おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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 買った本の記録ブログTous Les Livres をつけるようになって思うのは、自分が買った本をいかに読みかけで放置しているか、それでも際限なく新しく本を買わずにはいられないかだ。読書日記に「読了」と記している人を見て、自分がそんなふうに本を読まないことに、並行して何冊も読むことはあっても、最初の一ページから最後の一ページまでじっくり読みつづけて読み終えるということがあまりないのに思い当たる。あんなに本があるのにどうしてまた買ってくるのかと母は真顔で言ったものだ。あんなに本があって中身が混ざらないかと母の母は言っていた。ある記述がどの本にあったものか見つけ出せないというのは、混ざってしまったうちなのか? 最近どこかのページで見て、どこにあった一節かと密かに探しているのは、性欲とは本質的に他者との関係にではなく自らの空想との関係に依拠するというものだ(意味が珍しいのではもちろんなく、それを表現している言葉のフォルムがほしい)。

 どこにあった一節か忘れかけて今見つけたのは、言葉が物の世界を意味に変えるので、「子どもはこのようにして利用できる意味にしたがうことで、あらゆる生体が経験する諸欲求を、飢えとか、渇きとか、外れた安全ピンがちくちくするとか名づけながら、欲求を識別して、要求することができるようになる」というものである(キャサリン・ベルシー『文化と現実界』。ちなみに、名づけるのは子供なのだから、ここは「おなかがすいた」とか「のどがかわいた」という訳でいいのではないだろうか)。私がこの一節に目をつけた理由の一つには、「利用できる意味」としてただちにジェンダーが浮んだからでもある。それは主体が男か女かに分けられることではない。永久にどちらかの性に割り当てられることでも、その性別にふさわしい特性を身につける(そうなるべく教育される)といったことでもない。子供だった自分が「利用できる意味」を利用して男にも女にもなり、ジェンダーの文化的な「特性」を利用することでいかに「空想」を精緻なものにし、オートエロティックな享楽に熟達していったかということへの関心からだ。
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by kaoruSZ | 2006-08-30 18:48 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)
個人的な仕返しというのは、あまり好みではない。それはわたしがエクリチュールに対して持っている考えに反するし、そこにはどうしてもさもしさが付きまとうだけでなく、最初の見せ場が終わってしまえば、退屈さが残るだけだと思うからだ。
——ロラン・バルト                                 

彼女は家にいて、知性のはけ口もなかった。むしろダンスに行きたいときでも、他者を最優先して、父の看病をする。彼女は病気になって、このような「女」の意味全体を、さらにそんな意味を含んでいる言語をも拒絶することにより、「女というもの」の義務を拒絶する。(……)アンナの抵抗はどこから生じるのか。明らかに意識ではない。アンナは父を愛しており、彼から解放されたいとは意識的には思っていないからだ。                          ——キャサリン・ベルシー
              
転んでもただでは起きない ついでに行水だ                               
——野良犬黒吉


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I  こんにちは! メール&ウェブ・マガジン「カルチャー・レヴュー」の読者の皆様にはおなじみの——いえ、ごぶさたの——Iでーす。もう一昨年になりますが、『オニババ化する女たち』をサカナにさんと対談して以来ですね。

kaoruSZ(以下S)  Iちゃん、気が早い。ここはまだ「ロワジール館別館」なんだから、〈おなじみ〉ではないでしょ。

I  そういう方にははじめまして! 「カルチャー・レヴュー」見て下さいね。2004年の4344号で、例のトンデモ本について二人でお話ししています。 

S  Iちゃんに来てもらったのは、今回のテーマがまさしくそのオニババ本批判の、ある意味、延長上にあると考えられるからでもあります。

I  え、そうなの? 「こわいもの知らずにも」ここを攻撃してきた、フェミニズム・バッシャー[当ブログ8月1日、2日の各記事〈生物学 対……?〉 〈私がフェミニズムの大義wのために病者という弱者を政治利用しているとか糾弾する御仁が〉およびそこについたコメント参照]の吊るし上げに私が最適だからじゃないの?

S  いえ、吊るし上げようにも、リンク先がないからどこの誰やらわからない。「正体不明なのです」と新しい記事を立てたら(2日)、「はいはい、あなたこそ正体不明ですね」と書き込んできたでしょう。そのあとも、同様の「それを言うおまえこそ」のワンパターンが目立ちます。芸がないのでがっかりしました。

I  直接会うことなどない以上、文章の中にしか、さんはいないんだから、さんについて知りたければここ(ロワジール館別館)を読めばいいのにね。まあ、ああいう人は、ちゃんと読ま/めないからこそ、反射的にからんでくるんだろうけど。

S どこの誰というのは、むろん本名を名乗れとかいうんじゃありません。尻尾を巻いて逃げればすむ状態で出てくるなということです。この人のケースはフェミニズムへのバッシングの一例として、来月1日発行の「カルチャー・レヴュー」で扱う予定ですが、その前に宣伝を兼ねて軽く話しておこうかと。

I  込み入ってますけど、どのあたりから? 

S  発端からやるしかないかな。

I  えーと、まず、【嗚呼女子大生活】というブログをやっているchidarinnさんのエントリ女性の静かな抵抗—うつを政治的に読み替える— (http://d.hatena.ne.jp/chidarinn/20060727/p1も参照のこと)がありまして、それについてkmizusawaさんがご自分のブログ【kmizusawaの日記】に「女性のうつ」は「抵抗」か— を書き、それをさんが読んで、ここ[ロワジール館別館]で触れたんですよね。

S  はい。chidarinnさんはNHKの番組を発想源としてお書きになったんですが、それは私は見ていませんし、kmizusawaさんもごらんになっていません。kmizusawaさんは「抵抗」を意識的、積極的なものとして受け取って、chidarinnさんの意見に反対しています。私は、その解釈は明らかに誤解だと思ったので、「chidarinnさんに基本的には賛成」という立場から書きました。

I  それだけのことが、《元記事の作者は、科学などは関係がないと嘯いて、意図的なプロパガンダを行うことを公言していますが、そのような言説のどこが「ちゃんと考えている」「批判に対してはきちんと答えている」のですか。身贔屓も大概にしてください。そして、あなた方の「大義」のために、病者という弱者を政治利用することはやめてください。もしやめないのであれば、あなた方こそが差別者であると私は告発しなければならないことになりますよ》てな妄説を引き寄せちゃったんですよね。

