おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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 小説家の手腕というものに舌を巻いた「初めての」経験とは言わないまでも細かい活字のびっしり並んだ“大人の本”に引きずり込まれてそういう経験を最初にしたのは、エドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」を読んだときではなかったか。
 急にそんなことを思ったのは、桐野夏生の短篇「デッドガール」☆で、読み手を巧みにミスリードする小説家の妙技を味わわせてもらったからだ。

「ウィリアム・ウィルソン」は十歳前後の夏休みに祖母の家で叔父の本棚にあったのを見つけた薄っぺらな文庫本で読んだ。それがポーを知った最初だったのではない。小学校の図書室ですでに、「盗まれた手紙」と「黄金虫」と「黒猫」と「モルグ街の殺人」と「落し穴と振子」くらいは読んでいたのではないかと思う。そして、「黄金虫」の樹上に打ちつけられた髑髏や、モルグ街で煙突に逆さに突っ込まれているのを発見された老婆の死体の髪をむしり取られた頭☆や、焼け落ちた家の壁に浮び上がってくる吊るされた黒猫の影や、二代目の黒猫の胸にあらわれる白い模様(何に見えるか覚えていますか?)や、「落し穴と振子」で迫ってくる熱せられた壁に浮き出る模様が怖かった(「盗まれた手紙」はこわくなかった)。要するに、ポーは視覚的にものすごくこわいと私は思っていたようなのだ。

 一人称という言葉などまだ知らなかったのは確実だが、その薄い短篇集には「黒猫」と「ウィリアム・ウィルソン」と「天邪鬼」[あまのじゃくと読めずに「てんじゃき」と読んだ]「裏切る心臓」くらいが収められていて、そのすべての物語に「私」と名乗り出る語り手がいた。そして恐怖が、私たちが彼らの見ているものしか見られないことそのものから来ることを私は知った。視覚ばかりではない。「裏切る心臓」では、床下で死者の心臓が打つ音を私たちは語り手のせいで聞かされる羽目になる。しかも、それが語り手にしか聞えない音であることをも同時に私たちは知っている。このあたりの消息を、子供向けにリライトされた話とは全然別の、挿絵一枚もない、ただ文章だけで怖い一冊にめぐり会うことで私は知ることになったのだ。

「ウィリアム・ウィルソン」でいくら感嘆してもし足りなかったのは、もう一人のウィルソンを剣でさんざん突き刺した語り手が邪魔が入らないようドアに鍵をかけに行き、そして戻ってきて、部屋の奥のそれまでは何もなかったところに姿見を見出すくだりである。自分の映像が近づいてくるのを語り手は見る。相手が語り手の影でしかないというしるしであり、同時に、傷ついているのは語り手自身だというしるし――何しろ、相手は影にすぎないのだから。しかし、そのことをすぐに語り手は否定する。それはあのもう一人のウィルソンで、それが瀕死の姿で近づいてきて、最後の言葉を語りきかせるが、それがまるで自分の口から出ているようだったと彼は言うのだ。自分の良心がもう一人の自分の形を取ってあらわれ、その分身と戦って敗れるなどというのは思えば退屈極まりない話である。凄いのは文章なのだ。この徹底的に主観的な語りは、それが鏡であることも、聞こえているのが自分の声であることも否定しつづける。

カズミは、突然闖入してきた見ず知らずの女に、自分が正直に喋っていることに驚いている。女は、アスファルト道路に映る黒い影法師みたいに、カズミの忘れていたい部分をくっきりと現す存在のようだった。(p.20)

 桐野夏生の「デッドガール」がポーの衣鉢を継いでいるのは、たとえば上の引用部分からも明らかだろう。「どうしてわかるの?」/「そらわかるわよ。あんたとあたしは同じなんだもの」/「どうして同じだってわかるのよ」(p.24) という問答、<どう見たって娼婦にしか見えない、この女と自分が同じだなんて。カズミは不安になった。>(p.26)という記述を経て、p.34の<それは自分だ、とカズミは思った。>という認識に彼女は至るのだが、その物語自体は意匠としては別に目新しくも凄くもない。

 では、どこが凄いのか? 闖入してきた女の正体に気づくことから読者を絶えず外らさせているカズミの意識、それを可能にしている言葉の稀薄な力が凄いのだ。著者あとがきには、この話が構想されるきっかけになった実話が明かされている。そのページに先に目を落していたにもかかわらず、女とカズミの対話がはじまったとき、私は彼女の正体に気づかなかったが、これはある偶然による。というのは、前の晩、私はTVをつけていて、若いお笑い芸人たちが、自分の部屋で女二人が鉢合わせしてしまったときどう対処するかというシチュエーションを演じるのを見るともなく見ていたので、それに似た現実的な状況であるかのような錯覚が起こり、幸いにもあとがきの情報が意識下に入ってしまった(それに生来のボンヤリも加わって)。一般に現実から夢や幻想に移るところは作家の腕の見せどころである。女はどこから入ってきたのか?

