おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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 長谷川等白の松林図屏風の公開が28日までだったので、26日に国立博物館へ行く。中国名品展が特別展としてあるが、今回は見送ることにして常設展の券を買う(時間と体力の問題)。これでマオリの展覧会も見られた。「博物館に初もうで」企画等が意外に面白く、予想外に長居する。実際に見るまでは富士と鷹と茄子にちなんだ展示とか、へえと思うだけで全然興味をひかれなかったのだが、来年は1月2日に「博物館に初もうで」しようと思うくらい。その方がお正月気分一杯でより楽しそう。掌に握りたくなるような茄子の水滴がかわいい。猪が表現された作の展示も、同じく意外に面白かった。萩の中で眠るなんて風流な猪がいるとは知らなかった(英語タイトル見て、萩はbush cloverなのかとこれもはじめて知る)。しかしなんといっても気に入ったのは縄文時代の小さな焼物のイノシシで、これは考古学展示室にいた。

 松林屏風は、混んでいなくてゆっくり見られた。(印象派!)というのが第一印象。といっても、モネの場合は塗り重ねてああなるのだけれど、等白は驚くべき手抜きだ。写真では良さが出ないから見過ごしていた(つまり、カメラは目がよすぎるから)。モネは近づくと絵具しか見えなくなるが、等白はいい加減な線が引いてあるのしか見えなくなる。それが、離れると目に――対象でなく対象の幻影で事足りる私たちの目に――ちょうどいい幻影になる。

 What seas what shores what grey rocks and what islands
 What water lapping the bow
 And scent of pine and the woodthrush singing through the fog

というT.S.Eliotの“Marina”を添え書きしたらぴったりじゃないかなと思いながら見ていた。これはシェイクスピアの『ぺリクリーズ』の父娘の再会の部分を使った詩で、今回タイトルにしたフレーズは、死んだと思っていたのが生きて立派に成長していていま目のあたりにしている娘のことをいうのだろうが、脳内で成立するこうした絵(これとか、モネ夫人が立つ土手にあたっている日の光とか)にもふさわしいのではなかろうか。

 一方で、くっきりした細密画である土佐光則『雑画帖 上』にも強くひかれた(これも常設展)。人や動物を描き出した小さな画面の並ぶ青と緑と金のミニアチュール。それから今回、刀の鍔に開眼。大根のシルエットの透かし模様(刀の鍔に)なんてわけのわからないのがあって嬉しい。以前、新聞販売店にもらった券で行ったかんざし展でも、それらしくない題材がいろいろあってその趣向に感心したものだ。鍔以外の付属品にも、小柄の握りの幅の狭いところに正面から見た馬(それも二頭)を入れたりしている。ああいう小宇宙的な洗練の極みは本当に好み(といっても、根付にはあまり魅力を感じないのだが)。
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by kaoruSZ | 2007-01-28 23:12 | 日々 | Comments(0)

クオリア・ノート

 昨夕、フィルムセンターで、これは何度も見ている『鴛鴦歌合戦』(1939年)。楽しいよ~[これは薦めているのではなく(薦めるけど)、思わず出た賛嘆の声。〈よ〉にアクセント]。

 通勤時と昼休みと夕飯食べながらとフィルムセンターの椅子の上と、はねてからケーキ・セットを食べながらとで、茂木健一郎『脳とクオリア』(1997年)おおむね読む。これは(たぶん)はじめて世に問う、自分の考えの道すじを読者に知らせようときっちり書き込まれた本なので面白く読める(数式はとばしたが、148ページのクオリアの本質について問うテストにすべて正解するほどよく理解できた)。それをしない小林秀雄気どりの省略がだめなのだ。最初に出会ったモギ本(これの欠点は文学気取り)とはまた違うが。http://d.hatena.ne.jp/kaoruSZ/20061214が悪過ぎるとはいえ、ここからあそこまで堕ちるとは。
 
 以下、『脳とクオリア』についてのメモ

……私たちの個体としての成長過程を振り返っても、言葉が獲得される以前から、すでに世界は様々な質感に溢れていたように思われる。/私たちは、成長するに従って、次第に複雑な言葉を獲得していく。それにもかかわらず、私たちの感覚の中にあふれている様々な「質感」を過不足なく表現しきる言葉を獲得することはついにないように思える。(p.11)

 そのとおりだ。だからこそ「詩は表現ではない」(入澤康夫)のであり、語に主導権を渡さなければならない(マラルメ)のではないか。私たちは無であり、言葉の方が存在に到達する、とサルトルとブランショの読者である私なら言うだろう。茂木お気に入りの「無常といふこと」(小林秀雄)も、高校の教科書に出てきたとき私はその線で理解した(ブランショはまだ読んでいなかったが。サルトルは読んでいたと思う)。