S  まったく。関係もないのにこっちにフラフラ寄ってきてね。惑星の重力に引かれた彗星のように、と言ったら、自然科学の言説の濫用でしょうか (苦笑)。
 ただ、そのときchidarinnさんの批判者(kmizusawaさん以外の、たとえば【daydreambeliever】http://d.hatena.ne.jp/cachamai/20060727/p4のような)——というよりはむしろ圧倒的な無理解と反感を彼女に向けてくる人たちがいなかったら、私がこの話を取り上げたかどうか疑問です。抵抗としての女性の病というのは、けっして目新しい観点ではありません(病名こそ違いますが古典的な、アンナ・Oのケースについての記述を最初に掲げておきました)。そのことが忘れられ、突拍子もないことのように受け取られることにむしろ驚きました。
 なお、今、Iちゃんが読み上げたfarceur(以下f)なる人物のコメントは、明らかにchidarinnさんへの誹謗中傷です。だって、元記事のどこを読んでも、「科学などは関係がないと嘯いて、意図的なプロパガンダを行うことを公言」してるなんて事実はないもの。

  chidarinnさんのブログでは、f氏もそこまでおかしなことは言ってないんですよね。

S  chidarinnさんの文章を読めてないことは確かだけど、元うつ病者と名乗っていることもあって、なんでこんなことを言い出したんだろうと不審を抱かせるほどおかしくはありません。「当事者」の一部にありがちな、文脈に関係なく自分の主張だけを言い立てることしか頭にない人だとは思いました。《「女性のうつ」問題で元記事作者を擁護していた人はいずれも「批判にきちんと答えていた」などと言うばかりで、私その他の批判には無視を決め込んでいますが、どういうご了見でしょうか?フェミニズムというのは無謬の真理なのでしょうか?》とf氏は書いてますが……この最後の文、笑えるでしょ?

  前の部分とのつながりが完全に不明。

S  こっちは「無視を決め込んでいた」んじゃなくて、その前に[f氏が]chidarinnさんに完全に論破されちゃってるもんで……。

I  議論はそこで終ってるから、あらためて[f氏の意見を]取り上げる必要はないと思いますよね。ところが、それが不満で噛みついてきたんだ。

  自分の意見を容れない相手=狂信的フェミニストというこの飛躍。

I  でも、彼の世界ではそれが“真理”なんですね。「無謬の真理」とか、さんが間違っても使いそうにない語彙なもんで、さんを知っている私としてはなおのこと笑えます。

S  だから、特に私にあてて書かれているわけじゃないんですよ。
 前にね、昼間うちにいたら、「奥さんですか?」と電話がかかってきたの。「違います」と答えるじゃない。そしたら、「ボク、奥さんの浮気を知ってるんだけど」と来た。

I  アハハハー、なんだそりゃー!

S こっちは「バカ」とひとこと言って切りました。なんでヴァカなのか?

I  奥さんじゃないって言ってるのにね。

S  そう。それと同じですよ、f氏のやったことは。《「症状」は「個別的」であるからこそ、薬物療法や心理療法など個別の対応がなされるのであって、「ジェンダー論」などという画一的な処方箋は何の役にも立ちはしません。》と彼は書いていますが、私はこの主張は正しいと思います。では、彼の何が間違っているのか? 私に対してそれを言うことです。これに反することを、私は全く言っていないわけですから。「ジェンダー論」ですべてが解決するなんて、思ってもいない——と私が言明することは、この際たいして重要ではないでしょう。私の8月1日の記事のどこにもそんなことが書かれてないのは、誰が見ても明らかなことです。ついでに言えば、chidarinnさんだって書いていません。要するに、電話の相手に「奥さん」であることを否定されてもシナリオを変更できないボクちゃんのように、f氏には自分の思い込みだけがあって、幻の女(「奥さん」ならぬ「フェミニスト」)しか相手にできない。「個別的対応」が全くできないのです。

  Sさん、その電話切って無視したわけでしょう? どうして今回無視しないんですか。あらためて「カルチャー・レヴュー」で正面から取り上げるだけの価値があります? 手紙のお相手のXさん[件のエントリはXさんあての手紙の形を取っていた]は心配して、「ご意見ありがとうございます」とやり過ごしてしまえ、とメールしてきたんでしょう?

  うん。バカだから相手にするなってね。

I  それなのにどうして?

S  私の方がXさんより、fさんをバカにしてないってことですよ。

I  いったいどうやったらこういう人をバカにしないですむんですか?

S  せいぜい「利用」させてもらいましょう。こっちは逆立ちしたってこんな文章は考え出せやしません。貴重な資料ですよ。

I  芸がないから標本にもなりませんね、とXさんは言ってきたんでしょう?

S  うん。Xさんはつくづく争いを好まない人なんだなと感心しました。私がf氏とケンカするのを心配して、付加疑問文で同意を求めてきたのね。でも、ケンカするわけじゃないから。勝ったところで自慢にもならないでしょ。だいたい、勝ち負けなんて最初から明らかなんだしね。

I  そりゃ、彼我の知力の差が最初から明らかだから!(笑)

S  いえ、フェミニズムが無謬だから!(大笑) 冗談はともかく、私の書いたものをきちんと読んでくれる人には、こっちは難癖をつけられているだけだとわかるでしょう。相手の言っていることの根拠のなさを示すのは簡単だけど、それでは時間を取られるだけで得るものは何もない。

  だったらなぜ無視しないのか。

  だって今回、得つつあるものがすごく多いんだもの! 前回の「カルチャー・レヴュー」の締切のとき、私、書けずに困っていたでしょ。それが今度のことで、脳が一挙に活性化されたの。

I  下らない言いがかりでも有難い?

S  8月1日付の手紙の形をとった記事には、実際にXさんに出した手紙が組み込まれているわけですが、あれを載せたときもまだ不調でした。Xさんに意見を言ってもらえると有難いと思ってたんだけど、なんとこのとき、Xさん、うつじゃないかというほど、気分的に落ち込んでいて。

I  ま!

S このまま治らなかったら心療内科に行こうかと思っているなんてメールが来て。だから、f氏のことでは心配してくれたけど、それ以外の助言はもらえなかったの。ところが、今回のことに直接関連するものしないものとりまぜて読むうちに、あそこでまだ萌芽状態だった考えがどんどんつながって行きました。だから今回、「映画館の日々」[Sが「カルチャー・レヴュー」に隔月掲載している記事」http://kaorusz.exblog.jp/i16/参照] のスペースで、そっちをやりたくなりました。f氏は、chidarinnさや私が病者を政治利用するとか意味不明のことを書いてましたね。そんなことはありえないけど、勝手に飛び込んできて木の根っこにぶつかりバカをさらしているウサギは利用できます

I  farceur完全利用。

S  反論なんていうレベルじゃなくね。

  論文でも書きますか?