「開いてたのよ」
ぼそっと低い声で答え、ドアを指さす。(……)/合鍵でも使ったのかとカズミは怖くなった。(p.16)


(怖くなる理由が間違ってるが……。)
 女を見出す直前、まるで立ち眩みを感じたときのように部屋が急に薄暗くなった気がしたとあることの異常さも、これで帳消しにされてしまう

 いつ男がシャワーを終えて戻ってくるかもしれないとカズミとともに心配しながら読者は二人の会話を読みすすむのだが、その心配も次の記述を見出すことで終る。

(……)女の吸う煙草はちっとも燃え進んでいなかった。バスルームからはシャワーの音が相変わらず激しく聞こえて来る。カズミは時間の感覚が少しおかしくなっているのかと不安に思った。(p.23) [つづく]

☆データは読書ノート Tous les Livreにある。
☆☆私はこれを、カツラのように白髪がまとめてむしり取られた毛の一本もないつるつるの頭と長いこと思っていて、それでも十分恐しかったが、実際には血まみれの頭といったものが想定されていたのだろうか? 十代の終り頃『マルドロールの歌』に出会ったとき、私はこの恐しい頭に再会したと思った。もう怖くはなかったし、その持ち主自体、不運な老婆から美少年へと驚くべき変身を遂げていたのだけれど。マルドロールは例の「解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の不意の出会いのように」美しい少年の髪をつかんで振り回す(輪投げとか砲丸投げのように)ので、ついに髪の毛はそっくり抜けて少年の身体は虚空にすっ飛んでゆき、マルドロールの手には髪の毛だけが残るのだが、その髪のなくなった頭が亀のようにつるつるだと形容されているのだ! ロートレアモンは「モルグ街の殺人」の読書の記憶から直接あのつるつるの頭を書きうつしたのだと私は信じている。
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by kaoruSZ | 2006-09-23 07:46 | 日々 | Comments(0)

八日の燕子花

 木曜日(七日)、Mさんを誘い、かねて行ってみたいと思っていた根岸の子規庵に加え、三の丸尚蔵館での若冲第五期(最終)展へ。
 子規庵、予想されたことだが、座敷の向うにひらけた小さな庭が亡き祖母の家を思わせずにはいない(備えつけのノートにも同じような感想が記されている)。芙蓉が花ざかりなのも見馴れた風景(あれには葉をバリバリ食ってしまう太い芋虫がつく)。座敷で子規と不折の句画展。子規終焉の間の文机で記名する。Mさん、自分では記さず、あとで、人を知るとはかつてはその人の字を知ることだったのに、私の字をはじめて見たという。確かに。ぼろぼろの濡れ縁のあるガラス戸の向うには、まるでディスプレイのように、立派な糸瓜がいくつも下がる。忌日が近いわけだ。

 広縁から庭に降りて一巡 し、裏門から出る仕組み。豊川には祖母が自分で掘ってセメントを塗ったという小さな金魚池があったので、このあたりに……と思わず草の中をのぞく。出る前に売店に寄ると、半分に切った蜜柑をつつく愛らしいメジロの写真が目に入る。餌台のふちにただとまっているところと、頭を下げて蜜柑をついばんでいるところと二種。目白のポーズが違う、よくこういうところを撮ったね、とMさんに話していると、店番をしていた近所の主婦という感じの人が「頑張って撮りました」とほほえむ。庭の草花の写真に白字で句を抜いたハガキを手作りしているらしい。あまりの可愛さに二枚とも買う。メジロの句はないらしい(なくてもいい――ない方が引き立ちそう――だけれど)。

 祖母の家には糸瓜も瓢箪も生った。百坪借り、奥は畑にしていた。末っ子が学齢に達して母子寮を出なければならなくなったとき、私の母が交渉して借りる話を決めてきたという土地で、母子六人の住む家をその上に建てた。子規庵の庭に降りて家を眺めると、瓦屋根の形までそっくりに見え、うちのアルバムにもある、左手に洋室を建て増ししたとき(母の結婚後で、もう弟妹も成長している)の写真とイメージが重なる。要するに二間続きの和室の南に縁側を出すという、かつては(少なくとも本州の太平洋岸では)ごく普通の造りだったわけだ。祖母の家の縁側は子供の頃大好きな場所だった。祖母の晩年、たびたび訪ねていた当時、あの縁側ははたちで死んだ章一郎君(母の弟)の退職金で「出した」のだと祖母から聞いた。そういえば、できたばかりの家は寒くて、枕元の花瓶の水が凍ったと母が言ったことがある。就職が決まったものの一日も出勤しきないまま結核で亡くなった長男のことを、祖母はいつも君づけで略さず呼んでいた。