 たった一つの質感でさえ、一〇〇%的確に表現できるような言葉はない。少しでも自分の感受性に注意を払う人ならば、薔薇の「赤」の感じ、冷たい水が喉を通る時の「ごくっと爽やかな」感じ、洗いたての猫の毛に触れた時の「ふわふわ」した感じは、決して「言葉」では表現しきれないある原始的な感覚を持っていることに同意するだろう。(pp.11-12)  

 この「原始的な」という形容には土曜日の読書会でも疑問が出た(この本でではない)が、これは次のようにも使われていて、こっちを見せていれば、参加者にもよく理解できたろう。

 子供の時に、布団から顔を出して、布団の表面から出ているけばけばの糸を眺めていたことはなかったろうか?/その時、あなたの心は、「糸」や、「白」や、「けばけば」という言葉による表現以前の、ある原始的な感じで満たされていなかったか? それがクオリアである。(p.11)  

 それにしてもこれはわかり過ぎやしないか? 「赤」や「糸」や「白」「ごくっと爽やか」、「ふわふわ」、「けばけば」(この言い方だけはちょっと珍しくてかわいい)といった、表現しえない感覚をあらわそうとするにしてはあまりにも単純で一般的な言葉がここでは持ち出されている。そして、そうした言葉で、なんとそうした感覚は読者にたやすく伝わってしまうのである。

これはどうしたことだろう? 語を通過してリファレンスに至る、これは日常語であり、語の上に十分視線をとどめておかない。だからこそ、入澤康夫的な意味でこれは「表現ではない」のだ。(最近の著作で茂木は表現する者の「切実さ」ということを盛んに言うが、これは当然表現の質になんら寄与するものではない。)

 私の脳の中で起こっているニューロンの発火現象を、物理的に、因果的に記述しようとすれば、私を取り囲んでいるものは、そのような、せいぜい一〇〇種類の原子からできた物質であるということになるだろう。だが、私の感覚しているものは、それとは違う。私は、草の緑と、そのわさわさした模様を感覚する。私は、冷たい、それでいて心の奥をさわやかにする風を感覚する。私は(後略) (p.10)

 茂木が彼の感じたクオリアを描写しようとするとき、それはつねにこうした紋切型になる。ところで、ここで彼が非力ながら懸命に描写しようとしている「クオリア」の豊かさを実感するのに、それが「せいぜい一〇〇種類の原子からできた物質」であることを前提とする必要がどうしてあるのだと表現者なら言うだろう。そして、専門分野における茂木の反対者は、逆に、百種類の原子の「物理的、因果的」記述以上のことをなぜ脳科学が扱うのだと言うのだろう。

「子供の時に、布団から顔を出して」のくだりを読んで私が連想したのは、友人のjjの回想である。彼女は子供の時分、病気になって寝ているとき、目の前の布団の襟にかかったタオルのけば立ちを、草原のようだと思っていたというのだ。このような「見立て」は、一つ一つのものに名前をつける以前の、言語以前(?)の消息を伝えるものとして私の興味をひく。

 鈴木は脳科学の本も読むのかと読書会の参加者に言われたが、私たちがどう世界を認識するかということにはずっと興味を持ってきた。高校一年のときに『宇宙とアインシュタイン』という本を読んで、「認識しうる宇宙」というレポートを地学の教師に提出した。彼は自分の「方法論」を見つけることが大事だと生徒たちに言い、好きなテーマで書かせてくれたのだ。人間の認識による以外の宇宙はありえず、時間も空間もアプリオリに存在するものではないということはそのとき学んだ。だから、茂木のポジションには興味を持つし(今回、読書会では、準備期間の短さによる私の非力からその内実は十分伝えられなかった。読書会の参加者の中で、実は私が著者にもっとも好意的であったろう)、目のつけどころはいいと思うのだが、その先がいかにもまずい。『脳とクオリア』では、言語とクオリアの関係という、私が読みたかったのに他の本では十分扱われていなかった事柄にもページがさかれているが、どうもこれも私の目からはかなりあやしい。しかし、著者の方向性だけはかなり理解できてきた。「視野の中の位置もクオリアである」(p.153)。なるほどね!
 だが、この場合も、xy座標で位置は表現できるのにそれ以上のものがあると言われても、わざわざ単純化してから驚く必要がどこにあるんだと言いたくなってしまう。
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by kaoruSZ | 2007-01-24 05:00 | 日々 | Comments(0)

