそのすべてのことが、自己とは何かを、何ひとつ余す所なく、包み隠さず、表わし主張しているのである」
 
 後半についてはそのとおりだが、前半はそれ自体陳腐なもので、所詮時代の制約の正当化にすぎず、それを今に持ち越すこともない。だが、中原にせよ三島にせよ塚本にせよ、そうしたホモフォビックな批評が彼らに対して相も変わらず行われているのは、この論理によるということを、指摘しておいてもいいだろう。
 それにしても私が不思議に思うのは、中原が息子によってかくも理解された幸福な父親であることが、なぜもっと広く知られていないのかということである。


『父 中原淳一』(1)http://kaorusz.exblog.jp/4297234/
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by kaoruSZ | 2006-04-19 03:44 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)

あの洋館はもうない

 刑部邸に重機が入り、他の棟を壊してメインの洋館に近づいていることは玉井さんいのうえさんのブログで読んで承知していたが、とうとうあの愛らしい不思議なファサードも瓦礫と化してしまったと知る。

 心惹かれる写真サイトを見つけるとリンクしているのだが、そのようにして先日出遭ったRoc写真箱へ、先週の木曜日、何の気なしに行ってみた。花をつけたニラ★とおぼしきひとかたまりの花がアップされている。うちのニラもそういえば道に面した外壁に繁る蔓薔薇の下の菫の隣に咲き出していたっけと思いつつ、添えられた文を読んで、刑部邸のアトリエがとうとう壊されたこと、その前に、建物の足もとに咲いていた花を撮ったものだと知る。白い花はもう一種類見えるが、これはまぎれもなくシャガ、花は小さいながら花弁に紫と黄の模様が入り、一人前にアイリスのかたちをしている。(一つ前の記事に、母が好きだったと書いたところだ。)花々は消え去った建築への供華としてあげられていたのだった。

 うちのシャガはこれよりあと、週末にようやく一輪ひらいた。地中を伝って離れたところにいくらでも新しい葉を伸ばす。うちでは場所が狭いから、他の植物を駆逐して占拠されないようたまに引き抜くが、抜いたのをほうっておくとまたそこから根を張るくらい強い。刑部邸の草木はどうなるのか。土を掘り返してごっそり運び去りでもしなければ半ば野生化した草花たちは生き延びられようが。あとには低層<マンション>が建つという。今度林芙美子記念館を訪ねるときにはどうなっていることか。

★母はニラと呼んでいたが、検索するとニラの花はいかにもアリウム属らしい蘂の目立つもの、ガクが花びら様に発達を遂げた仲間と思われる、星形の白い花とは別ものだ。母が勘違いしていた? 首をかしげつつ、ためしにハナニラと打ち込んでみると、シンプルな見なれた花がヒットした。ずっと野菜のニラだと思い込んでいた(発育が悪くて葉が寝ているのかと思ったが、もともとそういう性質なのだった)が、食用にならない別種だという。食べなくてよかった(もしかしたら、戸田に生えていたのを一度くらい食べたかも……)。

          *

 今日、朝日新聞本社の西側斜面の緑地帯で、真赤なシャクナゲの大木が花盛りなのを見た。八重桜も満開。葉が黄色い八重桜で、子供のときは少しも美しいと思わなかった花だが、今はこれはこれで面白いと思う。八重桜に豊かなヴァリエーションがあることを一度に知ったのは、大阪の造幣局の通り抜けを歩いてから。初めて勤めたところで、無駄に出張に行かされ、結局目的も達成できずに時間があいてしまったときに、勧められて行ったのだ。シャクナゲ、戸田のアパートを建て替える前は、空いた場所に三本ほど地植えにしていた。父はどうやって手に入れたのか、苗を買ったか、誰かにもらったのか、普請の際にいらないから処分してくれと客に言われた庭木をせっせと運んできては植えていたから、あれもそうだったのか。その場所を四畳半と呼んでいたのは、それくらいの広さしかなかったからである。

