おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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雪柳に雪

 16日早朝、雨が落ちていたので、冷え込むのなら雨よりいっそ雪になれよと思ったら、そのあと本当にTVで雪だという。春の儚い初雪。15日が誕生日だったのだが、誕生日を過ぎて雪が降ったというのも、雪柳に雪がふりかかるのを見たのも記憶にない。私の誕生日のころ咲く花は雪柳と母に言われながら、毎年庭の花は間に合わなかった記憶ならある。それが誕生日前に花盛りになっていたのだ。そうそう、日比谷公園の木蔭に群生するシャガが早くも満開だ。うちのは日があたらないから蕾も出ていないが、これも記録的に早いのではないか。

 15日午前3時まで弟宅で確定申告の書類作成。9時に目覚め、戻って税務署へ、その後シャワー浴びて出勤。3月はあと半分しか残っていない。本日、黒猫氏編集のウェブマガジン『コーラ』のための原稿ようやく送る。タイトルは「愛の再発明 あるいは愛される機械」。

 何もかもぎりぎり。上司がアンケートの、待ち合わせに遅れるか遅れないかという設問の「絶対に遅れない」にマルをつけていた。怖え……。さらに上の選択肢があって、「30分前に行く」。わが父はこれであった。子は二人ともぎりぎり。
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by kaoruSZ | 2007-03-18 12:16 | 日々 | Comments(0)

モギ総括

 冷え込んだ週末、風邪悪化。確定申告の準備が進められなかったのが何より痛い。だるいが高熱は出ない。カラス天狗のようなマスクする。食欲は変わらずあるので病人食は食べない。医者は行かない。ヴィタミンC摂取のため苺食べる。月曜日、カラス天狗のいでたちでショルダー・バッグを斜めがけにし、出かけようと立ち上がったところで行く気なくなり休みにする。といっても、結局眠って一日が過ぎる。水曜日にはだいぶよくなる。
 黒猫房主編集のメール&ウェブ・マガジン「カルチャー・レヴュー」がウェブ・マガジン「コーラ」へ発展的解消(たぶん)するので(4月発刊)、書きかけの連載はそっちへ引き継ぐ(引きずる)ことになるが、2月末だったその締切も延ばしてもらう。茂木健一郎批判を予定していたが、考え直す。とりあえずつけていたノート(2〜5)、公開しないでおく理由がなくなったので以下に載せる。まとまらない瑣末なことばかりなり。新生「コーラ」には「新・映画館の日々」と題して書く予定。

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ノート(5)
 読書会に来なかったtsihiriちゃんにモギとは?と訊かれ「ナルシスティックなパラノイア」と答えたが、もうひとつ言うなら「遠回りなヤツ」だ。

 三十過ぎて電車のガタンゴトンという音を聞いて、それが数字であらわせないことをやっと“感じる”ヤツ☆。世界の質感の鮮やかさに心を奪われるのに、「脳のニューロンの活動にすぎないにもかかわらず」という前提が要るヤツ。モネの絵の素晴しさを知る前に、印象派なんてと敬遠するという迂回を経なければ、レッテルでなしに自分の感覚こそが重要だということがわからないヤツ。自分がそうだったから、他人もピカソの「ゲルニカ」を反戦を訴える絵だと思い込んでいると考えるヤツ。小学校に通う自分の子供を見て、自分が小学校の頃には親はなんとなく自分の考えていることはわかっていると思っていたが、そんなことはないのだと気づくヤツ。そして、自分の場合を一般化しているのにすぎないのに、個別が普遍に通じるのだと信じてしまうヤツ。誰でも小学校の入学式のことは忘れないと決めつけるヤツ。子供が母国語の意味を、いちいち「それはどういう意味?」とたずねたり、わざわざ辞書を引いてみたりすることはなくて☆☆、ただただ用例の積み重ねによって了解してゆくのだと断言するヤツ。