S  いえ、そうじゃなくて、Iちゃんに語るというレベルなの。

I  えー、そんな低レベル?!

S  どうして低いのよ! f氏に語ったってはじまらないじゃない。私は啓蒙なんて退屈なことはしません。むしろIちゃんにこそ語りたい。だからぜひお相手を。

I  うーん。せいぜい読者を退屈させないよう努力してみます……。

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★9月1日発行です。
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by kaoruSZ | 2006-08-28 13:06 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)

「ムードアクション」

“ジェンダーフリー”も負けるこの和製英語は、渡辺武信によれば、金曜日にフィルムセンターで見た『二人の世界』(石原裕次郎、浅丘ルリ子主演)のような映画を指して使われたという。冤罪を背負わされて海外逃亡した少年が、帰ってきたときはスーパーマンになっている。証人を探し出して真犯人を告発し日本人としての居場所を取り戻すという、正当な行為には失敗し、裕次郎は超人的な腕力(暴力)で悪の親玉の乾分どもを片っぱしから倒し、最後には真犯人である親玉を自ら殺す。正当防衛と見なされたという刑事の言葉には笑ってしまう。どう見ても過剰防衛だもの! 



 SMさん(この略称が本人にウケたのでこれでいく)に、日活の映画を今度まとめてやるので見に行くのだと言うと、「ポルノですか?」と訊かれた。それはにっかつ……。フィルムセンターのプログラムの表紙を見せて、鉄塔に登って笑っているのが誰だかわかるかと訊くがむろんわからない。二谷友里恵のお父さん、と教えるとびっくり。もう一人は、と訊かれるがこれは私にもわからなかった。でも、何を上映しているのか確かめもせずに見に行ったら、この二人が登場。動いているのを見たらすぐわかった――宍戸開のお父さんである。

 ロマンポルノ路線以前の日活、と言っても、同時代に見たわけではない。鈴木清順が十三年ぶりに撮った『ツィゴイネルワイゼン』を東京タワー下の銀色ドームで見たのが1980年(SM嬢はまだ影も形もなかったわけだ)。私にはそれが初清順だったから、日活特集といっても、特に清順作品が見られるとも見たいとも思っていたわけではなかった。

『刺青一代』を見た翌日、何度も見た映画だからどっちでもいいと思っていたのがとても見たくなって『東京流れ者』を見にフィルムセンターへ。『刺青一代』の上映後は 、和泉雅子の現在の顔がしばらく思い出せなかった。北極へ行った人の顔が不意に浮かんでしまったあとでさえ、本当にあの人だっけ、としばらく半信半疑でいた。『東京流れ者』の場合、現在の渡哲也がどういう顔か、さっきグーグルでイメージ検索するまで全く思い出せずにいた。脳が思い出すのを拒否していたに違いない。

「東京流れ者」という主題歌は、メロディが高峰三枝子の「湖畔の宿」とよく似ている。「やまのさびしい みずうみに」と「ながれはてない たびにでて」、前半が全く同じである。(曲のあとの方には「カスバの女」も入っている。「ここ~は地のはてアルジェリア」と歌いたくなってしまうのでわかる)。高峰三枝子が亡くなったとき、たまたま家にいてTVをずっとつけていたので繰り返しそのニュースを見ることになったが、その度に「湖畔の宿」の出だしが流れる。気がつくと、「あ~ 東京ながれもの~~」が頭の中でぐるぐる回っていた。

『東京流れ者』では、この歌がいやというほど流れる。一曲歌ってからでないと撃ち合いが始まらない。「あいつ、歌なんか歌いやがって」と敵役が口走るから、リアル世界でも流れているのだ(伴奏つきで)。二十四歳の渡哲也といったら、唇ぷっくり、あの目、あの上半身(脱ぎます)でyoung and innocent*の化身である。松原智恵子を見かけた敵方のチンピラが「哲の女だ!」と言うのが可笑しい。というのは、女を抱いたことがあるとも見えないので、「情婦」(おんな)のわけがないからだ。北竜二の親分も、少々くたびれてきた「流れ星の兄貴」二谷英明も、さぞこの男が可愛かろう。見事に中身のない顔をしているので、もっともらしい科白を喋るのが不思議なくらいだ。最後に、「哲也さん」とすがる松原智恵子を、「流れ者には女はいらねえんだ。女と一緒じゃ歩けねえんだ」と一蹴するが、これも美しい人形が決まり文句を吐いているにすぎない。この科白のとき、場内で拍手が起こるのに居合わせたことがある(フィルムセンターではない)。非モテの自己正当化というべきか。

『刺青一代』で高橋英樹とヤクザの親分との対決の際、不意に床がガラスになり、キャメラは踏みしめられる足の裏を映し出す(なんで畳が透明に!?)。この映画にこの場面があるのを忘れていた。でも、床がガラスになるのはダンスホールではなかったか? と混乱したが、『東京流れ者』ではちゃんとダンスホールの床がガラスになっている……。北竜二にハンコを捺せと迫る悪いヤクザ。そのとき朱肉が一瞬真上から撮られるが、これは他の清順作品でもっと大きなどアップを見たような……(思いちがい?)。高橋英樹の殴り込みの場面、もっと色が七変化するような気がしていたが……(もしかして、『関東無宿』と混同している?)。



『二人の世界』、前述の荒唐無稽な話に、浅丘とのヘテヘテ・ラヴストーリーがからむ。最後、林立する柱の上に花が盛られたフロアで二人は踊り、「きみぃの~~よこが~お~ すて~き~だ~ぜ~」という歌(これは知っていた。映画主題歌とは知らなかった)が流れる。映画が終った時点では、こうしたすべてをネタとして、たとえばあの鈴木清順のマニエリスムが生まれたのだと了解することで満足していたので、かくのごとき(もう若くない)裕次郎が、政治的敗北をくぐり抜けたプレ中年男のナルシシズムのベタな対象だったと知って驚く(もちろん渡辺さんがこういう言葉を使ったわけではない)。やっぱり年長者の話は聞いておくべきものである。資料として貴重だから。
(配られたレジュメを持ち歩いていたつもりが、今、バッグの中に見当たらない。この続きはいずれまた……。)


*ジョン・フォードの『若き日のリンカーン』で主演のヘンリー・フォンダを見たとき、この言葉が浮かんだ。もともとはヒッチコックの映画の原題。
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by kaoruSZ | 2006-08-21 19:43 | 日々 | Comments(3)
 今日はまず「若冲と江戸絵画展」の国立博物館へ。9時からと勘違いしていて(東京都美術館などは9時)、9時ちょっと前に着き、遠目でたいした人出ではないと思ったが大間違い。開場までには群れになる。シャッターの降りた券売機の前で四列縦隊の二列目に並んで待つ。(注意書きがあって、恐竜の化石や模型はここにはありません、だって)。 一緒に大勢入ったけれど、まあまあゆっくり見られる。

