おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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溝口特集その後

 今日、フィルムセンターに溝口の特集カタログがあるのにはじめて気づいて購入。22日に見た『噂の女』(1954年)についての解説を早速読む。

 京都は島原、御茶屋と置屋とを兼ねた「井筒屋」が真昼の陽光を浴びている。俯瞰で捉えた表の往来に白塗りのハイヤーが停まり、映画は始まる。女将(田中絹代)とその娘(久我美子)が自動車から姿を現わしてから、冒頭の二十余分を費やして描出される「井筒屋」での濃密な一日に、溝口演出の膂力が遺憾なく発揮される。( 「はじめての溝口健二」46ページ)

 ここにあるとおり、映画は観客を一気に舞台となる世界に連れ込み、手際よく状況を呑み込ませてゆく。遊郭の内部も抱えの花魁も江戸時代そのままかと思われる様相を呈しており(知識なしに見に行ったので、場所も時代設定も最初はわからなかった。ずっとあとになって進藤英太郎の口にする「アプレ」の一言でも、また、久我美子の口から出る「イージー」という言葉――たぶん当時は最先端の流行語、というよりも、ごく普通に使われていたのだろう。今となってはめちゃめちゃ違和感――からも、また、娘をやっているのが女学校でなく大学であるところからも戦後であることは了解され、また、その経済力もうかがえるが)、東京で大学に通い、自殺未遂を起して戻ってきた久我美子は、あたかも観客の代表のように部外者・傍観者として(ひとりだけ場違いななりで)その中を茫然と歩き回り、身体の不調を押して座敷に出ようとした太夫の胃痙攣の凄惨な発作(そこに医者が呼ばれることで、田中絹代の愛人である若い医者も巧みに登場させられる)になすすべもなく立ち合い、また、女が酔客に口うつしで水を飲ませる情景を見てしまう。

 こうして嫌悪の念とともに(あまっさえ、家業のせいで恋人と結婚できなかったのが原因で、彼女は自殺を図っている)、庭を横切り離れの自分の部屋に引っ込んだ久我美子だが、翌朝には、胃痙攣を起した太夫の面倒を親切にみて、女たちに見直される。母の(金めあての)恋人とは知らずに若い医者(知った顔だと思ってあとで見たら、成瀬の『お国と五平』の五平だった。そういえば、金井美恵子の成瀬についての文章にそう書いてあったっけ)と相思相愛になる久我美子だが、あまりにもダメ男なので母との和解も(比較的)たやすく、最後には具合の悪くなった母に代って、オードリー・ファッションのまま、若おかみと呼ばれててきぱき店を取り仕切る。俯瞰ではじまり俯瞰で終るフィルムの構造のことも解説で触れられているが、映画は登場人物たちに感情移入させたあげく、ここに至ってこの閉じられた世界全体を冷たく突き放すのだ。

 音楽が特徴的(効果的)でかなり気になったのだが、解説によれば「電子音と低いストリングスとの混淆で奏でられる黛敏郎の不吉なスコア」だそうだ。解説になかったことを一つ記しておこう。医者に買ってやるつもりの物件を二人して見に行った帰り、木蔭に腰を下ろすときの、「あの家で奥さんと呼ばれること」を夢見る(口にも出す)俯瞰で撮られた無防備な田中絹代を照らす木漏れ日――しかもそれが木下の水に映えている――の美しさである。
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by kaoruSZ | 2006-12-24 19:50 | 日々 | Comments(0)
 姦通した人妻と手代という誤解を受けて彼らが最初に〈死〉を選ぼうとしたとき、それはなおも規範に忠実な社会的行為であった。しかし、舟の上での出来事を境に、彼らは生きることを望み、そしてpassionの絶対的な受動性のうちにすべり落ちてゆくだろう。木々に覆われた斜面の下降と、そのあとの地面の上を転げ回る二人の姿がそれを物語る。

『大経師昔暦』は、もういつだったかも忘れるほど昔、渋谷ジァン・ジァンで「語り」を聞いたことがあったが、今回、浄瑠璃と映画がどう違っていたのか知りたくて(実際には川口松太郎による劇化が間に入っており、このときに恋愛ものに変換されたのだろうと想像するが)、近所の図書館になかったので取り寄せてもらって読んだ。映画ではおさんの実家は、後家である浪花千栄子の母と、妹に無心して悲劇の原因を作る道楽者の兄(どちらもはまり役)から成るのだが、原作では、借金を申し込んでくるのはおさんの両親だ。そして、恋物語では全くない代りに、父母の情がこまやかに語られる。可愛がって撫でて育てた身体を槍で突かれるのか(不義密通は磔になるので)という、生なましくも具体的な嘆きが印象的だ。