☆みんな、そんなことは知っていると言うだろうが、感じると知るとは違うのだと主張するのだ。そう、みんなとっくに感じていたんだよ。
☆☆小学生のとき、実写の『人魚姫』をTVで見ていて、「私も昔、人間の王子様に恋をした。王子様は砂の上にころがっている私を見て笑ったわ」と人魚姫のお祖母さんが言ったとき、私は母に「“こい”って何?」と訊いて「好きになることよ」という答を得た。『坊ちゃん』を読んで、坊ちゃんが遊郭の団子を食うくだりにさしかかり、「『遊郭』って何?」と母に訊き、「お酒を飲んで遊ぶところ」という答を得た。小学生用の辞典、隅から隅まで読まなかったか?

ノート(4)
自我の発達というものは、
 外部からの様々な擾乱にもかかわらず
自己の同一性を保とうとする、
 必死のホメオスタシスの結果なのでは
ないかと思う。
 恒常性への仕掛けが強靱であればあるほど、
人は宇宙のさまざまに身をさらすことが
できるようになるのであろう。
(茂木健一郎、クオリア日記 2007年2月6日)

(……)自我そのものがオートエロティシズムの発達の結果としてあるという可能性(……)一次的マゾヒズムの欲望は、ただ純粋な動揺の恍惚とした苦しみを反復することのみを探し求める。最初の心的統一性は、だから統一性を打ち砕きたいという欲望によって構成されたのであろう。自我とははじまりにおいては、自らの解体という待ち望まれる快楽によって必要とされた情熱的な推論以上のものではなかったろう。精神分析にあっては、最初の自我とはエロティックな自我であり、エロティックな仮定によって構築されたのである。
(Leo Bersani, "Erotic Assumption")

どちらが私にとって重要で、
 深い意味を持ち 
役に立つかは明らかであり
 たとえ批判対象としてでも、
あまりかかずりあうことは
 バカがうつるのでいけないと思う。

ノート(3)
 このノートは、黒猫房主が新たに発行するウェブ・マガジン『コーラ』のための、「新・映画館の日々」(仮題)と題する原稿用のメモとして書いている。しかし、こうして外化してゆくことは、忘れ去ることでこそあれ、それによって確かな内面をわがものにできるというものではけっしてない。相変わらず私はその外に取り残される。相変わらず? そう、それは、最初から私の外にあったのであり、私の《切実な内面》を絞った=表現した(express)ものではない。あるいは、私の内面と呼ばれていたものは最初から〈外〉にさらされていたのだ。以後はただ、自分でも、ながめ、読み、思いめぐらし、引用することができるだけだ。

 逆に言えば、それは最初からそれほど私のものではなかったのだとも言える。それほど——どれほど? 「猿の生き胆」の話は以前書いた。http://kaorusz.exblog.jp/2691424/ ものを書く猿の生き胆はまぎれもなく書く者の身体性を通過していながら、書き手よりも(運が良ければ)長く生き延びる。一度外に出してしまえば、作者もそこには外から近づくことしかできない。

 茂木は作者は個別から普遍へ進むのだと無邪気に信じ込んでいるが(http://www.qualia-manifesto.com/fuhenkobetsu.html参照)、 実際には、小説の中にエピソード記憶は変形されることなく入り込む。『ボヴァリー夫人』の、馬車の中での情事が描かれるべき場面を、フローベールは馬車がその傍を通り過ぎる塀の中の養老院の中庭と、そこを歩き回る老人たちという幼年時代の思い出の中の情景で代用した。『マルドロールの歌』については今では研究者たちによって、イジドール・デュカスが参照した(であろう)多くの出典が明らかにされている。入澤康夫は詩集『わが出雲』の一節が、幼年時に見た絵本の文句であることを自註(『わが鎮魂』)で告げる。金井美恵子は『くずれる水』で、三浦友和と山口百恵を模した「ゴールデン・コンビ」の女の方の幼年時代の思い出として、働きに行っている母が帰るのをバス停で待つ子供の心情を描写するが、これはロラン・バルトの子供時代の思い出(『恋愛のディスクール 断章』)からの引用だ。また、金井の『文章教室』では凡庸な「現役作家」が、新聞社の求めに応じて自分の見た映画のベストテンを寄稿したり、最近の小説の動向についての評論を書いたりするが、前者はこの作品の雑誌掲載当時丸谷才一が、後者は中村真一郎が発表した文章をそのまま写したものであった。テクストのなめらかな表面は異質なもののツギハギからできているのだ。