 若冲は2000年の11月、没後二百年の展覧会を京都まで見に行った。入院していた父を毎夕訪ねていたので、出かける日も父の夕飯その他すんでから新幹線に乗り、予約してあった七条より南のビジネスホテルに遅く到着。翌朝は開場と同時に入って見たあと、京都駅で赤福をお土産に買い、帰京(父は12月27日に死去)。それまでに実際に見たことがあったのは三の丸尚蔵館で一回、あとは図版だけで、桝目の上に描いた鳥獣花木図屏風など存在も知らなかったのがいきなり対面した。京都ではあれは小さな部屋にあって、ガラス越しだけれどほとんどひとり占めという感じだった。今度はそうは行かず。「鶴図屏風」のタマゴのような鶴にも再会。あれとか、花鳥人物図屏風のモノクロームの若冲も好き。京都では他にも障壁画を見たと思う。京都であれだけの量見てしまったから、思ったよりも少なかったと感じる。

 照明を変化させている部屋、よかった。酒井抱一、三の丸で若冲と向い合せに展示されているのを見ると、素晴しく上手だけど規範の中で描いているというところばかり目立つように思っていたが、やっぱりいい画家だ。鈴木其一の「群鶴図屏風」、対の屏風の右に十羽、左に九羽並べた鶴のヴァリエーション、その〈完璧なアシンメトリー〉に感嘆。左端の一曲には完全に鶴の姿がない。全く未知の名(見たことがあれば忘れまい)である葛蛇玉の「雪中松に兎 梅に鴉図屏風」がすごい。全体に黒をひいて塗り残した白が樹木に積もった雪となり、吹き散らした胡粉が降りしきる雪となると説明にある。配する動物も兎と鴉という白と黒のそれそれのペア。兎の一羽ははげしい雪の中で松の木にしがみつく。照明が落されているときは鴉は背景の闇に沈んでおり、光とともにその姿をあらわす。凄い。銀地に描かれた「夏冬白鷺図屏風」(山口素絢)、地の質感の強さの中に幻のようにあらわれる線描に惹かれる。無名の画家の装飾的な「紅白梅図屏風」、光量が落されてゆくと、一瞬、くまなく光を当てられたときよりもなお花たちが明るく輝く。西洋美術館のモネ展で、絵具を塗り重ねたに過ぎない画中の日向が、何度見てもそれ自身光を放っているとしか思えなかったことを思い出す。

 若冲のあとは、読売が券をくれたルーヴル展へ行くつもりで、すさまじい蝉しぐれの中、藝大方面へ。かつて通学に使ったピラミッド型の屋根を乗せた駅舎は健在。と思ったら、「博物館動物園駅跡」 と京成がプレートつけていた。跡ね。駅の名前は動物園前とかでなくこれが正式。藝大に近づくと、運動会みたいなテントの下におばさまたちがびっしり並んでいる。わるい予感。この暑い中、レストランに入ろうとしてではあるまい。予感的中。現在40分待ちという手書き表示を見て踝を返す。しかたがないので清水坂へ。途中の喫茶店に入る。先にいた客が出たあと、熟年夫婦が入ってくる。しばらくしてから、ルーヴル展見ようと思ったけど混んでて入れなかったのと店の人に話し出す。券を買うまでに40分というのでやめにしたと。小さな店なので、私もそれでこっちへ歩いてきたと横から口をはさんだ。

 会計のとき、上野駅へ行くのならホテル鴎外荘前から地域バスが出ている、時刻表を調べようかと言われるが、歩いて行くのでと断わり、不忍池へ。蓮池を渡ってくる風はあるものの、陽射しと熱気ものすごし。繁った蓮の葉とつぼみと根方の鴨、そのまま若冲の絵のモデルになれる。そこだけは江戸時代と変わらず。鴨たちもボート池に張り出した木蔭に入るまひるま、手こぎボートで池に浮ぶ人もあり。松坂屋地下から銀座線で京橋へ。3時からのフィルムセンター鈴木清順の『刺青一代』。一度ならず見ているからどっちでもいいように思っていたが、そんなことはなかった! 忘れていたことばかりで驚く。若冲がかすんだとは言わないけれど、映画こそ光をあてることで一瞬ごとに過ぎ去る(バルトが、だから写真の方が好きと書いていた)幻を産み出すものだから――。清順の画面は江戸時代の屏風のように、これ以外のありかたはありえないという確信(錯覚)を見る者に起こさせる。寝不足だし本当は帰るべきところだったのだが、七時の回(清順ではない)も見たくなる。渡辺武信の講演が最後にあって聞く。結果的には見たり聞いたりしてよかった。それについてはまたあらためて。
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by kaoruSZ | 2006-08-19 00:17 | 日々 | Comments(2)
 今日はゆっくり出てコミケへ行くことに。
 Izさんへのおみやげとしてブルータスの若冲特集をと思い立ち、本屋を二軒見たがすでに売り切れ。教文館 に電話し、取り置いてもらう。引き取ったあと二階へ上がり、三冊ばかり買った。うち一冊が、偶然目についた寿岳章子の『日本語と女』で、これが素晴しい。

 寿岳章子は昨年亡くなっている。寿岳文章の娘さんであることは知っていたが、不勉強な私はその仕事を今までほとんど知ることがなかった。
 もっと昔の人のような気がしていたが、私の父より一つ上に過ぎない。46年に東北帝国大学法文学部文学科を卒業している。(女子大学ではない「大学」が女を受け入れるようになって間のない時代だ。)
 家庭内では、女はこう、男はこう、といったことを一切言われることなく育ったという彼女はこう書く。

「……私は気がついて見れば、望んだわけではないが「女」という存在であった。かつてはそのことをむしろ私は意識せぬ暮らしを望んでいた。男も女もない生活こそが望みであったのだ。しかし、やがてとりわけ京都という地を生活の根拠としていることなどが多分に影響して、「女」の問題そのものを色濃く考えることが度重なってきた。また、おのずと、考えなければならぬと思うようになってきた。最終的には、考えることに喜びを感じた。それは、たとえば、私に強い影響力を与えた農村婦人との交流が、私に与えた変化である。」