 しかし、アパートの立て替えで四畳半の草木も行き場をなくし、一部を人にあげてあとは結局処分されてしまった。シャクナゲの一本、真赤ではなくピンク色のところが値打ちなんだと父が言っていた株は大工さんにもらわれて行ったが、そのとき二階に住んでいた私が、早朝物音に気づいて上から見ると、大工さんはせっせとシャクナゲを掘っていた。そのあと父から電話があって、職人が仕事に来ているかと訊いてきたが、誰も来ていなかった(古いアパートを壊す前の準備段階だったのだ)。結局その日は誰も来ずじまいで、父は、天気がいいのにしょうがねえなあシャクナゲだけはすぐ取りにきて、と言っていたが——あのシャクナゲは、今年ピンクの花をつけているだろうか?
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by kaoruSZ | 2006-04-17 14:18 | 日々 | Comments(2)

日比谷公園のダイサギ

 某省に期限の書類提出し、雨のほぼ上がった日比谷公園を抜けて戻る。前回、やはり締切日に持参して同じ道を帰ったのは十一月だったか、五時にはすでに真暗だったもの。木蔭一面に群れなす胡蝶花[シャガ]、母の好きだった花で、昔庭にあった小さな池のほとりに幾つか咲いただけで喜んでいたものだが、こういうところではいくらでも殖える。いや、うちでも、今でもシュートを伸ばして殖えすぎる。土曜日に月島で、贋路地のあるライオンズ・マンションの花壇に植えられたのが咲いているのを見て、昨日の朝出てくるときにうちのにも蕾がついたのを知ったところ。うちでは雪柳がまず咲き、林芙美子記念館で薄色の菫が咲いているのを見たあとで、薔薇の下の濃菫が咲き出しているのに気づき(アスファルトの割れ目から出た株の一輪も。そこにも暑い時期、ずっと水をやっていた)、昨日の朝、白菫も咲き出した(開花にいつもずれがある)のに気づく。オキザリスも黄色い蕾を持ち上げているが、昼間いないので咲いたところを見ていない(日があたっていないと昼間でも閉じる)。この冬は氷点下の夜があって、多肉植物に被害、地面におろしたアロエ一株完全に枯死し、君子蘭もだめかもしれないのがあり、生き残ったのも葉先から黄色く枯れる。(佃島で同じようになった株を見かけた。)うちで一番に咲いたのは春蘭だが、今年は二輪のみ。アマドコロ、土を押し上げてにょきにょき出てきており、紫陽花の下のフリージアにもつぼみつく。

 亀の池でシラサギが漁をしていた。首をまっすぐピーンと伸ばしていて、首の長さに比して胴が小さく、嘴が黄色い(サギのくちばしって黄色かった?)。頭に羽の飾りがない。首をちぢめる(S字形になる)とようやく普通の感じに(首が伸びていると、ハートの女王が握るクリケットのスティックみたいだ)。抜き足差し足進んで、S字形首を一気に水に突っ込む。失敗。しばらく見物することにする。二度目。嘴の間からはみごと銀色の鱗の小魚がはみ出ていた。ピチピチと逃げようとするのをおもむろに呑み込む。ここで見るとどうもダイサギのよう。「首が不釣り合いに長い」というのと、「冬は嘴全体が黄色い」というのが合うから。やっぱり、黄色くちばしはイレギュラーだったのだ(最初、バランスの悪い白鳥のように見えた)。冠をつけた見なれた優雅な姿はコサギで、その飾りも冬はなくなるという。今回見たのは、このページの写真のようにきれいな羽根でふっくら覆われてはいなかった(栄養が悪くて痩せ気味なのか、それともそういう時期?)。それに、首をぴーんとさせているときはこういう印象とは違う。クリケットのスティック(という呼び方でいいのかな)にしてやれ、とキャロルが思っても不思議はない(アリスのあれはフラミンゴか……)。

 三信ビル、残った店は営業中。三信書房で『回想 回転扉の三島由紀夫』(堂本正樹)が本(文春文庫)になっているのをを知り、求める。かつてこの人の『男色演劇史』は愛読したもの。ウェブでちょっと見て、三島と堂本の“兄弟ごっこ”を(あれだけ明示してあるのに)性関係と読めない人がいるのにちょっとあきれる(堂本の文章を読んでこの二人には関係があったのではないかと思った、と書いているのだ)。
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by kaoruSZ | 2006-04-11 05:02 | 日々 | Comments(3)