 映画でも、浪花千栄子は娘の身の無事を願いはするが、なにせ娘がとらわれてしまったような官能には無縁の、子を産んだことがあるだけの女だから、連れ戻されたおさんと追ってきた茂兵衛を前に、こうして一目会ったからには気がすんだろうなどということを平気で言う。そうしている間にも、母の前でありながら香川京子は傍の長谷川一夫を見つめつづけ、今にも撫でさすり、からみつかんばかりでいるのに。

〈社会化〉された人々には、財産や家名が何よりも優先する。おさんの夫・以春は金でスキャンダルをもみ消そうとし(町人でありながら名字帯刀を許された大経師の家は、罪科においても武家同様に罰せられ、妻の不義と夫がそれを訴え出なかったことが露見すれば、監督不行き届きで家は取り潰しになるとされ、実際そうなる)、彼から金を借りている公家たちは、この件で便宜をはかる代りに借金を帳消しにできる機会を得て上機嫌で以春のもてなしを受けるし、以春が失脚して大経師の株が宙に浮けばそれを利用できると考え、うまく立ち回ろうとする者たちもいる。こうした打算や、見栄や、外聞や、世間体を超えた、命を賭けるほどの価値をおさん茂兵衛が恋に見出しているというのは正しくあるまい。そうした比較が何の意味も持たない世界に二人は入り込んでいるので、何も知らなかったときは義理のために平気で年寄りの後妻になったおさんも、今では何事もなかったかのように夫のもとへ戻るなどということはできるわけもない。逃げようとする娘の名を呼ぶ浪花千栄子の声は、ついに捕り手と同じ側に立って彼女を狩り立てることになる。(これが要するに、親としての責任を果たすということなのだ。)

 茂兵衛の極貧の父だけがまともな人間に見える。前述のように、彼は社会的な圧迫に負けて、恋人たちが潜む小屋を追っ手に教え、二人は引き離されておさんは駕籠に押し込められ、茂兵衛は同じ小屋に監禁されるのだが、父親はその縄を切って茂兵衛を逃がす。その足で彼はおさんが預けられた実家へ行き、そしておさんの母が捕り手に居場所を告げる声に追い立てられて、ついに再び捕らわれるのだ。

 二人が背中合わせに馬に乗せられ、晒しものとなって刑場へ引かれてゆくとき、観客の目を惹きつけるのは、なおも握り合った二人の手であろう。二人が、とりわけおさんが、今までに見たこともないほど晴れやかな顔をしていることが見物人の台詞で語られる。それを聞いて観客が目を向けるとき、彼女はもう後ろ姿になっていて、背中合わせに縛られた茂兵衛の顔しかもはや私たちには見られない。そろって晴れやかな顔と言われているのに、その表情は(面白いことに)心なしか曇っているようだ。茂兵衛の在所の隠れ家で、こんなところでもいいから一緒に暮らしたい、と思わずおさんが言ったとき、茂兵衛の方は、早くここから出て出世がしたいと思ったという子供時代の思い出を口にしていた。ジェンダーによる社会化の違い――茂兵衛には男としての出世という道があったことへの未練が、最後に長谷川一夫の表情をかすかにかげらせていると見るべきだろうか?
  
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by kaoruSZ | 2006-12-14 12:04 | 日々 | Comments(0)
 新聞を熟読しているわけでもTVのニュースを注視しているわけでもない(おまけに、ヤンキー先生とやらがものを言っているのが映ると反射的にチャンネルを変えてしまっていた)ので、どうやら二週間くらい前に出たらしい「緊急に」「提言」された「以下のこと」を昨日ウェブで見かけるまで知らずにいた。

 ①学校は、子どもに対し、いじめは反社会的な行為として絶対許されないことであり、かつ、いじめを見て見ぬふりをする者も加害者であることを徹底して指導する。
  (中略)
 ⑦いじめを生まない素地を作り、いじめの解決を図るには、家庭の責任も重大である。保護者は、子どもにしっかりと向き合わなければならない。日々の生活の中で、ほめる、励ます、叱るなど、親としての責任を果たす。おじいちゃんやおばあちゃん、地域の人たちも子どもたちに声をかけ、子どもの表情や変化を見逃さず、気づいた点を学校に知らせるなどサポートを積極的に行う。