 彼女のような、当時の大多数の女たちとはたぶん文化的にも経済的にも桁違いの恵まれた環境で育った女さえ、このように言うのだ。それに比して、自分は女だからといって差別された覚えはないが、そういう女性がいるなら手を差しのべたいと何の屈託もなく言う大学教授の、なんという薄っぺらさ。〈「女」という存在〉として社会の中で生きる以上、「女」の問題を考えなければならなくなるのは避けられないと言っただけで「フェミニズム信者」と罵る男や、バブル以前は主婦という形で女の生活は保証されていたとか、すでに女は差別されていないとか口走る、歴史を知らない子供の愚かしさには対抗しなければならない。とりあえず、来月一日の「カルチャー・レヴュー」は番外編になる。
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by kaoruSZ | 2006-08-12 07:24 | 日々 | Comments(1)

Emperor in Soklovland (1)

 アレクサンドル・ソクーロフ監督の最新作『太陽』の公開が、五日・土曜日から三原橋のシネパトスではじまった。シネパトスというのは、東京中でここでしかかからないという映画も珍しくないのかもしれないが、それはカルトだったり、他では不入りだったのをここで、みたいな場合がたぶん多いと思われ、ソクーロフ・クラスの名の知られた作家の新作を単館ロードショーする場所としては(えっ?)と思ってしまう。日本公開が危ぶまれたと聞くから、有名どころが上映を断わった結果なのだろう。一種のきわもの扱いだ。私には行きやすくていいけど。

 というわけで、昨夕(八日)五時近くなって、不意に、寝不足とはいえ頭がはっきりしているから今日行ってみようと思い立った。ウェブで調べると、五時四十五分の回がある。その次は八時。しかし、すでに見てきた人のサイトを読んで驚いた。シネパトスの外に三十人ぐらい並んでいたとか(考えられないこと!)、整理券を配っているとか。ぎりぎりまで仕事を片づけてという気は失せて、五時半には晴海通りの新橋側の降り口(銀座シネパトス1~3館は通りの地下を横切る商店街の中にある。タイムスリップして時間の裂け目へ落ち込んだような場所。飲み屋や床屋や大人のオモチャ屋が軒――軒はないか――をつらねる)に立っていた。降りてすぐ左がシネパトス1。前回来たときはここで韓国製ホラー『箪笥』を見たが、女子高校生三人連れと私で貸切状態だった。『太陽』は3で上映する旨表示があり、奥へ目をやるとチケット売場の窓口には数人の客がかたまっているが、他に短い通路に人影は無い。ウェブにあった話は初日や土日だったからなのだなと思い、そっちへ歩み寄ろうとしたときだ。反対側の口へ出る階段の右の方を、地上までふさいでいる人々の群が目に入ってきた。

 チケットはすぐ買えたが、整理券を八時の回にしようかとも思い、今の回はかなり混んでいるかと聞くと、まだあいていますという返事なので券をもらい、階段の上へ。105番。ソクーロフよりも主題への関心からだろうが、それにしてもこんなに人がつめかけるとは。シネパトス、笑いが止まるまい。思えば、広島と長崎の六十一回目の両原爆忌のあいだの日ではある。直前の回の客がすでに退場しつつあり、さして待たずに入場となる。定員は177人だった。最前列を確保。左右の席もすぐ埋まる。

 ソクーロフは日本に紹介されたばかりの頃熱心に見たものの☆、その後何年も何作も見ないで過ぎたので全貌を知るにはほど遠いのだけれど、それでもはじまってすぐ、これがすみからすみまでソクーロフの映画であることがわかる。食事(朝食。洋風。菊の紋章つきの皿)を用意する老侍従。扉が開かれると、狭い室内に天皇はいる。彼は食事をとり、着替えをする。人間の基本的ないとなみ。順序は違うが、これは『ストーン』だ。あそこでも、チェーホフ記念館という閉ざされた場所で、よみがえったチェーホフは展示品だった彼自身の服を見につけ、管理人の青年に料理を供されて味わった。この導入部のあいだ、隣の若い(たぶん)男はかすかな音(問題にならない程度の)をたてて包装紙のようなものをひらいていて、しまいにビスケットの匂いがただよってきたが、それはべつに不快というわけではなかった。

 イッセー尾形扮する昭和天皇は、自分は侍従たちと変りない身体を持っている、肌にも何のしるしもないと言い、侍従に手伝わせて着替えるとき、というより、着替えさせられるままになるとき見せる裸の背中にもむろん何のしるしもありはしないが、フィルムにはすみずみまでソクーロフのしるしがある。『ストーン』では青年とチェーホフの二人、『精神の声』では大勢の兵士たちのあいだにあったものが、ここでは天皇と侍従たちのあいだ、天皇とアメリカ人のあいだで起こる。男だけの世界のホモソーシャリティと密やかなホモエロティシズムは、マッカーサーが火のついた太い葉巻の尖端を昭和天皇のくわえた葉巻の尖端に押しつけ、二本の葉巻が一本の直線になって火がうつされるとき、ほとんど耐え難いまでの強度に達する。

 マッカーサー将軍に招待された室内にひとりで置かれた天皇は、燭台のともしびにかぶせて消す器具をつかって蝋燭を次々に消して楽しむ。子供のように純粋で世馴れぬ姿。彼は口唇期にとどまっている幼児のように、その研究対象である魚か腔腸動物のように丸めた口をしばしば(葉巻を通じた間接キッスのときも)無意味に動かしており、それはいうまでもなく晩年の彼の人目をひく身体的な癖を壮年の彼を演じるイッセー尾形の肉体に転移させたものなのだが、大元帥陛下として重臣たちの意見を聞くときも、彼らの力強い声が響く中で拙劣な吹き替えのように彼の口は動きつづけていて、それは姻戚となったシナの最後の皇帝のように、彼自身もまた飾りものの君主であり、自らの言葉を奪われた傀儡であることを示すかのようでもある。

 意思と無関係に起こる機械仕掛けのようなこの動き(これもよく知られた、自動症めく身ごなしを含めた)は、また別の固有名詞を呼び寄せる。天皇が家族の写真とともに保管している西洋の俳優のブロマイドをつづったアルバムの中にすでにその姿があり、のちに、庭で薔薇を嗅ぐ彼の姿を撮影に来た米兵たちによって、自然発生的にその名が口にされもする喜劇役者の名前だ。ところで、蝋燭を消す行為だが、それが、死神が人間の命の火を気まぐれに消してゆく行為にも通じることを思えば、その仕種もそれほど牧歌的には思えなくなってくる。あの、自動人形のような、空虚な微笑を浮かべた喜劇役者が手にしていた地球の形をした風船、あれをもてあそんでいたのは独裁者だったか床屋だったか、私にはにわかには思い出せない。