銀座の青空

 続き物の体裁を取っている記事がすでに二つありながら全然更新のひまがない。報告書は明日、直接持参・提出するけれど、あとがないから今日全部準備しておかなければ。それで、今日はtちゃん主催の会へ行けなかった。(ごめんね。残念だよ。)昨日、jjさんと会っていたのがいけなかった。いや、会えてよかったけどね。二時間くらいで仕事に行くつもりが、結局話し込んでしまった。でも、またしばらく日本に戻ってこない人なんで。

 いし辰でお昼食べたあと、入ったところでやけに高いお茶を飲んで(桂花茶を注文してみた。(私の)孔明に大いにかかわりのある花ですから【カテゴリの売り物という項目をクリック! ただし、今は在庫を切らしているのでまたの機会に】。確かにあの細かい花が入っていた。桂花とは金木犀のこと)、そのあと結局銀座まで行って、ケーキも食べようということになり、コアビル一階のカフェ・モーツァルトに入る。ガラスの函みたいで一度入ってみたかったところだけど、とにかく狭い。外に面した側は喫煙席になっている(オープン・カフェでなくガラスの中)。jjさんが吸うからそっちに行ったんだけど。長いベンチ形のシート、同席の人間に動かれると気持ち悪い(ちゃんと固定しない店も悪いけど、電車のシートにどかっと腰をおろす奴とか、駅のエスカレーターでドスドス、ガンガン、カーンカーン(これはミュール)と、立っているこっちの横を上ってゆく連中と同じで無神経なのだ)。でも、和光の上に青空が見えて、雲が流れるのも見えて気持ちいい。あそこが高層建築でふさがれていたらどうなるんだ、ということでちょっと建築の話もする。落ち着かない場所だったけど、ま、そのうち全席禁煙になったら、道路に面したガラスの内側の席ならひとりで座ってもいいな。苺エクレアはおいしかったし。

 jjさん、高校に入ってすぐのテスト(英数国)で一番をとったのが、今まで東京都でだと思っていたら、全国でだったという(現物が出てきたのだそう)。全然覚えてないけど。私はどうだったのだろう? ともかく数学が駄目だから、そんなによかったわけがない。別のテストで、一年生全体の中で真中辺の順位だった記憶はある(そんな低い順位ははじめてだったから覚えている)。jjさんに言わせると、数学が才能だというのは間違い(神話)で、繰り返し読んで理解するものなのだそうだ。当時も数学が苦手ではなかったけれども、わからなかったことが、卒業してずっと時間が経って、あるとき理解できるようになったとか(そのあいだ数学を研究していたわけではない)。では、私も、いつかじっくりやればできるようになるのだろうか? そうだと言ってくれたけど、でも彼女は、留学前、 自分で録画したアメリカ製のTVドラマ・シリーズの原語版と吹き替えとを繰り返し見るだけで英語会話をマスターし、通訳の仕事ができてしまった人だからね。学問に王道はないけれど、才能ある人の道はある。一生懸命やれば誰にでも道は開けるというのは間違いだし、開けたように見えても結局大したことはない。おまけにそういう連中は、自分が死に物狂いでやって、制度的なトレーニングの結果ようやくそのレヴェルに達したものだから、そういう経験のない人間は素人と思って軽く見るあさましさだ。

 jjさん、今回、日本の大学の国際学部で教えるオファーが来かけて、アメリカの大学へ入るまでの経歴を説明しかけたら引かれたそうだ。高卒で十年以上働いたあと自分の貯金で留学し(そういう元OLならその頃もいっぱいいた)、さらに紆余曲折の末、今教授になろうとしているなんて全くの想定外なんだろう。今回、宴会にもはべって、日本社会はやっぱり嫌だと思ったそう。お母さんの年齢(とケーキの味)を考えれば帰ってきたいところなのだが。ニュージーランドは安全だが、いつまでも外国人扱いのところがアメリカと違い、やはりアメリカに落ち着くしかないかという。