 若冲展のあと、竹橋方面へ公園内を横切る。池の縁に紅、桃、白と幾本も並ぶサルスベリが美しい。八橋が作ってあるが、Mさん、東下りの八橋を知らないというので説明しようとし、しょうぶじゃなくて、あやめ? とかきつばたが出てこなかった私、ボケ過ぎ。寝不足だったせいにしておこう。Mさん、用事があるので、早い時間に別れる。焼き立てのギョウザとお刺身用のサーモンとタタキ用アジ一匹等買って帰宅するが、TVをつけてお茶を飲みながらギョウザを食べているとご飯を炊くのが面倒になり、サーモンを切ってこれも食べてしまい、ゴロゴロするうち寝入る(眠らないようお茶にしといたのだが)。朝の四時頃目をさまし、丸ごとなので食べられなかったアジを冷蔵庫にしまう。結局、アジは朝食の塩焼きに。よく寝たせい(?)で、今ならかきつばたの折り句も、それどころか伊勢の地の文まで口ずさめるんだが……。
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by kaoruSZ | 2006-09-08 11:29 | 日々 | Comments(0)
 安倍晋三の自民党総裁選出馬正式発表直前の朝、眠い頭でNHKTVのニュースを聞いていたら、奴の主張する政治方針というのをアナウンサーが並べていて、まず「美しい日本」を作るとかなんとか……頬のこけた面長のブルドッグみたような写真が表紙の、似たような名前の本(1)が出たことは知っていたが、これで「美しい」という日本語が取りもどしようもなく汚染されちまったぞ、美しいとは「美しい」とうちつけに言わずに他の言葉で置きかえて表現する方が洗練されていると思われがちな種類の言葉ではあるが、だからこそあえて「美しい」が決まったときの効果も大きいわけで、むろんここでは限りなく決まっていないし、美辞麗句と言うがそのものズバリの「美しい」を持ってきたのはたんに語彙がとぼしいのか、あるいは「美しい日本の私」という畸形的な措辞(2)でも聞きかじったのが頭のどこかにあってのことか、脊髄反射で感動する小泉ともまた違って言葉のセンスが悪いという以前に気味悪いぞと思っていたら、きわめつけは、「すべての国民に規範意識を身につける機会を保障する」だった。こいつ、Big Brotherだ。パターナリズムにもほどがある。共同体に規範を強制され、それを批判する判断力を養う機会を奪われた従順な人間を作るという意味のことを、よくここまで恥知らずにも恩着せがましく表現できるな。

  全体論的社会観の持ち主が好むのは、規律訓練型の教育であろうし、いかなる問題であれ、個々人に責任を負わせることができる心理主義であろう。/しかしながら、教育とは、既存の社会秩序を維持するために個人を訓練することであってはならない。(……)[人が共同体から距離を置いたと言えるのは]その人が、親や家族とは別の行為を選択できるようになったとき、あれかこれかと異なった社会の規範やあり方を比較し、そのどれかを自分で選ぶことができるようになったときであろう。人間を自由にするのは、知識あるいは情報である。

         河野哲也『〈心〉はからだの外にある』(NHKブックス)

           (強調は引用者による)
                                      
 1984年が未来だった時代が終わってから(なんと)もう二十年以上も経ってしまったが、今になってジョージ・オーウェルをアクチュアルだと言って賞賛しなければならないとは。彼の小説『1984年』では、「ビッグ・ブラザー」の支配する全体主義国家のスローガンは次の三つだった。

War is Peace
Freedom is Slavery
Igorance is Strength

 作中、これをダブルスピークという。(そうそう、アナウンサーは「改革の炎を燃やしつづける」とも読み上げていた。磨り減った比喩の醜悪さはもちろんだが、かつては輝かしかった「改革」がとうに彼らの語彙として囲い込まれてしまったことをもあらためて思う。)安倍の「美しい」がナンセンスかつ不気味に感じられるのはこのせいだったか。


(1)正確には『美しい国へ』
(2)むろん、規範をはずれることはつねに好ましいとさえいいうることだし、川端のゆがんだ畸形性はむしろ推奨されるべきだが、その歪みをひたすら耳ざわりのいい――この形容も歪んだところのないたんなる誤用だ――スローガンへと矯めてゆくやり口は糾弾されなければなるまい。
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by kaoruSZ | 2006-09-03 21:28 | 日々 | Comments(0)