☆当時ソクーロフのフィルムについて書いた文章のいくつかは、「批評 アルシーヴ(映画)」http://kaorusz.exblog.jp/i7においてある。

★それが物真似であることが私たちにわかるのは―Emperor in Soklovland (2)→http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re67.html
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by kaoruSZ | 2006-08-10 06:01 | 日々 | Comments(2)
あらわれましたが、これが正体不明なのです。

赤字…一つ前の記事のコメント欄で、私に二人称複数形で呼びかけ、私が大隈典子教授を批判していることについて、説得して味方にすべき相手を嘲笑するようなことをするからフェミ二ズムは反感を買うのだと非難し、ブログ「嗚呼女子大生活」のchidarinnさん(未知の方である)が自分の記事に対する批判にきちんと反論していたと私が記したことにいらだって、身贔屓(!)して自分の意見を無視したのは「どういう了見」だと(反論されていたのは彼の意見だったわけだ)憤り、私がフェミニズムを「無謬の真理」と信じているかのような修辞疑問文を提示し、私が私たち(誰のこと?)の「陣営」(なんだそりゃ)を「防衛」しようとしていると決めつけ、今度の一件(というのはchidarinnさんの記事が震源で、私はそれに軽く触れつつ自分の関心事と組み合せて書いただけなのだが、この人には彼女も私も「あなた方」の一人で同じ穴のムジナにすぎず、というか私へのつっかかり方が尋常ではない)でフェミニズムの印象が悪くなったなどと、どうでもいいことを言い立てる(フェミニズムについてこの人がどういう印象を持とうと、どうして私が気にするなどと思うのか?)farceurさん
・黒字…ロワジール館館主 kaoruSZ

「女性のうつ」問題に関してコメントしていた者ですが……。
はっきり言いますが、東北大の教授というインテリ、しかも女性であることからして本来あなた方の味方になるべき人を説得しようともせずに「頭が悪い」と嘲笑するような閉鎖的な性質が、フェミニズムへの反感を増幅させているのだと思いますよ。恐らく、あなた方のことを「頭が悪い」と思っている人も大勢増えたでしょう。それでよいのでしょうか?


「あなた方」って誰ですか。こっちは一人なんですけど。そんな架空の対象に呼びかけられても困ります。
 もし訊かれれば、この社会で女に分類されて生活している以上《不可避的に》フェミニストであると答える用意はありますが、私は別に党派に属しているわけでも、学者でも、アクティヴィストでもありません。ましてあなたの言うような〈大義〉のために何やら悪辣な行いをしているなどというのは、とんだ言いかがりです。このブログを一人で書き、誤読と偏見と思い込みに満ち見当はずれでパラノイアックな書き込みにさえ返答しようとつとめていますが、閉鎖的ですか?

 そして「あなた」は誰ですか? 〈「女性のうつ」問題に関してコメントしていた〉というだけでは、私の読者に不親切です。どこでどうコメントしたのでしょうか。URLを示すとともに、かいつまんで説明していただければ有難い。また、サイトをお持ちでないようだから、発言に責任を持つのに十分なだけ、ご自分について書いて下さい。あなたが書き込む以前に最新だったコメント欄の最後に、この件は明記してあります。http://kaorusz.exblog.jp/322002/

 当方の返答はその上でということにしますが、最初と最後の、大隈批判への非難の件だけは、先に片づけてしまうことにしましょう。

まず、

東北大の教授というインテリ、しかも女性であることからして本来あなた方の味方になるべき人を説得しようともせず

のところ。

「東北大の教授というインテリ」を、「女性」であるがゆえに批判しないとしたら、それこそ「党派的」でしょう。
 なお、彼女の啓蒙を試みるほど、私は親切でもヒマでもありません。
 
それから、「こわいもの知らずにも上野さんに直接質問した」ことの何が悪いでしょうか。専門家は一般人の問いに答えるのも仕事です。

 大隈ブログで見直したところ、正しくは「質問」でなく「反論」でしたので、見せ消ちで訂正しました。(なおのこと嗤えます。)その上でお尋ねしますが、問題とされるのが「反論すること」自体ではなく、「その内容」だということはおわかりいただけるでしょうか? また、「直接」であることではなく、シンポジウムのような公開の場でそうすることだということが。
 
「身のほど知らずにも」「無謀にも」「無鉄砲にも」……どうもぴったり来ませんねえ。そこは措辞としては、自分でもまだ〈動く〉と思っています。
 誤解を避けるために言っておきますが、私は別に、上野大先生の前でよくもそんな大それたことを、と言ってるわけじゃありません。
 大隈さんは、公民館に上野千鶴子講演会を聴きにきて、質問(お望みなら反論)に立った「一般人」ではないのです。「東北大の教授というインテリ、しかも女性」、さらには、男女共同参画だの、理科系志望の女子高校生へのエンカレッジメントだの、女性科学者支援だのという、フェミニズムや「ジェンダー」概念と無関係でやり通せるとは思われないプロジェクトにもかかわっています。そういう人がするにはあまりにも恥しい発言を、その恥しさを全く意識することなくした上に、その顛末を自らのブログに書いて天下に発信している。しかも彼女の認識としては、無知なのは相手の方なのです。自分が生物学以外のことについて持つ知識と同程度の知識しか、文系の学者は生物学について持っていないと信じており、生物学ではこうですよ、と大真面目に相手の認識を正そうとする。イタい人です。

そもそも逆に、「科学に関しては素人のフェミニストがこわいもの知らずにも生物学者を馬鹿呼ばわりした」と言われればあなたはどうお感じになるでしょうか。

 それでは「逆」になりませんね。私は大隈さんの専門分野については何も言ってませんから(だから、完全に不当な言われようだと感じるでしょう)。私は、かの東北大学教授の、知的エリートらしからぬ教養のなさにあきれているのです。知識の多寡の問題というより(それも問題ですが)、最終的には賢さの問題かもしれません。何かを知らなければ勉強すればよいが、自分の無知を自覚できないのは致命的です。教授である以上、専門分野ではきっと優秀なのでしょうね☆(周知のとおり、これを「専門バカ」と言います。なお、優秀な理系の「専門バカ」は存在するが、文系に「専門バカ」はいない(ありえない)と書いていた人がいて、なぜなら、文系の専門バカはただのバカだからだそうです。味わって聴くべき言葉ではありませんか。)
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☆ただ、生物学というものは非常に細分化されており、他領域については全く知らなかったりするのだとか。大隈さんの専門外の(ただし生物学内)分野へのある発言に関しては、たまたまその分野が専門領域内である友人の意見をもらえたので、去年の暮れ、すでにブログに書きました。ジェンダー概念は不要とか、『ブレンダと呼ばれた少年』をめぐっての話等、フェミニズム・バッシャーのお先棒を(その自覚もなしに)担ぎかけているのを、危なっかしいなあと思いつつ見ていました。当ブログにおいて以前「仙台の生物学者」に言及したページには、1日の本文中でリンクしています。>読者へ
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by kaoruSZ | 2006-08-04 22:11 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(5)

生物学 対……?