 一見してあきれてしまうのは、「美しい国づくりのために」これを提言するのだと明記されているからばかりではない。「いじめは反社会的な行為」って何だ? それは社会的な行為以外の何ものでもないではないか。そうした子供たちは、集団でいじめをするほどにまで〈社会化〉されているのだ。だいたい大人たちは、普段、差別し、レッテルを貼り、排除していないのか。松本サリン事件の容疑者と警察が断定した無辜の男性に対してマスコミは「いじめ」を行なったし、鳥インフルエンザを出した養鶏場の老夫婦をいじめて首吊り自殺させた。いじめの加害者というレッテル貼りと管理の徹底はいじめそのものの反復となりかねない。その先には、加害者として排除された子供に自殺者が出ることになるだろう。

  いじめを見て見ぬふりをする者も加害者である。
  地域の人たちも(……)気づいた点を学校に知らせるなどサポートを積極的に行う。


 こうした文章の「形式」が、私には溝口健二監督の『近松物語』における「社会」の構造と重なって見える。「不義密通」を「見て見ぬふりをする者も」同罪であるぞと、主人の妻・香川京子と出奔した手代・長谷川一夫の在所へ行ってその父親に役人は迫る。「地域の人たち」も「気づいた点」はお上に「積極的に知らせる」のでなければならない(そうでなければ連帯責任を問われる)。役人たちを土下座して迎えたいかにも貧しげな父親は、自分を抑圧する者(息子の主家)を彼の恩人と呼ぶ役人たちに、「反社会的な行為として絶対許されない」罪を犯した息子を庇い立てすれば村全体に累が及ぶと寄ってたかって脅され(いじめられ)て、這いつくばって許しを乞い、二人を隠した小屋の場所を告げてしまう。

『近松物語』における恋は反社会的行為であるが、その理由は、それが封建時代における恋だからでは必ずしもない。そもそも、原作の浄瑠璃では、おさんと茂兵衛は恋仲でも何でもなく、夫が下女のお玉を口説いていることを知ったおさんがお玉と寝床を替り、お玉のところに忍んできた茂兵衛を闇のなかで夫と思い込み……という、全くの誤解がもとである。だから、『大経師昔暦』を知っている者は、お玉の部屋にいた香川京子と、お玉に礼を言うために訪ねた長谷川一夫が、灯火の下で顔を合わせるのを見て驚くだろう。彼らは姦通の事実がないまま、成り行きで道行きを演じることになる。

 密通したとは全くの濡れ衣ではあるが、「捕まって辱めを受けるよりはいっそ死んでしまおう」と溝口のおさんは言う。この段階での彼女は、社会の中で生きる場所を失った、いわば「いじめ」のために死のうとしている者だ。死を決意して茂兵衛とともに漕ぎ出した舟の上で、彼女は決然と死を選ぼうとする。傾いた実家への経済的援助を期待して父親ほどの年齢の裕福な男に嫁し、義理と世間体に縛られて生きる彼女は、手に負えないパッションをまだ知らない。彼女が死のうとしているのは、理性的な、最後までコントロールの下に置かれた死だ。死後の裾の乱れを防ぐため、茂兵衛は舟の上に立ったおさんの脚を着物の上から紐で縛る。しかしその直後、今なら口にしても罰は当たるまいと、縛ったおさんの脚を抱きしめ、秘めた思いを打ち明ける。

 この不自由な姿勢が語るとおり彼女は“自立”した女の反対物であり、同時に、男を押し倒す女である。というのは、茂兵衛の告白を聞いたために「私は生きたくなりました」と宣言して、ともに入水しようとする茂兵衛を押しとどめ、脚を縛られたままの恰好で、受身の茂兵衛を舟底へ押し倒すのは彼女の方であり、こののち、慣れぬ旅路で足を痛めたおさんを峠の茶屋で休ませて、ここで別れて自分だけが罪を引き受けようと、長谷川一夫が麓へ向かって波のように連なる木々にまぎれて離れて行ったとき、悲痛な声でその名を呼びつつ木々のあいだを歩けぬ足で追ってゆき、ついに彼に抱きとめられて再び彼を押し倒し、あたりもはばからず地面の上を転がるのであるから。おさんを演じる香川京子が素晴しい。そして押し倒される長谷川一夫の方はといえば、おさんの夫、進藤英太郎や、茂兵衛を陥れる番頭、小沢栄(太郎)と同じ男という生きものとは思えない艶めかしさだ。
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by kaoruSZ | 2006-12-13 00:06 | 日々 | Comments(0)