 で、数学に関しては、私が同じようにやって道が開けるというのは疑問だけど、トポロジーは好きなのだというと、意外なことに顔をしかめて、あれは嫌いなのだという。といっても私が知っているのはごくごく初歩にすぎない。コーヒーカップの把手に指をひっかけて、これとソーサーとドーナツでは、カップとドーナツが仲間だといった、抽象化というよりは具体物に沿った話が好きなのだど話す。ちなみにjjさんの専門は応用数学だ。見ると卓上のシュガーポットの両側に耳がついていたので、左右の人差指を差し込んで持ち上げ、これとカップは別なのよね、と私。たぶん私が関心があるのは、単純さに還元することでなく、むしろ逆の方向、現象として花開く多様性の方なのだ。以前書いた列車のつなぎ方も結局そういうことなのではないか。その場ではうまく説明できないうちに、その顔はトポロジー向きだと総括される。意味不明~。
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by kaoruSZ | 2006-04-09 22:06 | 日々 | Comments(7)
  3月29日、Iさんとお花見の予定は前から決まっていたのだが、どうにも仕事が終らなくて、お弁当作る気でいたけれど、その朝一度出て行かなければどうにもならくなり、結局忙しい年度末に朝の十時半に早退し(お花見であるとは、直接関係のない人ひとりにしか打ち明けず。積極的に嘘ついたわけではないが)、いや、なんだかんだで実際には十一時になったけれど、ともかく十一時半までには東京駅で落ち合う。まず、11日にも書いた三の丸尚蔵館の、六幅ずつ五期にわたって公開の若冲展へ。Iさん本物を前にいっぺんに若冲ファンになる。

 日比谷に向かい、三信ビルのニューワールドサービスで食事。いつもの静かさだが、(たぶん)私たちの分を最後にごはんがなくなり、隣のテーブルの人たちはそれを聞いて席を立つ。直前の昼どきに人が押し寄せたのか、名残を惜しむ人が多いのか。この日マスターの姿はなかった。最初の計画では六義園から古川庭園へと思っていたのだが、あるブログ★を見てさる洋館が取り壊されることを、しかもそれが、前から行きたかった林芙美子記念館の隣に建っていると知り、急遽そこへ行くことに。成瀬関連の展示もずっとやっていたのが、3月末で終りと気づく。うっかりしていた。Iさんにはお楽しみということにして伏せていた新たな目的地をそこで明かす。洋館の名は刑部邸。地下鉄で高田馬場へ、そしてたぶん生れてはじめて西武池袋線に乗って中井へ。

 林芙美子の家は質素でつつましやかで、風が吹き抜けるようにというのが本人の望みであったというが、昔の家は確かにそのように作られていたもの。成瀬の『放浪記』の終り近く、田中絹代演じる母親に被布を着せて大切に座敷に据えた、高峰秀子の芙美子を訪ねて、庭の方から昔なじみの加藤大介が近づいてくる、その庭。小林桂樹の画家の夫がそっちの方から入ってきたアトリエも左手にある。沓脱石と丸い飛び石、四角い大きな敷石を連ねた通り道。沓脱石がやたらに大きい。もっと小さいし土に埋もれてしまっているが、実はうちにも昔の沓脱石が今でも濡れ縁の前にある。子供の頃は、空襲で焼けた家の、柱を受ける窪みをうがった土台石が庭に無雑作に転がっていたもの。長方形の敷石は今もあり、その両側にかろうじて残る地面に植物を植えて庭と称しているのだ。かつての父が育った家(規模はこれより大きい、なにしろ大家族だ)やその庭や、昔の暮しの匂いを少しだけかいだ気がする。

 かつてのアトリエ(そこだけ洋間の黒光りする床、これは断じてフローリングではなく板の間である)のガラス・ケースの中に、古い新聞の切り抜きが収められている。NHKの朝の連続テレビ小説『うず潮』の、変色した記事を見つける。Iさんは知る由もないことなので話さないが、これは見ていた。林美智子主演、津川雅彦が恋人役ではなかったか。だが、『うず潮』がそのあと吉永小百合で映画化されたとは知らなかった。袴をはき、髪が短く見える(たぶん後ろで結っているのだろうが)写真入り記事があったが、きれいすぎ! 上京する前の芙美子をやったらしい。『愛と死を見つめて』のあとの、少年のような袴姿を見て、吉永小百合をはじめて魅力的だと思う。