X・・・・様

 メールありがとうございます。おっしゃるようにこの頃「ロワジール館別館」は更新が滞りがち、最近はMさんに以前出したメールの一部を載せてほそぼそとつないでいる状態ですが、今回いただいたメールが直接でなくても刺戟になってでしょう、目下心にひっかかっていることをいくつか書きたくなりました(ブログでなく、こういう形ならば書けそうです)。またご意見いただければ嬉しく存じます。

 昨日、うちのブログからもリンクしているkmizusawa さんという方のサイトで、「女性のうつ」は抵抗か?という記事を見つけました。ここでは批判されていますが、私は基本的にはこの考え方(抵抗だという見方)に賛成です。「抵抗」というのは何も主体的で積極的なものでなくてもいいわけで、本人が主観的には悩んでいる症状であっても抵抗でありうるし、フロイトの「ヒステリー」も抵抗だし、とそんなことを考えました。
  元記事、面白いのですが、コメントがたくさんついていて前後に続きもあり、まだ全部は読んでいません。食事に行くときプリントアウトして持って行き、読もうと思っています。
(ここまで書いて食事行ってきましたが……ごはんが来る前に読み終えちゃってちょっと拍子抜け。こちらのブログはごく若い人ので、本文はまだまだ学生っぽいことしか書いてないかな……でも、ちゃんと考えているし、批判に対してはきちんと答えていると思いました。)

 kmizusawa さんとこのコメント欄にあるような、精神疾患は生物学的原因によるのに勝手に意味づけしようとしているという批判は、セックスでしかないものになぜ政治的なジェンダーを持ち込むんだというのと同じ形式ですね。私は、こうした批判は敵を間違えていると――それが真にあてはまるのは、女性性を素直に受け入れずに「抵抗」(これは意識的なものといってもいいかも)するから病気になるのだという言説だと思います。たとえ原因としてはケミカルな変化が観察されるとしても、症状としてあらわれてくるものは個別的なわけです。私の亡き友人はかつてある女子大に入り、良妻賢母主義がいまだに残っているのが嫌だと言って退学、三十近くなって別の大学を受けて入り直し、その後、精神疾患を発症しました。彼女から、精神科の医者に「学校をやめた時点でおかしかったんじゃないの?」と言われたと聞いたとき、私は、それはひどいんじゃない? と言ったものです。

 女性性の規範に従わないから心身の病気になる(という意味でその医者が言ったのかどうかは不明ですが)というイデオロギーが、いまだに死にきらずに起き上がってくるというのは、「オニババ化する女たち」の例一つを見ても明らかです。乳癌になった私の叔母は、三十年前に似たようなことを医者から言われました。女というものはちゃんと適齢期に結婚して、出産、授乳すべき身体をもっているので、自然に逆らうとそうなるというようなことを(二十九で結婚して二人の子供を産んでも当時はそういわれたんです)。叔母はその若い晩年に、自分が元気だったらウーマン・リブをやっていたと思う――意識的抵抗の人だったわけで、それだけにその敗北した姿は痛ましかった――と言っていましたが、医者の言うことはあきらめとともに受け入れていたようです(当時十代だった私ははげしく否定)。現に病気になって弱くなっていましたからね)。

 その関係で、「女性性の受容」という例の言葉[註:以下で話題になる集まりの中で使われていた]が気になり、そのままグーグルに入れたらけっこうヒット。その中に、Xさんが参加したという集まりのアナウンスメントもありました。あれには、レズビアンはヘテロセクシュアルの女性に較べて、自分自身の女性性をポジティヴに受容できないと思う、とありましたね。私など、ここでまずこの人の思考の厳密さに疑いをもってしまいます。「セクシュアル・マイノリティ」(というカテゴリー自体、私は自分からは使いませんが)の女性が対象の場所ならばスルーしてしまうかのかもしれませんが(それもまた問題だけど)。ヘテロセクシュアルの女性がこれを読んだら、自分だってべつに受け入れているわけじゃない、と思うのでは? 

 そんなことを考えていたところに、Xさんが、「自分は異性愛者だけどクイアだ」と主張する研究者(のタマゴですか?)の女性に声をかけられたと書いてこられたので、面白いと思ったのです。実際にそう言って寄ってくる人のうざったさというのもよくわかりますが、先の集まりの担当者の、「女性」であり「レズビアン」であるという自己規定の強さ(どちらのカテゴリーの自明さにも疑いを持たないこと)にはそれ以上の違和感を感じます。

「小児性愛者」が「同性愛者」と並列されていたという話ですが……それはぜひ、問題にしてくださいね☆。「オカマ」というのも、いろいろな意味で問題ぶくみの言葉ですが、使うなというよりあえて使ってみるのもいいかもしれません。美川憲一をTVで見て、まだ小さかった私の姪が「オカマだ」だと呟いたほどに、また、その母親が、一般に女に属するとされるものを甥が無邪気にねだったとき、「オカマになっちゃうよ」と応じたほどに、「ネットおかま」という言葉が平気で新聞に載るほどに、現代の日本で人口に膾炙した(甥のような子供から、その母親のような外国人にいたるまで)言葉なわけですし。
(異性愛者だけど私もクイアという人に「私もオカマ」と言いかえてもらって、意味の広がりを試すのも面白いかも、と思ったり。)

 ところで、同性愛に「原因」(フィジカルな)が欲しくてたまらない人たちが、科学的事実以前にあまた存在していることは重々承知していますが、またこんな記事がありました。http://www.usfl.com/Daily/News/06/07/0717_018.asp?id=49542

「男子が産まれるたびに、[同じ母親から生まれる]次の男子が同性愛者の確率は33%上昇する」というんですが、その中にこういう記述が。

> 2003年にピュー・リサーチ・センターが行った調査によると、米国人の42%が同性愛の理由を生活習慣上の選択と回答したほか、30%は生まれつき、14%は親のしつけとそれぞれ理由を挙げた。
>
> 同性愛問題の専門家であるジャック・ドレスチャー医師は、性的志向を生物学的要因と結びつける人は、そうでない人に比べて同性愛者の権利を支持する傾向が高いと指摘。「生物学的要因かどうかの問題はそうした文化的衝突の中で大きな役割を演じ、市民の権利や結婚に対する考え方も付随する」と説明した。