どこを切っても健一郎

 21日に会った人に、「好きで毎日食べている納豆なのに手に入らなくなっていた」と聞いて、はじめて騒動を知る。思えば先週はまともにご飯を炊いた日がなく、納豆も食べなかった(普段は常備に近い)。TVで、マイクを向けられて、痩せると聞いたから嫌いなのに納豆を食べたのに、と言っている人がいた。豆腐と油揚げと味噌とのコンビネーションあってこその納豆、嫌いなら食べるなよ。

 20日の読書会で二年ぶりに会ったHさんに、スウェーデンの話を聞く。二年間彼の地で実験の日々を送り、帰国して臨床に戻ったHさん、ワイドショーをつけただけでも顕著な日本人のヒステリックさに疲れるという。しかも、おかしな患者(精神科にあらず)も増えているという。しかし彼女にはスウェーデン語をブラッシュアップして向うで医師免許を取る道もある。ストックホルム……ウプサラ……と聞けば『ニルスの不思議な旅』だ。私の思い出すのはアニメーションではなく、いとこのお下がりの世界名作全集だが、あれはスウェーデンの地理と歴史を子供に教えるものでもあったので、私も一緒に国のなりたちを覚えた。Hさんから、男も定時に帰り子供の世話をして(あるいは子供がなくても家事を分け合って)いる男女のカップルたちの話を聞いた翌朝、読売の一面に山崎正和が書いた、今のままの国を愛することとかいう見出しを不愉快極まりない思いで見る。そういう生活を現在ただいま営みうるのだと知らされもしないでいる国民の住む国を、なんで今のままでいいなんて思うんだ。山崎の言いたいことは、軍事国家とかでなくて今のこの日本、ということらしいが。

 モギ本、どれも同じ材料の使いまわしで、批判するのにいちいち面倒だ。『クオリア降臨』も前のどれか(似たようなタイトルだからすぐに挙げられない)の焼き直しだった。どうしてこういう言葉が出てきたのかと首をひねったことが、別の本に略さず書かれていてわかったりする(わかったからってどうってことはないが)。茂木の特権的瞬間である電車のゴトンゴトンとか、ケンブリッジで風景を眺めわたしたときのことについて、幼年時の自意識の発見と思春期における世界の再発見のときに経験してしかるべきことをなんで三十過ぎまで感じないでいられたのか不思議だと読書会でいうと、学部が哲学科だったMさん、哲学科に来てはじめてそういうことを知ったというのがけっこういた、感じない人は感じないのだという。
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by kaoruSZ | 2007-01-23 15:00 | 日々 | Comments(0)

朝も縄をなう

 今日の読書会にとても興味があるが所用で出席できないという文学研究者のFさんからのメールの中に、「宗教じみた文学至上趣味」という言葉を見てほほ笑む。クオリア至上主義者のことではなく、文学プロパーの研究者の一部のことだが。Ken MogiのQualia Journalをはじめて読もうとして、awareがアウェアでないことに気づくまで暫時立ち往生する。Motoori Norinagaの話だったのだ。小林秀雄の蛍の話、自分で英訳している。それにしても、これを読んで死者の魂が蛍になるなんて迷信だと言ったり、平家物語を読んで、水の底に都があるなんて馬鹿げていると言ったりする人って、いったいどこにいるんだろう? クオリア・マニフェストもゆっくり読むためにプリントアウトする。

 宗教的感情と、宗教的体系を区別するべきである。たとえば、キリスト教の教会へ行って、パイプオルガンを聞くと、ある種の感情が芽生える。この感情のクオリアは、原理的にはキリスト教とは無関係なものである。人々のキリスト教のイメージの中に、パイプオルガンの音は非常に強く根付いている。だが、パイプオルガンを聞いた時に心の中に引き起こされるクオリアが、仏教と結びついても良かったはずだ。ここには歴史的偶然が大きく関与している。キリストの生涯といった歴史的装置は、単にキリスト教という宗教の体系性を偽装するために存在しているだけで、さまざまな宗教的感情を、この体系性の中に埋め込まなければならない必然性は本来ない。宗教を構成するさまざまな感情や概念(これらもクオリアに他ならない)を一度諸宗教の体系性の圧政から解放して、一つ一つの起源と、その真実性を検証する必要がある。

 原理的には非常に面白い。しかし、こう考えるなら、小林批判として茂木が嫌う柄谷行人の『交通について』に反対することは何もなかろう。

 人間の脳の中のニューロンのコンフィギュレーションから、人間の心の中で感じることのできるクオリアのカテゴリーには限りがある。人間の心が感じることのできるクオリアは、本来のクオリアの空間の膨大な可能性のごく一部であることが認識される。つまり、人間には、本来無限に存在するクオリアのレパートリーの一部しかアクセス可能ではないのだ。このような認識は、従来形而上学と言われていた分野の実在性についての見直しにつながるだろう。その結果、形而上学が復活するだろう。