 聳え立つ桜の老木、花は手の届かない高い枝にしかついていない、いや、下の方にも、枝はないが幹から直接花が出ている。若冲の画中にあるような岩と化したがごときゴツゴツした幹と、それが咲かせるミニチュアのような花ぶさの対比が可愛らしい。閉館時刻が近づき、帰出口へと向かいかけたとき、入館者には立ち入れない座敷に立った老婦人が笑顔でこちらに会釈される。私たちのいるうちから元アトリエの展示室をせっせと掃除していた女性が、林芙美子の姪御さんだと教えてくれる。「中にお写真のあった――」展示室にあった記事を思い出してそう言うと、「写真より本物の方がきれいでしょ」と返された。成瀬の映画のことなど少しだけお話してから、隣の洋館について、壊してしまうんでしょうかと尋ねると頷いて、みんなもう引越されたという。あそこはここより古いんですよ、ここは昭和十六年だから。

 坂の上と下に出入口のある家の、庭と反対側の高いところへ最後に登ると――そのあたりにはひなたに菫がかたまって咲いていた――アトリエの屋根にはめ込まれたガラス部分を見ることができ、それ以外は通常の瓦からなる美しい屋根が、その全体を人がささやかな生をいとなむ谷間の家――煮炊きのカマドから煙が上がるような――のように錯覚させる。むろん今は生活の場ではないのだが、それでも念入りに手入れされていればそうやって家も庭も生きつづけるのだ(今は住む人のない祖母の家を思わずにはいられない)。坂の多い尾道に似ているところから芙美子がその土地を選んだのではという話があるが★★、その瓦屋根も尾道を思い出させる。いや、かつては日本中でこういう屋根の連なる風景はいくらでも見られたはずなのだ。

 そこからは、隣の下落合駅近くのカフェ杏奴(刑部邸関連のブログで見つけた)を目指すが、残念ながら早仕舞いを知らせる紙がドアに貼られていた。気がついた店の人に謝られる。次の駅である高田馬場へ向かう途中、巨大な円錐形のかたちに刈られた若緑の木にひかれて薬王院を見つける。花もありそうなので中へ入る、ここも芙美子邸と同じく高低のある地形、参堂を登って古いお地蔵さんや無縁塚を見る。少し前なら枝垂桜がきれいだったろうと思わせる木のすがた。牡丹で有名なお寺とあったのを思い出すが、、むろんこれはまだ。しかし、戻ってくると、境内には侘介、乙女椿、それ以外にも椿の木があり、その上小道に沿ったところでは繁らせた椿の木が花盛りの壁をかたちづくるという素晴しさ。あとで地図を見て、金井美恵子の小説に出てくる「おとめ山公園」はすぐ近くだったと知る。つまり、山手線の駅としてしか目白を知らない私には、それは高田馬場の先としてしか思い浮かばないのだが、実際にはさまざまな線によって結びついているということだ。

 だから、高田馬場に着いたのも、だんだんに近づいたわけではなく、横道から通りへ抜けると不意に道の向うに「愛国喫茶」の看板が見え、はっとしてこちら側の道沿いに目をやると西友があり、その左側にはかつてパール座の入口だったところが見え、行く手にはガードが見えて、長いこと足を向けることがなかったが確かに自分の知っている場所にすでに入り込んでいたことを知ったのだ。(あとになって、向う側に当然見えているはずだった甘納豆の店を目にした覚えがないのが気になってグーグル検索、「花川」閉店していたと知る。)

★冒頭で情報源としてあげられている「玉井さん」のサイトはここ。林芙美子邸についてもいろいろわかる。こちらもこの地域について詳しいサイト。ここにも記事が。多くの人に愛されていたのだ。
★★こちらのサイトで読んだのだった。
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by kaoruSZ | 2006-04-01 21:10 | 日々 | Comments(6)