 同性愛には生物学的要因があると考える人ほど、同性愛者に対して寛容であるという、いつものやつですね。
 最後の、抗体がどうこうという文章、意味不明ですが。

 それから、いちいち指摘するまでもないことながら、「原因探し」がなされるのはつねに「男性」についてです。
 これに対応するような、女の場合についての後天的説明といえば……男にmolestされた結果、レズビアンに「走る」というやつでしょうかね。女は「普通」(!)に育てば「普通」に女になるはずなのに、そうでないのはよっぽどのことがあったのだろうと考える。外部から正常性を阻害された結果としての「逸脱」。それで思い出すのが、mixiのフェミニズムコミュの反ポルノスレッドです。あそこでも、ポルノに出演する女や「売春婦」は、トラウマ的経験をしたためにそうなったのだろうといったことがやすやすと一般化されていました。

☆小児性愛と同性愛を「一緒にする」というのは、並列ということもあるけど、同一視もされますよね。ずっと前のレズビアン&ゲイ映画祭でこんな作品がありました。息子がゲイと知った母親が涙ながらに、それじゃあ結婚はできないのね、でも養子をもらうのはだめよ、同性愛者は子供をmolestするから、と言うんです。そのお母さん自体カリカチュアライズされてるんですけど、あ、そうか、向うでは一般にそういう認識ってあるんだ、とあらためて思いました。
 その映画、台詞はフランス語(だったかな)英字幕つきで、私は字幕でそう読んだんですが、日本語字幕のほうは、翻訳者がわからなかったと見えて、「子供に影響があるから」と、インパクトゼロになっていました。
「生物学的要因」を男の同性愛者自身が支持する(特にアメリカで)のには、子供を誘惑して同性愛に引き込むいうイメージを払拭したいというのもあるんでしょうね。

 あきれた話をもう一つ。
 東北大の女の生物学者が上野千鶴子を読んで仰天し、ジェンダーがセックスに影響を与えるわけがないと書いていたという話は、去年の暮れから正月にかけてブログで名前は出さずに取り上げた(こことかこことか)あったんですが(『大航海』できまま[「きままな読書会」]やったときに お話ししたかも)、つい先日、日本学術会議の、生物学とジェンダー学の対話とかいうシンポジウムがあったでしょう? あのとき、こわいもの知らずにも上野さんに直接質問反論 したんだそうですよ。自分のブログ(「大隈典子の仙台通信」)にそう書いてました。

 さらにその先に、結局対話は成立しなかったようだとして、こんな記述が――。

>「 「生物学的な性」の起源は、「有性生殖」という戦略が取られたときに遡る。
今手元にある資料では調べきれなかったが、地球の誕生が46億年前、最初の生命体誕生が40-35億年前、それから、真核細胞の出現が25-20億年前、多細胞の出現は15-10億年前で、有性生殖はだいたい同じ頃であったかと思う。(……)「言語」の起源をどこまで遡れるのかは私は不案内なので言及しないが、どうあっても、地球の歴史を1年とした場合に、大晦日の除夜の鐘が聞こえる頃であることには違いない。
>・・・これが、生物学者が考える「性の歴史」であり、それは、どんな言葉を使おうが使うまいが、リアルなものとして地球上に存在していたのだ、という風に考える。
そして、そこには何ら、政治的な意図などは介入しない。


 どうしてここまで頭悪いんでしょうね。(最後の一行、読む者を思わずほほえませます。)
 べつにこういう人とあえて対話を成立させる必要もなさそうですが、問題はこういう人が仙台では男女共同サンカクナントカの役をやっていることかも。
 東北大学の女性研究者支援事業で、高校の女子生徒を対象にロールモデルとして派遣される女の院生に、なんて名前つけたと思います?サイエンスエンジェルなんです。違和感を感じるとコメントを寄せた女の研究者に、だけどたくさんの応募がありましたよ、なんて答えてる!
 さらに、その女性研究者から、

 >「物事の捉え方は、人によって異なるものだと実感しましたが、ほんの少しでも、「いやだ~」と思う女性の気持ちがわかりませんか?
あるいは、わかりたいと思いませんか?


と言われても……わからないらしい(どうもこの人、そういう気持ちがわからないという以前に、こうした文章にこめられた皮肉とか逆説とかが読めないようなフシが……)。
 こうなるとまともな議論をしにあえて訪れようとする人もいなくなり、コメント寄せるのは、反フェミ的な考え方を吹き込んでてめえの陣営に取り込みたい人間か、立場上彼女におもねるしかない学生かになってしまうのではないかしらん。

《凡庸な紋切型》の言説を採集するフィールドとしては貴重かもしれませんよ。
と思いきり(でもないか)悪口言ったところで終りにします。
(ブログではそうそう悪口も書けないんでこちらで。)

 そうそう、フェミコミュの反ポルノスレッドについても私はそういう意味で貴重だと思っています。酔ったMさんに、ああいうのに私がいちいち反論しなくちゃいけないんですか? と言われちゃいました。本人覚えてないかもしれませんが。

鈴木 薫

2006年7月27日



■追記

 同性愛の原因(?)についての記事に関しては、Xさんから別のソースを教えてもらった。結論部はこうなっている。
http://gayjapannews.com/news2006/news278.htm

> 「ひとつの可能性として、母体の免疫システムが男性胎児に影響を与えているのかもしれないとボガート氏は推察している。「母体の免疫システムは男性胎児を異質なものとして捉え、反応するかもしれない。女性胎児の場合、母体もまた女性であることから反応しないのではないか。」これは Rh- の血液型の母親が Rh+ の胎児を妊娠したときに起こる免疫システムの反応に似ていると考えられる。治療をしなかった場合、その母親は将来の妊娠において胎児を攻撃する可能性のある抗体をつくりだすことがある。

>「なにが起こっているかはまだ不明だが、その仮説はかなり刺激的だ。」とブリードラブ氏とミシガン州立大学の同僚による論評は述べている。


 免疫システムと性的指向に関係があるということが先に証明されているならともかく、これだけではあまりにもこじつけめいている。男の子を続けて産むことで子宮が同性愛者(男)を産み出すいわば悪い子宮に変質するというこのストーリー(ホラー?)から私が連想したのは、夢野久作の小説にあるような、前の夫の影響が女の体(端的に言えば子宮)には残るので、再婚して妊娠しても純血な子は得られず、前の男の特徴が混じってしまうといった擬似[トンデモ]科学的説明だ。
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by kaoruSZ | 2006-08-01 18:45 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(5)