 これは、物理的な世界の中で人間の可聴領域や可視領域に限りがあるのと同じことだと思うが。それとも、コウモリはメタフィジカルな音を聴いているのか?
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by kaoruSZ | 2007-01-20 07:25 | 日々 | Comments(0)

泥縄

〈ご予約の資料が用意できています。〉

というメールが図書館から届く。
書名は以下のとおり――

 進化論の挑戦
 脳と仮想
 生きて死ぬ私-脳科学者が見つめた《人間存在》のミステリー
 進化論という考えかた
 意識とはなにか-〈私〉を生成する脳-
 脳と創造性-「この私」というクオリアへ-

 進化論関係は、SMさんから教えてもらった佐倉統のもので別口だが、残りは、「きままな読書会」http://kimamatsum.exblog.jp/で三冊☆とりあげる茂木健一郎の、それ以外の著作だ。

 さらに、

 脳とクオリア-なぜ脳に心が生まれるのか-
  「脳」整理法

が分館から取り寄せ中。(こんなに所蔵しているとは思わなかった。これでもまだ蔵書の全部ではない。)それにしても、メールするだけでこれだけ集められるのだから有難いことだ。モギ本もう買う気はないし、文学については完全に思い違いしている人だとわかったが、ともかく読んだ上で論じよう。

〈1週間以内にご来館のうえ、お受取りください。〉

 明朝引き取って目を通す。一年ぶりの読書会は明日の夜だ。

☆『クオリア降臨』『クオリア入門』『脳内現象』の三冊
  『クオリア降臨』だけでは、これはヒドいで話が終ってしまいそうで、それは望むところでないから。
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by kaoruSZ | 2007-01-19 22:50 | 日々 | Comments(0)

読書会準備中

 ずっと前の記事にコメントをいただいた(http://kaorusz.exblog.jp/2647171/)ため、以前書いた自分の文章を久しぶりに読むことになった。
 以下はそこから横すべりしてのメモ 。

 小学校へ上がる直前、買ってもらった運動靴を日記帳のページに言葉で再現しようとして、靴の内側に印刷された文字や数字をも日記に書きうつした経験をそこで私は引き合いに出している。また、話題になっているブローティガンの詩は、その一部が、電球に印刷された文字を写したものであった。

 こうした文字の増殖を保証するものこそ、正しく複製(技術)と呼ばれるものである。ベンヤミンは例の有名な論文のはじめの方で、絵画はもともと複製されるものだったと書いている。つまり、今でこそ複製といえば寸分違わぬフォトコピーだけれど、それはもちろん手描きで、本物をまねて描くものだ。当然、オリジナルとコピーの別はある。絵画が、発明されて間もない写真に撮られてフレームに入れられたとき、それは藝術かという問題が起こった(現代では考えられないことだが)。あるいは、藝術的な、美しい、あるいは幻想的な対象を撮れば、卑しい写真術も藝術に昇格するのかという問いが生まれた。

 もう一つ、非常に重要なことがある。(たとえば)靴を、言葉で描写するとして、その言葉は靴に全く似ていない。だが、文字を書き写すとき、その文字はもとの文字に似ているのだ(どんなに拙かろうと、また、美しかろうと、意味は伝達されるのだから、コピーのし間違いはありうるものの、伝達されるものは劣化しない)。つまり、オリジナルとコピーの別は文字にはない(そうでなければ、反復されるものが同じであると認識できない)。

 茂木健一郎の次のような発言は、どこが顛倒しているのだろう? この、媒介されないピュアネスへの信頼はどこから来るのだろう?
 彼は、漱石の生原稿より活字のほうが純粋に文学が味わえると、(文字でなく)言葉そのものがもともと「複製技術」だったと言うのだ。(だが、漱石の生原稿とて、一回目がすでにコピーなのだから、それははじめて写された写しに過ぎない。)

例えば「意識」という言葉を、文字で読んでも「意識」だし、声で聞いても「意識」だし、点字で読んでも「意識」です。具体的な感覚のモダリティから一段抽象のレベルがあがったところで、言葉の意味は成立している。文章を読むという純粋体験は、まさにそこに立ち上がります。

最終的には脳の中に何かを残し、それを持ち歩くために私たちは本を読んでいる。その、脳の中に残る何かは、どのような形で文字が入ってきたかということとは関係がない、より抽象度の高いピュアなものだと僕は思います。
(インタヴュー 知のゆくえ)

 来る土曜日の「きままな読書会」では、そういったことも話題にされることになるだろう。
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by kaoruSZ | 2007-01-16 14:48 | 日々 | Comments(0)