ノート(2)
 ジャン・リカルドゥーの『小説のテクスト——ヌーヴォーロマンの理論のために』(1974、紀伊国屋書店)を久しぶりで図書館から借り出して読み返している。この本の冒頭で批判的に取り上げられているのは、サルトルの、散文の言語と詩の言語を区分する言語観だ。散文の言葉は一定の内容を伝える、透明な、それゆえ「視線がそれを通過していく」道具である、とサルトルは見なすのだ。

「クオリアがすべて」というモギの主張も、言葉をできる限り無視したいという願望においてこれと変わりない。だから、相模女子大で、講演を聴いた人から30年前の文学理論だと言われたとしても当然だ(相手をイデオローグと呼ぶ不当な中傷をしているが)。

 そのくせ、

 見るべき事は見つ」というような言葉の
 持つ力を信じないで、
 一体何の平家物語なのか?
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2005/10/post_79ad.html

てなことを書くからややこしい。

「言葉の力を信じる」なんてのは朝日新聞にまかせておけ。

というのはさておき、彼のいう「言葉の力」とは、いうにいわれぬ「クオリア」(魔法の語だ!)であって、言葉の「意味」ではない。彼が抑圧したいのは言葉の過剰な意味であり、たとえそれを押え込めても自筆原稿ではそれ以上の「クオリア」が発生してしまうから、彼には活字のほうが「ピュア」なのだ。

「文学は、言葉によって組み立てられている。それは意味の塊であるようにも思われる。しかし、すぐれた文学作品は、決してどのような意味づけにも回収されない、その作品に接した時のクオリア(感覚質)によって特徴付けられる。ある作品を、精神分析にせよ、構造主義にせよ、記号論にせよ、テクスト論にせよ、ある立場で分析し、文脈付ける試みは、クオリアのピュアさにおいて、作品自体には絶対に負ける。
 極端なことを言えば、文学とは、最初から最後までの文字列が与える印象のことである。むろん、言葉である以上、いわゆる「意味」がその印象形成に介在することは当然である。しかし、そのような言葉の意味を通じて形成される文学作品の印象の中には、それが良質なものであるほど、決して特定の意味には回収され得ないものがある。傑作とは、すなわち、その作品を何度読んでも、十年二十年と向き合っても、汲み尽くせぬクオリアの源泉となるものを言う。特定の意味の体系に置き換えられてしまうものは名作たり得ない」
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2005/10/post_3492.html

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「特定の意味」を退けるとか称するクオリア至上主義は、「上質のクオリア」を求める藝術至上主義であるかのようだ(だからこそ、おめでたい人々を惹きつけるのだろう)。しかし、前述のとおり、彼は結局のところ目の前の言葉を見ないですみやかにその向うに行こうとすることで、作者の主張や経験や現実がそのような形に変換されて読者に届けられる乗り物として言語を見ており、その上に視線を長くとどめておくことはせず、意味することの非人称的な力(ブランショ)について驚くほど鈍感であり、「私の」クオリアに拘泥しつづける。

 作品は作者の意図には還元されず、書かれた語たちは「特定の」一義的な「意味の体系」からはほど遠い複雑なネットワークで関係し合うが、茂木はこの複雑さからのがれて「クオリア」の一元論を選ぶのである。
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by kaoruSZ | 2007-03-03 01:12 | 日々 | Comments(0)